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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:絹と地名分布 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:絹と地名分布
 
  休蜜が 本当に「亀カメ」になったのか
 との疑問も湧くだろうが、
 実際はそれどころではない。
 
 亀は元より「神」ともなっている。
 
 事実「カイコ」は
  神格化され篤く祀られているのである。
 
 以下は
  秦氏の勢力が及んだ所だけではないけれど、
 その絹に係わる用語が
 どのように及んでいるのかを示す
  地名などの展開である。
 
 広島県の東端に神石郡があり、
 現在も神石町など三町に含まれている。
 
 『和名類聚抄』に
 備後国神石郡と載るので
 吉備国のうちである。
 
 この郡内にかって亀石村があった。
 それが現在の神石町である。
 
 また同郡内に来見(くるみ)村があった。
 
 この村名は
 サンスクリット語の虫を表す 
 kṛmi によるもので、
 木蜜 kiumi の祖語であり、
 亀・神が虫を表わしていることが解る。
 
 石は同県内の世羅郡の名になっている
 サンスクリット語の 
 śaila (石)を取り入れたもので
 繭玉の比喩名なのであり、
 神石(亀石)は「蚕の繭」を意味する。
 
 第10章の「天毒とセリカ」で
 説明した用語である。
 
 『古事記』で
 大国主命の后となる
 須勢理毘売命(すせりひめみこと)は 
 sur-śaila の転移で
 「白い石」または「輝く石」で
 繭玉を名としたものである。
 
 神石郡は備後国、
 つまり吉備国内に位置するが、
 
 『古事記』孝霊天皇の条に
 天皇の御子として
 
 「比古伊勢理毘古命
  (ひこいせりひこみこと)、
  亦の名は大吉備津日古命」
 
 とあり、
 
 『日本書紀』では
 
 「彦五十狭芹彦命、亦の名吉備津彦命」
 
 としている。
 
 伊佐勢理はサンスクリット語で
 isa-śaila 「繭支配者」の意味である。
 
 吉備は休蜜と近似する。
 
 「吉備」は第13章の
 「男王卑弥弓呼と孝霊天皇」で
 みたように「熱高炉」を表わすが、
 吉備国とは、また「養蚕国」を表わす。
 
 現在の岡山県総社市名、
 津山市の総社にある
 総社宮の「総合する」の意味で
 捉えられているが、
 そうでは全くなく、
 「説文」に
 総は「神蛇なり」と説くように蚕を表わす。
 
 総社は総蛇の転移である。
 その津山市がかって属していた
 勝田郡の勝は本来
 「螣(とう)」で「はくいむし」
 つまりこれも蚕を表わす。
 
 勝田郡と並ぶ苫(とま)田郡の
 「苫」は編んで固めたものの意味で、
 ここでは繭と理解できる。
 
 また大月氏の都密にも通ずる。
 
 苫田郡の北方に
 鳥取県の気高郡が日本海沿いにあるが、
 かっての気田郡で、
 「気多」は蚕の意味の kīta に依る。
 
 郡名の「気高」あるいは町名の
 「日高」は
 サンスクリット語の 
 kita と全く同義で
 「昆虫、虫」を表わす。
 
 Kītaka の音写であり、
 「キタ」が「蚕」であることの
 証左となっている。
 
 「延喜式」神名帳気高郡に
 幡井神社が載る。
 
 現在の青谷町絹見がその所在地である。
 
 板井神社も同様に載るが、
 双方とも 
 patta によるもので同義である。
 
 この気多より
 大穴持命を勧請したというのが
 石川県羽咋市の気多神社で、
 「ハクイ」は、
 はくいむしの「螣」である。
 
 石川県はかっての越(こし)の国で、
 奈良県明日香村越で説明したように
 サンスクリット語の 
 kosa に依拠した呼称で、
 北陸の越においても
 養蚕が盛んであったことを示している。
 
 越国には秦氏の足跡が濃厚である。
 
 福井県敦賀市にある
 気比神宮の「気比(けひ)」は
 「カイコ」の「カイ」と
 同義同根である。
 
 同社と関係のある
 敦賀半島の
 常宮(じょうみや)の常宮神社、
 西方の三方五湖の水月湖を包む
 常神半島の名称の元である
 三方町常神の常神神社は
 「常世虫(とこよむし)」を
 常神として奉祀しているものである。
 
 新撰字鏡、名義抄に
 蠋(しょく)を
 「トコヨムシ」としており、
 字義は蚕である。
 
 気比神宮の祭神に
 八百万神(やおよろずしん)坐す。
 
 この祭神が「絹蚕」を意味するのである。
 
 神宮の西方三島町に
 現在正八神社が鎮座する。
 
 神名帳の天八百萬比畔神社に
 比定できるが、
 「八神」は絹虫の意味である。
 
 「八」は京都市太秦の
 蜂岡の「ハチ」であり、
 神は木密である。
 
 八百万神の「八」も同様で「絹」、
 百万神は「百万虫」で、
 これは漢字で蚕を表わす
 「竅:ケフ」の
 「八・百・万」に依っている。
 
 「淮南子」天文訓に
 「卵生する者は八竅なり」とある。
 
 よって、
 八百万神は「絹/蚕」ということになり、
 「気比」と同義となる。
 
 気比神宮の気比を地名としているのが、
 福井県丹生郡朝日町に
 気比神社を祀る気比庄であるが、
 同地の南佐々生には
 「佐々牟志神社」があり、
 これは蚕を表わす蠶を崩したものである。
 
 蠶を
 『和名類聚抄』が「加比古」、
 『名義抄』が「かいこ」とする。
 
 因みに蚕は
 本来棕日雙「みみず」の意味である。
 
 気比庄の東側隣接地が鯖江市で、
 「サバ」は蚕の「さなぎ」を表わす。
 
 大月氏の雙靡(そうひ)と同根の名称である。
 
 市の中心鯖江の地に柳町があるが、
 柳は楊(よう)で「さなぎ」を表わす。
 
 「蛹(よう)」の転訛ある。
 
 蛹は「説文」に「繭虫」とある。
 
 柳町の隣り
 横江町もこれに依るものであろう。
 
 鯖江市の北側は福井市となるが、
 ここは「北の庄」の地である。
 
 「北」は
 足羽川の北側にあるからというのが
 通説であるが、
 南の庄という呼称は無いので
 それは妥当しない。
 
 その地域に
 堅達町、
 北野町、
 上北野、
 志比、
 四ツ井、
 四ツ居の
 地名があることから、
 昆虫ではあるが
 蚕を表わす 
 kita, kita-ja に依るものと考える。
 
 志比以下は気比の訛であろう。
 
 同地が足羽郡として成立する以前は
 「キタヤ北野」であったとみられる。
 
 板井郡金津町の北、
 北野も同様の地名である。
 
 福井県の東北に位置する勝山市にも
 北野津又、北郷町と
 蚕に由来する地名があり、
 永平寺町の志比と上志比村の志比は
 気比の訛ったものである。
 
 勝山市勝山には白山神社が鎮座している。
 
 勝山名は岡山県にも同名の町があるが、
 これも本来は
 「螣山」で「はくいむし」である
 蚕を表わす山名である。
 
 その山名が北山であり白山である。
 
 白山は「しらやま」を元名と考える。
 
 「しら」は広島県の世羅と同じく
 サンスクリット語の 
 śaila、sila (石)であり、
 繭玉の比喩名である。
 
 柳田邦夫が江戸時代になって
 「おしらさま」という
 蚕の呼称を紹介しているが、
 それと一致する。
 
 当神社について
 朝鮮半島の
 白頭山信仰が持ち込まれたとの
 見解もみられるが、
 それは蛇足であり、
 同神社の起源は
 古代の絹産業にかけた
 信仰に始まっているのである。
 
 武生市京町に
 総社大神宮が鎮座している。
 
 総社は岡山県でみたように
 神蛇である総蛇(蚕)のことである。
 
 同社の西方の大虫神社のある大虫町と
 養蚕業に係わる信仰がみられる。
 
 武生は竹生であり、
 朝日町の佐々牟志神社のある
 佐々生の佐々を竹としたもので
 
 敦賀市の笙の川の笙とも同義である。
 
 そして
 原語は蠶で
 「朁」のみを取った名称である。
 
 神名帳但馬国の気多郡に
 「気多神社」があり、
 現在の京都府城崎郡日高町上郷
 同名社である。
 
 「日高」は「気高」の訛で、
 橿原市城殿の旧名「喜」が「ヒ」で
 あったことに対応する。
 
 上郷の「上」も蚕を表わす。
 
 城崎郡には神名帳に「気比神社」が載り
 豊岡市気比宮代の同名社であろうが、
 同地には現在「絹巻神社」もあり、
 絹産業との縁(ゆか)りをみせている。
 
 八神は、
 敦賀市の気比神宮の解説で述べたが、
 「八上」も「八神」と同義である。
 
 『古事記』の大国主命の
 妻請い物語の登場する
 八上比売命(やかみひめのみこと)の
 名になっており、
 やはり「絹虫・蚕」である。
 
 八上比売命は
 現在鳥取県八頭郡河原町曳田の
 八上比売命沼神社に祀られている。
 
 旧八上村の地である。
 「曳」は「匹ひき」のことで、
 布帛など反物二反を一として
 数える単位名である。
 
 同社は神名帳の因幡国八上郡に
 売沼(ヒメヌ)神社として載る。
 
 現在の郡名八頭は
 「八上」と「智頭」の
 合併したものであるが、
 「ハットウ」で
 大月氏の翕侯名昑頭と対応し、
 これも地名の先祖帰りである。
 
 売沼神社の呼称「ヒメヌ」は
 「ヒメヌノ」の意味で
 「売布(ひめふ)」の転訛と考えられる。
 
 売布神社名の神社が、
 神名帳
 丹波国熊野郡、
 竹野郡、
 但馬国気多郡に載る。
 
 熊野郡の場合は
 久美町女布権現山もある。
 
 竹野郡の場合は
 網野町大津女布谷の
 「売布神社」である。
 
 気高郡の「売布神社」は
 (現)城崎郡日高町国保に鎮座する。
 
 この「ヒメ」とは
 絹のことで木密の転訛である。
 
 「売布ひめふ」は「絹布」のことで、
 帛(はた)を意味する。
 
 神名帳摂津国河辺郡にも
 「売布神社」
 「高売布神社」と載る。
 
 前社は兵庫県宝塚市売布山手町にあり、
 池田市綾羽の伊居太神社の西方に位置する。
 
 後社は三田市酒井に鎮座する。
 
 そして摂津国東生郡に載る
 「比売居曽神社名神大」は
 〔蚕-繭〕を意味する
 kośa の音写「古佐」の地名を持つのが
 篠山市である。
 
 市内には
 畑宮、
 奥畑、
 畑井、
 畑市、
 幡路と
 「ハタ」名が多い。
 
 畑宮の北隣りには瀬利がある。
 
 これは瀬理と同じで
 「石」である繭を表わす。
 
 また「八上」は
 八上毘売命、
 八神と同じく「蚕」を表わす。
 
 同地は
 京都府の亀岡市へ天引峠を越えて通じ、
 秦氏の関係した養蚕地とみられる。
 
 最後に姫路市であるが、
 播磨国風土記の飾磨郡「伊和里」に
 
 「蠶子落ちし處は、
  即ち日女道丘と號く」
 
 とあり、
 
 「日女道(ひめじ)」が
 「蠶子(ひめじ)」に
 依るものであると語っている。
 
 その丘は
 現在姫路城天守閣のある
 姫山であるという。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:秦氏と絹産業 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]







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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:秦氏と絹産業
 
  天満宮のある北野には
 平安時代菅原道真が祀られる以前から
 天神を祀った神社があった。
 
 そこに牛にまつわる伝承があるのは
 大酒神社の牛祭りの牛と理由を同じくする。
 
 北野は単なる
 北の野の意味ではないであろう。
 
 本来は「キタヤ」で秦氏の桑園が広がって
 養蚕業が行われていたと推測される。
 
 キタヤはサンスクリット語の 
 kitaja で絹糸を表す。
 
 神名帳葛野郡に載る
 「木嶋坐天照御魂神社並名神大」は
 右京区太秦森ヶ東町にある養蚕神社、
 通称蚕の宮で、
 この地域で
 養蚕が盛んに行われたことを物語る。
 
 大酒神社のある現在地名
 蜂岡の「ハチ」も
 ハク patta を由来とする。
 
 城陽市久世の富野(との)
 「トミ」を基とする
 月氏の翕侯名都蜜と同じく 
 dāma (糸、繊維) によるものである。
 
 京都市西京区の西隣には亀岡市で、
 「亀」は城のある亀山による呼称であるが、
 その原義は
 大月氏の五翕侯の一つ
 休蜜 kiumi と
 同じく虫である蚕を意味する。
 
 市内に繭を意味する 
 kośa による古世町もある。
 
 亀岡市は丹波国桑田郡に属していた。
 
 『日本書紀』雄略天皇紀の
 16年秋11月にある。
 
 「詔して、桑の栽培に適した国県に
  桑を植えさせた。
 
  また秦の民を割り当て移して、
  庸調を献じさせた」
 
 とある件に関連するとみられる。
 
 市内の矢田(やだ)町は
 那須与一堂があることから
 「矢」字が使われているが、
 本来は「シダ」であろう。
 
 隣の余部町に広く
 志田(しだ)があることから推測され、
 それは
 茨田神社の「シダ」を
 転訛させたものであり、
 『日本書紀』のいう
 秦氏を分散させたうちの
 一か所と考えられる。
 
 丹波の丹は丹物と
 語義を同じくするもので、
 サンスクリット語の
 「糸、繊維」を表す 
 tan/tantu 、
 動詞を 
 tan 「繊維を廣く、伸ばす」に
 由来する用語である。
 
 その丹羽国で「延喜式」神名帳に載る
 矢田神社は、
 與謝郡に「矢田部神社」(野田川町石川)、
 ここには
 
 「大虫神社名神大」
 「小虫神社名神大」
 
 があり、虫は蚕を表す。
 
 丹波郡に矢田神社(中郡峰山町矢田)、
 熊野郡にも矢田神社とある。
 
 熊野郡の矢田神社の所在地は
 久美浜町海上で、
 久美も「木蜜」に対応する名称で、
 郡名「熊野」も「久美」であり、
 蚕を意味していることになる。
 
 桑田郡には
 「桑田神社」
 「小川月神社名神大」
 「松尾神社」とあり、
 秦氏との関係を覗わせている。
 
 言うまでもなく
 「桑田」は「桑畑」のことである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:牟佐と太秦 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]




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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:牟佐と太秦 
 
   「延喜式」神名帳大和國高市郡に
 「牟佐(むさ)坐神社大」が載る。
 
 この神社について本居宣長以来
 (現)橿原市見瀬の同名の神社比定してきた。
 
 「ムサ」の地名は
 『日本書紀』の
 垂仁天皇紀に身狭桃花鳥坂、
 雄略天皇紀に牟佐村主(すぐり)、
 欽明天皇紀の大身狭屯倉など、
 
 これまで
 身狭、
 牟狭、
 武遮、
 三瀬(江戸期)
 と表記されてきたが、
 
 具体的な地名の存在を明らかにするのは
 『日本書紀』の雄略天皇紀の
 
 「8年春2月身狭村主(むさのすぐり)青、
  檜前民使博徳
  (ひのくまたみのつかいはいとく)を
  呉国に遣わし」
 
 と述べるに始まる。
 
 この遣使たちは14年に帰国する。
 
 「14年の春正月の丙寅朔戌寅に、 
  身狭村主青らが、
  呉国の使者とともに、
  呉の献上した手伎ある、
 
  漢織(あやはとり)・
  呉織(くれはとり)
  および、
  衣縫の
  兄媛(えひめ)・
  弟媛(おとひめ)らを率いて
  住吉津に碇泊した。」
 
 そして3月に
 
 「呉人を檜隈野に置いた。
  そこで呉原と名付けた。」
 
 とある。
 
 呉原は
 現在の明日香村栗原のことである。
 
 漢織は「木綿織物」、
 呉織は「絹織物」と考えられる。
 
 呉人とは
 百済の倉下にいたヘブライ人で
 移転して来ていた
 月氏族がいた所の住民である。
 
 「呉」である「クレ」の語義は
 「離散したヘブライ人の居留地」で
 
 ヘブライ語の
 (Heb.),גָלַה,GVLH,golah は
 「捕囚(ディアスポラ)、(祖国からの追放)」
 をも意味する。
 
 その原語の
 (Heb.),גָלֶ,GVLH,gole は
 「流浪者、祖国を追われた人」である。
 
 『日本書紀』の「呉」は
 韓半島におけるヘブライ人の居留地で
 「倉下」とも表記された。
 
 そして「呉人」とはヘブライ人を表す。
 
 後に同じく呉国から渡来し
 檜隈の於美阿志神社に祀られている
 阿美使主の一族は
 倭漢(やまとのあや)氏といわれるように
 漢(あや)氏で呉人ではない。
 
 栗原には
 「延喜式」神名帳に記す
 呉津彦神社が鎮座している。
 
 この呉津彦神と同じ祭神を祀る神社が
 同じ明日香村越(こし)にある
 許世都比古(こせつひこ)命神社
 (神名帳記載)で
 見瀬町のすぐ南に当たる。
 
 越および許世は
 サンスクリット語の
 kośa で繭を表す。
 
 応神天皇の時に
 百済より渡来した
 弓月君が最初に置かれた
 掖上の地にある巨瀬(古瀬)も同義である。
 
 日本書紀の雄略天皇紀には
 
 ※十五年、
  秦民、分散臣連等、各隨欲駈使勿委秦造。
  由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。
  天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。
  公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、
    充積朝庭、因賜姓曰禹豆麻佐。
 
  一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也
 
 「15年に秦の民を臣連らに分散して、
  それぞれ思うままに駆使させ、
  秦造に委ねしめなかった」
 
 とあることからすると、
 この時秦の民はこの地域に
 分散して居住させられていたのである。
 
 その状況が
 掖上から離れた見瀬町周辺にみられる。
 
 御所市内にあった西寺田多田の地域も
 
 その一つと思われるが、  
 掖上内にも東寺田の地があり、
 その北側に現在一(かず)町となっている。
 かっての常門村に稲代坐神社がある。
 
 この神社も神名帳に載る古社であるが、
 その版本により「稌代坐神社」
 と表記されていて
 正式な社号は確定されていない。
 
 しかし、
 当社は大社に列しており
 優遇された由縁を持つ神社である。
 
 町名は昭和32年の
 改称によるものであるが、
 この地名は
 「地名の先祖返り」の一例と考える。
 
 その例を挙げると
 佐賀県の河上神社のある大和町や
 熊本県の三加和町である。
 
 「一(かず)」はカドで葛と同音である。
 
 常門はソロモンの転訛である。
 
 また一町には三神社が現在あるが
 「三」は見瀬、牟佐に通ずる。
 
 畝傍山の東方に城殿町がある。
 
 この地名は
 江戸期に木殿と改名させられたが、
 それ以前は史料の上では
 平安期から喜殿と表記された
 荘園名であったりした。
 
 その訓音についてであるが、
 元初は「ヒデ」ないし「ヒダ」と考える。
 
 漢大陸から漢字を取り入れた当時
 「喜」は
 「ヒ」に近い発音であったとみられる。
 
 現在の中国語においても
 「喜Xi」であり、
 
 ヒマヤラ山脈名は
 喜馬拉雅と表記されている。
 
 また同町の東側に飛弾町があり、
 祖語を同じくするものとみられる。
 
 その祖語はダビデである。
 
 畝傍山の北西に寺田町がまたあり、
 その西に雲梯町があるが、
 百済国の弓月君がいたとみられる
 城内に雲梯県が
  新羅の時代から現在まで続いてあり、
 その名称に係わる地名である。
 
 天理市内にも喜殿町があり、
 
 そこに八坂神社が鎮座している。
 
 田原本町の橿原に近いところに
 秦庄がある。
 
 以上の状況でも明らかなように
  見瀬である牟佐は
 ヘブライに係わる用語である。
 
 これは、また
 「絹」を意味するヘブライ語
 (Heb.),מֶסהֶ,MHShY,meshe の音写である。
 
 つまり、
 隣り合う町名「見瀬」と「越」は
 それぞれ
 ヘブライ語とサンスクリット語による
 同義で「絹」を表すのである。
 
 さらに 
 MHShY と百済とは
 極めて重要な縁があるが後述する。
 
 メッシュは古代ローマにおいては
 ユダヤ人の代名詞であった。
 
 御所市、橿原市、明日香村などに
 点在する
 秦氏の居住地を牟佐と称したのである。
 
 呉国については、
 漢大陸の南部
 孫権が覇権を建てた呉(ご)のこととする
 見解や高句麗のこととする見解があるが、
 これは双方とも妥当ではない。
 
 それは、
 『日本書紀』仁徳天皇紀56年条の一節
 で明らかである。
 
 「冬10月に呉国・高麗国が
  揃って朝貢した」
 
 とある。
 
 呉国と高麗(高句麗)とが別国であり、
 漢大陸の呉国が高句麗と相談して揃って
 (一緒に)渡来するとは
  余程のことがない限り考えられない。
 
 同雄略天皇紀の20年冬の条に
 
 「高麗の王が、大いに軍兵を発して、
  百済を攻撃し滅ぼした。
 
  兵糧は、すでに無くなって、
  深く憂いに泣いた」
 
 21年春の条に
 
 「百済国は、属党がすでに亡び、
  倉下に集まって憂えていたが、
  実に天皇のお力によって、
  またその国を造ったと言った」
 
 とある。
 
 呉とは
 この百済国内にあった倉下のことで
 GVLH (離散したヘブライ人の居留地)の
  漢字音である。
 
 弓月君のいた土地と考える。
 
 さて、日本へ渡来した月氏族を
  なぜ「ハタ」氏と呼ぶかであるが、
 
 すでに
 「月氏とシルクロード」で述べたように
 大月氏は絹の専門家集団である。
 
 ハタは大月氏の五翁侯のうちの一つ
  肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)の
 祖語である
 サンスクリット語の絹を意味する
 patta に由来するものである。
 
 この語は衣を意味するもので
 織物をも含んでいることになる。
 
 原義が「薄いもの」の意で、
 板にも適用される。
 
 ヘブライ語の 
 KhVT(khut) は「糸、紐」を表す。
 
 この二語は
 サンスクリットごの 
 patta を原語とし、
 その語も実は、
 古代の絹産業発生の地、
 四川省の和人(倭人)が
 「蚕」を表す用字として用いた
 「八はち」が祖語である。 
 
 先に挙げた
 雄略天皇紀15年条の続きは
 次のように記す。
 
 「そこで、秦造酒は、
  それを大変気に病んで、
     天皇のお供えしていた。
 
  天皇は、秦造酒は寵愛され、
  詔して秦の民を集めて、
  秦酒公に賜った。
 
  そこで公は180種を率いて、
  庸調の絹、縑(かとりきぬ)を
  奉献して朝廷に充積した。
  
  よって姓を賜って
  禹豆麻佐というのである。
 
  いずれも充積の貌(かたち)である。
 
 〔中央公論社:日本の名著『日本書紀』
  に依る〕
 
 秦氏が絹産業の専門家集団である
 真骨頂である。
 
 ここで検討したいのは
 
 禹豆麻佐、
 
 京都市右京区の地名
 太秦についてであるが、
 
 この『日本書紀』の
 
 「充積の貌(かたち)である」
 
 とする地名譚はおもしろいが、
 そのまま認め難い。
 
 そこで考えられるのが
 「北の牟佐」である。
 
 牟佐はこ
 れまで説いてきた大和国の牟佐で、
 その本義はヘブライ語の「絹」を表す
 MHShY(meshe)である。
 
 禹豆(うず)はサンスクリット語の
 uttra の転訛で「北の」意味である。
 
 山城国名に出てきた
 歌荒樔田の歌(宇多)とは同義である。
 
 このように「ウヅマサ」は
 「北の牟佐」の意味である。
 
 太秦は、
 大和国の南の牟佐に対する
 北の牟佐、北の秦人なのである。
 
 「ハタ」氏が
 その漢字表記に
 「秦」が用いられた理由は、
 彼等が月神崇拝者であることによる。
 
 アブラム(アブラハム)の一族が
 カルディアのウル(メソポタミア)で
 奉じていた月神名が
 セム語で sin 神であり、
 その神名と同音の秦〔qin〕を
 当てたものと考えられる。
 
 また、
 太秦と表記された理由は
 「ウヅマサ」が大和の牟佐から
 新しく開墾された土地、
 「大牟佐」である。
 
 「太秦」は
 「オウシン」と漢音訓ではない
 「オウシ」に別の意義がある。
 
 その説明は後に詳しく触れる。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:茨田神社と茨田 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:茨田神社と茨田
 
   「延喜式」神名帳山城国乙訓郡のうちに
 「茨田(また)神社」が記載されている。
 
 この神社名を持つ現存の神社が
 見当たらない。
 
 そのため
 京都市南区上久世町の綾戸国中神社のうち
 合祀されている一方の
 綾戸神社を充てる見解もある。
 
 神名帳には訓読として
 社号の右に「マタ」左に「スイタ」と
 付している。
 
 茨の訓音は「シ」、
 「次」は「シにしジ」であるので
 「スイタ」が原語に近く
 「シタ」「スィタ」であったと言える。
 
 「シタ」の付く神社名は
 南区久世大藪町に鎮座する木下神社がある。
 
 語頭の「木」を「クサ」と解釈したこと及び
 当神社がある久世(クセ)であることを
 加味すると、
 木下は「久世茨田」と解釈できる。
 
 よって、
 茨田神社の比定地社は木下神社となる。
 
 すでにみたようにこの地は
 秦氏の勢力の中心地であった。
 
 大藪町のヤブはヤハウェ神の別称
 YH
 (ヤハウェ神名を
  むやみに呼ばないための別称)
 の転訛である。
 
 「スイタ」名は
 南の久世郡の神名帳にも載る
 「水度(みとの)神社」の訓読にも係わる。
 
 同社は城陽市寺田宮の平に現存するが、
 やはり秦氏の勢力地に鎮座している。
 
 茨田名は秦氏と強い係わりを表す。
 
 後に触れるが
 亀岡市の矢(や)田町は本来「シタ」であり、
 丹波に矢田神社がみられるのは
 ここから始まる。
 
 「延喜式」神名帳河内国に茨田郡が載る。
 同郡は明治29年に廃止され
 北河内郡へ合併されたが、
 現在の枚方市と交野市の地域である。
 
 茨田の初出は『古事記』仁徳天皇記の
 「役秦人作茨田堤、茨田三宅」である。
 
 『日本書紀』の
 仁徳天皇紀、宣化天皇紀にも
 茨田屯倉があらわれる。
 
 秦氏に役目を担わせて淀川の堤防を築き、
 農業地を造成させたいうものであるが、
 秦氏はここに居住することになったか、
 以前から居住していたことになる。
 
 『古事記』には景行天皇の御子の名を挙げ
 「櫛角別王者茨田下連等の祖」としている。
 
 櫛角名は荒樔田について述べたように
 「アラクサクルセ」つまり
 「牛頭の角」を彷彿させる名称である。
 
 茨田三宅は中世に交野郡に入った。
 
 『和名類聚抄』交野郡三宅郷は
 現在の交野、磐船、星田のようで
 星田について
 吉田東吾が地名事典で
 
 「古の茨田屯倉遺号となるべし」と
 「スイダ」に依ることを推察しているが、
 現在の枚方市に鎌倉期からみえる
 津田にも当てはまる。
 
 すぐ南には
 交野市の織物神社のある倉治がある。
 
 茨田郡内の『和名類聚抄』に載る
 幡多郷は
 現在の寝屋川市太秦の地域で、
 『新撰姓氏録』には
 河内国諸蕃には秦宿禰とある。
 
 茨田の訓音を神名帳には
 「マタ、スイタ」、
 『和名類聚抄』には河内国茨田郡に
 「マツタ」、
 その茨田郡の茨田郷を
 「万牟多」としている。
 
 これは何を意味するのだろうか。
 
 実は茨田が秦氏と強い係わりを持つのは
 この事情のよるのである。
 
 「万牟」は
 ヘブライ語の「水」の意味の
 MYMの転訛とみられる。
 
 また「マツ」は同じく
 「雨」を表わす
 MTsRあるいはMTsRITの音写であり、
 双方とも水神、降雨神を旨とする
 名称と考えられ、
 「スイ(水)」との表現が理解できる。
 
 また「水度」もその概念に依るだろう。
 
 ヤハウェ神が古代日本で
 水神として尊崇された事実は
 これから次第に明らかになっていくだろう。
 
 現在もそれは継承されている。
 
 またその神社名の表記として
 「茨」字を
 なぜ使ったかであるが、
 これもモーセの伝承に係わる。
 
 出エジプト記第3章において
 モーセがシナイのホレブの山で
 神の啓示を受けた時の節句は
 
 「ときに主の使いは、
  しばの中の炎のうちに彼に現れた。
 
  彼がみると、
  しばは火に燃えているのに、
  そのしばはなくならなかった」
 
 と語る。
  
 この神の坐す「しば」こそ
 「茨:いばら」なのである。
 
 またアブラハムが
 現在のエルサレムのモリヤの山で
 その子イサクを殺して
 神に燔祭の犠牲として献げようとした時
 
 「角をやぶに掛けている
  一頭の牡羊がいたと」
 
 語られる「やぶ」を連想させる。
 
 京都府南区久世の茨田神社であると述べた
 木下神社の所在地はもと藪といわれた
 大藪町である。
 
 秦氏が築いた茨田堤は
 水を鎮める事業であったことは勿論で、
 神名帳茨田郡に載る
 堤根神社も茨田神社の水神を
 祀ったものであろう。
 
 城陽市久世の水度神社も
 同じ神を祀ったことが理解できる。
 
 このように茨田神社には、
 やぶ(いばら)の中に坐す水神
 ヤハウェ神が鎮座していると
 考えられるのである。
 
 ヤハウェ神は
 このモーセの「十戒」の告知の故事から
 山の神エル・シダイ 
 AL(山)-SDY(山頂)と呼ばれる。
 
 この呼称は
 創世記17章1に、
 主がアブラハムの99歳の時現れて
 告示があった時の言葉で、
 日本語では「全能の神」と訳されている。
 
 だが 
 SDY は
 セム語(アッカド語)の山頂を表す
 複数形 šedu (単数形 šadu ) に
 依拠した用語である。
 
 ただし、
 シュメル語において 
 šudu は「完全な」の意味であり、
 また、
 アッカド語 šedu は
 守護神として用いられているのであろう。
 
 これらの概念が移入されたものであろう。
 
 茨田の「シダ」は 
 SDY の音写であり、
 秦氏の居住地では
 
 「シタ、セト、セタ」
 となって地名に留めている。
 
 南インド西海岸コーチン市隣接する
 マッタンチェリ 
 Mattancheri 名とも関係する。
 
 ここが
 ユダヤ人の古くからの
 居住地であることは
 すでにユダヤ人と月氏の
 「海洋交易商人」で述べた。
 
M.K記
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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:荒樔田と開木代  [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:荒樔田と開木代
 
    山城国の地名はこれまで
 山代、山背、国背など
 多様な表記がされている。
 
 万葉集巻11の旋頭歌に
  「開木代」との記があることは
 すでに紹介したが、
 それより古くは
 
  『日本書紀』雄略天皇より2代後の
 顕宗天皇紀に「歌荒樔田」とあり、
 
 注記に 「山背国葛野郡」と
 記されているのが初出であろう。
 
 「歌」は葛野郡のうち右京区宇多野に
  その名称があるので
 大酒神社・広隆寺のある
 太秦の 北側に当たる地域であろう。
 
 「荒樔田」をどこに比定するかであるが、
 宇多野の東側北区内に
 南北朝時代から最近まで
 「荒草」の地名があったことを考慮すると、
 
 これは
 「荒木巣田:アラクサダ」である。
 
 このような扱い方は、
 三重県伊勢の古族
 荒木田氏の名称が
 杭田(櫛田)を崩したものである例がある。
 
 松阪市を流れる川名、
 地方名に櫛田があり、
 それに依拠していることが解かる。
 
 「アラクサダ」は
 さらに省略を含んだ表現で、
 
 その祖語は
 旧約聖書創世記第10章に載る
 
 セムの子孫
 アルパクサデ Arpachsad である。
 
 その名称が
 北メソポタミアのアルパチア遺跡に係わり
 牛頭崇拝の聖地であったことは
 繰り返し述べてきたところである。
 
 後に「ヒラキド」と読まれ、
 大阪府の市名となる
 「枚方」が現れたのである。
 
 『日本後紀』弘仁6年に載る
 「国背」は国中と同じく
 クルジャの訛りであり、
 これが「山背」となったのは、
 クルジャの表現が
 ヘブライ語の属すセム語で
 フルシュ huršu に近似し、
 その意味が山を表わしているからである。
 
 同語は
 シュメル語の同じ「山」を表わす
 hur-sang に依る用語であるが、
 
 ヤハウェ神は 
 ilu-śede (神-山頂) と
 表記されるように山の神である。
 
 エジプトを脱出したのは
 ヤハウェ神がシナイ山の山頂で
 十戒(律法)を伝承したことによる。
 
 山背から、山城と山代が
 できたとみられる。
 
 秦氏が
 京都市東山祇園の八坂神社の祭祀に
 担ったことはよく知られる。
 
 その祭神は須佐之男命で、
  またの名称を牛頭天王という。
 祇園はエデンの園より流れ出て
  分かれた四つの川の一つが
 ギボン川と同名で、角を意味している。
 
 これまで
  月氏から秦氏になった状況について
 述べてきたが、
 彼等が単に
 ヤハウェ神(ユダヤ教)だけでなく
 カナンの信仰(バアル)も合わせ
 もっていた証しを
 示すことになった
 
 烈王紀下第18章
 イスラエルの人々が
  アッシリアのシャマネセルによって
 メソポタミアの東メディアなどへ
 捕囚された理由を
 
 「モーセの命じた
  すべての事に耳を傾けず、
  また行われなかった」
 
 と述べ、
 
 カナアン人の信仰を
 行っているように思えるのである。
 
M.K記
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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:海洋交易商人へ  [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:海洋交易商人へ
 
   さて、
 北方の陸路の悪環境と海洋交易の利便を
 知った
 大月氏族の商人たちはアラビア海へ出て、
 海路の交易をする仲間に
 加わったものとみられる。
 
 貿易風を利して、
 その名称がその価値を示すが、
 アラビア半島から
 インド亜大陸へ航海する方法も
 ギリシャ商人たちに知られるようになった。
 
 この航海方法は、
 すでに
 古くからインドの商人には
 知られていたと思われる。
 
 インド洋海域から
 太平洋海域の海路については
 インドの商人は
 かなりの知識を持っていたと考える。
 
 ここでは検討できないが、
 
 『漢書地理志』に載る
 中国から西アジア地方への航路と
 寄港地についての
 情報はインド商人によるものとみられる。
 
 記録を残させない
 彼等の習慣から史料は少ない。
 
 また、
 その商業利権の確保のために
 ギリシャ商人など西方の者には
 正確な情報を漏らさなかったであろう。
 
 インドには
 紀元前八世紀頃から
 海外交易商人の組合 sabhā が存在し、
 株を買取ることにより
 その仲間に加わる制度ができていた。
 
 中村元によると、
 組合に加入するには金銭の投資が必要で、
 それによって船を買ったり、
 必要な資材を買った。
 
 組合員の間でカースト(階級制度)は
 全く無視されたという状況で
 株仲間に入るのは
 そう難しいことではなかったと思われる。
 
 そのような海外交易商人を 
 vanika という。
 
 彼等の活躍した地域に残るのが
 ワニ伝説で、
 ワニはワニカのことである。
 
 日本の稲羽の白兎の物語に出るのも
 このワニで、
 動物のワニに例えられたのは
 商船のことである。
 
 商船を並べて海峡を渡る方法は
 紀元前六世紀
 ペルシャのダリウス一世が
 小アジアからギリシャへ征戦する際に
 現在のイスタンプール辺りに
 船を並べて渡った記録が
 ヘロドトスの「歴史」に載っている。
 
 中央アジアからアラビア海へ活路を見出し、
 効率のよい海洋交易に乗り出した
 大月氏の集団が、
 まず、
 その基地を置いたとところが
 今のコーチン Cochin と考えられる。
 
 1980年代初めには
 十万人のユダヤ人がすんでおり、
 現在もその状況は変わらず
 コショウなど香料の市場を掌握している。
 
 現在の地名ではあるが、
 近くには牛頭を意する 
 alp を語幹とする Alleppey 、
 水を意味する 
 nus(nis) を基にしている Mattancher 、 
 また、
 アッシリア時代からアナトリアに展開した
 植民都市につけられた 
 kulam 名を持つ
 Ernakulam と 
 Kayan Kulam があり、
 西アジアの雰囲気を漂わせている。
 
 ここには
 紀元前から後二、三世紀頃まで
 ムジリス Muziris 名の港があった。
 
 大月氏集団はこの港を利用し、
 居住地を広げたものと考えられる。
 
 インドにおいて海洋交易商人を 
 vanika といい、
 
 彼等の史跡がワニ伝説に残り、
 その一つが稲羽の白兎物語である。
 
 つまり、
 古代にインドの商人たちは
 日本近海に徘徊していたことになる。
 
 それも
 紀元前後にはすでに日本へと
 渡来していたと考えられる。
 
 漢書に「奴」と記され
 「漢委奴国王」名の金印を
 授かった奴国は彼等の停泊地で、
 
 その国名は
 サンスクリット語の船を表す 
 nau に依るものである。
 
 そればかりではない。
 
 インドの商人たちは
 朝鮮半島の南端方面に
 月支国も成立させた。
 
 それが韓(馬韓)であり、
 後に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)へと発展する。
 
 インド商人を東アジアへ誘導した理由は、
 そこが絹糸の生産地であったからである。
 
 なお、
 ヘブライ人の古代日本における
 拠点の一つは
 「魏志」に記載されている
 「伊都国」と考える。
 
 「イト」はヘブライ語で、
 本来は「会衆、集団」の語義だが、
 
 世界各地に散った
 「(イスラエル)の記念碑」を表す
 IDH(Iedah) の音写とみられるからである。
 
 「奴国」が
 福岡市中央区の沿岸であるのに対し、
 「伊都」はその西、前原市にある。
 
 絹産業の専門家に成長していた
 大月氏大商人集団は、
 推測であるが、
 インド商人の利権の仲間に入り
 商船隊に参加して
 東アジアに移動して来たと
 考えられるのである。
 
 その停泊地が韓半島では半島の西側、
 『日本書紀』雄略天皇紀に載る
 倉下(へすおと)(クルジャ)で、
 現在の群山から鐘山方面、
 百済の首都であった
 扶余の南方面とみられる。
 
 現在倉下に当たるような
 地名は見当たらないが、
 『三国史記』地理に
 「百済比象県」(現舒川郡庇仁)があるので、
 同地であったかもしれない。
 
 海洋商人となった集団が
 大月氏のうちの
 どのようなものたちであったかは
 難しい疑問だが、
 五翕候のうちの
 クシャン(貴霜)族に制圧された
 他の翕候国のものたちと
 考える方が自然であり、
 特に肦頭(はんとう)翕候族は
 日本に移動した後の氏族名
 ハタ(秦)氏と同名なので最有力ではある。
 
 クシャン王朝は
 四世紀まで存続するが、衰微し、
 その勢力圏に興ったエフタルや
 グプタ王朝のため消滅してしまう。
 
 その後六世紀になると、
 現在のラジャスタンである
 ラジプターナに
 グルジャラ Gurjara 王朝が成立し、
 その系統の王朝は一三世紀まで続く、
 その名称は月に親しいものであり、
 月氏の後裔であったとも考えられるが、
 現在の判断では
 彼らを中央アジアからやって来た
 正体の知れない民族とされている。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:クシャン王朝 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:
クシャン王朝
 
   大月氏国の五翕候時代は40年余り続くが、
 紀元前20年頃から
 五翕候のうちの
 貴霜のギリシャ名ヘラウスが
 統一行動を始める。
 
 そして紀元後45年に
 他の翕候国を圧えて
 グジコラ・カドフィセスにより
 クシャナ王朝が成立する。
 
 カドフィセスの王朝は
 その子
 ウーマ(カドフィセス二世)の時代
 144年まで続き、
 その後やはり于闐出身の
 カニシカ王が
 その王権の座につき支配王族が交替する。
 
 カドフィセスの王朝が富み盛えたことが
 インドの仏典により知られる。
 
 中村元の「インド古代史」によると
 
 「クシャーナ帝国の財力は
  ローマとの貿易によって
  蓄積されたことも
  相当大きかったに違いない」
 
 とし、
 その実情を次のように述べる。
 
  クシャーナ族が
  西北インドを支配した時代になると、
  ローマとの交通が活発になり、
  商業活動が盛んになった。
 
  当時水路の旅行は
  盛んに行われたらしい。
 
  陸路の旅行は困難であるが、
  水路の旅行は安易であるということが、
  当時の仏典にも盛んに強調されている。
 
  この時代には
  インドからローマに輸出された
  莫大な奢侈品と交換に、
  ローマから多くの金が大量に移入された。
 
  クシャーナ帝国の商人は
  ローマとの交易を開き、
  絹・香料・宝石・染料などを売って
  ローマの黄金を獲得した。
 
  プリニウスの伝えるところによると、
  その当時は
  毎年五千万 sesterius の金を
  ローマから持ち去ったが、
  それに対して送ってよこした商品は
  原価の百倍で売られたという。
 
  そして
 
  「このローマの金の大量移入を
   可能ならしめた発端は、
   先グジャラがローマと使節を
   派遣したことに
   求められるべきであろう」
 
 とする。
 
 このようにタリム盆地を通じて
 玉・絹の交易路を成立し、
 それまでペルシャから
 小アジア方面への交易網を
 活用していたが、
 後には海路による大量輸送へと
 転換をはかることとなる。
 
 中央アジアと地中海沿岸に
 パルチア国があったことにより
 事情は変化し始める。
 
 上記のような陸路による
 効果的な交易網が機能しなくなる。
 
 パルチアの成立が
 中央アジアと地中海沿岸との
 交易路の行き来を邪魔したばかりでなく、
 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い
 パルチアとの間に紛争を再々起こし
 遮断された状態が恒常化するようになった。
 
 また、
 東方の漢は後漢の時代になって
 西域へ遠征軍を送り、
 90年には
 クシャン王朝と直接戦争する事態となった。
 
 この当時も
 漢の史料ではクシャン王朝を
 大月氏と呼んでいたが、
 
 大月氏が
 東方に持っていた商業権も
 漢に奪われてしまい、
 
 富をもたらした商業国家
 カドフィセスの王朝は打撃を受け
 停滞をせざるを得なかった。
 
 この間の事情について
 インドの歴史家
 R・S・シャルマは
 次のように解説する。
 
  絹は、
  中国からアフガニスタン北部と
  イランを通る
  「絹の道」によって、
  インドを経ずにローマに送られた。
 
  しかし、
  パルティア人がイランと
  その近隣地域を支配すると、
  その交易は難しくなったため、
  絹はインドの西北部を通って
  西海岸の港へ運ばれるように変わった。
 
  また、
  中国からインドの東海岸を経て
  西海岸へ運ばれることもあった。
 
 このように
 インドとローマ帝国の間には
 絹の中継貿易が
 かなりおこなわれたのである。
 
 この時期
 インドからローマへ送られたものに
 鋼鉄が加わるようになる。
 
 この重い資材は船により初めて
 大量輸送が可能である。
 
 その点シュメルの時代から銅やや錫、
 木材をペルシャ湾に送った
 インド商人にとっては
 お手前のものであったろう。
 
 ローマからは
 ガラス器などが運ばれて来たが、
 その中心は大量の金貨と銀貨であった。
 
 ローマの貨幣はインド全土のうち
 80ヶ所以上で発見されているが、
 その全てが
 ヴィンダャ山脈以南の地域である。
 
 このことは海洋交易の隆盛が
 ローマとの交易を
 開始させたと解釈できる。
 
 西アジアとの交易は、
 南インドの物産と
 それより東方の海路から
 もたらされた物産を
 取り扱う南インドの海洋商人が、
 その主役を努めたことになる。
 
 ローマの貨幣は
 ベトナムのメコン川のデルタでも
 発見されている。
 
 カドフィセスの王朝の停滞を受けて
 登場したのが
 カニシカ王の勢力で、
 武力により北はソクディアナから
 南はインドの中心ガンジス河下流へと
 進出し、
 サルフート辺りまで、
 西南はアラビア海に至るまで
 支配下に置いた。
 
 このカニシカ王に対し、
 インド側がその支配勢力である
 アーリア人との整合性を求めて
 日種(太陽神崇拝者)
 であろうとしたが、
 彼自身はあくまで
 月種(月神崇拝者)だとして
 変えることができなかったという。
 
 その祖族がヘブライ人である
 拘泥がみられる。
 
 実際同王朝の彫像には
 三日月をあしらったものがみられる。
 
 ローマの金貨が
 ヴィンダャ山脈以北から
 発見されていない理由であるが、
 
 中村元の解説においても
 「ローマから多くの金が
 大量に移入された」、
 「ローマの黄金を獲得した」と記し、
 金貨とは言っていない。
 
 また、
 第二代のカドフィセスは
 インドで初めて金貨の制度を始め、
 ローマから持ち込まれた金を
 自国の金貨鋳造のために
 使ったとの理由があげられる。
 
M.K記
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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:大月氏国の成立 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
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《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:大月氏国の成立
 
   紀元前177年頃、
 匈奴の冒頓単于(ぼくとうぜんう)に敗れた
 月氏は紀元前176年には
 一部は安定に残留した(小月氏)ものの
 他の部族は西遷を始めた。
 
 彼等は天山北方のイリ(伊犂) に
 弓月城を築いて一時滞在したが、
 さらに西方に移動し、
 張騫の派遣された139年までには
 西トハリスタン、
 ソグディアナ、
 バクトリアに地歩を固め、
 140年には
 大月氏国を成立させたとみられている。
 
 移動したものを小月氏という。
 
 これにより以前
 マケドニアのアレキサンダー大王が
 東方への大遠征を行い、
 バクトリア、ソグディアナまで到着し、
 325年頃インダス河を下って
 アラビア海へ出て
 ペルシャのペルセポリスまで引上げた。
 
 彼(アレキサンダー大王)が
 紀元前323年に突然死去すると、
 帝国は分裂し、
 この地方はセレウコスの王朝となるが、
 その勢いが衰え、
 この地方にはバクトリア国が、
 大王に率いられて渡来し残留していた
 ギリシャ人たちによって独立成立した。
 
 ヘレニズムの東端の国といわれている。
 
 同国も
 北方のスキタイ人などの圧力に押されて
 次第にヒンズークシ山脈の南へ
 内部分裂と紛争を繰り返しながら
 移っていく。
 
 この北方からの勢力の中に
 月氏の勢力もあったといわれ、
 その間に覇権をまとめ上げたのが
 大月氏国であった。
 
 ソグディアナが
 彼等の故地であったとすれば、
 帰還ということになる。
 
 紀元前140年頃からの
 支配体制についての詳細は
 よく解らないが、
 その首都が中国名、
 藍氏(jian-ti)城で、
 バクトリアの域内にあったとされる。
 
 紀元前65年には
 五王国に分裂されたことが
 中国の史料にみられる。
 
 『漢書』によると、
 その五王国は
 
 ①休蜜翕候(きゅうみつきゅうこう)
 ②雙靡翕候(そうひきゅうこう)
 ③貴霜翕候(きしゃんきゅうこう)
 ④肦頭翕候(はんとうきゅうこう)
 ⑤高附翕候(こうふきゅうこう)
 
 である。
 
 翕候は王のような職位を表す。
 
 そのうちの高附は
 喀布爾(かふじ)とも表記された
 現在のアフガニスタンのカブールであり、
 
 貴霜はタリム盆地の南西、
 ギリシャ語でクスターナといわれた、
 
 現在の和田(ホータン)である
 于闐(うてん)の地であり、
 
 後に貴霜は他の王国を統一して
 インド亜大陸へも勢力を伸張し、
 仏教の擁護者
 カニシカ王を誕むこととなる。
 
 この于闐の地は
 古来玉石の産地として繁栄したのであるが、
 クシャン国もその天恵に浴した。
 
 玉は角閃石の一種で同地には
 白玉河、
 緑玉河、
 黒玉河があって
 産量の豊富であったことを示している。
 
 玉石は中国において殷の時代より
 
 圭(けい)、
 璋(しょう)、
 璧(へき)と
 
 王権の権威を象徴するのに
 用いられ尊重された。
 
 漢の時代になってもその需要は高く、
 大量に輸出されたらしい。
 その状況は唐宋の時代まで続く。
 
 その見返りとして
 漢からは絹が輸出された。
 
 このことから
 シルクロード(これは現代の命名)は
 確立されることになったのである。
 
 大月氏国にもたらされた絹が
 さらに西方に輸出されたことは間違いない。
 
 東方の漢にとって
 大月氏は「玉の民族」であり、
 西方の国にとっては
 「絹の民族」という見方も
 ここでは成り立つ。
 
 地中海沿岸のフェニキアは
 古来織物産業の活発な土地であり、
 ヘブライの地でも
 そのような技術を修得しており、
 メディアなどに移動させられてから
 6百年を過ごした後とはいえ、
 日常の衣服を生産するなどして
 技術を保持していた
 技工たちはいたに違いない。
 
 彼等が絹の専門技術者あるいは
 商人として成長したと考えられる。
 
 というのも、
 五翕候の内、
 言及していない三翕候名は
 サンスクリット語で解釈すると
 養蚕業に係わる名称であるからである。
 
 当時インドの言葉は
 仏教の伝播などと共に
 この地方へも広がっていたから
 不自然ではない。
 
 「休蜜」は krmi で
 「昆虫、虫」の意味で、
 
 ここでは「かいこ」
 つまり蚕のことである。
 
 「雙靡」は
 蚕の蛹(さなぎ)ことでサビであり、
 「肦頭」は patta で絹を意味する。
 
 貴霜についてもその語幹が kaşa で
 サンスクリット語の「草」であるが、
 書き残されたなかには
 ギリシャ語の korsano 、
 あるいは
 カニシカ王の貨幣に刻まれた
 košano の場合もあるので
 繭を表す koša を
 祖語とした部族名であった可能性もある。
 
 「後漢書西域伝」は
 高所の代りに都蜜を
 五部族のうちに記している。
 
 この語は dāma で
 「紐、縄、綵、帯」であるが、
 その意味するところは
 tanu 「紐、細線、糸」で
 繊維をいうものであろう。
 
 Tan-tu-vana は繊維を表す。
 
 以上のように
 大月氏の部族名は
 絹産業を基礎にした
 技術集団と考えられるのである。
 
 このころから
 西方のローマを初めとする
 地中海地方では
 セレスという
 絹を表す貴重な織物と糸が
 普及し始めるのである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:メディアから安定へ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:メディアから安定へ
 
   ヘブライ人が
 月氏に本当になったのかについて
 考察してみたい。
 
 まず、
 ソグディアナ Sogdiana についてである。
 
 この地名がヘブライ語で解釈した場合
 「神を崇拝する」の意味であるとの指摘は
 すでになされている。
 
 Shoykhet(Shokhtim) 
 がそれに相当する用語であるが、
 「儀式のための屠殺」が本義である。
 
 その祖語はシュメル語の sukud-e-en
  「神を高くする」に想定してよいだろう。
 
 Sukud は
 メソポタミアの高床式神殿で
 検討した用語である。
 
 この語は神域を表す 
 suk 、 sug と関連し、
 ソクディアナ名の語幹と考えられる。
 
 烈王紀下は
 「高き所を建てたの」で
 サマリアは取られたと述べており、
 ヘブライ人がそのままの信仰を
 ここに持って来たとしてもおかしくない。
 
 そのサマリア名をつけたのが
 ソグディアナの中心都市
 サマルカンドであると考えることもできる。
 
 「高い所」の信仰はバアル神信仰で、
 その象徴は牡牛である。
 
 サマルカンド近郊の町キシュ Kish は
 ヘブライ語で「牡牛の」の意味の 
 kiish によるだろう。
 
 ソクディアナには牡牛に係わる地名が
 よくみられる。
 
 そこを流れる川の名称
 アム Amu はシュメル語で野牛である。
 
 後世オクサス óxus となるが、
 これはヨーロッパ語圏の用語で牡牛である。
 
 サマルカンドとキシュの間の町
 マイムルク Maimurg は
 セム語で三日月を表す。
 
 13世紀から14世紀にかけて
 エジプトから地中海東岸のアレッポまでを
 支配においたイスラムの
 マメルク Mameluku 朝名と同義である。
 
 このようにソグディアナが牡牛の祝祭を
 行っていた可能性があり、
 その担い手がサマリアから移動させられた
 メディア周辺にいたヘブライ人で、
 メディア国の拡大の時期に
 中央アジアまで
 さらに移動したのではないかと
 推測される。
 
 ソグディアナから東方へ行く交通路の途次、
 天山山脈の北の草原を行くと弓月城を過ぎ、
 同山脈の東端を回ると
 トルファン(高咼)へと出る。
 
 ここにはベゼクリクの町があった。
 
 この町名も
 ヘブライ人の残した名称とみられる。
 
 Bezeklik の beze- は
 ベツレヘム Bethlehem の beth で
 家を表す。
 
 ヤコブが夢に見た「神の家」の地である。
 
 Klik は
 ヘブライ語の kirkh で、
 ドイツ語の kirche 、
 英語の church と同語である。
 
 キリスト教の場合には、
 教会、寺院であるが、
 その内容は
 「礼拝堂、聖堂、神殿」あるいは
 「信徒」を意味する。
 
 さらにその原義は
 「礼拝、祈祷」である「神事」を表す。
 
 よって、 
 Bezeklik も「神殿」のことである。
 
 現在中国名胜金台という町がここにある。
 
 Śheng-jin-taù は Singer あるいは
 Sinagug の転訛とみられ、
 ベズクリクと同じ神殿の字義である。
 
 月氏は敦煌と祁連山(両方とも甘粛省内)
 との間にいたと史記大宛列伝はいう。
 
 同列伝は紀元前139年に
 前漢の武帝が
 張騫を西域の大月氏に向けて派遣した事情と
 西域・中央アジアの状況を
 報告したものである。
 
 月氏について中国の史料には
 和氏、禹氏、牛氏などと表記される。
 
 「漢書地理志」で
 月氏道の名を載せた安定は
 現在の安西、安北、安南(新疆区)が
 その遺称で
 甘粛省の西の端にあり、
 敦煌を中心とする。
 
 そのまた西南の外れに現在、
 阿克塞阿哈薩克(アクサイ・カザフ)族
 自治県があるが、
 その都市名が博罗轉井である。
 
 同市名を中国語読みすると、
 Pak-luo-zhuan-jing となるが、
 
 これはパリサイで
 英語の pharisee 、
 ドイツ語のPharisäer であり、
 キリスト教の時代に
 
 「内面的戒律よりも
  外面的規則を重要視した
  ユダヤの政治宗教的一団」
 
 の名に対応するもので、
 ヘブライ語と解釈できるのである。
 
 ここにおけるその銘名は、
 そのような宗教的立場の表明ではなく、
 その原義が
 「離れている者」であることから、
 遠く原郷のイスラエルを
 離れているとの意味に解釈できる。
 
 民族名は中国語の訓音では 
 A-ke-Sak-Ha-sa-Ke となる。
 
 Hasaka 哈薩克は
 カザフ Kazakh 族のことである。
 
 その母体はウィグル族で、
 九世紀にモンゴルの東部にいたが
 契丹に追われて西遷し、
 一部がこの地方に定住し
 遊牧から農業へと生活の形態を変えた。
 
 彼等をウィグル・カザフ族といい、
 後に単に
 カザフ族といわれるようになった。
 
 カザフ名は
 この地方で付けられるたものである。
 
 カザフ Kazakh は
 本来どのような意味なのか。
 
 その意味は「牧夫」と推測される。
 
 シュメル語の kuś (牧夫) も思い出すが、
 阿克塞 Ahesak を oxas 、
 ドイツ語の Ochs (牡牛) 
 とするのは間違いない。
 
 中国史料が月氏を牛氏といった。
 
 哈薩克 Hasake (Kazakh) は、
 ドイツ語の Hächer (捕史) 
 動詞形 haschee (捕らえる)か、
 hashie ren (肉を刻む) 
 Haschee (刻み肉) に
 対応すると考えられる。
 
 前者は牧夫を想起させ、
 後者は
 第4章中の「ゲルマン」で論じた
 ゲルマン人の故郷
 西イランの Kāshān の名称、
 ユダヤ教の教義に
 適っているとの意義である
 「清浄」を表す kosher と関係する。 
 
 Hasake (ドイツ語の Hasche) は
 レビ記の
 
 「燔祭の獣の皮を剥ぎ、
    節々に切り分けなければならない」
 
 に対応するよう用語で
  祝祭を行うものたちの意味となる。
 
 祝(ハフリ)の原郷、
 現在のシリア東部ハブール川の上流にある
 エル・ハサカ El.Hazeke にも表されている。
 
 阿克塞哈薩克族とは
 「牛飼い族」あるいは
 「牛祝・祭族」となる。
 
 カザフは牧夫の意味に相当する。
 
 パリサイ(博罗轉井)名と
 この族名を考慮すれば
 月氏(ヘブライ人)の影響が
 あったことによると
 考えてもよいと思われる。
 
 禺氏も牡牛を表す 
 gu によるものであろう。
 
 周辺には、
 大革、
 長革のつく地名があり、
 牧畜に適した高原であることを
 印象づけている。
 
 「失われた十支族」といわれる
 ヘブライ人が
 この地方にいたと
 指摘できる資料が
 ヘブライの資料にもある。
 
 それは『旧約聖書』にもその名前のある
 「エズラ第四書」という
 ヘブライ語の資料である。
 
 そこにアルザレ Arzare という地方名が
 
 「彼等が最後まで住んだ」
 
 地として記されている。
 
 そこは、
 ユーフラテス川を越えて
 一年半の長い道のりを
 要するところだといっている。
 
 アルザレは、
 安定あるいは安価の訓音に近い。
 
 また、
 博罗轉井の南西方に
 5,798メートルの高さの
 阿尓金山及びその名称の山脈があるが、
 これは、
 ウィグル語の
 「黄金」を表す altun を
 漢語化した名称とみられるが、
 「アルタン」もまたアルザレに近似する。
 
 しかも
 アルザレ、アルタンは
 セム語(アッカド語)の同じく
 「黄金」を意味する
 hurasu を祖語とするとみられるものである。
 
 和氏については事情がある。
 
 月氏が渡来する以前、
 ここは和氏の郷であった。
 
 『史記』五帝本紀堯帝の
 「和仲に命じて、西土に居らしむ。
  
  昧谷(まいこく)と曰ふ。
  敬(つつし)みて日の入るを導(みちび)き、
  西戎を便程す」
 とあることと係わるからである。
 
 和仲は和氏の次子の意味で、
 西土は三危(さんき)とも呼ばれた。
 
 同じ堯帝条に
 
 「三苗を三危に遷(うつ)し、
  以って西戎に変じ」
 
  とあり、
 三危は現在敦煌の東仏教の岩窟で有名な
 莫高窟のある三危山にその名を遺す。
 
 西土は西戎の地である。
 
 和氏はまた夏氏であり、
 月氏が西遷して移り住んだ地を
 大夏(バクトリア)というのは
  これに依るものである。
 
 夏は史記にも「夏本紀」があるが、
 殷より古い王朝とも考えられる。
 
 以前には空想の王国とされていたが、
 最近は考古学的資料が
  夏の実在を証明するようになり、
 今では
 中国の最初期の王朝名として
  認められるようになっている。
 
 堯帝により和氏の一部が
  移転させられた理由により
 そこの住民を和氏と称したのである。
 
 第九章中国の祝祭と皇帝で述べる
 和氏が
 米作りと養蚕業に優れていたとすると、
 月氏は
  彼等より
 絹についての知識・情報を得たのである。
 
 月氏が絹商人へと
 変化していくきっかけである。
 
 敦煌の北方、新彊区内に哈蜜市がある。
 
 この町は和氏が建てた町と考えられる。
 
 雲南省の少数民族に
 哈尼(はに)族がいる。
 
 彼等は古くは
 「和夷(ほい)」
 「和蜜(ほまん)」
 「和泥(ほに)」などとも呼ばれ、
 史記に載る和氏の一族と考えられる。
 
 哈尼族ばかりでないが、
 雲南の民族は紡織・織布に優れ、
 色彩豊かで個性的な織物は
  歌垣(かがい)という祭礼で
 人々が着る衣裳のすばらしさで
 よく知られている。
 
 手工業は農閑期の母親に
 手ほどきを受けて伝統の継承者となる。
 
 彼等の祖先は
 もっと北方の四川省方面にいた人々と
  考えられている。
 
 四川省は蚕(蜀)で
 古来栄えた地方である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・月氏とシルクロード:海洋交易商人へ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十六章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・
月氏とシルクロード:海洋交易商人へ
 
   さて、
 北方の陸路の悪環境と海洋交易の利便を
 知った
 大月氏族の商人たちはアラビア海へ出て、
 海路の交易をする仲間に
 加わったものとみられる。
 
 貿易風を利して、
 その名称がその価値を示すが、
 アラビア半島から
 インド亜大陸へ航海する方法も
 ギリシャ商人たちに知られるようになった。
 
 この航海方法は、
 すでに
 古くからインドの商人には
 知られていたと思われる。
 
 インド洋海域から
 太平洋海域の海路については
 インドの商人は
 かなりの知識を持っていたと考える。
 
 ここでは検討できないが、
 
 『漢書地理志』に載る
 中国から西アジア地方への航路と
 寄港地についての
 情報はインド商人によるものとみられる。
 
 記録を残させない
 彼等の習慣から史料は少ない。
 
 また、
 その商業利権の確保のために
 ギリシャ商人など西方の者には
 正確な情報を漏らさなかったであろう。
 
 インドには
 紀元前八世紀頃から
 海外交易商人の組合 sabhā が存在し、
 株を買取ることにより
 その仲間に加わる制度ができていた。
 
 中村元によると、
 組合に加入するには金銭の投資が必要で、
 それによって船を買ったり、
 必要な資材を買った。
 
 組合員の間でカースト(階級制度)は
 全く無視されたという状況で
 株仲間に入るのは
 そう難しいことではなかったと思われる。
 
 そのような海外交易商人を 
 vanika という。
 
 彼等の活躍した地域に残るのが
 ワニ伝説で、
 ワニはワニカのことである。
 
 日本の稲羽の白兎の物語に出るのも
 このワニで、
 動物のワニに例えられたのは
 商船のことである。
 
 商船を並べて海峡を渡る方法は
 紀元前六世紀
 ペルシャのダリウス一世が
 小アジアからギリシャへ征戦する際に
 現在のイスタンプール辺りに
 船を並べて渡った記録が
 ヘロドトスの「歴史」に載っている。
 
 中央アジアからアラビア海へ活路を見出し、
 効率のよい海洋交易に乗り出した
 大月氏の集団が、
 まず、
 その基地を置いたとところが
 今のコーチン Cochin と考えられる。
 
 1980年代初めには
 十万人のユダヤ人がすんでおり、
 現在もその状況は変わらず
 コショウなど香料の市場を掌握している。
 
 現在の地名ではあるが、
 近くには牛頭を意する 
 alp を語幹とする Alleppey 、
 水を意味する 
 nus(nis) を基にしている Mattancher 、 
 また、
 アッシリア時代からアナトリアに展開した
 植民都市につけられた 
 kulam 名を持つ
 Ernakulam と 
 Kayan Kulam があり、
 西アジアの雰囲気を漂わせている。
 
 ここには
 紀元前から後二、三世紀頃まで
 ムジリス Muziris 名の港があった。
 
 大月氏集団はこの港を利用し、
 居住地を広げたものと考えられる。
 
 インドにおいて海洋交易商人を 
 vanika といい、
 
 彼等の史跡がワニ伝説に残り、
 その一つが稲羽の白兎物語である。
 
 つまり、
 古代にインドの商人たちは
 日本近海に徘徊していたことになる。
 
 それも
 紀元前後にはすでに日本へと
 渡来していたと考えられる。
 
 漢書に「奴」と記され
 「漢委奴国王」名の金印を
 授かった奴国は彼等の停泊地で、
 
 その国名は
 サンスクリット語の船を表す 
 nau に依るものである。
 
 そればかりではない。
 
 インドの商人たちは
 朝鮮半島の南端方面に
 月支国も成立させた。
 
 それが韓(馬韓)であり、
 後に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)へと発展する。
 
 インド商人を東アジアへ誘導した理由は、
 そこが絹糸の生産地であったからである。
 
 なお、
 ヘブライ人の古代日本における
 拠点の一つは
 「魏志」に記載されている
 「伊都国」と考える。
 
 「イト」はヘブライ語で、
 本来は「会衆、集団」の語義だが、
 
 世界各地に散った
 「(イスラエル)の記念碑」を表す
 IDH(Iedah) の音写とみられるからである。
 
 「奴国」が
 福岡市中央区の沿岸であるのに対し、
 「伊都」はその西、前原市にある。
 
 絹産業の専門家に成長していた
 大月氏大商人集団は、
 推測であるが、
 インド商人の利権の仲間に入り
 商船隊に参加して
 東アジアに移動して来たと
 考えられるのである。
 
 その停泊地が韓半島では半島の西側、
 『日本書紀』雄略天皇紀に載る
 倉下(へすおと)(クルジャ)で、
 現在の群山から鐘山方面、
 百済の首都であった
 扶余の南方面とみられる。
 
 現在倉下に当たるような
 地名は見当たらないが、
 『三国史記』地理に
 「百済比象県」(現舒川郡庇仁)があるので、
 同地であったかもしれない。
 
 海洋商人となった集団が
 大月氏のうちの
 どのようなものたちであったかは
 難しい疑問だが、
 五翕候のうちの
 クシャン(貴霜)族に制圧された
 他の翕候国のものたちと
 考える方が自然であり、
 特に肦頭(はんとう)翕候族は
 日本に移動した後の氏族名
 ハタ(秦)氏と同名なので最有力ではある。
 
 クシャン王朝は
 四世紀まで存続するが、衰微し、
 その勢力圏に興ったエフタルや
 グプタ王朝のため消滅してしまう。
 
 その後六世紀になると、
 現在のラジャスタンである
 ラジプターナに
 グルジャラ Gurjara 王朝が成立し、
 その系統の王朝は一三世紀まで続く、
 その名称は月に親しいものであり、
 月氏の後裔であったとも考えられるが、
 現在の判断では
 彼らを中央アジアからやって来た
 正体の知れない民族とされている。
 
M.K記
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目次4 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
  1946年   長野県生まれ
  早稲田大学文学部卒業
  東邦生命保険相互会社 
  財団法人海外技術者研修協会勤務
 
  1988年より歴史研究に専念
  1999年から2年「創世紀」執筆
  2002年8月 歴史学講座「創世」開講〔草加市(古代史)〕
  2006年8月 「再成塾」開講〔草加市(近世史・近代史)〕
  2006年10月 歴史学講座「創世」うらわ塾〔現さいたま塾〕開講
  2009年 2月 歴史学講座「創世」葛飾塾開講〔松戸市〕
  2012年2月 「さいたま再成塾」開講〔さいたま市〕  
     2014年 12月  「日本創世紀:倭人の来歴と邪馬台国の時代」出版
   2017年   7月 歴史学講座「創世」狭山塾開講〔狭山市〕
     2019年   7月  「神聖の系譜:メソポタミア〔シュメール
         ヘブライそして日本の古代史」出版
 
目次4
第16章・終章
第16章 イスラエル人の日本定着と ヘブライの信仰
 
  「イスラエル人と月氏」      
   アッシリアへの強制移住 
   メディアから安定へ   
   大月氏の成立      
   クシャン王朝      
    海洋交易商人へ
    荒樔田と開木代
    茨田神社と茨田郡
    牟佐と太秦
    秦氏と絹産業
    絹と地名分布
    伊和神
    旧約聖書のガド族
    播磨の「神の箱」信仰
    ガド族の「誓い」と明石
    秦王国播磨
    安来:十戒神社戸と祈り
    韓国伊太氐神社と杵築神社
    顕国玉神と大国主神
    「律法」と荒神谷遺跡
    蘇民将来と「えびす」
    駿河国の馬鳴神
    志摩のダイダラボーシと天白社
    白山比咩と加賀
    多摩の「律法箱」と武蔵
    前橋と利根
    福島:伊達と安達
    久伊豆神社とお獅子様
    久伊豆神社と「十戒」
    鷲宮神社と板倉の雷電神社①②
   浅草と目黒①②
   太神山と瀬田
   千葉(坂戸神社の人身御供神事)
    久留里(聖地と牛角)
    伊豆と浜名①②
    木曽の御嶽山と水無神社
   国常立神・ヤハウェ神・エア(エンキ)神
    大己貴神と少彦名神
    幸手の秘密
    北陸と佐渡の秘密①②
    伊都と志都①②
    「財宝国」任那と百済
    イザヤ書のシニム①②
    因幡と「陶器師」土師氏①②
    八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」①②③④
    少彦名神と山田、大和、倭、日本①②
     「ミカド」と「ミコト」
  
  終章 ヤハウェ神とインドラ神
   ヤハウェはインドのインドラに似ている
  おわりに: 帚・箒(ははき)木は「智恵の木」①②
創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜※史料)
    
  『創世記・参考資料』&あとがき
     歴史資料:言語学・辞典・地図・歴史地図・
         地名辞典・地方史
   歴史資料:神社
   参考資料『日本』①
   参考資料『日本』②
   参考資料『中国・韓半島』①
   参考資料『中国・韓半島』②
   参考資料『東南アジア・中央アジア』
   参考資料『インド・南亜大陸』①
   参考資料『インド・南亜大陸』②
   参考資料『メソポタミア・地中海東岸』①
   参考資料『メソポタミア・地中海東岸』②
 
   参考資料『地中海・ヨーロッパ』
M.K記

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第十五章 大黒柱と大己貴命:大己貴命と「タカラ」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十五章 大黒柱と大己貴命:
 大己貴命と「タカラ」
 
   楽浪の海の中には
  倭人が百あまりの国に分かれ、
  その歳おりふし貢物を持ち
  来見するといわれる」
 
 とある。
 
 この条文についても
 一般に
 古代の日本のことと理解されているが、
 
 「倭人」は本書の
 「第10章天毒とセリカ」などでみたように
 日本列島にいた人々だけとは限らない。
 
 しかしそこにある「天性柔順」では
 全く「倭」の語義に相当するものである。
 
 「倭」とは、
 「従うさま」をいったもので
 
 「委」は
 「身をかがめる、身を屈する」で
 「恭順」ないし「柔順」の意味である。
 
 この「身をかがめた」姿態こそ
 山椒魚の姿で、
 いわゆる「はいつくばり」の様である。
 
 それを
 サンスクリット語で表現したのが
 「ナムチ」である。
 
 「大己貴命」名で、
 大山椒魚を称するものである。
 
 Nam、namati は
 
 「~に向って屈む、
  ~にお辞儀をする、沈む、静かになる」
 
 で、
 
 ānamati は
 「屈む、頭を下げた、屈んだ、
  服従した、従順な」 
 などの意味となり、
 大己貴命の像に合っている。
 
 同類語に namuci があるが、
 これは
 インドラ神に征服された悪魔の名で、
 
  namuchi-dvis(devasa) は
 インドラ神の称であるが、
 
 この 
 namuchi が
 大己貴命の「ナムチ」になったとはいえない。
 
 Namuchi が該当すると考える。
 
 身を屈めて這いつくばる山椒魚は
 また「生尾人」である。
 
 『古事記』の神武東征で、
 次々と神武軍に制服された大和の種族で、
 彼等を「オオ、多」と解釈し、
 登美族の種族だと見解を述べた
 (第12章)。
 
 「尾の生えた人」は大山椒魚である。
 
 その事が小児(童)の様だというのは
 「河童」の様子に重ねるし、
 
 シュメル伝説の
 オアネス(Oanes、Oannes)を想起させる。
 
 紀元以前に渡来した
 ヤーダヴァ族(ドヴァラカー族)である
 登美族は、
 その土地の
 大山椒魚信仰
 (縄文時代後期晩期からあった)を知り、
 彼等の祖先の像との共一性から
 その神名を「ナムチ」と
 言い慣らし始めたと推測される。
 
 水棲動物 yadu は
 彼等の種族性そのものである。
 
 大己貴命とは
 大山椒魚(大黒主)を神格化した名称である。
 
 大己貴命名は『日本書紀』の名称である。
 
 その一書は
 
 「大国主神、別名大物主神、
  国作大己貴命と名付く、
  葦原醜男命、八千戈神、
  大国玉神、顕国玉神」
 
 と七つの尊称を挙げる。
 
 『古事記』は
 
 「大国主神、亦名大穴牟遅神と謂ひ、
  亦名葦原色許男神と謂ひ、
  亦名八千矛神と謂ひ、
  亦名宇都志国玉神と謂ひ、
  并せて五つの名有り」
 
 と記す。
 
 本書にはこれで
 大国主神を含めた尊称のうち、
 大己貴命、
 葦原醜男神、
 八千矛神の五神について述べたことになる。
 
 さて、
 山椒魚の「玉子」卵嚢は
 勾玉(曲玉)の原形であると述べたが、
 
 出雲の富氏族はこれを
 「財(たから)」と称したという。
 
 大己貴命信奉には
 勾玉が欠かせないことは明らかである。
 
 そして、
 その国を「タカラ」と称したと考えられる。
 
 東鯷国は大陸の漢人が呼んだ呼称である。
 
 だが
 「山椒魚国」の人々は自身で
 「タカラ」と呼んだ可能性がある。
 
 「財」の付く地名は
 岡山県、
 佐賀県、
 宮崎県、
 鹿児島県と
 山椒魚名のある地域にある。
 
 山椒魚は
 
 「ブリタニカ百科」によると
 
 「皮膚がサンショウの木の皮に似るとか、
  皮膚にたくさん顆粒があって刺激すると
  サンショウ匂いに似た乳白色の液を出す。
 
  サンショウの樹皮を食べるなどと
  伝えられていることに由来するらしい」
 
 のであるが、
 どちらにしても香辛料ともなる
  「山椒」と関係がある。
 
 日本列島の山椒は
 古代においては重宝であったとみられる。
 
 三国志魏書倭人章には
 倭の地の産物として
 「椒」が記されているからである。
 
 この山椒を
 南方からやって来た
 貿易商人のヤーダヴァ族は
 Takkola と呼び、
 香辛料の一種として使われている。
 
 Takkola はヤーダヴァ族あるいは
 「天毒の愛人」であるインドの商人達が
 インド亜大陸へ伝えた地名と考える。
 
 その名は「ミリンダ王の問い」で
 貿易商人が訪れる先として
 挙げられている地方の一つである。
 
 Vagṅaṃ、
 Takkolaṃ、
 Cinaṃ、
 Soviraṃ、
 Suraṭṭhaṃ、
 Alasandaṃ、
 Kolapaṭṭaṅaṃ
 
 とチーナ(支那)と並んで現れる地名である。
 
 各地名がどこを指すのか
 第10章天毒とセリカの
 「インドの海洋交易商人」に詳しく解説した。
 
 Kolapaṭṭana については
 第10章天毒とセリカでも推論を展開した。
 
 そこで
 中村元が
 「タッコーラ(北アルコット地方)」と
 
 インド亜大陸のベンガル湾側、
 つまり
 東インドの中間辺りを
 比定地としていることに
 疑問を提起しておいた。
 
 チーナに近い
 東アジアの地域に想定することは
 不可能ではない。
 
 その地域を日本諸島に限る必要はない。
 
 インドの商人は
 大陸ではない倭人の住む
 東方の島峡を「タカラ」と
 総称していたかもしれない。
 
 そこは
 セリカの一部であった筈である。
 
 台湾の台北から
 基隆新店両渓流間を
 「タカラ」あるいは「タアラア」と
 呼んでいた記録がある。
 
 漢字の表記で
 「大加蚋」ないし「大佳蠟」である。
 
 まだ
 漢族が積極的に渡来しなかった
 16世紀頃までの古名である。
 
 因みに Vaṅga についても
 中村元は
 ベンガル湾の奥の地方
 ガンジス川下流を想定しているが、
 
 Vaṅga は
 インドネシア語の「香料」を意味する
 wangi (wangan) に近似し、
 古来香料諸島と呼ばれている
 Maluka (Mulccas) に比定できるのである。
 
 そこは丁字の原産地で、
 バビロニアの時代から
 丁字はメソポタミアに運ばれた。
 
 「タカラ」は考えられる日本の最古名である。
 「タカラ」が「タケル」に転訛したとすれば、
 
 『古事記』の国生み神話に
 「建」に冠されている
 下記の名称はその遺称である。
 
  〇建依別 土佐国
  〇建日向は豊久士比泥別 肥国
  〇建日別 熊曾国
  〇建日方別 吉備児島
 
 大己貴命の神名は
 以上のような日本の「創世」の頃の
 秘密が隠されているのである。
 
M.K記
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第十五章 大黒柱と大己貴命:東鯷国 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十五章 大黒柱と大己貴命:
 東鯷国
 
  山椒魚の別称を地名とした地域が
 東海地方以西の日本に多い。
 
 棲息分布地域にそれは重なっている。
 
 「睪」は
 三重県多気郡、
 島根県の簸川郡多伎町、
 佐賀県の多久市など、
 
 「鍜」は「えび」と訓むが
 宮崎県のえびの市の祖語である。
 
 「鯢」は「げい」で
 広島県の西部を「芸(げい)州」といった。
 
 山椒魚は
 外鰓(がいさい)のある両棲類だが、
 この「鰓」は「顎」のことで
 「あご、あぎ、あぎと」である。
 
 芸州は後に
 「安芸(あぎ)」と呼ばれるようになったが、
 その名は顎である。
 
 安芸は広島県ばかりでない。
 
 三重県、
 高知県、
 大分県(安岐)にある。
 
 特に
 「大分」は
 「顎田」 を「碩田」と表記した地名で
 祖語は「あぎと」にある。
 
 大山椒魚は一般にハンザキといわれ、
 
 地方によっては
 ハザコ、
 アンコ、
 ハジッコイ、
 ハジコイ、
 ハゼッコイ、
 ハダカス、
 ハジカミなどと呼ばれた。
 
 ハンザキは
 佐賀県神埼郡(神崎郡)、
 大分市から国東半島への海岸沿いにある
 神崎など。
 
 ハザ、
 ハジは地方によって訛るが、
 
 岡山県の高梁市や
 奈良県桜井市の初瀬(長谷)はその名称である。
 
 大神神社の近くにその地名はあるのである。
 
 「黒」は
 三重県安芸郡河芸の黒田、
 松阪市の黒田町、大黒田町など。
 
 このように
 東海(岐阜県、三重県) 、
 近畿、
 中国、
 九州に
 それらは集中している。
 
 それにしても広い範囲に
 その名称があることは
 それだけ山椒魚に対する
 信仰があったという証である。
 
 それらの地域はまた
 「山椒魚国」であった。
 
 「山椒魚国」の存在を証明している
 史料が中国の史書にある。
 
 それが「東鯷国」である。
 
 漢書「地理志」の呉国の条の最後に
 
 「会稽郡の海上には東鯷国があり、
  20数国あまりに分かれ、
  その歳おりふし貢物を持って
  来見するといわれる。」
 
 その東鯷国が
 一般に日本のことと考えられている。
 
 漢書「地理志」は
 前漢の終末紀元2年
 に成ったと伝えられているので、
 
 日本についての、
 本書が「山海経」の
 天毒、姑射を日本に関係する地名と
 解釈することを除けば最古の記録となる。
 
 一般に
 東鯷国は
 日本のことと認められている
 という点においてである。
 
 「漢委奴国王」の印璽(金印)を受けた
 倭の委奴国の後漢への遣使が
 紀元57年のことであるから、
 それより少なくとも55年以上前から
 東鯷国の情報は
 漢へ伝わっていたことになる。
 
 「東鯷」とは何かを確認する。
 
 これを「東方の鯷」とまず解釈される。
 
 「鯷」は「おおなまず」の意味である。
 
 大漢和辞典には
 
 「鯷、ティ、ダイ、シ、ジ、おおなまず、
  鮧、鮷に同じ」とある。
 
 「鮷」は「ティ、ダイ、おおなまず、
 〔説文、通訓定事〕、
  鮷字亦作㈡鮷、鯷、䱱㈠」とある。
 
 「䱱」こそ「山椒魚」を表わし、
 「鯷」の実際は䱱である
 大山椒魚をいっているものと
 解釈されるのである。
 
 「䱱、ティ、ダイ、さんしょううほ、
  或は鮷につくる」
 
 と記す。
 
 大漢和辞典は、「玉篇」に
 
 「䱱魚、四足、其音如嬰兒、食之無癡疾。 
  顯示全文…」
 
 「睪沅注」に
  「䱱、即兒魚、字亦鮷、此作䱱、俗世」、
 
 「集韻」に「䱱一曰、魚黒色」、
 
 「山海経中山経」に
 
 「休水出焉、其中多䱱魚、狀如(執+皿)蜼而長距、
  足白而、食者無蠱疾、可以禦兵。」
 との参考を挙げているが、
 「集韻」が
 山椒魚を「黒色」というと言っている。
 䱱の由来は「䱱魚」であると前述した
 「爾雅」の「聲如小兒啼」に対応する。
 また「鯢」も「兒魚」でその「小兒」に対応する。
 この様に漢の時代紀元前後の頃、
 東方に
 「山椒魚の国」があることを
 史書は認めているのである。
 大国主神の祖像を「大黒主」とし、
 大山椒魚であるとの見解が
 独りよがりでないことを
 これで確認してもらえるだろう。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十五章 大黒柱と大己貴命:諏訪大社の「御頭」・大黒柱② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十五章 大黒柱と大己貴命:
諏訪大社の「御頭」・大黒柱 
 
  大漢和辞典は、
 大黒天(大黒神)について
 
 ① 三宝(仏法僧)を愛し、
   五衆を護り、飲食を充饒するという神、
   始めは仏法を護り戦闘神也、
   後には主福の神となり、
   厨房に安置す。大黒天」
 
 として mahā-kāla の移入を述べ、
 
 ② 七福神の一、
   我国では神仏習合の結果、
   大国主と紹介するのは
   大黒の音が大国主神の大国に通じた
   大国主神の別名大己貴命の字大己貴
   ダイコキが大黒に近いので誤用したもの
 
 と解釈している。
 
 これら一般に認められている通説は
 「大国」が「大黒」になったというものである。
 
 本書は古代の太初において
 「大黒」が「大国」になったと
 説明しているのである。
 
 そして
 「大黒柱」は
 「大国主神の柱」であるといいたいのである。
 
 大国主神が
 多芸志の小浜に鎮座するために建てた
 天の御倉の宮柱こそ
 「大国柱」の始まりである。
 
 そして、
 大国主神は
 日本の歴史上最も早く、
 広く大衆から支持され信奉された
 「神格」を備えた神名なのであり、
 最初に家で
 国体、国家の中心となり支えとなった
 神なのである。
 
 次にその理由を明らかにする。
 
 第12章の「大国主神」などで、
 同神が「大黒」であり、
 「睪」であると述べ、
 出雲国風土記に載る。
 
 現在の
 八束郡東出雲町出雲郷の
 阿太加夜神社の祭神阿太加夜多久比売命、
 斐川郡多伎町多伎の多伎神社、
 口田儀の多伎芸神社の祭神も
 「多久神」の比売神であり、
 「多久神」は
 大国主神のことであると説明した。
 
 これまで、
 大物主神は devasa の音写で
 インドラ神であり、
 その神がもつ竜神、剣持神、牡牛の神などと
 その形容される多くの神像を
 提供してきたが、
 大国主神については
 一切それらしい肖像を提起してこなかった。
 
 ここで初めて開示することとなる。
 
 大国主神である
 「大黒主神」の祖像は「大山椒魚」である。
 
 「多久」と訓む
 「繹魚」は「爾雅」によると「鯢(げい)魚」で
 「山椒魚」を意味する。
 
 その注に
 
 「今鯢魚似鮎、四脚、前似[猿(袁→彌)]
  猴、後似狗、聲如小兒啼、大者長八九尺。」
 
 とある。
 
 サンショウウオには二種類ある。
 
 体長大きくても
 15~20センチメートルのものと
 大山椒魚である。
 
 「繹魚」の「大者謂之鰕」、「鰕、繹魚」とする。
 
 「繹」の訓名について
 
 大漢和辞典は
 「セキ、シャク、エキ、ヤ「とく」とも
 「睪声」と記す。
 
 「睪」は「エキ、ヤク、デフ、ネフ」と共に
 「タク、ヂャク(正誤)」と記しており、
 これまで「睪」字を用いてきた理由は
 ここにある。
 
 つまり
 「睪」は山椒魚であり、
 その大なるものを「鰕」というが、
 それが「大山椒魚」である。
 
 小型の山椒魚魚の種類は
 棲息地域によって分散している。
 
 本州に特徴的な種類は
 「黒サンショウウオ」である。
 
 全体的にその背の色は暗褐色(黒)である。
 
 また、
 古来「黒焼」ともいわれ、
 
 干物にされるか焼かれて
 精力剤あるいは
 子供の病の薬として用いられた。
 
 イモリとその形がよく似ており
 「イモリの黒焼」といわれたものには
 山椒魚が含まれているに違いない。
 
 「黒」とは山椒魚であり、
 「大黒」とは「大山椒魚」である。
 
 大山椒魚は
 前記の「爾雅」の説明にあるように
 体長が8、9尺という。
 
 これは中国の尺度であるが、
 日本で確認されているものでは、
 大きなもので
 160~180センチメートルに成長する。
 
 彼等は清水がある峡谷にしか棲息しない。
 
 そして驚くべきことに、
 その寿命は
 80年~100年を超す場合もあるという。
 
 古代における
 人の一生は50年程度だったと
 推測されている。
 
 その時代に
 100年を生きる動物は
 それだけで「神」として
 尊崇される意義が十分あったはずである。
 
 縄文時代から日本の国土の人々は
 大山椒魚あるいは小さいものにしても
 その他の山椒魚を
 信仰の対象として
 大事にしていたと思われる。
 
 その証拠が曲玉(勾玉)である。
 
 山椒魚は両棲類の生き物で
 清い水のある滝つぼなどの石の下で
 水中の穴に左右対になった卵嚢を生むが、
 その形がバナナの房のように曲がっていて
 勾玉と同型である。
 
 長さは種類によって違うが、
 2~15センチメートル程度である。
 
 卵嚢には
 150~300の卵が包まれている。
 
 まさに「曲がった卵(玉子)」である。
 
 勾玉は
 縄文時代の後期晩期の遺跡から
 出土しているので、
 
 その信仰がその頃から
 認識され始めたと考えられる。
 
 大神神社の禁足地である
 大宮谷や山ノ神祭祀遺跡初め
 三輪山周辺で
 出土した子持勾玉も
 山椒魚の卵嚢を祖型としたもので、
 
 墳墓に納められたものは
 再生への願いを込めたものと推測される。
 
 再生後の長寿を祈ったであろう。
 
 子持勾玉が
 特に大神神社に特徴的なのは
 大国主神が「大黒」であり、
 大山椒魚を祖像としているからである。
 
 特に大神神社の禁足地から
 集中して出土しており
 大宮谷も
 大黒谷であっただろうと推考したのは
 この状況判断にもよる。
 
 これを
 「ダイコク谷」と現在呼んでいる。
 
 次に述べるように
 山椒魚は「ハザ」とも呼ばれており
 三輪山をその南東巻くように流れる
 初瀬川は
 この「ハザ」を祖語としており、
 同山周囲は
 その信仰を表わす地名が散在する。
 
 大黒主神である大国主神は
 縄文時代の後期から
 日本国土で神格化され尊崇された。
 
 現在大国主神は、
 日本の最初に建てられた宮柱で
 「大黒柱」であったのである。
 
 (山椒魚、
  特に大山椒魚は
  現在その棲息地が狭められている。
 
  日本の自然環境の保護のため、
  単なる天然記念物としてばかりでなく、
  「国獣」として、
  自然の中で生きられるように
  自然環境を変えていくべきで、
  日本の環境のシンボルとすべき
  対象である。)
 
 ※子持勾玉
 
 ※山椒魚の卵嚢
 
M.K記
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第十五章 大黒柱と大己貴命:諏訪大社の「御頭」・大黒柱①  [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

第十五章 大黒柱と大己貴命:
諏訪大社の「御頭」・大黒柱 
 
  前章で「柱を建てる」のが
 建御名方神の字義であり、
 
 大国主神の国譲りに登場する
 水戸神の本義であることを紹介したが、
 
 その大国主神国譲りを了承した際に
 述べた言葉に次の様にある。
 
  前節で転載した節句のすぐ前で
  此の葦原中国は、命の隋に既に獻らむ。
 
  唯僕が住所をば、
  天っ神の御子の天津日継知らしめす
  登陀流天の御巣如して、
  底津石根に宮柱布斗斯理、
  高天の原に氷木多迦斯理て治め賜はば、
  僕は百足らず八十垧手に隠りて侍ひなむ。
 
 この部分について、
 日本古典文学全集は
 次の様に現代語訳している。
 
  この葦原中国は
  天っ神の御世のままに
  すっかり差しあげましょう。
 
  ただ私の住まいをば
  天っ神の御子神聖な皇位におつきになる
  光り輝く壮大な御殿のように、
  地底の岩盤に宮柱を太く立て、
  高天原に千木を高くそびえさせて
  お造り下さるならば、
  私は(百足む)多くの道の曲がり角を
  経て行く遠い所に隠れておりましょう。
 
  このように述べたのは、
  大黒主神が根の国の須佐之男命を訪ねた時
 
  「その我が女須世理毘売を嫡妻と為て、
   宇迦能山の山本に、
   底津石根に宮柱布刀斯理、
   高天の原に氷橡多迦斯理て居れ」
 
 といわれていたからである。
 
 水戸神が建てただろう
 「天の御舎」は
 
 「底津石根に宮柱布年(刀)斯理、
  高天原に氷木多迦斯理て」
 
 建てられた。
 
 まず最初に宮柱が太く立てられたのである。
 
 「柱」は
 伊邪那岐命と伊邪那美命の
 神婚に当っても
 
 「其の島に天降り坐して、
  天の御柱を見立て、
  八尋殿を見立てたまひき。」
 
 とあるように
 諾册二神においても重要である。
 
 また
 水戸神の孫
 櫛八玉神が大国主神の膳夫となりて
 奉祀するに際し
 
 「鎌海布の柄を鎌りて、燧臼に作り、
  海蒪(こも)の柄を以ちて燧杵に作りて、
  火を鎌り出て」
 
 とあるように
 
 その本来の像は
 燧杵である鐟木にあると考えられる。
 
 諾册二神の
 「天の御柱」はまた
 「天之御中主神」と称揚されていると考える。
 
 同神は
 『古事記』の天神の第一で
 高天原の主宰神とみられている。
 
 それは八尋、
 つまり広大な殿(屋敷)の宮柱である。
 
 この「柱」は、杵築大社では
 「心御柱(しんのみはしら)」であり、
 「宇豆柱」もその宮柱に入るだろう。
 
 前掲「出雲大社」において
 千家尊統は
 
 「大社造の本源たる 
  出雲大社の心の御柱は
  その巨大性が注目されるのであり、
  要たる「ダイコク様」の俗称も
  生ずる由縁である。」
 
 と述べている。
 
 「ダイコク様」について考えてみる。
 
 大辞泉は「大黒柱」として
 
 ① 民家の土間と床との境の中央に立てる
   特に太い柱、
   また建物の中央に最初に建てる柱、
   亭主柱、
 
 ② 家や国の中心となって
   それを支える人
 
 とする。
 
 広辞苑は
 
 「大黒柱、大極柱」として
 
 ① 家の中央にあって最初に建てる柱、
   建物柱、
 
 ② 民家の土間と床上部との境にある
   特に太い柱、亭主柱、
 
 ③ 転じて家や団体の中心となり
   支えとなっている人
 
 とする。
 
 いずれにしても
 
 第一に家の中央に最初に立てられる太い柱で、
 
 第二に家や団体を中心となって
 支える人の二つの意味がある。
 
 「柱を建てる職匠」神、建御名方神の
 māna に「建物、住宅、祭壇」の意味がある。
 
 祭壇を主殿とする神社である
 杵築大社の心の御柱は俗称ではなく、
 まさに「大黒柱」である。
 
 その主神が大国主神である。
 
 本書は第12章「大黒主神」において
 「大国」は「大黒」であることを主張した。
 
 大神神社の磐座神社、
 拝殿のある所の名称が「大黒谷」であり、
 
 それに連なる禁足地の
 大宮谷も大黒谷であった
 可能性があると述べた。
 
 また「黒」に関係して
 現在の大阪湾である墨江の「茅淳海」、
 
 そして
 「大国主を奉祭する氏族」で
 
 ④都農神社
 
 その祭神が大己貴命、
 「都農」が「チヌ」で「黒」であること、
 「日向風土記」逸文で
 「黒頭」がみえることを紹介した。
 
 大国主神が杵築大社の祭神でるからには
 「心の御柱」が「大黒柱」であって
 何の不思議もなく、
 その名称の発祥が
 ここにあると考えてもよいのである。
 
 千家尊統は
 
 「祭神は大国主神であるが、
  大国を『ダイコク』とも読むところから、
  仏教のダイコク天に 
  中世から習合されて考えられ、
  頭巾をいただき、
  右手に小槌、
  左手に嚢を背負い、
  米俵の上に乗る福神の姿を、
  人に這うのである。」
 
 と述べている。
 
 確かにそれは
 古代末から中世にかけての
 史実であったかもしれない。
 
M.K記
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第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱(4)水戸神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱
(4)水戸神》
 
   大国主神が国譲りした後について
  『古事記』は次の様に記す。
 
 日本古典文学大系から転載する。
 
  出雲国の多芸志の小浜に、
  天の御舍を造りて、
    水戸神の孫、櫛八玉神、膳夫と為りて、
    天の御饗を獻りし時に、祷き白して、
 櫛八玉神、鵜に化りて、海の底に入り、
    底の波邇を咋ひ出でて、
  天の八十毘良迦を作りて、
  海布の柄を鎌りて、
    燧臼に作り、
  海蓴の柄を以ちて燧杵に作りて、
    火を鑽り出でて云ひしく(略)
 
 「多芸志の小浜」について
  現在の出雲市武志町に
 比定する意見がある。
 
 吉田東伍「大日本地名辞書」は
 
  「武志に膳夫明神存し、
  杵築にも水戸社あり、
   その水戸神の裔を財氏と称し、
  世々別火の家なり」
 
  と記す。
 
 太田亮「姓氏家系大辞典」は
 財氏について
 
   「水戸神裔、出雲大社の社家にして、
    応安3(1370)年8月28日の連署に
     『別火、財貞吉』見ゆ。
   水戸神の孫、櫛八玉神の後裔と伝えらる。
    杵築に水戸社存す。」と
 
 記している。
 
 杵築大社の「水戸社」は
  現在「湊社」と表記されている。
 
 境外摂社である同社について
 第82代出雲国造千家尊統は
  「出雲大社」の中で
 
   「祭神、櫛八玉神で
     大社社家上官の別火氏の祖先神」
 
  といい、
 その神事である身逃神事(神幸祭)に関して
 
 「この身逃げ神事を奉仕するのが
   本来別火氏であった」と述べている。
 
 財氏はまさに
  吉田大洋「謎の出雲帝国」で紹介された
 「富上宮出雲臣財富雄」氏
 と関係する一族であろう。
 
 「財」は勾玉をいうものであることは
  紹介済みである(第12章)。
 
 この『古事記』が述べるところは、
 出雲大社を国譲りの直後は
  富氏(登美族)の一族である
 財氏と同族の別火家が
 その奉祭に当っていたが、
 後に天穂日命の一族
  出雲国造家が大和の神武天皇の王朝から
 奉祭を担うよう託されたという
 史実であろう。
 
 別火家名は「火を分ける家」の意味で、
 八雲村の熊野神社で
  火護の神事に奉仕していた
 一族とも考えられる。
 
 つまり熊野神社は富氏族の奉祭する神社で、
 その祭神櫛御毛野神を
  富氏が祖神としていたとみられ、
 出雲井神社や富神社で祀る
 久那斗神(穴掘神)と
 既述した理由はそこにある。
 
 これらの状況を背景に持つ
 「水戸神」もまた
 富族(登美族)に係る神名である。
 
 同神名は『古事記』の
 伊邪那岐命と伊邪那美命の
 国生みの段に続く
 神誕みの段に
 その両神の御子神として
 
 「水戸神、名は速秋津日子神、
  次に妹速秋津比売神を生みき。」
 
 とある。
 
 続けて『古事記』は
  この二柱の秋津神から
 沫那芸(あわなぎ)神など
  八神を生んだことを記すが、
 その神名は「河海に因る」名称である。
 
 水戸神は単に「湊」の神であろうか。
 
 その秘密は「秋津」にあるが、
 これもシュメル、
  いやそれより古く
 人類の灌漑を始めたころに遡って
  解釈しなければならない。
 
 メソポタミアの
 サマッラ遺跡の新石器時代の遺構で
 
 人類の初めての灌漑施設が見つかっている。
 
 チグリス川の水を制することは
 小麦などの生産を増大させる
 重要な技術であった。
 
 その様子は
 第2章メソポタミアと牡牛で述べた。
 
 灌漑技術は建設技術であった。
 
 その点で
 「水戸神」が建設神である始まりである。
 
 そして「ノアの方(箱)舟」の様に
 
 建築は常に水と向き合ったものであった。
 
 この「箱」を意味する用語が、
  ギリシャ語で αρχι、
  ラテン語で arca、arceu 、
  ドイツ語で arche 、
  英語で ark であり、
 
 この箱を作る者(建築師)が
  αρχιτεκτων(ギリシャ語)、
  architeta(ラテン語)、
  Architekt(ドイツ語)、
  archtekt(英語)である。
 
 これらが「秋津」の祖語であり、
 その本来の字義が「建築師」であるから
 「建物を建てる職匠」である
  建御名方神と同義と考えられる。
 
 つまり「水戸:ミナト」とは 
  minati の音写であることとなる。
 
 水戸神を
 建御名方神の別称とすることもできる。
 
 多芸志の小浜に
  「天の御舎」を建てたのも
 この水戸神であろう。
 
 Māna の字義の中には
  「建物、住宅」と共に「祭壇」の意味がある。
 
  この水戸神が祀られているのが
  長野県の水内郡にある。
 
 「水内」は『和名類聚抄』の流布本に
  「美之知」の訓を付して、
 『延喜式神名帳』にも「ミノチ」訓じており、 
 minoti の音写である。
 
 というのも
 前出の神名帳に載る
 伊豆毛神社の神名に
 数説あることを紹介し、
 その中で出雲建子命が
 その本来の祭神の可能性が高いと
 述べておいたが、
 「水内」名の解釈から判断したものである。
 
 「建子」は「建家」ないし「建戸」で
 「建子屋」は大工を意味し、
 出雲建子命とは
 建御名方神の別称、水戸神でもある。
 
 『日本書紀』持統天皇5年8月23日条
 
   「辛酉、遣㈡使者㈠祭竜田風神、
   信濃須波水内等神㈠」
 
 とある
 
  「水内等神」は「ミナト神」で
  諏訪大社の建御名方神のことであり、
 「水内などの神」の解釈は当たらない。
 
 『延喜式神名帳』の水内郡の南方の
  更級郡記載の「當信神社」があるが、
 訓を付していない。
 
 国史大系は「多岐志奈」を参考としている。
 
 同社は
 現在上水内郡信濃新町信級に鎮座し、
 大年神と建御名方神を祭神としている。
 
 その近くを流れる川も
  「たぎしな川」と呼ばれているが、
 同名は「多芸志」を移入したものと考えられ、
 出雲からの遷宮とみられる。
 
 諏訪大社の神系洩矢神の系譜にも
 不思議なことに
 建設業者の信仰が寄せられている。
 洩矢神の御子神は守田神というが、
  守宅神とも表記され、
 
 水内郡には
 『延喜式神名帳』にも記載された
 守田神社(長野市長沼)が鎮座する。
 
 またその御子神である
 千鹿頭神の系譜に連なる
  千勝神社のうち
 茨城県下妻市堀篭の千勝神社(祭神猿田彦命)は
 昭和の時代ではあるが
 東京深川の建設業者の信仰を受け、
 同社系は現在も
 関東の建設業者から尊崇されている。
 
  建御名方神の祖像は
  縄文時代に始まる柱建て信仰を継承した
 「木霊」に対する信仰でもあろう。
 
 「動かざるもの」は木の最も特徴的な性格である。
 
 鳥取県気高郡気高町の、
  出雲国引き神話と同じ名を持つ
  八束水(やつかみ)地区に鎮座する
  姫路神社の境内摂社には
 
 「水戸神、樹木大明神」が坐る。
 
 石川県加賀市三木町の
 御木神社(現祭神大御食津神)、
 
 富山県婦負郡婦中町田屋の
 杉原神社(祭神木祖神)は
 
 その木霊に対する信仰の社であろう。
 
 速秋津比古命を祀る神社が
 石川県鹿島郡鳥屋町瀬戸の
 瀬戸比古神社である。
 
 同社も『延喜式神名帳』能登国羽咋郡に
 記載されている。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱(3)御名方神と「柱」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱
(3)御名方神と「柱」》
 
   御名方神は『古事記』などの伝承によると
 八千矛神と高志国の沼河比売命、
  出雲国風土記によると
 
 「天下造らしし大神が高志国に坐す
   奴奈宜波比売命にみ娶ひして産みましし神、
   御穂須須美命」
 
 であるといい、
 
 同神の背景に
  日本海側の文化が
 投影されていると判断される。
 
 そこで考えておくべきは
 「柱を建てる」である。
 
 北陸地方の
 縄文時代後期・晩期の遺跡から
 相次いで発見された巨大柱の痕跡である。
 
 諏訪神社の
 「御柱」は山より巨木を曳行して
 各神社境内に柱を建てる祭事である。
 
 その実態は未だ説明されていないにしても
  縄文時代の
 「柱建て」は
 祭祀に係るものと考えられており、
 双方には関係がありそうである。
 
 巨大柱に係る遺物、遺構の発見された
  遺跡を挙げておく。
 
 〇 新潟県寺地遺跡(西頸城郡青海町寺地)
 
  縄文中期から晩期の集落、湿田地帯から
   縄文晩期を主体とした
  特殊な配石遺構、積石墓、
  木柱郡が見つかった。
  木柱の直径が80センチメートル程度の
  根元が
    数10本出てきた。
 
 〇 富山県桜町遺跡(小矢部市桜町)
 
  縄文時代から近世までの複合集落、
    縄文時代前期から晩期では
  丸太を杭で留めた橋状遺構等と共に
    巨大な木柱根が出土した。
  長さ3メートル、
  直径22センチメートルで
    貫穴がつけられている。
 
 〇石川県
 
 ① 新保本町チカモリ遺跡
   (金沢市新保3、5丁目)
   縄文時代後期・晩期を中心とした
     集落、方形プランの建物跡多数とともに
     巨大な栗材の半戴柱が見つかった。
 
 ② 米泉遺跡(金沢市米泉2丁目)
 
  縄文時代後期・晩期の集落、柱根及び
    環状木柱列が検出された。
  
 ③ 真脇遺跡(鳳至郡能都町真脇)
 
  縄文時代前期初頭から晩期末の遺跡、
    彫刻木柱(前期から中期前葉)
  栗材の巨大な半戴柱を環状に配した遺構
     (環状木柱列)
  このうち寺地遺跡の木柱には曳行により
    磨り減った痕跡が
  木柱面に見られたものがあり、
   諏訪の御柱と同様のことが
  行われていたことを示している。
 
 巨大木柱の曳行、
 御建は北陸3県だけだろうか。
 
 そうではない。
 
 青森県の三内丸山遺跡でも
 その遺構は出土した。
 
 また
 諏訪大社の鎮座する
 茅野市の阿久遺跡からも
 環状配石址と共に
 方形柱列址が見つかっている。
 
 これらは考古学的発掘によって
  明らかになった史料である。
 
 史書にそのような
  縄文時代の文化を継承した
 記録があるのである。
 
 出雲国風土記のいわゆる
  「国引き」神話がそれである。
 「国」と表記された「クニ」は
 本来サンスクリット語の
 guṇa がその祖語であり、
 それが「国」と解釈され
 風土記に記述されるような
 物語となったのである。
 
 Guṇa は
 「紐を構成する條、紐、糸」で
 「綱」を意味する。
 
 綱は巨大柱を曳行するための
 貴重な用具である。
 
 「国引き」は「綱引き」である。
 
 神話の主人公
 「八束水臣津野命」の名前は
  「御柱引き」の意味を含む。
 
 「八束(やつか)」は 
  gaṣtika の音写で
 「杖」が本義ながら「柱」を意味する。
 
 「水臣」は
 松江市大草町安部谷の
  アベ ambha となっているが、
 この神名においては
 「ミナ(水)」で māna 建物の派生で
  「建てる」を意味する。
 
 「津野」は単純に「綱」を
  異字体を用いて表記したもので、
 その神名は「柱建ての綱」である。
 
 風土記では三つの国を引いて来るが、
 そのうちの一つ狭田国の一部を
  日本古典文学大系から転載する。
 
  三身の綱のうち掛けて霜
  三身の綱をうちかけて、
  霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、
  河船のもそろもそろに、
  国来国来(くにこくにこ)と
  引き縫える国は、
  多久の折絶えり、狭田の国、是なり。
 
 狭田の国は現在の八束郡鹿島町の
  佐陀本郷、佐陀宮内の
 地名にあるように
 『和名類聚抄』にいう
 佐陀郷に当たるが、
 「サダ」は東出雲町の須田と同じく
 
  サンスクリット語の
 stuṅa あるいは 
 stambha (杖)を
 祖語とするものとも考えられ、
 出雲の古代においても
  「柱信仰」があったと考えられる。
 
 ここにみられる「三身」は「ミミ」で、
 「三身の綱」は「柱建ての綱」となる。
 
 また「来縫」に対し「きぬ」と
 訓を付しているのも関係ありそうである。
 
 国引きを終わった
 八束水臣津野命は
 
 「意宇の社に御杖衝き立てて
 『おゑ』と詔りたまひき」
 
 とあるが、
 
 最後の神事として
 「杖を衝く」つまり
  「柱を建て」たのである。
 
 「おゑ」は「オーレ」と同じで
 シュメル語 ār' を祖語とする
 「神を賛美する」との詞である。
 
 鹿島町には御津があるが、
 これは平田市に三御町があり、
 そこに美野瀬があるように
 「ミナツ、ミーツ」で、
 miti(Mā),minoti(Mī)、
 その西隣りの美保町に鎮座する
 田田神社、
 松江市岡本町の多太神と同じく
  daṇda (杖)に依拠するものと考える。
 
 島根県の西部石見国に美濃郡がある。
 
 現在の美濃郡は
 和名類聚抄美濃郡に載る
 
 大農、美濃、小野の
 三郷が合併して成立した
  三野の意味であるという。
 
 しかし、
 奈良時代から「美濃」は見られる古名である。
 
 益田市には現在も美濃地があり、 
  minoti を祖語とするもので、
 「柱を建てる、建設する」を意味する。
 
 これらの史料が
  全て御名方神と係っているとは
 言い難いが、
 出雲、石見に
 「柱(杖)を建てる」信仰が
  あったことは確かと考える。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱(2)御名方神と三方 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱
(2)御名方神と三方
 
   「ミナ」 が māna であり、
 その動詞形が MīMā であると説明したが、
 「ミナカタ」はまた「ミカタ」で、
 その漢字化された名称が「三方」である。
 
 『和名類聚抄』には下記5ヶ所の
  「三方郡」が記載されている。
 
 〇 但馬国養父郡三方郷 
   訓「三加太」(兵庫県養父郡大屋町三方)
 
 〇 但馬国城崎郡三方郷 
   訓「三加太」(兵庫県城崎郡氷上町三方)
 
 〇 播磨国宍粟郡三方郷
   「播磨国風土記」御方里
   「延喜式神名帳」御形神社
   (祭神葦原志許男命、伊和大神)
     (兵庫県宍粟郡一宮町三方)
 
 〇 丹羽国天田郡三方郷
   (兵庫県綾部市味方)
 
 〇 若狭国三方郡三方郷、
   「延喜式神名帳」御方神社(祭神郡神)
   (福井県三方郡三方町三方)
 
 このうち
 若狭国の三方郷について述べてみる。
 
 三方郡は若狭国に属し、
 三方町の西隣りの
 小浜市の若狭彦神社(龍前)、
 若狭姫神社(遠敷)にも関係するが、
 「ワカサ」は
 サンスクリット語の
  vṛkṣa (木)及び 
  vāksa (木からなる、木製)の音写である。
 
 また、
 両地区の西に隣接する多田も
 サンスクリット語の
 danda の転訛で「柱、杖」を意味する。
 
 また三方町の東隣り
 美浜町宮代に鎮座する
 弥美神社及び
 その西方を若狭湾へと流れる
 耳川の「ミミ」は 
 Mā,mimite の音写で
 「建物」 「建てる」をいったものと
 考えられる。
 
 御方神社の祭神「郡神」は石凝姥命の「凝」、
 斐川町神代神社の奉祭氏族
 石郡家をの「郡」と同じく「工匠」を意味し、
 ここではやはり「棟梁」であろう。
 
M.K記
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第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱(1)御名方神の語義 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:御名方神と御柱
(1)御名方神の語義》
 
  延喜式神名帳は「信濃国諏方郡」に載る
 「南方刀美神社二座名神大」の訓を
 「ミナカタトミ」
 「ミナトミ」
 「ナムハウトミ」と三例に訓じ、
 
 その呼称について
 明確でない様子をみせている。
 
 にもかかわらず「水内郡」には前出の
 
 「建御名方富命彦神」を載せている。
 
 その状況は
 祭神の複雑さによるものといえる。
 
 「二座」については
  上社下社を意味すると理解されているが、
 
 シュメル語の
 ミナ min に由来するところであろう。
 
 諏訪大社の現祭神は
  上社が建御名方神と八坂刀売神、
 下社が両神とともに事代主神を配祀している。
 
 水内郡の神社の場合
  「健」とその尊称を記しているが、
 現在の諏訪大社の用いる祭神名や
 『古事記』には「健」とある。
 
 「タケ」とするか「タテ」とするかは
 祭神理解の大事な要点となる。
 
 「建」を「タケ」と読む仕方を伝統とするが、
 
 しかし
 これは「タテ」であり、
 当考察では「タテ」とする。
 
 これまでの論究で「御名方」の語義について
 幾分触れてきたが、
 ここで
 その神格の本質を明らかにしてみたい。
 
 建御名方神の名称に込めれた意義は
 
  「建物を建てる職匠」、
 
 つまり
 「棟梁」あるいは「大工の親方」である。
 
 以下の考察でそれを明らかにする。
 
 御名方神名の分析について
 「ミーナカタ」とした考察もあるが、
 
 延喜式神名帳が
 「南方刀美」としていることからすれば
 「ミナーカタートミ」
 としなければならないだろう。
 
 「ミナ」はサンスクリット語の
 「建物、住居、祭壇」を意味する 
 māna の音写である。
 
 その動詞形は
  MI で 
 minoti, minati と変化して用いられ、
 
 「建設する、建立する、量る、固定させる」
 などの語義であるが、
 特に「柱を建てる」語義に留意される。
 
 また「量る」を主旨とする同類語に
   Mā,mati,mimite があり、
 「測定する」
  「形成する、構成する、製造する、建築する」
 の語義である。 
 
 第13章の「倭人伝の国々」 で
 
  投馬国の長官「ミミ」に関し
 紹介した用語である。
 
 この二つの動詞は
 シュメル語の
  mar (作る)に由来すると考えられる。
 
 そして、
 この用語はヨーロッパの言語に
  次の様に反映されている。
 
 ギリシャ語 μενω 止まる、踏み止まる
    (特に戦いで)、
   持ち堪える、留まる、続く、
   ある状態のままである。
 
 ラテン語
    manutenere 留まる、保つ、継続する、
          待つ、期待する
  mānqio-ónis 滞留、住宅
 
 フランス語
    maintenir 支える、同じ位置を保つ、
       留まる、
       同じ状態を保つ、持続させる、
 
    mansion 住宅
            (現代の日本で"マンション"
       として移入された)
 
 スペイン語 
   mantener 支える、養う、扶養する、
      (ある状態に)しておく、維持する。
 
  Mantenimiento 扶養、支持、護持、継続
 
 英語
    maintain 維持する、続行する、保有
            (保持、持続)する、保つ、
     補修する、
    (ある特定の状態、位置などに)
     保つ・維持する、養う、扶養する、
     意見(提案、陳述)を支持する、言い張る。
 
  Maintenance 持続、続行、維持、支持、
        擁護、固執。
 
 これらの概念は
  『古事記』の挿話に取り入れられている。
 
 御名方神が御雷神との力比べの後、 州羽の海に至って
 
  「恐し、我をな殺したまひそ、
    此の地を除いて他處に行かじ。」
 
 と述べたことに係わる。
 
 つまり
 「ミナ」に「留まる」の意味がある故の
  作られた話である。
 
 「他處に行かじ」とは
 「建物」である限りにおいては
 動くわけにいかないし、
 「柱」は木霊の象徴で、
 「木」は動くことはできず、
 同じ所に何」百年と立ち続ける存在である。
 
 この様な内容を含む「ミナ」により
 『古事記』の物語は
 作られたと考える。
 
 次に「カタ/方」であるが、
 これはサンスクリット語の
  「仕事、動作、行為」を意味する
 kṛte,kṛtene 、その同類語で
 
 「行為者、働く者、創造者、祭官、作者」
 の意味
 
 kaṛtṛ に由来する用語である。
 
 「ミナ-カタ」は
 māna-kaṛtṛ の音写で
 「建設工、建築工」を意味する。
 
 因みに「大工」サンスクリット語の
  vaddhaki (大工の意味) の移入で、
 その祖語はシュメル語の
  mā-du (作る-船で船大工の意味) である。
 
 「大」の漢字が当てられたのは 
 va-,mah (大の意味) が
 同音となるためである。
 
 ここでまた確認のため紹介するが、
 narvada 川は 
 narmada 川である。
 
 「トミ」は、
 宇夜都弁命、石凝姥命・伊斯許理度売命の
 「都弁、姥、度売」と同じく
 「工匠」を意味する。
 
 その祖語はシュメル語の
 dum 乃至 dim で「大工」「工匠」を語義とする。
 
 依って
 「ミナ-カタ-トミ」は
 「建物-業-工匠」となる。
 
 そこに「建-」が付いていわれる場合は
 「建物を建てる職業の工匠」となり、
 「棟梁」を意味することとなる。
 
 諏訪大社初め各地の諏訪神社では
 7年に一度御柱祭を行っているが、
 「柱を建てる」祭事である。
 
 その柱建神事において
 柱の頭を三角錘に切るが、
 これを「冠落し」といい
 
 シュメル語の 「冠」を意味する 
 men に関係すること、
 諏訪大社の構成が
 上社下社など
  二座配置にあることも
 
 シュメル語の 
 min に関係していることは既に述べた。
 
M.K記
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第十四章 牛頭と鹿頭:宇屋谷と神代神社(3)神代と諏訪大社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:宇屋谷と神代神社
(3)神代と諏訪大社》
 
  斐川町宇屋谷の神代神社が「諏訪神社元宮」と
 地元ではいわれているが、
 実際そのような関係にあるといえるのだろうか。
 
 既に「風の祝」「鍛冶(鞴)」でその関係を提起した。
 
 結論は諏訪大社の歴史には
  「神代」と重大な関係にある。
 
 まず長野県内の神代の付く地名に触れておく。
 
 上水内郡豊野町に「上神代」という地名がある。
 
 これはかっての神代村の一部である。
 
 『和名類聚抄』においては
 「水内郡大田郷」内とみられるが、
 そこには『延喜式神名帳』の水内郡に同名で載る
 「伊豆毛神社」が鎮座する。
 
 同社は出雲宮、
 出雲大明神とも史料では表記されている。
 
 祝祭神は素盞鳴尊、大己貴命であるが、
 その祖神については、
 素盞鳴一神、
 伊勢津彦命、
 出雲建子命説があり不確定であるが、
 後述するように
 この中ではその地名「神代」から
 「出雲建子命」が最も可能性が高い。
 
 記述のように素盞鳴尊とするならば、
 それは「神代神」に置換えられなければならない。
 
 豊野町内には「石」の地名もあり、
 斐川町宇屋谷との繋がりを感じさせる。
 
 同町の南隣りは長野市だが、
 石の南方の同市内と
 千曲川を隔てた須坂市の向かいに
 小島の地名がある。
 
 そこからは少々離れるが、
 犀川と千曲川との狭間に篠ノ井があり、
 そこに『延喜式神名帳』更級郡に載る
 布制神社が鎮座する。
 
 その比定社は
 長野市篠ノ井布施五明の同名社であるが、
 同地には合わせて四社の同名社がある。
 
 同地はかっての布施郷で
 布勢氏がその祖神大彦命を祀ったとされる。
 
 この地域においても
 神代-布勢の関係を確認することができた。
 
 因みに「篠ノ井」は
 サンスクリット語を祖語とする。
 
 「篠」は sena で「軍艦」、
 「シノノイ」は sena-ni で
 「将軍」の意味がある。
 
 森将軍塚古墳初め、
 この地区に「将軍」名の付く古墳が
 数基あるのに対応される地名である。
 
 神代村、伊豆毛神社、布創神社は
 出雲の登美族の東漸をみるものである。
 
 『延喜式神名帳』水内郡には
 「建御名方富命彦神・別神社名神大」が
  記載されている。
 「富」は富(登美)氏族との縁りを推測させる。
 
 前掲の室町時代の小坂円窓が著した
 「諏訪大明神絵詞」に「神代」は登場する。
 
 春の御立坐神事に神使として
 六人の幼童がその役目に当たるが、
 「神代童體(体)」故ある事なり」と記している。
 
 つまり「神代」とは「神使」なのである。
 
 諏訪大社にとって「大祝」とは「童」なのである。
 
 「神代」はまた「御霊代」とすることができ、
 これは「神子(童)」である。
 
 上社大祝家は神家という。
 
 その系図を記した
 「神氏系図」(諏訪教育会所蔵)の
 原文(漢文)の序文は次のようにある。
 
  神代ノ事ハ幽邈ニシテ記シ難シ。
  伝ニ曰ク諏訪大明神ハ天照大神ノ御弟、
  建速須佐之男命ノ六世ノ孫、
  大名持命ノ第二子、
  御名方富命神是ナリ。
  尊神、父ノ大神ノ大造ノ功ヲ輔ケ、
  国土ヲ経営シ、
  終ニ天祖ノ命ヲ奉ジ、之ヲ皇孫ノ命ニ譲リ、
  永ク此国ニ鎮座ス。
  子伊豆早雄命十八世ノ孫、健国津見命ノ子、
  健隅照命、
  科野国造健甕富命ノ女ヲ妻ル。
  健甕富ノ子、諸日照命、幼クシテ父ヲ亡フ。
  是ニ茨木国造許々意命、磯城島朝天皇ノ御宇、  
  科野国造ヲ拝シテ許々意命、緩撫ノ道ヲ失フ。
  健隅照命之ヲ遂にニ竟ニ襲フ。
  国造九世ノ孫、五百足、常時尊神ニ警ス。
  一日夢ニ神有リテ告グ、
  汝ノ妻兄弟部既ニ姙ル、
  身分娩必ズヤ男子ヲ挙ゲン。
  最長シテ吾将ニ之ニ憑ク有ラント欲ス。
  汝宜シク鐘愛スベシ、夢覚メテ後、
  之ヲ妻兄弟部ニ語ルニ、
  兄弟部モ亦、夢ヲ同ジク恠ム。且ッ慎ム。
  後果シテ男子ヲ産ム。因リテ神子ト名ヅク。
  亦熊子ト云フ。
  神子ハ歳ノ時、尊神化現在、
  ヲ神子ニ脱着セテ、
  吾ニ体無シ、汝ヲ以テ体ト為スト神刺有リテ、
  御身ヲ隠ス。
  是即チ御衣着祝神氏有員ノ始祖ナリ。
  用命天皇ノ御宇二年、
  神子社壇ヲ湖南ノ山麓ニ構フ、
  其子神代、其子弟兄子(…略…)
 
 ここに登場する「神子(神童)」は、
 御名方神に係わる
 サンスクリット語からきた概念である。
 
 「ミナ」がその用語の基になっていて、
 「少年」で、
 その属性が
 「バラモンの少年/波羅門童子」である
 nāṇava を移入したものである。
 
 その同類語に kanāra (童子、児童)があり、
 インドの最南端にコモリン岬があるが、
 それは英語名で、
 ヒンディー語では kanniya-kunāri といい、
 インド古来からの童子信仰に依る。
 
 Kunāri は kunāra の女性形で「少女」を意味し、
 コモリン岬は女性の保護神の聖地である。
 
 「神子」を「熊子」というのはこの 
 kanāra に依るのである。
 ここに、「神」を「クマ」と訓む例がみられ
 「神代」が「クマシロ」と読まれるのである。
 
 阿曇族の祖神海津見命はまた
 「少童」とも表記されるように、
 その祖神は童子である。
 
 「アズミ」は
 シュメル語の es-mā (家-船)で
 海人族に相応しい。
 
 スバル族に
 シュベリ(息子)とアシュリ(娘)が
 あったと論じたのは
 第2章であった。
 
 このシュベリがインドに入り
 童子信仰となったと考えられるが、
 日本に至り「ワタツミ」、
 そして諏訪大社に至り
 「神子」となっているのである。
 
 シュメル語に min があるが、
 これも「ミナ」であり、
 その字義は「二(漢字)」で
 サンスクリット語の dva,dvi と同義で、
 
 諏訪大社も
  上社下社、
  前宮本宮、
  春宮秋宮の構成の
 元になっていると考えられるし、
 同じく men は「冠」の意味であるが、
 同様「ミナ」の概念で
 御柱祭の最後の段階御建神事
 に当り曳行されて
 また柱の頭を三角錐斧で切る「冠落し」と係わる。
 祝(ハフリ)は
 メソポタミアの
 ハブール地方発祥の神官の名称であることを
 紹介するのが本書の主題であったが、
 諏訪信仰
 にはシュメルの想念が生きているのである。
 
 「画詞」が「神使」の童体を
 「神代」といっていることからすれば
 「神子/熊子」は「神代」であり、
 
 神氏系図は
 第一代を「神子亦名熊子」、
 第二代を「神代」とするが、
 
 双方とも同義で、
 この氏族性が「神代」にあることは明らかである。
 
 第二代の名は科野国造に係わる
 「異本阿蘇氏系図」に載る
 
 「乙頴(一名神子、又云熊古)」に続く
 次代「隅志侶」に相応し、
 「クマシロ」と訓むことが示唆されている。
 
 諏訪大社の大祝家は
 「神氏」としてこの序文に登場するが、
 諏訪神族の中心として歴史を担ってきた。
 
 これを「ミワ」と読み
 大神神社の三輪氏と同族とする解釈も
 これまでみられるが、
 「ミワ」は
 大神神社特有な事情によるものであって、
 諏訪大社には適用できず正当ではない。
 
 「クマ(氏)」少なくとも
 「カミ(氏)」であるべきである。
 その本義が「牡牛」であり、
 大神神社の奉祭氏族と遠祖は同族であることは
 当考察で明らかにしたところであるが、
 やはり別系としなければならないだろう。
 
 「神氏」名について、
 その正否をを確認することは不可能ながら、
 「神代」であったとさえ推測される。
 「神氏」「神代」は
 誤って転記されやすい字体である。
 
 その実例がある。
 
 福岡県久留米市神代に当たる。
 
 『和名類聚抄』筑後国御井郡神代郷は
 隈代、神城とも表記され、
 
 『和名類聚抄』の高山寺本の「神代」と記し
 「久万之呂」と訓じているのに依拠しているが、
 伊勢本と東急本は「神氏」に作っているのである。
 
 この実例を考慮すると、
 諏訪神族の歴史的背景から「御衣着祝神氏」が
 「神代」でなかったことは断言できないだろう。
 
 だが、
 1000年を超える年月に亘って「神氏」として
 歴史を築いてきたのであり、
 それは尊重されなければならない。
 
 「御頭」である鹿頭は「神代」なのであり、
 鹿頭が牛頭の役目を果たしている事実は
  紛れもない。
 
 以上の考察で
 「風の祝」が宇夜都弁命、美穂須須美命に
 依拠していることを含めて
 諏訪大社が斐川町の神代神社と
 深い関係にあることが理解されるだろう。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十四章 牛頭と鹿頭:宇屋谷と神代神社(2)神代神社と角間 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:宇屋谷と神代神社
(2)神代神社と角間》
 
  宇夜都弁命を主祭神とするのが神代神社である。
 
 「神代」の追求は、
 古代の宗教的環境を知る上で
 貴重な内容を明らかにする。
 
 『日本書紀』の
 巻第一を「神代上」、
 巻第二を「神代下」、
 
 天地の創生から国生み、神々の誕生、
 葦原中国の平定から天孫族の系譜と
 神武天皇である
 神日本磐余彦尊の誕生までが語られる。
 
 そのことからは日本の創生の時代、
 神々の活躍する神話の時代を一般に神代と呼ぶが、
 この神社名「神代」は
  その時代を表わした名称でないことは
 自明のころである。
 
 では「神代」は何を表示したものだろうか。
 
 神代神社を地元では
  「カミシロ」あるいは「コウシロ」と呼ぶ。
 
 出雲国風土記には「神代社」が出雲郡に2社
 (一社は現神代神社に合祀されたという)
 飯石郡に一社記載されている
 (三刀屋町神代の神代神社)。
 
 また「神代」は肥前国風土記彼杵郡に、
 その挿話は除くが、神代直の個人名で載っている。
 
 『和名類聚抄』には地名として
 「神代郷」が以下のように載っている。
 
  備中国哲多郡神代郷 訓「加无之呂」
  備後国三上郡神代郷
  上総国海士郡神代郷
  淡路国三原郡神稲郷 訓「久万之呂」
  筑後国御井郡神代郷
  肥前国高木郡神代郷
  石見国邑知郡神稲郷 訓「久万之呂」
 
 
 「姓氏家系大辞典」は「神代」の訓を
 「カムシロ、コウシロ、クマシロ」
 としていることから、
 「神稲郷」も合わせ紹介した。
 
 これらを含め、現在日本国内には
 30を超える同名地が散在する。
 
 それらの呼称は
 「カミシロ、コウシロ」が多く、
 「クマシロ、カジロ」「ジンダイ」、「カクミ」もある。
 
 「神代」はまた「神の依代」が推測できる。
 
 主旨においてその概念を正しいと考えるが、
 この用語により成立したのではない。
 
 メソポタミアを起源とする
 祝の基盤にある想念を継承したものである。
 
 つまり、
 「神代」はその象徴「牛頭」を
 表現したものであるからである。
 
 「神」は
 サンスクリット語の牡牛を表わす 
 gava, go, gu の転写である。
 
 「カミ」は gava, 
 「コウ」は go, 
 「クマ」 gava で(kuma)
 
 となったものである。
 
 これらの牡牛を意味するサンスクリット語に
 漢字の「神」が当てられた」のは、
 シュメル語の段階にまで
 遡って考えなければならない。
 
 シュメル語の「牡牛」の用語 
 gu, gud があり、
 サンスクリット語の前記の祖語である。
 
 第4章カルト人の移動「ゲルマン」で
 その祖語がシュメル語の 
 gelam-am (階段-牡<野>牛)であり、
 ゲルマン族の「神」を表わす 
 Gütt(ドイツ語)、 
 god (英語) は、
 シュメル語の gud に由来するとの
 推測を述べたが、
 それと同様に「牡牛」を表わす
 サンスクリット語 gava が
 漢字の「神(しん)」を用いて表記され
 「カム/カミ」となっていてもおかしくはない。
 
 この事情を証明する事例を述べる。
 
 第12章において、
 奈良県桜井市の大神神社に関して
 「大神(おおみわ)」の「ミワ」に何故「神」字が
 当てられているかの説明は行わなかった。
 
 「ミワ」は「美如」で「雲」であり、
 三輪は積雲の意味であった。
 
 「神」字が「ミワ」の当て字であることは明白である。
 
 「神」は日本語において「カム・カミ」である。
 
 「カム・カミ」の実際が「牡牛」である
 gave ともいうインドラ神の「牡牛」に由来する。
 
 インドラ神が牡牛であることは
 リグ・ヴェーダのインドラ神讃歌で
 謡われているところである。
 
 大神とは「大-牡牛」なのである。
 
 「神」は祭神の象徴である
 「牡牛」によって表現された用語である。
 
 三輪はインドラ神の首飾りである花環と
 関係することも触れておきたい。
 
 大神山が「青垣」であると論じたが、
 その祖語 śṛṅga は「角」 であり、
 同山は「角山」で
 錐形の牛角山であるとすることもできる。
 
 次に「神代」とは何かであるが、
 これは「牛頭」を表わす。
 
 サンスクリット語の「牡牛」と「頭」の意味である
 śira との合成語 で 
 gava-śira, gava-śirasa (カムシロ),
 go-śira, go-śirasa (コウシロ) の音写である。
 
 よって神代神社は「牛頭神社」なのである。
 
 そしてこの「牛頭」である「神代」こそ
 本来の素盞鳴尊が占めている出雲の元祖神である。
 
 『古事記』に素盞鳴尊の神系が
 八島士奴美命をその御子として
 17世を語るが、
 その御名に「奴美(どみ)」があるように
 本来は富(登美)族の系譜であり、
 いうなれば「神代神」の系譜と考えるべきである。
 
 ここでも素盞鳴尊の立場を
 意図的に高くしている様子がみられる。
 
 宇屋谷の神代神社には
 大国主命が祀られていることから、
 同社は登美族に関係するものであろう。
 
 次にその名称による神社の流れを追うが、
 神代に付随して「布勢」名の地籍、神社が隣接する。
 
 「布施、布勢」に奈良県桜井市の阿部を本貫とする
 阿部族の一支族とされる。
 
 「フセ」の祖語が「供儀、供与」を意味する
 (阿部は hava を祖語とし、供儀を意味する)か、
 「ふさ/多」によるものか判断しがたいが、
 何れにしても多(生尾)に係わる
 登美族の本譜に属する。
 
 布施(布勢)神社は阿部氏の祖大彦命を
 祭神とする場合がほとんどである。
 
 神代神社は石川県羽咋郡志賀町神代にも
 鎮座する。
 
 延喜式神名帳「能登国羽咋郡」に
 同名で記載されている。
 その訓を神名帳は
 「カンシロ」としているが、
 地元では「カクミ」と呼び、
 地名、河川名も同様である。
 
 何故ここでは「カクミ」なのだろうか。
 
 神代神社は次第に東漸するが、
 まず鳥取市大桷をみる。
 
 大桷は大満村と桷間村が合併した地名で、
 桷間は古く桷城村ともいわれた。
 
 そこに桷間神社が鎮座するが、
 祭神を牛頭天王と称しているので、
 桷城は「神代」であっただろう。
 
 奈良時代から史料にみえる地名で
 古墳群遺跡がある。
 
 同地区をの北側には布勢地区があり、
 大桷遺跡は古墳時代前期の遺跡である。
 
 同じ鳥取県の倉吉生田は
 天文13年(1544)までは鹿首と呼ばれた。
 
 その近くには現在下神、北条町の上神があるが、
 『和名類聚抄』久米郡の神代郷と
 係わっているようである。
 
 この鹿首が志賀町矢駄の字名にあり、
 遺跡名で知られ「シシクビ」と呼ばれる。
 
 「志賀」は「鹿」と同音で、
 隣りの富来町には鹿頭(ししず)がある。
 
 鹿首、鹿頭は同義である。
 
 鹿島郡名は本来「鹿頭(かとう)」であっただろう。
 
 羽咋町の神代神社の呼称「カクミ」は
 この「鹿首(かくび)」の訛った表音である。
 
 矢駄は yadu によるもので
 登美(富)族の流れがここにみられる。
 
 これらの資料は「神代」ろ表記されているが、
 実態が「鹿首」であることを示し、
 「牛頭」が「鹿頭」へ転移した
 実情を明らかにしているのである。
 
 第1章祝祭で
 越の国が牛を殺すことが盛んで
  禁止の政令を出しても
 なかなか止まらなかった状況を説明した。
 
 確かに石川県河北郡に
 宇ノ気町(宇気で牡牛の意)があるように
 牛と強い結びつきがあったことが窺われる。
 
 牛殺祭が禁止されるに従ってその対象を
 牛から鹿へと転換していったと
 推測されるのである。
 
 志賀町内に牛ヶ首の地名があるなど
  その古代の遺称である。
 
 鹿首となった「神代」が
  富山県氷見市神代(コウジロ)の
 「加久弥神社」である。
 
 延喜式神名帳の「越中国射水郡」に
  同名で記載されている。
 
 その北側には布施地区があり
 布勢神社(同じく神名帳記載)が鎮座し、
 両地区の西方には矢田部がある。
 
 Yadava の音写とみられ、
 この辺りは登美族関係の地籍である。
 
 このように「神代」は「カクミ」となり、
 富山県に入ると「角間」と表記されるようになる。
 
 氷見市の北にある角間がその最初で
 加久麻神社が鎮座している。
 
 同県では婦負郡八尾町角間、
 新潟県では糸魚川市角間、
 三島郡中里村に角間神田がある。
 
 この鹿首(鹿頭)である角間は
 長野県、特に諏訪大社にとって重要である。
 
 諏訪市諏訪には角間川が流れるように
 かっては角間村と呼ばれた地域があった。
 
 諏訪大社の「御頭」が鹿頭、鹿首であることは
  既に述べた。
 
 その他小県郡真田町の角間、
 下高井郡山ノ内町の角間温泉、
 北佐久郡望月町、北御牧村を流れる
 鹿曲川も「カクマ」という。
 
 東北地方では秋田県にその地名がみられる。
 湯沢市角間、
 大曲市角間川、
 秋田郡若美町角間崎がそれだが、
 同県内にには鹿、角を付けた地名
 男鹿、鹿角、角館などと多く
 鹿頭に対する思念がそこにみられる。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十四章 牛頭と鹿頭:宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:宇屋谷と神代神社
(1)宇屋谷と宇夜都弁命
 
 つまり、須須美命は 
  śusuma,śusumin に由来し、
 「息吹き」である
 「風」を神名にしていることが理解でき、
 宇夜都弁命、美穂須須美命が
 同神であることが
  みえてくるのである。
 
 因みに美保神社の類社で摂社としている
 美保関町森山の横田神社のある地、
  字名森山には伊屋谷があり、
 これは宇屋谷の転訛で、
 あるいは太初の美保神社は
  この地域にあったとも推測される。
 
 美保関の美保神社は
  現在も青垣神事が行われているように
 事代主神を主神として
 最初から祀られた神社として
 よいのではないかと思う。
 
 その神格はともかく、
 伊屋谷の名称から
 そこに
 「三保神社」の祖社を
 求めた方がよいであろう。
 
 「横田」は「オウタ」で 
 vāta (風) の転写と
 みることもできるのである。
 
 「出雲神社巡拝記」は
 
 「森山村の三保大明神が
  風土記にいう三保社で、
  同社に合殿の横田尾明神は
   風土記にいう横田社、
  延喜式にいう横田神社」
 
  と述べている。
 
 ウヤ(宇屋)、イヤ(伊屋)は、
 先に述べた「敬、礼」の意味において
 共一である。
 
 この事実を基礎にして宇夜都弁命が
 建御名方神である傍証を述べる。
 
 長野県上伊那郡辰野町に鎮座する
 「矢彦神社」は
 第1章祝祭で
 三叉矛を「神代鉾」として
 護持する神社として紹介したが、
 その祭神は建御名方神で、
 同神が諏訪に入る前に一時
 ここに滞留したとの伝承を持つ。
 
 その社名を「矢彦」は「弥彦」で
 「イヤ彦」であった。
 
 「イヤ彦」は「伊屋彦」あるいは「宇屋彦」で
 宇夜都弁命をいう名称である。
 
 「イヤ彦」は「伊夜比古」と表記され、
 新潟県西蒲原郡弥彦村に鎮座する
  弥彦神社の正式名でもある。
 
 同社は延喜式神名帳越後国蒲原郡に
 「伊夜比古神社名神大」と載り、
 
  万葉集越中歌に
 
 「伊夜彦の神の布本(ふもと)に 
   今日らもか 鹿の伏すらむ
  皮の服(きぬ)着て 角つきながら」
 
 と歌われている古社である。
 
 祭神は現在天香語山命とされているが、
 
 「神道大辞典」が
 
 「祭神天香語山命となっているが、
  その勧請社では伊夜彦を称している」
 
 との指摘をしているように
 
 「伊夜比古」神の神格が不明であったか、
 あるいは意図的な方針によってか、
 現祭神が主祭神とされたものである。
 
 その時期などについては
  史料は明確であるがここでは触れない。
 
 この伊夜比古神も
 実は辰野町の矢彦神社同様
  建御名方神にある宇夜都弁命である。
 
 能登半島の七尾湾にある島、
 石川県鹿島郡能登島町向田(こうだ)に
 鎮座する伊夜比咩神社は
 例年7月31日に
 「オスズミ祭」と称して、
 高さ30メートルの
 柱松明に火を掛ける火祭を行うが、
 この柱松明は
 年一度越後からやって来る伊夜比古神に
 その比咩神の所在を知らせるものだとの
 伝承があり、
 伊夜比古神社に相対する神社である。
 
 祭神は神社名と同じくするが、
 現祭神を大屋津姫命としている。
 
 同社も『延喜式神名帳』能登国能登郡に
 同名で載る古社がある。
 
 また大伴家持に
 
 「鳥総(とぶさ)たて船木きるといふ
    能登の嶋山今日見れば
  木立繁しも幾代神(かむ)びぞ
    (万葉集巻十七 4026)」
 
 と歌われた。
 
 その「オスズミ祭」は
 「御須美祭」と考えられる。
 
 「須須」が「スズ」となった理由は、
  能登半島の先端珠洲市寺家に
 須須神社があり
  美保須須美命が祀られていることが影響し、
 「珠洲」となったからであろう。
 
 つまり「オスズミ祭」とは、
  美穂須須見命である建御名方神にして
 宇夜都弁命、あるいは
  その后神を祭る神事なのである。
 
 その柱は
 高さ13~15メートルの大木で
 周りに800束からなる
 シバをくくりつけ、
 柱の上に同じ高さの青竹を
  その先に御幣をつけて立てる。
 
 後に述べるが、
  「柱を建てる」は
 建御名方神の象徴なのであり、
 「伊夜比咩」は伊夜比古の后神
 とすることができる。
 
 そして伊夜比古神が
  建御名方神(美穂須須美神)であることを
 証明しているのである。
 
 珠洲市の須須神社は高座(たかくら)宮
 と呼ばれ、高座山に鎮座している。
 
 その勧請社が珠洲市蛸島の高倉彦神社、
 鳳至郡能都町真脇の高倉神社であるが、
 更に越後の伊夜比古神社(弥彦神社)にも
 その「高倉」は伝わったらしい。
 
 「コウクラ」と訓まれ、
 祭神を天香語山命とした
 原因となったとみられる。
 
 その経緯の中で
  「神倉」つまり
 「高倉下命」が介在したのである。
 
 けだし、
  伊夜比古神社の原初的祭神は
 建御名方神である
 宇夜都弁命である。
 
 『延喜式神名帳』能登郡に載る
 「鳥屋比古神社」は
 現在の鹿島郡の同社名から採られた町名
 鳥屋町春木に鎮座するが、
 同社は島根県斐川町鳥井の鳥屋神社を
 勧請したものと推測され、
 その西隣り瀬戸の
 「瀬戸比古神社」も後述の通りで、
 双方とも
 建御名方神を祭神とするものと考えられる。
 
 『古事記』において
  建御名方神が建御雷神に
 その手を取られとところ、
 その手は
 「若葦を取るが如」と形容しているが、
 この「若葦」とは
 出雲国風土記の美談郷に載る
 「和加布都怒志命」と係わる発想である。
 
 つまり
 「葦」とは「布都」と同義で「剣」を表わす。
 
 サンスクリット語の 
 asi がその祖語で、
 これまで神奈川県の足柄(第11章)、
 埼玉県行田市忍(同)の祖語、また
 足立郡の「アシ」(同)の祖語
 として述べてきた用語である。
 
 「若葦」は「剣神(八千矛神)の御子」である。
 
 島根県平田市西郷町に葦原神社が鎮座する。
 
 その字名に西谷といい、
 「西」「葦」が同類であることを示している。
 
 「葦原」は
 単なる植物の芦を表わす用語ではなく、
 「剣・刀」を製造している場所との
 解釈に辿りつく。
 
 このあたりに
 西代、西谷、金田、庵地、本庄など
 刀鍛冶に関係する用語を
 地名としている所が多い。
 
 葦原名は、
 『古事記』に大黒主神の別称
 「葦原色許男」としても登場する。
 
 この神名は、
 同神が根の国の須佐之男命を訪ねた時
  告った名前である。
 
 葦原は前記の通りで、
 「色許男」の「シコ」は
 サンスクリット語の 
 śikkā の転訛と考えられる。
 
 この用語は思金(思兼)神名 
 śikhin
 (再興の知識を得た、
  髪の房を持っている)の同類語で
 「髪の房」「髷」を表わす。
 
 同神は須佐之男命から困らされ、
 その娘須勢理毘売に助けられるが、
 あるとき大室に呼び入れられて
 須佐之男命の頭の虱を取らされた。
 
 つまり、
 髪の手入れをさせられたのであるが、
 
 「わたしは葦原の髪結い」
 
 と名乗ったためである。
 
 そこで色許男は虱を取りつつ、
 その髪を
 
 「その室の椽(たるき)毎に結い付けて、
  五百引の石を其の室の戸に取り塞へて、
  其の妻須勢理毘売を負ひて」
 
 逃げ出すことができた。
 
 この 
 śikkā は śikhin で示されるように
 知識、学識 cikitsa に通ずるが、
 この概念が斐川町神庭の東学頭となっている。
 
 これは「ガクトウ」と読まれるが、
  本来は「チカトウ」で
 第8章の「六派哲学と五明学」
 で紹介した医方明や
 第11章日本に祀られたインドの神々
 で展開した 「近津神」と同じである。
 
 平安時代になって
 大国主神が医薬神であると
 政朝が決めたのも遠因はここにある。
 
 守屋谷の周辺の資料を考察すると、
 この地域に鍛冶集団がいた可能性があり、
 荒神谷遺跡から出土した
  銅剣の工房の存在を推測させるのである。
 
 
M.K記
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第十四章 牛頭と鹿頭:宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:宇屋谷と神代神社
(1)宇屋谷と宇夜都弁命
 
 だが、
 既に述懐したようにことは
 そう簡単ではない。
 
 出雲内で剣を製造していた
 可能性もあるのである。
 
 西谷の入口に近い荘原町に
 佐支多神社が鎮座し、
 その意味が「剣」であることを紹介したが、
  この周辺にその刀鍛冶がいた
 痕跡の資料があるのである。
 
 斐川町神庭のうちで、
 西谷の東側に宇屋谷がある。
 
 この里について
  出雲国風土記出雲郡建部郷に
 次のようにある。
 
  先に宇夜の里と号(なず)けし
  所以(ゆえん)は、
  宇夜都弁命、其の山の峯に天降りましき。
  即ち、彼(そ)の神の社、
  今に至るまで猶此處に坐す。
  故、宇夜の里といひき。
  この宇夜の里が宇屋谷に相当する。
 
 そして「彼の神の社」とは、
 同風土記に「神代社」、
 『延喜式神名帳』に「神代神社」と載る。
 
 現在も宇屋谷に鎮座する同名社である。
 
 「宇夜都弁命」名は
 同風土記にはここだけで、
 他の史料にも一切みられない
 孤立した神名である。
 
 だが、
 これらの名称は
 古代の宗教的環境を知る上に
 極めて貴重な資料を提供している。
 
 そればかりか、
 この神社の重要さを再確認させる事件が
 荒神谷遺跡の発見であると考える。
 
 そして同社は
 諏訪大社(建御名方神)にとっても、
 貴重であることが
 以後の考察で明らかとなる。
 
 「字夜」に作るものもあるが、
 やはり「宇夜」が妥当である。
 
 同じ島根県江津市の日本海岸沿いに
 敬川(うやかわ)町があり、
 敬川が流れている。
 
 敬川は宇夜弁命が足を洗ったので
 その名が付けられたという。
 
 「ウヤ」を「うやまう」の「敬」と使っている。
 
 「敬」はまた「礼」で
 「イヤ」の音訓も導き出される。
 
 しかし、
 これらはその祖語ではない。
 
 その祖語はやはり
 サンスクリット語の 
 uyo-kāra と結句される
 uyo- で、その原語は uāgu で、
 「風」あるいは「息吹き」を意味し、
 uyo-kāra は「風(息吹き)‐職人」で、
 「鍛冶屋」を表わしている。
 
 つまりウヤ uyo- は鞴(ふいご)を表わす。
 
 Uāgu は
  ドイツ語の wehen (風が吹く)、
 英語の wind (風)と同根の用語である。
 
 神名にある「都弁」は、
  出雲国風土記の飯石郡飯石郷に載る
 神名、伊吡志都弁命とも共通するが
 「工匠」を意味する。
 
 『古事記』に
   「伊斯許理度売命・
  作鏡連(かがみづくりのむらじ)」、
 『日本書紀』に「石凝姥命」とし、
 その訓を
 「伊之居梨度咩」とする
 「ドメ」に同じと考える。
 
 ここでは女神の意味はない。
 
 「都弁」は
  サンスクリット語 tvā- で tvaṣṭr は
 インドラ神の金剛杵を造った工功神である。
 
 この石凝姥神は
 『先代旧事紀』の天孫本紀にも、
 「故地ー真姥命、鏡作上祖」とあるが、
 鏡作りばかりでなく刀剣の製作も行った。
 
 『日本書紀』の天石窟の段で
 同神を鍛冶として
 天香山の金を採ってきて日矛を作らせ、
 また真名鹿の皮を全剝(つつはぎ)にして
 天羽鞴を作らせたという、
 ふいごの技術を備えた鍛冶であった。
 
 この「石凝」は
 宇屋谷と全く縁が無いわけではない。
 
 というのも、
 神代神社を守っているのは 
 現在僅か数軒しかないが
 「石郡(いしごおり)家」で、
 石郡・石凝は同祖と考えられるからである。
 
 そればかりでなく、
 神庭、その東側の学頭など、
 この周辺は「小島家」が多い。
 
 この「コジマ」は koti-mat で
 「尖った」 あるいは「「尖った先端のある」で、
 つまり刀剣を祖語としているとみられる。
 
 宇夜都弁命名は「風-工匠」で鍛冶工、
 それも刀鍛冶を表わしていると
 理解できるのである。
 
 宇屋谷から下った所に
 綿田原との地名があるが、
 これは vāta-tvā で
 同じく「風-工匠」であろう。
 
 上庄原内となっている
 田波も tvā- に依るだろうか、
 風土記にはこの辺りにあったらしい
 「須須比池」が載るが、
 これは
 サンスクリット語の 
 śuṣma (荒い息吹き、猛烈、剛勇)、
 śuṣmin (吠え立てる、剛勇の、猛烈な)の
 転訛によるものであり、
 荘原、庄原名は「宋」で sua 「息をする」、
 つまり息吹きの同類語である。
 
 「田波」にはもう一つの解釈が可能である。
 
 つまり、
 tapati(te) を原語するとの考え方である。
 
 その意味は
 「熱す、暖かくする、焼などで、
 tapta は「燃えた、赤熱された」で、
 金属業での「溶解された」の意味を持つ、
 tapta-tāmra は「溶解された銅」である。
 
 また名詞として「熱、燃焼」を字義とする。
 
 この tapta が
 学頭の大黒山の東麓の地名にある
 「田畑」とみられる。
 
 田波、田畑の地名からこの地域で
 銅の精製あるいは鋳造の為の
 「溶解」を行っていたとの推測が成り立つ。
 
 このように、
 宇屋谷、西谷、庄原、荘原に掛けては、
 鞴技術を持った鍛冶集団の存在を
 知らせる資料が多いのである。
 
 佐支多神社は「剣社」である。
 
 神代神社の祭神は
 現在宇夜都弁命、大国主神、品陀別命
 であるが、
 第三の神名は
 八幡宮を合祀したことによるものである。
 
 大国主神は、
 ここでは八千矛神名に置き換えられるよう。
 
 神庭から和加布都怒志命が祀られていた
 今在家まではそう遠くない。
 
 宇夜都弁命を
 建御名方神の別称とすることができよう。
 
 地元の奉祭氏族は、
 神代神社を「諏訪神社元宮」と通称している。
 
 諏訪神が「風の祝」と言われる遠因は
 この「ウヤ」にある。
 諏訪大社の象徴は薙鎌であるが、
 「カマ」はサンスクリット語の 
 kamāra で鍛冶を意味する。
 
 また、
 御名方神が諏訪に入る際に
 先住の洩矢神と闘ったとの伝承で、
 同神が藤枝を持って戦ったといい、
 藤島社が諏訪大社の摂社として
 諏訪市清水に鎮座するが、
 「藤」は鞴のことであり、
 その技術は
 この宇屋谷にあったものである。
 
 出雲国風土記の島根郡美保郷に
 
 「天の下造らしし大神の命、
  高志の国に坐す神(略)、
  奴奈宜浪比売命にみ娶ひまして、
  産みましし神、
  御穂須須美命、是に神坐す。
  故、美保といふ。」
 
 とあるが、
 その地に「須須比の埼」があり、
 日本古典文学大系は、
  これを
 「大芦浜西北部でススミ崎という」
 と注して、
  須須比、須須美が
 同根であることを示唆している。
 
M.K記
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第十四章 牛頭と鹿頭:銅剣と荒神谷遺跡 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:銅剣と荒神谷遺跡
 
  建御名方神の父神は
 『古事記』の挿話によると八千矛神である。
 
 八千矛神とは剣神であるから、
 その御子建御名方神も剣神であると
 考えるのは自然である。
 
 出雲風土記の
 出雲郡美談(みたみ)郷の条に
 
  「天の下造らしし大神の御子、
   和加布都怒志命」、
 
 秋鹿郡大野郷にも
 同名の命名が記載されているが、
 この和加布都怒志命は同風土記に登場する
 大国主神の御子のうち唯一剣に係わる尊名で、
 これは建御名方神の別称と推察される。
 
 美談郷は
 現在の平田市美談町で
 同市の南端出雲市との市境で
 斐伊川を挟んで斐川町に接する。
 
 同町にある縣(あがた)神社境内に
 和加布都怒志神社は鎮座しているが、
 かっては
 斐川町今在家の国長(川の対岸の地名)に
 あったと伝えられている。 
 
 延喜式神名帳出雲郡に
 「縣神社、同社和加布都怒志神社」
 とある。
 
 その川沿いの南側鳥井には
 風土記に「鳥屋社」及び延喜式神名帳に
 「鳥屋神社」と載る
 建御名方神を祀る神社がある。
 
 斐川町内には
 JRの荏原駅の南西の額頭内と
 その西方の神庭に
 諏訪神社が鎮座するが、
 この二社は承久の乱(1221年)後、
 信州から守護として赴いた桑原氏が
 勧請したものとみられるが、
 その北側の恵原町内に鎮座する
 「佐支多神社」にも
 建御名方神は祀られている。
 
 同社は風土記で
 「佐支多神社」と載る古社である。
 
 この「サキタ」は
 サンスクリット語 
 śakti を祖語として
 「剣」を表わす用語である。
 
 第11章の
 「埼玉・鹿島:剣持神の国」で
 「前玉神社」の「サキタマ」を
 śakti-mat(剣持)と紹介した同語である。
 
 同社の鎮座する字名を「前原」といい、
 「前」は śak- に対応する。
 
 「前」は埼玉県の「埼(さい)」と転訛したように
 「西(さい)」となっている。
 
 つまり
 「西谷(さいだに)」の「西」は 
 śakti にあるということになる。
 
 西谷には大量の銅剣が発掘された
 荒神谷遺跡がある。
 
 「サイダニ」は
 江戸時代に「才谷輪」と表記されたこともあり、
 単なる西(にし)の谷の意味ではなく
 他の由来を含んでいる。
 
 その理由が「剣」で西谷は「剣谷」である。
 
 ただし、
 ここに銅剣を埋蔵したから
 「剣谷」になったのか、
 他に理由があるのか答は簡単ではない。
 
 荒神谷遺跡には斐川町神庭西谷である。
 
 1984年の発掘調査で
 58本の銅剣が谷奥の傾斜地に刃を上に
 向けられて埋蔵されていた。
 
 それまでは
 日本全国で発見されていた銅剣数が
 300本程度であったので、
 その数の多さが驚きであった。
 
 翌年の1985年の調査で、
 その地点から僅か7メートル離れた
 同じ斜面から
 銅鐸6個と銅矛16本が出土し、
 さらに驚きを拡大させた。
 
 銅剣は全て中細形で
 弥生次代中期後半代に
 製作されたものと考えられている。
 
 しかし、
 これが重要な点であるが、
 どこで製作されたか、
 またいつ埋納されたかについては
 まだ確定的な判断が
 専門家によっても出されていない。
 
 製作地や製作者については、
 その原料の研究が大事である。
 
 銅の産地は島根県内もある。
 
 斐川町の近くでは
 平田市の唐川川を遡った鍔渕、
 八束郡東出雲町の内馬にある宝満山付近、
 この山は八雲村との境界にあり、
 同村の岩坂秋家にある
 田村神社名の「タムラ」は
 サンスクリット語の銅を意味する 
 tāmara に依るものだろうと
 第12章の「大穴持命と出雲」で述べた。
 
 また美保関町森山伊屋谷、
 石見銀山のある太田市大森町からも
 銅は産出された。
 
 これらの産地の
 銅か錫など周辺流域のものが銅剣などと
 同一であれば
 製作地は出雲に絞られることとなる。
 
 この遺跡名を「荒神谷」としたのは、
 埋蔵の近くに三本の松木があり、
 
 同木を神体とする
 三宝荒神が地元の人々によって
 祀られていたことによるという。
 
 「三宝荒神」信仰は
 仏教が普及して以後の信仰名である。
 
 「三宝」については
 「三本の松木」に表わされた
 後出の「三方」ともとれるし、
 
 「銅剣、銅鐸、銅矛」の三つが
 底にあるのかもしれない。
 
 「荒神」についても、
 出雲の神社の鎮座状況からみると
 素盞鳴尊に別称と判断されるが、
 ここでは
 サンスクリット語の「青銅」を意味する 
 āra-kūta に依拠していると考えられるが、
 今のところ何れも確証がない。
 
 「荒神」を素盞鳴尊と前提する場合には、
 これらの銅剣は
 出雲以外から持ち込まれた可能性が高くなる。
 
 その他の場合には
 出雲郡(斐川町)内における製作の可能性が
 高いと考える。
 
 素盞鳴尊は、
 『記・紀』神話においては
 天照大神と師弟の関係にあり、
 国土建設の役割を果たした
 祖神の一に並んでいる。
 
 だが、
 出雲にとっては外来の神である。
 
 『日本書紀』巻第一に
 「素盞鳴尊の行状は乱暴を極めた」とある。
 
 この乱暴こそ「荒(すさ)む」で「スサ」、
 『古事記』では「須佐」
 『日本書紀』で「素盞」の神名に
 依拠するところである。
 
 つまり「荒神」である。
 
 『日本書紀』は
 同神が「韓郷(からくに)の島」に行ったが、
 そこに留まらず、
 舟に乗ってこの国へやって来たと語る。
 
 その荒む様子は高天原で
 天照大神を困らせる物語として描かれている。
 天鈿女命が活躍する天岩屋戸の場面は、
 その乱暴に困り果てた
 天照大神が隠れてしまったために
 催された事件であった。
 
 高天原を追放された
 素盞鳴尊は寄稲田姫を助けて
 大蛇を退治することになるが、
 その大蛇の尾からは  
 『古事記』の草那芸の太刀、
 『日本書紀』の一書の天叢雲剣を取り上げた。
 
 この物語は、
 外から出雲にやって来た同神を
 奉祭する勢力が、蛇神を信仰し、
 優れた剣を造作できる先住の勢力を征圧して
 彼等の剣を取り上げたという内容となる。
 
 第12章で島根県東部の意宇郡名は
 八雲村に蛇山があるように
 サンスクリット語の 
 ahi の転写であることを指摘し、
 同村の日吉に剣神社が鎮座することから
 出雲で作られていたとも述べた。
 
 このように
 銅剣の出雲内製作の史料は前記ばかりでなく、
 さらに、後述するようにかなりある。
 
 ここでは
 銅剣が外から持ち込まれた可能性を
 考察するために
 素盞鳴尊の奉祭氏族について追求してみたい。
 
 その氏族集団とは天穂日命の勢力であり、
 その後裔である出雲国造の諸族である。
 
 ここでは詳しく述べないけれど、
 杵築大社(出雲大社)の主神は
 大己貴命であるが、
 大己貴命(大国主神)は
 出雲国造氏族の氏族神ではない。
 
 その経緯は『記・紀』に明らかである。
 
 同氏族の氏族神は素盞鳴尊である。
 
 杵築大社の本殿瑞籬外の
 真後ろに素鵞社を配置させている。
 
 拝殿で遥拝する者は、
 主祭神を拝すると共に、
 素盞鳴尊の別称である
 素鵞社を遥拝するという
 仕組みになっているのである。
 
 素鵞あるいは須賀は
 出雲国風土記に
 「清けし」との伝承によると述べられているが、
 本来は「穂日」を「スイガ」から「スガ」と
 読んだことによると考えられる。
 
 出雲国造と同じく天穂日命を祖とする
 武蔵国造の奉祭する
 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の
 氷川神社の祭神は須佐之男命、
 稲田姫命、大己貴命で、
 須佐之男命が筆頭である。
 
 埼玉県に広がる
 氷川神社の属社における 
 祭神は須佐之男命で、
 大己貴命まで祀るところはほとんどない。
 
 さいたま市大宮区の氷川神社を
 奉祭する神職は角井氏といい、
 古代から連綿として
 同社の祭祀に当たってきた。
 
 そして杵築大社の神職は千家氏であるが、
 この「センゲ」名は
 サンスクリット語の 
 śṝnga の転写で、
 つまり「角」を意味するのである。
 
 島根県益田市に須子町があるが、
 これは素鵞あるいは須賀であり、
 その町内に角井(古くは角井郷)がある。
 
 素盞鳴尊と「角」は離せない関係にある。
 
 千家氏(出雲国造にして杵築大社の神職)と
 角井氏(武蔵国造の族にして氷川神社の神職)は
 穂日命を祖とする同族であることが
 この「角」の解釈でよく知ることができる。
 
 その「角」とは「牛頭」である。
 
 素盞鳴尊の別称は
 「牛頭(ごず)天王」である。
 
 京都市東山区祇園町の
 八坂神社は素盞鳴尊、櫛稲田媛命を祀り、
 「牛頭天王」でよく知られる。
 
 同社は
 京都府綴喜郡田辺町天王高ヶ峰の
 朱智神社の
 建速須佐之男神を勧請したものと知られる。
 
 同社の主祭神は迦屚米雷命で、
 この命は息長氏に連なることから
 息長氏の祖神を祀る神社と考えられており、
 「牛頭天王」は崇神天皇以降に
 興った信仰であろう。
 
 既にみて来たように
 牛頭信仰は世界の宗教的流れの中で
 中心的基盤であり、
 何層にもなって別の種族、
 時代を重ねて注目されてきた。
 
 天穂日命の後裔である
 出雲国造一族もその神職の名称から
 牛頭信仰を持っていたことに間違いない。
 
 ただし、
 それは「天王」ではなかった筈であるばかりでか、
 出雲においての牛頭信仰の祖でもなかった。
 
 天穂日命の葦原中国への派遣について、
 『古事記』は
  「思金神及び八百萬の神、
   議(はか)り白ししく、
  『天菩比神、是れ遣はすべし』とまをしき。
   故天菩比神遣はしつれば、
     及ち大国主神に媚び附きて、
   三年に至るまで復奏さざりき。」
 
 と記す。
 
 つまり「媚び附いて」、
 『日本書紀』では「倍婚」というが、
 大国主神に服従してしまい、
 遣使の役目を果たさなかったというのである。
 
 しかし、
 素盞鳴尊の神話上の行状からすれば、
 大国主神の国を制圧して
 自分達が支配者になったまま
 葦原中国(出雲)を
 天孫に献上しようとしなかったというのが
 本当のところであろう。
 
 大国主神を奉ずる先住の人々、
 第12章の「出雲族」で述べた
 意宇(多)氏、つまり
 ヤーダヴァ(ドヴァラカ)族の
 鍛冶集団を征圧したのは
 建御雷神などではなく、
 天穂日命氏族であったとの理解が
 生れてくるのである。
 
 『記・紀』は大国主命の国譲り後に
 新しい統治者を送るのではなく、
 天穂日命にその祭政を任せている。
 
 ただし、
 その後裔は崇神天皇の時代の
 出雲振根の事件を初め、
 繰り返し時の政朝から
 その服従に疑いを持たれ、
 出雲国造神賀詞にみられるように
 代が替わるごとに
 服従の誓約を述べなければならない
 ことになっている。
 
 不思議なことに
 天孫族の支配に最も反抗したと語られた
 建御名方神の留まる
 諏訪の勢力に対しては服従の誓約や
 建御雷神に述べた条件が
 守られているかなどの尋問は
 その神話上も史料上の記録にも
 全く見当たらない。
 
 『古事記』の物語が
 いかに虚構であるかが解かってくる。
 
 つまり、
 天孫族の出雲支配に抵抗したのは
 天穂日命氏族であり、
 大国主命あるいは
 建御名方神ではなかったのである。
 
 「延喜式神名帳」因幡国高草郡に
 「天穂日命神社」「天日名鳥命神社」と共に
 「阿太賀都健御熊命神社」が記載されている。
 
 天日名鳥命は天夷鳥命などとも表記され、
 天穂日命の御子神である。
 
 健御熊は『日本書紀』に
 「大背飯三熊之大人、別名武三熊之大人」
 とあり、
 天夷鳥命の別称とされる。
 
 その神名を修飾する
 「阿太賀都」は
 サンスクリット語で理解すると
 adhi-gata で
 その意味は「得る、獲る、横取」である。
 
 3年間復命しなかった父の後を追って、
 『日本書紀』は武三熊之大人が
 派遣されたが父に従って
 復命しなかったと述べている。
 
 『三国史記』の「新羅本紀第二」の
 十四代儒礼尼師今の
 十四年に以下のような
 奇妙な話が記述されている。
 
 東洋文庫から転載する。
 
  伊西国(慶北清道郡)が侵略して来て
  金城を攻めた。
  わが国は〔国民を〕総動員して防いだが、
  撃退することができなかった。
  突然異様な姿の兵隊がやって来た。
  その数は数え切れないほどで、
  彼等は皆竹葉を首飾りにしており、
  わが軍とと共に賊軍を攻撃し、
  これを討ち破った。
  その後、彼等の行先がわからなかった。
  〔ただ、〕人々は竹葉数万枚が
  竹長陵に積み上げてあるのを見て、
  〔これが彼等の耳飾りの竹葉でないかと〕
  疑った。
  このことによって、
  人々は先王が陰兵をもって
  この戦いに援助したのだと思った。
 
 ここに登場する竹葉は
 三又戈と同じと考えられ、
 矢ないも矛、剣とみられる。
 
 天鈿女命が
 天石屋戸の前で手に持って踊った
 「小竹葉」である。
 
 『日本書紀』で
 「素盞鳴尊が韓郷に行ったが、
  そこに留まらず」
 に舟でこの国へやって来たと
 語られているところをみると、
 この「異様な姿の兵隊」とは
 素盞鳴尊を奉祭する集団と考えられる。
 
 竹葉が積み上げられたとは、
 剣などを積み上げたと考える。
 
 それはまさに
 「矛を納める」(戦闘を終わらせる)意味である。
 
 荒神谷遺跡の銅剣が
 よそから持ち込まれたとするならば、
 それは征圧をし終わった集団の
 戦勝を祝う祭事と考えることができる。
 
 祭祀用剣であるから
 刃こぼれなどが無くて当然だろう。
 
 斐川町の東隣りの
 宍道町の西端、斐川町境に佐々布地区がある。
 
 これは「ササハ・竹葉」の字義である。
 
 その直ぐ東の白石に才という字名があり、
 佐為神社が鎮座する。
 
 竹葉は「佐為」で「剣」である。
 
 358本の銅剣が
 外部からのものとするならば、
 それは出雲国造氏族の所行と考える。
 
 
M.K記
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第十四章 牛頭と鹿頭:『古事記』の御名方神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
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《第十四章 牛頭と鹿頭:『古事記』の御名方神
 
  建御名方神が史料に登場する
 『古事記』を第一とする。
 そこでは
 同神は大国主神の御子として物語られる。
 その部分を日本古典文学大系から転載する。
  (大国主神が)是(ここ)に亦白しけらく、
  「亦我が子、建御名方神有り、
   此れを除きて無し。とまをしき。
   如此白す間に、其の建御名方神、
     千引(ちびき)の石(いわ)を
   手末(たなすゑ)に擎(ささ)げて来て、
   誰ぞ我が国に来て、
     忍び忍びに如此物言ふ。
   然らば力競べ為(せ)む。
    故、我先に其の御手を取らむ。
   と言ひき。
    故、其の御手を取らしむれば、
   即ち立氷(たちひ)に取り成し、
   亦剣刃(つるぎば)に取り成しつ。
   故爾に懼(おそ)りて退(しぞ)き
     居(を)りき。
    爾に其の建御名方神の手を取らむと
    乞ひ帰して取りたまへば、
     若葦を取るが如(ごと)、
    つかみ批(ひし)ぎて投げ離ちたまへば、
    即ち逃げ去(い)にき。
     故、追ひ往きて、
    科野(しなのの)国の
     州羽(すは)の海に迫め到りて、
    殺さむとしたまひし時、
     建御名方神白しけらく、
   「恐(かしこ)し。
    我(あ)をな殺したまひそ。
    此の地(ところ)を除(お)きては、
    他処(あだしところ)に行かじ。
    亦我が父、
      大国主神の命(みこと)に
      違(たが)はじ。
    八重事代主神の言(こと)に違はじ。
    此の葦原中国は天つ神の御子の命の
    隨(まにま)に献(たてまつ)らむ。」
    とまをしき。
 この神話のために
 山陰地方から東北地方の日本海側の
 神社の信仰と歴史を覆い隠したり、
 故意に曲げたりして解からなくした面がある。
 以下の考察は
 そのような隠された部分を明らかにする。
 ここで、
 建御名方神は
 大国主神の御子として物語られる。
 しかし、
 『古事記』はその誕生について
 直接的には何も説明していない。
 上記の挿話は
 突如として語られている感じがある。
 大国主神のもう一人の御子とされる
 事代主神については別のところで、
 母の名を神屋盾比売命と記している。
 「先代旧事本紀」の地神本紀に
  「次に高志沼河姫を娶りて一男を生む。
   児建御名方神、
     信濃国諏方郡諏方神社に坐す」
 とあり、
 その母が
 高志の沼河姫であることが示唆される。
 『古事記』では
 大国主神の別称である八千矛神と
 「高志国の沼河比売」との妻婚いの歌と、
 その嫡后須勢理比売の嫉妬の歌謡が
 長く記載されている。
 ここで重要なのは、
 その父名が「八千矛神」であることである。
 実際同神名を主祭神とする
 八剣神社(諏訪市小和田宿)が
 諏訪大社上社本宮の地に鎮座している。
 高志沼河姫神は、
 新潟県西頚城郡内であった
 糸魚川市一之宮に
 奴奈川神社が鎮座するように
 姫川に産するヒスイ(硬玉)を採っていた
 この地方の支配的氏族の姫と
 考えられているが、
 諏訪地方では
 茅野市本町鬼場の御産石神社に
 祀られている。
 「諏訪神社明細帳」は同神が
 高志国から鹿に乗って
 大門峠を越えて来たと語っている。
 八剣神社は諏訪湖が冬に結氷し、
 前面に張りめぐらされると、
 その水圧で氷が盛上るように裂け
 氷脈ができる「御神渡り」を
 神の表徴として拝観する神事を
 掌っている神社として知られる。
 先に転載した
 建御名方神と御雷神の決闘(力競べ)の場面で
 後者が手を掴むと
 その手が「即ち立氷に取り成し」とあるのは
 『古事記』の著者がこの「御神渡り」を
 知っていたからではないかと推測させる。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十四章 牛頭と鹿頭:諏訪大社の「御頭」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十四章 牛頭と鹿頭:諏訪大社の「御頭」
  第12章では
 「三輪氏」をなぜ「神氏」と表記するのか
 触れなかったが、
 その理由が本章で明らかになる。
 
 また
 大国主命の別称にある
 八千矛神あるいは葦原志許男神に
 ついての解釈をここで行う。
 
 さらに
 メソポタミアを起源とする
 祭官「祝」と祝祭に欠かせない
 牡牛が鹿になっている。
 
 その経緯を推察し、
 諏訪神の性格と出雲との関係を明らかにする。
 
 諏訪大社上社の祭事のうち、
 最も重要な行事は
 例年4月15日に行われる御頭祭である。
 
 同祭は上社前宮の吹き通しの建物十間廊で
 開催されるが、
 その最大の特徴は
 鹿頭が神饌と共に供えられることである。
 
 江戸時代の紀行家菅江真澄の
 「すわのうみ」には、
 75の鹿頭が
 そこには供犠されていたと書かれている。
 
 それらを俎上に載せて供えるのが
 古式であったという。
 
 同社の祖神である
 漏矢神社第12でも触れたが「鹿」を表わす。
 
 サンスクリット語の 
 mṛja がその祖語で、
 「森を歩き回る」を意味し、
 その同類語 mṛga は「森の獣」で
 特に「鹿」を表わす。
 
 長野県の諏訪郡に接する
 伊那郡名は ena(enea) の音写で
 同じく「鹿」の意味である。
 
 日本武尊の東征の際、
 神奈川県の足柄辺りや信濃で白鹿を
 退治したとの物語が語られているが、
 
 これらは
 東国の古代にあった鹿に対する
 信仰者の集団の象徴で、
 洩矢神の影響があった人々と
 考えることができる。
 
 御頭祭には「諏訪大明神画詞」が
 
 「禽獣ノ高モリ魚類ノ調味、美ヲ尽ス」
 
 と述べており、
 
 鹿頭のほか、江戸時代の史料によれば、
 猪頭のほか、鶴・雁の頭、鯉などの
 水産物が供えられたが、
 特に鹿肉も大量に供犠された。
 
 同社には「鹿食免」御幣や
 「鹿食箸」があり鹿との係わりが深い。
 
 諏訪神社の神職は「風の祝」と
 宣伝されたように祝の官として
 よく知られた。
 
 「ハフリ」ないし「ホフリ」は
 
 メソポタミアを起源とする祭官であった。
 
 その旧石器時代のムレイビト遺跡や
 新石器時代のケルメで、
 デレ遺跡、ネムリク遺跡に
 牛頭(牡牛の角)を掲げた
 痕跡が残っており、
 アナトリアのチャタル・フユク遺跡からは
 大量の牛頭の像型が発見された。
 
 それらを基盤として牛頭(牛角)が
 シュメルなどのメソポタミアの
 ペルシャ湾岸に近い文明
 (エリドゥなど)に影響を
 与えたばかりでなく、
 
 ヨーロッパへも波及し、
 クレタ、ケルト、ゲルマンの祖語
 (シュメル語で galam-am:野牡牛の階段<角>)
 であるとの考察を本書は展開した。
 
 「ハフリ」は
 メソポタミアから東方へも伝授され、
 インドのバラモン教の祝祭に
 重要な役割を負っており、
 ヴァーダ(教典)の初期の支配的最高神
 インドラ神は「牡牛」である。
 
 そして日本においても、
 古代に牛祝祭が盛んに
 行われていた事実あり、
 保食神や登由宇気神の「ウケ」は
 サンスクリット語の転訛による
 牡牛がその語源で
 「神饌」に
 その意味が転換されていることを
 紹介した。
 
 奈良時代末から平安時代のかけ
 牛馬を屠殺する祝祭は
 時の政府により
 禁止された様子も紹介したが、
 諏訪大社は牛を鹿に換えて
 その祝祭(御射山祭)の
 伝統を守っていたのである。
 
 洩矢神を祖神として奉祭する
 守矢氏の家紋は
 
 「丸に十字㊉」で
 シュメルでは羊にその初源を持つが
 「牧者」を意味する象形で文字で、
 楔形文字としても使われ、
 メソポタミアからの伝統を
 継承したものと考えられる。
 
 同社には後に述べるように「ミナ」に絡む
 メソポタミアの影がある。
 
 洩矢神の表徴であるミシャクジ神は、
 御社宮司などと表記されるが、
 その祖語は
 サンスクリット語のシャクティ śakti で
 シヴァ神の女性的側面を表わす用語である。
 
 その表れが神妃デーヴィである。
 
 ミシャクジ神は
 立石と立木で祀られている事例が多いが、
 これは『古事記』に語られる
 大山津見神(シヴァ神)の姫神である
 磐之比売命と木花咲耶比売命
 との対に相応し、
 リンガ(陽石)と
 シャクティを表わしているのである。
 
 シャクティ神信仰は信濃まで
 伊勢など南方太平洋側から
 入って来たものである。
 
 社宮司などその信仰の分布が
 長野県南部から東海地方に
 集中していることがその理由となる。
 
 シヴァ神の美称の一つに
 パシュパティ paśupati があり、
 「家畜の主」の意味である。
 
 実際は人間を家畜とみて
 人を導く神の意義ではあるが、
 獣類の王としての象徴でもある。
 
 なぜならば、
 シヴァ神の祖像を
 インダス文明の印章にみられる
 牛頭の神に習合させた見方があるからで、
 
 シヴァ像とは
 牛角がその額に刻まれていることが多い。
 
 いずれにしても「牧者」である。
 
 シヴァ神は
 ヴェーダ時代のインドラ神(牡牛)に
 遅れてヒンドゥ教の最高神の一に
 上がった支配的神であった。
 
 「モリヤ」は
 「森の獣」を表わし信濃の南から入ってきた。
 
 これに対し、
 諏訪大社の現在の主祭神
 建御名方神は信濃の北方から
 入って来た神である。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908


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第十三章 「倭人伝」:男王卑弥弓呼と孝霊天皇 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」:男王卑弥弓呼と孝霊天皇
  倭人伝は「狗奴国の男王卑弥弓呼」と記す。
 
 「卑弥」は「卑弥呼」と同じで「ヒミ」で、
 「呼」も同様「コ」とするが、
 「弓」は漢語で gong であるので
 「ヒミクコ」ないし「ヒミキュウコ」となる。
 
 この卑弥弓呼名を
 日本の資料に発見することができた。
 
 磯城郡川西町唐院に鎮座する
 比売久波神社がそれであが、
 諸資料に祭神名が記されているものの
 実際のところ不詳である。
 
 同社の祭事は「奉幣神事」といい、
 例年10月18、9日に
 奉幣お渡りの儀式を行う。
 
 御幣がその中心に据えられた祭儀で
 「きぬ祭」である。
 
 同社の東側隣り
 島ノ山古墳の出土品のうちに
 車輪石がある。
 
 石製の楕円板で
 櫛山古墳の円盤(腕輪)と同様
 放射状に波打つように
 浮彫りが施されているが、
 中央の穴が小さく石製部分が幅広い。
 
 そのため車輪に似ていることから
 名付けられている。
 
 同古墳は古墳時代中期の初め
 5世紀前半の造成と推測されており、
 櫛山古墳よりは150年程
 後になることからすると、
 この車輪石は円盤の変形したもので
 比売久波神社の
 「御幣」であったと考えられる。
 
 その出土品は
 石製刀子、勾玉、菅玉など祭祀性が強い。
 
 同様の車輪石は
 奈良市佐紀町の日葉酢媛陵とされる
 佐紀陵山古墳からも三個出土している。
 
 日葉酢媛命は垂仁天皇の皇妃で、
 同古墳の造成時期は
 4世紀末から5世紀初めに想定され、
 島ノ山古墳と同時代である。
 
 同陵近くには
 歌姫町の添御縣坐神社が鎮座する。
 
 添は曾布、
 繒で「幣」のことであった。
 
 延喜式神名帳は
 比売久波神社の訓に「ヒメクハ」と共に
 「ヒメカミ」に左書きしている。
 
 「クハ」は
 サンスクリット語の kubha(kumbha) で
 「壺、甕、瓶」を意味するが、
 その同類語 kumbhi は
 さらに「鍋」を表わすので、
 これが「カミ」であろう。
 
 それらの説明は
 大阪府寝屋川市秦町の細屋神社を紹介した
 
 第12章「大物主神の奉祭氏族(1)登美族」
 と同じであるが、
 「久波」は「細」なのである。
 
 「比売」は「黄金」を表わす 
 heme の音写である。
 
 鍋は 
 kata-cckha あるいは 
 kata-cchu と表記される
 「爐」の意味を持つ。
 
 ラテン語の 
 cācabus(釜) と同類である。
 
 Heme-cckha が
 「比売久波」「卑弥弓呼」の祖語で
 「金(属)‐釜」で「溶鉱炉」あるいは鍛冶炉を
 表現したものと考える。
 
 比売久波神社の鎮座する
 町名「川西」は加西、高市と同祖で
 「王侯、王座」であるが、
 これは狗奴国の官名
 「狗古智卑狗」の原語で
 「高市彦」でもあると考える。
 
 卑弥弓呼は王名である。
 
 単に金属用語ではない。
 「木‐」名の多くが十市郡にあったが、
 「久波」の名を持つ
 細比売(くわひめ)命
 
『古事記』は
 十市縣主の祖大目の女で
 第8代孝霊天皇の皇后となった。
 
 この孝霊天皇こそ卑弥弓呼である。
 
 同天皇の宮殿は廬戸宮といい、
 磯城郡田原本町黒田にあったとされ、
 そこに孝霊神社が鎮座し、
 比売久波神社からは
 そう遠くないところである。
 
 「廬戸」は
 「墓側のいほりの戸」と
 奇妙な内容を含む。
 
 前出の比売久波神社の東側に
 島ノ山古墳は
 5世紀の前半の造成とされる古墳で
 3世紀中頃の孝霊天皇あるいは
 卑弥弓呼とは関係ないが、
 
 『記・紀』の宮殿名が
 『記・紀』編纂の頃
 名づけられたとしるならば
 この「墓側のいほりの戸」は生きてくる。
 
 戸は門である。
 
 その宮殿のあったという
 黒田の東南は宮古地区である。
 
 かっては「都」とも表記されたが、
 史料にみられる最古の表記は
 宮子(鎌倉時代)で、
 宮子は「クコ、キュウコ」でもあり、
 「弓呼」に通じる。
 
 廬は
 「草や木を結んだりして
  作った粗末な家」の意味だが、
 ドイツ語の「編み細工」を表わす
 zain には「鋳込み」「地金」、 
 zainer は鍛冶工と金属業に
 係わる語義がふくまれるので、
 この用語も「金属工」の意味で
 付けられたのではないかとも推測される。
 
 廬戸にそれぞれ
 「金」を付加えると「鑪炉」で
 炉、鈩(たたら)となり、
 溶鉱炉の意味となる。
 
 この地域は鏡作神社や富都神社(富本)、
 都留伎神社(川西町結崎)があり、
 唐古鍵遺跡など
 金属業の中心地であったとみられる。
 
 孝霊天皇の兄に
 大吉備諸進命、
 意富夜麻登玖邇阿礼比売命との間に
 大吉備津日子命、蠅伊呂杼との間に
 若日子建日子建吉備津日子命と
 「吉備」名があるが、
 
 これは
 サンスクリット語の 
 kvath (煮汁、精<エキス>)の転写である。
 
 動詞 
 kvathabe は
 「熱する、沸く、沸かす、煮る」であり、
 金属業の釜あるいは炉に係わる用語である。
 
 倭人伝には
 
  「倭の女王卑弥呼はもとから
  狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であったので、
  倭の戴斯烏越らを遣わして
  〔帯方〕郡に行かせ、
  戦っている様子を報告した」
 
 とあり、
 卑弥呼と戦争状態のあったことを示す。
 
 『古事記』の孝霊天皇の条には
 
  「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、
  二柱相副ひて針間の氷河の前に
  忌瓮を居えて、
  針間を道の口と爲て
  吉備を言向け和したまひき」
 
 とあるように配下を西方へ派遣し
 勢力を拡大している様子がみられ、
 これは卑弥呼との戦争を内容とする
 記録と考えられる。
 
 第12章「大国主神の奉祭氏族(1)磯城氏」
 でみた様に
 前者は「吉備上つ道臣の祖」で、
 後者は「吉備下つ道臣、笠臣の祖」となった。
 
 このほか日子寝間命が
  「針間の牛鹿臣の祖」、
 
 日子刺肩別命が
  「高志の利波臣、豊国の国前臣、 
  五百原君、角鹿の海直の祖」
 
 とあり、
 
 豊国の国前臣と九州へも
 その勢力が及んだ様子を窺わせており、
 九州を勢力圏とする
 卑弥呼の邪馬臺国と対峙する状況が
 見え隠れする。
 
 大吉備津日子命の別称を
 比古伊勢理毘古命
 (『日本書紀』五十狭芹彦命)という。
 
 「伊佐」は isa で「支配者」、
 「勢理」は saila で、
 須勢理毘売命と同じく「繭」をいう。
 
 伊佐勢理 isa-saila は
 「繭の支配者」となる。
 
 第16章 
 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰
 「絹と地名分布」で
 吉備を kṛni の指摘するが、
 事実吉備国が
 絹糸の産地であると共に鉄の生産地でもあり、
 「長船」のような刀鍛冶の地でもあった。
 
 大吉備津日子命の二つの名称は
 それを表わしている。
 kvath, kṛni はその訓音が近似しており、
 双方が融合して
 「キビ」 となったと考えられる。
 
 孝霊天皇の御陵は「片岡の馬坂の上」とあり、
 現在の北葛城郡王子町本町にある。
 
 同天皇の活動の本拠が
 大和盆地の北西地域であったことを示す。
 
 卑弥弓呼、孝霊天皇の時代は
 倭人伝の記すとおり、
 3世紀中葉(正始8年、247年)であり、
 まだ大古墳が造られ以前である。
 
 第9代開化天皇の御陵まで
 各天皇の御陵に記されている墳丘は
 いずれも前方後円墳ではない。
 
 箸塚を卑弥呼の大塚とするのは
 不自然なことである。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十三章 「倭人伝」狗奴国:狗奴国② [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々

 第5章「旧約聖書」創世記の
 「ヤハウェ神とモーセ」で
 説明した
 「出エジプト記」第12章に
 主ヤハウェがモーセに向って告げる
 正月には各家ごとに
 小羊を一頭取らなければならないとし、
 
 「イスラエルの会衆は皆夕暮れにこれを屠り、
  その血を取り、
  小羊を食する家の入口の二つの柱と鴨居に
  それを塗らなければならない。
  そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、
  種入れぬパンと若菜を添えて食べなければ
  ならない」
 
 とある事情に合致する。
 
 ヤハウェの示す力には
 インドラ神と同じ影がある。
 
 モーセは
 エジプトの王の前で持っていた杖を投げると
 蛇になった。
 
 また、
 その杖で水に触れるとエジプトの水という水が
 全て赤い血の色となり飲めなくなった。
 
 赤い御幣を玄関入口に立てるというのは
 ユダヤ教の仕方である。
 
 ヤーダヴァ族である登美族が
 メソポタミアから受け継いできた
 宗教的慣習であろう。
 
 赤御幣の形は「雷光、稲妻」を
 模したものとみられる。
 
 他の神社では白紙で作られるが、
 その形はやはり同様の稲妻状である。
 
 つまり赤御幣は
 インドラ神の武器である金剛杵(vajura)の
 象徴で倭族の伝統「帛」と習合したものである。
 
 ヴァジュラは本来棒または
 槌で「杵(きね)」であった。
 
 「杵」はエローラ石密第四窟に浮彫りされた
 「ドウルガー女神像」では「棍棒」となっている。
 
 ヤーダヴァ族である登美族の信仰に係わる
 考古学的資料を指摘しておく。
 
 4世紀末期の造成とされる
 櫛山古墳(天理市柳本町)は
 崇神天皇陵(行燈山古墳)の陪塚で、
 双方中円墳で
 祭祀が行われた跡を残している。
 
 この古墳の構造で後方部の表面に
 赤い砂層が敷き詰められている様子は
 赤御幣と同じく赤に対する
 こだわりの表れである。
 
 砂も大神神社の
 「清めの砂」に関連していそうある。
 
 その発掘された遺留品がの中に
 石製の「腕輪」と判断されているものがある。
 
 その面には放射状に波打つ装飾が見られる。
 
 これは腕輪ではなく円盤である。
 
 同古墳の周濠から江戸時代に出土したと
 伝えられる銅板にも
 円盤状の紋様が施されており、
 その主旨を同じくするものと考えられる。
 
 大神神社の山ノ神祭祀遺跡の遺物の中にも
 「双孔円板」が数百枚含まれていた。
 
 この円板も円盤とすることができるだろう。
 
 その数の多さは目立っている。
 
 円盤はインドの神、
 ヴィシュヌ神の武器として知られている。
 
 ヤーダヴァ族のクリシュナは大叙事詩
 マハーバーラタ
 (サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)
 においてヴィシュヌ神の権化とされ、
 後のヒンズゥ教の聖典プラーナにおいては
 その性格が一層強くなり、
 ヤーダヴァ族に
 ヴィシュヌ神との関係がみられる。
 
 同神はすでにリグ・ヴェーダ
 
 「(ऋग्वेद Rigveda)は、
  古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。
   サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語
  (英語: Vedic Sanskrit)で書かれている。
 
  全10 巻で、
    1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。」
 
 にその神名がみられ、
 インドラ神のよき協力者である。
 
 その讃歌には
 インドラ神が牡牛として現れるのに対し、
 牡牛を神獣とする。
 
 その同名は太陽の光輝を神格化したもので、
 クリシュナの別称が
 ヴァースデ・ヴァ vāsudeva で
 その父が
 ヴァースデーヴァ vāsudeva 
 の子という意味を持つが、
 そのvāsが
 「夜が白んで明るくなる」
 「夜明けに輝く」の語義を持っていて、
 
 ヴィシュヌ
 (英: Vishnu, Viṣṇu, 
  デーヴァナーガリー:विष्णु)は、
 ヒンドゥー教の神である。
 
 仏教名は「毘紐天」、「韋紐天」、
 あるいは「那羅延天」。
 
 音写語としては
 「微瑟紐」、「毘瑟怒」などもある。
 
 そしてそれは、
 天照大神の祖像と説いた
 ウシャス神名にも係わり、
 大神神社に関連する。
 
 さらに
 インドラ神の協力者であることも
 その係わりの強さを示す。
 
 円盤は
 太陽光の放射を表徴させたものであると
 考えられる。
 
 櫛山古墳まどから出土した円盤は
 ヤーダヴァ族(登美族など)の系譜の
 遺品であることに相違あるまい。
 
 この「円板」はいわゆる
 「御諸」を表わしているのかもしれない。
 
 インドラ神は雷神で
 積雲 mih(migh)-māla の神であり、
 それは同神の首輪(花輪)である。
 
 御諸が「環」であることは前章で述べた。
 そうすると
 円盤が大物主神の象徴であると理解される。
 
 ただし「双孔」であることに疑念は残る。
 
 そこで別の面から解釈を述べておきたい。
 
 奈良市の北部は
 平安時代は添上郡添下郡であった。
 
 この「添」由来を「繒」にあると考える。
 
 延喜式神名帳の添下郡に
 「添御縣坐神社大」が載る。
 
 現在二つの否定社があり、
 奈良市歌姫町の同名社及び
 奈良市三碓(みつがらす)の同名社である。
 
 延喜式祈年祭の「
 御県神官祭祝詞」に次のようにある。
 
  御県に坐す皇神等の前に曰さく
  高市、葛木、十市、志貴、山辺、曾布と
  御名は白して、
  此の六御県に生り出づる
  甘菜、辛菜を持ち参ゐり来て、
  皇御孫の命の長御膳の遠御膳と
  聞こしめすが故に、
  皇御孫の命の宇豆(うづ)の幣帛を
  称辞意へ奉(まつ)らくと宣る。
 
 この祝詞で添郡を「曾布」と表記しており、
 それは「繒」である。
 
 そして後段に述べられる「幣帛」でもある。
 
 「添県」は「きぬの県」なのである。
 
※本生図と踊子像のある石柱
<天鈿女命>
イメージ 1
 
 
※有孔円盤「双孔円板」と勾玉

 
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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第十三章 「倭人伝」狗奴国:狗奴国① [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]





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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々
 
  狗奴国について「倭伝」は
 「(女王国と)同じ倭の種族なのであるが、
  女王に属していない。」
 
 と述べる。
 
 また「倭人伝」は
 
 「狗奴国があり、男子が王となっている。
  その官に狗古智卑狗がおり、 
  この国は女王に服属していない。」
 
 と述べ、
 正始8年(247年)には次のような記述がある。
 
 東洋文庫「東アジア民族史」より転載する。
 
  〔帯方郡の〕太守(長官)王頎が
  新たに任官されると、
  倭の女王卑弥呼は、
  もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と
  不和であったので、
  倭の載斯烏越らを遣わして
  〔帯方〕郡に行かせ、
  〔狗奴国と〕戦っている様子を報告した。
 
 これらの記録だけが考察の材料である。
 
 「狗奴国」の訓み方は「狗」が
 漢語では gou であり、
 「奴」は奴国を「ナとする限りにおいて」
 na (漢語 nu)で、
 gou-nau となり「クナ」と訓める。
 
 この「クナ」は
 サンスクリット語の 
 gnā の転訛で
 「女神」に依るものと考える。
 
 奴国が nau (船)国、
 末廬国が madhura 
 (甘いもの、蜜)国であるから、
 サンスクリット語の地名であっても
 不思議ではない。
 
 gnā は「女神」であるが、
 また神妃で
 「巫覡(ふげき)」となって
 「巫女(かんなぎ)」を
 いうものである。
 
 「巫覡」は邪馬臺国の卑弥呼、
 大神神社の勢陀多良比売命など
 紀元2~4世紀には
 その祭政時代を担う重要な役目を
 果たしていた。
 
 そのような状況を明らかにしているのが
 佐賀県三養基郡三田川町の
 吉野ヶ里遺跡である。
 
 遺跡のうちからは
 祭祀の遺構が発掘されている。
 
 この地域は遺跡の東方に
 目違原の地名があるように
 「和名類聚抄」の肥前国三根郡米多郷内である。
 
 「米多」はその訓みを「女多」と記入されている。
 
 「メタ」は
 サンスクリット語の「祝祭」を意味する
 medha に由来する。
 
 奈良県大和郡山市稗田町に鎮座する
 売多神社名に通ずる。
 
 同社は『古事記』の編纂を担った
 語部の性格を持つ稗田阿礼を祀り、
 延喜式神名帳大和国添上郡に載る神社である。
 
 阿礼の祖神は天鈿女命である。
 
 同女神の実態については
 第1章祝祭で詳しく述べた。
 
 同女神は祝であったが、
 『古事記』の天の石屋戸の場面で
 「神懸かり為て」とあることからまた
 巫覡であることが解かる。
 
 その踊子の姿は巫女舞いである。
 「売多」を神名帳は「ヒメタ」と訓ませているが、
 これは天鈿女命の性格から「メタ」である。
 
 舞踊を
 サンスクリット語で 
 tandava ということは
 第1章などで紹介したが、
 その転訛された地名を持つのが
 吉野ヶ里遺跡の地籍「田手」である。
 
 その地名は遺跡のすぐ南に鎮座する
 田手神社に依るだろう。
 
 同社の現祭神は
 撞賢木叢之御魂疎向津媛命で
 天照大神であることは
 前章で明らかにしたところであるが、
 天鈿女命は天照大神の
 隠れた天の石屋戸の前で踊った。
 
 つまり
 その御前を祀る女神で、
 大宮能女神であり、
 豊宇気毘売神(登由宇気神)であることが
 本書の考察でみえてきた。
 
 伊勢市の伊勢神宮の周辺に
 夫婦関係にある猿田彦神社は在っても
 天鈿女命をその名で祭る神社はない。
 
 つまり
 豊受大神宮(外宮)こそが
 天鈿女命の鎮座地にして
 天照大神への奉祭神なのである。
 
 京都市伏見区の稲荷大社には
 猿田彦大神、大宮能売大神と
 揃って祀られている。
 
 田手神社の本来の祭神は
 同じ女神ではあるが、
 天疎向津媛命ではなく、
 踊子の語義からして
 天鈿女命であったはずである。
 
 その変更は
 神功皇后の半島遠征に纏わると推測される。
 
 田手の直ぐ西側神埼町神崎に鎮座する
 櫛田宮は
 福岡市博多区上川端町の
 櫛田神社と関係し、
 神功皇后の奉祭伝承を持つ。
 
 「吉野」は「キー」で「クナ」と訓音が近く
 巫覡、狗奴と同根語と考えられる。
 
 だが、ここは狗奴国ではない。
 
 「女王に支配されている領域の
  国々の内の弥奴国」である。
 
 「ミナ」は
 サンスクリット語の 
 menê の音写で「女、婦人」を意味する。
 
 弥奴は
 後世の三根郡名や上峰町名の祖語である。
 
 「吉野(キー)」が 
 gnā である巫覡の別名であることが解かったが、
 吉野を地名とする地域は処々にみられる。
 
 そしてそれらの一つが
 狗奴国の遺称地と考えられ、
 その一所が
 所在地として追求されなければならない。
 
 倭人伝の記録された時代(紀元3世紀)には
 各地に巫覡がいたのであろう。
 
 「キー(吉野)」名の地名を追ってみた。
 
 ○福岡県鞍手町、小竹町「吉野」
 
 ○福岡県大牟田市吉野
 
 ○熊本県荒尾市宮内(クナイ)
 
 ○熊本県下益城郡南町吉野(吉野山、築地)、
  築地は「チク地」だが、「キネ地」とみられる。
  隣りには舞原がある。
 
 ○熊本県菊地市木野、鹿本郡菊鹿町木野、
  和名類聚抄の菊地郡城野郷
 
 ○鹿児島県鹿児島市吉野
 
 ○岡山県東部吉野川(地名に吉野郷)
 
 ○徳島県板野郡吉野町(吉野川)
 
 ○奈良県吉野郡
  (吉野町、東吉野町など13町村、五条市)、
  大台ケ原を水源とし
  吉野郡を流れ下る吉野川は
  和歌山県に入って紀ノ川と改称される。
 
 以上が古代に「キノ」があったとみられる
 遺称地であるが、
 九州の西部、南部にその所在地があり、
 近畿地方には大きな吉野の地域がある。
 
 このうちのどこかということになるが、
 やはり
 奈良県の吉野郡から大和盆地と
 考えざるを得ない。
 狗奴国は邪馬臺国であるからには
 かなり広大な地域を傘下に置く大国である。
 邪馬臺国を奴国(福岡市)に連なる
 九州の域内とすることを前提とし、
 倭国伝の
 「女王国から東へ渡ること千余里」は
 その重要な判断資料である。
 吉野郡は「キノ」で、
 吉野川の流れる五条市の和歌山県境に
 木ノ原の地名がある。
 木原(きのはら)町、
 天香具山の西側の木之本に通じる。
 大和高田市磯野町名も「キノ」である。
 更に平安時代の資料によると
 十市郡のうちに喜荘(きのしょう)があった。
 その遺称地はないが、
 桜井市粟殿内の
 小字名「木之庄」の比定にされている。
 粟殿に「キノ」があることは興味深い。
 「キノ」は巫覡(ぶげき)であるが、 
 大神神社は巫女の神社であることは
 『記・紀』の伝承始め多くが語られている。
 三輪山信仰が
 太初における祭政の中心であった状況は
 第12章で詳しく見てきたところである。
 「きぬ」は
 今でも大神神社の隠れた信奉の象徴である。
 
 それは「赤御幣」である。
 「幣」は「ヘイ」だが、また「キヌ」でもある。
 「説文」に「幣、帛也」とあり、
 幣帛(みてくら)とも表わされる。
 帛は絹布であるが、
 「丹書して神を祠るきぬ」であり、
 またの名を「繒」という。
 その元祖を
 第9章中国の祝祭と皇帝「中国の祝祭」で
 三星堆遺跡の祭祀に関係して説明した。
 倭族の古来の伝統が
 三輪山では生きているのである。
 この赤(丹)色の御幣は災難よけを主旨に
 大神神の憑り代として
 参拝者に授けられている。
 御幣は信奉者各家の入口に立てられ、
 玄関から禍事災難を入らせないという。
 家の入口に赤いものを立てるのは
 メソポタミアを発祥地とする
 ヘブライ人の慣習でもある。
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第十三章 「倭人伝」狗奴国:倭人伝の国々
 
  ここでは
 これまでに参考にしてきた
 「後漢書倭伝」
 「三国志魏書倭人伝」に登場する
 諸国のうち一部を
 解説して纏めることとする。 
 
 そのうちの狗奴国については
 少々詳しく考察してみる。
 
 まず「倭人伝」に従い、
 魏から倭に渡行する
 途次の国と倭の国々についてみる。
 
 (1)狗邪韓国
 
 韓半島の南端の国で、
 帯方郡より海路七千余利里。
 
 狗邪は「姑射と偎人」で述べた。
 
 現在の釜山地方である。
 
 (2)対馬国
 
 狗邪韓国から海路千余里。
 
 現在の長崎県の対馬であり、
 その語義は「馬韓に対面する」である。
 
 (3)一大国
 
 対馬国より南へ海を渡り千余里。
 
 現在の長崎県壱岐。
 
 (4)末廬国
 
 一大国から海を渡り千余里。
 
 現在の佐賀県・長崎県に広がる
 松浦郡のうち、具体的な場所は定かでない。
 
 しかし、
 「マツラ」は 
 第1章祝祭
 「淀姫と佐保佐神社」などで述べたが
 サンスクリット語の 
 madhura (甘いもの、密) が
 祖語である。
 
 (5)伊都国
   
 末廬国から東南に五百里。
 
 現在の糸島郡。
 
 (6)奴国
  
 伊都国から東南に百里。
 
 現在の福岡市博多の地域。
 
 「奴」の祖語は
 サンスクリット語の「船」を表わす 
 nau である。
 
 第16章のユダヤ人と月氏や
 第10章天毒とセリカで触れた。
 
 (7)不弥国
 
 奴国から東に百里。
 
 現在の福岡県宗像郡福間がその比定地。
 
 (8)投間国
 
 不弥国から水行二十日。
 
 現在の宮崎県児湯郡都農町、
 日向市の南部。
 
 第12章大国主神と大物主神
 「大国主神の奉祭氏族(4)都農神社」で述べた
 「藤見」がその遺称だが、
 その官名「弥弥」から
 日向市の美々津町まで含む広い地域。
 
 (9)邪馬臺国 
 
 投間国から「南に進み」、
 水行十日、陸行一ヶ月かかるとあるが、
 水行陸行の時間的配分は不明瞭。
 
 不弥国から投間国まで水行二十日とすると、
 その方向と時間の推量から
 鹿児島県地方となるが、
 
 実際は
 「水行一ヶ月、陸行十日」
 であった可能性もある。
 
 (10)女王に支配されている領域、
    二十カ国及び奴国
 
 これらの国も九州の域内と考える。
 
 (11)狗奴国
 
 「魏書倭人伝」は「その南に狗奴国があり」と、
 女王の支配している領域に位置していると
 記しているが、
 時代的に魏より前の時代の史書ではあるが、
 「魏書」により纏めたものとの見解のあ
 「後漢書倭伝」には
 「女王国から東へ渡ること
  千余里で拘奴国に至る」とある。
 狗奴、拘奴と異字になっているが、
 同じ国と解釈される。
 
 この「倭伝」の情報を
 より正確なものとすれば
 狗奴国瀬戸内海を東進して
 千余里の近畿地方となる。
 
 魏書にも
 
  「女王国の東、
   海を渡ること千余里のかなたに、 
   また国がある。
   いずれも倭種の国である」と
 
 後段に述べ、
 その国名を明らかにしていない。
 
 後漢書の表記とほとんど同じで、
 この国が「狗奴国」と解釈することができる。
 
 
M.K記
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