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第二章 日本に奉祭されているイスラエルの神 [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
 
  第二章 日本に奉祭されているイスラエルの神
 
  (一) 大国主(大己貴)神と少名毘古那(少彦名)神
 
  『古事記』に以下のような記述がある。
 
 少々長いが日本古典文学大系から転載する。
 
  大國主神、出雲の御大の御前に坐時、
  波の穗より天の羅摩船に乘りて、
  鵝の皮を内剥に剥ぎて、衣服と爲て、
  帰り来る神有き。
  (中略)即ち、
  久延毘古を召して問はす時に、
 
  「此れは神産巣日神の御子、
   少名毘古那(少彦名)神ぞ」
 
  と答えて白しき、
 
  「故爾神産巣日御祖命に
  白し上げたまへば、
  答へ告りたまひ、
  葦原色許男命と兄弟と爲て、
  其の國を作り堅目堅めよ」
 
  とのりたまひき。
 
  故爾により大穴牟遲と少名毘古那と
  二柱の神相並ばして、
  此の國を作り堅めたまひき。
 
  然て後は、
  其の少名毘古那神は常世国に戻りましき。
 
  故、其少名毘古那神を顕はし白せし
  謂はゆる久延毘古は今は山田の曾富謄といふぞ。
  (略)
  是に大國主神愁ひて告りたまひしく、
 
  「君独して何にか能く此の國を相作らむや」
 
  とのりたまひき。
 
  是の時に海を海を光して依り来る神あり。
 
  其の神の言いたまひしく、
 
  「能く我が前を治めば、
   吾能く共に與に相作り成さむ。
   若し然らずば國成り難けむ」
 
  とのりたまひき。
 
 また、 
 『日本書紀』にも同場面の記述がある。
 
  さて、
  大己貴命と少彦名命とは力をあわせ、
  心を一にして天下を経営された。 
 
  また
  この世の青人草と家畜のために
  療病の方法を定められ、
  鳥獣や昆虫の災害を除くために
  まじないを払う方法を定められた。
 
  だから百姓は今に至るまでみな
  この神の恩を受けているのである。
 
  むかし、大己貴神が少彦名命に向かって
 
  「おれたちのつくった国は果たして
   よくできたといえるだろうか」
 
  と語られると、少彦名命は答えて
 
  「できたところもあるし、
   できなかったところもある」
 
  と仰せられた。
 
  この二柱の神の相談には
  深い意味があるらしい。
 
  その後少彦名命は熊野の御崎に行かれて
  そこからとうとう常世郷に去られた。
 
  別伝では淡嶋に行かれて、
  そこで粟茎ののぼられたところ、
  弾かれて常世郷に渡り着かれたという。
  (略)
  するとそのとき神々しい光が海を照らし、
  やがて
  その中から忽然と浮かび上がってくる神がある。
 
 大国主神名は
 日本へ渡来したイブル人たちが「神」を
 呼んだ呼称のうちの最高位にある。
 
 その語義は
 「ガド族の国の神(主) 」である。
 
 「大」は 
 GDLH、guduluah(名詞形)の
 「大きいこと、偉大さ、名誉、栄光」と
 ヤコブの子として生まれ、
 名前が与えられた経緯伝承に合った
 内容そのものからなっている。
 
 形容詞形は GDVL、gualol で
 「大きい、偉大な、強い、激しい」である。
 
  上記にある「葦原色許男命」は 
 大国主神へ習合された名称であるが、
 その語義は
 「メソポタミアのシュメール出自で
  神域を守る男の祭司」となる。
 
 「葦原」はシュメールを
 KI-EN-GI〔地-の-葦:葦の地〕を由来とし、
 「色許男:シコオ」は
 SUKI-男〔高床式神殿の神域-男〕で
 「シュメールの神殿の祭司」で、
 メソポタミアに祖地を持つ
 イブル人の「主」を示唆している。
 
 「大穴牟遅」との表記はここでは誤記で
 「大名持」と記述されなければならい。
 
 『旧約聖書』の「主」の隠称の一つに
 HShM、hashem があり、
 ShM〔名前:主の御名〕によっていて
 「大名持」はそれに対応している。
 
 因みに
 「大穴にすむ蛇(はえずるもの)」で、
 奈良県桜井市の大神神社の蛇神を指す用語に依る。
 
 また
 「大穴持」との類似した表記も使われるが
 これは IS-MAH〔穴-大〕-持で
 「鉱山の坑道を設けている」との語義で
 「イヅモ:出雲」の
 最初期の呼称の起こりに由来する。
 
 出雲(島根県)に銅鉱が発見され、
 同地の発展の基礎となった。
 
 「少名毘古那:スクナヒコナ」は
 「神の臨在を伝授する者」がその語義で、
 「神の僕(しもべ)」の役目を示している。
 
 「スクナ」は ShKhyNH、shekhinnah
 〔シュキナー:神の臨在:神の栄光〕、
 「ヒコナ」は ShN、sukan〔天幕、幕屋〕と
 解釈すれば「(知識を)授ける幕屋の神」となる。
 
 「大国主少彦名神」名は
 「(智識を)伝授する幕屋のガド族の神」ともなる。
 
  『古事記』の少名毘古那神は
 「海を光して依り来る神」、また
 『日本書紀』少彦名命は
 「神々しい光が海を照らし、
  その中から忽然と浮かび上がってくる神」であった。
 
 双方とも「光」を後光としている。
 
 つまり、
 栄光〔神の臨在〕をもたらす者である。
 
 『旧約聖書』において
 モーセが主から戒めを与えられたシナイ山から
 下山するとき、彼の顔は光に輝いていたと
 「出エジプト記」は記している。
 
  次に
 「久延毘古」の「クエ」は GVAL、guoael で
 「救世主、救済主、贖い主」との
 「主」の名前であるし、
 「山田の曾富謄」とは
 「海の国の土師〔裁判官〕」である。
 
 「山田:ヤマタ」は YMYT、yamati 
 〔「海の」あるいは「海人」〕で
 「大和」を「ヤマト」という理由に同じで、
 ”日本”を表す。
 
 「曾富謄:ソホド」は 
 ShVT、shofet〔裁判官、判事〕で、
 この全体の語義は
 「海国〔海に満てる者たち〕の土師(裁判官)」となる。
 
 大国主神が少名彦名神に彼らの造った国の
 出来具合について問うたところ、
 「或は成せる所もあり、或は 成らざる所あり」
 と答えて
 裁定を下したところに裁判官の役目がみえる。
 
 《参考》創世記:大己貴神と少彦名神
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908 
 

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第一章 祭壇事件とヨシュアの説示 [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
 
 第一章 祭壇事件とヨシュアの説示
  (一) 「ヨシュア記」のガド族・マナセ・
     ルベン族の「祭壇」事件
   
  本書前三部第一章(五)で
 祭壇事件について紹介した。
 その関係した三部族は
 「イスラエル国」の
 中心勢力を形成していたが、また
 アッシリアによってメソポタミアへ
 強制移住させられ流浪の民となり、
 シナの甘粛省まで東遷し、月氏と呼ばれ、
 一部が「大月氏」となり中央アジアへ帰り、
 また
 アラビア海へ出て
 絹貿易海洋商人となったと説明してきた。
 ところで祭壇事件の結末において
 ヨシュアがガド族など
 三部族の代表に対して諭した
 〔ヨシュア記〕第二章の経緯は
 既に述べてあるが、その一部を再びしるす。
   それであなたがたは身を返して、
   主の僕モーセがあなたがたに与えた
   ヨルダンの向こう側の地に行き、
   自分たちの天幕に帰りなさい。
   ただ主の僕モーセがあなたがたに
   命じた戒めと律法とを慎んで行い、
   あなたがたの神、
   主を愛しその全てをの道に歩み、
   その命令を守って主につき従い
   心を尽くして精神を尽くして
   主に仕えなさい。
 この段において全く説明はないが、
 文中の「戒め」と「律法」との表記に注目すると、
 これは「モーセの十戒石」及び
 主がモーセに説いた主への信仰を纏めたもの、
 つまり「聖書」を意味していよう。
 ヨシュアはモーセがシナイの山頂で
 自らの手で文字を刻んだ二枚の複写石板を
 「聖書」に添えて渡したのである。
 それらは
 犠牲祭を行わない祭壇に安置されたに違いない。
 そしてメソポタミアの捕囚に際しては
 密かに持参されたのである。
 何しろそれがイスラエル人としての
 最高の証拠となるからである。
 その「証拠」がイブル語で YD であり、
 その後のイスラエル人の最も重要な代称となった。
 あの「月氏〔Yuen-Shih:yue-zhi〕」名は
 その語の音写によるものだからである。
 漢字表記で
 その後の「月氏」「伊都」となっている原語である。
  そしてその二枚の「十戒石」は
 日本列島へ移動し秘匿されたのである。
 その当時複数の種族が抗争を繰り返していた
 大陸や韓半島では安心できなかったのである。
 しかし、
 日本列島においてもなかなか安置できる
 場所がみつからなかったのである。
 紀元前一世紀から紀元後三世紀にかけて
 その奉祭地は密かに九州にあったが、
 その後の四、五世紀には日本海側に沿って
 次第に北陸方面へと移動していったのである。
 その経路を次節から説明することとする。
 二一世紀となった今日においても
 同石板は日本国内に秘匿されている。
 そして同石板、つまり「十戒石」に対する
 信仰が国内に広くに神社として祈念され、
 また地名として遺留されているのである。
 しかし、
 その最終所在地を明らかにするのは
 その安全上危いこととなるのですべきではない。
 
  ≪参考≫モーセの十戒石
   ≪参考≫「ヨシュア記」
M.K記
連絡先:090-2485-7908 
 

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目次4 [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
《目次4
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
 
 第一章 祭壇事件とヨシュアの説示
  (一) 「ヨシュア記」のガド族・マナセ
     ルベン族の「祭壇」事件
 第二章 日本に奉祭されているイスラエルの神
  (一) 大国主(大己貴)神と少名毘古那(少彦名)神
 第三章 「十戒石」の九州南部から
      伊都国〔北九州〕への移動
 第四章 山口県日本海沿岸へ
 第五章 石見国〔島根県〕
 第六章 出雲国〔島根県〕の出雲大社・佐太神社
 第七章 物部神社と気多神社
      〔兵庫県、京都府の日本海岸〕
 
 第八章 北陸の秘密
     〔福井県、石川県の石部神社〕
 第九章 富山湾岸〔富山県〕
 第十章 新潟県における「十戒石」の移動 
 第十一章 秘匿
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 
 

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(四) 魏志倭人伝の伊都国の背景〔イトの語義と由来〕 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (四) 魏志倭人伝の伊都国の背景
             〔イトの語義と由来〕  
    
  「伊都国」とは
 魏志倭人伝に記載された国名である。
 
 本書第二章「(五)伊都国」で述べた国である。
 
 前節「(六)」
 
 『旧約聖書』「イザヤ書」の
 「地の果ての島々」に
 ヘブライ人が作った居留地〔国〕である。
 
  「伊都」名は
 『日本書紀』仲哀天皇八年に
 「伊覩」と表記されて登場している。
 
 「筑紫の伊覩県主の祖である五十迹手(いそとて)」 
 
 「~そこで五十迹手をお褒めになられて
  『伊蘇志』と仰せられた。
  そこで時の人は
  五十迹手の本土を名付けて伊蘇国といった。
  いま伊覩というのは訛ったものである。」
 
  この「五十迹手」とある「イソトテ」は 
 IShT-YT〔差し出す・手〕で
 「(救いの)手を差し延べる」「~を援助する」。
 
 次の「伊蘇志」は「イソシ」で 
 IZZ の音写で「勇敢、力」ながら、
 ここでは「栄光、誉れ」の語義で
 「栄誉なことだ」となる。
 
 また
 「伊蘇」だけみると YShV (動詞形)は 
 「入植地を作る」「開拓する」「定住させる」で、
 YShV (名詞形)は「入植地、定住地」となる。
 
 このように解釈してくると
 「伊覩・伊都」の「イト」は、
 離散したヘブライ人が各地に形成した
 「共同体」を表す IDH の音写と判断できる。
 
 しかし、
 その背景には
 ヘブライ人たちの重要な民族の由来を
 保証するための祈りがある。
 
 つまり、
 IDH と表音が近似する YD があり、
 それは「記念物、記念碑」にして
 「証拠」「証左」が語義であることに係わる。
 
 その経緯を物語っているのが「ヨシュア記」で、
 その物語はかなり込み入っているので略記する。
 
 本当に詳しい事件の内容は
 次の第四部第一章で述べる。
 
  この「記念物」は
 ヘブライ人の人々がエジプトを脱出し
 カナアン地方などへ入植した後、
 
 その十二部族のうち
 ガド族、マナセ族、ルベン族が
 エルサレムの祭壇とは別に祭壇〔石塚〕を造り、
 他の支族等と争いになりそうになったが、
 最終的にはヨシュアを中心とする
 他の部族が誤解を解いて納得した。
 
 ヨシュアはガド族などに
 「律法と戒め」の記念物を与えたと解釈され、
 ガド族等は
 それは紀元前八世紀のアッシリアへの捕囚や
 その後の放浪の間も
 彼らの象徴として保持しつづけ、
 「地の果て」のまでもたらし、
 時として石塚〔岩倉・岩山〕を
 造営したのである。
 
 その記念物は彼等の最高に貴重な、
 しかし
 隠し通さなければならないものであった。
 
  「ヨシュア記」
  
  第二二章一〇 ルベンとガドの人々および
   マナセの半部族はカナンの土地にある
   ヨルダン川のゲリロトに着いたとき、
   そこに一つの祭壇を築いた。
   それは目立って大きい祭壇であった。
 
  第二二章三四 それでルベン族とガド族は
   その祭壇を
   「まことにこれは私たちの間で主が神で
    あるという証拠だ」と呼んだ。
   (日本聖書協会)
 
 この「証拠」あるいはミルトス社版が
 「証人」としているヘブライ語が ID である。
 
 この ID:証拠〔YDは証人〕こそ
 「伊都〔伊覩〕」の祖語であり、
 特にヘブライの十二部族のうちの
 ルベン族、ガド族 、マナセ族にとっては
 彼等がヘブライ〔イスラエル〕人の
 仲間であるとの証拠にして象徴なのである。
 
 「祭壇」人がノミを入れた彫み石で
 組まれたものでない、
 自然の石を積み上げた石塚であった。
 
 倭人伝の伊都国の当該地が
 現福岡県の糸島市だとはすでに述べた。
 
 その市内西方「神在」の宮地嶽頂上に
 宮地嶽神社が鎮座しているが、
 その神殿の基壇は石組されたもので
 「石塚」を踏襲しているといってよい。
 
 因みに
 「宮地」の「ミヤチ」の祖語は MYTV で
 「最高のもの」「最良のもの」を表し、
 「証拠」に係るものが
 その昔奉祭されていたと解釈できる。
 
  これらが証明するところは
 「伊都国」がヘブライ人たちの
 「居留地」だったということである。
 
 前市名であった
 「マエバル:前原」は MIBRA の音写で
 「渡し場」つまり「港」を表し、
 ヘブライ系海洋貿易商船が
 船付けした所となる。
 
 古代紀元前後の頃は
 玄界灘からの加布里湾が
 今よりずっと内陸まで入り込んでいて、
 「浦志」とか「泊」辺りまで海で、
 湾内は波も静かで
 船溜りとして適しい状況であった。
 
  和歌山県の(現)橋本市辺りは
 紀伊国の「伊都郡」であるが、
 郡内にある町名「九度山」は
 そのような山(岳)名もないことからしても
 「クドヤマ」は
 ヘブライ語の KDYM の音写で
 「東の、東方の」の語義である。
 
 つまり
 当地が「東の伊都」との表れで、
 九州の伊都の勢力が
 東方へ伸張してきたことを示している。
 
  ≪参考≫
 
 日本創世記
 
 第二章 魏書倭人伝の諸国地理
 
 「(五)伊都国」
 
  現在の福岡県糸島市の地が中心で、
 奈良時代に「恰土」と表記された地である。
 
 ここは紀元前二世紀頃から
 「絹」を求めて渡来した
 ヘブライ商人たちの居留地である。
 
 更に倭人章は続けて
 「東南至奴國~有二萬餘戸」とある。
 
M.K記

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(三) 韓半島の「月支国」及び「クダラ」「シラギ」 [神聖の系譜]



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第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (三) 韓半島の「月支国」及び「クダラ」「シラギ」
  
    
  紀元後二、三世紀の魏の記録である
 『三国志』「魏書韓伝」のうちに
 「月氏国」との小国名がある。
 
 同国名は紀元前二世紀の漢時代の地理書
 『山海経』海内東経にも「月支国」と同名で 
 表記され載せられている。
 
  これは中央アジアの「月氏」国に同音名である。
 その音表記は本書第三部第二章で紹介して
 記述したように 
 Yuen-shih〔現在の北京語発音で Yue-Zhi〕で、
 月氏、月支双方は全く同じである。
 
 つまり、
 「魏書韓伝」の「月支国」は
 祖国が「月氏国」であること、また
 「月氏」が韓半島に遷ってこたことを
 うかがわせる。
 
 「月支国」は
 現在の忠清南道の光州市が所在地であった。
 
 同市の以前の地名は
 熊津〔Yu-jin〕、熊津〔Yu-ju〕と称されていた。
 
 この二つの呼称も 
 Yue-Zhi であったことが判明する。
 
  韓半島はイブル文化が浸透した証明がある。
 
 紀元前後
 半島南西部に「百済」、
 南東部に「新羅」が建国された。
 
 日本では
 前者を「クダラ」、後者を「シラギ」という。
 
 同呼称は朝鮮語にはない。
 
 その祖語はイブル語で、
 合成した「クダラ・シラギ」から始まったらしい。
 
 KhDVR-ShLG〔玉-雪〕で、
 現在でも使われている用語でもあるが、
 「雪玉」は「白い玉」であり、
 ここでは「繭玉」を比喩して称したもので
 韓半島南部が養蚕のできる土地であったことを
 証したものである。
 
 「魏書韓伝」が
 「蚕を飼い桑を栽培することを知っていて
  絹布を作る」といているのに関連する。
 
 また
 『三国史記』「新羅本記」によると、
 「瓢公」なる倭人が瓢(ひょうたん)を腰に下げ
 海を渡って来たとあり、
 「倭人」は養蚕の技術集団であった。
 
  その「新羅本記」には
 第三代の王儒理尼師今から第一八実聖理尼師今まで
 王位名として「尼師今」が使われている。
 
 同「ニシキン」はイブル語
 NSYKhYM の音写で「領主、王」の語義である。
 
 更に
 第一九代訥秖麻立干から二二代知證麻立干まで
 王位名に「麻立干」が用いられており、
 その後第二三代以降は「王」と称している。
 
 この「マリッカン」もイブル語
 MLKhYM の音写で「王、君主」を表し、
 「尼師今」の祖語と同義である。
 
 これらの事実は韓半島に
 イブル文化が到来していた証明である。
 
  ≪参考≫
 『山海経』海内東経
 
 『三国志』「魏書韓伝」
 
 『三国史記』「百済本記」 
 
M.K記

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(二) 旧約聖書「イザヤ書」の 「地の果ての島々」 [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
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第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (二) 旧約聖書「イザヤ書」の 「地の果ての島々」
  (a) 「地の果て」と「島々」
    
  「イザヤ書」とは
 『旧約聖書』のうち預言書と称されるものの
 第五番目の書である。
 
 その内容は三部に分割することができ、
 これまで
 第一の「イザヤ書」
 〔第一章から三九章まで〕は
 紀元前八紀に著されたといい、
 
 第二の「イザヤ書」と称される
 第四〇章から五章までは
 紀元前五五〇年頃の成立、
 
 第三の「イザヤ書」と称される
 第五六章から六六章は
 同じく紀元前五一五年頃の成立とされる。
 
 ここでは特に
 第2の「イザヤ書」と称されるもののうちの
 四〇章から四九章までに注目する。
 
 この書は一般に預言書といわれ、
 神の啓示の記述となっている。
 
 しかし、
 その内容にバビロン捕囚事件や
 ペルシャのキロス王名など、
 記述年より後の事件の具体的な
 固有名詞が載っていることから、
 当該書が宗教書としても、
 諸事項(件)発生後に記録として
 留められたとする方が妥当性がある。
 
 これまでのヘブライ学者は
 「預言」との通称にとらわれ、
 それぞれ事件以前の成立とすることに
 こだわってきたのではないかと推測される。
 
 歴史研究家的視点からすると、
 そういう第二の「イザヤ書」は
 紀元前二世紀の終末期から
 同一世紀に記録されたものと、
 少なくとも加筆されたものと考える。
 
 なぜならば、
 その頃西方〔ローマ帝国、地中海東岸〕と
 極東との交易網が
 西方諸国の人々にやっと認知され始めた
 証左がその内容に含まれているからである。
 
 その状況は
 前章(邪馬台国の性格と卑弥呼)で説明した。
 
 この第二の「イザヤ書」に興味深い事項がある
 「島々」「地の果て」などがそれである。
 
 以下に注目すべき箇所を
 ミルトス社ヘブライ語聖書対訳シリーズの
 イザヤ書から日本語部分を転載する。
 
  第四〇章
  
   一五 見よ、
      主は島々を細かいちりのように取り上げる
 
   二八 主は、永遠の神、
      地の果てまで創造された方
 
  第四一章
 
    一 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。
      国々の民よ、力を新たにせよ。
 
    五 島々は畏れをもって仰ぎ、
      地の果てはおののき、
      共に近づいて来る。
 
    九 わたしはあなたを固くとらえ、
      地の果て、
      その隅々から呼び出して言った
 
  第四二章
 
    四 島々は彼の教えを待ち望む
 
   一〇 新しい歌を主に向かって歌え、
      地の果てから主の栄誉を歌え、
      海に漕ぎ出す者、海に満ちる者、
      島々とそこに住む者よ
 
   一二 主に栄光を帰し、
      主の栄誉を島々に告げ知らせよ
 
  第四三章
 
    六 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う
 
  第四五章
 
   二二 地の果てのすべての人々よ
 
  第四八章
 
   二〇 バビロンを出よ、
      カルデアを逃げ去るがよい。
      喜びの声をもって告げ知らせ、
      地の果てまで響かせ、届かせよ
 
  第四九章
 
    一 島々よ、わたしに聞け、
      遠い国々よ、耳を傾けよ
 
    六 だがそれにもまして、
      わたしはあなたを国々の光とし、
      わたしの救いを
      地の果てまでもたらす者とする
 
  まず、
 この「島々」を日本聖書協会の
 『旧約聖書』は「海沿いの国々」と記している。
 
 「オックスフォード・ケンブリッジ版」は
  coasts and islands と記している。
 
 それに影響されたのだろう。
 
 それよりも古い King James Version は
 islands〔「島」の複数形〕とし、
 「島々」と同義である。
 
 ギリシャ語版を載せる
  The Septuagint with Apocryha においても
 νησοι〔nhsoi〕とし
 νησος〔nhsos:島〕の
 複数形である。
 
 やはりヘブライ語版にある
 AYYM「島々」というのが本来の表記であろう。
 
 また「地の果て」について各英語版とも
 end of earth とし共通している。
 
 この用語のうち「地」は
 ヘブライ語で ARTs で
 英語〔earth〕と近似している。
 
 「果て」はイザヤ書の各表記が
  KTsHT あるいは KTsHT で前者が原型である。
 
 「地の果て」表現は
 ユーラシア大陸の東端〔日本列島〕を想起させる。
 
 紀元前数世紀から西方の関心は、
 東方特に極東への関心が高くなった。
 
 紀元前四世紀の
 アレキサンダー大王の東征の目的は
 アジア〔ユーラシア〕の
 東端に辿り着くことであった。
 
  実際は中央アジアまでで終わってしまった。
 
 「イザヤ書」のいう「地の果て」は
 明らかにその「極東」をいったものと考える。
 
 そして「島々」とは
 日本列島の西部地域とすることができる。
 
 「果て」である KTsH には
 「端」のほか「はずれ」の概念もある。
 
 大陸から少々はなれていてもかまわないのであり
 「島々」とはその「地の果て」の「はずれ」に
 あるものとすることができる。
 
 「イザヤ書」はそこに国々があると知らせている。
 
 KTsH の発音は
 「クェツェエ」であったと考えられ、
 これは「クシュウ:九州」の祖語とみられる。
 
 「州」とは「国」である。
 
 「島々」とは
 日本の九州を中心とする
 諸島々を想定して言われたことになる。
 
 このヘブライ語の
 「果て」を原語とする地称が
 九州のシナ海〔日本海〕方面にはある。
 
 例えば鹿児島県加世田市名は
 KTsHT の音写であるし、
 串木野市名も KTsH-KNP〔果て-果て〕で
 「果ての果て」となり、
 いかにも「極地」らしい。
 
 長崎県の「口之津」も
 「クチノ」 KTsNI の音写で
 語義を同じくする。
 
 
 (b) 海に満ちる者
  この「島々」の情報は
 イザヤ書第四二章一〇に登場する
 「海に漕ぎ出す者」あるいは
 「海に満ちる者」と
 海洋航海に生きる交易商人たちが
 海路を経てもたらしたものとみられる。
 
 つまり、それらの記述は、
 その頃ヘブライ人の海洋商人たちが
 「地の果て:極東」へ
 達していたことを明白たらしめているのである。
 
 その続きに「島々とそこに住む者よ」と
 すでにそこに
 ヘブライ人が居住しているといっている。
 
 さらにそればかりでなく、
 第四三章六の「地の果てから連れ帰れ」
 と述べていることからも同様に、
 「地の果て」には
 ヘブライ人がすでに居住していたといえる。
 
 それが「国々」である。
 
  ≪参考≫
 「イザヤ書」
M.K記

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(一) イブライ王国ソロモン王の海洋交易船団 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (一) イブライ王国ソロモン王の海洋交易船団
  『旧約聖書』「列王記」第九章は
 次のように述べる。
 
  ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にある
  エラテに近いエッヨン、ゲペルに船団を設けた。
 
  この船団にヒラムは自分のしもべであり、
  海に詳しい水夫たちをソロモンのしもべたちと
  一緒に送り込んだ。
 
  彼らはオフィルへ行き、
  そこから四百二十タラントの金を取って、
  これをソロモンのもとに持って来た。
 
 その「金」はソロモンが始めた
 主の神殿建設のために用いられた。
 
 「ヒラム」とはレバノンの地、つまり
 フェニキア人の実力者であった。
 
 この船団は続く「列王記」
 第一〇章に述べられるように
 「タルシシュ船」といった。
 
   王は海にヒラムの船団のほか、
   タルシシュ船団を持っており、
   三年に一度タルシシュの船団が
   金、銀、象牙、さる、孔雀
   を運んで来たからである。
 
 さて、
 上記の土地「オフィル」AVFYR とは
 どこであろうか。
 
 第一〇では次のように述べる。
 
  オフィルから金を積んで来たヒラムの船団も
  非常に多くのアルムグの木材と宝石とを
  オフィルから運んで来た。
 
  王はそのアルムグで主の神殿と王宮の欄干や
 詠唱者のための堅琴や琴を作った。
 
 これまで西欧の学者は「オフィル」を
 同称の近似から「アフリカ」と解釈し、
 日本においても大方の解釈がそれに従っている。
 
 「アフリカ」名は紀元前にはなく、
 ヘロドトスの「歴史」によると
 ギリシャ語ではあの大陸地域を
 「リビア」としていて、
 ソロモン王の時代よりずっと後、
 紀元前後でさえそうなのである。
 
 ローマ帝国時代もそれと同じである。
 
 同解釈の前提には地中海沿岸に
 全て因むとの思向があるようである。
 
 しかし、
 「列王記」第九章一二が記すとろによると、
 ソロモン王は「葦の海」つまり
 「紅海」の最奥の地エドムの
 「エラテに近いエッション、ゲベル」で
 「船団を設けた」のである。
 
 つまり、地中海沿岸でなく、
 アラビア海方面の交易を目的にしたのが
 タルシシュ船団の運んで来た物品を
 検討することにする。
 
 「オフィルから」運ばれて来たのは
 「金、銀、象牙、猿、孔雀」及び
 「アルムグの木材、宝石」とある。
 
 『旧約聖書』のイブル語 
 ZHV(金)、KhSPh(銀)、ShNHBYM(象牙)、KPYM(猿)
 との四つは明白であるが、
 最後に記されている用語 TKYMM は現代においては
 「インコ」として使われているが、
 英語訳本においては古くは 
 baboons〔ひひ〕として解釈されていたが、
 最近では peacocks〔くじゃく〕と解釈されている。
 
 ここでも「孔雀」として見解を述べる。
 
 また「アムルグ」AMLMG(単数形)ALMGYM(複数形)は
 現在においては「白檀」と解釈されている。
 
 さて、
 金銀はアフリカのアラビア海岸にもありそうだし、
 象牙、猿も南方地帯では入手できそうである。
 
 ソロモンは王時代より一千五百年ど遡った時代
 メソポタミアのアッカド・サルゴン王の
 楔型文字碑文のうちに極めて参考になる記述がある。
 
 このサルゴン大王は別称シャルル・キーン
 〔紀元前二四一一~二三二五〕という。
 
   キシュの王シャルル・キーン、
   彼は三十四もの戦闘を勝ち抜き、
   海の果てに至るまで城壁を打ち壊した。
 
   メルッハの船、マガンの船、ティルムンの船を
   アッカドの港に停泊させた。
 
 メルッハは maluha
 〔ma-lulu-ha 土地ー人々ー魚:魚人の土地〕で
 現在インド亜大陸の西側の地称
 「マルハ:ma-li-ha〔土地ー人ー魚:魚人の土地〕 
 に当る。
 
 マガンは
 パキスタンのインダス河口より西方一帯である。
 
 ティルムンは現在のバーレン島をさす。
 
 このメルッハから輸入された物品名のリストが
 他の粘土板に同じく楔型文字で記されている。
 
 それには以下のようにある。
 
  黒檀、牛、孔雀、紅玉
  
  金、銀、ラビスラズリ
 
  錫、象牙、猿、鶏
 
 ソロモン王がタルシシュ船で輸入した品々は
 全てこのリストに含まれている。
 
 因みに
 紅玉とはルビー、ラビスラズリは青い石類で
 アフガニスタンの北方山地からからしか産出しない。
 
 孔雀だが生棲していた原産地はアジアのみである。
 
 「ヤクジャク」は中国南部からマレー、
 インドシナ、ジャワが分布地であった。
 
 また、
 サルゴン大王、ソロモン王が入手し得たのは
 インドのものでインド亜大陸とスリランカに
 しかいない。
 
 あのアショカ王が建てたマウリア王朝名は
 「孔雀王朝」との由来である。
 
  ここで
 日本語に「白檀」「黒檀」と表記されている用語を
 メソポタミアのシュメール、アッカドの時代の
 言葉で検討してみる。
 
 W.F.Leemans の 
 Forein Trade in the Old Babylonian Period 
 〔Studia ET Document, Vol. VI〕において
 ウル〔ペルシャ湾に近い古代の都市名〕から
 発見された粘土板に刻まれた楔形文字文の中に
 gis-melluh〔メルッハの木材〕 
 gis-mes-melluh〔メルッハの mes 木材〕
 との記述がある。
 
 ここに表現された木材〔gis〕は
 前述した説明で理解できるように
 インド方面〔magan,malluha〕からの
 輸入木材である。
 
 mes 表記の記録はウル市ばかりでなく、
 同市にも近い
 ウルク Urk 市の楔形文字板からも
 見つかっている。
 
 M.W.Green Hans J.Nissen の 
 Zeichenligte der Archaischen Texte aus Uruk
 〔ウルク古代文典の文字表〕に
 gis-mes-gi-su,gis-mes-babbar,
 gis-mes-ru,gis-mes-mes などとある。
 
 この mes 表記の絵文字は長方形▭の形象で
 材木と受け取れる。
 
 しかし、
 mes が何を指しているのか上記二つの研究書は
 明らかにしていない。
 
 そこで本書の探求の結果を述べると、
 同語の本来の語義は「東方の」あるいは
 「東国」である。
 
 その東国とはメルッハ、マガンに当る。
 
 その前者の研究書〔ウル市の〕が紹介している
 gis-mes-ha-lu-ub-maganna の haluub には
 インダス文明の遺跡と知られる
 「ハラッパ」名が想像される。
 
 この「東国」の語義が木材名へと転嫁され、
 インド亜大陸特有のしかも貴重な「檀」を
 指すことになったのである。
 
 上記ウルクの用語を解釈すると
 以下のようになる。
 
  gis-mes-gi-su〔木材-檀-黒〕長い黒檀
  gis-mes-babbar〔木材-檀-白い〕白檀
  gis-mes-ru〔木材-檀-香り〕香檀
  gis-mes-mes〔木材-檀-東方の〕東方の檀
  gis-mes-pes〔木材-檀-大きい〕大きな檀
 
  黒檀はインド西部とスリランカが原産地である。
 
 白檀に至っては
 インドシナとインドネシア地域にしかない。
 
 「アムルグ」のサンスクリット語における
 発音の類似語は alam-kāra で
 「装飾、装飾物、荘叢、叢飾」を語義とする。
 
 サンスクリット語の「檀」材の用語は
 malaya で特に白檀を指す。
 
 インド亜大陸南面の端に近い Malabar 名や
 マレーシアのマレー半島名になっている。
 
 なお日本などにおいて「旃檀」との通称があるが、
 これはサンスクリット語 candan〔檀木〕を
 音写して漢字表記したものである。
 
  このように分析すると、
 「列王記」第九章二八がいう
 「オフィル AVFYR」はインド亜大陸から
 東南アジア地方ということが確実である。
 
 インド西部には同名に近似した
 マルワ文化〔紀元前一七〇〇~一四〇〇〕と
 同時代の金属併用文化の遺跡名もある。
 
 パキスタンに近いジャスタン南東部の
 ウダイプール市の東方三キロメートルにある
 アハール Ochar 遺跡である。
 
 同地はインダス河中流で
 メルッハとマガンの地の中間にある。
 
 またサンスクリット語の 
 ahar は「日、昼」の語義ながら
 「太陽信仰」あるいは「火信仰」に係わっている。
 
 「列王記」がいう AVFYR(オフィル)は明白に
 現在いうところのアフリカではなく
 「インド」を言った呼称である。
 
 メソポタミアは
 紀元前の二〇〇〇年も前に
 東方インド亜大陸との間で
 盛んに交易を行っていたのであり、
 ましてやソロモン王の時代〔紀元前一〇世紀〕
 イブル人たちはフェニキア人〔ヒラム〕の
 協力を得たが、紅海からアラビア海を経て
 東方との交易路を開発し
 インドへ至っていたのであり、
 その東西交流の実在に疑いはない。
 
  インド亜大陸の南西端に広がる
 ケララ KeRaLa 州とは
 「イブル人の共同体 KhLL」が語源であろう。
 
 紀元前のうちにイブル人たちは 
 ムディリス〔胡椒の語義〕という貿易港を建て
 彼らの居留地とし、更に
 東方インド洋方面への活躍の基地にしたのである。
 
 一四、一五世紀の西欧の航海時代、
 香辛料の胡椒貿易を牛耳ったのは
 このイブル人であり、
 二一世紀に入った今日においても
 三十万人からのイブル人たちが
 そこで活躍している。
 
  ≪参考≫
 タルシシュ船団
 
 DNA調査ポイントの青写真
M.K記

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(七) 小月氏 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (七) 小月氏
 
  『史記』「大宛列伝」は
 匈奴に敗れた月氏について同族が分離したことを
 「立ち去ることのできなかった
  残余の小部落の者は南山の羌族と合流して、
  その地を保有し、小月氏と号した」と記す。
 
 南山とは祁連山脈のことをいう。
 
 西遷した者たちを大月氏というのに対して
 残った者立ちを小月氏というのである。
 
 その小月氏を
 『後漢書』「西羌伝」は「湟中月氏胡」といい、
 「其先大月氏之別也」とし、
 「大きな種族は七あり、
  すぐれた兵は合わせて九千余人、
  湟中及び令居に分かれてある。
  また数百戸が張掖にある。
  これらを号して義従胡という」とある。
 
 湟中は現在に青海省の青海湖の東方方面
 西寧市の西南僅かの所にある。
 
 「胡」とは胡族のことで、
 中国の西方、北方にあった漢族以外の種族を
 呼ぶのに漢の時代以降に用いられた。
 
 その種族の別称「義従」は漢音で
 Yi-tsung となるが、この呼称は
 ヘブライ語の YTSA の音写とみられる。
 
 その語義は
 「(外へ)出る、出かける、~離れる」であり、
 前記したパリサイ(博羅轉井)と同じであり、
 「離れた者」と解釈され、
 イスラエルを離れた者たちとの解釈が
 成り立っているのである。
 
 また湟中は現在においても
 魯沙尓(爾) lu-sha-er とも呼ばれている。
 
 これはエルサレム市の表記は
 耶路撤冷 Yelusaleng で、
 この語頭「耶」が消滅したのが魯沙爾であろう。
 
 西寧市の東方湟水の北岸に平安という町がある。
 
 この町名も小月氏と何らかの関係により
 成り立ったのではないかとみられる。
 
 というのもエルサレム市の市名は
 永い間「平和の礎」と解釈されてきた。
 
 現在の解釈においては
 ダビデが首都を建設する以前から
 同名で呼ばれていたことが明らかであることから、
 カナン語で暁に対する「夕明(茜)」を神とする
 サレム神に因む名称であることが
 知られるようになった。
 
 しかし、
 それは二十世紀に入ってからの解釈で、
 それまでには、
 ヘブライ語の SLVN (salum、平和、安息、平安)に
 よるものとされてきたのである。
 
 よって、
 平安の町は魯沙爾の意義の解釈から
 生まれた呼称とみられる。
 
 このように小月氏の居住した地域には
 イスラエル人と関連付けられる遺称があり、
 月氏がイスラエルであるとの見解を
 補うものとなっている。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 14p
二世紀中頃のアジア
大月氏&小月氏
大月氏&小月氏.jpg
M.K記

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(六) 海洋交易商人へ〔アラビア海方面に南下〕 [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
  (六) 海洋交易商人へ〔アラビア海方面に南下〕
  さて、
 北方の陸路の悪環境と海洋交易の利便を知った
 大月氏族の商人たちはアラビア海へ出て、
 海路の交易をする仲間に加わったものとみられる。
 
 貿易風を利して、その名称がその価値を示すが、
 アラビア半島からインド亜大陸へ航海する方法も
 ギリシャ商人には知られていたと思われる。
 
 インド洋海域から太平洋海域の海路について
 インドの商人は古くから
 かなりの智識を持っていたと考える。
 
 ここでは検討できないが、
 『漢書地理志』に載る
 中国から西アジア地方への航路と
 寄港地についての情報は
 インド商人によるものとみられる。
 
 記録を残さない彼らインド人の習慣から
 史料は少ない。
 
 また、
 その商業利権の確保のためにギリシャ商人など
 西方の者には正確な情報を漏らさなかったであろう。
 
  インドには紀元前八世紀頃から
 海外交易商人の組合 sabahā が存在し、
 株を買取ることにより
 その仲間に加わる制度ができていた。
 
 中村元によると、
 組合に加入するには金銭の投資が必要で、
 それによって船を買ったり、必要な資材を買った。
 
 組合員の間ではカースト(階級制度)は
 全く無視されていたという状況で
 株仲間に入るのは
 そう難しいことではなかったと思われる。
 
  そのような海外交易商人を vanika という。
 
 彼らの活躍した地域に残るのがワニ伝説で、
 ワニはワニカのことである。
 
 日本の稲羽の白兎の物語に出るのもこのワニで、
 動物のワニに例えられたのは商船のことである。
 
 商船を並べて海峡を渡る方法は
 紀元前六世紀ペルシャのダリウス一世が
 小アジアからギリシャへ征戦する際に
 現在のイスタンブール辺りに船を並べて 
 軍団を渡らせた記録が
 ヘロドトスの「歴史」に載っている。
 
  中央アジアからアラビア海へ活路見出し、
 効率のよい海洋交易に乗り出した
 大月氏の集団が、まずその基地を置いたところが
 南インドの西岸マラバール海岸にある
 今のコーチン Cochin と考えられる。
 
 一九八〇年代初めには
 十万人のヘブライ人が住んでいた。
 
 現在もその状況は変わらずコショウなど
 香料の市場を掌握していた。
 
 現在の地名ではあるが、
 近くには牛頭を意味する alp を語幹とする
 Alleppey、水を意味する mus(mis) を基にしている
 Mattancher、また市につけられた kulam 名を持つ
 Ernakulam と Kayankulam があり、
 西アジアの雰囲気を漂わせている。
 
 ここには紀元前から後二、三世紀頃までに
 ムジリス muziris 〔語義はコショウ〕名の港があった。
 
 大月氏集団はこの港を利用し居住地を
 広げたものと考えられる。
 
  インドにおいて海洋交易商人を 
 vanika といい、
 彼らインド人の足跡がワニ伝説に残り、
 その一つが稲羽の白兎物語である。
 
 つまり、
 古代にインドの商人たちは
 日本近海に徘徊していたことになる。
 
 それも
 紀元前には既に日本へ渡来していたのである。
 
 『漢書』に「奴」と記され「漢委奴国王」名の
 金印を授かった奴国は彼らの居留地で、
 その国名はサンスクリット語の船を表す
 nau に依るものである。
 
 そればかりではない。
 
 インドの商人たちは
 朝鮮半島の南端方面に月支国も成立させた。
 
 後で詳しく述べるがそれが韓(馬韓)である。
 
  インド商人を東アジアへ誘導した理由は、
 そこが絹糸の生産地であったからである。
 
 なお、
 イブル人の古代日本における拠点の一つは
 『魏志倭人伝』に記載されている「伊都国」である。
 
 「イト」はヘブライ語で、
 本来は「会衆、集団」の語義だが、
 世界各地に散った「(イスラエルの)記念碑」を表す
 IDH(Iedah) の音写とみられるからである。
 
 「奴国」が福岡市中央区の沿岸であるのに対し、
 「伊都」はその西糸島市に当る。
 
  絹産業の専門家に成長していた
 大月氏の商人集団は、推測であるが、
 インド商人の利権の仲間に入り商船隊に参加して
 東アジアに移動して来たと考えられる。
 
  海洋商人となった大月氏のうちの
 どのようなものたちであったかは難しいが、
 五翕候のうちのクシャン(貴霜)族に制圧された
 他の翕候国のものたちと考えるのが自然であり、
 特に肦頭(はんとう)翕候族は日本に移動した
 後の氏族名ハタ(秦)氏と同名なので、
 「ハタ」は patta が原語であり、
 秦氏が絹織物の技術集団だった歴史的事実から
 イスラエル人の一部であることに間違いない。
 
  クシャン王朝は四世紀まで存続するが、衰微し、
 その勢力圏に興ったエフタルやグプタ王朝のために
 消滅してしまう。
 
 その後六世紀になると、
 現在のラジャスタンであるラジプターナに
 グルジャラ Gurjara 王朝が成立し、
 その系統の王朝は一三世紀まで続く。
 
 その名称は月に親しいものであり、
 月氏の後裔でもあったと考えられるが、
 現在の判断では彼らを中央アジアからやっ来た
 正体の知れない民族とされる。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 11p
前二世紀後半の世界
海洋交易商人①
海洋交易商人①.jpg
  標準世界史地図 17p
五世紀後半のアジア
海洋交易商人② 
  海洋交易商人②.jpg
M.K記

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(五) パルチアの台頭と強力化 [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
  (五) パルチアの台頭と強力化 
  
  中央アジアと地中海沿岸にパルチア国が
 興ったことにより事情は変化し始める。
 
 上記のような陸路による効果的な
 交易網が機能しなくなる。
 
 パルチアの成立が
 中央アジアと地中海沿岸との
 交易路の行き来を邪魔したばかりでなく、
 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い
 パルチアとの間に紛争を再々起こし
 交通の遮断された状態が
 恒常化するようになった。
 
 また、
 東方の漢は後漢の時代になって
 西域へ遠征軍を送り、
 九十年には
 クシャナ王朝と直接戦争する事態となった。
 
 この当時も漢の史料ではクシャナ王朝を
 大月氏と呼んでいたが、
 大月氏が東方に持っていた商業権も
 漢に奪われてしまい、
 富をもたらした商業国家
 カドフィセスの王朝は打撃を受け
 停滞せざるを得なかった。
 
 この間の事情についてインドの歴史家
 R・S・シャルマは次のように解釈する。
 
   絹は、中国からアフガニスタン北部と
   イランを通る絹の道によって、
   インドを経ずにローマに送られた。
 
   しかし、
   パルティア人がその近隣地域を支配すると、
   その交易は難しくなったため、
   絹はインドの西北部を通って
   西海岸へ運ばれることもあった。
 
   このようにインドとローマ帝国の間には
   絹の中継貿易がかなり行われたのである。
 
 この時代インドからローマへ送られたものに
 鋼鉄も加わるようになる。
 
 この重い資材は船により初めて
 大量輸送が可能である。
 
 その点シュメールの時代から銅や錫、木材を
 ペルシャ湾に送ったインド商人にとっては
 お手前のものであったろう。
 
 ローマからはガラス器などが運ばれて来たが、
 その中心は金貨と銀貨であった。
 
 ローマの貨幣はインド全土のうち
 八十ヶ所以上で発見されているが、
 その全てがヴィンダヤ山脈以南の地域である。
 
 このことは海洋交易の隆盛が
 ローマとの交易の隆盛期を開始させたと解釈できる。
 
 西アジアとの交易は、南インドの物産と
 それにより東方の経路からもたらされた物産を
 取扱う南インドの海洋商人が、
 その主役を務めたことになる。
 
 ローマの貨幣はベトナム南部の
 メコン川のデルタでも発見されている。
 
  カドフィセスの王朝の停滞を受けて
 登場したのがカニシカ王の勢力で、武力により
 北はソグディアナから南はインドの中心
 ガンジス河下流へと進出しサルナート辺りまで、
 西南はアラビア海に至るまで支配下に置いた。
 
 このカニシカ王に対し、
 インド側がその支配勢力である
 アーリア人との整合性を求めて
 日種(太陽神崇拝者)であろうとしたが、
 彼自身はあくまで月種(月神崇拝者)だとして
 変えることがなかったという。
 
 その祖族がイブル人であったと推測される。
 
 実際同王朝の彫像には
 三日月があしらったものがみられる。
 
  ローマの金貨がヴィンダヤ山脈以北から
 発見されていない理由であるが、
 中村元の解説においても
 「ローマから多くの金が大量に移入された」
 「ローマの黄金を獲得した」と記し、
 金貨とはいっていっていない。
 
 また、
 代二代のカドフィセスは
 インドで初めて金貨の制度を始め、
 ローマから持ち込まれた金を
 自国の金貨鋳造のために使ったとの
 理由が挙げられる。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 14p
一世紀~三世紀のアジア
パルチアの台頭と強力化
パルチアの台頭と強力化.jpg
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(四) クシャン王朝と絹貿易 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
  (四) クシャン王朝と絹貿易 
  
  大月氏国五翕候時代は四十年続くが、
 紀元前二〇年頃から五翕候のうち貴霜ギリシャ名
 ヘラウスが統一行動を始める。
 
 そして紀元後四五年に他の翕候国を圧えて
 グジュラ・カドフィセスにより
 クシャナ王朝が成立する。
 
 カドフィセスの王朝はその子
 ウーマ(カドフィセス二世)の時代
 一四四年まで続き、
 その後やはり于闐出身とみられる
 カニシカ王がその王権の座につき
 支配王族が交替する。
 
  カドフィセスの王朝が富み盛えたことが
 インドの仏典により知られる。
 
 中村元の「インド古代史」によると
 
 「クシャーナ帝国の財力は
  ローマとの貿易によって蓄積されたことも
  相当大きかったに違いない。」とし、
 
 その実情を次のように述べる。
 
   クシャーナ族が西北インドを
   支配した時代になると、
   ローマとの交通が活発になり、
   商業活動が盛んになった。
 
   当時水路の旅行は盛んに行われたらしい。
 
   陸路の旅行は困難であるが、
   水路の旅行は安易であるということが、
   当時の仏典にも盛んに強調されている。
 
   この時代にはインドからローマに輸出された
   莫大な奢侈品と交換に、
   ローマから多くの金が大量に移入された。
 
   クシャーナ帝国の商人はローマとの交易を開き、
   絹・香料・宝石・染料などを売って
   ローマの黄金を獲得した。
 
   プリニウスの伝えるところによると、
   その当時は毎年五千万 sesterius の金を
   ローマからもち去ったが、
   それに対して送ってよこした商品は
   原価の百倍で売られたという。
 
 そして
 「このローマの金の大量移入を
  可能ならしめた発端は、
  先グジャラがローマと使節を
  派遣したことに求められるべきであろう。」
 とする。
 
  このようにタリム盆地を通じて
 玉・絹の交易路を確保していた大月氏族は
 ローマとの交易を成立させ、
 それまでのペルシャから小アジア方面への交易網を
 活用していたが、
 後には海路に大量輸送へと転換をはかることになる。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 14p
三世紀のアジア
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(三) 月氏〔大月氏〕とシルクロード (大月氏国の成立) [神聖の系譜]



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第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
   (三) 月氏〔大月氏〕とシルクロード
     (大月氏国の成立)
  
  紀元前一七七年頃、
 匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう) に敗れた
 月氏は一七六年には一部は安定に残留したものの
 他の人々は西遷を始めた。
 
 彼らは天山北方のイリ(伊犁・伊列)に
 弓月城を築いて一時滞在したが、
 更に西方に移動し、
 張騫の派遣された一三九年までに
 西トハリスタン、ソクディアナ、バクトリアに
 地歩を固め、
 一四〇年には
 大月氏国を成立させたとみられている。
 
 移動したものを大月氏、
 祁連山辺に残留したものを小月氏という。
 
 これより以前紀元前四世紀
 マケドニアのアレクサンダー大王が
 東方への大遠征を行い、
 バクトリア、ソクディアナまで到着し、
 三二五年頃
 インダス河を下ってアラビア海へ出て
 ペルシャのペルポリスまで引上げた。
 
 彼が三二三年に突然死去すると、帝国は分裂し、
 この地方はセレウコスの王朝となるが、
 その勢いが衰え、
 この地方にはバクトリア国が、
 大王に率いられて渡来し残留していた
 ギリシャ人たちによって独立成立した。
 
 ヘレニズムの東端の国と言われている。
 
 同国も北方のスキタイ人などの圧力に押されて
 次第にヒンズークシ山脈の南へ
 内部分裂と紛争を繰り返しながら移っていく。
 
 この北方からの勢力の中に
 月氏の勢力もあったと言われ、
 その間に覇権を纏(まと)め上げたのが
 大月氏国であった。
 
 ソクディアナが彼らの故地であったとすれば、
 帰還ということになる。
 
  紀元前一四〇年からの支配体制についての詳細は
 よく解らないが、
 その首都が中国名藍氏(Yun-shi)城で、
 バクトリアのバクトラ内にあったとされる。
 
  紀元前六五年には五王国に分裂されたことが
 中国の史料にみられる。
 
 『漢書』によるとその五王国は、
 
  (1) 休蜜翕候:きゅうみつきゅうこう 
  (2) 隻靡翕候:そうひきゅうこう 
  (3) 貴霜翕候:きしゃんきゅうこう
  (4) 肦頭翕候:はんとうきゅうこう
  (5) 高附翕候:こうふきゅうこう
 
 翕候は王のような職位を表す。
 
 そのうちの
 高附は喀布爾〔かふじ(る)〕とも表記された
 現在のアフガニスタンのカブールであり、
 貴霜はタリム盆地の南西、
 ギリシャ語でクスターナと云われた
 現在の和田(ホータン)である于闐(うてん)の地であり、
 後に貴霜〔クシャン〕は他の王国を統一して
 インド亜大陸へも勢力を伸長し、
 仏教の擁護者カニシカ王を誕むこととなる。
 
  この于闐の地は古来玉石の産地として
 繁栄したものであるが、
 クシャン国もその天恵に浴した。
 
 玉は角閃石の一種で同地には
 白玉河、緑玉河、黒玉河があって
 産量の豊富であったことを示している。
 
 玉石は中国語において殷の時代より
 圭(けい)、璋(しょう)、壁(ぺき)と
 王権の権威を象徴するのに用いられ尊重された。
 
 漢の時代になってもその需要は高く
 大量に輸出されたらしい。
 
 その状況は唐宋の時代まで続く。
 
 その見返りとして漢からは絹が輸出された。
 
 このことからシルクロード(これは近代の銘々)は
 開発確立されることとなったのである。
 
 大月氏国に齎(もたら)された絹が更に
 西方に輸出されたことは間違いない。
 
 東方の漢にとって大月氏は「玉の民族」であり、
 西方の国にとっては「絹の民族」という
 見方もここでは成り立つ。
 
 地中海沿岸のフェニキアは古来
 織物産業の活発な土地であり
 イスラエルの地でもそのような技術を習得しており、
 メディアなどに移動させられてから
 六百年を過ごした後とはいえ、
 日常の衣服を生産するなどして技術を保持していた
 技工たちはいたに違いない。
 
 彼らが絹の専門技術者あるいは
 商人として成長したと考えられる。
 
 というのも、五翕候のうち言及していない
 三翕候名はサンスクリット語で解釈すると
 養蚕業に係わる名称であるからである。
 
 当時インドの言葉は仏教の伝播などとともに
 この地方へも広がっていたから不自然ではない。
 
  「休蜜」は Krmi で「昆虫、虫」の意味で、
 ここでは「かいこ」つまり蚕のことである。
 
 「隻靡」は蚕の蛹(さなぎ)のことでサビであり、
 「肦頭」は patta で絹を意味する。
 
 貴霜についてもクシャンの語幹が kusa で 
 サンスクリット語の「草」であるが、
 書残されたなかにはギリシャ語の Korsano 、
 あるいはカニシカ王の貨幣に刻まれた
 košana の場合もあるので
 繭を表す koša を祖語とした
 部族名であった可能性もある。
 
 『後漢書』西域伝は高附の代わりに都蜜を
 五部族のうちに記している。
 
 この語は dāma で「紐、縄、綵、帯」であるが、
 その意味するところは tanu 「紐、細線、糸」で
 繊維というものであろう。
 
 tantu-uana は織機を表す。
 
 以上のように大月氏の部族名は絹産業を基礎にした
 技術集団と考えられるのである。
 
 この頃から
 西方のローマを初めとする地中海地方では
 セレスという絹を表す
 貴重な織物と糸が普及し始めるのである。
 
 ※出典:吉川弘文館
  世界史年表・地図
  標準世界史地図 11p
 前二世紀後半の世界
前二世紀前後の世界.jpg
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(二) メディアから安定へ 〔エズラ書のアルザレと「パリサイ」〕 [神聖の系譜]



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ヘブライ&日本の古代史
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第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (二) メディアから安定へ
    〔エズラ書のアルザレと「パリサイ」〕
 
  イブル人が月氏に本当人になったのかについて
 考察してみたい。
 まず、
 ソクディアナ Sogdiana についてである。
 この地名がヘブライ語で解釈した場合
 「神を崇拝する」の意味であるとの指摘は
 既になされている。
 Shoykhet(Shokhtim) が
 それに相当する用語であるが、
 「儀式のための屠殺」が本義である。
 その祖語はシュメール語の sukud-e-en 
 「神を高くするに想定してよいだろう。
 sukud はメソポタミアの高床式神殿で
 検討した用語である。
 この語は神域を表す suk、sug と関連し、
 ソクディア名の語幹と考えられる。
 「烈王記」下は
 「高き所を建て」たので
 サマリアは 取られたと述べており、
 イブル人がそのままの信仰を
 ここに持ってきてもおかしくない。
 そのサマリア名をつけたのがソクディアの
 中心都市サマルカンドであると
 考えることもできる。
 「高い所」の信仰はバアル神信仰で、
 その象徴は牡牛である。
 サマルカンド近郊の町 
 キシュ Kish はヘブライ語で
 「牡牛の」の意味の kiish によるだろう。
 ソクディアナには
 牡牛に係わる地名がよくみられる。
 そこを流れる川の名称も アム Amu は
 シュメール語で野牛である。
 後世 オクサス oxus となるが、
 これはヨーロッパ語圏の用語で牡牛である。
 サマルカンドとキシュの間の町
 マイムルク Maimrug はセム語で三日月を表す。
 一三世紀から一四世紀にかけて
 エジプトから地中海東岸のアレッポまでを 
 支配においたイスラムの マメルク Mameluku 朝名
 と同義であるる。
 このようにソグディアナが牡牛の祝祭を
 行っていた可能性があり、
 その担い手がサマリアから移動させられ
 メディア周辺にいたイブル人で、 
 メディア国の拡大の時期に中央アジアまで
 さらに移動したのではないかと推測される。
  ソグディアナから東方へ行く交通路の途次、
 天山山脈の北の草原を行くと弓月城を過ぎ、
 同山脈の東端を回るとトルファン(高昌)へと出る。
 ここにはベゼクリクの町があった。
 この町名もイブル人の残した名称とみられる。
 Bezeklik の beze- はベツレヘム Bethlehem の
 beth で家を表す。
 ヤコブが夢に見た「神の家」の地である。
 klik は
 ヘブライ語の kirkh で、
 ドイツ語の Kirche、
 英語の church と同義である。
 キリスト教の場合には教会、寺院であるが、
 その内容は「礼拝堂、聖堂、神殿」あるいは
 「使徒」を意味する。
 さらに
 その原義は「礼拝、祈祷」である「神事」を表す。
 よって、
 Bezeklik も「神殿」のことである。
 
 現在中国名(月+生)金台という町がここにはある。
 Sheng-jin-tai は singer あるいは 
 sinagug の転訛とみられ、
 ベズクリクと同じ神殿の語義である。
   月氏は敦煌と祁連山(両方とも甘粛省内)
 との間にいたという『史記』大宛列伝はいう。
 同列伝は紀元前一三九年に
 前漢の武帝が張騫西域の大月氏に
 向けて派遣した事情と
 西域・中央アジアの状況を報告したものである。
 月氏について中国の史料には 
 和氏、禺氏、牛氏などと表記される。
 『漢書地理志』で月氏道の名を載せた安定は
 現在の安西、安北、安南(新彊区)がその尊称で
 甘粛省の西の端にあり、敦煌を中心とする。
 そのまた西南の端れに現在
 阿克塞哈薩克族自治県があるが、
 その都市名が博羅轉井である。
 同市名を中国読みにすると、
 Pak-Luo-Zhuan-Jing となるが、
 「パリサイ」で
 英語の Pharisee 
 ドイツ語の Pharisär であり、
 キリストの時代に
 「内面的戒律よりも外面的規則を重要視した
  カナンの政治宗教的一団」
 の名に対するもので、ヘブライ語の 
 PRSh、Parisai が原語と解釈できるのである。
 ここにおけるその命名は、
 そのような宗教的立場の表明ではなく、
 その原義が「離れている者」でることから、
 遠く原郷のイスラエルを
 離れているとの意味に解釈できる。
 民族名は中国語の訓音では 
 A-Ke-Sak-Ha-Sa-Ke となる。
 hasaka 哈薩克はカザフ Kazakh 族のことである。
 その母体はウイグル族で、
 九世紀にモンゴルの東部にいたが
 契丹に追われて西遷し、一部がこの地方に定住し
 遊牧から農業へと生活の形態を変えた。
 彼らをウイグル・カザフ族といい、
 後に単にカザフ族と言われるようになった。
 カザフ名はこの地方で付けられたものである。
 
 カザフ Kazakh は本来どのような意味なのか。
 その意味は「牧夫」と推測される。
 シュメール語の kus(牧夫) も思い出すが、
 阿克塞 Akesak を oxas 、
 ドイツ語の Ochs(牡牛)とするのは間違いない。
 中国史料が月氏を牛氏と言った。
 哈薩克 Hasake(kazakh) は、
 ドイツ語の Hscher(捕史)
 動詞形 hasche(捕える)か、
 haschieren(肉を刻む) Haschee(刻み肉)に
 対応すると考えられる。
 前者は牧夫を想起させ、
 後者はゲルマン人の故郷西イランの Kāshar の名称
 「ユダヤ教の教義に敵っている。」
 との意義である「清浄」を表す Kosher と関係する。
 hasake(ドイツ語の Hasche) は
 「レビ記」の
 「燔祭の獣の皮をはぎ、
  節々に切り分けなければならない」
 に対する用語で祝祭を行うものたちの意味となり。
 祝(ハフリ)の原郷、
 現在のシリア東部ハブール川の上流にある
 エル・ハサカ El Haseke にも表されている。
 阿克塞哈薩克族とは「牛飼い族」あるいは
 「牛祝祭族」となる。
 カザフは牧夫の意味に相当する。
 パリサイ(博羅轉井)名とこの族名を考慮すれば
 月氏(イブル人)の影響があったことによると
 考えてもよい。
  禺氏も牡牛を表す gu によるものであろう。
 周辺には、大草、長草のつく地名があり、
 牧畜に適した高原であることは印象づけている。
  「失われた十支族」といわれるイスラエル人が
 この地方にいたと指摘できる資料がイブル語の
 資料にもある。
 
 それは『旧約聖書』にもその名前がある。
 エズラの名称をつけられた
 「エズラ第四書」という資料である。
 そこに Arzare「アルザレ」という地名が
 「彼らが最後まで住んだ」地として記されている。
 そこは、
 ユーフラテス川を越えて一年半の長い道のりを
 要する所だと言っている。
 アルザレは、安定、あるいは安西の訓音に近い。
 また、博羅轉井の南西方に五七九八メートルの
 高さの阿尓金山及びその名称の山脈があるが、
 これはウイルグ語の「黄金」を表す altum を
 漢語化した名称とみられるが、
 「アルタン」もまたアルザレに近似する。
 しかし、
 アルザレ、アルタンはセム語(アッカド語)の同じく
 「黄金」を意味する hurasu を
 祖語とするとみられるのである。
 「エズラ第四書」は
 紀元後一世紀の末期に書かれたもの言う。
 シャルマネセル五世の時代からは
 八〇〇年余りが過ぎている。
 その間に
 イスラエルの支族の行方についての情報が
 伝わっていた可能性を示すものであり、
 月氏がイスラエル人であったとの見解を
 傍証するものである。
  和氏名については事情がある。
 月氏が渡来する以前、ここは和氏の郷であった。
 『史記』五帝本記堯帝の
 「和仲に命じて、西土に居らしむ。味谷と曰ふ。
  敬みて日の入るを導き、西戎を便程す。」
 
 とあることと係わるからである。
 和仲は和氏の次子の意味で、
 西土は三危とも呼ばれた。
 同じ堯帝条に
 「三苗を三危に遷し、以て西戎に変じ」とあり、
 三危は現在敦煌の東仏教の岩窟で有名な
 莫高窟のある三危山にその名を遺す。
 西土は西戎の地である。
 和氏はまた夏氏であり、月氏が西遷し
 移り住んだ地を大夏(バクトリア) というのは
 これに依るものである。
 夏は『史記』にも「夏本記」があるが、
 殷〔商〕より古い王朝と考えられている。
 以前には空想の王国とされていたが、
 最近は考古学的資料が
 夏の実在を証明するようになり、
 今では
 中国の最初期の王朝名として
 認められるようになっている。
 堯帝により
 和氏の一部が移転させられた理由により
 そこの住民を和氏と称したのである。
 和氏が米作りに養蚕業に優れていたとすると、
 月氏は彼らより
 絹についての智識・情報を得たのである。
 月氏が絹商人へと変化していく切っ掛けである。
 
 敦煌の北方新彊区内に哈蜜市がある。
 この町は和氏が建てた町とも考えられる。
 雲南省の少数民族に哈尼(はに)族がいる。
 彼らは古くは
 「和夷(ほい)」
 「和蛮(ほまん)」
 「哈泥(ほに)」などとも呼ばれ、
 『史記』に載る和氏の一族と考えられている。
 哈尼族ばかりでないが、
 雲南省の民族は紡織・織布に優れ、
 色彩豊かで個性的な織物は歌垣という祭礼で
 人々が着る衣裳の素晴らしさでよく知られている。
 手工業は農閑期の主要な仕事で、
 少女たちは子供のうちから母親に手ほどきを受けて
 伝統の継承者となる。
 彼らの祖先は
 もっと北方の四川省北部方面にいた
 人々と考えられている。
 四川省は蚕(蜀)で古来栄えと地方である。
 
M.K記

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(一) イスラエル十支族のアッシリアによる強制移住〔捕囚〕メディアへ [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (一) イスラエル十支族のアッシリアによる
     強制移住〔捕囚〕メディアへ
 
 
  「烈王記」(下)の第十八章は
 次のように記す。
 
   アッシリアの王はついにサマリアを取り、
   イスラエルの人々をアッシリアに捕えていって、
   ハラとゴザンの川ハボルの畔(ほとり)と
   メデアの町々においた。
 
 この事件は、シャルルマネセル三世が
 紀元前七二二年に
 パレスチナへ侵攻した際のことであった。
 
 第十七章でイスラエルのアハズ王が会った
 アッシリアのティグラト・ピレセル三世の治世は
 七四四年から七二七年であり、
 続くシャルルマネセル五世の治世は
 七二六年から七二二年であり、
 「烈王記」のいう
 アッシリアの王シャルルマネセルは
 五世のこととなる。
 
  イスラエルの人々が移住させられた地は、
 ザクロス山中のメディア国が建国された時
 首都が置かれたエクバタナ、
 現在のケルマンシャアの近辺である。
 
  ハラ Halah はアッシリア時代のハルハルで、
 現在のカルへ kharheh 川の沿岸 
 karand あたりであろう。
 
  ゴザン Gozan は、ディヤラ川の水源の盆地近く
 現アルヴァト山の麓でゴディン Godin の地名がある。
 ゴディン・テぺと呼ばれる
 旧石器時代からの遺跡がある。
 
  ハボル Habor は、ザクロス山脈の西側イラクとの
 国境にあるカビル Kabir 山脈に
 因むものとみられるが、その周辺の地であろう。
 
  メデア Medea は、メソポタミアの東側の
 アッシリアを滅亡させた国の名称であるが、
 イスラエル人が連行された当時はまだ
 ケルマンシャアを中心とする狭い領国であったから
 同市周辺とみられる。
 
  ところで、
 この事件を聖書はどうとらえたかであるが、
 「烈王記」第一八章は続けて述べる。
 
   これは彼らがその神、主の言葉に従わず、
   その契約を破り、主の僕モーセの命じた
   全ての事に耳を傾けず、
   また行わなかったからである。
 
 つまり、
 イスラエルの人々は、
 モーセにシナイ山で語りかけた
 主(ヤハウェ)の言葉「十戒」などに
 従わなかったからだといっているのである。
 
 彼らは現在の言葉でいうと
 天主教を信奉しなかったからだということになる。
 
 第一七章で更に詳しくその理由を説明している。
 
   イスラエルの人々は、その神、
   主に向かって正しからぬ事を密かに行い、
   見張台から堅固な町に至るまで、
   全ての町々に高き所を建て、
   また全ての高い丘の上、
   全ての青木の下に石の柱とアシラ像を立て、
   主が彼らの前から捕え移された
   異邦人がしたように、
   全ての高い所で香を焚き、
   悪事を行って主を怒らせた。
 
 この条句のなかでいう
 「主が彼らの前から捕え移された異邦人」とは
 カナアン人のバアル神信仰を表す聖書の慣用句である。
 
 「高き所」とはアルパチヤ遺跡の高床式神殿から
 ジクラトまで既に既述した宗教的建立物である。
 
 紀元前八世紀のイスラエルにおいては、
 まだバアル神信仰が根強く、
 アッシリア(メディア)へ移住させられた
 人々の信仰が主の教えだけでなかったことを
 明らかに物語っているのである。
 
 西欧の学究は、
 失われた十支族として世界中に教徒の痕跡を
 捜し回ったが、それは矛盾である。
 
 移住した人々が持っていた信仰はバアル神信仰や、
 月神(三日月)信仰でもあったと考えるべきである。
 
  次の注意点は、移動させられた先メディアが
 牛頭信仰の古くから行われていた
 地方であったことである。
 
 ハブール (Kabir) 名の残る地帯の一部である。
 
 メディア国は紀元前六二五年に建国し六一三年に
 新アッシリアを滅亡させた。
 
 そのためその版図はアナトリアからバクトリア、
 パンジャブにまで及んだ。
 
 その間移動させられたイスラエル人たちが
 どうしたのかは全く解らない。
 
 だが、
 紀元前四世紀になると、
 中国の西北方面甘粛省あたりに
 月氏 Yuen-shih が表れるが、
 この部族がイスラエル人の後裔と推測される。
 
 『漢書』西域伝に「月氏」は初めて登場する。
 
 また『後漢書』西域伝にも同様に表記されていると
 共に「西羌伝」に月氏の別称として「義従」とある。
 
 同語の中国発音は Yi-tsung で月氏 Yuen-shih と
 近似している。
 
 その原語はヘブライ語の YD.yad あるいは
 IDVT〔証拠〕の転訛であり、
 その語義は「記念碑」を表す。
 
 この記念碑とはイスラエル十支族の象徴である。
 
 「ヨシュア記」第二二章で
 
 「ルベンの子孫、ガドの子孫及び
  マナセの部族の半ばがカナンの地のヨルダンの
  ほとりにきた時、その所で、
  ヨルダンの岸辺に一つの祭壇を築いた。
  それは遠くから見える祭壇であった。」
 
 「ルベンの子孫、ガドの子孫は
  その祭壇を IDVT「あかし」と名付けて言った。
  これは、我々の間にあって、
  主が神にいますという証をするものである。」
 
 に由来するもので、「あかし」(証拠)の
 ヘブライ語は IDVT.iedut で、
 「証人」が ID.ied あるいは IDH.ieda と表記され、
  YD.yad(記念碑)との関係をみせているばかりでなく、
 月氏 Yuen-shih 及び義従 Yi-tsung 
 の原語であるのである。
 
 「ヨシュア記」の詳しい解説からすると
 「記念碑(祭壇)」はイスラエル人(失われた十支族)
 の代名詞である。
 
 『漢書地理志』の安定項中に
 「月氏道」の名称がある。
 
 現在の甘粛省酒泉敦煌県の辺りに当る。
 中国漢代の史料『史記』大宛列伝に
 匈奴に対抗するため漢の武帝が使者張騫を
 遣わした国である。
 
 この時月氏の一部は
 バクトリアに移動(紀元前一七六年)し
 大月氏となっていた。
 
 移動の途中彼らはイリ川の水源地方伊犁に
 弓月城を築き暫く留まった。
 
 弓月は三日月の比喩名である。
 
 また、バクトリアの彼らの首都名を
 大宛列伝は藍市城と記すが中国語で
 Yun-shi と発音される。

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(五) 「ヨシュア記」のガド族・マナセ族・ルベン族の築いた 祭壇と「証拠」② [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第一章 旧約聖書のイブル人部族化
 
  (五) 「ヨシュア記」の
     ガド族・マナセ族・ルベン族の築いた
     祭壇と「証拠」
 
 この記述は極めて重要なので少々長いが転載した。
 
 その要点は、
 ガド族等は燔祭、素祭など犠牲を献げる、
 つまり祝祭のための祭壇を
 築いたのではないといっている。
 
 祝祭のための祭壇はエルサレムの祭壇
 ただ一つでしか許されるものではなく、
 それをアルターALTARという。
 
 これに対し、
 ガド族等が築いたのは祝祭を行わない祭壇で、
 MZBK(mizbeykhe)と言う。
 
 そして、その祭壇ではヨシュアに言われたように
 「戒め」MZB(mizbe・戒律・祈り) と
 「律法」TORH(tore・告示)を
 「慎んで行」うためのものである。
 
 そしてルベンの子孫、ガドの子孫および
 マナセの半部族と他の部族の間、また、
 それそれの子孫の間においても
 それが証拠となるよう
 祭壇の型を同じくしないで証拠としたという。
 
 この証拠の意味は誓約である。
 
 このような説明により、イスラエルの人々は
 攻め上がるのを止めることとした。
 
 第三二章の終わり三三、三四で言う。
 
   そしてイスラエルの人々は神を誉めたたえ、
   ルベンの子孫、および
   ガドの子孫の住んでいる国を滅ぼすために
   攻め上がろうとは、もはや言わなかった。
 
   ルベンの子孫とガドの子孫は、
   その祭壇を「あかし」と名付けて言った。
 
   「これは、我々の間にあって、
    主が神にいますというあかしをするものだ。」
 
 この「あかし」のヘブライ語は IDVT(edut)である。
 
 英訳本聖書が witness 証人(音が似ている)と
 訳しているように「証拠・あかし」で
 あることに本義は間違いない。
 
 だが、この用語は
 ドイツ語の Eid 、
 英語の oath であり、
 「宣誓、誓約」を意味し、
 特に「神にかける誓い」を表す。
 
 「宣誓」とは大きな声で述べること、
 つまり「叫び」ある。
 
 ガドの出生に当ってその名前が
 シュメール語の ga-du(叫ぶ)に係わる
 用語であることを説明したのは
 この事件に連なるからである。 
 
 また edut の E は原カナアン絵文字で
 「叫ぶ人」であるといい、
 hō と訓んだとの説もあり、
 フェニキア文字、ギリシャ文字を経て
 現在の字形 E になったものである。
 
 「叫ぶ人」は
 単に大きな声を出している人のことではなく、
 シュメール語から継承された「神を讃える」
 ār に係わると考えられる。
 
 ガド族の祭壇は IDVT(edut) と呼ばれる
 「宣誓、誓い」、「あかし」である。
 
 IDVT は「民数記」第九章十五にも
 「あかしの幕屋」 AHL-HIDVH〔天幕-証拠〕として
 用いられており、
 神とイスラエル人の間の
 「契約」を表す用語でもある。
 
 IDVT はIDYVT(ediut) とも表記される。
 
 「創世記」第二一章三一の
 「彼らがそこで誓いをしたからである」とある
 「誓い」をアメリカ聖書協会の古い版では
 oath としている。
 
  祝祭を行わないガド族の祭壇には、
 律法・トーラー TORH を納める
 「神の契約の箱」のみが
 安置されることになったのである。
 
 この箱は『旧約聖書』において
 「神の箱」「契約の箱」「あかしの箱」
 などと呼ばれる。
 
 一九四八年に死海の北西岸のクムランから
 『旧約聖書』のヘブライ語版が発見され、
 死海文書(写本)として知られている。
 
 学問的にその発見地の名称から
 ワディ・クムラン文書という。
 
 これは羊皮紙に書写されたもので
 巻物となっていた。
 
 これらの巻物の年代は
 紀元前三世紀の中葉から紀元前二世紀末以降、
 巾広くみて紀元前後二世紀に属するとされている。
 
 ガド族が
 アッシリアのシャルマネセル五世により
 メディアの周辺へ捕囚されたのは
 紀元前七世紀のことであったから、
 その間に四、五百年の隔たりあるので
 確定的な推測はできないが、
 ガド族の祭壇に納められていたのは
 死海文書と同様羊皮紙に書かれた巻物の
 「律法」であったと思われる。
 
 あるいはクムラン文書中にもある銅板に
 印刻したものだったのだろうか。
 
 捕囚以前にはモーセ五書といわれる
 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記
 やその他の記紀も成立していたので、
 祭壇の「神の箱」には、
 これらの聖書も納められていたと推測される。
 
 『旧約聖書』を総称して
 ヘブライ語では TNKh という。
 
 また、
 箱を意味するヘブライ語は 
 KFSH、SAKTL、KISTL、ARN がある。
 
 祭壇を安置する所は寺院ないし神社であるが、
 神との会見の場で
 会堂あるいは公会堂、また教会という。
 
 これを BYT-HNSD〔家-会合〕と言う。
 
 これまで「神社」と用語を同じくすると
 述べてきたシナゴーグはギリシャ語名である。 
 
M.K記

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(五) 「ヨシュア記」のガド族・マナセ族・ルベン族の築いた 祭壇と「証拠」① [神聖の系譜]


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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第一章 旧約聖書のイブル人部族化
 
  (五) 「ヨシュア記」の
     ガド族・マナセ族・ルベン族の築いた
     祭壇と「証拠」
 
  ガド族とはどのような部族だろうか。
 
 ガド Gad はヤコブの七番目の息子の名前に始まる。
 
 ヤコブは妻レアとの間に
 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ
 の息子六人をもうける。
 
 そして次にヤコブの子として生まれる来るのが
 ガドである。
 
 「創世記」第三十章は次のように記述する。
 
   さて、
   レアは自分が子を産むことをやんだのを見る時、
   つかえめジルバを取り、
   妻としてヤコブに与えた。
   ジルバはヤコブの子を産んだ。
   そこでレアは、
   「幸運が来た」と言って名をガドと名付けた。」
   ジルバはガドの弟アセルも生んだ。
   その後ヤコブにはイッサカル、セブルン、
   デナ、ヨセフができ、
   これら十二人の息子が部族を形成することになる。
 
  ガドが生まれた時にこの日本語訳では
 「幸運が来た」とされてい、
 その原語が Gad なのである。
 
 その本義について「幸運」としたのは
 へブライ語の GDLH(gdule) に依ったと
 考えたからである。
 
 「幸運」あるいは「偉大」を表す用語である。
 
 また英語版には guard と考え
 「軍隊」とした解釈もある。 
 
 英語本、日本語本が、「幸運が来た」と「言った」
 と表記している部分は「叫んだ」と
 考慮しておく必要がある。
 
 「叫ぶ」は「大きな声で言う」ことを意味する。
 
 シュメール語の「叫ぶ」に gad に似ている。
 
  時代は下がって
 モーセの後継者ヨシュアの時代、
 エジプトを脱出したイスラエルの人々は
 死海の東岸地方にいたが、
 神の契約の箱を十二の部族から一人ずつ
 選ばれた十二人の人々達が担ぐのを先頭に
 ヨルダン川を渡り
 カナンの約束の地に入ることとなった。
 
 この時もモーセの出エジプトの時と同じように
 ヤハウェ神はヨルダン川の水を止め
 陸としてイスラエルの人々を渡らせた。
 
 「ヨシュア記」第三章は述べる。
 
   「上から流れて下る水は留まって、
    はるか遠くのザレタンの傍らにある町
    アダムで、うず高く立ち、
    アラバの海すなわち塩の海の方に
    流れ下る水は全くせきとめられたので、
    民はエリコに向かって渡った。
    全てのイスラエルの人々が
    乾いた地を渡って行く間、
    主の契約の箱を担ぐ人々たちは
    ヨルダン川の中の乾いた地に立っていた。
    そして
    ついに民は皆ヨルダンを渡り終わった。」
 
 この時ガド族は「神の箱」を守って進軍した。
 
 第四章には記述する。
 
   「ルベンの子孫とガドの子孫及び
    マナセの部族の半ばは、
    モーセが彼らに命じていたように武装して、
    イスラエルの人々に先立ち渡り、
    戦いのために武装したおおよそ四万の者が
    戦うため、主の前に渡って、
    エリコの平野に着いた。」
 
 ガドの出生の際に
 その名前を「軍隊」と判断したのは
 この勇壮さを考慮したためであろう。
 
 多くのイスラエルの人々がヨルダン川を渡った。
 
 そこで
 父祖の地に部族毎に分かれて住むこととなったが、
 ガド族はヨルダン川東岸以東が与えられていた。
 
 「ヨシュア記」第十三章は
 
 「マナセの他の半部族と共に、ルベン人と、
  ガド人々とは、ヨルダン川の向こう側、
  東の方で、その嗣業をモーセから受けた」(八)
 
 「モーセはまたガドの部族、ガドの子孫にも、
  その家族に従って、嗣業を与えたが、
  その領域は
  ヤゼル、ギレアデの全ての町々、
  アンモン人の地の半ばで、
  ラバの東のアロエルまでの地。
  ヘシボンからラマテ・ミツバまでの地。
  谷の中ではベテハラム、ベテニムラ、スコラ、
  及びザボンなど、
  ヘシボンの王シホンの国の残りの部分、
  ヨルダン川を境として、ヨルダンの東側、
  キンネレテの湖の南の端までの地。
  これはガド人が、
  その家族に従って獲た嗣業にあって、 
  その町々と村々とを含む。」
  (第二四章二八) 
 
 現在のヨルダン国の死海とゲネザレ湖の間の
 ヨルダン川の東に広く居住したのであった。
 
 しかし、アンモン市の周辺は含んでいなかった。
 このうち死海の北端辺りから北はソロモンの時
 ギレアド Gelied と呼ばれ、
 その南方をガドと呼んだ。
 
 第二二章四、五は言う。
 
  「ヨシュアは、ルベン人、ガド人、
   およせマナセの部族半ばを呼び集めて、
   言った。」
  『それで、あなたがたは身を返して、
   主の僕(しもべ)モーセが、あなたがたに
   与えたヨルダンの向こう側の所有の地に行き、
   自分たちの天幕に帰りなさい。
   ただ、主の僕(しもべ)モーセがあなたがたに
   命じた戒めと律法とを慎んで行い、
   あなたがたの神、主を愛し、
   その全ての道に歩み、その命令を守って、
   主につき従い、心をつくし、精神をつくして
   主に仕えなさい。』
 
  そして、
 彼らはその所有地への帰途ヨルダン川に至って
 一つの祭壇を築く。
 
 これに対し残りのイスラエルの部族は
 その行為に疑念を持ち、同所を攻めようとする。
 
 第二二章一六は
 イスラエルから出た十名の使いが彼らに言う。
 
 「主の全会集はこう言います。
 『あなたがたがイスラエルの神に向かって、
  科を犯し、今日、主に従うことをやめ、
  自分のために一つの祭壇を築いて、
  今日、主に背こうとするのは何事か。』」
 
 これに対し、
 ガドの子孫らは次のように述べる。(二三ー二九)
 
   我々が祭壇を築いたことが、
   もし主に従うことをやめるためであり、
   またその上に、
   燔祭、素祭を捧げるためであり、
   あるいはまたその上に、
   酬恩際の犠牲を献げるためであったならば、
   主自ら、その罪を問いただして下さい。
 
   しかし、
   我々は次のことを考えてしたのです。
   すなわち、のちの日になって、
   あなたがたの子孫が我々の子孫に
   むかって言うことがあるかもしれません。
 
   『あなたがたはイスラエルの神、
    主と、なんの関係があるのですか。
    ルベンの子孫、ガドの子孫よ、
    主は、あなたがたと我々との間に、
    ヨルダンを境とされました。
    あなたがたは主の民の特権がありません』
 
   こう言って、
   あなたがたの子孫が、我々の子孫に
   主を拝むことをやめさせるかもしれないので、
   我々は言いました。
 
   『さあ、我々は一つの祭壇を築こう。
    燔祭のためではなく、また
    犠牲のためではなく、
    ただあなたがたと、我々の間、および
    酬恩祭をもって、
    主の前で主につとめをするためである。』
 
   こうすれば、のちの日になって、
   あなたがたの子孫が、我々の子孫に、
 
   『あなたがたは主の民の特権がありません』
 
   と言わないであろう。」
 
   また我々は言いました。
 
   「のちの日に、我々、また我々の子孫が、
    もしそのようなことを言われるならば、
    その時、我々は言おう。
 
   『我々の先祖の造った祭壇の型をごらんなさい。
    これは燔祭のためではなく、
    また犠牲のためでもなく、
    あなたがたと我々の間の証拠である。』
 
   主にそむき、ひるがえって今は、
   主に従うことをやめて、我々の神、
   主の幕屋の前にある祭壇のほかに、
   燔祭、素祭、また犠牲を献げるための祭壇を
   築くようなことは決して致しません。」
 
M.K記

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(四) イブライ王国の南北分裂〔ユダ王国(南)とイスラエル王国(北)〕 [神聖の系譜]


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ヘブライ&日本の古代史
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第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第一章 旧約聖書のイブル人部族化
 
  (四) イブライ王国の南北分裂
     〔ユダ王国(南)とイスラエル王国(北)〕
 
  紀元前一二〇〇年頃モーセの指導で
 エジプトを脱出した後数十年を掛けて
 「父祖の地」カナンに
 定住できたイブル人たちは、
 その後その集団の結束を続け、
 同一〇二〇年頃に
 その体制が王国制に変わったがさらに続き、
 同一〇〇〇年を過ぎて
 ダビデ王が出てイブル王国を強固にして
 最盛期に入った。
 
 同九六五年になって同王が死ぬと
 ソロモン王が王国を継いだ。
 
 また「ヨシュア記」第二一章では
 各部族からレビ部族に
 町々が分け与えられた記録が述べられている。
 
   レビ人の一族のかしらたちは
   祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアと
   イスラエル人の一族のかしらたちの
   ところに来て、
   カナンの地のシロで彼らに告げて言った。
   「主は私たちに住むべき町々と
    家畜のための放牧地とを与えようと
    モーセを通して命じられました。」
   それで、イスラエルの人は主の命令で
   彼らの相続地から次の町々と
   その放牧地をレビ人に与えた。
 
 続いて各部族がレビ族に与えた
 町々の名称が記録されてるが、
 その詳細をここに転載することは止める。
 
 ただし、ガド族に係わる記述だけを掲げておく。
 
   ガド族から、
   殺人者の逃れの町ギリアデのラモテと
   その放牧地アナハイムとその放牧地。
 
  ソロモン王の時代〔九六五-九三二〕も
 強盛ではあったが、
 その在位の時代から
 周辺のアラム国を侵食し始めた。
 
 ソロモン王の施政もエルサレムに
 大規模神殿を建築するなどしたため
 経済を傾けせ国力が疲弊し始めた。
 
 そして同王の死後次の王の時すぐ、
 つまり紀元前九三二年に王国は
 遂に〔ユダ王国〕と北〔イスラエル王国〕に
 分裂してしまった。
 
 ソロモン王時代に南北の勢力が衝突しており、
 その対立が決定的な最後を迎えたのである。
 
 南のユダ王国は主勢力はダビデ・ソロモンの
 出自族であるユダ部族が中心であった。
 
 ユダ部族の地中海沿岸を嗣業の地として
 定住していたシメオン部族はいつの間にか
 消滅してしまっていた。
 
 北のイスラエル王国には塩の海の北端の
 東西より以北にいた
 ベニヤミン、エフライム、マナセ、ダン、
 イッサカル、セブルン、ナフタリ、アシェル、
 そしてヨルダン川の東側にいた
 ルベン、ガド、マナセの半分の部族の地が
 その領域になった。
 
  この分裂によって成った両王国は
 その後のイブル人たちの運命に
 重要な要素となった。
 
 二一世紀に入った今日この両国の地方、
 つまりモーセが回復させたイブル人たちの父祖の地
 カナンには古代イブル人を主体とする国は
 残念ながらない。
 
 本書は分裂した両国の部族が
 どう変転したのか説明することになる。
 
 もちろん十二部族全部の運命を
 それぞれに説明するのは不可能である。
 
  北のイスラエルは
 紀元前八世紀にアッシリアによって滅亡させられ、
 人々はメソポタミア〔メディア〕へ捕囚となって
 連れ去られてしまった。
 
 彼らの行方はこれまで全く知られず、
 「失われた十支族」との慣用句が
 ヘブライ学界では定句となっている。
 
 また南ユダ王国も
 紀元前四世紀頃まで地位を保ったが、
 新バビロニアによってこれまた
 メソポタミアへ連れ去られ
 〔バビロン捕囚〕、
 後にカナンへ帰還を許され、
 エルサレムの神殿を再建するなど
 復興の事業を進めたが、
 ローマ帝国の強大化でマッサダ砦などを構えて
 抵抗したものの遂には滅亡の憂き目に会った。
 
 彼らユダ部族の行方もあれほど教典として
 記録にその経歴を残すイブル人の性格にも
 拘らず何の記述もなく知られていない。
 
 その後裔はいるのだろうか。
 
 また現在いるとしたら
 どこに潜んでいるのだろうか。
 
  ≪参考≫
 「失われた十支族」
 
 〔バビロン捕囚〕
 
M.K記

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