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(一) イスラエル十支族のアッシリアによる強制移住〔捕囚〕メディアへ [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第三部 イブル〔ヘブライ〕の十二部族
 
  第二章 失われたイスラエルの十支族の流浪
 
  (一) イスラエル十支族のアッシリアによる
     強制移住〔捕囚〕メディアへ
 
 
  「烈王記」(下)の第十八章は
 次のように記す。
 
   アッシリアの王はついにサマリアを取り、
   イスラエルの人々をアッシリアに捕えていって、
   ハラとゴザンの川ハボルの畔(ほとり)と
   メデアの町々においた。
 
 この事件は、シャルルマネセル三世が
 紀元前七二二年に
 パレスチナへ侵攻した際のことであった。
 
 第十七章でイスラエルのアハズ王が会った
 アッシリアのティグラト・ピレセル三世の治世は
 七四四年から七二七年であり、
 続くシャルルマネセル五世の治世は
 七二六年から七二二年であり、
 「烈王記」のいう
 アッシリアの王シャルルマネセルは
 五世のこととなる。
 
  イスラエルの人々が移住させられた地は、
 ザクロス山中のメディア国が建国された時
 首都が置かれたエクバタナ、
 現在のケルマンシャアの近辺である。
 
  ハラ Halah はアッシリア時代のハルハルで、
 現在のカルへ kharheh 川の沿岸 
 karand あたりであろう。
 
  ゴザン Gozan は、ディヤラ川の水源の盆地近く
 現アルヴァト山の麓でゴディン Godin の地名がある。
 ゴディン・テぺと呼ばれる
 旧石器時代からの遺跡がある。
 
  ハボル Habor は、ザクロス山脈の西側イラクとの
 国境にあるカビル Kabir 山脈に
 因むものとみられるが、その周辺の地であろう。
 
  メデア Medea は、メソポタミアの東側の
 アッシリアを滅亡させた国の名称であるが、
 イスラエル人が連行された当時はまだ
 ケルマンシャアを中心とする狭い領国であったから
 同市周辺とみられる。
 
  ところで、
 この事件を聖書はどうとらえたかであるが、
 「烈王記」第一八章は続けて述べる。
 
   これは彼らがその神、主の言葉に従わず、
   その契約を破り、主の僕モーセの命じた
   全ての事に耳を傾けず、
   また行わなかったからである。
 
 つまり、
 イスラエルの人々は、
 モーセにシナイ山で語りかけた
 主(ヤハウェ)の言葉「十戒」などに
 従わなかったからだといっているのである。
 
 彼らは現在の言葉でいうと
 天主教を信奉しなかったからだということになる。
 
 第一七章で更に詳しくその理由を説明している。
 
   イスラエルの人々は、その神、
   主に向かって正しからぬ事を密かに行い、
   見張台から堅固な町に至るまで、
   全ての町々に高き所を建て、
   また全ての高い丘の上、
   全ての青木の下に石の柱とアシラ像を立て、
   主が彼らの前から捕え移された
   異邦人がしたように、
   全ての高い所で香を焚き、
   悪事を行って主を怒らせた。
 
 この条句のなかでいう
 「主が彼らの前から捕え移された異邦人」とは
 カナアン人のバアル神信仰を表す聖書の慣用句である。
 
 「高き所」とはアルパチヤ遺跡の高床式神殿から
 ジクラトまで既に既述した宗教的建立物である。
 
 紀元前八世紀のイスラエルにおいては、
 まだバアル神信仰が根強く、
 アッシリア(メディア)へ移住させられた
 人々の信仰が主の教えだけでなかったことを
 明らかに物語っているのである。
 
 西欧の学究は、
 失われた十支族として世界中に教徒の痕跡を
 捜し回ったが、それは矛盾である。
 
 移住した人々が持っていた信仰はバアル神信仰や、
 月神(三日月)信仰でもあったと考えるべきである。
 
  次の注意点は、移動させられた先メディアが
 牛頭信仰の古くから行われていた
 地方であったことである。
 
 ハブール (Kabir) 名の残る地帯の一部である。
 
 メディア国は紀元前六二五年に建国し六一三年に
 新アッシリアを滅亡させた。
 
 そのためその版図はアナトリアからバクトリア、
 パンジャブにまで及んだ。
 
 その間移動させられたイスラエル人たちが
 どうしたのかは全く解らない。
 
 だが、
 紀元前四世紀になると、
 中国の西北方面甘粛省あたりに
 月氏 Yuen-shih が表れるが、
 この部族がイスラエル人の後裔と推測される。
 
 『漢書』西域伝に「月氏」は初めて登場する。
 
 また『後漢書』西域伝にも同様に表記されていると
 共に「西羌伝」に月氏の別称として「義従」とある。
 
 同語の中国発音は Yi-tsung で月氏 Yuen-shih と
 近似している。
 
 その原語はヘブライ語の YD.yad あるいは
 IDVT〔証拠〕の転訛であり、
 その語義は「記念碑」を表す。
 
 この記念碑とはイスラエル十支族の象徴である。
 
 「ヨシュア記」第二二章で
 
 「ルベンの子孫、ガドの子孫及び
  マナセの部族の半ばがカナンの地のヨルダンの
  ほとりにきた時、その所で、
  ヨルダンの岸辺に一つの祭壇を築いた。
  それは遠くから見える祭壇であった。」
 
 「ルベンの子孫、ガドの子孫は
  その祭壇を IDVT「あかし」と名付けて言った。
  これは、我々の間にあって、
  主が神にいますという証をするものである。」
 
 に由来するもので、「あかし」(証拠)の
 ヘブライ語は IDVT.iedut で、
 「証人」が ID.ied あるいは IDH.ieda と表記され、
  YD.yad(記念碑)との関係をみせているばかりでなく、
 月氏 Yuen-shih 及び義従 Yi-tsung 
 の原語であるのである。
 
 「ヨシュア記」の詳しい解説からすると
 「記念碑(祭壇)」はイスラエル人(失われた十支族)
 の代名詞である。
 
 『漢書地理志』の安定項中に
 「月氏道」の名称がある。
 
 現在の甘粛省酒泉敦煌県の辺りに当る。
 中国漢代の史料『史記』大宛列伝に
 匈奴に対抗するため漢の武帝が使者張騫を
 遣わした国である。
 
 この時月氏の一部は
 バクトリアに移動(紀元前一七六年)し
 大月氏となっていた。
 
 移動の途中彼らはイリ川の水源地方伊犁に
 弓月城を築き暫く留まった。
 
 弓月は三日月の比喩名である。
 
 また、バクトリアの彼らの首都名を
 大宛列伝は藍市城と記すが中国語で
 Yun-shi と発音される。

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