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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(1)ウガリット [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(1)ウガリット


 地中海東岸の商業港として

 有名な都市の最初の創設者たちについては
 詳しいことは解っておらず、
 カナン人であったとの
 曖昧な見解が出されているに過ぎない。
 
 しかし、
 有力な創設者として
 ケルト人がやってきたと推測できる
 史料がある。
 
 ラス・シャムラから出土した
 楔形文字の粘土板の中に
 叙事詩的に書かれた
 「ケレト伝説」と呼ばれるものである。
 
 ケレト 
 keret は当然 
 khald の転訛であるが、
 
 ジョン・グレイによると
 ケレトは
 「ウガリットの支配的王家の遠い祖先」
 であったとし、
 ウガリットが
 「ケルト」の末裔であることを示唆する。
 
 伝説によると
 この王は最初
 「さまざまな理由により七人の妻を失う。」
 
 この意義は
 彼が祖地にいられなくなった理由となる。
 
 彼には後継者がなかったので
 新しい花嫁を求めた。
 
 彼は睡眠の中で神からのお告げを受け、
 その指示に従い
 軍隊のように
 彼の全家臣を従えて求婚の旅に出立する。
 
 七日間の旅の後、ある砦にたどり着き、
 花嫁を得て
 
 「七人の息子と八人の嫁」が生まれ、
 後継者を得たが、
 
 彼等がウガリットの人民として
 広まったのであろうと思われる。
 
 ここに繰り返される「七」の数字は
 星空「ひしゃく」の七星を思い出させる。
 
 伝説は、王が病気になり、
 宗教的物語へ展開するが、
 ここでは触れない。
 
 要点は「ケレト」が
 ウガリットの創世の段階で
 深くかかわっていたということである。
 
 ウガリットの主要な商品は
 蜷貝から取られた染料と織物であった。
 
 そして、多分すぐ目の前の島
 キプロス島から
 木材(杉)を入手するために
 船の建造技術を
 発展させたと考えられるが、
 このキプロスからは
 銅が採られりょうになり、
 彼等の航海術は
 さらに重要となったと思われる。
 
 熟練された航海術が
 スバルの金属工匠商人たちを
 遠海へと送り出すこととなった。
 
 以来ペルシャ帝国が
 アレキサンダー大王によって
 滅亡させられるまで、
 その担い手が、
 紀元前12世紀頃
 交代はしたものの長きに渡って
 ウガリットは地中海に
 「海の勇」として君臨していたのである。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出
 
 錫を混ぜた青銅器の品質は柔らかく、
 造型する便利性は高く
 需要が高かったと判断される。
 
 その需要は金属工匠商人を
 西アジアにない錫鉱を求めて
 域外へ進出させる機会となったと考えられる。
 
 もちろん増大する需要に応ずるため
 銅鉱山を求めてもいただろう。
 
 彼等の活路は陸を、
 つまり
 アナトリアから黒海を越えて
 ヨーロッパの内陸へ向かう経路と
 ウガリットを港として
 地中海を西へ向かって航海する
 方法があったと考えられる。
 
 アメリカ大陸の西部開拓の波と同じように
 「西方へ、西方へ」が
 合言葉であったかもしれない。
 
 このスバル人の大進出運動が
 地中海人種の形成となったのである。
 
 彼等の祖地は
 北メソポタミアにあったわけである。
 
 いうまでもなくスバル人の進出は
 カルト人の進出を意味する。
 
 ここからのカルト人の呼称を
 都合上ケルト人とする。
 ※Tell Arpachiyah (Iraq)
 ※ARPACHIYAH 1976
 ※カルト人・フルリ人→スバル人
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 





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第三章 スバル人の商業活動 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 スバル人の商業活動
   
 
 紀元前二千年頃のアッカドのセム族たちが
 なぜ北メソポタミアへ興味を示し
 進出していったのだろうか。
 
 人口が増加して
 居住地を求めたからなどをいう
 単純な理由はありえない。
 
 この地域が
 商業活動の重要なセンターに
 なっていたからである。
 
 紀元前三千年頃よりの活動によって
 スバル人たちは
 北メソポタミアから
 東はザクロス山脈を越え、
 西方はアナトリアから
 地中海沿岸までの
 商業ネットワークを形成し、
 産業開発の基地を設立して、
 商人たちを有機的に組織して
 運営していたと考えられる。
 
 紀元前二千年を越えた
 シャムン・アグト一世が
 シンジャール山脈の北側の平野、
 スバル人の中心的地域に
 首都シュバト・エンリルを開いた頃、
 私的商人組織が対外貿易に忙しく
 従事していたとの記録がある。
 
 彼等の主に扱ったのは金属と織物である。
 
 特に金属工 thveli たちは、
 『旧約聖書』創世記の「カイン」のように
 原料を求めて歩き回っていたと考えられる。
 
 スバル人たちは
 「北方山間の蛮人」などでなく、
 真に金属時代の扇を開いた
 先進的産業開拓者であったのである。
 
 メソポタミアの人々は、
 大ザブ川峡谷の
 ザウィ・マミ遺跡で発見されたように
 紀元前一万年から銅を使い始めた。
 
 新石器時代に入る紀元前六千年頃には
 失蝋法による金属成型法が発見され、
 金、銀、鉛、砒素銅の容器を
 作るなどの工業が始められ、
 青銅器時代に入る。
 
 紀元前三千年を過ぎると
 錫を混ぜた青銅が普及するようになる。
 
 青銅はシュメルで 
 zabar と総称されるようになったが、
 スバル人が取り扱っていたため、
 そのスバル名が商品名に転化
 反映したものであろう。
 
 青銅器の需要が大量に増大すると
 銅の産地は拡大されただろうが、
 主な生産地はアナトリアで、
 特にティグリス川の水源地帯、
 現在のダイヤバキル
 (トルコ語で銅の町)一帯は
 その中心であった。
 
 この立地がスバル人たちを
 金属を流通させる商人へと
 育てたと考えられる。
 
 ザウィ・チェミ遺跡についての
 見解で述べたが、
 この地方の羊飼いたちは
 すでに商人育成の素地を持っていたのである。
 
 ザウィ・チェミ遺跡の位置する峡谷は
 英語名で Shanidar 
 で世界に知られた呼称であるが、
 川名や国境を越えたトルコ領内に 
 Samdr 山、町の名 Semdinli がある。
 
 その祖語はシュメル語の 
 šam (屠殺する)の同類である。
 
 この šam には「突く、打つ」の意味もあり、
 samdr は「突く者、打つ者」の意味になり、
 「鍛冶工」の意味をも含む。
 
 ザウィ・チェミの羊飼いたちは
 アナトリアで粗銅を入手したが、
 その当時は鍛打法により
 銅を抽出したのである。
 
 samdr はサンスクリット語に入り 
 samitr となったが、
 ドイツ語の Schamip 、
 英語の smith ともなり、
 「鍛冶工」がその意味するところである。
 
 この鍛打工たちが
 銅を鋳出する技術を発明すると、
 
 「溶解」することを
 ドイツ語で Schmelze 、  
 英語で smelt と šum の派生語が拡大した。
 
 なお、シュメル語には、
 šum の同義語 sim があり、 
 simug 「鍛冶工」となり、
 その同義語に de がある。
 
 金、銀、鉛 また後世の鉄鉱は
 アナトリアからザクロス山脈にかけての
 山岳地帯から入手できた。
 
 しかし、
 錫は西アジア地方からは掘り出されず、
 遠く現在のイランの
 カヴィール砂漠の東方から
 運んでこなければならなかったのである。
 そして、
 この錫を専有的に取り扱うネットワークを獲
 得したのが
 スバル人であったと考えられる。
 
 南メソポタミアの王権にとっては
 この商業権こそが
 我が物にしたい対象であったのである。
 
 古アッシリアの初期三十代の王名は
 シュメル名でもなく、
 セム系でもないことが知られるが、
 これらの王名はスバル人のもので、
 彼等が軍事力によったのではない、
 それが
 神殿によって統率されていたにしても
 商人国家を形成していたのである。
 
 西アジアにおいて
 貴重な錫の商業権を
 独占していたことをうかがわせるのが
 
 annakam と呼ばれる
 前期アッシリア商人
 (といってもスバル人と思われる)が
 アッシュールから
 アナトリアのカネシュへ運んで行った
 金属名である。
 
 正確には何の金属であったか
 疑問もあるようだが、
 錫と考えられている。
 
 シュメル語の 
 anna は錫と鉛少々の合金とされている。
 
 アッシリア商人が主に扱ったのは金属と
 ウガリットを窓口とする
 織物・染料であったが、
 スバル人が確立したネットワークは
 古アッシリアを
 重商主義国家として
 発展させていったのである。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第三章 スバル人の商業活動 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 スバル人の商業活動
   
 
 紀元前二千年頃のアッカドのセム族たちが
 なぜ北メソポタミアへ興味を示し
 進出していったのだろうか。
 
 人口が増加して
 居住地を求めたからなどをいう
 単純な理由はありえない。
 
 この地域が
 商業活動の重要なセンターに
 なっていたからである。
 
 紀元前三千年頃よりの活動によって
 スバル人たちは
 北メソポタミアから
 東はザクロス山脈を越え、
 西方はアナトリアから
 地中海沿岸までの
 商業ネットワークを形成し、
 産業開発の基地を設立して、
 商人たちを有機的に組織して
 運営していたと考えられる。
 
 紀元前二千年を越えた
 シャムン・アグト一世が
 シンジャール山脈の北側の平野、
 スバル人の中心的地域に
 首都シュバト・エンリルを開いた頃、
 私的商人組織が対外貿易に忙しく
 従事していたとの記録がある。
 
 彼等の主に扱ったのは金属と織物である。
 
 特に金属工 thveli たちは、
 『旧約聖書』創世記の「カイン」のように
 原料を求めて歩き回っていたと考えられる。
 
 スバル人たちは
 「北方山間の蛮人」などでなく、
 真に金属時代の扇を開いた
 先進的産業開拓者であったのである。
 
 メソポタミアの人々は、
 大ザブ川峡谷の
 ザウィ・マミ遺跡で発見されたように
 紀元前一万年から銅を使い始めた。
 
 新石器時代に入る紀元前六千年頃には
 失蝋法による金属成型法が発見され、
 金、銀、鉛、砒素銅の容器を
 作るなどの工業が始められ、
 青銅器時代に入る。
 
 紀元前三千年を過ぎると
 錫を混ぜた青銅が普及するようになる。
 
 青銅はシュメルで 
 zabar と総称されるようになったが、
 スバル人が取り扱っていたため、
 そのスバル名が商品名に転化
 反映したものであろう。
 
 青銅器の需要が大量に増大すると
 銅の産地は拡大されただろうが、
 主な生産地はアナトリアで、
 特にティグリス川の水源地帯、
 現在のダイヤバキル
 (トルコ語で銅の町)一帯は
 その中心であった。
 
 この立地がスバル人たちを
 金属を流通させる商人へと
 育てたと考えられる。
 
 ザウィ・チェミ遺跡についての
 見解で述べたが、
 この地方の羊飼いたちは
 すでに商人育成の素地を持っていたのである。
 
 ザウィ・チェミ遺跡の位置する峡谷は
 英語名で Shanidar 
 で世界に知られた呼称であるが、
 川名や国境を越えたトルコ領内に 
 Samdr 山、町の名 Semdinli がある。
 
 その祖語はシュメル語の 
 šam (屠殺する)の同類である。
 
 この šam には「突く、打つ」の意味もあり、
 samdr は「突く者、打つ者」の意味になり、
 「鍛冶工」の意味をも含む。
 
 ザウィ・チェミの羊飼いたちは
 アナトリアで粗銅を入手したが、
 その当時は鍛打法により
 銅を抽出したのである。
 
 samdr はサンスクリット語に入り 
 samitr となったが、
 ドイツ語の Schamip 、
 英語の smith ともなり、
 「鍛冶工」がその意味するところである。
 
 この鍛打工たちが
 銅を鋳出する技術を発明すると、
 
 「溶解」することを
 ドイツ語で Schmelze 、  
 英語で smelt と šum の派生語が拡大した。
 
 なお、シュメル語には、
 šum の同義語 sim があり、 
 simug 「鍛冶工」となり、
 その同義語に de がある。
 
 金、銀、鉛 また後世の鉄鉱は
 アナトリアからザクロス山脈にかけての
 山岳地帯から入手できた。
 
 しかし、
 錫は西アジア地方からは掘り出されず、
 遠く現在のイランの
 カヴィール砂漠の東方から
 運んでこなければならなかったのである。
 そして、
 この錫を専有的に取り扱うネットワークを獲
 得したのが
 スバル人であったと考えられる。
 
 南メソポタミアの王権にとっては
 この商業権こそが
 我が物にしたい対象であったのである。
 
 古アッシリアの初期三十代の王名は
 シュメル名でもなく、
 セム系でもないことが知られるが、
 これらの王名はスバル人のもので、
 彼等が軍事力によったのではない、
 それが
 神殿によって統率されていたにしても
 商人国家を形成していたのである。
 
 西アジアにおいて
 貴重な錫の商業権を
 独占していたことをうかがわせるのが
 
 annakam と呼ばれる
 前期アッシリア商人
 (といってもスバル人と思われる)が
 アッシュールから
 アナトリアのカネシュへ運んで行った
 金属名である。
 
 正確には何の金属であったか
 疑問もあるようだが、
 錫と考えられている。
 
 シュメル語の 
 anna は錫と鉛少々の合金とされている。
 
 アッシリア商人が主に扱ったのは金属と
 ウガリットを窓口とする
 織物・染料であったが、
 スバル人が確立したネットワークは
 古アッシリアを
 重商主義国家として
 発展させていったのである。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第三章 スバル人とスバルトゥ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 スバル人とスバルトゥ
 
 
 1969年に出された岩波書店
 『世界歴史Ⅰ古代』は
 「アッシリア帝国」の中で次のように述べる。
 
 「アッシリアの起源は、
  その名よりはるかに古く始まる。
  近年発見された
  『アッシリア王名表』によって
  補ってみると、
  最後の王アッシュール・ウバルリト二世
  (在位B.C.612-606)まで
  一一七代の王を数えるが、
  そのうち初めの三十代くらいまでの
  諸王の名は明らかにシュメル名でも
  セム系のアッシリア名でもない。
  いわゆる古代人によって
  スバルトゥと呼ばれた
  この地方の原住民の名であり、
  のちにフルリ人と呼ばれたものの名である。
  かれらの由来は明らかでないが、
  少なくとも
  今日のカウカサス語系に属するものと
  考えられ、
  後にはフルリ人の国から
  ミタンニ王国が成立することになり、
  その後裔が
  アルメニアの
  先住ウラルトゥ(ハルディア)人
  であることことは
  近年ようやく認められるようになった。」
 
  1977年(昭和52年)発行の講談社
 『世界の歴史1』は
 「アッシュール市」について
 次のように述べる。
 
 「アッシュール市の
  古い時代の支配者の中には、
  明らかに北方山間の蛮人
  シュバリ人と思われるものがいた。
  アッシュールの市壁を初めて築いたキキア、
  同市の神殿を創建したウシユピア、
  そしてアッシリア最古の支配者
  イティティらはいずれもシュバリ人である。
  アッカド人は
  シュメル人を圧迫したと同じように、
  アッシリアにも支配者として現われた。
  彼等は不撓不屈の努力で
  先住のシュバリ人を同化していった。
  その結果、
  シュバリ人は
  新来のアッカド人の言語や文字を採用し、
  その信仰をも取り入れることになり、
  古来の性質をまったく失ってしまった。」
 
 1985年発行の山川出版社
 『民族の世界史//アフロアジアの民族と文化』 は
 「アッシリアとディヤーラ地方の民族」の項に 
 次のように述べる。
 
 「アッシリアとはアッシュール市と
  それを中心とする
  王国の名に由来する歴史的地名であり、
  かってはスバルトゥが
  その地方の名称だった。
  アッシリア王国の主人が
  セム人だったゆえに、
  アッシリアの住人はセム人と
  思いこみやすいが、
  歴史的には最古の住人は
  ディヤーラ地方同様に
  シュメル人でもセム人でもない、
  おそらく西イラン山地系ないし
  フルリ人と考えられる。
  楔形文字文書は彼らを
  シュバリ(スバルトゥ)人と呼んでいる。
  その居住地域はアッシリアや
  ハブール川上流地域で、
  紀元前三千五百年頃以来
  南の地方とは異なる
  独自の発展を遂げてきたが、
  南の初期王朝期に相当する時期に
  西からセム人
  おそらくアッカド人がやってきて、
  シュバリ人と融合した結果、
  アッカド語の方言を話す
  民族の原型が成立した。」
 
  1998年発行のミネルヴァ書房
 『西洋の歴史・古典中世編』は
 アッシリアについて次のように述べる。
 
 「紀元前三千年紀半ば頃から
  紀元前二千年紀の初めにかけて
  現在のイラク北部、
  北緯37度付近から
  小ザブ川との合流点に至る
  ティグリス川中・上流域と
  西方の原野へと広がる逆三角形の地域は
  シュビルないしスバルトゥと呼ばれた。
  この地域が後のアッシリア本土である。
  そこには土着語を話すフルリ人と
  親縁関係にある原住民スバル人のうえに、
  東セム系遊牧民が支配的要素として加わり、
  さらに
  シュメル文化の影響の下に都市
  アッシュール、ニネヴェが造られた。
  南方のアッカド王朝や
  ウル第三王朝の支配を受けた後
  紀元前二千年頃から
  アムル人の侵入を受けたが、
  このころから紀元前一四世紀までを
  古アッシリア時代と呼ぶ。」
 
 以上、
 日本で出版されたオリエント史における
 アッシリアと絡めた
 スバル人についての解説を取り上げてみた。
 
 「スバル人」との名称を上げるものは
 一書だけで、
 アッシリア、スバルトゥ、シュバリの
 用語法に統一が取られているように
 みられるが、
 地方名であったり多少の混乱がある。
 これらを整理すると
 次のようになる。
 
 コーカサスのグルジア語によると、
 シュヴィリ shvili は「息子」を
 アシュリ asuli は「娘」を意味するが
 この両語は古代の
 シュバリ shvali 及び
 アッシュール assur に
 対応するものと考えられる。
 
 古アッシリアが王国として
 北メソポタミアに君臨し始めたのは
 紀元前二千年頃からであるが、
 スバル人はそれより古くから、
 史料に表れてからでも千年間以上、
 実態はさらに古い時期から
 西アジアの広い範囲で
 活動していたと思われる。
 
 彼等の祖地名を 
 svarti (スバルの土地)というのである。
 スバル人のシンボルは十字紋であるが、
 その交差する二つの軸を
 「息子・娘」と考えていたようにみられる。
 
 シュバリとアッシュールは
 スバル人の構成要素である。
 
 アッカド語にある
 少年を意味する 
 suharu と
 少女を意味する shartu は、
 シュメル語の 
 sabal 子供・子孫の派生語と考えられる。
 
 ニネヴェ、アルパチヤ遺跡のある地方は、
 古来スバル人による呼称は Asuli であったが、
 アッカド人が北上してきて、
 アッカドでも娘を意味する 
 shartu と呼ぶようになり、
 紀元前十四世紀の中期アッシリアの時代に
 アッシュル・ウバルト一世により
 アッシリアの名称に統一された
 (命令された)のである。
 
 スバルないしシュバリ 
 svari の地名は
 スバルトゥ svarti 、
 イシュワル isvar 、
 シブリア svria 、
 ニシビン nisibin と改名し、
 
 現在はヌサビン 
 nusaybin とその遺称を留めている。
 
 ※ウラルトゥ王国
 
 前9世紀半ばにヴァン湖を中心に形成された
 古代のアルメニアの国家。
 
 さまざまな種族の連合国家でした。
 「ウラルトゥ(Urartu)」は
 アッシリア読みで、
 自称「ビアイニリ(Biainili)」。
 
 ハルディ神(Haldi)を主神としたので、
 住民たちは「ハルディア人」と自称。
 
 現在のイラン・イラク・トルコ、
 そして
 ザカフカス地方に及ぶ地域にまで
 勢力を伸ばすほど強力になりました。
 
 首都はトゥシュパ(現在のヴァン市)。
 
 メヌアシュ王の時代に
 かつてのヒッタイトの北シリア領を奪取、
 その子アルギシュテシュ1世と
 サルドゥリシュ2世の時代に
 最盛期となります。
 
 アッシリアとは常に敵対し、
 北の騎馬民族と協力関係を
 保つこともあったようです。
 
 彼らの文化レベルは高く、
 周辺民族からの影響を受けつつ独自に発展し、 大いに繁栄しました。
 
 しかし、
 北からキンメリア人やスキタイ人、
 南からアッシリアによって攻められ衰退。
 
 前590年頃に
 メディア王国によって
 首都トゥシュパは略奪され、滅亡します。
 
 
M.K記

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第三章 「創世記」カインの本実 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 「創世記」カインの本実
 
 「創世記」第四章は
 アダムとイブの子カインについていう。
 
 「アベルは羊を飼う者となり、 
  カインは土を耕す者となった。
  日がたって、
  カインは地の産物を持ってきて、
  主に供え物をした。
 
  アベルもまた、
  その群れの初ごと肥えたものと持ってきた。
 
  主はアベルとその供え物とを
  顧みられなかったので、
  カインは弟アベルに
  「さあ野原へ行こう」といって誘い、
  その野原で弟を殺してしまう。」
 
  それを知って主がカインに対していこう。
 
  「あなたは何をしたのです。
   あなたの弟の血の声が
   土の中からわたしに叫んでいます。
   今あなたはのろわれて
   この土地を離れなければなりません。
   (中略)あなたが土地を耕しても、
   土地は、
   もはやあなたのために実を結びません。
   あなたは地上の放浪者となるでしょう。」
 
  カインは主に答える。
 
  「あなたは、きょう、
   わたしを地のおもてから追放されました。
   わたしはあなたを離れて、
     地上の放浪者とならねばなりません。」
  「そして、主はカインを見付ける者が、
   だれも彼を打ち殺すことのないように、
   彼に一つのしるしをつけられた」と結ぶ。
 
 この挿話の語っている内容は
 明らかに土地(野原・畑)を離れた
 労働者(カイン)の誕生譚である。
 
 「土を耕す者」、
 サンスクリット語でいう 
 karasu (農夫)が
 「羊を飼う者」アベルを殺してしまい、
 土地がアベルの血を吸ったことにより
 
 「土地を耕しても、
  土地はもはやあなたの実を結ばなくなり、」
 
 「土地を離れなければならなくなる。」
 
 「地のおもてから追放されて」
 「地上の放浪者」となったのである。
 
 カインは
 「エデンの東、ノドの地に住み」、
 妻を得て子孫を得る。
 
 その六代の後に
 「家畜を飼う者の先祖」
 ヤバルと
 
 「青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者」
 トバルカインが誕れる。
 
 もはや多くを付け加える必要はないであろう。
 
 カインは「労働者」となったのである。
 
 ヘブライ語の「カイン」は鍛冶屋である。
 
 「創世記」第九章には洪水神話後の挿話で
 ノアの第二子ハムの子として
 カインの名に近似した
 カナンの名を持った者を登場させる。
 
 父ハムが、
 その父ノアがぶどう酒を飲んで酔い、
 天幕の中で裸になっているところを
 見てしまったために
 ノアはその孫に当たるカナンに対していう。
 
 「カナンはのろわれよ。
  彼はしもべとなって
  その兄弟たちに仕える。」
 
 またいった
 
 「セムの神、主はむべきかな、
  カナンはそのしもべとなれ。
  神はャパテを大いならしめ、
  セムの天幕に彼を住まわせられるように。
  カナンはしもべとなれ。」
 
 カナンは、
 しもべ(召使)である労働者となることを
 役目づけられたのである。
 
 カナン Canaan は地方名として知られる。
 
 その地域範囲については諸説あるが、
 北はシリアのオロンテス川河口地帯から
 地中海東岸を南下して
 パレスチナ地方までとみられる。
 
 ウガリットは
 その北部の文化的経済的中心であった。
 
 ここはユダヤ人の地ではなく、
 カナン人の代表ともいうべき
 ウガリット人の祖地で商人的性格が強い。
 
 この第九章にいうカナンは
 商人であるウガリット人の名代と
 考えてよいであろう。
 
 セム語の支派とされるウガリット語に 
 mark という用語がある。
 
 「記号、しるし」を表し、
 英語にも同義で移入されている。
 
 『創世期』第四章の
 
 「主はカインを見付ける者が
  だれも彼を打ち殺すことのないように
  彼に一つの”しるし”をつけられた」
 
 という「しるし TAYVN 」で、
 英語版の聖書は
 全てこの語を mark と記している。
 
  Mark は「しるし」とともに商人を意味する。
 
 ウガリット語を祖語として成立した
 フェニキア語時代、
 フェニキア人は
 スペインの南端に近い現在も同名であるが、
 植民都市 Maruga を開くが、
 その意味は商館を意味する。
 
 同語はポルトガル語に反映し、
 ポルトガル人が十五世紀以後
 大航海時代に世界を航海したが、
 現在のマレーシアの
 マレー半島の西岸にある町
 Melaka は彼等の商館都市で、
 その名はカナン語に祖語があるのである。
 
 また、
 英語の
 商人は marchant 
 市場を market 
 
 ドイツ語における広場または市場を 
 Marche というのも同類語である。
 
 フランス語の 
 marche も「市場、取引、売買」 を
 さらに「行列、歩くこと、進行」を意味する。
 
 マルタ語においての「記号、しるし」を
 表す用語
 singal について先に触れたが、
 この語から派生した用語 
 sengha は「商業、技術」を意味する。
 
 また同じく「記号、しるし」を
 意味する用語として 
 tebgha があり、
 同根語 thigh ha は
 「売る」で商人と関係していることを示す。
 
 tbahar は「航海する、出帆する」意味となる。
 
 この tebgha は、シュメル語ではないが
 シュメルの楔形文字に表記された 
 thveli と対応する用語であろう。
 
 thveli は金属工と理解されているが、
 
 『創世期』第四章に
 「青銅や鉄の全ての刃物を鍛える者」の
 名として挙がるトバルカイン 
 Tubelcain の構成語で、
 この名は「金属工匠」と理解できる。
 
 旧約聖書における
 ヘブライ語の「しるし」は 
 TSYVN(tsion) であるが、
 商品と解釈できる
 「供給品、必需品、設備」を表す用語が 
 TSYVO(tsiod) で、
 TSYVN の語尾NがOに代わっただけである。
 
 そのd(ד)  r(ך) に極似しており、
 『旧約聖書』のシオン 
 TSYVN(しるし) にする挿話は
 スバル人の商業活動の盛大さから
 創造されたものと考えて
 差し支えないと思う。
 
 スバル人とは
 北メソポタミアのカルト人のうち、
 金・銀・銅・錫・鉛を
 取り扱うことを中心に
 織物・木材・貴石をも交易する
 商人たちであったのであり、
 青銅器時代を迎え、
 その需要が増大した
 紀元前三千五百年頃から
 彼等の活動が活発化したものと推察できる。
 
M.K記



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第三章 カルト人の進出  [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト人の進出


 サンスクリット語にカルマン 
 karman という
 「職業、労働、作業」を表す言葉がある。
 
 労働とはどういう行為だろうか。
 
 それは 
 karma-kara の意味するところの
 「他のために働く」行為である。
 
 そして、
 karman を行う人たちが
 (雇用された)労働者、召使、職人、工匠など、
 そのうちでも鍛冶工はその代表でもある。
 
 karman に対応するシュメル語は 
 hun (就労する) humtu (行く)で、
 地中海の島のマルタ語では
 ghamil という「作業、労働」を
 表す用語と関係する。
 
 マルタ語のうちに
 「労働」の意義を探ってみると、
 野原、畑( ghalga )に
 盲目の( ghama )人がする
 あるいは作る( ghamel )ことを 
 ghamil というのである。
 
 この 
 ghamil に対応する
 ドイツ語は商人を意味する Kaufman で、
 動詞 kaufen は(物を) 買うことをいい、
 
 krämer は小売商人、
 動詞( krämen )は
 「探し回る、捜し歩く」の意味である。
 
 これらの資料は
 『旧約聖書』「創世記」第四章に登場する
 Cain の謎を解くのに重要である。
 
 そして、
 それがカルト人の別称である
 スバル人の性格を説明することに
 なるのである。
 ※カルト人・フルリ人→スバル人
 
M.K記


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第二章 エンキ神と「メ」の職能 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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第二章 エンキ神と「メ」の職能


 エリドゥ市の守護神エンキについて
 賛歌はうたう。
 
  鋤とくびきを彼あやつれり、
  偉大なるエンキは
  かの神聖なる畝溝を切り開き、
  年を通じ野に穀物を実らせり、
  エンキ神は豊饒をもたらす創造主であった。
 
 シュメルの神話には
 「地の主」として淡水を意味する
 アプス apsu と深い関係にあり、
 灌漑を推進することにより農耕地を誕生させ、
 作物を栽培することにより
 穀物の実りをもたらしたのである。
 
 エンキ神の創造主としての役目は、
 「メ」の原初的保持者として
 権威付けられている。
 
 「メ」の内容については
 「イナンナとエンキ」と呼ばれる
 粘土板に書かれた神話によって知られる。
 
 シュメルの「神学者」たちが、
 百余の項目にまとめ上げた
 エンキ神の職能である。
 
 ここで重要なことは
 都市や神殿の建設方法をもたらすことである。
 
 木工や家造りの技術、皮細工は
 「神殿の建設」とも関係する。
 
 家畜飼育についても
 「羊小屋」によって代表される。
 
 金属加工に関しても
 「金属鋳造」「青銅加工」技術について、
 
 また旅をしての商売にも触れられている。
 
 政治的側面として支配権を明確化する
 「司牧」「王」「高貴な王杖」を挙げている。
 
 神職者については男女の司祭について述べ、
 性的行為を行う神職者の職能を解説している。
 
 さらに灌漑についても洪水と比較して
 説明されている。
 
 その他
 文字、書紀術、音楽、幾何学の方法、
 家庭生活、祓魔儀礼も含まれている。
 
 これらはエンキ神の創造によるもので、
 同神により指導される分野なのである。
 バビロニアの叙事詩にうたわれたとおり、
 葦や木は生えておらず、家もなく、
 都市もできてなく、
 すべて海であった大地に諸機能を植え付け、
 エリドゥ市をエンキ神は創り上げたのである。
 
 しかし、
 百余の項目全てが紀元前五千年前、
 エリドゥ市が始まった当時に存在したとは
 思えない。
 シュメル人やバビロン人が文明の進展の中で
 獲得した知識と技術を神話化して
 まとめ上げたものと判断するのが
 妥当であろう。
 
 これらの項目は、都市の国家において
 文明化された文化生活を送るための
 規範を示しており、
 エンキ神によって教唆された天則であり、
 律法をも想定していたことがみえてくる。
 
 しかし、
 違反に対する罰則などという内容はなく、
 法律という規範でない。
 
 「メ me 」は南メソポタミアにおいて
 北メソポタミアに誕れた
 牛頭信仰の象徴である角の
 変身したものであることがを述べたが、
 
 その説明援助する事実がバローチー語にある。
 
 先にバローチー語の角を表す用語が 
 khald の転訛である
 kārt であることを紹介したが、
 同語における「法律」は 
 kārūd で kārt の派生語となっている。
 
 パキスタンの
 バルチスタン中心に居住する
 バローチー人は
 メソポタミアの歴史と密接な関係にあるが、
 その訳は後述する。
 
 「イナンナとエンキ」は、
 エンキ神の専有物であった「メ me 」が
 エリドゥ市から他の地方へ
 伝播されていったことの挿話を語る。
 
 ウルク市の女神イナンナがエンキ神から
 「メ me 」を入手しようともくろみ、
 エリドゥを訪ね、
 エンキ神がもうけた酒宴で
 同神の酔いが回って朦朧としている間に
 「メ me 」をエンキ神から掠め取り、
 ウルク市へ船に乗せて持ち帰った。
 
 この挿話の意義をジャン・ポテロは
 
 「エンキやエリドゥから 
  メ me が奪われたという意味ではなく、
  イナンナとウルクもまた
  この時以来エリドゥ同様
  メ me を所有し利用するになったことを
  意味している」
 
 といっている。
 
 つまり、
 エリドゥの神殿の権威が
 他の都市にも波及したことを
 示しているのであり、
 各都市によって守護神は変わっても
 権威を象徴する神殿の概念が
 踏襲されていることの証左となる。
 
 また、
 エリドゥの神殿の信仰に従い
 奉献が行われたのである。
 
 森林がなく木材を輸入しなければ
 入手できない
 南メソポタミア地方にとって、
 北メソポタミアでのように
 高床式神殿を作るためには、
 木材は不適当であっただろう。
 
 当然大量に作り得る煉瓦を積み上げた
 建物を神殿とすることに
 転換されたことは明らかで、
 大規模化も可能となったのである。
 
 階段は神殿が
 巨大な土塁の上に造られるようになったために
 必要になったのではない。
 
 高床式神殿にあった階段が
 「天への門」であるという観念を
 尊重しているのであり、
 
 ジックラトの主要な
 特徴となっているのである。
 エリドゥ文化が南メソポタミア全域へ広がった
 証左の代表的要素である。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第二章 角と「メ」信仰 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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第二章 角と「メ」信仰
 
 シュメル語における角を表す用語は 
 si であることはすでに紹介した。
 
 この si の発音はどちらかというと  
 qi に近かっただろうと思われる。
 
 si を含む王子を表す 
 patesi は
 サンスクリット語の同義 
 pataka と同根語とみられるが、
 ここでは ka と表音されている。
 
 si と表記される角は 
 khald の語頭の残存であると
 判断できるのである。
 
 サンスクリット語には 
 arāda という「長い角のある」を
 意味する用語が、
 あるいは「登ること」に係わる 
 ārudha ないし ārudhi という用語があり、
 アッカド語の 
 aradu (降りる) に対応する。
 
 これらは都市名エリドゥ 
 Eridu 関係すると思われ、
 Eridu は khald の二千年を経た後の
 転訛である可能性もある。
 
 角 khald が階段 
 galam を象徴していただろうことは
 すでに推察した。
 
 王子を表す
 シュメル語には 
 patesi のほかに nun がある。
 
 『シュメルの王名表』の冒頭に表れる
 「王権が天下から下った時
  エリドゥに王朝が成立した」の
 エリドゥの都市名である
 ヌンキ nunki は
 「角の王子」の市と解釈することもできる。
 
 そうすると、
 patesi の同義語とされる 
 ensi は「地方長官」の意味もあるが、
 エリドゥの都市であることになり、
 エリドゥ市の守護神ということにもなる。
 
 Enki であることになり、
 エリドゥ市の守護神ということになる。
 
 En は長官とともに「主」を表すので
 「角の主」となる。
 
 これまでエンキ神について、
 その神話から
 「地の主」との理解が一般化しているが、
 ジャン・ボデロが「メソポタミア」の中で
 「その正確な意味は確かめられていない」
 と述べるよう「地の主」と
 解釈するだけでは十分でないのである。
 
 参照のために角を意味する
 
 ペルシャ語は shākh 、
 バローチー語は hānt 、
 スィンディ語では siñu 
 
 であることを付け加えておきたい。
 
 また、
 ギリシャ語の 
 έρδω は
 「犠牲を献げる」を、
 άρδωは
 「灌水(家畜に)水を飼う」を意味する。
 
 角を表す 
 si の絵文字※の形象がエリドゥ遺跡から
 発見された釘状の土器と
 関係あるだろうことを先に述べた。
 
 この丁字形の角を模したと思われる
 楔形文字が
 シュメル語 me の礎でもあろう。
 
 「メ me 」は
 「信託、天測、律法、摂理」を意味するが、
 重要事項は神話においてそれが原初的に
 エンキ神の持ち物であったことである。
 
 粘土で焼成された角状の si は
 エンキ神の象徴であったと解釈できる。
 
 さらに、
 me は「高み」を意味する 
 mah と発音が近似しており、
 e-mah 寺院の「高み」から
 抽象化されたと考えられる。
 
 高床式神殿の概念が
 踏襲されているようにみられるのである。
 
 si は角を意味するとともに
 「眼」としても使われた。
 
 シュメル語の「眼」を表す
 楔形文字は※で me の同類である。
 
 ※は igi と読まれるが、
 この用語は興味深い。
 
 目を意味する
 ドイツ語は Auge 、
 英語は eye であるが、
 それぞれ「自己」を表す一人称主語となり、
 
 Ich(ドイツ語)、
 I(英語)へと転換され、
 「自己の、わたしの」を表す所有格は
 my(英語)、
 mein(ドイツ語)、
 
 目的格「自己を、わたしを」は
 me(英語)、
 mich(ドイツ語)となり、
 目は自己を表す用語と
 直接的な関係を持っている。
 
 バローチ語では
 一人称単数の主語「わたし」は man で、
 一人称複数「我々」は mā で
 所有格が may となる。
 
 また、
 グルジア語の一人称単数の
 「わたし」は me で
 複数「我々」は
 スバルと関係するが tschven である。
 
 シュメル語の me も
 指示動詞「ある」の意味で使われているが、
 また me は「眼」であるとの
 解釈も成り立ってくる。
 
 日本語での「眼」の訓読は「メ」であり、
 また死語になっているが「マツ」と呼ばれた。
 
 睫は「マツゲ」つまり「眼の毛」で
 眼は「マツ」である。
 
 この me 及び mat は
 日本語だけに特異な用法ではない。
 
 サンスクリット語に mat 、
 ギリシャ語に mati とあるばかりでなく、
 中本正智が『日本語の系譜』で
 その調査を発表しているように
 ヨーロッパ、アジアに広がっている。
 
 me は「眼」を表すばかりではない。
 
 日本語で「台風の目」といわれるように
 「その中心」を意味するが、
 英独語の例にみられるとおり、
 「自己・主体」に係わる用語である。
 
 インド・ヨーロッパ語圏において
 「自己・主体」を表す用語は
 「スバル」に係わる。
 
 「スワ sva ・ スヴェ swe 」である。
 
 例を挙げると、
 インドの十九世紀植民地からの独立運動を
 スワデシュ Svadesh 運動、
 現在のアフリカ南部にある国名 
 スワジ Swazi 、
 スイス Swiss の国名から 
 スラブ Slav の民族名まで、
 さらに日本の諏訪から
 太平洋の ハワイ Hawai まで関係する。
 
 スバルは
 十字紋、卍字紋が起源であることは
 すでにみたが、
 十字紋の交差点、
 卍字紋の中心を 
 me というのである。
 
 北メソポタミアから
 スバル人とも呼ばれたカルト人が
 南メソポタミアへ持ち込んだ
 高床式神殿の象徴「牛頭」は
 エリドゥの神殿における
 信仰の歴史のなかで、
 「 me 」に変身したのである。
 
 この me の信仰を最も盛大に行ったのが
 スバル人たちと思われる証拠がある。
 
 スバル人の土地を流れている大河は
 ティグリス河で、
 ギリシャ人が虎の意味で
 付名したものであること、
 またその名が 
 Dicle 河であることを述べたが、
 この ディクル は虎を意味していない。
 
 円いもの、敷衍されて、眼ないし瞼を表す。
 
 シュメル語によるティグリス河の呼称は 
 idigna である。
 
 これまでアラビア語による解釈によって
 「急流の河」などと解釈されてきたが、
 「眼の河」と考えられるのである。
 
 シュメル語で 
 id は川を、 
 igna は igi-na の短略語で
 「眼の」を意味すると解釈できる。
 
 ハブール川がトルコ国境から
 多くの支流を集めるながら西流し、 
 
 西方から流れ来るシャブール川と
 合流して南流する地点の少々東に
 テル・ブラク Tel-Blak 遺跡がある。
 
 遺跡名は現代名であるが、
 Blak は
 アルパチア遺跡の碗形土器の垂幕に推察した
 brag に係わる聖所の呼称であろう。
 
 この遺跡の紀元前四千年紀の神殿から
 「眼の偶像」と呼ばれる
 石に彫られたか焼成粘土で作られた
 高さ二から十一センチメートルの奇妙な像が
 三百体も数千個の破片とともに発見された。
 
 この神殿跡にはこのような偶像が
 二万個は埋まっていると推測されている。
 
 同様の像は同時期の遺跡、
 例えば
 シンジャール山脈の
 グライ・レシュ遺跡などからも
 発見されており、
 奉納のためのシンボルと考えられている。
 
 エリドゥ神殿の丁字形粘土焼成品と
 同じ役目である。
 
 偶像の形象は「二つの眼」と
 思われる造形が強調され、
 人間の上半身から
 腕や手・頭の部分は元より
 鼻や口耳などを除いた、
 時には台の上に
 ドーナツ状の輪を
 二つ造形しただけの像さえある。
 
 神殿の内部には
 十字形の中央広間が組み込まれていた。
 
 規模は百十ヘクタールの広さがあり、
 ウルク後期に当たる南メソポタミアの
 ウルクの市の神殿と同等の大きさで
 内部装飾も壁画を石製の円花飾りと
 テラコッタのコーンで構成したモザイク、
 祭壇には色石で継ぎ合わせた帯状装飾と
 金の帯が組み込まれているなど、
 ウルクの市の神殿に
 匹敵するものであったことが知られる。
 テル・ブラクのある地籍は
 スバルトゥの重要な地域で、
 スバル人によって
 創建されたと十分考えられる。
 
 これは、
 紀元前四千年紀から紀元前三千年紀にかけて
 後期ウバイド期文化が
 北メソポタミアへ影響した結果である。
 
 その文化的特性は煉瓦による
 神殿造営を第一の要素とする。
 
 Me の信仰が北上し、信仰の象徴として
 「眼の偶像」の神殿が作られたのである。
 
M.K記



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第二章 カルト人と南メソポタミア [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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第二章 カルト人と南メソポタミア


 これまでアルパチや
 遺跡遺跡出土の碗形土器にこだわって、
 ハラフ期の北イラクにおける
 宗教的状況について追求してきた。
 
 紀元前六千年頃
 すでに高度に洗練された信仰世界が
 成立しつつあった
 証左がここにあると思われる。
 
 そして、
 「祝:はふり」が取り行う祝祭の起源が
 北メソポタミアにあり、
 牡牛の屠殺による奉献が極めて重要な
 信仰行動であったことが解った。
 
 また、
 この文化を創造した人たちが
 カルト人であったこと、及び彼等は
 後になってスバル人と呼ばれたことを
 確認しなければならない。
 
 南メソポタミアのエリドゥに移住してきた
 第一の先住者はどういう人たちであったかが
 焦点である。
 
 先にはエリドゥに来た人々は
 すでに神殿を作る慣習を持つ
 人々であることを推察した。
 
 そして、
 これまで傍証してきたとおり
 北メソポタミアで高床式神殿を建てる
 信仰心と技術能力を
 獲得したカルト人こそ第一の先住者と考える。
 
 紀元前九世紀になると、
 南メソポタミアのペルシャ湾沿岸に
 カルディア(Chaladae)人と呼ばれる
 有力な部族が現われる。
 
 彼等は西セム系の民族といわれ、
 紀元前十一世紀ころから
 現在のシリア方面から
 アラム人と前後して南下してきた
 部族とされている。
 
 その民族名について、
 故地から持ち込んだ呼称との推察もできるが、
 彼等が占拠した地域名に依るもので
 あったとも考えられる。
 
 西セム系である
 アラム人の一派との見方もあるが、
 文書に表れた両者の関係は
 明確に区別されている場合が多い。
 
 カルディアの名称は部族名ではあるが、
 その居住した地域名に依るものと
 考えた方がよさそうである。
 
 紀元前八世紀の半ば
 新アッシリアの帝王
 ティグラト・ピレセル三世は
 統治政策として
 被征服民の集団的強制移住を行い、
 アラム人をエラム方面に
 イスラエル人をアッシリアへ移させたが、
 移住させられた人民の名として
 オロンテス河畔へ移された
 カルトゥ人の名がある。
 
 旧約聖書創世記には
 「カルデア(Chaldaea)のウル」の地名が
 出てくる。
 
 ウル、エリドゥなど
 ユーフラテス川の河口に近い地域で
 同河の南岸一帯を
 当時カルデアと呼んでいたのである。
 
 旧約聖書には創世記のほかに
 エゼキエル書、ダニエル書、ハバクク書にも
 カルデア人の呼称が出てくる。
 
 その内容からすると、
 新バビロニアのユダヤ人
 バビロン捕囚の時代及びその後にも
 この地方はカルデアと
 呼ばれていたといってもよいであろう。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第二章 太陽神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第二章 太陽神



 アルパチヤ遺跡ではハラフ期の終末、
 五千四百年頃にも
 彩色土器が盛んに作られたが、
 
 その中には菊花紋を意匠した
 大皿などが出土している。
 
 アッシリア時代になって
 菊花紋は太陽神で帝王の守護神
 アッシュル Assur の象徴となる。
 
 同紋様の起源が
 エジプトにあるとの解釈も
 これまでにされてきたが、
 アッシリア王が
 「角のついた王冠」をいただいていること
 を考えると、
 やはり
 北メソポタミア土着文化の継承と
 判断した方がよさそうである。
 《参考》
 ※アルパチヤ遺跡
 ※菊花紋
 ※Tell Arpachiyah (Iraq)
 ※ハラフ期の土器について   
 ※ARPACHIYAH 1976
 ※高床式神殿
神聖の系譜.jpg
M.K記
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