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(9) 十勝・足寄(陸別)〔北海道〕 [神聖の系譜]

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金原政敏
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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(9) 十勝・足寄(陸別)〔北海道〕
下北半島を離れた「神の箱」を
乗せた石船は海を渡って
襟裳岬の東側を陸に沿って北上した。
広尾町では「楽古川」が海に流れ入っている。
楽古「ラッコ」
(Heb.)לֻכה,LVKh,lukh〔板〕
広尾町の北隣は大樹町で
そこに「歴舟川」がある。
「歴舟」の
歴「レキ」
(Heb.)לֻכה,LVKh,lukh,〔板〕
「歴舟」は「(石)の板を乗せた船」
十勝
大津〔豊頃町〕
大「オウ」
(Heb.),AVN,aun,〔石〕
「大津」は「石の寄留した港」
十勝太〔浦幌町、十勝の語源地名〕
十勝太「トカチフト」
(Heb.),TV-KTV-KhTV,yu-kateu-khutu
〔印—文字—刻むこと〕
刻まれた文字の印
十勝:漢字二字の解釈
「十の文字」で「十戒」を表している。
十勝川を内陸へ遡上すると
「帯広」に至る。
帯広「オビヒロ」
(Heb.),AVN-PLAY,aeven-pelioy
〔石-驚異の〕
驚異の石(十戒石)
「神の箱」は
大津で陸揚げされ内陸へ移動した。
その際
ここまで船に乗せられていた
麦を入れた壺をも捨てられてしまった。
それが町の遺跡から出土した。
その遺跡の時期は5世紀と観察されている。
麦の栽培地は
ほとんど日本列島にはそれまでないはずで、
西方の人々が自分の主食に種を捲くべく
長い航海の間保全保存されていたのである。
この地へ上陸を決めると
移動には荷物を多く保持するのは不可能で
身軽にしたのである。
もちろん食物は
他の物の入手が容易とも知ったはずである。
しかし、
十勝平野に入ったものの
ユダ国の人々にとっては
安心して「神の箱」を鎮座させる所が無かった。
そこで移動は内陸奥へと向かった。
そこが帯広の北に当たる足寄郡となる。
足寄郡・陸別。
足寄「アショロ」
(Heb.),ISR,ieserh,〔十戒〕
十戒の「十」
陸別「リクベツ」
(Heb.),LKhVT-HBRYT,lukut-iburiyt
〔板-契約〕
契約の石板
阿寒湖「アカン(ム」
(Heb.),AGM,aagam
〔湖、湖沼、池〕
「神の箱」は
陸別町からさらに常呂郡へと移された。


小嶋秋彦(歴史研究家)原図

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(8)「北」〔岩手県・青森県〕  [神聖の系譜]

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金原政敏
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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
 
(8)「北」〔岩手県・青森県〕
 
岩手県の太平洋岸には北上山地、北上川がある。
また青森県に入ると上北町あるいは
下北(半島名)とある。
この「陸の国」から以北はまた「北の国」である。
その「キタ」は
(Heb.)כֶתַֻ,KTV,ketau,
〔字、文字、筆跡〕に依るもので
「十戒石」に刻まれた文字を主眼に置き、
「十戒」を生活の護りとした
習性ををいったものである。
何しろ「出羽:イデハ」との国名は
田老町の神社名で紹介したように
「ユダ国人の共同体」なのである。
県名・山名
「岩手:イワテ」の原語は
(Heb.)ִֶוֶד,IBT,ieved
奴隷、下僕、"しもべ(僕)"、
神の僕<古代イスラエルの預言者、聖者>
(Heb.),IBT,iabad
働く、仕事する、奉仕する、神に仕える
で「神のしもべ(僕)」なのである。
岩手県・青森県・両域に
一戸から九戸まで
「四」を除いての地名がある。
しかし
ここには「四」を除いて
「十」までの地名が存在している。
「四」は新郷村の
「新アラ」に用いられている。
(Heb.)ַרֶבִֶַ,ARBIH,arebaieのAR であるし、
同所の字名「戸来」は「ヘライ」いうが、
(Heb.)הֶרִֶֻיִי,HRVYIY,hereuiyiyの音写で
「第四の」との語義で「四戸」に当る。
同発音の後には
(Heb.)הָרֶַַ,HVRAH,horaaeがあり
「命令」、「教える」ことの語義で
「夷」「掟」に相当する。
「戸来」はさらに「トライ」とも読め、
(Heb.)תָרַה,TVRA,torah
〔律法、戒律、掟〕となる。
「十」は「安代町」のアシロで
(Heb.)ִֶסֶר,ISR,ieser〔十〕で
「十戸」の土地を表す。
「十の戸」は「十戒」に即している。
それを示してるのが「十和田」で
湖・山名に付けられている「和田」は
本来「カタ」と発声され
(Heb.)כֶתַֻ,KTV,ketau
〔字、文字、筆跡〕に依るもので、
石板に刻まれた「十戒」の文字を言う。
十文字との地名が周辺にあるのが
その証明である。
よってこの「戸」は
(Heb.)תֻ,TV,tu〔印〕
印で十戒石に刻まれた文字をいう。
「一戸」は「一の文字」を表す。
十戒石を納めた「神の箱」は
下北半島の太平洋岸を北上し、
海峡を渡ってもっと安全な鎮座地を
求めて旅を続けた。
その理由は大和朝廷が
東国への支配欲を強めていたことに依る。
「道」や「ムツ」で紹介したように
景行天皇の時代から東国へ
観察団や兵団を送り始めた。
その時代は
紀元後400年後からと推測される。
《参考》「一戸」から「十戸」までの背景
一戸:岩手県二戸郡
二戸:岩手県二戸市
三戸:青森県三戸郡
四(4):青森県三戸郡新郷村
(Heb.),ARBIH,arebaah(男性形)
(Heb.),ARBI,arebai(アラバイ)(女性形)
「アラバイ」のうち「アラ」
新郷(しんごう)村の「新」
「ヘライ」戸来<新郷村の地区名>
(Heb.),HRVYIY,hereuiyiy
第四の
〇同地区内に
戸来三嶽神社が鎮座することから
この「ヘライ」は三ッ岳〔戸来岳〕と
語義的に共通であること示す。
〔同村西越(戸来地区の南隣り)にも
西越三嶽神社が在る〕
※「戸来」地区はおよそ
「三戸・五戸の間の位置にあり、
「四戸」の地とするに相応しい。
※それではなぜ「四戸」との表字することを
除けているのかが問題となる。
特別の理由があるのか。
「第四」
イスラエルの十二支族〔ヤコブの子孫〕のうち、
ヤコブの第四子は「ユダ」であり、
当地方がこの「ユダ族」が勢力を
波及させたことに依る。
「ダべ文化圏」とは「ユダ文化圏」を示す。
「イテハ:伊氐波:出羽」
(Heb.),IDH,Iedeh,
ユダヤ人共同体
有問「ウトウ」〔鎌倉時代の地名〕
善知鳥「ウトウ」神社(青森市安方)
「ウトウ」
(Heb.)ַֻדֶה,AVDH,audeh,
「私はほめる(感謝する)」
「ユダ」の称」
『旧約聖書』「創世記」
第29章35
彼女はまた、みごもって子を産み、
「わたしは今、主をほめたたえる」
と言って名をユダと名づけた。
そこで彼女の、子を産むことはやんだ。
五戸:青森県三戸郡
六戸:青森県上北郡
七戸:青森県上北郡
八戸:青森県八戸市
九戸:岩手県九戸郡
十(10):岩手県二戸郡安代町
(Heb.)ִַסַרָה,ISRH,iasaroh(男性形)
(Heb.)ִֶסהֶר,ISR,iesher(女性形)
「アシロ」
「安代」の地名が「10」を表わすことから、
当地を「十戸」とすることができる。
戸来岳〔別称三ッ岳〕
十和田湖町新郷村の境界にある山(1159m)
三ッ「ミツ」
(Heb.)מִתסֶוַה,MTsVH,mitsevah
(神の)命令、戒律、掟
戸来「トーラー」
(Heb.)תָרַה,TVRH,torah,律法、掟
※「三ッ」「戸来」とも
「十戒」に相当する「戒律」を指し示す。
但し「戸来」は「ヘライ」と呼称される。
「ヘライ」
(Heb.)הָרֶַַ,HVRAM,horaae(名詞)
命令、指令、教えること、教育
(Heb.)הָרֶַ,HVRH,horae(動詞)
支持する、教える
※一戸・九戸などの「戸」は
「戸来〔トーラー〕」を表わすことができる。
依って、上記の「4」「10」が
欠けているのは不当となる。
《参考》十和田〔十輪田〕<湖名及び山名>
十和田「トワダ」
(Heb.)תֶֻהֻדַה,THVDH,tuehudah
こだま、反響、共鳴
十(10)の和田「ワダ」
(Heb.)הֶד,HD,hed,
こだま、反響
※「十戒」を表わす
(Heb.)בַת־כָר,BT-KVL,bat-kor
〔こだま-音響〕
※雷鳴を表わす
十和利(山)
<山名、十和田湖町・新郷村・角鹿市の境>
十(10)の「和利」
(Heb.)כָל,KVL,kol,音響
※「十戒」を表わす
御倉山の「倉」
<十和田湖町に突き出した半島の名称、
及びそこの山名>
(Heb.)כָל,KVL,kol,音響
旧約聖書「出エジプト記」
第19・20章参照
 


小嶋秋彦(歴史研究家)原図

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(7) 陸の国(岩手県) [神聖の系譜]







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金原政敏






『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
 
(7) 陸の国(岩手県)
 
さて「陸」について追求し、
その漢字が
当てられている地方の国柄を明らかにする。
 
ユダ国人たちが奉祭してきた
モーセの十戒石を納めた「神の箱」は
宮城県から岩手県へ運ばれて行った。
 
そこに成ったのが「陸の国」である。
 
岩手県の太平洋岸地方を現在「三陸」という。
 
それは、
陸前、陸中、陸後と割って呼んでいたのを
「三陸」と纏めたまでで
「陸」がその総称となっている。
 
この「陸」は「リク」で
(Heb.)לֻכה,LVKh,lukh,〔板〕、
複数形は
(Heb.)לֻכהֻת,LVKhVT,lukhut,となり
「十戒石」の二枚の板のイブル語の原語である。
 
つまりモーセの十戒石二枚を言う。
 
あのインド亜大陸南方側の海中にある
諸島名ラクリバァの「ラク」と同根である。
 
十戒石を納めた「神の箱」が
三陸地方へ運ばれてきたことを
教えているのである。
 
実際のところ、
この地が最後的に鎮座場所とはならなかった。
 
太平洋沿岸を南から北の青森方面へ船で
途中寄港しながら移動した。
 
その航跡が各地に地名として遺留されている。
 
「延喜式」神名帳陸奥国に
「気仙郡三座」とある 。
 
気仙郡は宮城県の北部太平洋岸の
気仙沼市から岩手県の大船渡市、
三陸町に至る地域である。
 
三社ついて解説する。
 
三社の名前の神社は現在なく、
それらがどこにあったかは全く解からない。
 
理訓許段神社
「リクコタ」
(Heb.)לֻכהֻת־כֶתֻיִמ,LVhVT-KTVYM,lukhut-ketuyim,
〔(石の)板—書かれた〕
文字が書かれた板<十戒石>
 
登奈孝志神社
「トナカシ」
(Heb.)דֻ־נֶכהֶס,DV-NKhS,du-nekhes,
〔一対の(二つの)・貴重品〕
二枚の十戒石
 
衣太手神社
「エタテ」あるいは「いふとて」
(Heb.)יַהֻדית,YHVDVT,yahudyt,〔ユダ国の〕
 
当地にユダ国人が
渡来していたことを示している。
 
前二者は「十戒石」を明らかに、
後者はその奉祭者[ユダ族]達を明確にしてる。
 
気仙沼市にも興味ある地名がある。
 
上楽(じょうらく)
「ツネラク」
(Heb.)סהני־לֻכהֻת,ShNY-LVKhT,shny-lukhut,
〔二つの・(石)板〕
 
大船渡市
その「大」は「オウ」で
(Heb.)ַֻנ,AVN,aun,〔石〕で
「大船渡」は
「石を積んだ船が渡来した」となる。
 
石浜〔大船渡湾に面している〕に
「石船」は一時寄留したのである。
 
両石及び釜石〔釜石市〕
「両石」とは「二つの石」で
「二枚の十戒石」を表わす。
 
「釜石」
ヨシュア記第4章で述べられた
十戒石の移動の際その「神の箱」を
荷った祭司たちの象徴として
小さめの石が二枚の十戒石と伴にあった。
 
その時は
イブル人の十二部族を基にした12個であったが、
ここでは
和歌山県の粟島神社の
奉祭支族数二十一石と想定される。
 
釜石の釜
「カマ」
(Heb.)כָמֶר,KMR,komer,〔祭司〕
祭司の象徴としての石
 
大町の大「オウ」、
大船渡市の「大」と同じく「石」を、
「大渡町」名は
「石が渡来した」となる。
 
「釜」字が当てられたのは
古くから同地で鉄鉱石が採れ、
その溶解を行った熱炉に依る。
 
宮古市「ミヤコ」
(Heb.)מִַַגַנ,MIGN,maiagan,
〔停泊地、波止場〕
宮城野(宮城県)と同じ原語に依る。
 
その停泊地は宮古湾ではなく、
北方の崎山にある女遊戸海浜である。
 
崎「サキ」
(Heb.)סֻכהִֶַ,SKhH,sukhiae,〔草屋〕
で移動中の天幕を言う。
 
内陸に「箱石」との地名がある。
 
女遊戸「おなっぺ」
(Heb.),AVN—ANYH,〔石-船〕、
aun—an(Y)h〔船の石〕
<n-anとN二字が重なって促音となった>。
「オナアソヘ」
(Heb.)ַֻס־ַס(R)ה,AVN—YSRH,aus-as(R)h,
〔石-十(戒)〕
十戒石
 
田老町「タロウ」
(Heb.)דֻ־לֻכהָת,DV-LVKhVT,du-lukhot,
〔一対の(二つの)・(石)の板〕
 
出羽神社〔田老町乙部〕
「イテハ」
(Heb.)ִֶדַה,IDH,iedah,
〔ユダ国人の共同体〕
 
乙部「オトベ」
(Heb.)ַֻדַה,AVDH,audah,
〔私は褒め称える〕
「ユダ」名の別称
 
田野畑村「タノハタ」
(Heb.)תִַנ־בַת,TIN-BT,tain-bat,
〔(荷物を)積み込む-石〕
石を積んだ、十戒石を乗せた船
 
羅賀「ラカ」
(Heb.)לֻכה,LVKh,lukh,
十戒石の二枚の板、
大宮神社の「大」
(Heb.)ַֻנ,AVN,aun,〔石〕十戒石
 
普代村「フダイ」
(Heb.)בַתֻ,BT,batu,〔石〕
 
北之股神社「キタ」
(Heb.)כֶתַֻ,KTV,ketau,〔文字〕
 
股「マタ:バタ」
(Heb.)בַתֻ,BT,batu,〔石〕
「キタのマタ」
文字の石:文字が書かれた十戒石
 
八戸市〔青森県〕
十戒石を納めた「紙の箱」は
岩手県を越えて
北方の青森県域へ船で運ばれた。
 
類家「ルイケ」
(Heb.)לֻכה,LVKh,lukh,〔(石)板〕
 
新井田〔類家の隣り〕
新しい板の町


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(6) 道後と陸奥 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
 
(6) 道後と陸奥
 
「道」と「陸」
 
「陸」字の添えられた古代の国名はここに二つある。
 
「常陸」と「陸奥」である。
 
前者は茨城県を指す。
 
「陸奥」とはその常陸国より
さらに「奥」にあるとの意義である。
 
「常陸」の由来は後段の第2章で詳しく述べる。
 
「陸奥」を「ムツ」と言う。
 
音訓ではどうしてもそうは読めない。
 
やはり当て字としか言えない。
 
「ムツ」の由来を知るには「道」に係わる地名、
つまり「道口」「道前」と「道後」「道奥」との
呼称の理由を明らかにしなければならない。
 
『日本書紀』景行天皇25年に武内宿禰を
北陸及び東国(東方の諸国)に遣わして
地形や人々の「消息」などを観測しめたとある。
 
その際武内宿禰が築いたのが
「石城〔福島県〕」の砦である。
 
それは石に依って備えた「城塞」で
石が積み上げられた。
 
それをMIZ、mizといい、
漢字「道:ミチ」と音写された。
 
その石城への茨城県北端辺りを「道口」、
石城へ至る福島県内を「道前」、
さらに石城〔砦〕より北方の辺りを
「道後」とした。
 
「道奥」は道後よりもっと北方ということになる。
 
奈良時代あるいは平安時代になって
「道奥」を「陸奥」と表記替えしたのである。
 
「ムツ」との表記はMIZ、miz〔砦〕の同類語
MTSV、mutsuu〔陣地〕、
MTSVDH、mitsudah〔砦、城、要塞〕に
依拠した展開である。
 
因みに「奥」を「オク」というのは、
AKhVR、okhor<オク>の音写で
「後ろ、後部」が語義である。
 


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(5) 宮城町、気仙郡石巻、女川、大船渡〔宮城県〕 [神聖の系譜]



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ヘブライ&日本の古代史
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第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
 
(5) 宮城町、気仙郡石巻、女川、大船渡〔宮城県〕
 
宮城野〔仙台市宮城野区〕
宮城野「ミヤギノ」
MIGN、miaiagan〔停泊地、波止場〕
 
〇寄留地 
現在太平洋岸はかなり埋立が進み
古代の海外線は大分内陸にあった。
 
宮城野区宮城野の南隣り
若林区成田町に箱石神社がある。
 
出典:宮城県神社※箱石神社
石を載せた船はその辺りに寄留したのである。
 
石巻市の
巻「マキ」
MIGN、miaiagan〔停泊地〕
 
石巻は「石の停泊地」の語義で
「十戒石」が一時ここに寄港したのである。
 
渡波〔石巻市〕「ワタノハ」
BT-NKh、bat-nokh〔石-休息する〕
休息(した)石板
 
女川町「オナカワ」
AVN-KPVL、〔石-一対の〕
 
二枚(一対の)石板、
雄勝町大浜に一時寄留した。
 
「大」は「女」に同じ「石」


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(4) 酒列磯前薬師菩薩神社 [神聖の系譜]



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第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(4) 常陸国葦浦、堀出神社、酒列磯前神社
茨城県ひたちなか市の太平洋岸に
「阿字ヶ浦」との砂浜がある。
そこは『日本書紀』景行天皇紀に
日本武尊の東国遠征の途次に
通過した「葦浦」である。
また
その近辺に
堀出神社及び
酒列磯前神社が鎮座している。
実は紀伊国粟島神社に安置されていた
「神の箱」は神功皇后あるいは
応神天皇勢力の圧迫を逃れてか、
そこを出て更に東へ向かい
静岡県沿いから房総半島(千葉県)の
東端へ廻り北上を続けた。
そして一時この「葦浦」の地に
寄留していたのである。
その聖所場所が表記の二神社に係る。
ただ結果として日本武尊の東征軍団の
圧迫の危険からさらに
太平洋岸を北上することになってしまった。
何しろその後にも
景行天皇自身までが来襲したのだから。
「葦浦」との地名に依って
彼らの東征以前の名称といってよく、
それ以前に当地に
「神の箱」は安置されていたと判断できる。
そこが「阿字ヶ浦」となった理由は
本書の後段第3章で述べる。
芦浦の葦「アシ」
IShR、Iesher〔十〕十戒名
 
〇堀出神社
〔ひたちなか市阿字ヶ浦〕
堀出「ホリデ」
BRYT、berit〔契約〕
十戒石は「契約の石板」という。
江戸期に入って淡島神社〔和歌山市〕
の信仰が遷されたという。
祭神の誉田別尊(応神天皇)は
神功皇后の皇子名。
境内社の難産除神社は
淡島神社に神功皇后の
お産伝承が入っていたのが
ここに遷されたものだろう。
〇酒列磯前神社
〔ひたちなか市磯崎町〕
酒列「サカツラ」
ZVGY-TsVR、zugy-tsur〔二つ一組の-岩〕
石の二枚一組、二枚の石板
磯崎「イソサキ」
IShVV-SKH、yishuu-sukuae〔定住地-幕屋〕
幕屋の定住地、
「契約の石板」は
櫃に納められていた。
その箱を安置するために
移動が解かっていれば
天幕〔幕屋〕が使われたが、
長い間の鎮座には幕屋が建てられるとの
命令をモーセは神に命じられた。
それがSKH、sukuae〔幕屋〕である。
同社がこの時期の安置所つまり聖所である。
由緒書や「全国神社名鑑」に
祭神少彦名命、大名持命とある。
粟島神社に同じである。
「延喜式」神名帳 常陸国那賀郡
酒列磯前薬師菩薩神社
その祭儀に薬師〔医療〕が存在していることを
平安時代に資料が示している。
「契約の二枚の石板」は
現在
阿字ヶ浦周辺には安置されていない。
前に説明したとおり、
「神の箱」は
さらに北方へと移動して行ったのである。

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


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(3) 紀伊国海部郡粟島神社、加太神社 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(3) 紀伊国海部郡粟島神社、加太神社
 
「和名抄」
紀伊国海部郡、賀太郷
 
「延喜式」神名帳
紀伊国名草郡加太神社「カタ」
 
「全国神社名鑑」和歌山県
淡島神社〔和歌山市加太〕
「あわしま」
祭神:少彦名命、大己貴命、他
淡島神社〔海草郡下津町方〕
 
「日本の神々」(白水社)
淡島神社〔和歌山市加太〕
祭神:少彦名命、大己貴命、他
粟島神社〔下津町方〕
祭神:少彦名命
 
淡島・粟島「アワシマ」
IVTSMAH、iavatsemah〔栄光、誉れ〕
IVTSMH、otsemah〔大隅〕
と同類語にして同義
 
※「アワシマ」は「オウスミ」大隅と語源は同じ。
 
和歌山県の「アワシマ」は
鹿児島県の「大隅」から
ここへ人々の移動があり、
来着した人々が大隅と同様に造成した
文化圏であることを示している。
 
加太・方「カタ」
KTV、ketah〔字、文字、筆跡〕
石板に刻まれた十戒を表わす文字、
宮崎県日南市にの地名「方」に対応する。
 
なお、
サンスクリット語に「光、輝き」を表わす
ketとの用語があり、
同地にはその言葉との習合もあるが、
それを主眼とする神社は「加太春日神社」で
その信仰対象であった。
 
粟嶋神社〔海草郡下津方〕の社伝によると、
往古神が下津の硯浦に漂着したと、
ご祭神〔少彦名神〕が
海の外から漂着(渡来)して来たこと伝えている。
 
漂着した時、村民の21家が奉って森へ鎮め祀り、
以来この21家が当屋制によって祭祀し、
後亀山天皇の文永年間(1264~75年)に
今の宮の谷の社地へ遷し祀ったという。
 
この社伝にある「奉祭する21家」は実際のところ
従来からこの地にいた人ではなく、
「ネヘミヤ記」が記録したバビロン捕囚で
エルサレムにバビロンから帰還したユダ族で、
エルサレムに居住した21支族を
引用したものと考えられる。
 
その支族名は既に本書第4部で記述してある。
 
これらの人々は「残れる民」ShAR、shorといい、
大隅国曽於郡の「ソウ」となっていた。
 
つまり、
その曽於郡から〔海の外から〕この硯浦へ
ユダ族の21支族が移住したのである。
 
勿論(もちろん)「神の箱」を伴ってのことである。
 
小原「オハラ」
AHL、aohel〔天幕〕
幕屋、「十戒石」を安置する聖所
 
雑賀「ゾウガ」
ZVG、zug〔一対、二つ一組のもの〕
二枚の十戒石
 
黒田「クロタ」
KhRT、kharat
〔(金属や石に)刻む、(文字を)彫り込む〕
「方」に対応する用語で
「石板に十戒の文字を彫り込んだ」
 
上「カミ」
KMR、kamer〔祭司〕
 
名草「ナクサ」
NKhS、nekhes〔貴重品〕
※十戒石を指す
 
有田〔市名〕「アリタ」
ARVT、arut〔箱に詰められた〕
「神の箱」に対応する。
 
あのジプチ都市名Artaと理由を同じくし
また「下津」とも同類である。
 
下津「オリヅ」
ARZ、aoraz〔梱包する、(箱に)荷物を詰める〕
 
丁「ヨウ」
YIR、yaior〔森、森林〕
漂着後のすぐに神が祀られた所「森」
 
さて粟島神社が当地に鎮座して後、
多分50年後くらいに、
この神社の信仰に神功皇后に係わる
「女性信仰」が習合された。
 
しかも
医薬あるいは「お産」がその主眼であった。
 
「日本の神々(白水社)」によると、
 
「淡島様は
天照大神の第6番目の姫君であり、
16歳で住吉名神の妃になったが
下の病にかかったため綾の巻物、
12の楽器と一緒にウロコ船に乗せられ
堺の浜から流され、
あくる年の3月3日に
加太の淡島に流れ着いた」。
 
この伝承でも解かるとおり
粟島神社〔下津〕が先で、
淡島神社〔加太〕は後のことである。
 
「和名抄」紀伊国名草郡に
津摩郷「つま」雑賀「ゾウガ」。
 
既述のとおり
ZVG、zug〔二枚一組のもの〕であったが、
これによく似た用語
ZVGH、zuguahがあり、
語義に「妻」が含まれる。
 
丸田〔下津町〕「マルタ」
MRT、marat〔女性の名前に対する敬称〕~
奥様(英語のMrs,)
丸田「マルダ」
MYLD、miled〔産科医〕
MYLDT、meyeledet〔産婆、助産婦〕
これは神功皇后のお産伝承に対応したもの
 
女良〔下津町大津〕「メラ」
MLKh、melakh〔塩、食塩〕
和歌浦沿いに「塩津」とあるように
この地域では
塩焼き(海水をたいて食塩を生産する)が
行われていた。
 
なお、
ご祭神の少彦名神は本書第2部が
ガド族の関連で岩見(島根県)から
北陸道の関係神社の主たる祭神として
紹介されてあるが、
大己貴神〔大国主神〕と共に
イブル人の奉祭する神「主」が本眼である。
 

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


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(2) 日向国那賀郡 [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(2) 日向国那賀郡
「和名抄」日向国那賀郡
(高山寺本)
「和名抄」日向国那珂郡
(東急本、伊勢本、名博本、元和古活字体)
那賀、那珂「ナカ」
NGAL、nagal
〔救われる、開放する〕
”ナガ”
郷〔日南市、北浦町、串間市〕
「ゴオ」
GAL、guoal
〔救い出す、開放する〕
那賀郡内に「救いの神」が
奉祭されているとの主旨か、
あるいは
「神の箱」が長い航海から
解き放されたとの感慨を込めたものか。
油津・吾平津神社〔日南市油津港〕
「アブラ」「アヒラ」
AHL、aohel
〔天幕〕
幕屋
この地域に
ユダ族レビ族が奉祭し続けたきた
エルサレムの神殿を出た
移動式の聖所幕屋〔礼拝所〕が置かれた。
吾田神社〔日南市戸高〕
「アダ」
AVDH、aodeh
「創世記」第29章35の
「ユダ」の誕生挿話にある用語
〔私はほめたたえる〕
「ユダ」呼称の発生用語、
「大隅」に同じ。
戸高
「ヘタカ」
HVDH、hudah
<YDHが原型>
感謝する
平野・平山の平
「タイラ」
TVLH、tauilah
〔(金属、石、木の)平板〕
ここでは「十戒石の板」
えびの神社〔日南市油津〕
AVN、ieuen
〔石〕
十戒の石板
隈谷〔日南市油津の南隣り〕
「クマヤ」
KMYI、komeya
〔護符、お守り〕
ここでは「十戒石の石板」
大堂・大堂津〔日南市隈谷の南隣り〕
「おうどう」
AVDH、aodeh
ユダ名の由来
〔私はほめたたえる〕
方(上・下)
「カタ」
KTV、ketau
〔字、文字、筆跡〕
石板に刻まれた十戒を表わす文字
ユダ族がこの地域に勢力を伸長した時期、
彼らの幕屋が
日南市油津周辺に置かれていたのである。

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(1) 大隅国囎於郡・肝属郡 [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(1) 大隅国囎於郡・肝属郡
志布志湾のある志布志町は囎於郡に属す。
 
同名は古代史料にある。
 
「和名抄」大隅国贈於郡
 
「延喜式」神名帳、囎於郡「ソオ」
 
「ソオ」はイブル語 ShAR、Shor の音写で
「残れる者」「残れる民」
との語義で
前第5部第2章で詳しく解説した
バビロン捕囚事件で
翻弄された人々の呼称である。
 
特にここでいうのは
エルサレムからジプチへ
退避したユダ族の21支族を指す。
 
その国名にして半島名でもある
「大隅」は「オホスミ」で
これもイブル語の IVTSMH、Otsemae で
「誉れ」「栄光」の語義で
「創世記」第29章に語られた
ヤコブの子「ユダ」に
誕生挿話に係わる表現である。
 
「大隅」を載せる古代資料他にもある。
 
都萬神社[曽於郡大崎町仮宿]
 
都萬「トマン」 
TMVN、tumu
 [隠れた、隠されている]
 
HTMVN、hitemiyn
 [(隠れた場所に)隠す]
 
この言葉は
「正八幡」の「ハチマン」で
同信仰の大元がこの神社である。
 
大崎「オウザキ」 
AVN-ZUGH、aun-zugh
[石-二つ一組の]
二つ一組の、二枚の「十戒石」を表わす。
 
この語は末吉町の「岩崎」名となっている。
 
「仮宿」二枚の「十戒石」が
ここに仮泊されていたとの表明
 
「日本書紀」天武天皇11年(682年)7月3日
大隅隼人に
 
「続日本紀」和銅6年(713年)4月3日
日向国の
肝圷、贈於、大隅、姶羅の
4郡を割き初めて大隅国置かれる。
 
次に「肝属」について纏めてみる。
 
「続日本紀」
文武天皇4年(700年)6月3日 肝衝
肝圷、肝衝「キモツキ」
KMR-TSVK、Kamror
〔祭司-岩〕
岩の祭司
 
「和名抄」大隅国肝属郡(東急本)
岐毛豆岐<キモヅキ>
肝衝「キモヅキ」
KMR-ZUG、kamor-zug
〔祭司-二つ一組のもの〕
二枚の石板の祭司
 
肝属郡地域には
ユダ族に同伴し渡来した
エルサレムの神殿の奉祭を
職掌としていた
レビ族にして
モーセの兄を初めの祖とする
大祭司アロン家の係累の人々が
幕屋(天幕)守るため
生活の基盤を置いた所とすることができる。
 
串良〔町名〕「クシラ」

 

KTSYR、kotsiyr
〔(穀物の)借入れ、収穫〕
KTSR、kotsar
〔作物を刈り取る、収穫する〕

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


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(2)極東へ運ばれた「神の箱」③ [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」③
 
 (4) マレー語、インドネシア語、
タガログ語(フィリピン)、の石と法律
 
マレー半島、スマトラ南部、ジャワ島を中心に、
7、8世紀にはバラモン教を信仰の主眼とした
シュリーヴィジャ国が興り13世紀までに
その係累の国が栄えた。
 
ジャワ島のボロブドールの神殿はその典型である。
 
その後15世紀にはイスラム教が浸透し
マタラム国などの王国がイスラム教で支配した。
 
言うまでもなく
同教のコーランなどの言葉はアラビア語で、
その影響は21世紀の今日まで
色濃く継続している。
 
そうした歴史を持つ
マレー語、インドネシア語、タガログ語の中に
興味ある用語がある。
 
第一に
batu〔マレー語、インドネシア語〕
bato〔タガログ語〕で
三語とも
「石」あるいは「岩」との語義で共一である。
 
その祖語はイブル語の BT で、
『旧約聖書』の中にある「創世記」で語られる
アブラハムが息子イサクを神に捧げようとして
犠牲の祭壇を築いたモレヤの山を BT の山と
二ヶ所で表記しているのに連なる。
 
これは明らかに
「石の山」あるいは「岩の山」の義である。
 
BT は今においては「娘」の意味で
英語版や日本語版の聖書には
「娘の山」と翻訳されている。
 
つまり 
BT の表記を「石、岩」とする用法は
死んでしまったのである。
 
マレー語等での用語は
アラビア語からの移入ではない。
 
イスラム教化する以前から
この地方に定着していた用語と言える。
 
さらに注目されるのはその BT を語幹とする 
batas が「掟」あるいは「法律」の
意味であることである。
 
インドネシアのジャワ島では
「石」をwatu(batu)と表記し、
「法律」を wet という。
 
これも「石」と「法律」の関係に
「石」が介在している。
 
その背景にはモーセの「十戒石」に
「戒律(法律)」が書かれた実情に由来し、
この地に「十戒石」が渡来し、
人々の関心を引いたとの事実を示すものである。
 
因みにインドネシア語、マレー語の双方に
「法律」との用語として hukum とあるが、
同語もイブル語の hkhum の音写で、
形容詞として「賢い」ながら名詞として
「賢人、専門家」となり、
特に「博学な人」として
「宗教的律法学者」と
「律法」の専門家との意味があり、
これも「十戒」に詳しい人を指している。
 
これらの言葉の分析から、
明らかにこの地域に
紀元前後の頃「十戒石」及び
イブル人の信仰が
渡来していたと言えるのである。
 
loh(マレー語) lauh(インドネシア語)は
「石板」「書板」の語義でアラビア語からの移入と
解釈されているが、果たして本当か疑わしい。
 
イブル語、アラビア語ではその祖語を
カナアンのセム語に由来する共一語が多い。
 
マラッカからさらに船に乗せられた
「神の箱」はマレー半島の南端を回り
カリマンタン(ボルネオ)の西側近くを北上し、
フィリピン諸島よりの南シナ海、
ルソン島海峡を越えて台湾の東岸方面の
太平洋へ出て北上を続けた。
 
その当時4世紀は帆船だったはずで、
春から夏の季節風、
南風(はえ)に
ゆっくり送られていったのだろう。
 
BT〔石〕との用語は日本に渡来してしている。
 
本書(神の系譜)第4部
イスラエル人は「十戒石」を日本へ移転させた
で紹介した物部氏の「物」は「ブツ」が本来で
「物部」は「石」が本義と紹介した。
 
「ブツ」BTである。
 
物部氏の奉祭した神社に
石上神社(奈良県天理市)がある。
 
神社名は「イソノウエ」で
「石船」を背景とする。
 
そして同社の御祭神である「布都神」とは
「石の神」であるの意義にして BT の音写に依る。
 
もう一つの御祭神「布都神」は「フツシュ」にして
Batas〔戒律〕でここに祭っているのが
「十戒石」であることを表わしている。
 
同社の巫女舞で知られる
「ヒイ、フウ、ミ、ヨウ、イツ、
ムウ、ナナ、ヤ、ココナ、トウ」とは
「十戒」の第1条から第10条を
数え上げている様子で、
氏子が「十戒」を信仰し保持しますと
神に申し上げているのである。
 
物部氏とは
イブル人のガド族〔イスラエル人〕である。
 
ユダ族がモーセ自身が彫った「十戒石」を
極東へ渡来させたより400年は前の
紀元前1世紀中に日本へ海洋商人として
伊都国(福岡県)居留を始めた人々である。
 
ガド族の重要な「十戒石」については
本書(神の系譜)第4部で詳細に紹介した。
 
マレー半島などでの BT との用語遺留は
ガド族の仕業(しわざ)である。
 
ユダ国人〔ユダ族〕が
極東へ移動しようと決心させたのは
ガドの情報があってこそであるし、
彼等を渡来させたのは
ガド族がの所業があってこそであるし、
彼等を渡来させたのは倭人の絹であった。
 
(5) 「神の箱」の南九州への到着と安堵
〔大隅半島志布志湾〕
 
ユダ族の人々に奉祭された
モーセの「十戒石」を納めた
「神の箱」を乗せた船は
ついに地の果ての日本列島の端に到着した。
 
そこは
志布志湾〔鹿児島県大隅半島〕の
穏やかな海岸であった。
 
ジプチを船出してから十年近くは
少なくともかかったに違いない。
 
それを明白にする資料は全くない。
さて志布志湾に至ったユダ族の人々は
そこで大安心を感じた。
 
その感慨を表しているのが地名である。
湾名の「志布志」は「シブシ」で
イブル語の SVF-SVF 〔最後の最後〕で 
「遂に」とか「終わった」
という気持ちの表れである。
 
日本語に現在「しぶしぶ」とあり、
「いやいやながら」
との気持をいうものになっているが、
それも「最後の最後にはとの結末を
肯定的に表わす用語である。
 
「志布志」とはその想いの表象である。
 
「安楽」との字名も志布志町内にある。
 
いかにも「安心」を得た
安堵感の喜しさを表わしている。
 
有明町〔曽於郡・志布志町の隣り〕(ありあけ)
「アリヤケ」YLYH、ialiyah〔上ること〕
ここでは海から陸へ上がること。
 
同町の海岸に「上之浜」とある。
 
ここに着岸したのである。
※出典:現在と未来の世界遺産IN中国 海のシルクロード
クリックすると新しいウィンドウで開きます
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 巫女舞

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E8%88%9E

 

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 志布志湾

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%B8%83%E5%BF%97%E6%B9%BE

 

 

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


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(2)極東へ運ばれた「神の箱」② [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」②
 (B) 船に乗せられアラビア海へ出た「神の箱」
 
「神の箱」は奉祭するユダ族総がかりで
船に乗せられ彼らに守護されて
アラビア海へ出ていったに違いない。
 
船は太平洋へ出るまでの途次
安全なところを見定めて寄留した。
 
(1) ラカディーブ諸島
〔LacacadiveまたはLakshadweep〕
 
インド南端の西方
現ケララ州コーチン市の西方にある。
 
アラビア海の東端といってもよい
海中にある島々で、
その南方とはモルジブ国の島々が続く。
 
アデン湾からは紀元前後に開発され
知られるようになった。
 
季節風に乗って
インド洋を横断通過すればこの地域に至る。
 
何しろ大陸域は人も多く危険である。
 
小さな島に寄ったほうが秘密も保てるし、
はるかに安全である。
 
アデン湾を出て現イェーメンやイラン、
パキスタン、インドとアラビア海岸に沿って
航海するのは危険極まりなく採るべき航路ではない。
 
この諸島の透明を燻る語で解釈する。
 
〇Laccadive〔LVKh(VT)-DV、Iukh(at)-du〕
<板-二つの>二枚の板。
 
〇Lakshdweep〔Lukh(VT)-ShTVkh、Iukh(at)-shtuukh〕
<板-海中に出された>船で海に押し出された板
 
〇アンドロート島〔Androth〕ANDRTH、anedo ritoh
<記念碑、彫刻物(石)>
 
〇アミンディビ島〔Amindivi〕AMNH、DV、amenh-du
<契約(の石)-二つの>二枚の契約(証拠)の石
 
これらの島称はモーセの「十戒石」に係わる用語。
 
因みに対岸のケララ〔kerela〕州名は
イブル語KLL、kelal「掟」「原則」ながら
「社会」「大衆」の語義があり、
イブル人の共同社会をいうものである。
 
ガド族はなど先に渡来していた人々の居留地である。
 
「十戒石」を納めた「神の箱」は
ここに永く安置されていたのではなく、
船は東方へと航海して行った。
 
(2) ニコバル諸島〔Nicobar、Nicobal〕
 
ニコバル諸島はインド洋東北区域、
ベンガル湾の外で
ミャンマー・タイ半島部に
近い海中の島々で、
北側にアンダマン諸島、
南東に海を行くと
インドネシアのスマトラの北端に至る。
 
わずかに200kmである。
 
諸島中のカタハルkatchallには
ミシャMishaなる町があって、
同名がモーセ名に由来するとも推測される。
 
カタハル は〔KTV-Khll katau-khell:文字-掟〕で
「十戒(掟)の刻み文字」と十戒石の印刻文を指し、
それはモーセのなせる所であった。
 
ニコバル Nicobar は NK-BRYT 
〔休む(上陸する)-契約〕で
「契約(十戒石)の休息(上陸)」と、
ここに十戒石を納めた「神の箱」を
陸揚げしたとの記録である。
 
とはいえ、
この地も安置の聖所を設けるには
万全な場所ではなかった。
 
さらに東方へと移動して行った。
 
ニコバル諸島を南下すると
マラッカ海峡を通ることになる。
 
その海峡名はマレーシアの都市名
「マラッカ」に依っており、
同名が古いものであることが理解される。
 
(3) マラッカ〔Melaka・Malacca:マレーシア〕
 
マラッカは
首都クアランプールの南数時間の
海峡の海に面した小さな地域で、
後にポルトガルやオランダの
植民港に使用された港が
その開拓を誘因したところである。
 
紀元前から
東方との海洋交易に乗り出していた
イブル人のガド族はさらに
少々南のシンガポールを
寄留港として占有していたはずである。
 
Singa-とはサンスクリット語で
「ライオン」を表している。
古代からインド亜大陸以東には
ライオンは棲息していない。
メソポタミア以西の動物である。
 
その呼称がここに定着しているのは、
西方のライオンを象徴している民族が
渡来し居留した証拠である。
 
向いのスマトラ側に
広く Riau という地帯が広がっているし、
唐代、日本の奈良時代の史料に
「羅越」の地名が遺されているが
これらも「ライオン」に依拠している。
 
旧約聖書のうちに
ライオンを形容に使っている
ガド族、ユダ族が代表的である。
 
創世記の第49章9および10には
次のように述べられている。
 
ヤコブがその最後(死)の日に彼の子達を集めて
それぞれ与えた言葉である。
 
 
ユダは獅子の子、
わが子よ、
あなたは獲物によって成長する。
 
雌獅子のように彼はうずくまり身を伏せる。
 
誰がこれを起こすことができようか。
 
王権はユダを離れず、
統治者の杖は
その足の間を離れることはない。
 
 
最後の文句は前に引用したものである。
 
また「申命記」第23章20は次のようにある。
 
モーセが死の前に
イスラエルの人々を祝福して言ったと
同章の初めにある。
 
 
ガードについて言った。
「ガドを大きくする方はほむべきかな。
ガドは雌獅子のように伏し
腕や頭の頂をかき裂く」。
 
 
「創世記」の当該語は 
ARYH、ariyee、luya の二語
 
「申命記」の当該語はその後者が使われている。
 
さらに「創世記」にある「王権」は
本来
「王権の杖(棒)を表わす ShVT、shevet]
となっているが、
「王権」は MLVKhH、milukhae で、
王は MLKh、melekhである。
 
この語がマレーシアの地名の 
Melaka(Malacca)の原語で、
 
当地がユダ族の中心的寄留地であり、
「神の箱」が一時寄せられたいたことに
始まったと考える。
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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(2)極東へ運ばれた「神の箱」① [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」①
 
(A) 紀元4世紀頃までに知られた東方の情報
 
第二イザヤ書と言われる同書第40章以下に記述された
「地の果ての島々」 についての説明は
本書第3部第2章2すでにしてある
〔また拙著「日本創世紀」133ページ以下にも詳しい〕。
 
これらの情報は紀元前一世紀には
活発な東西交易を担ったイブル人のうちの
ガド族によって
エルサレムにもたされたものだろう。
 
イザヤ書第42章10
「海に漕ぎ出す者、海に落ちる者、
島々とそこに住む者」
とは正にガド族のことである。
 
彼等は絹を積んだ船で
東方特に日本列島西部の情報をも載せていたのであり、
エルサレムなど地中海東岸やイブル人社会に
その情報が広められる役目を果たしたのである。
 
紀元前1世紀になると
ギリシャ人にまで東方への興味が広まっていった。
 
その主な理由はやはり絹織物に対する関心からであった。
当時ローマ帝国の上流社会では
絹が最も欲しい商品で、
海路を経て大量に地中海北岸にまで運ばれた。
 
その交易を盛んにしたのは
ローマ人でもギリシャ人でもなかった。
 
イブル商人たちが
東方の厚目の絹織物〔縑:カトリ〕を
エルサレム周辺でローマ人の好みに合わせ
薄い織布に作り替えてローマへ送った。
 
ローマ帝国の金貨が
大量にインド亜大陸へ送られて
ローマ帝国経済が崩壊しそうになったほどであった。
 
インドにはイブル人の居住する交易中継地があった。
 
そこは
大陸の南方アラビア海に面した
現在ケララ州といわれる地域である。
 
プトレマイオス朝下のエジプトを拠点として
活動していたギリシア人商人が
書き纏めた海洋交易関わる東方の情報が
「エリュトラー海案内記」には載っている。
 
そこには
「セリカ」という「シナ海沿岸」に
あったとみられる絹の産地名が記されている。
 
「セリカ:ラテン語で serika 」絹の総称で、
同語の由来は絹の生産集団であった
倭人が「繭」を「石」と呼んでいたことに原因し、
日本列島へ紀元前の早くから
既(すで)に進出していた
インド人系商人たちがそれに従って
サンスクリット語で 
seilika 「石」と通称し始めたことによると考えられる。
 
良質の繭は潰そうとしても
潰れない石のような硬さを持っている。
 
和人の養蚕を行う人々はまた
繭から繊維にして織物にする技術を持っていた。
 
西方の海洋商人達は
インドの鉄鋼や銅の加工品などと交換して
絹を入手したのであろう。
 
「セリカ」名は地中海北岸に
「絹製品」の総評として広がった。
 
何しろ現在で英語で
シルクsilkというなどの原語である。
 
「セリカ」には
日本列島の九州を含めてよいはずである。
 
紀元前2世紀になると、
「セリア」という地方名が
地理書に記載されるようになる。
 
ギリシャの家しかパウサニアスの汽車案内が
それで紀元160年により出された。
 
ギリシャ本土周辺に関連した情報を纏めたものだが、
第6章26節6~9の金の産地に関して
述べられている中にその名称はある。
 
「エリュウトラー海の西奥にセリアの島がある」とある。
 
「エリュトラー海」とは本来紅海ながら、
アラビア海からインド洋、太平洋方面まで含んでいる。
 
明らかに
「エリュトラー海案内記」の効力に依っている。
 
その「最奥」というのだから
太平洋の北方方面とすることができよう。
 
「セリアの島」とは
日本列島の西部分「九州」に該当する。
 
何しろ同記述の前段「セリアの島」の近くに
Abasa アバサ と Saxaia サカイアという
二つの島があるといっており、
前者は現沖縄本島を指す。
 
浦添市に「安波茶」とあるのがその遺称で、
後者は先島諸島の「先」として遺留されている。
 
Abasa、Saxaiaともサンスクリット語で
前者が abasa 〔光〕、
後者が sucyah〔輝く、光を発する〕
に依っており、
後にギリシャ語呼称に転換して
「輝く、ピカピカの、白い」の
leukosを取入れ「リュウキュウ:琉球、瑠球」と
表記されるようになっている。
 
これに依って
「セリア:seria」の原語を探れば、
同じくサンスクリット語で
セリカsailika〔石〕と
同義語のsaila〔石〕あるいは
sailā〔石の多い、石よりなる〕があり、
これらの単語は
全て「白い繭」に由来した呼称で絹に係わっている。
 
このように紀元2世紀に至って
東方の事情が西方でかなり知られるようになっていた。
 
ましてや3、4世紀になれば
さらに詳しいことが西方の関心ある者たちには
周知されいぇいっただろう。
 
紀元後1世紀にジプチへ移転したユダ国の人々には
「イザヤ書」を手にして
東方についてかなり知り得ていたと言える。
 
特に紀元前からガド族が居留した
日本の西部の実情を把握し、また
海路の実情をも理解していたはずである。
 
ユダの人々はエチオピアが
キリスト教に改宗した頃から
同地の安全に確信を持ち得なくなってしまったらしい。
 
より安全が安心できる土地が望ましいと
考えるようになったといってよい。
M.K記
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(1) 紅海を南下してジプチへ [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 第2章 神の箱〔十戒石〕の
     エルサレムからの退避行 
 
   (1) 紅海を南下してジプチへ
 
  エルサレムから南方へ退避すれば、
 そこはシナイ半島で、紅海の 深奥には
 モーセが「天神」の教えを受けたシナイ山 、
 そしてアカバAgabah に至り
メデアンMede-an〔地-天神:MIDY-AN〕へと移れる。
 
集団はその紅海の深奥地に留まることをまだ危険と感じ、
 紅海を船で南航し、
 アラビア海との境界に位置する
 現在のジプチ DJBOUTIに至り
 そこに停留したと推測される。
 
何しろ同国名の原語YHVDH、yehudeであるからである。
 
 紀元後1世紀半ばの
 「エリュウトラ―海案内記」には同地名はない。
 
 紀元後70年頃は同案内記が書かれた後で
 それに載っているはずもない。
 
 また紀元後2世紀の
パウサニアスの「ギリシャ案内記」にも同名表記はない。
 
 YHVDH、yehudeがDJBOUTIと変わった理由は
 ずっと後のこと、
20世紀初期にここをフランスが植民地にしたことに依る。
 
 フランス語聖書には「ユダYHVDH」をJuifsと
 表記しており、
 同語に依拠して現地名はできたのである。
 
 Y〔Ju:DJI〕-HV〔BO〕-〔TI〕 と解釈される。
 
因みに同語はギリシャ語でIoudu、ラテン語でJudaea、
 ドイツ語Judāa、英語Judaiと
 イブル語の「日本YPN」がJapanと
 表記されるのと同じである。
 
 紀元後70年代からずっとYehudeであったろう。
 当時紀元前から近隣のエチオピアには
 ユダ国の天神教が信奉されていた。
 
 その理由は前章(7)-(B)で述べてある。
 
 その頃の同地にはアクスム王国という国があった。
 
 現ジプチ国内タジュラアTadjourah湾の
 南アデンに望んでジプチの町があるが、
 その南岸奥にアルタArtaとの町がある。
 
 これもイブル語のARVZ、aruzの移入で
 「箱に詰められた」の語義で「十戒石」が
 箱に収められてここに運び込まれて
 安置されていたとの傍証となる。
 
 「エリュトラー 海案内記」には発音のよく似た
 Aualitesとの港名があるが、
 それは現ソマリア国内で現
 セイラSayla付近であることが明白に解っていて
 アルタが紀元一世紀の周末以降に成ったことが
 判明している。
 
  ジプチでの「神の箱」の安置は
 4世紀の中頃まで約250年近くは続いただろう。
 
 その聖所は天幕による「仮庵」であった。
 
 ジプチ国の西隣りはとAFARいうが、
 同語はイブル語のAHLの音写で
 「天幕:幕屋」であるからである。
 
 エチオピアにおいては
 紀元331年に
 アクスム王国がキリスト教に改宗してしまった。
 
この時点で「神の箱」は再び危機を迎えることになった。
M.K記
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(9)神の箱〔十戒石〕は ユダ王国の祭司〔レビ族〕と ユダ王国王家〔ユダ族〕によって秘匿された [神聖の系譜]





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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第1章 エルサレムへの安置
 
  (9) 神の箱〔十戒石〕は
     ユダ王国の祭司〔レビ族〕と
     ユダ王国王家〔ユダ族〕によって
     秘匿された
 
  (A)ユダ族の由来〔ヤコブの子<創世記>〕
 
  ここで改めてユダ族の基になっている
 「ユダ YHVDH」の由来を確認しておきたい。
 
 「ユダ」とは
 ヤコブの第四子(男子)の名前に依っている。
 
 「創世記」第29章39にその銘名経緯が記述されている。
 
 ミルトス版聖書の翻訳分は次のようにある。
 
   彼女はまたみごもって男の子を産み
   「今度こそ主を誉め讃えよう」と言った。
 
   そこでその子の名をユダと名付けた。
 
 彼女とは「レア」という。
 
 彼女がヤコブと同房した経緯はここでは除く。
 
 同文句をイブル語に従ってローマ字に換えると
 次のようになる。
 
   VTHR IDD VTLD BN VTAMR KhPIM AVDH
   そして彼女は妊娠した さらに そして産んだ
   息子を そして 言った 私は 誉め讃える
 
   AT YHVH IL KN KRAH WHMV YHVDH
   を 主 それゆえ 彼女は呼んだ その名を ユダ
 
 文章で解かるように
 YHVDH〔ユダ〕名は
 AVDH〔私は誉め讃える〕と関連する。
 
 その原語〔動詞〕はYDHで語意は
 「感謝する」「告白する」で
 活用形としてHVDH、hadahとなる。
 
 AVDHはAが「私」との第一人称単数で
 本来A-HVDHながら
 Hが時にe(a)と発音されることから
 Hが一つ略されたものである。
 
 AVDHはaodeと発音される。
 
 YHVDHはY(主語)-HVDH(動詞)と分けられる。
 
 主語としてのYは「主」として、
 この文章の中にもあるYHVHのYと同じく
 「彼」を客体化あるいは一般化した、
 時には「神」を表す用法で、
 ここでは「それ(は)」といった表現である。
 
 もちろんHVDHとは「感謝する」「告白する」で、
 「神へ感謝する」との「誉め讃える」で、
 YHVDHは「そは誉め讃える」となる。
 
 その表音はyeudeあるいはyehudeとなる。
 
  この名称は「ユダ王国」名に踏襲されている。
 
 何といっても同地はモーセの「出エジプト記」の
 ユダ族の嗣業地として指定された地域で、
 後にダビデやソロモンといった王族は
 このユダ族の出身であった。
 
 同語を基にして以下のような用語が生まれている。
 
 YHVDY、yehudiy YHVDYH、yehudiyuahは
 「ユダ族」「ユダ人」また
 形容詞形として「ユダ人の」となっている。
 
 さらにYHDVT、yahadutは
 「ユダ人社会」「ユダ人共同体」となる。
 
 後世においては
 「ユダヤ教」「ユダヤ人主義」としても使われた。
 
  (B)神の箱はユダ国の王族と
    祭司アロン家によって秘匿された
 
 さて「神の箱〔十戒石〕」は第二神殿の時代もユダ族、
 そして祭司たるレビ族の人たちによって奉祭されていた。
 
 エジプト脱出後シナイ山でモーセ及び
 その兄アロンが主なる神によって祭事を任されて以来、
 その鉄則は原則的に守られてきた。
 
 ダビデの天幕やエルサレムの神殿では
 兄アロンの後裔が奉祭を祭司として継続していた。
 
 よって「神の箱」を隠し秘匿するにも
 ユダ族の王権を持つ家族とレビ族の祭司との
 協同行動であったはずである。
 
  ユダ族の王権について「創世記」第49章10に
 次のようにあり、
 イブル人〔イブライ王国〕の王統は
 ユダ族が継いでいくものと判断されていた。
 
  王笏<王権の棒>はユダ族から離れず、
  統治者の杖はその足の間から離れない。
 
  レビ族の役職務については本書第3部第1章(2)、(3)で
 詳しく説明してあるがイブル人のカナアンへの定住と
 「レビ族(祭司)」は、他部族の嗣業地のうちから
 それぞれ犠牲の動物を養うための牧草地を
 与えられて各族の祭司を務められることとされた。
 
 そのレビ族はアロンの一族で、
 その直系がモーセの「十戒石」を奉祭して
 ダビデの時エルサレムに入り、
 ソロモンの神殿を護持していたのである。
 
  従って「神の箱」の移転のためには正統たる
 ユダ族の主要な族類とレビ族の祭司の主要集団との合意で
 移動に付き添って行くことの合意で
 移動に付き添って行くことの決定がなされたはずである。
 
 何しろ66年からの反乱において
 ローマ軍イブル人を6千人を殺したとの記録がある。
 
 信憑性に疑いがあるが、
 「アングロサクソン年代記」には
 「71年、この年にウェスパシアヌスの息子
 ティトスがエルサレムで
11万1千人のユダヤ人を殺した」
 とあるくらいの大惨事であった。
 
 とてもではなく、
 北方(ダマスカス方面)のローマ軍侵攻の様子を
 情報として知れば、
 イブル人の「ご神体」たる「神の箱」をエルサレムに
 保とうとの選択は無かったはずである。
 
 ユダ族の王族を中心とするユダ国人の集団は
 必然的に南方へ必死になって
向かわざる得なかったはずでもある。
※《参考》
 〔イスラエルの十二支族
   〔十二支族〕
 
 
 
                            ┌ルベン Reuben רֶֻבֶנ
  アブラハム          │
   │         ├シメオン Simeon סִמֶָנ
  イサク─ヤコブ──┤
   〔イスラエル〕├レビ Lebi לֶבִ
                     │  
                            ├ユダ Judah דַה
                            │
                            ├ダン Dan דַנ
                            │
                            ├ナフタリ Naph'tarlï נַפהאתַרל
                            │
                            ├ガド Gad גַד
                            │                
                            ├アセル Asher ַסהֶר 
                            │
                            ├イッサカル Is'sachar ִסאסַצהַר
                            │(イサカル) 
                            ├ゼブルン Zeb'ulun זֶבאֻלֻנ
                            │
                            ├デナ Dinah דִנַה 
                            │(ディナ)
                            └ヨセフ Joseph יָסֶפה
                  
M.K記
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(8) 神の箱〔十戒石〕は行方不明となった [神聖の系譜]



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ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 第1章 エルサレムへの安置
  (8) 神の箱〔十戒石〕は行方不明となった
 
  前記したように
 「イザヤ書」の新バビロニアがエルサレムを侵略し、
 神殿内の貴金属を持ち去ったとの記述以降、
 その記述をも含めて以降
 「神の箱〔十戒石〕」についての記録は諸書に一切ない。
 
 依って
 その行方については推測し仮説を企てるより後の人には 
 研究者を含めて許されていない。
 
 それがつまり
 ユダ王国の構成員〔ユダ族とレビ族(祭司)〕が敢えて
 「神の箱」を守るための手段だったのである。
 
 その安置の聖所は「隠し場」と呼ばれるようになった。
 
 しかも秘密裡にそう称せざるを得なかったのである。
 
 本書は21世紀の今日におけるその「隠し場」である
 「神聖な所」がどこかを明白に
 しかも実証的に説明していく。
 
 (A)第二神殿の存続した時代
 
  「イザヤ書」によると、
 紀元前6世紀にバビロン捕囚から解放された人々が
 エルサレムへ帰還した後に
第二神殿を建設したとの
 記述があることは
 (6)エルサレムの第二神殿の建設の項において述べた。
 
 しかしそこに「神の箱」が
安置されたとの記述はなかった。
 
 なぜ第二神殿を建設し得たかの理由を考えると、
 (7)バビロンの捕囚を逃れたユダ国の人々のうち、
 (A)エルサレムに残った人々で触れたように、
 彼らが隠密に「神の箱」を秘匿していたからである。
 
 ソロモンの第一神殿には「神の箱」は安置された。
 
 第二神殿の「ご神体」としても「十戒石」がなければ
 神殿を建てる意義がない。
 
 第二神殿の深所に「十戒石」を納めた「神の箱」が
 安置されたとしるのが正当である。
 
 それでこそ
神殿が信仰の対象で求心力でを持ち得るのである。
 
  新バビロニアを滅亡させ、ユダ国の人々の捕囚を解いて
 エルサレムへ帰還させたペルシャ国はその後ずっと
 カナアンとエジプトを支配していたが、
 紀元前4世紀になってマケドニアを故郷とする
 アレキサンダー大王の東征に依って
 また滅亡してしまった。
 
 同大王が中央アジアにまで至って後
 アラビア海岸方面に南下してペルセポリスまで帰ったが
 そのペルシャに於いて病死すると、
 そのマケドニア、小アジア、ペルシャ、エジプト、
中央アジアの
 広大な征服地は直ちに分裂し、
 カナアンはセレウコス朝の〔312-285〕、
 エジプトはエジプト王国
〔プトレマイオス朝:ギリシャ系(301-231)〕となった。
 
 カナアンは最初セレウコス朝の支配を受けたが、
 そう長くは続かず、
プトレマイオス朝の支配を長く受けた。
 
 その間エルサレムは「神殿都市」として独立性を保ち
 「神殿国家」の様相を呈していた。
 
 しかし、前2世紀の後半になると
 セレウス朝の支配下にまた入れられた。
 
 このように紀元前4世紀から紀元前2世紀にまで
 カナアンのエルサレムは
ギリシャ系王権に翻弄されたのでる。
 
 さりながら第二神殿は保たれていた。
 
 紀元前2世紀になるとローマ帝国が強力な陸軍で
 小アジアから地中海の東岸地方へ、
エジプトへと侵略を進め、
 エルサレムはまた危機に陥った。
 
 ユダ国のイブル人たちはローマの帝国支配に抵抗した。
 
 中でもヘロデ王の叛乱は
マサダ砦築いての頑強なものであった。
 
 紀元前37年に
 ポンぺイウスがエルサレムを包囲攻撃して陥落させた。
 
 しかしその際には(第二)神殿は破壊を逃れた。
 
 その後の紀元後66年になってまた
 反乱が起され73年まで続いた。
 
 その間の70年
 ティトスがエルサレムの町を破壊すると
 神殿も破壊してしまった。
 
 ここに紀元前5世紀から存続してきた
 第二神殿も消滅されてしまった。
 
 その際における「神の箱」がどうなったかの行方は、
 ここでも全く不明である。
 
 実際は、この時エルサレムに残されていた
 ユダ国の人々〔ユダ族〕は危険を予想して事前に
 カナアンの外へ「神の箱」を
秘匿して運び出したと見られる。
 
 彼等の観測は
 「最早カナアンには安全な隠し場所はない」
 であったろう。
M.K記
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(7) バビロン捕囚を逃れたユダ王国の人々 [神聖の系譜]





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     「十戒石」の運命 
 第1章 エルサレムへの安置
  (7) バビロン捕囚を逃れたユダ王国の人々
 (A)エルサレムに残った人々
 
  「エレミヤ書」の第39章40章を丁寧に読むと、
 ユダ国エルサレムにさえ捕囚を逃れて
 同地に潜行していた人々があったことが
 事実として解ってくる。
 
 「エレミヤ書」第40章は
 預言者エレミヤがバビロンにおいて捕囚から
 解放されてエルサレムへ帰還した経緯を述べている。
 
 しかし、
 ここでは詳しく解釈する必要はない。
 
  第40章は言う。
 
   そこでエレミヤはミツバにいる
   アヒカムの子ゲダルヤのところに行って、
   彼と共に国に残された民の中に住んだ。
 
  また同章12は言う。
 
   そこでユダ人はみな散らされていた
   全ての所からユダの地に帰って来て  
   ミツバのゲダルヤのもとに行き、
   ぶどう酒と夏の果物を非常に多く集めた。
 
  更に第42章12、13にも「残った者」は語られる。
 
   (略)
   身分の低い者も高い者も皆寄って来て 
   預言者エレミヤに言った。
 
   「どうぞ私たちのため、
    この残った者皆のためにあなたの神、
    主に祈って下さい。
    ご覧のとおり、私たちは多くの者から
    ごくわずかだけ残ったのです。
    あなたの神、主が私たちの歩むべき道と 
    なすべきことを
    私たちに告げてくださいますように」
 
 当該部分でいう
 「残された民」あちは「残った者」の
 イブル語はShAR、shorと表記される。
 
 同語は第42章15や第43章5にも用いれている。
 
 その内実は
 バビロン捕囚を逃れてユダ王国内のエルサレムや
 他地方に隠れていた者たちを指す。
 
  また、
  「エズラ書」第9章8、13、14、15には
  以下のようにある。
 
   (9)しかし、
    今しばらくの間私たちの神、
    主の哀れみの依って私たちに
    逃れた者を残しておき、
    私たちのためにご自分の聖なる所の中に
    一つの釘を与えて下さいました。
 
   (13)
    ……事実私たちの神、
    あなたは私たちの科(とが)の受ける刑罰よりも
    このように軽く罰し、
    逃れた者を私たちに残して下さいました。
 
   (14)
    あなたは私たちを怒り、ついには私たちを
    絶ち滅ぼし生き残った者も、逃れた者も
    いないようにされるのではないでしょうか。
 
   (15)  
    イスラエルの神、主、あなたは正しい方です。
    まことに今日あるように私たちは逃れた者として
    残されています。
 
 ここにおいてのイブル語は
 「逃れた者」をPLYTH、peletah、
 「生き残った者」を
 前記のShAR、shorが用いられている。
    
 これらの指摘は新バビロニアのユダ国遠征で
 被害を受けたにしても
 「死ななかった人々」をも含め捕囚(及び死から)
 「逃れ」「生き残った」人々を表している。
 
 このShAR、shorにはバビロン捕囚から釈放されて
 エルサレム帰還した者たちをも表しており、
 「エルサレムに残った者」
 と理解するのが妥当である。
 
  前述が示すとおり
 バビロン捕囚以降の聖典には
 一切「十戒石」にはついては語られていない。
 
 あくまで推測を出ないが、二枚の「十戒石」は、
 ユダ国に「残された者」たちが
 密かに「隠匿」して奉祭していたのである。
 
 さもなければご神体たる「十戒石」無くして
 第二神殿が建設建設されるはずがない。
 
 この新バビロニアの征服という大事件は以降
 「十戒石」は「隠されるもの」となったのである。
 
 (B)ユダ国から避難した人々
 
  「エレミヤ書」の第43章から第46章までは
 バビロン捕囚を逃れてユダ国外、
 具体的には
 エジプトへ避難した集団について語られる。
 
 つまり、
 ユダ国の全てのイブル人が
 新バビロニアのバビロンへ
 強制移転させられたのではない。
 
 エルサレムなどユダ国に
 「残された」人々の様子は前項(A)で述べた。
 
 ここではユダ国外のエジプトに
 「逃れた者」のあったことを紹介する。
 
 彼らは新バビロニアが攻略する以前に
 ユダ国から避難してしまった人々である。
 
 第43章の初めには偽りを語っている者のあることを
 エレミヤに語らせている。
 
   (2)あなたは偽りを語っている。
      私たちの神、主は
     「エジプトに行って寄留してはならない」と
          言わせるためにあなたを遣わされたのではない。
 
   (3)(略)あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、
     私たちをカルデア人の手に渡して私たちを死なせ、
     また私たちをバビロンへ引いて行かせようと
     しているのだ」
 
   (4)全ての将校と全ての民は「ユダの国に留まれ」
     という主の御声に聞き従わなかった。
 
   (5)そして
     カレアハの子ヨハナンと全ての将校は
     散らされていた国々からユダの残りの者全てを
      
   (6)男も女も子供も王の娘も、
     それに侍従長ネブザルアダンが
     シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに
     託した全ての者、
     エレミヤとネリヤのバルぐを連れて 
  
   (7)エジプトの国に行った。
     彼らは主の御声に従わなかったのである。 
 
 第4章において、
 主なる神はエジプトに寄留した者たちに対して
 エレミヤを通して語る。
 
   (12)私は寄留したエジプトの国に
     住んでいる者たちを取り除く。(略)
 
   (13)私はエルサレムを罰したと同じように
     エジプトの国に住んでいる者たちを
     剣と飢饉と疫病で罰する。
 
   (14)エジプトの国に来てそこに寄留している
     ユダの残りの者のうち逃れて生きる者、
     帰って行って住みたいと願っている
     ユダの地へ帰る者はいない。
     ただの逃れる者だけが帰れよう。
 
 バビロン捕囚の事件が起こったのは
 紀元前6世紀のことである。
 
 エジプトへ逃れ避難した者のうちには神の預言を
 恐れたのか同地を捨てて更にナイル川を上流へ向かい、
 現在のエチオピアを定住の地とした人々さえある。
 
 ギリシャのヘロトドスの「歴史」(紀元前5世紀)に
 「エチオピア」の地名が表れる。
 
 同語のギリシャ語理解は
 「黒い(赤褐色の)人」として知られるが、
 原初的には同地に避難したユダ国人たちが
 その信仰を守ろうとそこでの自分自身を
 IDHといったことに始まろう。
 
 「エチオピアEthiopia」を分析すると以下のようになる。
 
 IDH(イブル語)とは
 本来「集団、会象、大象」との語義ながら、
 「イブル人の共同体」との固有な意義で
 使われるようにもなっていた。
 
 その発音はiedahで、Ethiopiaあるいは
 ギリシャ語のAithiopiaとの関係は次のようになる。
 
  Ie-d-o-h
  Ai-thi-o-p(h:f:p):Eithi-o-i-[a]
 
 ヘロトドスの「歴史」に最初に記述されているのは
 巻4・183で「穴居エチオピア人」と」あり、
 その補足にAithiopsとある(Aithioph)。
 
 紀元後1世紀のギリシャ語文献
 「エリュトラ―海案内記」にAETHIOPIAとの表記がある。
 
  さてエジプトへ寄留したユダ国人と基として、
 後のアレキサンダー大王のエジプト征服後の
 ギリシャのカナアン、エジプト支配下に
 ユダ国人たちは「聖書」を初めてギリシャ語に翻訳した。
 
 それは「ギリシャ語七十人訳聖書」といわれる。
 
 その時期は紀元前285年頃からとされている。
 
 「聖書」をギリシャ語でBIBLOSといい、
 ラテン語など
 ヨーロッパ諸語でBIBLEというようになるが、
 その原語は
 ”パピルス(ナイル川岸に生えていた葦の一種)”に依る。
 
 その葦を薄く削いでつなげ紙状にしたもので
 羊皮紙より使い勝手が良かったに違いない。
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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(6) エルサレムの第二神殿の建設 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 第1章 エルサレムへの安置
  (6) エルサレムの第二神殿の建設
  前記(5)ユダ族などのエルサレムへの
 帰還で歴代誌(下)の最終末において
 次の文句を紹介した。
 そこには神殿の再建について述べられている。
   ペルシャの王クロスは言う。
   
   『天の神、主は地の全ての王国を
    私に賜った。
  
    この方はユダにあるエルサレムに
    ご自身のために宮を建てることを
    私に委ねられた。
    
    あなた方が、全ての主の民に
    主の民に属する者は誰でも、
    その神、
    主がその者と共におられるように。
    
    その者は
    ユダにあるエルサレムに上がり、
    イスラエルの神、
    主の宮を建てるようにせよ。
    この方は
    エルサレムにおられる神である』。
 この文面で明白にユダ族などがエルサレムに
 「王の宮」の神殿を建ててもよいとの許可が
 クロス王から出されたのである。
 神殿の再建完成までの経緯は
 「エズラ書」第2章から第9章までに詳しい。
  第2章68は言う。
   一族のかしらのある者はたちは
   エルサレムにある主の宮に着いた時、
   それをもとの所に建てるために、
   神の宮のために
   自分から進んで捧げものをした。
   すなわち
   彼らは自分たちでできることとして
   工事の資金のために
   金6万1千ダリフ、銀5千ミナ、
   祭司の長服百着を捧げた。
  第3章述べる。
  彼らはあくまで
  祝祭の、犠牲を神に献げる
  〔供儀の〕民であった。
   イスラエル人は自分たちの町々にいたが、
   第7の月が近づくと、
   民は一斉にエルサレム集まって来た。
   (略)
   彼らは第7の月の第1日から
   全焼の生贄を主に捧げ始めたが、
   主の神殿の礎はまだ据えられていなかった。
   彼らは石切工や木工には金を与え、
   シドンとツロの人々には
   食べ物や飲み物や油を与えた。
   それは
   ペルシャの王クロスが与えた許可に依って
   レバノンからから
   海路ヤフォに杉材を運ぶためだった。
 かってソロモン王が初めて神殿を建てた際、
 レバノンのヒラム王の協力得たように、
 どうしても同地の
 木材(レバノン杉)が必要だったある。
  続けて言う。
   彼らが(バビロンから)エルサレムにある
   神の宮にのところに着いた
   翌年の第2の月にシェアルティエルの子
   ゼルバペルとエホツァダクの子
   ヨシュアとその地の兄弟たちの
   祭司レビ人たち、及び捕囚からエルサレムに
   帰って来た全ての人々は主の宮の工事を
   指揮するために20歳以上のレビ人を
   立てて工事を始めた。
   こうして
   ユダ人ヨシュアとその子、その兄弟たち、
   カデミエルとその子たちは一致して立ち
   神の宮の工事をする者を指揮した。
   レビ人ナダテの一族と
   その子、その兄弟たちもそうした。
   建築師たちが主の神殿の礎を据えた時、
   イスラエルの王ダビデの規定に依って
   主を賛美するために祭服を着た祭司たちは
   ラッパを持ち、
   アサフの子らのレビ人たちは
   シンバルを持ち出て来た。
 この記述に依って判ることは、
 この建築の主な人々がユダ族及び
 祭司としてのレビ族であったことである。
 更に注意を引くのは
 新バビロニア〔カルディア〕のネブカデネザルの
 ユダ国征服に依ってイスラエル人〔ユダ族など〕の
 虐殺が行われたが、生き残った者たち全てが
 捕囚としてバビロンに連れて
 行かれたのではなかったとの事実である。
 ここに上げられたシェアルティエルの子や
 ヨシュアとその兄弟たち、
 また祭司のレビ人は捕囚を逃れて
 エルサレム周辺に残り得た者の
 後裔と解釈される。
  建築工事は着々と進められた。
 しかし周辺勢力の圧力で中止されることもあった。
 その様子をここに述べる必要はない。
  第5章からペルシャのクロス王の
 次のダリヨス王が
 この建設を支援した様子が記述されている。
  第6章14からは次のように述べ、
  建築が完成し終わったことを
  明らかにしている。
   ユダ人の長老たちは
   預言者ハガイの子ゼカリヤの預言に依って、
   これを建てて成功した。
   彼らはイスラエルの神の命令により、
   またクロスとダリヨスとペルシャの王
   アルタシャスタの命令に依って
   これを建て終えた。
   こうしてこの宮は
   ダリヨス王の治世の第6年〔紀元前515年〕
   アダルの月の3日に完成した。
 《参考》レバノン杉と屋久杉
   
M.K記
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(5) バビロン捕囚の終焉 [神聖の系譜]





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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
    (5) バビロン捕囚の終焉
 
  (A)ユダ族などのエルサレムへの帰還   
 
  歴代誌(下)の最終末は述べる。
 
   ペルシャの王クロスの第1年にエレミヤより
   告げられた主の言葉を実現するために、
   主は
   ペルシャの王クロスの霊を奮い立たせので、
   王は王国中におふれ出し文書にして言った。
 
   ペルシャの王クロスは言う。
 
   『天の神、主は地の全ての王国を私に賜った。
    この方はユダにあるエルサレムに、
    ご自分のために宮を建てることを
    私に委ねられた。
    あなたがた、
    全ての主の民に属する者はだれでもその神、
    主がその者と共におられるように、
    その者は上がって行くようにせよ』
 
 最後文の「上がって行く」とは
 「エルサレムへ帰還せよ」との意義である。
 
 ここに登場した「エレミヤ」は預言者で、
 彼の活躍は「エレミヤ書」として纏められ
 一書をなしており、
 ユダ王国の人々の「バビロン捕囚」について
 歴代誌以上に詳細に述べられている。
 
 しかし、
 その経過は「誌」とそう異なりはない。
 
 ただカルディアの王名がこちらでは銘記され、
 「ネブカトネザル」とある。
 
 「エズラ書」は
 ユダのエルサレムへの帰還について
 より詳細に説明している。
 
 「ペルシャの王は言う」と
 前記歴代誌の文句を述べる。
 
  そして続けて言う〔第1章3、5〕。
 
   その者はユダにあるエルサレムに上がり、
   イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。
 
   この方はエルサレムにおられる神である。
   (略)
 
      そこでユダとベニヤンの一族のかしらたち、
   祭司たち、レビ人たち、すなわち
   神にその霊を奮い立たされた者はみな、
   エルサレムにある主の宮を建てるために
   上って行こうと立ち上った。
 
 こうして捕囚を解かれたユダ王国の人々は
 バビロンからエルサレムへ向かって
 出発して行ったのである。
 
 捕囚の時〔紀元前625年〕から70年後の
 紀元前7世紀末年のことである。
 
 この際ペルシャのクロス王は
 彼等の帰還を支援した。
 
 「エズラ書」第1章の同王の宣言の最後に
 彼は述べている。
 
   残れる者はみな、
   その者を援助するようにせよ。
   
   どこに寄留しているにしても、
   その所から、その土地の人々が
   エルサレムにある神の宮のために
   進んで献げる捧げ物のほか、
   銀、金、財宝、家畜をもって援助せよ。
 
 「残れる者」とはエルサレムへ帰還しないで
 バビロンに「残留する者」の意義である。
 
  第1章から述べる。
 
   クロス王はネブカデネザルがエルサレムから
   持って来て自分の神の宮に置いていた
   主の宮の用具を運び出した。
 
   すなわちペルシャの王クロスは宝庫係
   ミテレダテに命じてこれを取り出し、
   その数を調べさせ、それを
   ユダの君主シェシュバツアルに渡した。 
   (略)
   捕囚の民がバビロンからエルサレムに
   連れて来られたとき、      
   シェシュバツアルはこれらの物を
   みんな一緒に携えて上った。
 
  (B)エルサレム帰還の21宗簇
 
  「エズラ書」はエルサレムに帰還した人数を
 「全集団の合計は4万2千360名であった。
 また彼らには男女の歌うたいが200名いた」と述べ、
 その支族名を詳細に説明している。
 
 このうちエルサレムとユダ(州)に帰って来た
 支族名について「ネヘヤ記」第7章が
 区別して記述している。
 
   バビロンの王ネブカデネザルが
   引いて行った捕囚の民で、
   その捕囚の身から解かれて上り、
   エルサレムとユダに戻り、
   銘々自分の町に戻ったこの州の人々は
   次のとおりである。
 
 とあり、
 以下の支族名が上げられている。
 
 その族類は21支族であった。
 
   パルオシュ族、
   シェファテヤ族、
   アラフ族、
   ヨシュア族、
   ヨアブ族、
   エラム族、
   ザド族、
   ザカイ族、
   ビタイ族、
   ベバイ族、
   アズガデ族、
   アドニカム族、
   ビグアイ族、
   アディン族、
   ヒゼキヤ族、
   ハシュム族、
   ベッアイ族、
   ハリフ族、
   ギブオン族、
   エラム族(別の)、
   ハリム族
 
 
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(4) ユダ王国の滅亡とユダ族のバビロンへの捕囚 [神聖の系譜]



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  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (4) ユダ王国の滅亡と
     ユダ族のバビロンへの捕囚
 
  歴代誌(下)第36章17は述べる。
 
   そこで、
   主は彼らのもとに
   カルデア人の王を攻め上がらせた。
 
   彼らは剣で彼らのうちの若い男たちを
   その聖所の家の中で殺した。
 
   若い男も若い女も年寄りも
   老衰の者も容赦しなかった。
 
   彼は神の宮の全ての大小の器具、
   主の宮の財宝としてその司たちの財宝、
   これら全てをバビロンへ持ち去った。
 
   彼らは神の宮を焼き、 
   エルサレムの城壁を取り壊した。
 
   その高殿の全部を火で燃やし、
   その中の宝としていた器具を
   一つ残らす破壊した。
  
 ここにおいて、
 ユダ王国は完全に破壊され滅亡したのである。 
 
 その年は紀元前586年であった。
 
  歴代誌(下)第36章20は続けて述べる。
 
   彼は剣をのがれた残りの者たちを
   バビロンへ捕えて移した。
 
   こうして
   彼らはぺルシャ王国が支配権を握るまで
   彼とその子たちの奴隷となった。
  
 この歴史はメソポタミアの
 ユーフラテス川とチグリス川の
 合流地点付近に建国された
 〔紀元前625年〕カルデア国(新バビロニア) が
 イスラエルに遠征攻略し、
 エルサレムを破壊して
 ユダ王国を滅亡させた時の記録である。
 
 主の神殿初め市中にあった財宝を全て略奪して
 ハビロンへ持ち帰ってしまったと言っている。
 
 そして多くの老若男女が
 虐殺されてしまったとも言っている。
 
 ただそれでも剣難をかろうじて
 のがれた人々をカルデア軍は
 奴隷として連れ去ったのである。
 
 それを「バビロン捕囚」という。
 
  しかし、
 その記述において「神の箱」とか
 「二枚の十戒石」がどうなったかは
 一切説明されていない。
 
 続いて述べられるところによると
 エルサレムには70年の安息、
 つまり捕囚が終わったのは、
 その頃ペルシャが巨大化し、
 クロス〔キロス〕王がカルデアに
 遠征し新バビロニアを壊滅させたからである。
 
 聖書は
 預言者エレミヤが預言していた通りと述べるが、
 クロス王がユダ王国の人々がエルサレムへ
 帰還するのを許したのである。
 
 
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(3) ソロモン王の奉祭〔神殿建設〕 [神聖の系譜]





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  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (3) ソロモン王の奉祭〔神殿建設〕
 
  (A)ソロモン王の追加した木材
 
  歴代誌(下)第1章は次のように始まる。
 
   さて、
   ダビデの子ソロモンは増々王権を強固にした。
   彼の神、主は彼と共におられ、
   彼を並外れて偉大な者とされた。
 
 その第2章は述べる。
 
   さて、ソロモンは主の御名のための宮と
   自分の王国のための宮殿とを建てようと
   考えた。
 
 そこでソロモンはダビデ王を授けたツロの王
 ヒラムのもとに使いを出して助力を求めた。
 ソロモンは使いに説明させた。
 
   私が建てる宮は壮大な宮です。
   私たちの神は全ての神々に勝って
   偉大な神だからです。
 
 と述べ、
 「杉、もみ、アムレグの木材を
  レバノンから送って下さい」
 と要求した。
 ツロの王はその回答を寄せて言う。
 
   私たちの方ではお入用なだけ
   レバノンから木材を切り、
   これを筏に組んで海路をヤフォまで
   あなたのもとにお届けします。
   そこからあなたがたがこれを
   エルサレムに運び上がって下さい。
 
 またダビデ王が用意した金属及び
 木材などの加工を行う者、ダビデが定めた職人や
 ツロの「才知に恵まれた熟練工、職人」が
 加わって神殿建設の準備が整った。
 
  (B)ソロモン王の神殿建設と「契約の箱」の納入
 
  歴代誌(下)第3章は次のように始まる。
 
   こうしてソロモンは主がその父ダビデに
   ご自身を現わされた所、すなわち
   エルサレムのモリヤ山上で
   主の家の建物に取りかかった。
   彼が建設に取りかかったのはその治世の
   第4年第2の月の2日であった。
 
 続いて第4章までその神殿の大きさや
 本堂、内堂、祭壇などの装飾の様子が説明される。
 
  第5章の始めなって言う。
 
   こうしてソロモンが主のためにした
   全ての工事が完成した。
   そこでソロモンは父ダビデが聖別した物、
   すなわち銀、金、各種の器具類を運び入れ、
   神の宮の宝物倉に納めた。
   そのときのソロモンはイスラエルの長老たち
   およびイスラエル人の部族の頭たちと 
   一族の長老たちを全てエルサレムに召集した。
   ダビデの町シオンから主の契約の箱を
   運び上げるためであった。
   こうして
   イスラエルの長老全員が到着した所で、
   レビ人たちは箱を担い、
   箱と会見の天幕と天幕にあった全ての
   聖なる用具とを運び上げた。
   ソロモンと彼のところに集まった
   イスラエルの全会集は箱の前に行き、
   羊や牛の群れを生贄として捧げたが、
   その数があまりにも多くて
   数えることも調べることもできなかった。
   それから祭司たちは主の契約の箱を
   定めの場所、すなわち神殿の内堂である
   至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。
   (略)
   箱の中には二枚の板のほかには
   何も入っていなかった。
   これは
   イスラエル人がエジプトから出て来たとき
   主が彼らと契約を結ばれたときに
   モーセがホレブで入れたものである。
 
 このようにしてモーセの「十戒石」の箱は
 ソロモン王が建設した神殿に安置されたのである。
 
  歴代誌(下)は第35章まで
  その後ユダ族が主として
  奉祭してきた記録が述べられる。
 
 
M.K記
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(2) ダビデ王の神殿建設準備 [神聖の系譜]



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  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (2) ダビデ王の神殿建設準備
 
  歴代誌(上)第21章の終末はいう。
 
   モーセが荒野で造った主の幕屋(天幕)と
   全焼の生贄の祭壇は
   その時ギブオンの高き所にあった。
   ダビデは神を求めて
   その前に出ていくことができなかった。
   主の使いの剣を恐れたからである。
 
  続いて第22章は述べ、
  ダビデ王が「主の宮」建設の用意に入ったことを
  明白にしている。
 
   そこでダビデは言った。
   「これこそ神である主の宮だ。
    これこそイスラエルの全焼の生贄の祭壇だ」。
   そしてダビデは命じて、イスラエルの地にいる
   在留異国人を招集し神の宮を建てるための石材を
   切り出す石切り工を任命した。
 
 次いで
 「門の扉の釘および留め金用の鉄」
 「青銅」「杉の木」を用意させた。
 
  ダビデの考えが次いで述べられる。
 
   ダビデは言った。
   「わが子ソロモンはまだ若く力もない。
    主のために建てる宮は全地の名となり栄えと
    なるように大いなるものとしなければならない。
    それで、私はそのために用意しておく」。
   こうしてダビデは彼が死ぬ前に
   多くの用意をしておいた。
 
  歴代誌(上)第22章6からソロモンが登場してくる。
 
   彼(ダビデ)はその子ソロモンを呼び、
   イスラエルの神、
   主のために客を建てるように彼に命じた。
   ダビデはソロモンに言った。
   「我が子、私はわが神、
    主の御名のために宮を建てようとする
    志を持ち続けてきた。
   (略)
   我が子よ、主があなたとともにおられ、
   主があなたについて語られた通り、
   あなたがあなたの神、主の宮を立派に
   建て上げられるように。
   ただ主があなたに思慮と分別を与えて、
   あなたをイスラエルの上に任命し、
   あなたの神、
   主の律法を守らせてくださるように、
   主がイスラエルについてモーセに命じられた
   掟と定めをあなたが守り行うなら、
   あなたは栄える。  
 
 そしてダビデはソロモンにそれまで用意してきた
 品々とその加工を行う人々について説明する。
 
   「私は困難の中に主の家のために
    金十万タラント、銀百万タラントを用意した。
    また青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。
    それに木材と石材も用意した。
    あなたが、これらにもっと加えてほしい。
    あなたのもとには石を切り出す者、
    石や木に細工する者、
    各種の仕事に熟練した者など多くの仕事を
    する者がいて金銀青銅鉄を扱うが、
    その人数は数えきれない。
    立ち上がって行いなさい。
    主があなたとともにおられるように」。
 
   そして、
   ダビデはイスラエルの全ての司たちに、
   その子ソロモンを助けるよう命じた。
   (略) 
   「そこで今、
    あなたがたは心を尽くして
    あなたがたの神、主に求めなさい。
    立ち上がって
    神である主の聖所を建て上げ、
    主の御名のために建てられた宮に
    主の契約の箱と神の聖なる器具を
    運び入れなさい」。
 
 ソロモンが建てるだろう「宮」とは神殿
 「主の家」「主の聖所」である。
 
 更にダビデはソロモンにその宮に
 「主の契約の箱」つまり「神の箱」を
 運び入れ安置せよといっている。
 
  歴代誌(上)第23章は述べ始める。
 
   ダビデは老年を迎え長寿を全うして、
   その子ソロモンを
   イスラエルの部族の人々に彼なき後、
   つまりソロモン王を支えるための役目を
   部族毎に分け決めた。
 
 そして同28章においてダビデは
 イスラエルの勇士」たちをエルサレムに
 招集した集会において述べる。
 
   ダビデ王は立ち上がってこう言った。
   「私の兄弟たち、私の民よ、
    私の言うことを聞きなさい。
    私は主の契約の箱のため、
    私たちの神の足台のために
    安息の家を建てる志を持っていた」。
   私は建築の用意をした。
 
 ダビデは彼の子ソロモンを次の王として
 万全の備えをしたかった。
 
 ユダ族がイスラエルの君主として
 神が決めたことを説明し、
 全イスラエルに
 それを主の命令であると宣言した。
 
  第29章は言う。
 
   次にダビデ王は全集団に言った。
 
   「我が子ソロモンは神が選ばれた
    唯一人の者であるが、
    まだ若く、力もなく、この仕事は大きい。
    この城は人のためでなく
    神である主のためだからである」。
     
   私は全力を尽して、
   私の神の宮のために用意した。
   すなわち金製品のため金、銀製品のための銀、
   青銅製品ための青銅、鉄製品のための鉄、   
   木製品のための木、縞瑪瑙、
   色とりどりのモルタルの石の象嵌細工、
   あらゆる宝石、代理石をおびただしく用意した。
 
 最後に
 「ダビデは全集団の前で主をほめたたえ」
 「今、私たちの神よ私たちはあなたに感謝し、
  あなたの栄に満ちた御名をほめ讃えます」と
 全イスラエルに神をほめ讃えることを命じた。
 
  こうして
 ソロモンは主の設けられた王座に着き、
 父ダビデに代わり王となって栄えた。
 
 全イスラエルは彼に聞き従った。
 
 モーセの「十戒石」を納めた「神の箱」は
 エルサレムにおいて
 ダビデ王からソロモン王へと移託されたのである。
 
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908 
 
 

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(1) エルサレムへの運び上げ [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (1) エルサレムへの運び上げ
  (A)ダビデ王「神の箱」をエルサレムへ招来
  サムエル記第5章1は述べる。
   イスラエルの全部族は
   ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。
   「ご覧の通り、私たちはあなたの骨肉です」。
 この意味するところは、
 イスラエル(イブル)の全部族が
 ダビデの統率に服することを了承した、
 つまりダビデを王として認めたのである。
 
  続けていう。
   これまでサウルが私たちの王であった時でさえ、
   イスラエルを動かしていたのはあなたでした。
   しかし、主はあなたに言われました。
   「あなたがわたしの民イスラエルを牧し、
    あなたがイスラエルの君主となる」。
   イスラエルの全長老が
   ヘブロンの王のもとに来たとき、
   ダビデ王は
   ヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、
   彼らはダビデに油をそそいで
   イスラエルの王とした。
   ダビデは20歳で王となり、40年間王であった。
   ヘブロンで7年6ヵ月、ユダを治め、
   エルサレムで33年全イスラエルとユダを治めた。
 このようにダビデは初めヘブロンにいた。
 しかし、彼はその第5章7でうとおり
 エルサレムへ進攻した。
   ダビデはシオンの要塞を攻め取った。
   これがダビデの町である。
   エルサレムを攻略し、そこに本拠を移した。
   それを「ダビデの町」という。
 
  サムエル記第6章は
  「神の箱」の移転について語り始める。
   ダビデは再びイスラエルの精鋭3万を
   ことごとく集めた。
   ダビデはユダのバアラから神の箱を
   エルサレムへ運び上ろうとして、
   自分につくす全ての民と共に出かけた。
   彼らは神の箱を新しい車に載せて丘の上にある
   アビナダナの家から運び出した。
   (略)
   ダビデは主の箱を彼のところ、
   ダビデの町に移したくなかったので
   ガデ人オベデ・エドムの家にそれを回した。
   (略)
   主は神の箱のことでオベデ・エドムの家と
   彼の家に属するすべてのものを祝福された
   ということがダビデ王に知らされた。
   そこでダビデは行って、喜びをもって
   神の箱をオベデ・エドムの家から
   ダビデの町へ運び上がった。
   (略)
   ダビデとイスラエルの全家は歓声をあげ、
   角笛を鳴らして主の箱を運び込み、
   ダビデがそのために張った
   天幕の真ん中の場所に安置した。
   それからダビデは主の前に
   全焼のいけにえ和解のいけにえをささげた。
 ダビデ王はユダ族というイブル人の一人であった。
 イブル人はあくまで祝祭
 (いけにえを主に〔神〕に献げる)の民であった。
 
  歴代誌(上)第15章も述べる。
   彼(ダビデ)は
   ダビデの町に自分のために家を造り、
   そのときダビデは言った。
   「レビ人でなければ
    神の箱をかついではならない。
    主は主の箱をかつがせ、とこしえまでも
    ご自身に仕えさせるために
    彼らを選ばれたからである。
   (略)
   そこでレビ人たちはイスラエルの神、
   主の箱を運び上げるために身を聖別した。
   そしてレビ人はモーセのことばに従って
   命じられたとおり神の箱をにない棒で  
   肩にかついだ。
 レビ人(族)が主の祭司として
 祝福されたことは既述した。
 ここにおいて神の箱に納められた
 モーセの「十戒石」は
 エルサレムのダビデの町の天幕に
 安置されたのである。
 《参考》レビの子孫-大司祭の系譜
 
 
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目次5:歴史学講座「創世」小嶋 秋彦 [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (1) エルサレムへの運び上げ
  (2) ダビデ王の神殿建設準備
  (3) ソロモン王の奉祭〔神殿建設〕
  (4) ユダ王国の滅亡と
     ユダ族のバビロンへの捕囚 
  (5) バビロン捕囚の終焉
  (6) エルサレムの第二神殿の建設
  (7) バビロン捕囚を逃れたユダ王国の人々
  (8) 神の箱〔十戒石〕は行方不明となった
  (9) 神の箱〔十戒石〕は
     ユダ王国の祭司〔レビ族〕と
     ユダ王国王家〔ユダ族〕によって
     秘匿された
 
 第2章 神の箱〔十戒石〕の
     エルサレムからの退避行 
  (1) 紅海を南下してジプチへ
  (2) 極東へ運ばれた神の箱 
 
 
 
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第十一章 秘匿 [神聖の系譜]

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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
 第十一章 秘匿
 
  日本海沿岸を船によって運ばれ北上して来た
 契約の箱に納められた「像石」つまり
 「十戒石」が最終的に安置された地が
 佐渡島であることは明白で、
 現在においても人知れず隠れた聖所で
 秘密裡に保護されている。
 
 何しろ佐渡「サド」名はイブル語の
 SV、sed 〔秘密〕と共に
 SDR、seder〔隠れ場所〕の音写である。
 
 (A)佐渡の秘密 
  
  佐渡が史書に表われるのは『記・紀』からである。
 
 『古事記』の国生みの条に「佐度嶋」とあり、
 これを『日本書紀』は「佐渡州」と記す。
 
 同紀には欽明天皇5年に「佐渡島」、
 『続日本紀』の文武天皇の大宝元年(701年)に
 「佐渡」と表われる。
 
 7世紀末までに北陸と同じくその地名が
 定着していたとみられる。
 
 佐渡は「延喜式」には訓がない。
 
 「サド」は上記の通りイブル語の
 SVD(秘密、内緒)の音写である。
 
 以下の見解に依り同島に適した
 名称であることが解かる。
 
 「延喜式」民族及び神名帳の
 羽茂、雑太、賀茂の三郡名が載っている。
 
 「雑太」の訓を「サハタ」としている。
 
 「サハタ」は『古事記』が
 「其少名毘古那神を顕はし白せし謂はる久延毘古は、
  今者は山田の曾富謄(そほど)いふぞ」という
 「曾富謄」と同根で
 (Heb.),סהָפהֶת,ShVPhT,shophet 裁判官、土師
 の音写であり、少彦名神を示唆している。
 
 この件については後述する。
 
 漢字「雑太」の「サッタ」は
 (Heb.),סֶדֶר,SDR,seder
 「隠れ家、隠れ場所」を表わしSVD(秘密)に対応する。
 
 神名帳の式内社に引田部神社が載る。
 同社は現在真野町金丸に同名で鎮座している。
 
 地名金丸は石川県鹿島郡鹿西町の
 宿那彦神像石神社の鎮座地名と同じ
 KhNYH-MLKh (船乗りの宿営地)で
 少彦名神の鎮座地であることを示している。
 
 引田氏は大彦命の後裔とされ、
 同命を祭神に祀るとする説もあるが、
 社伝がいう
 大己貴命にして少彦名神が優先されよう。
 
 社号の「引」あるいは「引田」は
 HK(hok)あるいはHKhT(hokit)の音写で
 「法律の、規則の」で、
 「類語「石などに刻む」のKh(H)KKは
 「法律を制定する」との字義で
 用いられており、モーセが十戒を石板に刻んで
 伝授された故事に付合させている。
 
 当該神社名を「引-田部」と分けて理解する。
 
 「田部」同じ神名帳の記載社御食神社の
 「食」と同根と考えるからである。
 
 同社に神名帳は「ミケ」訓じているが、
 これは「田部」と同様「みタベ」で
 TRLH(tabelah)の転訛である。
 
 同語は「(金属、石、木)の平板」を
 意味するので、
 「御食」は「お板」、
 「引田部」は「法律の板」と解釈され、
 「十戒の石板」を表わしている。
 
 御食神社は現在畑野町宮川に
 同名で鎮座している。
 
 このように雑太郡には「十戒の石板」に
 係わる秘密が隠されている。
 
 神名帳の同郡には飯持神社が記載され、
 同名社が現在畑野町河内に鎮座しているが、
 神名帳は「イモチ」「ミケモチ」と訓じている。
 
 前者はもう一つの郡名
 「羽茂郡」の訓「ハモチ」に通じ、
 飯持も羽茂も「ハネモチ」と訓め、
 これはHVN(hun)の転写で「富、財産」を
 表わす用語でこれまで述べた飯島(安来市)と
 その概念を共有する「羽茂」を「ウモ」と
 訓んでるいるのはまた理由がある。
 
 同郡に記載されている式内社大目神社と関係し、
 IRMH(armah)の転訛で
 「山、塚、積み重ね」が字義である。
 
 大目神社の訓を神名帳は
 「オホマ(秘称)」としている。
 
 新潟県頚城郡青海町の「オウメ」も同様で、
 石板の佐渡への経路としての地名と考える。
 
 同名の神社が現在真野町吉岡に鎮座している。
 
 祭神は
 「佐渡国寺社境内案内帳」「神社明細帳」が
 大己貴命としているのが正しい。
 
 ただ草創の頃の鎮座地は現在の羽茂町椿尾の
 大目神社跡として伝えられている場所である。
 
 「神社明細帳」が徳治2年(1307年)に
 本間遠江守が守護神として
 現在地に遷したというのは史実であろう。
 
 「和名抄」羽茂郡の大目郷の地である。
 
 鎌倉時代の守護本間氏は佐渡において
 神社の改めをいろいろとやったらしい。
 
 このように
 「延喜式」神名帳に載る諸社については
 解釈される。
 
 だが、これらの神社に能登半島を離れた
 「十戒の石板」が納められている訳ではない。
 
  さて、地名帳が「御食」を「ミケ」とし、
 「飯持」を
 「ミケモチ」としていることのも背景がある。
 
 『記紀』が崇神天皇のとき大彦命を
 北陸に遣わしたことを述べているが、
 佐渡にも大彦命の勢力の遠征が
 あったことの伝承が遺っている。
 
 大彦命を祖とする安部氏の「アヘ」が
 サンスクリット語のaharである。
 
 「ミケ」とはそのaharである
 「神饌」称していうのである。
 
 その本実はただし前述の通り
 「御タベ」で「板」ある。
 
 しかし、御食は「オケ」と訓めるので
 この点を疎かにできない。
 
 佐渡島の南端小木(おぎ)町がある。
 
  観光用に桶舟を出すなどオケにこだわっている。
 
 また民謡の佐渡おけさ節の「オケサ」が
 生まれるなどその類似語は
 佐渡の文化の鍵となっている。
 
 「オケ」あるいは「オケサ」はイブル語の
 ARGAZ(aregaz)の転訛で「箱、木箱」の字義で
 「契約の聖櫃」を指している。
 
 この中に「十戒の石板」が納められたのである。
 
 「オケサの島」は「聖櫃の島」である。
 
 そして「櫃・箱」の名称のある所に
 石板は安置されている。
 
 そこは現在神社となっているが、
 「延喜式」神名帳の頃には 
 神社としての社殿が無かったので、
 それには記載なかったと考えられる。
 
 (B)物部神社〔延喜式神名帳「佐渡国雑太郡」
  (現)佐渡市(畑野町)小倉
 ※数十年前には近くに「野田」との地名があった。
  越後国から佐渡国へ
  「十戒石」を
  船で運んできたのは物部氏族であった。
 
 (C)度津神社〔延喜式神名帳「佐渡国雑太郡」
  (現)佐渡市(旧羽茂町飯岡)度津神社
 
 度「ワタ」(Heb.),בַתֻ,BT,batu 石
 ※この名称によると、寺泊(三嶋郡)から
  「十戒石」が運ばれて来て
  「越の高浜」の大石(大石湾)へ
  到着させたいえる。
  この浜には船は押上がったのである。
 
 佐渡「サド」(Heb.),סַדַ,SVD,sada 秘密、内緒
 ※「十戒石」が何処に隠されたかは秘密とされた。
  しかし、地元では何か秘密が行われたと
  嘘になったのではないか。
 
 (D)イスラエルの石板とユダの石板
 
  以上の見解のように佐渡はヨシュア族等に
 授けられた十戒を刻んだ二枚の石板を
 埋納して隠れ場を築き護ってきた
 「秘密」の聖所なのである。
 
 とはいえ、
 この石板は「出エジプト記」が言う神が
 モーセに与え、
 後にダビデに依ってエルサレムへ移され、
 ソロモンによって建てられた神殿に安置された
 ものでないことを認めておきたい。
 
 従って佐渡島に安置されている石板を
 「イスラエルの石板」ということにする。
 
 ヘブライ王国がソロモン王亡き後
 イスラエル国とユダ国に分裂し、
 紀元前8世紀にアッシリアにより
 滅ぼされ捕囚となったのは
 北のイスラエル国の人々(失われた十支族)で、
 ガド族はそれに属していたからである。
 
 これに対しエルサレムの神殿に安置されていた
 「モーセの十戒石」を
 「ユダの聖櫃」「ユダの石板」ということができる。
 
 英語で言う Ark of Judei(ユダヤの箱)である。
 
 この「ユダの聖櫃」も紀元前に新バビロニアに
 よって捕囚され、
 帰還後に復興したエルサレムの神殿も
 破壊されたために行方不明になってしまった。
 
 現在もその所在は知られていない。
 
 その「ユダの石板」の現在の安置所をについて
 次の第5部第6部において説明することにする。
 
 
  最後に北陸道の別称を
 『日本書紀』が「クヌカノミチ」、
 『西宮記』が「クルカノミチ」、
 『北山抄』が「久流加之道」
 という理由を述べる。
 
 「クヌカ」は
 少彦名神と石板の移動宿営地である
 KhNYH(khanykh)の音写である。
 
 鹿西町、真野町の金丸の「カネ」の祖語である。
 
 「クルカ」はGVLH(golah)の音写で
 祖国からの「追放、捕囚」の語義が
 「離散した「イスラエルの居留地」となった用語で、
 本節でみたようにイスラエルの人々の濃密に
 居住した北陸地方の名称として適しい。
 
 富山市の呉羽名はGVLH名であろう。
 
 呉羽が属していた婦負郡は
 現在「ニフ」と呼ばれるが、
 古代には「メフ」であった。
 
 これは彝イブル語のMPhRTsの転訛で
 「入江、湾」を表す用語で
 富山湾に因んだ地名である。
 
 その富山は「富山郷」名に由来するが、
 市内の本郷町辺りが当該比定地であろう。
 
 隣の「大町」名は
 羽咋市の場合と同じく「二つの」であり、
 太田は証人のID(ied)に依る。
 
 その太田地区に刀尾神社が鎮座し、
 「トゥオ(ビ)」が「富トミ」になったらしい。
 
 なお、重要な歴史的・時系列的事実として、
 いわゆる
 ユダヤ人〔YHVDY〕が日本の古代文化に
 影響した事実は一切ない。
 
 「ユダヤ人」が成立したのは、
 6・7世紀〔紀元後〕で、
 本書が対照にしている時代より」
 数世紀後世のことである。
 
 《参考》少彦名神と山田〔海国:大倭・大和〕
 
M.K記
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第十章 新潟県における「十戒石」の移動 [神聖の系譜]


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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
 
   第十章 新潟県における「十戒石」の移動 
 
 (A)頚城郡
 
 (1)物部神社 
  〔延喜式神名帳「越後国頚城郡」〕
 (現)揖取神社(頚城郡能生町小泊)
 
 (2)水嶋磯辺神社〔延喜式神名帳「越後国頚城郡」〕 
 (現)頚城郡能生町筒石
 
 (3)居田神社〔延喜式神名帳「越後国頚城郡」ケタ〕
 「全国神社名鑑」居田神社(上越市五智)
 祭神:大国主命、他
 
 居田「ケタ」:「気田」に同じ
 (Heb.),כֶתַֻ,KTV,ketau 文字、筆跡
 ※ガド族の「十戒石」は時に従って
  日本海岸を東方へ船で運ばれた。
 
 (4)寺、寺島、押上、大町〔糸魚川市〕
 
 押上、伝承によると
 「霊石を乗せた神舟が押上浜に着いた」
 ※この地域には「寺」が付く地名が多い。
  そのうちのかなりは
  次の用語の音写と判断される。
 
 寺「テラ」(Heb.),תָרַה,TVRA,torah 
       トーラー、律法、モーセ五書 
 
 寺島「トーラーの島」:
  島根県安来市の砥神嶋〔出雲国風土記〕
 
 大町「オウ」(Heb.),ֶַֻנ,AVN,aeun 石〔霊石〕
 
 (B)三嶋郡〔和名抄「越後国」〕
 
 (1)物部神社 
  〔延喜式神名帳「越後国三嶋郡」〕
 「全国神社名鑑」物部神社(二田大明神)
 (現)刈羽郡西山町二田
 ※「二田」は能登の原語に同じ
 祭神は二田天物部稚桜命
 
 (2)御嶋石部神社 
  〔延喜式神名帳「越後国三嶋郡」
   ミシマノイソベ〕
 (現)御嶋石部神社(刈羽郡西山町二田添)
 
 二田「ニタ」(Heb.),נָת,NVT,not (船の)舵取り
 
 西山「ニシヤマ」(Heb.),,NSYM,nisiym 驚異
 ※つまり信じられないような奇跡がここに
  もち上がったのである。
 
 御嶋「ミシマ」(Heb.),,MShMT,mishimati
         規律、服すること
  〔長門国(山口県)の「三隅」に同じ〕
 
 (3)寺泊町〔三嶋郡〕
 
  この「寺」は TVRH トーラー〔律法〕を指す。
 「十戒石」はここ三嶋郡に至るも安心できる
 「隠し場所を得ることができなかった。」
 「寺泊」に「泊」とあるからには一時
 「石船」は停泊したものの更にどこかへ
 行ってしまったのである。
 漂泊はまだ終わらなかった。
 
 寺泊の港からは現在でも船が発して行く。
 なおこの地の北側には
 古来「岩船郡」との地名があるが、
 同名の起りは「十戒石」とは全く関係ない。
 
 《参考》像石・気多・石部・寺・物部
M.K記
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第九章 富山湾岸〔富山県〕 [神聖の系譜]


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 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
   第九章 富山湾岸〔富山県〕
 
 (A)須久那彦神社
 (現)富山県氷見市脇、少彦名神社とも表記された。
 ※像石〔十戒石〕は黒崎より船で富山湾を南下し、
  脇村に一時泊まっていたようだ。
 
 (B)磯部神社
  〔延喜式神名帳「越中国」磯部神社〕
 (現)磯部神社(氷見市磯部)
 
 (C)射水郡〔和名抄「越中国」〕
 
 物部神社
  〔延喜式神名帳「越中国射水郡」〕
 (現)射水市(旧高岡市)東海老坂
 祭神:饒速日命
 
 射水「イミズ」(Heb.),ִמֶֻתס,AMTs,imuets 養子、女婿
 ※『古事記』物部氏の祖
  饒速日命は
  大和國(奈良県)において登美族の
  那賀須泥毘古(長髄彦)の妹
  等弥姫の「入婿」となった。
 
 (D)気多神社〔延喜式神名帳「越中国射水郡」〕
 「全国神社名鑑」気多神社(高岡市)
 (旧)伏木一ノ宮
 祭神:大己貴命
 
 《参考》像石・能登・羽咋・宿那彦神
 
 《参考》北陸の少彦名神社
北陸の少彦名神社.jpg
 
M.K記
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第八章 北陸の秘密 〔福井県、石川県の石部神社〕 [神聖の系譜]



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ヘブライ&日本の古代史
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 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
   第八章 北陸の秘密
     〔福井県、石川県の石部神社〕
 
 (A)「北陸」の語義
 
 「北陸」の秘密を知るには当然ながら
 その語義を考究しなければならないが、
 そのためには
 この地方福井県から新潟県に亘る
 広く信仰されている少彦名神や
 その関連の神社について知ることが必要である。
 
 北陸地方は「延喜式」に
 「北陸道、若狭爲近国、越前、加賀、能登、
  越中、右爲中国、越後、佐渡、右爲遠国」とあり、
 「北陸道」は
 現在の福井県、石川県、富山県、新潟県を指す。
 
 この「北陸」は『延喜式』、『和名抄』共に
 訓を欠いており、何と言われたのか不明である。
 
 史書においては、
 『日本書紀』の崇神天皇10年9月の条に
 「大彦命以って北陸に遣わす」、
 景行天皇25年の秋7月の条にも
 「武内宿禰を遣わしたまひて、
  及び東方の諸国の地形且
  百姓の消息を察しめたまふ」とあるが、
 双方とも後世の知識に依る記述と考えられる。
 
 これに対し、『続日本紀』巻第3、
 文武天皇の時大宝3年(703年)春正月の条に
 「従七位上高向朝臣大足于北陸道」に遣わすとあり、
 7世紀末までに
 東海道、山陰道、山陽道、南海道、西海道と共に
 その地域的概念が固められたとみられる。
 
 「北陸」の音訓を一般に「ホクロク」としているが、
 『日本書紀』の傍記に「クスカノミチ」、
 平安時代の書である「西宮紀」に「クルカノミチ」、
 「北山抄」には「久流加之道」と訓まれている。
 
 文武天皇時に「北陸道」と決めたものの、
 平安時代の識者たちはその地域の伝承などから
 固有の呼び方をしていたのである。
 
 このことからも北陸道が「北の陸の道」を
 旨とした呼称でないことが察せられる。
 
 上記六道名はそれぞれのその縁りが明白であるが、
 「北陸」だけが曖昧でである。
 
 「西宮紀」は「キタノミヤ」と「キタ」という。
 
 これは「北」に通じるが、
 実際は別の由来があると考える。
 
 「キタ」は但馬国気多郡(現在兵庫県城崎郡日高町)、
 石川県羽咋市寿家町の気多神社、
 同小松市額見町の気多神社、
 同七尾市藤橋町の気多本宮神社、
 富山県高岡市伏木町の気多神社、
 同新湊市三日曽根の気多社、
 新潟県上越市五智の居多神社(古くは気多神社)と
 山陰から北陸の各所に亘ってある
 「気多」に依る呼称である。
 
 (B)石部神社
 
 石部「イシノヘ」は
 「石船」で「岩船」と同じく「十戒石」を載せた、
 物部氏が運行する宗教的船を表す。
 
 (1)石部神社〔延喜式神名帳「越前国今立郡〕
        (現)福井県鯖江市磯部町
 祭神:吉日古命、吉日売命 
 
 吉「キチ」(Heb.),תֶתַֻ,KTV,tetau 文字、筆跡
 ※祭神を二神にしているのは
  「十戒の石板」が二枚に依ることに因む。
 
 (2)宮村(山+石)部神社〔延喜式神名帳「加賀国江沼郡」〕
        (現)石川県加賀市宮町、
 祭神:磯部薬師
 磯部「イソヘ」石部、石船に同じ
   
 (3)菅生石部神社〔延喜式神名帳「加賀国江沼郡」〕
        (現)石川県加賀市岡町
 主祭神:菅生石部神
 
 (4)氣田御子神社〔延喜式神名帳「加賀国江沼郡」〕
    (現)石川県小松市岡町(羽咋市寺屋家町)
 主祭神:大己貴神
 
 (5)石部神社〔延喜式神名帳「加賀国能美郡」〕
    (現)石川県小松市能見山
 主祭神:櫛日方別命
 
 (6)神田神社〔延喜式神名帳「加賀国石川郡」:カムタ〕
  (現)少彦名神社に比定されている。(石川県小松市)
 
 神田「ガウタ」(Heb.),גַֻדָל,GD,gaudol ガド族の神社
 
 (7)神田神社〔延喜式神名帳「加賀国加賀郡」:カンタ〕
 
 神田「ガンタ」(Heb.),גַֻדָל,GD,gaudol ガド族の神社
 
 (C)気田大社と大穴持像石神社〔石川県羽咋市〕
 
  気田神社の祭神は大己貴命である。
 
 北陸地方では同神と共に
 少彦名神を祀る神社が多い。
 
 神社本庁の「全国神社名鑑」をみると、
 「スクナヒコ神」を神社名を祠は
 福井県13社、石川県29社、富山県12社、
 新潟県3社と57社に及ぶ。
 
 それは少彦名神に対する
 信仰の厚さを示すものである。
 
 特に多いのが石川県であるが、
 この加賀、能登の地域は
 イスラエル人の活発に活躍した地域である。
 
 金沢市諸江町にも少彦名神社が鎮座する。
 
 諸江「モロエ」(Heb.),מָלַה,MLKh,molah の音写で
  「船乗り、船員」を意味する。
 
 『記・紀』において
 少彦名神が海から寄り来る姿は、
 同神が船乗りであることを示している。
 
 その同類語にはNVT(not)があり、
 これが「能登」の祖語で
 「船の舵取り、楫取り」を意味する。
 
 またその同類語には
 「水をかくこと、(櫂で)船をこぐこと」を
 意味するKhTYRH(khatiyrak)があり、
 これが「キタロク」で
 「北陸」の祖語とみられるのである。
 
 「北陸」は「船乗り」である
 少彦名神を以って生まれた地方名と考える。
 
 鹿島郡鹿西町金丸に
 能登比古神社が鎮座するが、
 鎮座地名「金丸」の「カナマル」は
 (Heb.),כַנֶיה־מָלַה,KhNYVH-MLKh,kaneyh-molah 
  で船乗りの宿営地・宿泊地であり、
 少彦名神の
 一時的奉祀地であったことを物語っている。
 
 宿営地(野営地)とは奇妙な解釈であるが、
 理由がある。
 
 その理由は、同地に鎮座し「延喜式」神名帳
 にも載る宿名彦像石神社が明らかにしてくれる。
 
 「像石(かたいし)」が重要な謎解きの要点である。
 
 「像石」名を持つ神社がもう一社
 神名帳の能登國に載る。
 
 羽咋郡の大穴持神像石神社で、
 現在羽咋市寺家に同名で
 気田神社の東方200㍍に鎮座している。
 
 祭神は大己貴神と少彦名神である。
 
 「大己貴神と少彦名神」で
 両神が一体である様子は既にみた。
 
 ここにおいてもそれは同様と考えられる。
 
 また現在
 七尾市黒崎に宿那彦像石神社鎮座している。
 「延喜式」神名帳に載る同名社について
 二社が論社となっているようだが、
 実態は以下のようなことである。
 
 つまり能登の羽咋市寺家に奉られた
 少彦名神が鹿西町金丸、七尾市黒崎へと
 奉祭地を遷して行ったのである。
 
 いかなる理由に依りそうしなければ
 ならなかったのかはここでは問わない。
 
 「金丸」とは少彦名神である
 「船乗りの宿営地」であるから、
 三カ所共一時的に本殿が置かれたに
 過ぎないと考える。
 
 本殿が移転したことは
 ご神体の移動を意味するが
 そのご神体が「像石」である。
 その「像石」こそ
 ヨシュアに授けられた
 「十戒の石板」のことであり、
 ここに渡来したイスラエルの人々が
 最も重宝した「証し」で、
 「契約の箱」に納められ保たれていたものである。
 
 「像石」は、「像」が示すように石に形像が
 刻まれているのであるが、
 その「カタ」とは「字、文字、筆跡」の
 KhTV(khetau)であり、文法的に解釈すれば
 KhTVV(khetau)で「カタ石」は
 「文字で書かれている・石」となり、
 神が十戒を書いてモーセに渡した石板を表している。
 
 それは而も「二枚一組」である。
 
 羽咋市の大穴持神像石神社の鎮座地名
 「寺家」は「ジケ」で「一対、二つ一組」を
 意味するZVGの音写である。
 
 同社は一般に「オナッサマ」と親しまれているが、
 これは「お石様」の意味である。
 
 「オナ」はAVN(石)である。
 
 鹿西町金丸の南隣りに当たる
 曽根、羽咋市の下曽根の「ソネ」は
 ShNY(sheney)の音写で、ZVGと同義の用語で
 あるばかりか、その隣り大町の「ダイ」も
 DV(duu)の音写で上記ニ語と全く同義の用語で
 二枚の石板に係る。
 
 また七尾市名は現在「ナナオ」であるが、
 古くは「シテオ」であったはずである。
 
 市内に「下(した)町」があり、
 近くに藤原四手諸神社名がある。
 
 「シテオ」はShTY-AVNの音写でShTY(shetey)は
 接頭語の「二つの」で、AVNは「石」であるから、
 同語は「二枚の石」の意味であり、
 「七尾」は本来「二枚の(十戒の)石板である」。
 
 寺家、曽根、大
 
 ※羽咋市の大穴持神像石神社には境内に
  石柵に囲まれた長さ90cm、幅60cm、
  地上に見える部分24cmの「地震石」ないし
  「地震圧え石」と呼ばれる霊石がある。
  
  鹿西町の宿那彦像石神社には
  「総丈一尺七寸余の薄緑石の真石」が
  ご神体として伝えられている。
 
  また七尾市の同名社でも
  「たて七尺二寸、下三尺八寸、上幅二尺五寸」の
  「像石」を少彦名神のご神霊として祀っている。
 
  同像石は同社が昭和23年まで鎮座していた
  海が見える薬師の森に鎮まっていたが、
  尚和39年の国道開設のため
  東南に120㍍移され祠に納められている。
 
  これ等の霊石は実のところ
  ご神体(像石)そのものではない。
 
  イスラエルの人々の習慣からすると、
  GVLL(golel)と呼ばれる
  墓所の入口に置かれた丸石に当るもので、
  まさに「おさえ石」であり、
  「十戒の石板」を護っていた
  磐座を示しているものである。
 
 (D)能登・羽咋と宿那彦像石神社(石川県)
 
 (1)能登国羽咋郡(和名抄) 
 
 能登「ノト」(Heb.),נָת,NVT,not (船の)舵取り
 
 羽咋「ハガイ」(Heb.),כהַגַֻי,KhGY,khaguay 
         ガドの第二子:物部氏の祖名
 
 羽咋「ハクイ」(Heb.),הֶגֶה,HGH,hegeh (船の)舵
 
 ※能登と羽咋は「船の舵」に係わる
  共一の類似技術用語で同義
 
 (2)気多神社〔延喜式神名帳「能登国羽咋郡」〕
 
 「全国神社名鑑」気多神社 (現)羽咋市寺家町
 祭神:大己貴命
 
 気多「ケタ」(Heb.),כֶתַֻ,KTV,ketau 文字、筆跡
 
 (3)大穴持像石神社
  〔延喜式神名帳「能登国羽咋郡」〕
 「全国神社名鑑」大穴持像石神社 (現)羽咋市寺家町  
 祭神:大己貴命、少彦名命
 
 像石「カタ」(Heb.),כֶתַֻ,KTV,ketau 文字、筆跡
 
 像「カタ」(動詞形)KTV、katau 書く、記す。
 
 ※「像石」は「文字が書か(刻ま)れた石。」
 
 寺家「ジケ」ZVG、ziueg(動詞形)に対する。
 
 (形容詞形)(Heb.),זֻגִי,ZVGY,zugiy 対の、二つ一組の
 
 ※この地に「二枚一組」の(十戒の)文字が
  刻印された(書かれた)石が奉祭されていたのである。
 
  それらは「船乗り(舵取り)」によって
  当地にもたらされた。
 
  つまり「石船」で運ばれて来たのである。
 
 (4)宿那彦名像石神社
  〔延喜式神名帳「能登国能登郡」〕
 「全国神社名鑑」宿那彦名像石神社
  (石川県鹿島郡鹿西町金丸)
 祭神:少彦名命、他
 
 鹿島「カシマ」(Heb.),,HShM,hashuem 
         (神の)御名、神の別称
 
 金丸「カナマル」(Heb.),KhMYH-MLKh,, 
         〔宿泊地-船乗り〕船乗りの宿泊地
 
 ※羽咋市寺家の地は「像石」にとっては
  安心のできる所ではなかった。
 
  そのため「像石」はまた移動を始め、
  陸路を東へ行き、第一の宿泊地(宿営地)が
  「ハシェム」の地であったが、その後更に
  七尾市から城山(七尾城がある)周辺の
  山中を越えて富山湾岸の黒崎へと至った。
 
 (5)宿那彦名像石神社
  (現)富山県七尾市黒崎
 祭神:少彦名神
 
 ※この神社には「巨石神霊」伝承がある。
 
  ≪参考≫福井県・石川県の石部神社

 

 像石・能登・羽咋・宿那彦神
M.K記
連絡先:090-2485-7908 
 

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第七章 物部神社と気多神社〔兵庫県、京都府の日本海岸〕 [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
   第七章 物部神社と気多神社
      〔兵庫県、京都府の日本海岸〕
 (A)但馬国(兵庫県)
 
 (1)物部神社
 現在城崎郡日高町道塚の
 つまり「物部」と「岩船」は同義となる。
 
 (2)気多神社
  〔延喜神名帳「但馬国氣田郡氣田(ケタ)」〕
 「全国神社名鑑」気多神社(城崎郡日高町上郷字大門)
 祭神:大己貴命
 ※同神名は大国主神の別称
 
 気多「ケタ」(Heb.),ךטֺ,KTV,KTV 文字、筆跡
 ※「十戒石」を奉祭した船はここ但馬国まで
  北上し到着したのである。
 
 (B)熊野郡・与謝郡(京都府)
 
 (1)岩船神社(熊野郡久美浜町字葛野)
 
 「十戒石」を載せた船〔石船〕が
 当地にやって来たのである。
 
 葛野「かずらの」のGDVL-野、guadol大きい、
 ガド族名の祖語
 ※岩船を運行してきたのはガド族で
  彼らはそこに停留していた。
  よって「かど野」という。
 
 箱石〔久美浜町字湊宮の字名〕
 単に函石浜遺跡から弥生時代の
 箱石石棺が出土したという
 理由だけではなさそうだ。
 ※「十戒石」は布に包まれて箱に納められている。
  その箱は一般で(日本語では)
  「聖櫃」と言われる。
 
 (2)物部郷〔和名抄「丹後国與謝郡」〕 
   (現)与謝郡野田川町石川・物部
 
 野田「ノタ」(Heb.),,NVT,not (船の)舵取り
  ≪参考≫兵庫県、京都府の日本海岸

 

 
M.K記
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第六章 出雲国〔島根県〕の出雲大社・佐太神社  [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
  第六章 出雲国〔島根県〕の出雲大社・佐太神社 
 (1)神門郡〔和名抄「出雲国」〕
 神門郡〔和名抄「出雲国」〕
 神門「カンド」(Heb.),גַֻד,GD,guad ガド族。
  ※この地にガド族が定着した
  
 塩冶郷〔和名抄「出雲國神門郡塩冶郷」〕 
 塩冶「ヤムヤ」(Heb.),יַמִֻי,YMY,yamuiy 
         海の、海の人「海人」
 塩冶「シオ(ノ)ヤ」(Heb.),תסִfיָנ,TsFYVN,tsifyon 
           ガドの第一子
  塩冶「シオヤ」(Heb.),סִתִינֶה,SFYNH,sitiyneh 船
        (Heb.),סַפָנ,SPN,sapon 
         船乗り、船員〔海人〕
 ※因みに出雲大社の祭神「大国主命」は
  GD,gadの祖語が
  (Heb.),גַֻדָר,GDVR,guador
  〔大きい、偉大な〕に由来するためで
  「大国」とは「ガド族の国」、
  「主」はその奉祭する神である 
  「主」を表したもの
  「ヤマ〔ム〕ヤ」(Heb.),יַמַי,YMAY,yamay 
           船乗り、船員、水夫
           (Heb.),גַֻדָר,SPN,sapon と同義 
 
 阿利神社(出雲市塩冶町)
 阿利「アリ」(Heb.),יַמַי,IRY,yamay ガドの第五子」
 八俣の大蛇〔ヤマタのオロテイ:出雲国の神話伝承〕
 八俣「ヤマタ」(Heb.),יַמַית,YMYT,yamayt 
         海の、海の人:ガド族の仲間
 大蛇「オロテイ」(Heb.),ֶַרָדי,ARVDY,aerody 
         ガドの第六子、その原義は「銅」
 ※このオロチ伝承はユーラシア・ギリシャなど
  製鉄民に伝わる伝承
  〔ギリシャでのペルセウス・メドゥーサ伝説〕
  を出雲に土着させたもの。
  真相は製鉄技術をもった勢力が侵入
  〔国譲り神話〕して来て、
  それまで出雲地方に勢力を定着させていた
  銅文化を中心にして人々を
  圧倒制圧したとの実話に依る。
 (2)出雲大社の大国主神
  出雲大社の主祭神は
 大国主神と一般視されているが、
 同社を奉祭して来た天菩卑命一族の祭神ではない。
  大国主神の祖像については
 本書第四部第二章を再読下さい。
 但し出雲地域に「十戒石」が
 奉祭された形跡はない。 
 
 (3)佐陀宮[八束郡鹿島町]
 佐陀神社
 〔延喜式神名帳「出雲国秋鹿郡」サタノ〕
 「全国神社名鑑」佐太(さだ)神社
  (八束郡鹿島町佐陀宮内)
 祭神:(中殿)佐太大神(中殿)
 佐陀「サタ」(Heb.),סֶתֶר,STR,seter 
        隠れ場所、隠れ家
 佐太「サダ」(Heb.),סֻדַ,SVD,suda 
        秘密、内緒
 ※この地域に「十戒石」は密かに隠匿されていた。
 鹿島〔町名〕「ハシマ」
  (Heb.),הַסהֶֻמ,HShM,hashuem 神「主」への呼称
 ※前記のとおり大国主命の別称として
  「大名持命」と表記されるのは
  ShM,shaemが「名前」の語義であるからである。
 「佐太大神」とは大国主命に委託された
 イスラエルの神「主」を表す。
 足日山〔出雲国風土記〕
 足日「タルヒ」(Heb.),תָֻרַה,TVRH,tourah 
         トーラー、律法、モーセ五書
 毛之社〔出雲国風土記〕
 毛之「モシ」(Heb.),,MShH,moshee
        「モーセ」のイブル語発音「モシェー」
 恵曇(鹿島町の海岸にある地名)
 〔和名抄「出雲国秋鹿郡恵曇郷」〕
 恵曇「エドモ・エヅミ」:江角
  (Heb.),תסִבָנ,ATsBN,aetsibon 
   ガドの第四子
  (Heb.),יסהונ,AYShVN,ayshvn 
   <瞳>航海の際の見張役。
 朝日山(松江市との境界にある山)
 ※朝日山を足日山に比定する見解もあるが、
  足日を「律法」と解釈するので
  「経塚山」(松江市秋鹿町との境界にある)
  とする方が妥当である。
  「経」は「めくり」とも称されるので
  「十戒石」は「廻(めぐり)谷」(佐陀本郷)の
  内に秘匿されたと推測される。
 安来の十神山(砥神嶋〔出雲国風土記〕)
 「十戒石」は佐陀(鹿島町)の隠れ場所より
 更に東方へ移動させられた。
 その到着地が砥神嶋であった。
 「十戒石」が九州から移送されて来た手段は
 全行程船に依っていた。
 従って全て海路であった。
 しかし、
 佐陀からの行程は陸上だったと想定される。
 何しろ松江市内には
 毛志や虫野〔現在虫野神社がある〕名がある。
 毛志山(出雲風土記)
 毛志「モシ」(Heb.),מָסהֶֶ,MShH,moshee「モーセ」
 虫野神社(松江市福原町)虫「ムシ」
 ※虫野は毛志山〔三坂山に比定〕より
  少々離れてはいるがその麓を形成している。
 毛志「モシ・ムシ」(Heb.),מָסהֶֶ,MShH,moshee
           モーセ「モーシェ」
 三坂「ミサカ」
 MShHの綴字をそれぞれ単独発音したもの
 「十戒石」は佐陀より真東に向かって、
 福原、本庄(松江市)の中海岸まで陸路で運ばれた。
 そして本庄からはまた
 船に載せられて運ばれていったはずである。
 本庄の「本」は「モト」ながら
 BT、bata 石であり、
 その行先安来市を流れる
 伯太川の「伯太:ハタ」もBTで同根にして
 「十戒石」の訛ったものである。
 「安来」(出雲国風土記意宇安来英の郡)
 〔和名抄「出雲国能義郡」〕
 ※安来「ヤスギ」と称されているが、
  本来は
  「ヤスラ ギ」あるいは「ヤスライ」であろう。
   (Heb.),יַסַרַה,YSRH,yasarah 「十」
 「十」とは「十戒」の「十」で現在安来名の
 起りである「十神山」名に共一である。
 同地は近代になって
 周囲が埋め立てられたための呼称で、
 古代においては
 「砥神嶋」という中海中の島であった。
 砥神「砥」(Heb.),,TV,tou 印
 ※石板に刻まれた印字で
  十戒が印字された石を示す。
 「十神」とは十戒石の神となる。
 砥神嶋(十神山)
 はそこに
 十戒石が奉祭されていたとの由来を示している。
 同地は小高い丘で塚をなしていた。
 宮地嶽(福岡市)のように、また
 モリアの丘のようにイスラエルの神を
 奉祭するのに適しかった。
 その祠は現在市内地名も同じ安来町の
 安来公園の安来神社に遷されている。
 《参考》出雲大社・佐太神社 
M.K記
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第五章 石見国〔島根県〕 [神聖の系譜]


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ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
   第五章 石見国〔島根県〕
   (a)美濃郡(益田市)
 
  美濃郷〔和名抄「石見国美濃郡」〕
  美濃「ミノ」מַנָצה、MNVKh、manoch 安置所、休み場
 
  増田郷〔和名抄「石見国美濃郡」益田市〕
  増田「マスタ」מִסֶתָר、MSTVR、misetor 
                         隠れ屋、避難所
  ※長門国に奉祭されていた「十戒石」は
   さらに移転されこの地へ避難し隠匿されたのである。
 
  染羽天石勝命神社〔延喜式神名帳「石見国美濃郷」〕
   アマノイハカツノ、シミハアマイシカツ
 「全国神社名鑑」石勝神社(益田市益田染羽) 
  石勝神社
  増田川の上流内陸、上古石見地方を開いた
  春日族の天石勝命を祝る。
  祭神天石勝命
 
  石勝「カツ」כֶתַֻ、KTV、ketau 文字、筆跡、
   「石に刻まれた文字※十戒石
  
  染羽「シミハ:そめは」סהֻמַה、ShMH、shumah 
                                     主の尊称
 
  大塚神社(益田市大塚<高津川の河内付近の日本海岸>)
 
  大塚「オウ」ֶַֻמ、AVN、aeum 石
   ※大塚は「石塚」の語義
 
 ※長門国方面から船で運ばれてきた「十戒石」は
  この大塚の地で一時安置された。
  その霊石に対する奉祭・信仰が定着し
  「石勝」の名称が流布され石勝神社となった。 
   
   (b)石見国名の起り〔浜田市〕
 
 石見郷〔和名抄「石見国那賀郡、イワミ」〕
 大祭天石門彦神社〔延喜式神名帳「石見国那賀郡」〕
  「全国神社名鑑」大祭天石門彦神社(浜田市相生町)
  「歴史地名大系:島根県」
   創建年代は不詳だが、棟札によれば 
   阿波の忌部族が石見の山守部となった時に創建され、
   承和2年(835)に信州諏訪社から
   建御名方命を配祭神として勧請
 「天石門」棟札の「阿波の忌部族~」
  延喜式神名帳「阿波国名方郡(徳島県)」
   天石門別豊玉比賈神社
   天石門別八倉比賈神社
  ※豊玉比賈とあるように名方郡は
   アズミ(阿曇)族の浸透した土地であった。
   名方「ナカタ」、na-ka-tu、〔石-門-入口〕
   八倉「ヤクラ」、ia-ku-ra、〔石-門-入口〕
    ※阿曇語による
 
  那賀郡〔和名抄「石見国」〕
  那賀「ナカ」na-ka、〔石-門〕
   大祭天石門彦神社の「石門」語義の
   大祭の「オウ」AVN、aeum 石
   ※「大祭」は「石を奉祭する」の語義
 
 ◎石見「イワミ」は阿曇語で
  ia-me 〔石-信託(命令)〕信託の石
  ※つまり「石-見」はイブルの神(主)が
   人々に命令し契約した証し、律法を刻んだ、
   いわゆる「十戒石」を語義とする。
 
  (c)静間神社と物部神社
  〔和名抄石見国安濃郡〕:大田市
 
 (1)静間神社〔延喜式神名帳「石見国安濃郡シツマ」〕
  「全国神社名鑑」静間(しずま)神社:大田市静間町
   祭神大己貴命、少彦名命
  「万葉集」355
   生石(おふし)村主(すぐり)真人の歌一首
     大汝(おほなむち)少彦名の いましけむ 
     志都の石屋(いはや)は幾代経ぬらむ  
   志都の石屋:静ヶ窟
    (静間神社近くの海岸近くの海岸にある
     海水の入り込む洞窟)
   志都:静「シツ」「シズ」סֶתֶר、STR、seter 
               隠れ場所、隠れ家
   間「マ」”志都の石屋”
    מִַרַה、MIRA、miarah 洞窟、洞穴:
               静ヶ窟「窟(洞穴)」
   ※福岡県福津市の宮地嶽神社の勝村大神の
    「村」また「室津」の「室」と同根。
    但しここではこの状況が加味されているものの、
    「海」を表すYM、ymが「間」に
    なっているといる方が妥当。
    静ヶ窟は海水を含み込み、海中に張り出した洞窟。
    よって静間「シツマ」STR-YM、seter-ym
    〔隠れ場所-海〕海の隠れ場所 
   静間郷〔和名抄「石見国「安濃郡」〕
   安濃郷〔和名抄「石見国「安濃郡」〕    安濃「アノ」ֶַֻנ、AVN、aeun 石 
  大汝少彦名(オオナムチスクナヒコナと連称する)
    神の臨在を伝授する刻まれた石:「十戒石」
   ※静ヶ窟には西方から船が運んできた「十戒石」を
    船のまま入り込ませて隠匿したのである。
    その奉祭を静間神社として祈念したのである。
 
 (2)比良神社(大田市久利町石恒)
 
 祭神少彦名命
 比良「ヒラ」(Heb.),הִָה,HLH,hioh 光輪、後光
 『古事記』少名毘古那命”海を光して依り来る神ありき”
 『日本書紀』少彦名命”するとそのとき、
        神々しい光が海を照らし、
        やがてその中から忽然と
        浮かび上がってくる神がある”
 『旧約聖書』イザヤ書第49章6
  私はあなたを国々の光として、
  私の救いを地の果てまでもたらす者とする。
 
 久利(町名)「クリ」(Heb.),כהֻר,KhYR,khur 穴
  ※ここにおいては静ヶ窟を指す。
   但し同地より南方を石見銀山へ続く「坑道」を表す。
   少彦名〔祭神〕「スクヒコナ」神の
   臨在を伝授する者
 
 大田「オウダ」、邑陀郷〔和名抄「石見国安濃郡」〕
   「ユウダ」(Heb.),ִֶֶֻד,IVD,ieued 
    ”神の僕(しもべ)”として使われる用語、
     下僕、召使い
 
 (3)物部神社〔延喜式神名帳「石見国安濃郡」〕
 「全国神社名鑑」物部神社(石見一宮):
  大田市川合町川合
  <静間の久利よりさらに上流>
 祭神宇摩志麻遅命(可美真手命)
 物部神社名はここに初めて登場させる。
 
 「物部」呼称の由来はすでに
 第三部で明らかにしたように
 「物部氏」という一族の祖名。
 
 「ハギ―」は『旧約聖書』のイブル人が
 ガド族の創始者ガドの第二子にして、
 その語義が「(船の)舵取り」で”船乗り”であった。
 
 「物部」の歴史上の呼称は「モノノベ」というが、
 その由来はBT-NHES:ANYH、onyh〔石-船〕が祖語で
 「磐船」と表記される。
 
 BT〔石〕が「物(ぶつ)」字に
 音写されているのである。
 
 ここ石見国の静間川の上流に物部神社が
 奉祭されているのは、長門国の「萩」以降の
 日本海領域において何時からか物部氏の勢力が
 巨大化した証左となる。
 
 鎮座川合の域内には「野田」との字名もある。
 
 これはNTV-notの音写で語義が
 「舵取り」と「ハギ―」名と同義である。
 
 更に上流方面には「伊夜彦神社」が鎮座している。
 ※伊夜彦神社
 
 「イヤ:伊夜」は長門市の「油谷:ユヤ」と
 同じくイブル人の「主(神)の隠称YY-yeya」により、
 この地静間川の流域に
 イブル人の信仰が深く信仰したことを示している。
 
  本書が以下に紹介する日本海沿岸地域には
 「石部」「磯部」名の神社が数多く鎮座している。
 
 これらはその由緒を同じくする。
 
 つまり九州方面から密かに船に載せられ運ばれてきた
 「十戒石」は北方へと遷されて行った経路を
 証明しているのである。
 
 《参考》〔イスラエルの十二支族及びガド族〕
 
              〔十二支族〕
 
                             ┌ルベン Reuben רֶֻבֶנ
  アブラハム           │
   │        ├シメオン Simeon סִמֶָנ
  イサク─ヤコブ──┤
   〔イスラエル〕├レビ Lebi לֶבִ
                     │  
                            ├ユダ Judah דַה
                            │
                            ├ダン Dan דַנ
                            │
                            ├ナフタリ Naph'tarlï נַפהאתַרל
                            │
                            ├ガド Gad גַד
                             │                
                            ├アセル Asher ַסהֶר 
                            │
                            ├イッサカル Is'sachar ִסאסַצהַר
                            │(イサカル) 
                            ├ゼブルン Zeb'ulun זֶבאֻלֻנ
                            │
                            ├デナ Dinah דִנַה 
                            │(ディナ)
                            └ヨセフ Joseph יָסֶפה
 
 
 
                               ┌ゼポン Ziph'ion [TsFVN] זִפהאיָנ
                               │(ツィフヨン) Σαπων 
           ├ハギー Haggi [KhGY] הַגגִ   
                               │             Αγγιζ
           ├シュニ Shuni [ShVNY] סהֻנִ
           │            Σαυνζ
      ガド Gad גַד         ┼エツボン Ezbon/Ozni [ATsBN]ֶזבָנ
                               │      Οζνιβον/オズボン
           ├エリ Eri [IRY] רִ
           │            Αηλιζ
           ├アロデ Arodi [ARVDY] ַרָדִ   
                               │(アロディ)  Αροηδιζ
           └アレリ Are'li [ARALY] ַרֶאלִ
            (アルエリ)  Αρεηλδιζ
 《参考》大汝少御神・大汝少彦名〔オオナムチスクナヒコナ〕神② 
M.K記
連絡先:090-2485-7908 
 

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