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第十一章 秘匿 [神聖の系譜]

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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
 第十一章 秘匿
 
  日本海沿岸を船によって運ばれ北上して来た
 契約の箱に納められた「像石」つまり
 「十戒石」が最終的に安置された地が
 佐渡島であることは明白で、
 現在においても人知れず隠れた聖所で
 秘密裡に保護されている。
 
 何しろ佐渡「サド」名はイブル語の
 SV、sed 〔秘密〕と共に
 SDR、seder〔隠れ場所〕の音写である。
 
 (A)佐渡の秘密 
  
  佐渡が史書に表われるのは『記・紀』からである。
 
 『古事記』の国生みの条に「佐度嶋」とあり、
 これを『日本書紀』は「佐渡州」と記す。
 
 同紀には欽明天皇5年に「佐渡島」、
 『続日本紀』の文武天皇の大宝元年(701年)に
 「佐渡」と表われる。
 
 7世紀末までに北陸と同じくその地名が
 定着していたとみられる。
 
 佐渡は「延喜式」には訓がない。
 
 「サド」は上記の通りイブル語の
 SVD(秘密、内緒)の音写である。
 
 以下の見解に依り同島に適した
 名称であることが解かる。
 
 「延喜式」民族及び神名帳の
 羽茂、雑太、賀茂の三郡名が載っている。
 
 「雑太」の訓を「サハタ」としている。
 
 「サハタ」は『古事記』が
 「其少名毘古那神を顕はし白せし謂はる久延毘古は、
  今者は山田の曾富謄(そほど)いふぞ」という
 「曾富謄」と同根で
 (Heb.),סהָפהֶת,ShVPhT,shophet 裁判官、土師
 の音写であり、少彦名神を示唆している。
 
 この件については後述する。
 
 漢字「雑太」の「サッタ」は
 (Heb.),סֶדֶר,SDR,seder
 「隠れ家、隠れ場所」を表わしSVD(秘密)に対応する。
 
 神名帳の式内社に引田部神社が載る。
 同社は現在真野町金丸に同名で鎮座している。
 
 地名金丸は石川県鹿島郡鹿西町の
 宿那彦神像石神社の鎮座地名と同じ
 KhNYH-MLKh (船乗りの宿営地)で
 少彦名神の鎮座地であることを示している。
 
 引田氏は大彦命の後裔とされ、
 同命を祭神に祀るとする説もあるが、
 社伝がいう
 大己貴命にして少彦名神が優先されよう。
 
 社号の「引」あるいは「引田」は
 HK(hok)あるいはHKhT(hokit)の音写で
 「法律の、規則の」で、
 「類語「石などに刻む」のKh(H)KKは
 「法律を制定する」との字義で
 用いられており、モーセが十戒を石板に刻んで
 伝授された故事に付合させている。
 
 当該神社名を「引-田部」と分けて理解する。
 
 「田部」同じ神名帳の記載社御食神社の
 「食」と同根と考えるからである。
 
 同社に神名帳は「ミケ」訓じているが、
 これは「田部」と同様「みタベ」で
 TRLH(tabelah)の転訛である。
 
 同語は「(金属、石、木)の平板」を
 意味するので、
 「御食」は「お板」、
 「引田部」は「法律の板」と解釈され、
 「十戒の石板」を表わしている。
 
 御食神社は現在畑野町宮川に
 同名で鎮座している。
 
 このように雑太郡には「十戒の石板」に
 係わる秘密が隠されている。
 
 神名帳の同郡には飯持神社が記載され、
 同名社が現在畑野町河内に鎮座しているが、
 神名帳は「イモチ」「ミケモチ」と訓じている。
 
 前者はもう一つの郡名
 「羽茂郡」の訓「ハモチ」に通じ、
 飯持も羽茂も「ハネモチ」と訓め、
 これはHVN(hun)の転写で「富、財産」を
 表わす用語でこれまで述べた飯島(安来市)と
 その概念を共有する「羽茂」を「ウモ」と
 訓んでるいるのはまた理由がある。
 
 同郡に記載されている式内社大目神社と関係し、
 IRMH(armah)の転訛で
 「山、塚、積み重ね」が字義である。
 
 大目神社の訓を神名帳は
 「オホマ(秘称)」としている。
 
 新潟県頚城郡青海町の「オウメ」も同様で、
 石板の佐渡への経路としての地名と考える。
 
 同名の神社が現在真野町吉岡に鎮座している。
 
 祭神は
 「佐渡国寺社境内案内帳」「神社明細帳」が
 大己貴命としているのが正しい。
 
 ただ草創の頃の鎮座地は現在の羽茂町椿尾の
 大目神社跡として伝えられている場所である。
 
 「神社明細帳」が徳治2年(1307年)に
 本間遠江守が守護神として
 現在地に遷したというのは史実であろう。
 
 「和名抄」羽茂郡の大目郷の地である。
 
 鎌倉時代の守護本間氏は佐渡において
 神社の改めをいろいろとやったらしい。
 
 このように
 「延喜式」神名帳に載る諸社については
 解釈される。
 
 だが、これらの神社に能登半島を離れた
 「十戒の石板」が納められている訳ではない。
 
  さて、地名帳が「御食」を「ミケ」とし、
 「飯持」を
 「ミケモチ」としていることのも背景がある。
 
 『記紀』が崇神天皇のとき大彦命を
 北陸に遣わしたことを述べているが、
 佐渡にも大彦命の勢力の遠征が
 あったことの伝承が遺っている。
 
 大彦命を祖とする安部氏の「アヘ」が
 サンスクリット語のaharである。
 
 「ミケ」とはそのaharである
 「神饌」称していうのである。
 
 その本実はただし前述の通り
 「御タベ」で「板」ある。
 
 しかし、御食は「オケ」と訓めるので
 この点を疎かにできない。
 
 佐渡島の南端小木(おぎ)町がある。
 
  観光用に桶舟を出すなどオケにこだわっている。
 
 また民謡の佐渡おけさ節の「オケサ」が
 生まれるなどその類似語は
 佐渡の文化の鍵となっている。
 
 「オケ」あるいは「オケサ」はイブル語の
 ARGAZ(aregaz)の転訛で「箱、木箱」の字義で
 「契約の聖櫃」を指している。
 
 この中に「十戒の石板」が納められたのである。
 
 「オケサの島」は「聖櫃の島」である。
 
 そして「櫃・箱」の名称のある所に
 石板は安置されている。
 
 そこは現在神社となっているが、
 「延喜式」神名帳の頃には 
 神社としての社殿が無かったので、
 それには記載なかったと考えられる。
 
 (B)物部神社〔延喜式神名帳「佐渡国雑太郡」
  (現)佐渡市(畑野町)小倉
 ※数十年前には近くに「野田」との地名があった。
  越後国から佐渡国へ
  「十戒石」を
  船で運んできたのは物部氏族であった。
 
 (C)度津神社〔延喜式神名帳「佐渡国雑太郡」
  (現)佐渡市(旧羽茂町飯岡)度津神社
 
 度「ワタ」(Heb.),בַתֻ,BT,batu 石
 ※この名称によると、寺泊(三嶋郡)から
  「十戒石」が運ばれて来て
  「越の高浜」の大石(大石湾)へ
  到着させたいえる。
  この浜には船は押上がったのである。
 
 佐渡「サド」(Heb.),סַדַ,SVD,sada 秘密、内緒
 ※「十戒石」が何処に隠されたかは秘密とされた。
  しかし、地元では何か秘密が行われたと
  嘘になったのではないか。
 
 (D)イスラエルの石板とユダの石板
 
  以上の見解のように佐渡はヨシュア族等に
 授けられた十戒を刻んだ二枚の石板を
 埋納して隠れ場を築き護ってきた
 「秘密」の聖所なのである。
 
 とはいえ、
 この石板は「出エジプト記」が言う神が
 モーセに与え、
 後にダビデに依ってエルサレムへ移され、
 ソロモンによって建てられた神殿に安置された
 ものでないことを認めておきたい。
 
 従って佐渡島に安置されている石板を
 「イスラエルの石板」ということにする。
 
 ヘブライ王国がソロモン王亡き後
 イスラエル国とユダ国に分裂し、
 紀元前8世紀にアッシリアにより
 滅ぼされ捕囚となったのは
 北のイスラエル国の人々(失われた十支族)で、
 ガド族はそれに属していたからである。
 
 これに対しエルサレムの神殿に安置されていた
 「モーセの十戒石」を
 「ユダの聖櫃」「ユダの石板」ということができる。
 
 英語で言う Ark of Judei(ユダヤの箱)である。
 
 この「ユダの聖櫃」も紀元前に新バビロニアに
 よって捕囚され、
 帰還後に復興したエルサレムの神殿も
 破壊されたために行方不明になってしまった。
 
 現在もその所在は知られていない。
 
 その「ユダの石板」の現在の安置所をについて
 次の第5部第6部において説明することにする。
 
 
  最後に北陸道の別称を
 『日本書紀』が「クヌカノミチ」、
 『西宮記』が「クルカノミチ」、
 『北山抄』が「久流加之道」
 という理由を述べる。
 
 「クヌカ」は
 少彦名神と石板の移動宿営地である
 KhNYH(khanykh)の音写である。
 
 鹿西町、真野町の金丸の「カネ」の祖語である。
 
 「クルカ」はGVLH(golah)の音写で
 祖国からの「追放、捕囚」の語義が
 「離散した「イスラエルの居留地」となった用語で、
 本節でみたようにイスラエルの人々の濃密に
 居住した北陸地方の名称として適しい。
 
 富山市の呉羽名はGVLH名であろう。
 
 呉羽が属していた婦負郡は
 現在「ニフ」と呼ばれるが、
 古代には「メフ」であった。
 
 これは彝イブル語のMPhRTsの転訛で
 「入江、湾」を表す用語で
 富山湾に因んだ地名である。
 
 その富山は「富山郷」名に由来するが、
 市内の本郷町辺りが当該比定地であろう。
 
 隣の「大町」名は
 羽咋市の場合と同じく「二つの」であり、
 太田は証人のID(ied)に依る。
 
 その太田地区に刀尾神社が鎮座し、
 「トゥオ(ビ)」が「富トミ」になったらしい。
 
 なお、重要な歴史的・時系列的事実として、
 いわゆる
 ユダヤ人〔YHVDY〕が日本の古代文化に
 影響した事実は一切ない。
 
 「ユダヤ人」が成立したのは、
 6・7世紀〔紀元後〕で、
 本書が対照にしている時代より」
 数世紀後世のことである。
 
 《参考》少彦名神と山田〔海国:大倭・大和〕
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908 


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