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(6) 道後と陸奥 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
 
(6) 道後と陸奥
 
「道」と「陸」
 
「陸」字の添えられた古代の国名はここに二つある。
 
「常陸」と「陸奥」である。
 
前者は茨城県を指す。
 
「陸奥」とはその常陸国より
さらに「奥」にあるとの意義である。
 
「常陸」の由来は後段の第2章で詳しく述べる。
 
「陸奥」を「ムツ」と言う。
 
音訓ではどうしてもそうは読めない。
 
やはり当て字としか言えない。
 
「ムツ」の由来を知るには「道」に係わる地名、
つまり「道口」「道前」と「道後」「道奥」との
呼称の理由を明らかにしなければならない。
 
『日本書紀』景行天皇25年に武内宿禰を
北陸及び東国(東方の諸国)に遣わして
地形や人々の「消息」などを観測しめたとある。
 
その際武内宿禰が築いたのが
「石城〔福島県〕」の砦である。
 
それは石に依って備えた「城塞」で
石が積み上げられた。
 
それをMIZ、mizといい、
漢字「道:ミチ」と音写された。
 
その石城への茨城県北端辺りを「道口」、
石城へ至る福島県内を「道前」、
さらに石城〔砦〕より北方の辺りを
「道後」とした。
 
「道奥」は道後よりもっと北方ということになる。
 
奈良時代あるいは平安時代になって
「道奥」を「陸奥」と表記替えしたのである。
 
「ムツ」との表記はMIZ、miz〔砦〕の同類語
MTSV、mutsuu〔陣地〕、
MTSVDH、mitsudah〔砦、城、要塞〕に
依拠した展開である。
 
因みに「奥」を「オク」というのは、
AKhVR、okhor<オク>の音写で
「後ろ、後部」が語義である。
 


小嶋秋彦(歴史研究家)原図

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(5) 宮城町、気仙郡石巻、女川、大船渡〔宮城県〕 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
 
(5) 宮城町、気仙郡石巻、女川、大船渡〔宮城県〕
 
宮城野〔仙台市宮城野区〕
宮城野「ミヤギノ」
MIGN、miaiagan〔停泊地、波止場〕
 
〇寄留地 
現在太平洋岸はかなり埋立が進み
古代の海外線は大分内陸にあった。
 
宮城野区宮城野の南隣り
若林区成田町に箱石神社がある。
 
出典:宮城県神社※箱石神社
石を載せた船はその辺りに寄留したのである。
 
石巻市の
巻「マキ」
MIGN、miaiagan〔停泊地〕
 
石巻は「石の停泊地」の語義で
「十戒石」が一時ここに寄港したのである。
 
渡波〔石巻市〕「ワタノハ」
BT-NKh、bat-nokh〔石-休息する〕
休息(した)石板
 
女川町「オナカワ」
AVN-KPVL、〔石-一対の〕
 
二枚(一対の)石板、
雄勝町大浜に一時寄留した。
 
「大」は「女」に同じ「石」


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(4) 酒列磯前薬師菩薩神社 [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(4) 常陸国葦浦、堀出神社、酒列磯前神社
茨城県ひたちなか市の太平洋岸に
「阿字ヶ浦」との砂浜がある。
そこは『日本書紀』景行天皇紀に
日本武尊の東国遠征の途次に
通過した「葦浦」である。
また
その近辺に
堀出神社及び
酒列磯前神社が鎮座している。
実は紀伊国粟島神社に安置されていた
「神の箱」は神功皇后あるいは
応神天皇勢力の圧迫を逃れてか、
そこを出て更に東へ向かい
静岡県沿いから房総半島(千葉県)の
東端へ廻り北上を続けた。
そして一時この「葦浦」の地に
寄留していたのである。
その聖所場所が表記の二神社に係る。
ただ結果として日本武尊の東征軍団の
圧迫の危険からさらに
太平洋岸を北上することになってしまった。
何しろその後にも
景行天皇自身までが来襲したのだから。
「葦浦」との地名に依って
彼らの東征以前の名称といってよく、
それ以前に当地に
「神の箱」は安置されていたと判断できる。
そこが「阿字ヶ浦」となった理由は
本書の後段第3章で述べる。
芦浦の葦「アシ」
IShR、Iesher〔十〕十戒名
 
〇堀出神社
〔ひたちなか市阿字ヶ浦〕
堀出「ホリデ」
BRYT、berit〔契約〕
十戒石は「契約の石板」という。
江戸期に入って淡島神社〔和歌山市〕
の信仰が遷されたという。
祭神の誉田別尊(応神天皇)は
神功皇后の皇子名。
境内社の難産除神社は
淡島神社に神功皇后の
お産伝承が入っていたのが
ここに遷されたものだろう。
〇酒列磯前神社
〔ひたちなか市磯崎町〕
酒列「サカツラ」
ZVGY-TsVR、zugy-tsur〔二つ一組の-岩〕
石の二枚一組、二枚の石板
磯崎「イソサキ」
IShVV-SKH、yishuu-sukuae〔定住地-幕屋〕
幕屋の定住地、
「契約の石板」は
櫃に納められていた。
その箱を安置するために
移動が解かっていれば
天幕〔幕屋〕が使われたが、
長い間の鎮座には幕屋が建てられるとの
命令をモーセは神に命じられた。
それがSKH、sukuae〔幕屋〕である。
同社がこの時期の安置所つまり聖所である。
由緒書や「全国神社名鑑」に
祭神少彦名命、大名持命とある。
粟島神社に同じである。
「延喜式」神名帳 常陸国那賀郡
酒列磯前薬師菩薩神社
その祭儀に薬師〔医療〕が存在していることを
平安時代に資料が示している。
「契約の二枚の石板」は
現在
阿字ヶ浦周辺には安置されていない。
前に説明したとおり、
「神の箱」は
さらに北方へと移動して行ったのである。

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


小嶋秋彦(歴史研究家)原図

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