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(3) 紀伊国海部郡粟島神社、加太神社 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(3) 紀伊国海部郡粟島神社、加太神社
 
「和名抄」
紀伊国海部郡、賀太郷
 
「延喜式」神名帳
紀伊国名草郡加太神社「カタ」
 
「全国神社名鑑」和歌山県
淡島神社〔和歌山市加太〕
「あわしま」
祭神:少彦名命、大己貴命、他
淡島神社〔海草郡下津町方〕
 
「日本の神々」(白水社)
淡島神社〔和歌山市加太〕
祭神:少彦名命、大己貴命、他
粟島神社〔下津町方〕
祭神:少彦名命
 
淡島・粟島「アワシマ」
IVTSMAH、iavatsemah〔栄光、誉れ〕
IVTSMH、otsemah〔大隅〕
と同類語にして同義
 
※「アワシマ」は「オウスミ」大隅と語源は同じ。
 
和歌山県の「アワシマ」は
鹿児島県の「大隅」から
ここへ人々の移動があり、
来着した人々が大隅と同様に造成した
文化圏であることを示している。
 
加太・方「カタ」
KTV、ketah〔字、文字、筆跡〕
石板に刻まれた十戒を表わす文字、
宮崎県日南市にの地名「方」に対応する。
 
なお、
サンスクリット語に「光、輝き」を表わす
ketとの用語があり、
同地にはその言葉との習合もあるが、
それを主眼とする神社は「加太春日神社」で
その信仰対象であった。
 
粟嶋神社〔海草郡下津方〕の社伝によると、
往古神が下津の硯浦に漂着したと、
ご祭神〔少彦名神〕が
海の外から漂着(渡来)して来たこと伝えている。
 
漂着した時、村民の21家が奉って森へ鎮め祀り、
以来この21家が当屋制によって祭祀し、
後亀山天皇の文永年間(1264~75年)に
今の宮の谷の社地へ遷し祀ったという。
 
この社伝にある「奉祭する21家」は実際のところ
従来からこの地にいた人ではなく、
「ネヘミヤ記」が記録したバビロン捕囚で
エルサレムにバビロンから帰還したユダ族で、
エルサレムに居住した21支族を
引用したものと考えられる。
 
その支族名は既に本書第4部で記述してある。
 
これらの人々は「残れる民」ShAR、shorといい、
大隅国曽於郡の「ソウ」となっていた。
 
つまり、
その曽於郡から〔海の外から〕この硯浦へ
ユダ族の21支族が移住したのである。
 
勿論(もちろん)「神の箱」を伴ってのことである。
 
小原「オハラ」
AHL、aohel〔天幕〕
幕屋、「十戒石」を安置する聖所
 
雑賀「ゾウガ」
ZVG、zug〔一対、二つ一組のもの〕
二枚の十戒石
 
黒田「クロタ」
KhRT、kharat
〔(金属や石に)刻む、(文字を)彫り込む〕
「方」に対応する用語で
「石板に十戒の文字を彫り込んだ」
 
上「カミ」
KMR、kamer〔祭司〕
 
名草「ナクサ」
NKhS、nekhes〔貴重品〕
※十戒石を指す
 
有田〔市名〕「アリタ」
ARVT、arut〔箱に詰められた〕
「神の箱」に対応する。
 
あのジプチ都市名Artaと理由を同じくし
また「下津」とも同類である。
 
下津「オリヅ」
ARZ、aoraz〔梱包する、(箱に)荷物を詰める〕
 
丁「ヨウ」
YIR、yaior〔森、森林〕
漂着後のすぐに神が祀られた所「森」
 
さて粟島神社が当地に鎮座して後、
多分50年後くらいに、
この神社の信仰に神功皇后に係わる
「女性信仰」が習合された。
 
しかも
医薬あるいは「お産」がその主眼であった。
 
「日本の神々(白水社)」によると、
 
「淡島様は
天照大神の第6番目の姫君であり、
16歳で住吉名神の妃になったが
下の病にかかったため綾の巻物、
12の楽器と一緒にウロコ船に乗せられ
堺の浜から流され、
あくる年の3月3日に
加太の淡島に流れ着いた」。
 
この伝承でも解かるとおり
粟島神社〔下津〕が先で、
淡島神社〔加太〕は後のことである。
 
「和名抄」紀伊国名草郡に
津摩郷「つま」雑賀「ゾウガ」。
 
既述のとおり
ZVG、zug〔二枚一組のもの〕であったが、
これによく似た用語
ZVGH、zuguahがあり、
語義に「妻」が含まれる。
 
丸田〔下津町〕「マルタ」
MRT、marat〔女性の名前に対する敬称〕~
奥様(英語のMrs,)
丸田「マルダ」
MYLD、miled〔産科医〕
MYLDT、meyeledet〔産婆、助産婦〕
これは神功皇后のお産伝承に対応したもの
 
女良〔下津町大津〕「メラ」
MLKh、melakh〔塩、食塩〕
和歌浦沿いに「塩津」とあるように
この地域では
塩焼き(海水をたいて食塩を生産する)が
行われていた。
 
なお、
ご祭神の少彦名神は本書第2部が
ガド族の関連で岩見(島根県)から
北陸道の関係神社の主たる祭神として
紹介されてあるが、
大己貴神〔大国主神〕と共に
イブル人の奉祭する神「主」が本眼である。
 

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


小嶋秋彦(歴史研究家)原図

https://matmkanehara.blog.ss-blog.jp/2019-03-14-4

 

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(2) 日向国那賀郡 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第6部 神の箱の日本列島到着後の遍歴
第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(2) 日向国那賀郡
「和名抄」日向国那賀郡
(高山寺本)
「和名抄」日向国那珂郡
(東急本、伊勢本、名博本、元和古活字体)
那賀、那珂「ナカ」
NGAL、nagal
〔救われる、開放する〕
”ナガ”
郷〔日南市、北浦町、串間市〕
「ゴオ」
GAL、guoal
〔救い出す、開放する〕
那賀郡内に「救いの神」が
奉祭されているとの主旨か、
あるいは
「神の箱」が長い航海から
解き放されたとの感慨を込めたものか。
油津・吾平津神社〔日南市油津港〕
「アブラ」「アヒラ」
AHL、aohel
〔天幕〕
幕屋
この地域に
ユダ族レビ族が奉祭し続けたきた
エルサレムの神殿を出た
移動式の聖所幕屋〔礼拝所〕が置かれた。
吾田神社〔日南市戸高〕
「アダ」
AVDH、aodeh
「創世記」第29章35の
「ユダ」の誕生挿話にある用語
〔私はほめたたえる〕
「ユダ」呼称の発生用語、
「大隅」に同じ。
戸高
「ヘタカ」
HVDH、hudah
<YDHが原型>
感謝する
平野・平山の平
「タイラ」
TVLH、tauilah
〔(金属、石、木の)平板〕
ここでは「十戒石の板」
えびの神社〔日南市油津〕
AVN、ieuen
〔石〕
十戒の石板
隈谷〔日南市油津の南隣り〕
「クマヤ」
KMYI、komeya
〔護符、お守り〕
ここでは「十戒石の石板」
大堂・大堂津〔日南市隈谷の南隣り〕
「おうどう」
AVDH、aodeh
ユダ名の由来
〔私はほめたたえる〕
方(上・下)
「カタ」
KTV、ketau
〔字、文字、筆跡〕
石板に刻まれた十戒を表わす文字
ユダ族がこの地域に勢力を伸長した時期、
彼らの幕屋が
日南市油津周辺に置かれていたのである。

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


小嶋秋彦(歴史研究家)原図

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(1) 大隅国囎於郡・肝属郡 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
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第1章 南九州から太平洋岸を北上した
「十戒石」を乗せた船
(1) 大隅国囎於郡・肝属郡
志布志湾のある志布志町は囎於郡に属す。
 
同名は古代史料にある。
 
「和名抄」大隅国贈於郡
 
「延喜式」神名帳、囎於郡「ソオ」
 
「ソオ」はイブル語 ShAR、Shor の音写で
「残れる者」「残れる民」
との語義で
前第5部第2章で詳しく解説した
バビロン捕囚事件で
翻弄された人々の呼称である。
 
特にここでいうのは
エルサレムからジプチへ
退避したユダ族の21支族を指す。
 
その国名にして半島名でもある
「大隅」は「オホスミ」で
これもイブル語の IVTSMH、Otsemae で
「誉れ」「栄光」の語義で
「創世記」第29章に語られた
ヤコブの子「ユダ」に
誕生挿話に係わる表現である。
 
「大隅」を載せる古代資料他にもある。
 
都萬神社[曽於郡大崎町仮宿]
 
都萬「トマン」 
TMVN、tumu
 [隠れた、隠されている]
 
HTMVN、hitemiyn
 [(隠れた場所に)隠す]
 
この言葉は
「正八幡」の「ハチマン」で
同信仰の大元がこの神社である。
 
大崎「オウザキ」 
AVN-ZUGH、aun-zugh
[石-二つ一組の]
二つ一組の、二枚の「十戒石」を表わす。
 
この語は末吉町の「岩崎」名となっている。
 
「仮宿」二枚の「十戒石」が
ここに仮泊されていたとの表明
 
「日本書紀」天武天皇11年(682年)7月3日
大隅隼人に
 
「続日本紀」和銅6年(713年)4月3日
日向国の
肝圷、贈於、大隅、姶羅の
4郡を割き初めて大隅国置かれる。
 
次に「肝属」について纏めてみる。
 
「続日本紀」
文武天皇4年(700年)6月3日 肝衝
肝圷、肝衝「キモツキ」
KMR-TSVK、Kamror
〔祭司-岩〕
岩の祭司
 
「和名抄」大隅国肝属郡(東急本)
岐毛豆岐<キモヅキ>
肝衝「キモヅキ」
KMR-ZUG、kamor-zug
〔祭司-二つ一組のもの〕
二枚の石板の祭司
 
肝属郡地域には
ユダ族に同伴し渡来した
エルサレムの神殿の奉祭を
職掌としていた
レビ族にして
モーセの兄を初めの祖とする
大祭司アロン家の係累の人々が
幕屋(天幕)守るため
生活の基盤を置いた所とすることができる。
 
串良〔町名〕「クシラ」

 

KTSYR、kotsiyr
〔(穀物の)借入れ、収穫〕
KTSR、kotsar
〔作物を刈り取る、収穫する〕

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


小嶋秋彦(歴史研究家)原図

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