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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆③」 [日本創世紀]



日本創世紀


 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦


 《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆③」
「後の滞在推定地」 
 
 福山市田尻町の高島宮址を出航した、
 神武天皇一行の
 その後の立ち寄り地を探ってみることにする。
 
 大阪湾岸に到達するまでに、
 以下のような伝承地が存在している。
 
 1.岡山県笠岡市高島 
 
 笠岡諸島のひとつの島である高島には
 高島神社がある。
 
 明治維新までは
 「神武天皇宮」
 「神武天皇社」
 と呼ばれて崇拝されていた。
 
 社は小さいが神武天皇が
 東征された際の仮宮である
 吉備高島宮の跡と言われている。
 近くの最長には高島遺跡が存在している。
 
 長期滞在には不向きと思われ、
 海が荒れたため立ち寄ったのではないだろうか。 
 
 2.児島湾に浮かぶ高島 
 
 児島半島はこの当時島であり、
 児島湾は東西に通じていた海峡であった。
 笠岡の高島を出航した神武天皇一行は
 この海峡に沿って東行し、
 旭川河口にある高島周辺で船を休めた。
 高島は大変小さい島で、
 児島湾上に浮かんでいる。
 
 この島及び児島半島の北岸に
 神武天皇が滞在したという伝承地がある。
 
 このような島に大人数が
 長期滞在するのは無理であるので、
 長期滞在地を探すために
 短期間滞在したのではないかと創造する。
 
 ここに滞在中、
 龍の口山の麓に長期滞在地を
 選定したものと考える。 
 
 3.岡山市賞田、龍の口山の南麓 
 
 岡山市市街地の北西部旭川のそばに
 龍の口山がある。
 
 その南麓に高島神社が存在し、
 神武天皇が滞在した址と伝えている。
 当時はこの近くまで海だったようで、
 児島湾の高島から
 この地に移ったと考えられる。
 
 大和へ向かう経路上より北へずれているため、
 長期滞在したのではないかと考えられる。
 この地より10kmほど南東に兄である
 五瀬命が滞在したと伝えられている
 安仁神社が存在している。
 昔はこの鶴山の麓まで海であったそうで、
 入江の奥の良港だった。
 
 後方の山には磐座や列石があり、
 古代の祭祀跡と見られるところに、
 神武東征の船の
 「ともづな」を掛けたといわれる
 「綱掛石神社」などがある。
 
 この安仁神社の地は
 神武天皇が龍の口山の高島宮に滞在中に
 五瀬命が滞在していたと推定する。 
 
 日本書紀から推定すると、
 ここを出発したのが
 AD81年7月下旬となる。
 
 4.兵庫県家島 
 
 神武天皇が東征の時、海があれ、
 嵐を避けるために家島に御寄港した。
 
 島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、
 まるで自分の家にいるようだったことから、
 「家島」と名づけられたと伝えられている。 
 
 家島は、
 古くは、国生みの島オノゴロ島、
 胞島(エジマ)と呼ばれていた。
 
 その後家島と呼び名を変え、
 瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、
 風待ちの非難港として栄えてきたとも
 いわれている。
  
 「播磨鑑」には
 次のような説話が伝えられている。
  
 「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、
  沖で釣をしていると、
  吉備水道を抜け出て来た船団が
  播磨灘に向かってやってきて、
  翁がこの海に関して詳しい事を知り、
  翁に道先案内を頼みました。 
 
  船団は、
  家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、
  食料の補充をして数年間がたちました。
  そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。
  難波について翁は手柄を褒められました。
 
  翁の亀は、忙しい主人をおいて、
  先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
 
 この話は
 神武天皇の東征時の説話といわれている。 
 
 神武天皇一行が高島を出航したのが
 戊午2月11日で、
 難波の白肩津に着いたのが3月10日なので、
 この間約15日(この頃の1ヶ月は15日と推定)。
 距離から考えて
 家島には五日ぐらい
 滞在したのではあるまいか
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆②」 [日本創世紀]



日本創世紀


 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦


 《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆居②」



 

  「広島県内の九州系遺物 」

 広島県地方には後期中葉あたりから、
 畿内系土器に混じって、
 大分系土器が出土するようになる。
 さらに、
 九州地方に限られていた九州系の鉄器が
 この地方のみに出土するのである。
 大和朝廷成立と前後して
 大分県地方からの人々の流入が
 あったことが推定される。 
 大分系土器は、
 三原以西の沿岸地方を中心に分布し、
 北部や東部には見られない。
 継続がなく、しばらくすると出土しなくなる。
 一方、
 畿内系土器は、
 ほとんどの地域に分布するがその数は少ない。
 そして、
 出土は時期的に限られたものではなく、
 恒常的で、古墳時代以降にも継続している。
 いずれの土器も
 在地系土器と混在する形で出土している。
 これは畿内系と違って、
 大分系の人々の流入は
 一時的なものと判断される。
 そして、
 土器が在地系と混在していることは
 共に在地の人々と
 共同生活をしたことを意味している。
 これは共通の精神基盤がなければ
 不可能なことである。
 共に、大和朝廷によって統一され、
 スサノオを最高神として
 崇めていたためにできたのではあるまいか。   
 大分系土器は、
 出土地域が限定されていること、
 九州系の鉄器が同じように出土していること、
 時期的に限定されていることから、
 鉄生産を目的とした
 大分県地方からの集団移住と
 とらえることができる。 
 また、
 後期中葉に広島県地方に
 九州のAタイプの槍鉋の出土が見られる。
 地域は大分系土器の出土領域と重なっている。
 大分系土器を持ち込んだ人々が
 槍鉋を持ち込んだと思われる。
 「市杵島姫」 
 大分県の宇佐地方で
 スサノオとムカツヒメの子として
 生誕した三娘のうち、
 市杵島姫の伝承が広島県下に残っている。
 栗原基氏著
 「新説日本の始まり」によると
 広島県高田郡向原町の
 大土山に住んでいた市杵島姫の子供が
 行方不明になったのをきっかけとして、
 向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→
 東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→
 東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→
 生口島→
 大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→
 江田島町伊関→廿日市市宮内→
 大竹市→宮島町と転々と移動している。
 この滞在の地には
 いずれも厳島神社が存在している。
 そして、
 この転々としている領域と
 大分系土器の出土する領域が
 一致しているのである。
 市杵島姫がその一族と共に
 大分から広島へ
 移住してきたものと考えられる。
 「女王アマテラス」によると、
 市杵島姫は九州へ住んでいたころ、
 ニギハヤヒの子である
 サルタヒコと結婚していた。
 サルタヒコが出雲統治に行った後、
 広島県地方に移ったのではあるまいか。
 大分県地方から瀬戸内海を渡って、
 広島県地方に上陸するコースを考えてみると、
 崖が迫っているところは上陸しにくいので、
 広島湾に入り込み、
 そこから三篠川に沿って
 上流に移動することが考えられる。
 川をさかのぼっていくと、
 その先に大土山がある。
 大土山のある向原町には、
 水田の跡と考えられる伝承地が点在している。
 この伝承地は
 神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、
 神武天皇の行動と内容が
 よく似ている伝承もある。
 また、
 厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われるが、
 市杵島姫を祀っているのも事実である。
 この二人に深い関連性を見ることができる。
 市杵島姫と神武天皇は
 同時に広島へやってきたのではないかと
 考えている。
 「神武天皇安芸国および
  吉備国長期滞在の理由」 
 神武天皇の伝承地の集中度を調べてみると、
 よく言われている
 府中町の多家神社周辺ではなく
 福山市周辺である。
 多家神社の埃宮と
 福山市周辺の高嶋宮がそれに該当する。
 岡山県下にも高嶋宮跡があるが、
 伝承の集中度では福山市が圧倒している。
 伝承が多いところに
 長期間滞在したと判断してよいと思われる。
 また、
 その間でも方々に
 長期間滞在しているようである。
 何のためにこんなに方々で
 滞在したのであろうか。
 
 滞在地の何箇所かで
 巨石祭祀をしているのである。
 大規模な巨石を用いており、
 神武天皇と同行している人々だけの力では
 これだけの祭祀施設を作るのは
 無理ではないかと思われ、
 さらに、
 瀬戸内沿岸地方は神武天皇の所属していた
 西倭でも合併する日本国でもない、
 出雲国の支配する東倭に所属する地域である。 
 また、
 広島県北部に残る神武天皇関連の伝承は
 比婆郡西条町高の今宮神社の伝承や
 庄原市本村の葦嶽山に伝わるものなど、
 出雲との交渉を示すものがある。
 出雲との交渉が
 滞在目的のひとつであったのは
 間違いがないであろう。 
 これらから判断して
 この地域の人々を味方につけるために
 神武天皇は
 各地に長期間滞在したのではないかと
 考えるのである。
 何のために
 この地域の人々を取り込む必要があったのか。
 合併後の大和朝廷の政治に目を向けてみると、
 大和朝廷は海外からの技術導入に
 力を入れなければならず、
 そのためには北九州主要部(伊都国)は
 重要拠点となる。
 実際に
 伊都国は後期中葉以降畿内系土器が
 集中出土するようになり、
 方形周溝墓も出現するようになる。
 考古学的視点に立っても
 大和朝廷は
 北九州主要部を重視していたことは
 明らかである。
 朝廷のある大和から
 伊都国との交流が大切なものとなるが、
 その経路上のほとんどの地域は
 東倭に所属しているのである。
 このままでは朝廷成立後の日本国の運営に
 大きな支障が出ることは
 誰の目にも明らかである。
 神武天皇としては、
 この状態は何とかしなければと
 考えたに違いない。
 どうすれば解決するのであろうか。
 一番よいのは
 瀬戸内海沿岸地方を
 東倭から譲り受けることである。
 そのために選ばれたのが
 広島県地域ではないのか。
 このように考えると
 神武天皇の行動は自然なものとなる。 
 この仮説を別方面から
 検討してみることにする。
 まず、
 後期中葉の広島県下の土器に変化が
 起こっている。
 後期初頭までは
 出雲系土器がまばらに出土していたが、
 後期中葉になると出雲系土器が消滅し、
 変わりに畿内系土器の出土が始まるのである。
 隣の岡山県や島根県地方には
 この傾向が見られないことから
 広島県地方のみの傾向である。
 これは、
 出雲から広島県地域が
 朝廷支配地域になったことを意味している。
 しかし、
 朝廷支配地域に出現する
 方形周溝墓が出現せず、
 また、
 出土する畿内系土器は祭祀系土器ではなく、
 日常生活用土器である。
 これは
 出雲から広島県地域を譲り受けるときに、
 祭祀をしないという条件があったものと
 考えれば説明がつく。
 出雲はスサノオ祭祀をしており、
 日本国はニギハヤヒ系祭祀であるから、
 出雲がそれに抵抗を示すことは
 当然考えられるのである。
 伝承では
 言代主は神武天皇からの使者の言葉に
 一度は怒り追い返しているのである。
 その後使者の言葉を受け入れている。
 もし、
 神武天皇が日本国におもむき、
 西倭との合併の挨拶だけであれば、
 神武天皇が
 日向を出発する前に
 話がついているのであるから
 言代主が怒るはずがない。
 広島県地域を譲れという
 思いがけない言葉に怒ったのである。
 市杵島姫による説得が功を奏して、
 言代主も納得し宝剣を渡したものと
 考えられる。 
 神武天皇が
 福山市周辺で長期間滞在したのも説明がつく。
 後期初頭までの出雲系土器がよく出土するのは
 北部地域と芦田川流域である。
 この地域をつなぐと、
 瀬戸内海沿岸地方と出雲との交易ルートが
 浮かび上がってくる。
 福山周辺の伝承でも、
 スサノオは出雲の斐伊川の川上から
 福山周辺にやってきたことが伝えられている。
 出雲と、
 瀬戸内海沿岸地方との交易ルートは
 この経路であることがわかる。
 神武天皇がこの地域に長期滞在をし、
 さらに巨石祭祀を行なっているのは
 この地域の人々の心をつかむのと、
 出雲との交渉のためと考えられる。 
 そこで、
 交渉の代表者として登場するのが
 市杵島姫となる。
 彼女はこの当時生存していた
 数少ないスサノオの娘である。
 さらに、
 出雲のサルタヒコは北九州にいたとき、
 この市杵島姫を妻にしていたのである。
 出雲の言代主にとって、
 頭の挙がらない人物の一人であろう。
 神武天皇もそれを計算して
 宇佐から彼女を同行させたと考えるのである。 
 このように考えると、
 神武天皇の長期滞在理由、
 土器の出土状況、
 市杵島姫の広島への移動すべてが
 説明できるのである。
 東倭から譲り受けた後の広島県地域は
 市杵島姫が統治していたものと考えられる。
 市杵島姫の伝承地が
 転々と移動しているのも地域を
 まとめるためと考えられ、
 大分系土器が出土するのも
 そのためと考えられる。 
 安芸国に滞在しているときに、
 出雲国との交渉によって、
 安芸・備後(現広島県)を
 東倭から譲り受けた後の経路については、
 神武天皇が大和で即位した後の
 北九州との航路を安定化するために
 要所となるところに寄港地を
 作るために方々に
 滞在していたのではあるまいか。
 磐田山の天津磐境は
 航海の安全を祈る祭祀施設かもしれない。
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」
 
 
「神武天皇の広島県下での行動について」
 
 昭和16年 
 広島県発行の「神武天皇聖蹟誌」に
 広島県下における神武天皇の行動の跡を
 伝える伝承が詳しく記録されている。
 この伝承をまとめてみると次のようになる。 
 
 1.厳島
 
 日向を発した神武天皇は広島県沖に達したとき、
 まず、
 宮島の南端の須屋浦に上陸し
 現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。
 
 渡辺綱吉氏
 「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、
 厳島神社の本当の祭神は
 神武天皇ではないかと書かれている。
 それは昭和15年の
 「厳島神社御由緒等調査記」に
 神武天皇の時代に御鎮座とあり、
 最初に神武天皇が
 この島を訪れているからである。
 
 また、
 島内の山中には巨石を用いた
 祭祀の痕跡が残っている。
 
 これも神武天皇が祭祀したものと思われる。
 
 2.廿日市市地御前 
 
 宮島を発した神武天皇は
 地御前の地御前神社の地に上陸した。
 神社西側の入り江を有府水門といい、
 ここに着岸されたという。 
 
 3.廿日市市串戸
  
 地御前で休息の後、海岸に沿って船を進め、
 串戸に入り広田神社の地
 (近くに天王址碑あり)に着いた。
 天皇が天王社(広田神社)の御戸を開き
 玉串を奉典し奉ったことにより
 串戸と名づけられたという。 
 
 4.廿日市市宮内 
 
 それよりさらに御手洗川に沿って奥地に入り、
 宮内の大幸の八坂神社の地でしばらく滞在した。
 
 天皇がしばらく滞在したため
 宮内と呼ばれるようになった。
 
 5.広島市古江 
 
 その後広島市古江に上陸し
 現在の八幡神社の地にしばらく滞在。
 
 ここを多紀理宮という。
  
 6.安芸郡江田島町切串 
 
 その後、
 江田島に渡り切串の
 長谷川の河口にある丘陵地に
 宮をつくりしばらく滞在。
 
 洪水にあったために
 府中町多家神社の地に移動。
 埃宮とは江の内の意味で
 広島湾岸を意味している。
 
 7.安芸郡府中町多家神社 
 
 かなり長く滞在したようで、
 この滞在中矢野や船越方面にも
 出向いているようである。
 
 このとき(?)皇兄の五瀬命が
 瀬野にて賊退治をしている。
 
 日本書紀から推察すると、
 AD79年12月頃と思われる。
 以下は多家神社滞在中のことと思われる。
 
 ・広島市可部町舟山・・・
  広島湾を北上し広島市可部町舟山に着岸し、
  徳行寺境内の総社の地にしばらく滞在。
 
  このとき惠坂や螺山方面にも
  足を伸ばされている。
 
 ・高田郡吉田町宮之城・・・内陸部に入り、
  宮之城の丘陵にある埃宮神社にしばらく滞在。
 
 ・賀茂郡西条町寺家・・・新宮神社に
  腰掛岩がある。 
 
 ・賀茂郡福富町竹仁・・・
  橿原神社(現在は森政神社に合祀)に
  神武天皇が来遊したと記録されている。 
 
 ・比婆郡西条町高・・・今宮神社に伝承あり。
  埃宮に滞在中出雲との関係を生じ
  この地を数度訪問した。
 
  物資を出雲より取り寄せた。
 
  と言い伝えられている。 
 
 ・比婆郡高野町南・・・
  男鹿見山の麓にある八幡神社に
  大昔より鉾を神宝として伝えている。
  神武天皇が鬼城山の鬼を退治したときの
  鉾と伝える。
 
  この周辺も高嶋という。
 
  この周辺に神武天皇伝承地が多い。
  
  多家神社を基点として方々を巡回後、
  当神社を出発、
  呉市天応
  (立ち寄り伝承あり、
   天応の名も天皇の
   立ち寄りからつけられる)、
  呉市(賊退治伝承あり)と経由し、海に出る。
 
  蒲刈島南方海上を東へ向けて進行中、
  南風を受け船の梶が折れたために、
  上下蒲刈島の間の三ノ瀬に船が入りこんだ。
 
  下蒲刈の向浦に着岸し
  天頭山の岸辺で船を修繕。
 
  このとき蒲を刈ったので、
  ここを蒲刈と名づけられた。
 
  そこから内海に出てさらに東へ進んだ。
  
 8.豊田郡瀬戸田町名荷 
 
 蒲刈を出た天皇一行は瀬戸田町の名荷に到着。
 
 斎串を立てて祀ったので
 この島を生口島と呼ぶようになった。
 
 島の嶽山の麓にあった
 江ノ神社の地に
 しばらく滞在したとの伝承あり。
 
 近くに船を止めたという場所や
 神武天皇使用の井戸の跡、窯の跡、
 斎田の跡などの伝承あり。
 
 伝承内容からしてかなり長い滞在と思われる。
 
 9.豊田郡大崎町大長 
 
 神武天皇が立ち寄ったという。
 付近の島々にも支船を停泊させたと伝える。
 
 また、
 この地に着く前に一支隊が
 四国(三津浜)に立ち寄ったともいう。
 
 10.因島市大浜 
 
 斎島神社由緒
 「昔神武天皇、東国に行かれるとき、
  風波のため航海ができず、
  この大浜に船を留め寒崎山にて
  数日嵐の静まることを天神に祈られた。
  即ちこの島は斎島である。
  後に変わって隠の島(因島)となる。」
 
 11.尾道市高須町 
 
 ここからは備後の国であり、
 滞在地を高嶋宮と伝えている。
 大元山麓の八幡神社の地に
 しばらく滞在したと伝える。
 
 ここから2kmほど南西の大田地区で
 武器製造・貯蔵をしたと伝えられ、
 神武天皇はしばしばここを訪れたそうである。
 
 ここも滞在期間は長かったようである。
 ここに着いたのが
 日本書紀よりAD80年2月頃と考えられる。
 
 12.福山市金江町 
 
 貴船神社があり、ここに船を止めた。
 
 近くの竜王山西麓に
 神武天皇滞在伝承地があり、
 この周辺を高嶋宮という。
 
 石碑もある。
 
 また、
 鏡山の今伊勢神宮に八咫鏡を奉祀した。
 
 そのため、この地を神村という。
 
 近くの磐田山に天津磐境をつくり祭祀をした。
 
 天津磐境の岩を運んだという伝承地もあり、
 このあたりに神武天皇伝承地が極めて多い。
 
 かなり長期にわたって
 滞在したものと思われる。
 
 13.沼隈郡浦崎町 
 
 浦崎町中央部の王太子山中腹に
 王太子神社があり、
 神武天皇の滞在を伝える。
 
 また、
 近くの戸崎に神武天皇上陸伝承地がある。
 
 14.福山市内浦町田島 
 
 内浦に神武天皇滞在を伝える
 宮址の皇森神社がある。
 
 ここも高嶋宮址であり、
 しばらく滞在したと伝える。
 
 周辺に行幸伝承地が多く、
 滞在期間は長かったと思われる。
 
 15.福山市田尻町 
 
 田尻町にある高島は
 現在は半島部になっているが
 昔は島であった。
 その南端部に八幡神社があり、
 高島宮址の石碑がある。
 
 しかし、宮址は少し北の宮原の地と伝える。
 
 昔橿原神社があったそうであるが
 八幡神社に合祀されたそうである。
 
 ここも滞在期間が長かったようである。
 
 ここに滞在中出雲との往復をしているようで、
 内陸部に入り庄原市の葦嶽山で祭祀をし、
 使者を出雲の言代主命に挨拶に遣わした。
 
 神武天皇自身は高野町にも伝承地があり、
 高野町を越えて出雲往復をしたものと
 考えられる。
 
 この後、
 岡山県笠岡市や岡山市の高嶋宮にも滞在し、
 大和に向かった。
  
 このように神武天皇は
 広島県にかなり多くの伝承を残している。
 
 滞在の順番は方向性を考えながら
 推理したものである。
 
 すべてが真実とはいわないが、
 真実の要素はかなりあるのではないかと
 思っている。
 
 はっきりわかることは、
 一般には武器調達とか
 大和の様子見とか言われているが、
 これほど方々にしかも
 長期間滞在するというのは
 そのような理由によるものではないこと
 を示している。
 
 この滞在の理由をここでは考えてみたい。
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈③」 [日本創世紀]





日本創世紀




 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―



著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦


 《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈③」
 ◦福山:ふくやま(廣島県)
 市の中央にある丘陵。福山に依る地名。
 この山は蝙蝠(こうもり)山とも称された。
 
 「こうもり」
 (Grk.)ημερά(hmera) イオニア訛り 
    ημερη(hmeri)
     η(h)は時としてkh(k)と発音される。
 
 「フク」
 (Grk.)ψεγγος(pheggos)日、昼間
    ψεγγους(pheggoys)
     光、輝き、(特に)太陽の光、眼の光、
     燈火
    ψεγγω(pheggo)光り輝く(形容詞)
 
 旭ヶ丘(福山市東南部の丘陵)旧安那郡のうち、
  旭:朝日
 
 引野:ひきの(福山市)旭ヶ丘の西部から
    西北部に広がる地名
 
 「ヒキ」
 (Grk.)ψεγγω(pheggo)光り輝く(形容詞)
    ψεγγους(pheggoys)
     輝き、(特に)太陽の光※朝日に対応する
 
 燧灘:ひうちなだ
    (広島、愛媛、香川3県にまたがる灘)
 
 「ヒウチ」はψεγγος(pheggos)に係わる。
 
 ◦安那郡(備後国東南端の郡名)
 
 「アナ」
 (Grk.)άνα(ana)、άναξ(anaks)、άνακτος    (anaktos)の呼格(voc)
     王、支配者、領主など
  備前国邑久郡安仁神社の「安仁:あに」と同根
 
 ◦多理比神社「延喜式」神名帳 
  備後品治郡 訓「タリヒノ」
 
 「タリヒリ」三段橈船
 (Grk.)τρι-ηρης(tri-hris)
    τρι-ηρεες(tri-hrees)
    τριηρης(trihris)
 
 品治(ホムヂ)郡(現)福山市駅家町周辺
 
 「ホムヂ」(旧名品遅「ホムチ」)
 (Grk.)Ημαθιη(Hmathih/Émathië)
 (現)福山市駅家町坊寺の
   「坊寺」/法師村(江戸時代)
 ※マケドニアの古称<ここではマケドニア人>
 
 江良(福山市駅家町江良)
 
 「エラ」
 (Grk.)ερετμον(eretmon)橈
    ηρης(hris:eris)橈/櫂
    ηρεες(hrees:erees)橈/櫂
 
 大草神社(江良にある)
 
 「オホクサ」
 (Grk.)αικαος(aiakos)舵、舵柄
    οιαξ(oiaks)舵、舵柄
 
 ◦蘇羅比古神社「延喜式」神名帳
  備後国三上郡 訓「ソラヒコノ」
 
 「ソラ」① 
 (Grk.)σολος(solos)鉄の塊
  (現所在地)
 A:広島県庄原市本村町 蘇羅比古神社 
  鍬寄山にある。
 B:広島県庄原市高町川西 蘇羅比古神社
  ※当地は古代より鉄の産地、両地の間にある。
   大黒目山の「黒目」は磁鉄鉱を表わす。
   また、
   篠津原(字名)は(Grk.)の「鉄」を意味する
   σιδλος(sidlos) に係わり
   「篠:ササ」は砂金を表わしている。
  ※当社の創建の理由は
   この「鉄塊」の産地であることに始まると
   考える。
   但し、その後、その解釈は変更される。
 
 「ソラ」② 
 (Grk.)σελας(selas)光、光輝、電光、火
  つまり、電光・雷光(稲妻)の意味が加わる。
  なぜか、
  郡名「三上」・「延喜式」神名帳 訓「ミカミ」
 
 「ミカミ」
 (Grk.)μυκεμα(mykema)咆え声
    μυκαομαι(mykaomai)
     轟く、大きな音をたてる、咆える、唸る
     >雷鳴を表わす。
  ※鉄塊の神から
   「雷神<雷電(光)>の神」へ変わっていった。
   本村町に岳音寺という寺院がある。
   「山(岳)の音」とは雷鳴を窺わせる。
   その本村町の東方
   比婆郡東城町の庄原市よりに
   御神山「ミカミヤマ」があり、
   その北方辺に「帝釈」を冠した地域もある。
 
   帝釈は仏教用語で本来は
   インドのヴェータにおける最高神にして、
   雷神の性格を持つインドラ神の語義であり、
   「ミカミ」が「雷電」に
   係わっていることを示している。
 
   この「三上」は
   滋賀県野洲郡野洲町の三上、三上山と
   同根である。
 
 野洲「ヤス」
 (Grk.)Yης(Yes、本来はディオニソス神の呼称)
    豊饒をもたらす雨神
 
 「ヤツ」
 (Grk.)υετος(yetos) 雨、(特に)激しい驟雨
    υετιος(yetios) 雨をもやらす、雨の
 
 東城町・西城町の「シロ・城」
  この地域が鉄の産地であることから 
  σολος(solos)が語源であろう。
 
 C.高嶋宮〔岡山県〕
 
 『古事記』古事記 中卷
 
  亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐
 
  また其の國より遷り上り幸(いでま)して、
  吉備の高嶋の宮に
  八年(やとせ)坐しましき。 
 
 『日本書紀』卷第三 
  神武天皇(神日本磐余彦天皇) 
 
  乙卯年の春三月の甲寅の朔己未に、
  吉備國に徙りて入りましき。
  行館を起りて居ます。
  之を高嶋宮と曰ふ。
  三年積る間に舟檝を脩へ、兵食を蓄へて、
  將に一たび舉げて天下を平けむと欲也。
 
 「延喜式」神名帳 備前國邑久郡
 ◦安仁(アニノ)神社名神大
 「特選神名諜」
  安仁神社 備前國邑久郡
   名神大、
   祭神:五瀬命(潔云五瀬命と云ふは
          近年云出したる妄説なり)
   祭日:十月三十一日至十一月一日
   社格:國弊中社
   所在:藤井村宮城村(邑久郡大宮村大字藤井)
 
 ◦安仁「アニ」
 (Grk.)άνα(ana)、άναξ(anaks)、
    άνακτος(anaktos)の呼称
   ◦王、支配者、領主、主人、貴族、
  命令者、指揮者
  安仁神社は「久方(ひさかた)宮」
  と呼ばれてきた。
  久「クス」
  (Grk.)άναξ(anaks)のξ(ks)の転用
  ※このことから
   安仁神社とは「王 神社」の語義となる。
   同神社近くに、大王寺が建てられ
   地名となって残っているのも参考となる。
 
   ◦宮城山、(式内社調査報告)別名 鶴山「ツル」
  (Grk.)θυρα(thura)、
     θυρη(thuri、イオニア訛り)
     戸、扉、戸口、門
     ◦邸、宮殿:宮城
   宮城・鶴(つる)は同義で「宮殿」を表わす。
   よって安仁神社は"大王(王)の宮殿"を
   継承するもので、高嶋宮の位置である。
 
 藤井、宮城山のある地域で、旧村名、現大字名
 
 「フジ」
 (Grk.)ψως(phos)
    日、一日、
    ◦燃える火の光◦燈火◦眼の光◦眼
    アテネ神の「輝く眼」に対応する。
    〈久方(ひさかた)の「ヒサ」にも対応〉
 
 東片岡、西片岡
 (安仁神社のある西大寺一宮の西隣りの地区名)
 
 片「カタ」
 (Sk.)ketu 光、光輝、光明、燈火、指導者
 
 朝日(片岡にある字名)ketuに対応する。
 ketuに指導者の意味もあることからすると、
 片岡とは鶴山/宮城山を指している。
 
 滝神社(西大寺一宮)安仁神社の近くに鎮座」
 
 「タキ」
 (Grk.)ταγη(tagi)
    支配者、命令を下す者、戦列、前線  
 
   ◦邑久(おく)郡(古代~現在の郡名)
  「延喜式」民部省國郡表
  九条家本「オホク」
   ◦邑久郷「和名類聚抄」邑久郡のうち
  大化改新(乙巳の変)以前「大伯国」
 
 「オホク」「オク」
 (Grk.)ογκα(ogka)アテネΑθνα神の呼称
  ◦ογκαはまた「オンガ」とも訛り、
  遠賀:オンガ(福岡県)と係わり、
  この邑久・オクも崗水門の「オカ」
  (船の停泊地)であったかもしれない。
 
   ◦幸島「こうじま」(岡山市)片岡・邑久郷の西方
  水門湾お奥で現在水門町となっている地域は、
  元"幸島"と呼ばれる島であった。
  付近の地名 
   神崎(こうざき)、幸田(こうだ)、神崎町 
  ※その他 幸島・こうじま(笠岡市)
 
 「コウ」〈コフ〉
 (Grk.)κωπη(kopi) 
    櫂・カヒ、橈柄、
    ◦軍船(橈船)の寄泊地を
    「コウ」で表わしている。
 
 ※高嶋宮は一般に
  「タカシマ」と訓まれてきたが、
  「コウシマ」と訓む方が真実らしい。
  安仁神社と幸島は3㎞程の距離にあり、
  水門湾の呼称は崗水門(福岡県)と共通であり、
  この静かな湾内に
  軍船を停泊させていたものだろう。
 
  古代の当時は海域が東片岡、つまり
  安仁神社の麓辺りまで入りこんでいた。
  
  船の停泊には最も静かな
  安全地帯であったはずである。
 
  ◦高島・たかしま(岡山港近く、児島湾の島)
  高島神社(岡山市宮浦)
  高島に祭儀の跡を持つ
  高島遺跡があることから、
  この辺りに高嶋宮あったの説もあるが、
  同地はあくまで祭祀場にすぎず、
  軍団の停泊地たり得ない。
 
  祭祀遺跡の遺物は5世紀以降、
  その後半から6世紀前半が盛ん。
 
  ◦阿知〈上下〉(岡山市)邑久郡の東方
        西大寺一宮(安仁神社)の北方
 「アチ」
 (Grk.)Ατθη(Atthi)、Ατθις(Atthis)、
    Αττικη(Attikh)・アッチカ地方
  Αττικηはアテネを主祭人とする。
  ギリシャのイオニア人が建立した
  アテネを含む地方名
 
  ◦阿智郷(倉敷市)
   【古代】「和名類聚抄」
   備中國に浅口郷8郷の1つ。
   (現)倉敷市西阿知町
 「アチ」Ατθη、
 浅口郷「アサクチ」Αττικη(アッチカ)
 
 阿知〈倉敷市〉倉敷の古名 
        (現)倉敷駅の東付近
  阿智神社(倉敷市鶴形)鶴形山に鎮座(山頂)
   ※アッチカの祭神を祀る神社 
  足立神社 「延喜式」神名帳 備中國窪屋郡
  足立神社訓「アシタカノ」
   (現)倉敷市笹沖(旧名篠沖)
  「式内社調査報告」第二十二巻、p.424
   葦高宮、葦高大明神、葦高明神
 
 「アシタカ」
 (Grk.)Αττικη(アッチカ)
 
 「倉敷」
 (Grk.)κελεω(keleysma)
    命令、呼び声、掛け声
        κλησις(kliss)
    呼ぶこと、呼びかけ、呼び名
 
 「クラシキ」
 (Grk.)καλεω(kaleu)
        (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、
    ◦呼び掛ける、呼ぶ
 
 ※「神の名を呼ぶ」のは
  「神を尊崇する」ことであり、
   岡田宮(福岡県)、多祁理宮(広島県)の地名
   などに連なる性格である。
   これらのギリシャ語に従い、
   漢字を当てたももだろう。
   その延長に「児島」はある。
 
 「児島」コシマ、コジマ(倉敷市)
  【古代】「延喜式」民部省國郡表にみえる
   備前國8郷の1つ。
   九条家「コシマ」
   「和名類聚抄」の訓「古之末」
   「延喜式」神名帳 児嶋郡の訓「コジマ」
  ※倉敷市の当該地区はかって"島"であった。
   
 「児」の由来、
   「クラシキ」の語源に発音が近いギリシャ語
 (Grk.)κορος(koros)、κωρος(koros)
    少年、若者を意味し、「児」に相当する。
 ◎児島はこのような相互関係
  で生まれた島名地名である。
 
 箆取神社(倉敷市連島・つらしま西之浦)
  西阿知の南隣が連島地域
 
 箆「ヘラ」
 (Grk.)ηρης(hris)、ηρεες(hrees)
    橈柄、櫂(かい)
 「ヘラ取」櫂取、つまり「船の漕ぎ手」を表わす。
 船乗りの信仰が厚かったのはこの理由による。
 
 連島・つらしま(倉敷市)
 【古代】
 「和名類聚抄」備前國児島郡4郷の1つ。
        都羅郷の比定地、高山寺本
 豆良「ツラ」
 (Grk.)θυρα(thura)◦邸、宮殿」、戸、戸口、門
 ◦ 何時の時か、船乗りたちの親方などの邸宅が
  箆取神社辺りにあったものだろう。
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈②」 [日本創世紀]





日本創世紀




 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―



著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦


 《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈②」


 B.多祁理宮〔広島県〕:埃宮
 『古事記』
  古事記 中卷
   於竺紫之岡田宮一年坐 亦從其國上幸而 
   於阿岐國之多祁理宮 七年坐
   亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐
   其の地より遷移(めぐ)りて、
   竺紫(つくし)の岡田の宮に
   一年(ひととせ)坐しましき。
   また其の國より上り幸(いでま)して、
   阿岐(あき)の國の
   多祁理(たぎり)の宮に
   七年(ななとせ)坐しましき。 
   また其の國より遷り上り幸(いでま)して、
   吉備の高嶋の宮に
   八年(やとせ)坐しましき。 
 『日本書紀』
  卷第三 神武天皇(神日本磐余彦天皇) 
      即位前紀 太歳甲寅十二月
  ○十有二月丙辰朔壬午 至安藝國 居于埃宮
  ○十有二月(しはす)丙辰(ひのえ・たつ)の
   朔(ついたち)壬午(みずのえ・うま)。
   安藝國(あきのくに)に至り、
   埃宮(えのみや)に居(いま)しき。
 多祁理宮「タケリ」:"哮・たけり":
  大声でわめき叫ぶこと。
   "たけ・る"大声で叫ぶ、吠え叫ぶ
 (Grk.)θεο-κλντος(theo-klytos) 
     神に呼び掛ける
    θεο-κλντεω(theo-klyteo)
     神に呼び掛ける、祈る、祈り求める
    καλεω(kaleo)
     呼ぶ、呼び寄せる、招く、招待する、
     (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、
     呼び掛ける
 〔廿日市市の地名〕
 阿品「アジナ」
 (Grk.)Aθηνα(Athina)
    アテネ神、学問、技芸、戦いの女神
 平良・部良「ヘラ」【古代】平安期
  『和名類聚抄』種箆郷「タネヘラ」
 「タネ・ヘラ」
 (Grk.)τανα-ηρης(tana-hris)
    τανα-ηρης(tana-hrees)
    τανηρης(tanyhris)
    長い橈の船=三段橈船
 「タネ」
 (Grk.)τανος(tanaos)長い延びた 
    τανα-,τανυ-(修飾形) 
 「ヘラ」
 (Grk.)ηρης、ηρεες 橈、櫂(かひ)
 三段橈船 
 (Grk.)τρι-ηρης(tri-hris)
    τρι-ηρεες(tri-hrees)
    τριηρης(trihris)
 ※三段櫂船:
 可愛・河合・川井「かわい」
 【中世】鎌倉期にみえる地名。河井。
 「カワイ」 
 (Grk.)κωπη(kwpi) 橈柄・櫂(かひ)
 「カヒ」(日本語へ転訛)
  橈(かい)、小檝〔方言〕楫謂之橈
 ※清代陳昌治刻本『說文解字』
  【卷六】【木部】楫
  舟櫂也。从木咠聲。子葉切
  清代段玉裁『說文解字注』
  所㠯擢舟也。各本作舟櫂也。許無櫂字。
  手部曰。擢,引也。
  楫,所以引舟而行。故亦謂之擢。
  而漢書劉屈氂傳,外戚傳,
  百官表皆用輯濯爲楫擢。假借也。
  毛衞風傳曰。楫所以擢舟也。此許所本。
  今據以正。今毛詩擢譌櫂。
  淺人所改也。鄧通傳。以濯船爲黃頭郎。
  司馬相如傳。濯鷁牛首。
  皆擢舟之義也。詩爾雅音義引說文舟棹也。
  則其誤久矣。棹又櫂之俗。
  從木。咠聲。子葉切。七部。方言曰。
  楫謂之橈。或謂之櫂。
  櫂亦擢之譌也。擢櫂正俗字。方言集汇粤语
 ※多祁理宮のあった位置について
  多家(たけ)神社(延喜式神名帳)の
  多家が多祁・理に近いことから、
  現在安芸郡府中町に想定されているが、
  上記の解釈から、
  廿日市市の可愛川両岸辺りに
  あったものと考える
  当地は佐伯郡内で、
  佐伯氏は大伴氏と同族であり、
  "東征"の際指揮を執った
  日臣/道臣を祖としており、
  当地に勢力を7年に亘って養った
  遺称と考える。
  可愛川上流(内陸)、
  上平良には速谷神社が鎮座し、
  国府が最初に置かれた所である。
 ※同地の海向いに厳島神社
  『延喜式神名帳』
   伊都伎嶋(イツキシマノ)神社名神大・
   安藝國佐伯(サエキ)郡が鎮座し、
   宗像神社の祭神・
   多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫の三神が
   奉祭されているが、
   その内の「多紀理姫神」名は
   多祁理と同根語と考える。
   これらの固有名は
   巫女の三つの性格から採った名称で
   「イチキ」は「イタコ」、
   「タキツ」は「田心」と表記されるように
   英語の dance (踊り) と同じく
   巫女の舞い姿を
   そして
   「タキリ」は「神に呼びかけ、神を招く」
   というもの。
   その「多紀理姫神」を祭る神社の近くに
   「多祁理宮」があったとして
   何らかの係わりを考えさせる。
 ※「ヘラ」箆:"へら"とは
  竹片を細長く平たく削ったものをいう。
  (へら)はギリシャ語から日本語へ転訛した。
 ※古代ギリシャにおいては
  長い船は軍船を用いた商船を表わす。
 佐方「サガタ」「サカタ」
 (Grk.)θυγατηρ(thugatir)娘、
  アテネ Aθηνα神は
   処女神として知られる(パルテノン)
 ◎埃宮『日本書紀』
 埃:アイ〔集韻〕於開切 ai'、
   チ・ヂ〔集韻〕直几物
   ◦ほこり、すなけむり、もや
 
 ※この名称が"ほこり"の意味から
  付けられたものでないことは明らか
 「アイ・え」
 (Grk.)αϋω(ayo) 
     叫ぶ、大声で呼ぶ、鳴り響く、轟く
     "大声で呼ぶ"は多祁理
     (哮たけり:大声でさけぶ、
    θεο-κλντος
     「神に呼びかける」)と同義となる
     ◦ 但し、
      埃は「火+矣」 の誤記か誤用であろう。
  「火+矣」:アイ〔集韻〕於開切、
       キ〔集韻〕虚基切 
       ◦輝く、焼く、熱い
   〔玉編〕「火+矣」 、炫也、
   〔集韻〕「火+矣」 、一日、熱甚、
       炫:ケン・ゲン 
       ◦ひかる、輝く、光が上がる、
        照らす、輝き、火の海
 「かがやき」
 (Grk.)γλαυκος(glaukos)
     輝く、光沢のある、明るい
    Γλαυκος(Glaukos)
     船乗りの守護神
    Γλαυκος ύ Πουτιος 
     〔Glaukos u Pontios〕 
     として知られる、つまりアテネ神
     γλαυκ-ομματος(glauk-ommatos) 
     碧い眼の、(あるいは)輝く眼の
    γλαυκ-ωπις (glauk-opis)
     アテネ Aθηνα〔Athina〕神の形容、
     輝く眼のあるいは碧い眼の、を説明 
    γλαυζ(glauks)、 γλαυκος 
    (glaukos)コシキメフクロウ
 福佐売(フクサメ)神社(廿日市市可愛)
  『三大実録』廿二 佐伯郡 榎本連福佐売
 「フクサ」
 (Grk.)ψεγγος(pheggos)
    ψεγγους(pheggous)
      光り、輝く、(特に)太陽の光、眼の光、
     燈火
 「メ・売」"女"あるいは"眼"
 「フクサ・メ」"かがやく眼"または"かがやく女"で
  「輝く眼の女(神)」、
  つまりアテネ神よりなった名称
 ※阿品、佐方はアテネ神に係わる地名である。
  また平良・可愛は橈船にして
  軍船に係わる名称で、
  アテネ神は軍神にして船乗りの守護神である。
  <アテネ・ニケ 勝利の女>
 ☆多家神社
 『延喜式』神名帳 安藝国安藝郡
  訓「オホイヱノ」「オホイヱ」「オホノミ」
  「式内社調査報告」第22巻 619頁
 〔社名〕
  多家の訓については諸説あるが、
  明治7年現地に鎮座されて以来、
  もっぱらタケと呼ぶ、
  現地に鎮座される以前の所在は
  後述するように厳密には不明で、
  その訓は
  九条家本には「オホイヱ」、
  武田本には「オホイヱノ」と
  傍訓を付する。
  また
  吉田家本は「多氣神社」と誤寫し
  「氣」傍書して「家」と訂正し、
  「オホイヘノ」と訓じている。
  近世、
  伴信友人神名帳考證は
  これらの古訓に忠實に従ひ
  「オホイヘノ」の傍訓を付し、
  度會延經『神名帳考證』が
  多家に「タケ」の訓を付し、
  土佐國安藝郡多氣神社(式内社)を
  「タケ」と呼ぶことを援用してゐるのは
  穏當である。
  また
  廣島藩府編集『藝藩通志』巻39、
  祠廟も多氣の古訓がいかにあるべきかを
  種々検討して
  結局「タケ」と訓むべしとしてゐる。
 〔所在〕
  廣島県安藝郡府中町上宮の町二〇九一番地
  〔A〕この所在地は
  事項の論社の問題の結果として
  明治7年4月鎮座された場所である。
 ※「多家」の訓は
  「オホイヱ」か「タケ」か確定されていない。
 ※同神社の鎮座地が
  どこであったか確定されていない。
 ◎「多家」は「多祁理」とは
  全く語源が異なり関係はない。
 多祁理「タケリ」:哮・たけり/たけ・る:
         大声で叫ぶ
 (Grk.)θεο-κλντος(theo-klytos) 
     神に呼び掛ける、祈る
 多家「タケ」
 (Grk.)ταγη(tagi/tage)
     支配者、命令を下す者、戦列・前線
    ταγος(tagos)指揮者、支配者
 
 ※多家神社の所在地が
  多祁理宮のあった所とは必ずしもいえない。
  特に多祁理宮を
  現在の府中町に想定することは、
  速谷神社の鎮座理由からして不適当。
  安藝國の立国時の政治的中心地は
  現在佐伯郡にあったことは
  明らかであり、
  後の國郡制が設けられる時に至って
  府中町方面にその中心が
  移転したものとみられ、
  多家神社はその時代からの鎮座と推測される。
 「オホイヱ」「オホイエ」
 (Grk.)οιαζ(oiaks)、αιάκος  
     <舵、舵柄>の転訛か?
 ◎多祁理宮の比定地
 (1)廿日市市廿日市高州
 高州「タカス」
 (Grk.)ταγος(tagos) 指揮者、支配者
    高洲とは表記されないので砂洲ではない。
 (2)廿日市市  
   
 峰高「ミネタカ」(旧名)宗高尾「ムネタカ・オ」、
  尾は七尾というように丘陵の尾根の意味
 「ミネ」・「ムネ」
 (Grk.)μενο(meno) 
    μενεμεν(不定詞、叙事詩menemen)  
    μενησι(menysi三人称単数) 
  ◦持ち堪える、(特に戦いで)踏み留まる、
   (攻撃に)耐える
 「タカ」
 (Grk.)ταγη(tage)
     戦列・前線、支配者、命令を下す者
 「ミネ・タカ」
  戦いで踏み止まっている前線
  戦いの前線で踏み止まっている支配者
 ※(1)、(2)とも
  東征の前線に駐屯した支配者の駐留地として
  適しい遺称といえる。
  M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」 [日本創世紀]



日本創世紀


 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦


 《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」

 A.岡田宮〔福岡県〕
 
 『古事記』
 於筑紫之岡田宮一年坐。
 亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。
 亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。
 
 『日本書紀』
 神日本磐余彥天皇 神武天皇
 十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。
 十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。
 
 遠賀・崗・岡「オカ」
 (Grk.) όχος 乗物・船・車輪・車(οχος)  
  岡湊神社 芦屋町、船頭町
  「オカミナト/崗水門」(Grk.) όχος
  ◦容れるもの⇒船の停泊地
  (Δωμάτιο του πλοίου)
  Πού να πάρετε ένα πλοίο
   船を容れる所
   νηωγ、Πλοίο(舟)の属格「船の」
 
  ※湊(港)の語義で「岡湊」は音写と語義に
   より生み出した用語
 
   船頭町(芦屋市昭和41年からの地名)は
   岡湊神社の鎮座地だが、古くから
   この地の字名として用いられた場合
 
   「オカ」はοίαξ(οίακσ)、αίακος
   双方とも「船」で、この音写でもある。
 
 芦屋「アシヤ」
 (Grk.)οσία(οςία、イオリア訛り)神の掟
    όσίος(οςίος)◦敬神の、聖な、信心深い
          ◦神を祀ること、祭儀、祭式
 
 島津(しまづ)・島門(シマト)「シマト」
 (Grk.)θαημαστης(thaymasths)
      賞賛者:尊崇者・崇拝者
        θαημα(thayma),
        θαηματος(thaymatos)
      驚き、驚嘆、不思議
       θαημα(thaymazw(o)),
        θαηματος(thaymasw(o)) 
     驚く、驚嘆する。
     ◦敬意を表す
     ◦尊ぶ、尊崇する、尊敬する
 
 鬼津(オニヅ)
 (Grk.)αναξ(anaks),ανακτος(anaktos)
    王、支配者、領主、主人、貴族、命令者
 
 浅木・朝木「アサキ」
 (Grk.)Aττικι(Attiki)アッティカ
   アテネ神を祭神とするアテネの町のある地方
 
 鞍手「クラテ/クラジ」
 (Grk.)καλητωρ(kalhtew(o)r)
        (大声で)呼び叫ぶ人<神に祈る人、祭官
 
    καλεω(kalew(o))
    (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ 
    ◦呼ぶ、呼び寄せる、呼びかける
    ◦招く
 
    θεο-κλυτος(theo-klutos)
    神に呼び掛ける
 
    θεο-κλυτεω(theo-klut(o))
    神に呼び掛ける、祈る、祈り求める
 
 岡田・宮「オカタ」
 (Grk.)οχθη(oxthh)高み、川岸、川堤
    οχθος(oxthos)高み、丘、塚、川岸
  ※この用語から宮の置かれた場所は
   遠賀川の川岸に近い小高い丘(崗)で
   あったと推測される。
  ◎遠賀川右岸浅川台の字名に「岡田」がある。
 
 広渡・ひろわたり「ヒロト」
 (Grk.)Παλλαδος、
    Παλλας 
    Aθηνα女神の異称
    〔Pallados〕〔Pallas〕
    浅木の北隣りで遠賀川の川下に接している。
 
  M.K記

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あとがき [日本創世紀]




日本創世紀



 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―



著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《終章 卑弥呼の「倭錦」
《あとがき》

 本書は、
 研究及び記述の理解を容易にするために、
 参照した資料名は
 本文中に記載する方針で進めてきました。
 
 だが、
 以下の史料名は載せていないので
 ここに記します。
 
 一、漢訳対照 梵和大辞典
   〔鈴木学術財団編〕講談社
 
 一、ギリシャ語辞典〔古川春風編著〕大学書林
 
 一、Zeichenliste der Archaishen Texte aus Uruk
      [Green und HansJ.Nissen von unter Mitarbeit 
    von Peter Damerow und Robert K.Englund]
      Gebr.Mann Verlag,Berlin
 
 一、シュメール人の言語・文化生活〔飯島紀〕
   泰流社
 
 また、
 下記の地名の歴史的解釈を
 全国的規模で纏められた資料は
 極めて貴重で、
 編集に当たった出版社はもちろん、
 全国各地の郷土史を担った方々には、
 その努力に敬意を表します。
 
 一、角川日本地名大辞典〔角川書店〕
 
 一、日本歴史地名体系〔平凡社〕
 
 さて、本書に述べた関連資料は、
 ほとんど各地の図書館で入手したものです。
 
 とくに文教大学図書館〔埼玉県越谷市〕は、
 一般の人々(学生以外)に公開されており、
 
 著者は1999年から2013年の13年間にわたり
 毎週2、3回は訪問し、
 数多くの貴重な資料を閲覧させてもりました。
 
 とくに『商周甲骨文總集』など、
 中国で出版された
 甲骨文や金文(青銅器の刻文)の
 全集を調査した際には、
 1ヵ月くらい毎日出向いて
 それらを総覧させてもらいました。
 
 同大学の図書館に公開方針があったからこそ、
 本書『日本創世記』の大半は
 完成の運びとなりました。
 
 同大学の公開方針に厚くお礼申し上げます。
 
 さらに、草加市立図書館〔埼玉県〕の現場で働く
 みなさんにお礼申し上げます。
 
 相談カウンターで、著者の資料さがしに
 根気強く相手して下さった
 
 橋本さん、上岡さん、岩崎さん、
 礒さん、大塚さんに感謝します。
 
 この方々のおかげで、
 求める資料はほとんどが入手できました。
 
 そして、 
 なんといっても
 歴史学講座「創世」にお出でいただいた
 みなさんに感謝申しあげます。
 
 「創世」には、5年、4年と
 毎月ご出席くださっている方々をはじめとして、
 これまでの10年余りで500名にのぼる方々が
 参加されました。
 
 外部の支援を求めたことのない当講座が、
 こうも長年継続できているのも、
 参加者の皆さまのご支援があったればこそと、
 ここに改めて感謝の意を表します。
 
 本書の出版も、
 
 「おまえの述べているのを
  参加者仲間だけのものにしておくのは
  もったいない。
  本にして広くに伝えるべきだ」
 
 との参加者のお一人、
 谷口栄志さんの助言にしたがって始まり、
 多くの方々が「それがよい」と
 賛同して下さった賜物で、
 誠にありがたき幸せです。
 
 最後になりましたが、
 本書の出版を引き受けてくださった
 績文堂出版のみなさんにお礼を申し上げます。
 
 なにしろ
 甲骨文字、金文など中国の古典に使われた、
 現在では死文となった文字など、
 活字をそろえるのもたいへんな
 作業だったわけで、
 そこを忍耐強く進めてくれた
 石井秀樹さん、小林隆さんらの
 ご苦労は貴重であります。
 
 本書が、
 日本古代史に興味と関心をお持ちの
 多くの方々の目に留まることを願っております。
 
  2014年11月
 
    小嶋秋彦
 
 追記:
 上記の『日本創世記』の書籍を
 ブログ『歴史創世 Rekishi Sousei』にUPされた
 『歴史学講座』創世の参加者の一人
 金原政敏さんに深くお礼申し上げます。
 
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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終章 (8)倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」② [日本創世紀]




日本創世紀


 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《終章 卑弥呼の「倭錦」
 (8)倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」②
  彼は述べる。
 
  神の世界にみられる集会は
  広い民主的基礎に依拠している。
  アダト神の神話を参照すると
  「全神の集会」で、
  参加には性別の制限はなく
  女神たちも男神たちと同様に
  その討議で積極的な活躍ができた。
 
  メソポタミアの最高の権威は
  この神々の集会にあった。
 
  そこに述べられている男神女神の区別はなく
  全員が参加するとの仕方は、
  倭人伝「男女無別」と記すのに合致する。
 
 ジェイコプセンは
 詩歌をかなりたくさん紹介しているが、
 その中に次のような詩句がある。
 初めの部分はその解説である。
 
 集会は常に ubshu-ukkin と呼ばれる
 大きな所で開催される。
 
 神々が到着すれば
 同様に参会のため遠くからやってきた友人や
 縁故者と会い抱擁し合う。
 
 その守護された場所で
 神々は高価な料理を囲んで座る。
 
 ワインや強い酒がすぐに彼等を
 幸福な気遣いのいらない雰囲気にする。
 
 畏れも心配も消え失せる。
 
 こうして会合はより重大な事項に
 取組む用意ができる。
 
  彼等は発言を決めて宴会の場に坐す
 
  彼等はパンを食べ飲酒する
 
  甘い酒は彼等の恐れを追払う
 
  彼等は強い酒を飲むに従い喜びを歌う
 
  彼等は極まって陽気となり心は高揚する
 
  こうして彼等の闘士マルドックに向って
 
  彼等の厳粛な決定を布告する
 
 この様子は倭人伝の「会同」記述の終わりに
 
 「人性嗜酒(倭人は酒をたしなむ)」
 
 とあるのに整合しており、
 その「嗜酒」は
 単に飲酒が好きだというのではなく、
 集会においては飲酒しながら
 相談を進めるとの趣旨で、
 メソポタミアの仕様が踏襲されたものである。
 
 この集会は ubshu-ukkina と呼ばれる
 大きな定められた場所で開催されるという。
 
 その ukkin(a) こそ
 シュメル語の「集会」「会議」名である。
 
 『古事記』の天石屋戸の条に
 
 「是を以ちて八百萬の神、於天安之河原、
  神集て、訓集云都度比」
 
 とある。
 
 『日本書紀』には
 天照大神と素盞鳴尊の誓約の場で
 
 「一書曰はく、
  日神素盞鳴尊と天安河を隔てて、
  相對ひて乃ち立ちて誓ひて曰はく……」
 
 とある。
 
 「神道大辞典」には
 
 「アマノヤシカワ天安河、高天原所在の河、
  天八湍、天八十河とも書く、
  群神の集会は多く此の河畔で行われた」
 
 とある。
 
 これらの用語を「神々の集会」の祖地
 シュメルの用語として解釈すると、
 
 まず「安河」は音読で
 「アンカ」で明らかに 
 unken の音写である。
 
 「アマ:天」は 
 an-mah〔天・高い〕で
 「高天原」表記に対応する。
 
 「都度比:ツドイ」は 
 za-dug〔人-たくさん〕で
 「たくさんの人」 が基である。
 
 「安之河原」の「カワラ:河原」は
  ka-bal〔口-交換する〕で「会話する」、
 「安:ヤス」は 
 is〔地〕で「(会話する)場所」
 とすることができる。
 
 このように
 「神々の集会:神集い」は
 メソポタミアが祖地である。
 
 「神無月」「神有月」と
 年に一度神々が集会を開くとの伝承がある
 出雲〔島根県〕にも、
 出雲大社の所在地に「宇迦」との山名地称があり、
 ukkin〔集会〕名が与えられており、
 大社の所在地は
 本来神々の集会の場だったのである。
 
 アズミ族の領域奴国にも集会場はある。
 
 「宇賀神社」〔福岡市中央区大宮〕で
 「宇賀」が ukkin に依る。
 
 なぜそう解釈できるかの理由は
 同社を「高宮」といい、
 周辺に「多賀」との地称が連なるからである。
 
 その「タカ」は
 倭名抄筑前国那珂郡田来郡名を継承するもので、
 dug〔壺〕の音写に依る。
 
 前述した集会の際神々は酒を飲む。
 
 倭人伝の「性嗜酒」とある飲む酒を
 入れておく容器名で、
 この壺は単なる土器製の容器ではなく、
 特別なシュメルでは sakir と呼ばれた。
 
 現糸島市の元岡遺跡から発掘され、
 現在同市の伊都国歴史博物館に所蔵されている
 
 「ひょうたん型土器」 といわれている
 
 瓢を立てた頭部には穴(口)はなく、
 太く脹らんだ胴部に
 大きな穴(口)が開けられている壺である。
 
 この壺は高さが31、
 胴幅22センチメートルの大きさで、
 完全なまま出土したのはここだけで
 その外
 福岡市内の那珂遺跡や
 壱岐のカラカミ遺跡から
 破壊されたものが出土している。
 
 また、
 遠く離れた奈良県桜井市
 三諸山の山の辺遺跡から
 小型ながら概念を同じくする胴に
 大きめの穴が開けられた壺が出土している。
 
 集会の際にはこの器に
 お酒「御神酒」を入れ、
 細い筒〔ストロウ〕を
 穴に差して回し飲みにした。
 
 そうすれば、共同意識が高揚する。
 
 この壺〔タカdug〕が集会に用いられる 
 sakir である。
 
 『古事記』に「安之河原」との表記があった。
 
 「安:ヤス」を「場」との解釈を示したが、
 漢字表記の「安」には興味ある事件がみえてくる。
 
 「安」は第2章(9)の(c)斯馬国」で述べた
 「安野」〔福岡県朝倉郡夜須町〕名と
 「夜須」と同称視される。
 
 実際、
 その周辺に「安川(河)」はある。
 
 現在、
 甘木市内を流れる小石原川は
 「安川」であったらしい。
 
 市名「甘木」にしても前述の通り 
 an-mah 〔天・高い〕で
 「アマハ(き)」である。
 
 その中心市内の甘木地区に
 「須賀神社」が鎮座しており、
 
 同名も集会のための酒器名 
 sakir と判断でき、
 ここで何らかの集会が行われたと教えられる。
 
 どいいう集会かは須賀神社近くに
 「屋須多神社」が鎮座していることで明白である。
 
 同名社は大牟田市八本町付近特有の神社である。
 
 つまり
 邪馬臺国の卑弥呼を傍国の国々の首領が
 参集して相談の上、
 統合の巫女とすることを決めた
 集会の場がここである。
 
 集会での決議後それを記念してか
 卑弥呼の祭場名の聖所を
 ここに奉祭したと判断される。
 
 安川(小石原川)も
 古代には今よりかなり野放図な流れで幅も広く
 須賀神社の鎮座地辺りまで
 「河原」であったのだろう。
 
 邪馬臺国の卑弥呼を〔共和国〕共通の「巫女」と
 決定した首領の一人として、
 夜須町(斯馬国)の長者〔大人〕の様子を
 第2章で紹介したが、
 もう一国の参同者を紹介する。
 
 傍国の斯馬国に
 次いで二番目に記されている国
 「巳百支国」で、
 同国の当該地は
 現嘉穂郡穂波町の「椿」名の地である。
 
 平安時代には今の地名区域に限らない広域が
 「椿荘」との荘園であった。
 
 「巳百支」は漢音で si-pai(po)-gi で
 「ツバキ」はその遺存名といえる。
 
 隣りの桂川町内に「寿命」との町名がある。
 
 これは 
 za-maha〔人・大きい(上位の)〕の音写で、
 「斯馬」 名と同根である。
 
 倭人伝に「大人」とある語義で、
 そこに「首領、長者」がいたと示唆している。
 
 その隣りの地称「中屋」は
 夜須町の「中屋:ナカツヤ」と同じく
 na-gadu-e 〔神殿の神職を指名する〕により、
 「巳百支」国の首領も斯馬国の首領と共に
 「安之河原」の集会に参加し、
 卑弥呼の推薦で活躍したのである。
 
 そして、
 そ の意向が是認されたので、
 その由縁をもって同地に
 「天道」〔寿命の東隣の地称〕と
 邪馬臺国の太陽信仰を
 招来させたと推測されるのである。
  M.K記

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終章 (8)倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」➀ [日本創世紀]





日本創世紀






 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―




 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦


  


《終章 卑弥呼の「倭錦」
 (8)倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」➀
  倭人伝を注意深く読むと
 倭人及びその社会の性格がみえてくる。
 
 まず「風俗不淫」とある。
 
 これを東洋文庫は
 「倭人の風俗は規律正しい」と読み下している。
 
 確かに大漢和辞典が「淫」字の語義として
 「みだれる、みだす」と上げているので、
 その否定として「みだれない」となり、
 その品性が公正であると説いていると理解できる。
 
 また「婦人不淫不妬不盗」とある。
 
 こちらの「淫」は性的な品行をいい
 
 「婦人はみだらでなく嫉妬もしない」
 
 との意味だが、
 「不妬」はあまり信じられない。
 
 重要なのは「不盗」とある記述で
 「盗難がない」と理解される。
 
 この「品行公正」「不盗」は
 完全でないにしても現代20世紀まで
 日本人が公明正大との社会通念として
 体現してきた気風であった。
 
 21世紀に入った今日、
 そのような風潮は危機に瀕している。
 
 更に重要な記述がある。
 
 「其會同座起父子男女無別人性嗜酒」
 
 と述べられていることである。
 
 紀元前後には倭では社会習慣として
 「集会〔會同〕」が行われていたのである。
 
 本書第2章(9)の「(b)弥奴国」で
 吉野ヶ里遺跡には
 祭壇と大きな建屋はあっても、
 それは「王宮」ではないと説明したように、
 国々は住民による会合を行っていて
 大きな建屋は
 そのためのものであったとみられる。
 
 「会同」とは
 現代中国でも常用している
 「共同する」との用語で、
 倭人伝の文面からすると、
 それは「集会」である。
 
 東洋文庫はそこを
 
 「集会では座席の順序や立ちふるまいに
  父子や男女による区別はない」
 
 と読み下している。
 
 この部分の解釈については、
 倭は未だ未熟(未開)な社会だから
 出鱈目に
 座ったり振る舞っただけだとする向きが
 これまでの見方としてあるが、
 それは妥当としない。
 
 その一般生活の習慣として、
 「大人所敬〔大人(有力者)に対して
  尊敬を示す法〕」や
 
 「下戸興大人相遥道路~
 〔下戸(下級の者)が
  大人と道で出会った場合〕」の
 
 作法との説明があり、
 この「集会」においての仕方は
 全く独特であり、極めて特筆に値する。
 
 そこに指摘されている内容は
 「男女の差別がない」
 「父子といった社会的序列もない」という。
 
 座る者〔参加者〕は
 一切「平等」という仕様である。
 
 こうした集会は祭壇の近くで、
 あるいは巫師の同席の下行われたに違いない。
 
 つまり神の前との観念である。
 
 それは「神社」の思想でもある。
 
 日本では現代に至っても
 神社の氏子制は継続されている。
 
 江戸時代でさえ
 徳川将軍も神田明神や日枝神社の
 一氏子であった。
 
 歴史の実際として
 「氏」は漢字として「家・家系」だが、
 
 本来の「ウジ」
 シュメル語の 
 uzu 〔占い師:巫子〕による表現で、
 その巫子に信頼し従う人々を
 「氏子」といったのである。
 
 巫子は「ヒメ」であったと既に説明した。
 
 繰り返すと「ヒメ」 
 pa-me 〔呼ぶ‐神託(神の命令)〕が
 その役務であった。
 
 「氏子」とはその
 「集団(集落など)が奉祭する
  神の命令に従う者たち」
 である。
 
 それも
 問題を直接的に神に伺いを立てるのではなく、
 前もって氏子たち構成員たちが
 集会を開いて相談しあい
 決定を得られた場合はそれで済みとなるが、
 意見対立でどうにも纏まらない場合に限り
 巫子を通して
 神託を受けるための神事を行ったのである。
 
 つまり
 物事は神前での平等を基礎に
 決められていたのである。
 
 そういう社会状況下、
 卑弥呼は倭の共和国全体の最高の
 巫子(女)であったのである。
 
 倭人には「集会を開く」社会習性があった。
 
 それは日本文明の特性として涵養され続け、
 後代の「惣」を生む状況を作った
 重要事項であった。
 
 その祭壇は「神社」として確立され、
 その体制は
 現在世界に類をみない
 博愛共生の思念となっている。
 
 それは神道などではない
 
 「神社」の思想である。
 
 さて、
 倭の人々の集会も
 「神々が集会を開く」との神話伝承に
 影響されたかとみられる。
 
 その神話の発祥地はメソポタミアであり、
 アズミ族によってもたらされたのである。
 
 「神々の集会」となれば
 一神教では成り立たないし、
 その社会文化の中に同様な集会を行う
 慣習がなければ
 神話にまで止揚されなかったろう。
 
 一神教のキリスト教とは縁がないし、
 多神教といっても
 ギリシャ神話ではたくさんの神がいるものの
 
 ゼウス神という
 絶対的権勢を持つ神が
 支配しているので集会はない。
 
 『旧約聖書』の世界の「主〔神〕」は、
 世界に多くの神はいようが、
 
 「あなたたち(ヘブライ人たち)は
  わたしと契約したのだから、
  わたしはあなた方の「主」であり、
  わたしのいうことに従いなさい」
 
 という主旨で、
 
 人々の集会を求めないし
 神々の集会など想定されない。
 
 これに対し、
 メソポタミアの特定の神話では、
 「創世」の最初期から神々が集会を開いて
 決定したとの物語があるし、
 「人々の集会」
 「神々の集会」へと
 その決議経緯がみえる物語として
 遺存されている。
 
 まず
 「アトラ・ハシース物語」の人間のからむ
 物語を紹介する。
 
 前項「(7)アズミ族の正体」で紹介した
 
 『メソポタミア』の著作家
 ジャン・ポテロの別の著書
 『バビロニア』〔創元社〕によると、
 
 この物語が粘土版に
 楔形文字で書かれたのは
 紀元前1800年頃という。
 
 人間のいない神々だけの社会が原初にあり、
 下級の神々はその重労働に耐えられなくなって
 上級の神と同等でないのは不当だと抗議して
 ストライキを始めてしまったという。
 
 そうした大混乱の中、最も智恵のある神が、
 粘土で神々で似た者たちを創り、
 それに労働させようと
 神々の身代わりを作るとの方策を提案した。
 
 身代わり者の運命には諸条件が付帯されたが、
 この案は神々の全体会議で
 満場一致で可決されたとある。
 
 身代わりの者こそ人間であの創世の物語である。
 
 その詳細はさておき、
 神々が会議〔集会〕を開き
 重大事項の決定を行ったのである。
 
 神々がただ参集することにそう意味はないが、
 「決議(決定)」機能がそこにあった。
 
 これは
 古代メソポタミアの人間社会にあったことが
 想定される
 
 重大事項として認識されるべきである。
 
 さらに
 この「神々の集会」の状況や
 決議に至るまでの過程を
 粘土版の資料から紹介して
 「原始民主制」と主張した
 トゥル・ジェイコプセンの著書に詳しくみる。
 
 彼の研究は『西洋古代史論集』や
 『世界の歴史』〔岩波書店〕などに
 翻訳されている。
 
 彼はまず市民の集会が行われていたからこそ
 「神々の集会」が
 伝えられているのだとの見解を述べている。
 
 その著書 
 Praimitive Democracy in Ancient Mesopotamia 
 から興味ある要点を指摘する。
 
  M.K記

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終章 (7)アズミ族の正体 [日本創世紀]



日本創世紀



 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
 (7)アズミ族の正体
  
 第2章の「(6)奴国」で紹介したように、
 族名「アズミ」は es-ma 
 〔家-船:屋船〕に依る。
 山海経の「天毒」にある
 「其人水居」に適しい典型的な
 「海人YMYT」である。
 アズミ族は
 そのインド〔天毒〕からの
 渡来海洋人だが、
 邪馬臺国のアーリア人系とは
 全く別の系譜の人々で、
 その祖名をヤーダヴァ族という。
 紀元前1500年頃
 北方ヒンズークシ山脈を越えて来た
 牛飼いのアーリア人とは文化の違う
 紀元前5000年頃から
 メソポタミアからインド、
 太平洋のインドネシア諸島の方まで
 流浪していた海洋族である。
 彼等は
 インド亜大陸の西北部インダス川と
 ビンダヤ山脈の間
 アラビア海岸のシンドから
 デリー・マルワ一帯に勢力を広げていた。
 彼等は単なる流浪者ではなく、
 各地方間の交易も開拓していた。
 特にメソポタミアとの間にも
 同地に根強い根拠地を設け
 海路を積極的にインド方面の物産を
 ペルシャ湾を通し輸送した。
 紀元前1800年頃の
 アッカド王シャルルキン王碑銘には
 インド方面からしか得られない
 孔雀や紅玉、黒檀などの品目が
 輸入品目名として刻まれている。
 それより古いメソポタミアの
 シュメルの言葉に貿易相手先地名として
 「メルッハ」名があるが、
 同語は me-lulu-ha 〔土地‐人々‐魚〕で
 「魚人の地」である。
 Lulu は「人」の複数形である。
 上記した
 インドの現在の地方名「マルワ」は
  ma(me)-lu-ha〔土地‐人々‐魚:魚人の地〕と
 「人」が単数形で構成されている。 
 ヤーダヴァ族が建てた国「マッラ」は
 倭人伝の「末廬国」の祖語とした 
 madhura〔甘い物〕を首都にする国だが、
 サンスクリット語で「魚」である 
 matsura 名に依り、
 古代の主要国の一つであった。
 ヤーダヴァ族は
 インド神話に天下分け目の大戦、
 インドプラスタの戦いに敗れ、
 次第にアーリア人に圧迫され衰退していった。
 
 終末期の王は
 クリシュナ〔マハーカーラ:大黒〕といい、
 彼は最後の守城として
 サウラシュトラの海に
 ドヴァラカーという門を
 いくつか備えた城を造るが滅亡し、
 城は海に没してしまったという。
 現在その西北端に 
 Dwarka との町名が残っている。
 「海に没した」とは、
 そこを離れ
 海の中(向こう)に消えてしまったとの
 意味が隠されている。
 彼等が行き着いた先が
 現博多湾の周辺である。
 『古事記』に「綿津見の宮」、
 『日本書紀』の「海神の宮」 の祖形が
 ドヴァラカー城で、
 そのキラキラ輝いていた様相を
 『古事記』は「鱗のごと」といっている。
 その「鱗」が lu で、
 いわゆる「龍宮」とは
 その用語を負わせてた呼称である。
 綿津見の宮、龍宮の伝承にしても
 一切「龍:大きい蛇」は出てこない。
 ヤーダヴァ族はアズミ族の名で、
 その基になっているサンスクリット語中の
  yadas は
 「大きな水棲動物」で
 多分アーリア人には「海の怪物」と
 解釈されたが、
 その祖王(族)名の 
 yadu の基語である。
 Yādava は「yaduの子孫」が語義である。
 誠に「水居」を背景に持つ族類ではある。
 この yadas 、
 単に魚のように水中にいただけでなく、
 陸上においても存在していたのが実際で、
 陸上水中〔海中〕双方で生息できた。
 海洋族そのものである。
 さて、
 水陸を生活の場にした者たちの伝承が
 メソポタミアにある。
 ジャン・ポテロの
 『メソポタミア』に紹介されている
 「オアネス」伝承がそれで、
 少々長いがその翻訳本
 〔法政大学出版局〕から紹介する。
 この神話は当初の姿では残っておらず、
 また正確な内容もわからない。
 部分的ながら復元してみる必要がある。
 まず第一に、前300年頃
 「バビロニアのベール神官」をしていて、
 この古い歴史を持った国の
 「哲学」と歴史との要説をギリシャ語で
 著したベロッソス(Berossos)自身の
 スケッチに頼ることにしよう。
 彼は説明する。
  バビロニアにおいては、
  数多くの人間がよそからカルディアの地
  (メソポタミア南部の、
   ペルシア湾に隣接した地域)
  にやって来て住み着いたが、
  彼らは動物と同様の粗野な生活を送っていた。
  最初の年に、
  紅海からやってきたオアネスという
  名の異様な怪物が、岸辺に現れた。 
  彼の身体は全体として魚のそれであったが、
  頭の下にもう一つの頭が挟み込まれていて、
  それは人間の頭であった。
  足の陰にも人間の足と同じ足が見えた。
  この姿を人々は記憶にとどめていて、
  今日でもそれを再現した像を作っている。
  この生き物は、人間の間に混じって、
  食物を何も採らず日々を過ごし、
  人々に文字、あらゆる種類の科学と技術、
  町の建設、神殿の建造、
  判例の集成、幾何学を教えた。
  同様に穀物(の栽培)や
  果物の収穫などについても明かした。
  要するに、
  彼は人々に文明生活の基本となる
  全てを授けたのである。
  それが完璧であったがために、
  それ以来人々は(この問題に関して)
  これ以上素晴らしいものに
  遭遇することはなかった。
  日没時には、
  オアネスという名のこの怪物は、
  夜を過ごすため水の中に身を沈めた。
  彼は水陸両棲生物だったからである。
  後になって、
  同じような別の生物が現れた……。
 同書はまた、ベロッソスの記述として
 「やはり紅海からやって来た魚人」が
 存在して合計で7人いたといっている。
 その7人は神話で
 「7人の素晴らしいアプカッツル」
 と称されていたとある。
 またその1人は
 「アダバ」の異称を持つという。
 そのアプカッツル、アダバ、魚人は
 ヤーダヴァ族の仲間である。
 「オアネス」名はベロッソスが
 ギリシャ語で書いた名称で、
 それをギリシャ語に捜すと、
 uionos で、その語義は「子供、孫」で、
 「綿津見」をまた「海童」と表記する
 「童:小児」に相当する。
 だから
 アズミ族の人々がメソポタミアとの関係を
 認識していたとの証拠である。
 「アプカッツル」の本書の解釈は 
 ap-ka-lulu 「海の人魚」、
 「アダバ」は 
 a-deb 〔水-歩き回る〕で「水を歩き回る」
 水陸両棲生物の特性である。
 これらは yadas の語義に合致する。
 メソポタミアの
 シュメルの時代に関係した族類が
 インドではヤーダヴァ族となり、
 そこでアーリア系の拡張に圧迫されて
 延命の策として海上へ出て極東へ移動し
 アズミ族となったと解釈される。
 彼らの使用言語は
 サンスクリット語ではない。
 同語はアーリア人の言語である。
 
 インド・ヨーロッパ語圏に属するもので、
 イラン〔ペルシャ〕から
 北方の牧人たちの言葉である。
 アーリア人の起源について述べておくと、
 本来は「アーリアン」で
 シュメル語の
  ar-en 〔賛美する-主(神)〕で
 「神を崇める」の語義である。
 その信仰がバラモン教である。
 彼等はメソポタミアの北部、
 現トルコ方面から
 イラン高原で牛飼いになり約千年もかけて
 ヒンズークシ山脈を越えて来た勢力である。
 アーリア人が
 インドでの先住のヤーダヴァ族を
 どうみていたかを示すよい例がある。
 前述の「メルッハ」が
 サンスクリット語に 
 mleccha とあり、
 「非アーリア人」で「他国人」は宜しいとしても
 「野蛮人」「蛮族」の語義で使用されたのである。
 「シュメル人」とされた人々は
 メソポタミアのペルシャ湾の奥地に
 多大な文化を建設したが、
 いつの間にかそこから消えてしまったのかの
 推測をしておきたい。
 これも前出した
 アッカドの王シャルルキンの勢力が
 巨大となり先住の人々は
 そこにいられなくなったからである。
 アッカド人はアモリ人などと称される
 ユーフラテスの上流
 現シリア方面が祖地である。
 その川沿いに下って
 ペルシャ湾岸に侵入してきたのである。
 シュメルの人々は
 インドへ移りまた極東へ移ったのである。
 シュメルとは後の呼称で
 シュメルの時代には彼らの土地を
 ki-en-gi〔土地-の-葦〕といい、
 『日本書紀』が記す
 「葦原中ッ国」名の祖地といえる。
 これまでの多量の引用の実態から
 「シュメル語」の日本への伝来を
 確信していただきたい。
 シュメル語は
 これまでの太陽信仰ばかりでなく、
 多くの主要な神社文化に徹底的に影響し、
 現在に継承されてきているのである。
 アズミ族の信仰の対象
 福岡市の志賀島にある志賀海神社は
 綿津見神を奉祭するが、
 「シカ」は suku
 〔神域:ギリシャ語sikos:聖域 〕、
 「シカウミ」は 
 zikum〔天、深海〕の音写である。
 志賀島の外海「玄海灘」の「玄」にも
 漢語で「天界」及び「深海」の語義がある。
 シュメルの文化が、
 諏訪、伊勢、出雲の神社に
 影響した実相を簡単に述べる。
 ①諏訪〔長野県〕
 この二つの漢字で
 「スワ」を表記するようになったのは
 そう古いことではない。
 その語義は
 「言葉を受け取ったり放ったり」
 で「会話」「相談」である。
 シュメル語で
 それを 
 sa-bal〔真中・交わる〕の
 「交換する」の概念である。
 ただし、
 『古事記』に「須波」とあるのは
 サンスクリット語の 
 svar〔suvar:天〕に依る。
 諏訪湖から流れ出す天竜川名は、
 その「天」に依る。
 和名類聚抄信濃国諏訪郡の郷名
 「土武」は
 シュメル語の 
 dum〔大工〕また「佐補」 は
 同 za-ab〔地下水〕に依る。
 前者は
 諏訪大社の最古の奉祭氏族
 「守屋」「守宅」と表記される
 mar-e〔作る-神殿〕名であり、
 「千勝、千鹿頭」 は 
 the-du〔柱・建てる〕で
 同大社の大祭
 「御柱祭り」の起源名である。
 また主要氏族名「神氏」の「ジン」は
 gin 及び茅野市名の「チノ」 tun と同一で
 双方とも「斧」を基としている。
 古代においては
 大工の最も重要で技術のいる道具であった。
 漢字「茅野」は「茅」が「葦」で
 「葦野」は ki-en-gi〔土地-の-葦〕とした
 シュメルの古代名で同地に「葦原」の人たちが
 移転してきたことを示している。
 また後者の郷名「佐補」は
 諏訪市内の「有賀:アルカ」が 
 ar-ka〔地面を掘る-口〕で
 「井戸を掘る」を意味する。
 因みにそこの地名「県:アガタ」は
 サンスクリット語の 
 agada で「井、泉」である。
 「蟻」を「アリ」というのは
 彼等が地面に穴を掘るからである。
 「モリヤ」を「洩矢」とする理由は 
 mar-e〔作る-井・泉〕に依る。
 「洩」は「水が湧き出る」の意義である。
 その洩矢氏が大事にしてきた秘法のうちに
 「蟇目神事法」 なるものがある。
 春の初め、
 諏訪大社上社近くの川床の地中から
 冬眠中の「蛙」を獲ってきて
 神に奉るという神事である。
 「蟇目」とは「蟇蛙」のことで、
 あのアプカッルあるいはアダハ名に係り、
 諏訪の一族は
 メソポタミアに関係している。
 茅野市内に「阿久」との地称があるが、
 これは uh〔蛙〕の音写である。
 阿久遺跡からは
 その蛙の意匠をつけた
 縄文土器が出土している。
 つまりシュメルの人々が
 ここに入ってきたのは
 紀元前縄文時代晩期の終末期といえる。
 郷土史研究家の藤森成吉氏が
 縄文期に農業があったとの
 見解を発表されているが、
 多分その渡来して来た人々によって
 栗などを意図して
 植え始めたものと推測される。
 
 ②伊勢〔三重県〕
 「イセ」 名はシュメル語の 
 es で、
 発音は「家」 を表わす用語と同じであるが、
 こちらは「涙水」にして
 「天の涙」で「雨」を表わす。
 伊勢にたくさん奉祭されている
 「大水上神」系譜が
 その信仰の広がりを示している。
 「アメ:雨」は
 a-mah〔水-上(高い)〕で
 「空にある水」との意義である。
 また伊勢神宮の摂社に係わる「客人社」 で
 「マロウド社」というが、
 mar-du〔作る-屋敷〕で
 「神の坐す屋敷を作る」語義で、
 遷宮式においての神殿建造の主祭神である。
 式典において
 「屋船神」と奉している神で
 「アズミ」名での語義であり、
 その大工、
 特に諏訪の大工勢力が
 その役目にあったことを証している。
 ③出雲〔島根県〕
 「出雲」名は 
 es-mah〔家-大きい(高い)〕と理解できる。
 『古事記』の国譲り伝承の段にある
 「多岐志〔現出雲市武志〕」 は 
 
 du-gis〔邸宅(屋敷)-木〕で
 「木の神殿を表わす」。
 この建造に当たるのが「久那斗神」で
 ku-nata〔立てる-柱〕に依り、
 「柱を立てる」ことは「家を建てる」仕事で、
 それをサンスクリット表記した名称が
 「建御名方富神」名となる。
 「建」は「建設」を担う表示で、
 「ミナカタ」は mana-kartt〔建設工、建築工〕と
 「棟梁」といった呼称である。
 「富」はシュメル語の dum〔大工〕で、
 出雲市の東隣り斐伊川を挟んだ斐川町の
 「富村」 名に由来する。
 同地の富神社には久那斗神が祀られている。
 「御名方神」名は
 『古事記』の国譲りの段のみで外にはない。
 しかし意義を同じくする神名はまだある。
 「水戸神」名はminati
 〔(柱)を建てる、建設する、建立する、固定する〕
 の音写である。
 これをさらにギリシャ語で表記したのが、
 「秋津日子命」名の「アキツ」で
 ArXi-Tekton〔建築家、棟梁〕の転訛である。
 同語は英語で 
 arktechter〔箱の技工〕の祖語である。
 久那斗神一族の名称としては
 足長神、手長神また稲田姫とある。
 それぞれ
 es-nagar〔家-大工〕、
 du-nagar〔屋敷-大工〕、
 i-nata〔高くする-柱〕で、
 大工の属類名である。
 しかし、「イズモ」にはまた
 重要なアズミ族の事蹟がある。
 『古事記』に登場する「大穴持命」に係る。
 つまり 
 is-maha〔穴-大きい〕がその源語で
 「シマネ:嶋根」名と関係する。
 「出雲国風土記」が
 「嶋根と號くる所以は國引きましし
  八束臣津野命の詔りたまひて、名を負せ給ひき。
  故、嶋根といふ」
 と述べている。
 「島根」〔現県名〕の由来がそこにはある。
 「シマネ」と「ツノ:津野」は同義である。
 「島」は「鹿児島」名の説明で挙げた「シマ」と同義で、
 za-ma〔国〕に依る。
 そして「ツ:津」はその 
 za の音写でここでは同義である。
 そして「根:ネ」及び「野」は
 同じくシュメル語での na〔石〕の音写で、
 双方ともその語義は「国・石」で、
 ここが「石の国」であるといっている。
 現在、
 島根町は松江市の北側日本海に面してある。
 そこに最近まで国石神社はあった。
 しかし、
 同名社は前記の風土記にもなかったことから
 改名されてしまった。
 『古事記』や
 その風土記がどういう勢力によって
 編纂されたかを知ればその理由も解かるが、
 現名と「国石」とどちらが
 重要か理解できるはずである。
 「シマネ」は「国石」の別称なのである。
 さて「根」は「石」の語義とした 
 na とは発音が異なる。
 「根」は ne である。
 しかしその背景は重要である。
 Ne は「赤い」で、
 その「石類」が
 「赤い石」であることを示唆している。
 「赤石」は「銅」を表わす。
 つまり、
 この地域で銅が産出されていたのである。
 和名類聚抄楯縫郡に「治田」名がある。
 「ハルタ」は hur-te〔山-銅〕で「銅山」である。
 「大穴」とはその坑道をいったものである。
 出雲が強い勢力に成長したのは
 その銅のお陰である。
 島根町内の地名「大芦(蘆)」は
 「大穴:is」に依り
 「加賀」もKVK〔洞〕に依る。
 両方の地域にある
 「木の山神社」名は「金山」である。
 
 
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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終章 (6)ミキ〔御木〕ミケ〔三家・三毛〕 [日本創世紀]



日本創世紀



 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
 (6)ミキ〔御木〕ミケ〔三家・三毛〕
  
 本書第2章で邪馬台国が
 「御木」に所在したと説明し、
 その「木」とは jambu 樹g
 という巨木であると示したが、
 その大樹をなぜ「ミキ:御木」というのか、
 その理由を明らかにしておきたい。
 「ミキ」「ミケ」とも同根で
 和名類聚抄筑後国三毛郡名である。
 また三毛郡のうち最後に残った郷名
 「米生」も同様である。
 高山寺本がその訓として
 「与那布」と添えているが、
 後追いで頭初の呼称とはみられない。
 同郷名は現在も
 大牟田市の南部に米生町と現存している。
 その周りの地称を解釈すると、
 「馬渡」は弥奴〔佐賀県<肥前国三根郡>〕の
 「米多国造」名と同じく
 サンスクリット語の
 vadhu の音写で「女」との語義である。
 また「大神宮」の鎮座する「臼井町」名も
 同じ ush〔曙、早朝〕と太陽信奉に係わる。
 米生町の隣りに、「天道町」とあり、
 まさに「太陽」を指す地名である。
 その「ミキ」は
 卑弥呼の役務を表す呼称である。
 彼女が「鬼道」に仕える 
 「巫女」であることは
 第4章で詳しく述べた。
 その「役務」をアズミ族の言葉でいうと
 pa-me〔呼ぶ-神託〕でいわゆる「ヒメ」である。
 これを漢字で表記すると
 日本語で使われる「姫」である。
 第1章で和人〔倭人〕は
 「姫氏」一族と紹介し、
 その甲骨文字になっている構成を説明したが、
 「姫」は「目を上げる女」で、
 神あるいは天をあがめる女で
 巫女の語義である。
 その「姫」字は
 「女」と「目」との構成で、
 それをアズミ族の言葉でいえば
 mi-igi〔女-目〕で
 「ミギ」あるいは「ミキ」となる。
 つまり
 「ミキ(ミギ)」は「巫女」の語義となり、
 「ミキ〔御木〕国」は「巫女の国」となる。
 日本語では「巫女」を「ミコ」と通称する。
 その同義語は「巫子」であるが、
 また「巫師」で巫子もまた「ミシ」であろう。
 「ミシ」もまたアズミ族の言葉で
 mi-si〔女-目〕と「姫」字に従っている。
 アズミ族の言葉に
 「目」は igi-si と両語がある。
 「ミキ〔御木〕国」は
 「巫女の国」だからには
 邪馬台国は「巫女の国」である。
 現代そこを「三池:ミイケ」と呼ぶが、
 その理由も mi-igi〔女-目〕に起因する。
 
 
  M.K記

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終章 (5)砥上郷〔三毛郡〕と田隈〔大牟田市〕 [日本創世紀]



日本創世紀



 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
 (5)砥上郷〔三毛郡〕と田隈〔大牟田市〕
  
 砥上郷名はこれまで全く触れず無視してきた。
 和名類聚抄筑後国三毛郡の郷名で
 「砥上」と訓む。
 その祖語はギリシャ語の 
 theo-xama〔神の塚(岬)〕で
 「神の丘」を示している。
 つまり
 大牟田市八本町の岩倉を呼んだもので、
 そこは神が奉られている丘であった。
 本書第3章で説明したように、
 そこは古代に海に突き出た岬だったと説明した
 地理事情そのままが xama である。
 越後国へギリシャ語が入ってきた経緯は、
 第7章(3)の「(d)巻貝と有明海」で説いた。
 その「アリアケ」も
 「エリュトラー海案内記」で
 Ariake とギリシャ語の「インド」を
 対象とする呼称として多く使われている。
 砥上郷の当該地は
 大牟田市の堂面川の北方で、
 草木地区の北東側に接する
 「田隈」である。
 その表音は「タクマ」だが、
 それもギリシャ語の
 theo-xama〔神の塚(岬)〕で
 「女神の丘」となり、
 その丘で奉祭されているのが、
 「女神」だと教示している。
  M.K記

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終章 (4)ヤマト:大倭、〇倭国、大和、◎倭姫命、日本 [日本創世紀]


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「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4 

日本創世紀


 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
(4)ヤマト:大倭、〇倭国、大和、◎倭姫命、日本
  
 前記(3)で紹介したYMYT〔海人〕がまた
 「ヤマト」の表音になっている。
 日本史上の諸史料に
 「ヤマト」呼称で登場する表記は 
 大倭、
 〇倭国、
 大和、
 ◎倭姫命、
 日本の五例である。
 前の二者は奈良盆地での呼称用語である。
 「大倭」の由来は、本書第4章で紹介したように
 本来「オウハ」で abha〔光、光明〕の音写で、
 また「大和」は「ダイファ」で、
 第6章で「崇神」の語義であることを紹介した。
 両表記とも当て字で、「やまと」とは読めない。
 「ヤマト:YMYT:海人」は
 伊都国の東漸した人々が勢力圏とした
 和歌山県〔紀伊国〕伊都郡
 (橋本市など奈良県との境界)に入った人々が
 また奈良盆地に移住定着して同地を「ヤマト」と
 呼び慣らしたことから始まった用語である。
 伊都郡内にある
 「九度山」はそこにそういう山名も
 ないことからしても
 「クドヤマ」はヘブライ語の
 kDYM の音写で「東の、東方」の語義で、
 当地が「東方の伊都」を表し、
 九州の伊都国の勢力が
 東方へ伸張してきたことをすでに示した。
 また『記・紀』に「海人」の確かな情報が
 「大倭」の由来として記述されている。
 「神武東征」が伝承する
 「椎根津日子」『日本書紀』、
 「槁根津日子」『古事記』の
 「シオネ」「サオネ」がそれである。
 同語は双方とも同根で
 ヘブライ語の SPN が祖語で
 「船乗り」を表す。
 彼は
 『古事記』に
 「亀の甲に載って釣爲しながら羽挙き来る人」とあり、
 『日本書紀』には
 「一人の漁師がいて小舟に乗って来た」とあり、
 「釣」「漁師」表記により
 「漁師」にして「海の人」であることが解る。
 『古事記』には「此者倭國造等之祖」、また
 『日本書紀』は椎根津彦の別称「珍彦」名を以って
 神武天皇2年条に
 「以珍彦爲倭国造」と「国造」の祖としている。
 現在その信仰の中心として天理市の
 「大和神社〔大倭神社とも〕」が奉祭されている。
 その「倭」も「ヤマト」でヘブライ語の
 YMYT〔海の人〕が源語であるのは明白である。
 奈良盆地が「ヤマト」となった歴史上の伝承は
 それが始まりである。
 「ヤマト」と称する「大倭」あるいは
 「大和」〔奈良盆地〕の名称起源は
 邪馬台国名と全く関係ないのである。
 すでに第6章で述べた通り
 神武東征は崇神東征であり、
 その時期は3世紀末以降の事件で
 卑弥呼の時代とも全く異なっている。
 奈良時代には奈良盆地に「大和国」はもちろん、
 「ヤマト」もなかったろう。
 いうなれば「大倭:オウワ」の時代であった。
  さて、
 「倭姫命」の「倭」も「ヤマト」と呼称される。
 姫命が果たした役割は天照大神を奈良盆地から
 三重県の伊勢へ遷宮させたのにあった。
 『古事記』に
 「倭比賣命の宮を拝(いつ)き祭る也」とある。
 『日本書紀』崇神天皇紀にはその正称として
 「千千衝倭姫命」とある。
 同紀には、
 天照大神に初め豊鍬入姫命を付けて
 倭の笠縫邑に祭らせた。
 また、
 大国魂神には淳名城入姫命を付けて
 お祭りをさせたところ、
 同姫は髪がぬけて身体が細って、
 大国魂神を祭ることができなくなったとある。
 そして「垂仁天皇紀」23年3月の段に
 天照大神を豊耜入姫命から離して
 倭姫命に付けたとある。
 その交替の理由は述べられていないが、
 やはり淳名城入姫命と同様
 豊耜入姫命も
 「髪がぬけて」しまったとからとみられる。
 
 なぜならば、
 その「ヤマト:倭」の語義がサンスクリット
 yamati〔頭髪を整える〕にあると
 解釈するからである。
 「千千衝倭姫命」とある「チチツキ」は
 ギリシャ語〔崇神天王集団の言葉〕での
 TeTeno-ThrXos に依るもので
 「髪が長くて真っ直ぐな」の意義で、
 いわゆる「櫛を入れて髪を整えられる」と、
 同姫がまだ稚い娘であることを意図している。
 この
 「ヤマト:倭」の語源は yamati である。
 『日本書紀』では
 「日本」と記して「ヤマト」と読ませている。
 『古事記』が「倭」と記すところを
 「日本」としている。
 例えば、
 神武天皇の「神倭伊波礼比古」『古事記』を
 「神日本盤余彦」と記す。
 現代ではあるが、
 東京都台東区の地名に「山谷」とあり、
 一般に「さんや」と通称しているが、
 これは本来「ヤマヤ」で
 記述のYMY〔海の人:漁師〕で、
 その隣りに「日本堤」とあり、
 「ヤマト」の表記である。
  M.K記

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終章 (3)邪馬臺と邪馬壹 [日本創世紀]



(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪

 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
(3)邪馬臺と邪馬壹
  
 倭人伝の版本『紹興版本』には
 「邪馬壹」とあるが、
 『宮内庁書陵本』も同様の記述になっている。
 
 チャイナ<中国> の歴史書などを大総集した
 四庫全書の
 『三国志魏書』倭人伝にも「邪馬壹」とある。
 
 その四庫全書の
 漢書には「祁馬臺」、
 後漢書には「邪馬臺」、
 梁書には「祁馬臺」、
 隋書には「邪靡堆」とある。
 
 また魏書作成の参考にされたらしい魏略を集めた
 『魏略輯本』には「鎮馬臺」、
 
 また日本の古代に作成されたという
 『翰苑』には同様の「鎮馬臺」とある。
 
 「臺」字は現状の「台」字の旧字であり、
 「壹」はまた「壱」「一」の旧字である。
 
 よって「邪馬臺」は
 「邪馬壹」と表記される場合もある。
 
 上記の諸史料によって明白なように
 「邪馬壹」は魏書だけの表記で外には一切
 「邪馬臺」と同様「タイ〔堆も同じ」〕」となる。
 
 本書は正当な呼称を「ヤマタイ」とし、
 その祖語 
 jambu-dvipa として紹介してきた。
 
 魏略、翰苑の「鎮馬臺」及び
 漢書の「祁馬臺」はその発音に近い。
 
 邪馬台の祖語を確かにする傍証になっている。
 
 だが、「邪馬壹」が全くの誤記あるいは
 誤用とするのも妥当ではない。
 
 魏書が作成された当時2、3世紀の
 「倭」の社会情勢を考慮すれば、
 情報を収集した者が
 「ヤマイチ」と聴いたとも推測できる。
 
 その呼称にも納得できる背景がある。
 
 倭人伝の冒頭の文章に
 
 「倭人は帯方の東南大海の中にあり」とあり
 
 「大海」に係わる。
 
 「ヤマイチ」は
 伊都国の主要族類ヘブライ人の言葉で
 「海の人」の語義である  
 YMYT の音写であるからである。
 
 またより広範囲の社会情勢も
 考慮しなければならない。
 
 第2章倭人伝の諸国地理で考察したように
 対馬国、壱岐国はもちろん、
 末廬国から始まって
 伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国と
 すべてが海岸に位置する。
 
 これらは海外から渡来した
 海洋貿易商人などが建てた居留地である。
 
 その居住者の中心は
 「海洋人」にして「海人」である。
 
 YMYTとの呼称は
 けっして誤記あるいは誤用ではないのである。
 
 同語を文法的に解釈すると 
 YM は「海」で、
 YMY あるいは YMYT が
 「海の」だから「海の人」となる。
 
 本書第5章の(6)で述べたが、
 イザヤ書の「地の果ての島々」で
 「海に漕ぎ出す者」
 「海に満ちる者」とあるように、
 
 極東へ「ヘブライ人の海人」
 も渡来していたのである。
 
 倭人伝に卑弥呼を代理とする官命として
 「大倭」とある。
 
 その語義は
 「海洋交通担当官」といったところであろう。
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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終章 (2)ギリシャ案内記 〔パウサニアス〕の「セリアの島] [日本創世紀]



(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪

 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
  (2)ギリシャ案内記 〔パウサニアス〕の「セリアの島]
 本書第6章で「琉球」名の由来説明のため
 ギリシャのパウサニアスの
 『ギリシャ案内記』の一部を紹介した。
 
 同書は紀元160年に世に出されたというので、
 記録されている情報は
 2世紀初めから中期のものである。
 
 ほとんどの内容は
 地中海域のギリシャ本土周辺に関係しているが、
 第6章26節6~9に極めて興味ある記述がある。
 
 そこには「絹」の産地の情報があり、
 
 「エリュトラー海の最奥にセリアの島がある」
 
 またその近くに 
 Abasa 及び Saxaia の
  二つの島があるといっている。
 後者の両島は記述のとおり説明済みである。
 
 ここでは「セリアの島」を解釈する。
 
 同用語はギリシャ語で Seria〔Shria〕 とある。
 
 「エリュトラー海」は紀元1世紀に
 エジプトの貿易商人が記録した
 『エリュトラー海案内記』の影響か、
 本来は「紅海」名であるが、
 アラビア海からインド洋
  さらに太平洋の極東方面を含めた総称として
 当時の関係者に認識されていたらしく、
 
 「エリュトラー海の最奥」とは
 極東太平洋の北部と解釈される。
 
 同語が記される前段「6~8」で
 
 seres〔shres〕 という
 「衣服作る糸」の産地を述べているので、
 「セリア」は
 その「虫」に係わるものと理解できる。
 
 パウサニアスも『ギリシャ案内記』の日本語への
 翻訳本は二つある。
 
 岩波文庫本には残念ながら
 当該部分は訳対象からはずされている。
 
 もう一つの龍渓書舎版は
 当該部分は翻訳されているものの
 「セリア」名を「セレス」としている。
 
 『エリュトラー海案内記』の翻訳者
 村井堅太郎氏がその解説部分で
 パウサニアスの「セリアの島」を取り上げ、
 その前段〔6-8〕を翻訳している。
 
 〔9〕の当該部の翻訳はない。
 
 M.H.Rocha-Pereira,Pausaniae Graeiae Descriptio,
 Bibbiotheca Teubneriana〔ギリシャ語版〕に依ると
 
 その用語は 
 Seria〔熙忍僞髭繊佑箸覆辰討い襦
 
 その seria の語義であるが、
 上記したように「虫」との呼称で 
 seres があるので
 同語の変形語と解釈しやすいがそうではない。
 
 同語のギリシャ語表記は 
 熙忍僞摘 で 熙忍僞髭繊魅札螢◆佑
 わずかながら発音に違いがある。
 
 そこで参考にすべきは「セリカ」名である。
 
 本書第5章の(5)で
 すでにその名称由来と語源は説明してある。
 
 「セリカ」の語源はサンスクリット語の
 sailika〔石〕と紹介した。
 
 「セリア」もその同類語の 
 sailā〔石よりなる、石の多、岩岡〕
 に依ると解釈する。
 
 それらはまた「繭」のことである。
 
 つまり「セリアの島」においても
 養蚕が行われていたとの説明になる。
 
 前項「(1)白木神社」で説いたように、
 養蚕が行われていた「九州」がその「島」である。
 
 セリアは〔九〕でいうとおり
 アサバとサカイアがその近くにある島である。
 
 「エリュトラー海の最奥」
 との地理説明にも合致する。
 
 〔九〕にはまた「セル」と呼ぶ川があって、
 その川がセリアを島にしていて、
 エジプトのナイル川が
 デルタ地帯をなしているのと同じだといっている。
 
 その説明は教義の発想で
 「邪馬台国」を想定させる。
 
 セリアは「繭」から離れた
 「岩岡」としてみれば明白で、
 大牟田市八本町の「岩倉」名に通じる。
 
 sailā には〔岩岡〕の概念もあった。
 
 同地は大牟田川と堂面川に挟まれた所で、
 古代においては今より幅の広い野放図な流れで
 あったはずでデルタ地といってもよい。
 
 「セル」川も堂面川沿いに
 「白川」との地称がある。
 
 「シラ:白」は
 熊本県の阿蘇山の南麓「白水村」を水源とし、
 熊本市へ下り有明海に入る「白川」名と同義で
 サンスクリット語の
 jala〔泉、井〕を祖語とするのと同じである。
 
 堂面川の上流にも「高泉」との地称があり、
 事情が同じと理解される。
 
 「セリアの島」とは
 
 「九州島」をいったものと解釈され、
 紀元2世紀に日本列島の情報が
 西方ギリシャまで伝えられていた証拠である。
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終章  (1)白木神社:繭は「石」と呼ばれた [日本創世紀]

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 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
  (1)白木神社:繭は「石」と呼ばれた
 紀元前後から邪馬台国時代〔2、3世紀〕に
 形成されていた「倭」の国際性について、
 養蚕をからめてさらに紹介する。
 
 糸島市(旧前原市)東南、福岡市西区との境界に
 「王丸」との地称がある。
 
 すぐ北隣りは「高祖」である。
 
 その漢字からすれば
 「伊都国」など歴史上にある国の「王」、
 つまり首領の館があったのかと推測したくなるが、
 同地は狭谷の坂をかなり上った所で、
 古代海が大分深入りしていたにしても
 伊都国の首領の居館に相応しいところではない。
 
 そのさらに登った左側の谷合に
 「白木神社」が鎮座している。
 
 鎮座地の字名が「小林」である。
 
 これらの呼称には一貫した事実が背景にはある。
 
 古代、
 この地は蚕を飼って繭を得ていた
 倭人の地であった。
 
 「王丸」は「オーマル」で
 「白い石」の語義で「繭」を表す。
 
 倭〔和〕語の「o-molu」の音写である。
 
 第5章で
 
 英語で「絹」を表す 
 silk がサンスクリット語の
 sailika〔石〕の転訛と紹介したが、
 繭玉が「石」との概念で理解されていた
 倭人たちの実感が実際この地方にある。
 
 「石」と指摘した
 「マル:丸:malu」は彝語資料で
 〔mu-lo:粒-石〕に依り、
 語義は「石粒」でもかまわない。
 
 同類語は
 
 「雲南彝族社会歴史調査」が〔la(lao・luo)-ma〕、
 「彝語簡志」が〔lo〕〔lo-mo〕、
 「哈尼語簡志」が〔lu〕〔lo〕〔lu-mo〕〔lumo〕、
 「納西語簡志」が〔lu〕とその発音を記録している。
 
 これらは
 1983年の中国出版社発行の資料である。
 
 また、それより100年前
 
 日本の民族学者鳥居龍蔵が
 貴州省・雲南省・四川省を調査した
 「中国の少数民族地帯をゆく」にも
 「石」の表音が採集されていて、
 彝族の別称である「ロロ族」に
 
 lump[白ロロ]、
 lom[白夷]、
 loo[ロロ]、
 
 また阿尼族に 
 lom とある。
 
 これらは19世紀の資料である。
 
 しかし、
 「王丸」で考察しているのは紀元前後のこと、
 今から2000年も前のことである。
 
 その間、
 和人の人々は四川省北部から南方へ移住させられ、
 しかも深い谷々に分散して生活するようになり、
 現在に至ったのである。
 
 祖語から〔各谷々〕で
 訛りが生じていても仕方のないことである。
 
 また、
 東方へ夷人・倭人として移住した人々のうちの
 日本列島へ渡った者たちが持って来た
 和〔倭〕語は
 日本の多くの地域にも定着し、
 今日まで及んでいる。
 
 「マル」は「石」で「ル・マ」は「粒石」である。
 
 これは繭一個一個を表現したものだ。
 
 「高祖」地区の西隣り「三雲」に
 「細石神社」があり、
 「粒石」を意図した呼称となっている。
 
 実際同社には「丸い粒石」が祭られている。
 
 古代繭をを採るための養蚕は端的にいうと
 「野蚕」が主であった。
 
 つまり「おカイコさん」という虫を
 桑の木などに直に放し飼いした。
 
 そのため
 虫を好む鳥などを追い払うのがたいへんで、
 
 「鳥追い」は年中行事ともなった
 
 当時の日常仕事だったはずである。
 
 おカイコさんは数回の「眠り」を経て
 脱皮しながら次第に大きくなり、
 桑葉をいっぱい食べる。
 
 そして遂には
 体の皮膚は白にもかかわらず緑っぽくなり。
 
 それが本書第5章で述べた「青龍」で
 「エリュトラー海案内記」がいう
 セレス seres の祖語である。
 
 また、
 繭を作るための繊維質を体内に溜め込み、
 桑葉を糞として放出した後は
 体色が蜂蜜の色となり、
 その伸びきった様子を
 古代シナでは「黄龍」と呼んだ。
 
 おカイコさんは黄龍となった後、
 その桑の枝々に、時には根元に落ちて繭を作る。
 
 それはその中で蛆となり孵化して蛾となるためで、
 繭の中で蛾となった後、繭を破って外に出て
 雌雄が交接して卵を大量に生むためである。
 
 これはすべて彼等の子孫を継いでいくためで、
 人間どもに繊維を使わせるためではない。
 
 因みに
 
 「爾雅義疏」釈蟲〔蛾羅蠶〕が引用する
 「孫炎正義」には「蛾卽是雄羅卽是雌」とある由。
 
 よって「蛾羅」は「蠶の雄雌の蛾」である。
 
 この「蛾羅」が「カラ」で
 唐国を日本で「カラの国」という理由である。
 
 また、「唐土」を「モロコシ」というのも
 mo-lo-ko-si〔石-白木〕が元で
 「白木の石」が本来日本にとって
 養蚕の祖地であることを物語っている。
 
 おカイコさんに緑葉を食べられて葉がなくなった
 桑木には繭がかなり付着して白くなる。
 
 それを「白木」という。
 
 その木は一本だけということはない。
 
 桑の叢は「白い林」となる。
 
 それが「小林」で、
 王丸の白木神社鎮座地称である。
 
 倭語で「白木」は
 〔ko-si〕あるいは
 〔ko-ze(se)〕でこのうちの一方が
 「コーソ:高祖」となっていて、
 
 高祖山
 〔高祖地区と福岡市西区境界の山〕周辺で
 その野蚕(養蚕)が行われていた証左である。
 
 王丸にも王丸山があり、
 同地の気候が養蚕に適していたといえる。
 
 伊都国の時代そこで採取された絹製品が
 「マエバル:前原:渡し場」から
 搬出されていったとみられる。
 
 高祖の地は
 和名類聚抄筑前国志麻郡に「託社郷」とあり、
 「タカシャ」はアズミ語 
 tuk-si〔織物-光〕の音写で「絹布」を称したもの。
 
 旧前原市域には「多久」など
 「タク:tuk」が祖語とみられる地称が多い。
 倭人はこのような養蚕とともに
 水耕稲作も渡来させたが、
 
 現在日本人が「米」を「コメ」というのはその
 〔ko-ma:白い粒〕に依っている。
 
 糸島市泊地区の北限に「石ヶ岳」との50㍍に
 及ばない小山がある。
 
 「岳」は「丘」あるいは「岡」である。
 
 「泊」字は確かに「舟泊り」とみられが、
 「トマル」は興味深い。
 
 これをアズミ族の言葉を加えて解釈すると、
 「ト:du」は「岡・丘」で、
 「マル」はこれまで説明してきた
 「王丸」の「丸」と同様で「石粒」、
 「トマル」は「岡-石粒」で、
 山名「石ヶ岳」と同義となる。
 
 この周辺でも野蚕が行われていたことを示す。
 
 石ヶ岳の東側は福岡市西区の「草場」地区で、
 同地区内にも白木神社が鎮座している。
 
 同社は現鎮座地とは違う
 柑子岳の山麓にあったという。
 
 その「柑子」は今も「コウシ」と呼ばれ、
 倭語の〔ko-si〕が祖語で、
 誠に神社名「白木」を表している。
 
 また地区名「草場:クサバ」は
 〔ko-se-ba〕の音写で「白い木の帛」となる。
 
 「帛」は
 「絹類の真緜」で木に付着した繭や
 絹の塊〔ゆえに石〕を表した用語である。
 
 草場の南隣りは「桑原」の地名で
 「桑畑」といえよう。
 
 そのまた南隣りには
 「元岡」あるいは「元浜」とある。
 
 「元」は「モト」でヘブライ語の「石」である
 BTの転訛で、「元岡」は「石丘」あるいは
 「石ヶ岳」の異称である。
 
 またその隣りに「太郎丸」とある
 「タロウ:太郎」はアズミ族の言葉で til、
 ヘブライ語で TL で双方とも同義の
 「丘、岡」「マル:丸」は前記通りの
 「粒石」にして繭を表す。
 
 よって「タロウマル」は
 「粒石<繭>の丘」で、
 繭を積み上げた様子をいったものと思われる、
 
 特にこの til、TL は人工の丘で「塚」と
 日本語では表し得て、やはりここに
 周辺から繭を集積したとの印象を与える。
 
 和名類聚抄筑前国志麻郡に韓良郷とある。
 
 これを倭語で解釈すれば
 〔ko-lo〕、〔白い石〕で繭を称したものである。
 
 和名類聚抄高山寺本の訓には「加良漢知」とある。
 
 「加良」はもちろん「漢良」であり、
 「漢知」は「ケチ」にして倭語において
 〔khu-dzi〕〔kun-zhi〕などと表音でいう
 「山・丘」の語義でそう高くない山や丘を表す。
 
 よって
 「カラケチ」は「白い石の丘」ということで
 「繭(白い石)を集積した山」である。
 
 因みに「山〔khu〕」の訓みには
 〔ku〕〔gut〕〔ke〕と
 「丘〔dzi〕〔zhi〕」の
 他に〔che〕〔ci〕〔zhu〕とある。
 
 このようにこの一帯では
 アズミ族の言葉、
 倭人の言葉、
 ヘブライ人の言葉が混在している。
 
 その意味とすることは、
 彼等が相伐、
 勢力範囲を拡げようと争ったのではなく、
 共存していたということである。
 
 倭人は
 稲作と養蚕の技法をもって渡来した。
 
 海洋を生活の場とした
 アズミ族は
 倭人から食糧(米など)を得、
 交易のための商品(絹類)を提供してもらった。
 
 そして、
 ヘブライ人の商船団もインドにおいて
 その貿易商人組合に加入して
 極東への航海について案内を得た。
 
 なにしろ彼等は中央アジアにいた時、
 「絹」の商品価値を和人から教えてもらい、
 その生産者である和人と
 親しく接触していたのであり、
 彼らが倭人やアズミ族を討伐するはずはない。
 
 倭人がいないと絹は入手できないのである。
 
 そのような「共生」こそが
 紀元前後から3世紀終末の
 北九州方面の社会情勢であった。
 
 よって当時の
 「倭」の国際関係は「共存関係」にあった。
 
 あえていえば、
 シナの漢や魏との間においても
 そういえるのである。
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第7章 卑弥呼の「倭錦」(5)筑紫〔ツクシ〕の背景 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  
《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(5)筑紫〔ツクシ〕の背景
 
  和名類聚抄において福岡県地域は
 「筑前国筑後国」となっているが、
 従来、全域を「筑紫」といってきた。
 
 「筑紫国風土記」逸文に
 その地名由来が書かれているが、
 あまり合理的とは思えないので、
 ここでは触れない。
 
 地理的に筑紫平野は
 有明海へ流れ込む
 筑後川の流域地帯である。
 
 つまり「筑紫」とは
 「貝紫の染料を採る」あるいは
 「筑(つく)る」との字義である。
 
 その呼称「ツクシ」は
 アズミ族の言葉で成っており、
 
 「ツク」は 
 tuk〔織物〕 ないし tug〔布〕、
 
 「シ」は 
 si(sir)〔光〕で「光る織物」となる。
 
 「光る、輝く」織布は「絹」を指す。
 
 ヘブライ語の「ニシキ」と同義である。
 
 「延喜式」神名帳の筑後国に
 「筑紫神社」が載る。
 
 同社は現在筑紫野市に鎮座するが、
 その伝承に依ると
 同社は元「城山」に置かれていたという。
 
 その
 「シロ:城」名は 
 sir〔si:光〕による。
 
 同地周辺で養蚕が盛んだったに違いない。
 
 「ツクシ国」とは
 養蚕で絹を生産していることを
 主張した呼称である。
 
 その生産役目を果たしたのは倭人で、
 加工を主導したのは
 ヘブライ人などの海洋商人たちであった。
 
 福岡県には
 その絹の重要性を奉祭した神社がある。
 もはやその由来が全く亡失されている
 「地祿神社」で、
 その鎮座区域は倭人伝がいう奴国の領域、
 アズミ族の言葉が厚く定着した所で、
 彼等も養蚕を行う
 倭人を奉って大事にしたのである。
 
 「地祿:チロク」の源語はその 
 zalag で
 
 語義は
 「きらめく」で
 「光る: si(sir)」と同義であり
 「ツクシ」名を補佐する神社名である。
 
 「全国神社名鑑」により
 
 その所在地と神社数を記載する。
 
  〇福岡市博多区  5社
  〇福岡市南区   4社
  〇福岡市西区   1社
  〇筑紫野市    2社
  〇大野城市    4社
  〇筑紫郡大宰府町 1社
  〇筑紫郡那珂川町 2社
 
  M.K記
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第7章 卑弥呼の「倭錦」(4)「倭錦」は貝染の織物 [日本創世紀]

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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(4)「倭錦」は貝染の織物
 
  「錦:ニシキ」名について解釈してみたい。
  
 「ニシキ」はヘブライ語の
 NTsKh〔輝き、光輝〕の音写で、
 絹が光沢を持つ理由により呼ばれたものである。
 
 「大漢和辞典」は「錦」を「あやおり」としている。
 
 その「アヤ(綾)」も
 ヘブライ語の IYN による呼称名で、
 本来は「目」であるが、
 「編み目」「色合い」である。
 
 「説文解字」及びその「通訓定声」は
 
 「紫絲織之」とある内容を前に紹介したが、
 絲(絹)をまず染色し、
 それを以って紋様を付けて織布したもの、
 編み目を以って装飾するものである。
 
 同書がいうには
 染色の色は「紫」と限っている。
 
 織布の後に染色するのではなく
 絲の段階で染色するものである。
 
 よって「倭錦」は
 
 「絲(絹)を紫色に染めたもので織りながら
  紋様を付けた絹織物」となる。
 
 その紫色は「貝紫」によって製作された、
 倭国独自の工芸によって算出されたものであった。
 
 「倭錦」を「貝紫」とする見解はすでに
 布目順郎氏はじめ
 吉野ヶ里遺跡発掘に係わった人々によって
 提出されている。
 
 紀元前2、1世紀から
 紀元後2、3世紀にかけて、
 
 九州方面は従来解釈されてきたような
 非文化的後進社会ではなく、
 西方の技芸まで浸透し先端技術を獲得して
 生活の用に備えた先進社会にして
 国際性豊かな社会だったのである。
 
 本書では解説しない
 ガラス工芸や青銅<錫合金>など
 極めて高い精度の製造品を生産していて、
 その工作の様子が解る遺品が
 同地方の遺跡から出土している。
 
 もちろん、
 その工業段階は手工芸であり、
 大規模工場などはない。
 
 その先進的工芸の一つが「倭錦」で、
 卑弥呼は
 その高技芸品を魏国へ贈ったのである。
 
 ために魏国側も朝貢貿易の轍に即して
 それ相応の上等品を答礼として
 使節に渡したのである。
 
 その状況から判断すると、
 倭〔邪馬台国〕は
 決して魏の属国でもなかったし、
 帯方郡の傘下の属領でもまかった。
 
 つまり、
 その冊封体制〔封建制〕の外にあったのである。
 
  M.K記
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第7章 卑弥呼の「倭錦」(3)倭錦の真相 [日本創世紀]

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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
(3)倭錦の真相
 
 (a) 吉野ヶ里遺跡の染色絹
 
 繰り返しになるが、
 佐賀県教育委員会『弥生時代の吉野ケ里』の解説に
 
 「貝紫や日本茜で染められたものも確認され……」
 
 とあった。
 
 この報告は重大である。
 
 弥生時代の染色技法のうちに
 「貝染」があったとの指摘も重要であるし、
 また、
 「貝紫」が日本古来、
 つまり
 縄文時代に開発されていたと証明が
 あるとは全く聞かないことも認識すると、
 そこからの判断はまた重大である。
 
 つまり、
 その技術は海外から移入されたとしか
 考えられないとの結論になる。
 
 それも
 弥生時代前期紀元前後にである。
 「紫」色は
 シナにおいても古来宗義上貴重な色で、
 特に織布を紫色に染めて使った。
 
 漢語に「茈」とある植物が
 通称「紫草」で、
 東南アジアには広範に野生種としてある。
 
 その根を用いて染色したものが「紫」で
 表される織布で、特に絹を染めた。
 
 このように「茈」「紫」の伝統技法は
 東アジアにあったが、「貝紫」はなかった。
 
 (b) 貝染の倭への伝承
 
 「貝染」は技術を倭へ持ち込んだのは
 倭人伝がいう「伊都国」に定着した
 ヘブライ人の海洋貿易商人たちである。
 ヘブライの商人たちはローマ帝国へ
 絹製品を輸出した中継商人として活動し、
 ローマ人からは 
 MESHI と呼ばれるほどの絹商人で、
 東方から送られてきた絹を地中海東岸、
 ヘブライ人の祖地イスラエルで加工し直して
 ローマへ送り出していた。
 
 その加工技術のうちの染色は、
 イスラエルの北方を
 紀元前の古くから占めていた
 フェニキア人たちが
 地中海の貝から採取した染料で
 羊毛の毛織物を紫色に染める技法を創出し、
 その工芸で産業を栄えさせていたものである。
 
 フェニキアの祖族となったのはケルト人で、
 彼等はクレタ島、カルタゴ
 さらにはイベリア半島から
 ブリテン(イギリス)まで
 鉱物〔錫〕を求めて航海遠征し、
 それらの地に植民地を築いた有能な人々で、
 工芸面でも錫のほかにガラス工芸を発展させた。
 
 彼等はそいう技術集団で、
 「貝染」もその当時における
 先端技術で専門的であった。
 
 貝染の中心となったのが地中海東岸の都市、
 ティロス、シドンであった。
 
 しかし、
 ケルト人あるいはフェニキア人が勢力となって
 極東へ渡来し、
 その技法を定着させたのではない。
 
 隣の貿易、特に東方交易の協働者ヘブライ人が
 その役目を果たしたのである。
 
 両者の親密さはここで詳しく説明できないが、
 
 紀元前10世紀
 ヘブライ王ソロモンが主導した海洋貿易のための
 
 「タルシン船」は
 
 フェニキア人の協力によって
 成立し得たものであった。
 
 ヘブライ語「フェニキア」をいった用語 
 
 KVNKhYH は「巻貝」を表す。
 
 貝染の染料を持つ貝類は
 すべてその巻貝(累貝)に限られる。
 
 フェニキア人が染色したのは羊毛で、
 絹もまた動物性繊維である。
 
 そこに注意を向けた
 ヘブライ人の貿易商人も
 有能であったといえる。
 
 (c) 貝染技術と紫色
 
 繊維類に染色するには染料が要る。
 
 貝染の染料は巻貝(累貝)の内臓腺から採る。
 
 それを発見したのが
 地中海東岸のフェニキア人であった。
 
 巻貝の内腺から採れるエキスはわずかで
 多くの貝を殺さなければ」ならない。
 
 『水生無脊椎動物』〔世界大博物図鑑〕によると、
 
 地中海では
 ツロブリボラあるいは
 シリッブルボラという
 体長2㎝余りの小さな貝がそのため使われた。
 
 また
 日本から東南アジアに分布するチリメンボラが
 貝紫の原料となったと説明している。
 
 前記『弥生時代の吉野ケ里』は
 
 「貝紫の色素を抽出できる有明海生息の貝類」
 
 として
 
 アカニシ、レイシ、イボニシ名を挙げている。
 
 このうちアカニシは大牟田歴史資料館の
 1999年「展示図録」に
 縄文時代中期から後期の遺跡
 
 「毛無貝塚」から出土した実物と
 紹介しているので、
 有明海には古くから同貝がいたことを証している。
 
 ただしそれは
 食料として採られたもので、
 染料としては考えられない。
 
 貝染によって付けられる色は、
 「貝紫」と通称されるように紫色であるが、
 その範囲は広く、
 フェニキアを「赤い国」と
 称したように赤色、赤紫色、青紫色となり、
 総称して「茜色」といえる。
 
 その色彩は本来「晒」に依り、
 夕焼けの色が赤色から青色、碧、紫色と
 変色するのに合わせている。
 
 (d) 巻貝と有明海〔地名:鐘ヶ江と古賀〕
 
 上記の通り、有明海の巻貝を採取して
 染色を施していたことは明白である。
 
 福岡県〔筑後国〕・佐賀県・長崎県〔肥後国〕の
 有明海沿岸地域には、
 
 そこで巻貝を採集していたことを示す地称が
 今日まで数多く継承されている。
 
 言い方を代えれば、
 それらの地名が
 巻貝に由来しているということになる。
 
 まず大川市の筑後川沿いに
 「鐘ヶ江」との地称がある。
 
 この「カネカエ」は
 ヘブライ語でフェニキアを言うと紹介した
 KVNKhYH〔巻貝〕の移入である。
 
 また同市に「兼木」との字名もあり、
 その理由を同じくする。
 
 長崎県の諫早市に「船越」との地称があり、
 これも
 「フナコエ」と読めその語源が同とみられる。
 
 周辺には貝津町あるいは大染島といった貝染と
 係わる地称があるからである。
 
 さらに、
 下記に列記するように「コガ」との
 地称がここにはたくさんある。
 
 これはギリシャ語の「貝」を語義とする
 
 kogxe の音写による。
 
 なぜここに
 ギリシャ語が入り定着しているかというと、
 「先代旧事本紀」国造本記に載る
 「筑紫米多國造」に係わる。
 
 その「米多」は佐賀県の吉野ケ里遺跡の東方、
 和名類聚抄の三根郡米多郷にして現在、
 目達原と表記される地のことである。
 
 国造本記には
 
 「志賀高穴穂朝(成務)息長公同祖
  稚沼毛二俣命孫都紀女加定賜國造」とある。
 
 息長氏は、
 本書第6章(7)で詳説したように
 イリ〔ギリシャ〕族の仲間である。
 
 この経緯により、
 ここにギリシャ語が入った理由を説明できる。
 
 「コガ:古賀」などと訓める
 地称及び関連地称を挙げる。
 
  〇下古賀〔佐賀県小城郡芦刈町〕
  〇鹿ノ子・古賀〔佐賀市〕
  〇下古賀〔佐賀県佐賀郡東与賀町〕
  〇東古賀・西古賀・小久森〔佐賀県佐賀郡川副町〕
  〇鐘ヶ江、古古賀、北古賀、息古賀、古賀<兼木>、
   五家、紅粉屋〔福岡県大川市〕
  〇古賀、久々原、中古賀〔福岡県柳川市〕
  〇今古賀〔福岡県山門郡三橋町〕
  〇古開〔福岡県山門郡大和町〕
  〇岩古賀〔福岡県三潴郡三潴町〕
  〇古賀〔福岡県三潴郡大木町〕
 
 その他、北九州市小倉区に「紫川」との
 興味ある川名がある。
 
 同地は和名類聚抄豊前国などにいう
 「企救郡」の地で「キク郡」という。
 
 同名はギリシャ語の
 「紫貝からとった染料」との
 
 kikis の音写で、
 
 区名「小倉」の「コクラ」は
 
 同 koglos〔巻貝〕の音写である。
 
 また、吉野ヶ里遺跡出土の織物として
 「茜:アカネ」との解説があった「アカネ」も
 フェニキアを祖地としている。
 フェニキア人の祖族はケルト人と紹介したが、
 その始祖名をギリシャの伝承では 
 Aghnor といい、
 同語はそのうち 
 A-gh-no をとっていったものである。
 
 朝焼けをいう「アケボノ:曙」は同語の
 A-g-h-no に依る。
 
 曙も晒と同様の色彩を見せる。
 
 また漢字「貲」は「紫-貝」との構成であるが、
 これは日本語で「あがなふ」と読み、
 Aghnor に係わる。
 
 このように
 この地方の「巻貝」、「貝紫」に
 関係する用語には
 フェニキア及びギリシャ語が
 根深く浸透している。
 
 ただし、
 これらギリシャ語が同地に定着したのは、
 「国造」の制が始められた時期以後
 5世紀ないし6世紀のことで、
 邪馬台国時代2、3世紀のことではない。
 
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第7章 卑弥呼の「倭錦」(2)弥生時代の「絹」 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(2)弥生時代の「絹」
 
 1989年7月
 吉野ヶ里遺跡から出土した甕棺の中から
 染色した絹の織物がみつかったと報じられた。
 
 朝日新聞は18日
 「日本最古の染色絹、見えた!弥生の色」と
 見出しを付けている。
 
 佐賀県教育委員会が
 京都工芸繊維大学の布目順郎名誉教授に
 鑑定してもらった結果を17日発表したもので、
 「約30種の織物中から透き目絹」を確認したとある。
 
 同委員会が編集した2008年3月発行の
 『弥生時代の吉野ケ里』に
 「朱が付着した透目の絹、弥生時代中期」とある。
 
 また「縫目の残る絹織物」も紹介されている。
 
 その解説には
 
 「吉野ヶ里遺跡からは弥生時代中期から
  後期の甕棺墓7基の棺内から出土した
  人骨や銅剣、貝殻製腕輪などに付着して
  多数の絹や大麻の布片が発見された。
 
  布目順郎氏の分析研究によって、
  絹は日本産の絹糸で数種類の織り方を
  もつことなどが判明した。
 
  また、
  絹布の中には貝紫や日本茜で
  染めたものも確認され、
  粗末な麻の布を身にまとっていただけという
  弥生人の印象からは程遠い高度な
  弥生の染織文化が証明されていた」
 
 とある。
 
 ここに「絹や大麻の布片」が出てきた事実は、
 倭人伝の
 「種禾稲紵麻蠶桑絹績」との記述に対応する。
 
 「紵麻」は「大麻」に、
 「蠶桑絹績」が絹に係わっていて、
 吉野ヶ里遺跡のこの時期が倭人伝の時代、
 つまり
 邪馬台国<弥奴国>の時代に相当しているといえよう。
 
 布目順郎氏はそれ以前に
 
 『繊維の考古学』
 『絹の東伝』との著述により、
 
 弥生時代前中後期の遺跡から絹が出土したのは
 北九州に限られていて、
 瀬戸内海以東、出雲や近畿方面の絹出土は
 古墳時代前期からと指摘している。
 
 つまり
 紀元2、3世紀〔卑弥呼の時代〕に
 おいて養蚕を行っていたのは九州方面のみで、
 卑弥呼が
 絹をかなりの量産出した地域にいたことを
 倭人伝の記述からすると、
 邪馬台国の所在がどこだったかは明白である。
 
  M.K記

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第7章 卑弥呼の「倭錦」(1)倭人伝が記す倭国の「絹」 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
 (1)倭人伝が記す倭国の「絹」
  倭人伝においては
 倭国と魏とは朝貢貿易を行っていた。  
 
 その交易品のうち最も注目すべきは絹製品である。
 
 魏歴景初2年〔238〕12月の記録に
 魏国が倭からの使節に贈った品目のうちに
 
 「絳地交龍錦五匹」
 「紺地同文錦三匹」
 「白絹五十匹」
 
 とある。
 
 「錦」「絹」とあることから、
 それらが絹製品であることが明白である。
 
 同条にはまた「汝所獻上貢直」とあり、
 倭からの貢奉品と同価値に
 それらの贈呈品は相当すると述べ、
 「朝貢貿易」の様式であることを記している。
 
  正始4年(243)の記録には
 「倭王複遣~上獻~倭錦絳青縑緜衣帛~」とある。
 
 ここにおける
 「錦」「縑緜」「帛」も絹製品の称である。
 
 つまり倭国において養蚕が行われ絹を得て
 織物にした品を魏に献上したとある。
 
 本書第5章「(1)倭人伝が記す倭の養蚕」で、
 
 倭国では邪馬台国時代すでに養蚕が行われ、
 「縑緜」などという織物があったことを説明した。
 
 上記倭からの献上品のうち注目されるのは
 「倭錦」との記述である。
 
 「錦」は日本語では一般的に「ニシキ」というが、
 漢語では
 「脱文解字」〔紀元後1世紀、最古の辞典〕では、
 
 「染絲織之」とあり、
 
 まず糸を染色して次にこれを織ったものとの説明で、
 日本語では「あやおり」という。
 
 倭人伝があえて「倭錦」といっているからには、
 魏(支那)にはない
 倭国特有の染色によった
 糸を使って綾〔紋様〕織りにした織布と推測される。
  M.K記
 

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共通テーマ:学問

第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(7)息長<気長>氏の背景 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
 
 
 (7)息長<気長>氏の背景
 神功皇后は『記・紀』によると、
 第14代仲哀天皇の正妃〔皇后〕で,
 
 その元名を
 
 『古事記』は「息長帯比賣命」、
 『日本書紀』は「気長足姫尊」と記す。
 
 双方とも呼称は「オキナガタラスヒメ」という。
 
 「息長氏」を考える場合、
 皇后の出自であることが
 大きな理解の助けの役目をなす。
 
 その息子「品陀和気命」
 『古事記』は
 
 第15代応神天皇となり、
 第25代武烈天皇まで
 5世紀の永きまでを、
 
 また伝承によれば、
 第26代継体天皇も
 応神天皇の苗裔とされていることから、
 
 5世紀の大古墳時代から
 7世紀の飛鳥時代までと
 
 その族類は「大和」における
 政権の中心に位していた。
 
 そういう大族の背景を考察するが、
 
 まず
 
 仲哀天皇の和名
 「帯仲日子」について解釈する。
 
 同語は「タラシナカヒコ」という。
 
 「タラシ」は thalassioe で「海」を
 「ナカ」は nha で「船」の複数形である。
 
 その語義は「海船団」となり、
 天皇の和名は
 
 「海の船団の男子」にして「海船団長」となる。
 
 崇神天皇(第10代)の系譜に列なる
 族類の来歴を名称として継承している。
 
 そこで「オキナガ」だが、
 oky-nha〔速い船〕の音写で
 すでに指摘したように「軍船」を示す。
 
 その表記に「長」があることからして
 「軍船の船〔艦〕長」となろう。
 
 でも
 「長」は「ナガ」で
 「ナカ:中」とは違うので
 oky-nau-agos〔速い船の指揮者〕とする
 妥当かもしれない。
 
 同氏族は崇神天皇の「東征」の際、
 三段橈船運行の指揮を執っていた者で
 あったとすることができる。
 
 息長氏が定着した滋賀県坂田郡米原町の
 「能登瀬:ノトセ」は 
 nautos の音写で「船乗り」である。
 
 また郡名
 「サカタ:坂田」は多祁理宮の地
 廿日市市の「佐方」と同様 
 thugatir〔娘:処女〕の音写で「戦争の女神」
 
 あるいは
 「航海安全の女神」であるアテネ神を指す。
 
 「オキナガタラシ姫」はよって
 「速い船(軍船)の指揮者海の女子」となり、
 その息子応神天皇の系譜もまた
 崇神天皇の東征に
 協働したイリ〔ギリシャ〕族の
 後裔であることを示している。
 
 神功皇后の系譜は、
 開化天皇〔第9代〕と
 意祁都比売命の息子日子坐王を始めとし、
 次に山代之大筒木真若王、
 次に迦邇米王雷、
 次に息長宿禰王、
 次に息長日子王とあり、
 同王のうちの長姉が
 息長帯比売命である。
 
 なお、
 応神天皇名の
 「品陀(ホムダ)」
 「品治(ホムチ:吉備国の郡名<前出>)」、
 
 日子坐王の
 「坐:ナマス」の源語は
 すべてギリシャ語の
 Hmthih で「マケドニア」ないし
 ギリシャの北方オリンポス山あるいは
 オシリス山付近を指す地称である。
 
 M.K記

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(6)琉球あるいは沖縄 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
 (6)琉球あるいは沖縄
 紀元2世紀後半に
 ギリシャの地誌家パウサニスが著した
 「ギリシャ案内記」に絹の産地の情報として
 「セリアの島」との記述がある。
 
 その詳細は終章で解釈を行うが、
 その島の近くに
 「アバサAbasa」と「サカイアSaxaia」という
 二つの島があるといっている。
 
  Abasaはサンスクリット語の 
 abhasa〔光〕また
 
 Saxaia も同 
 sucyah〔輝く、光を発する〕の
 
 ギリシャ語表記した呼称である。
 
 前者は現在の沖縄本島を指す。
 
 浦添市の市役所のある地称「安波茶」として、
 また本島西方の伊是名島と久米島の間にある島
 「粟国島」名として遺留されている。
 
 そして後者はそこから南方の先島諸島の
 「サキ」として遺留されている。
 
 紀元2世紀の中頃には日本列島西部の情報が
 ギリシャに伝えられていたのである。
 
 西方からギリシャの軍船団が渡来したのは、
 紀元3世紀の終末から4世紀初頭の間である。
 
 その軍船集団が一時この沖縄地域に
 滞留していたことは以下の説明で明白である。
 
 その影響が現在までに遺されているのである。
 
 第一の証左が「琉球」名である。
 
 「リユウキュウ」はギリシャ語の 
 leukos〔輝く、ピカピカの、白い〕の音写で、
 同地をそれより先にサンスクリット語呼称で
 abhasa〔光〕といっていたのを
 ギリシャ語呼称に変換したのである。
 
 その上に「阿児奈波」と
 奈良時代にまで記録される地方名を遺した。
 
 「アゴナハ」は 
 agono-nhasの音写で「軍船」の語義である。
 
 「ナハ:nahas」は naews〔船〕の複数形である。
 
 この呼称は後に「オキナハ:沖縄」となるが、
 これは 
 oku-nawas の音写で「速い船」との語義で
 実際また「軍船」を表わす。
 
 南部の市名
 「ナハ:那覇」は
 明らかに 
 nhas〔船の複数形〕である。
 
 沖縄におけるギリシャとの共通事項を
 二つだけ挙げておきたい。
 
 同地の信仰で使われる
 「神歌」を「オモロ」というが、
 
 これはあの
 「イーリアス」
 「オディセア」の
 
 作者といわれる
 ホメロスの元称 
 Omhros と同根語で、
 
 上記二書はともに
 「神々についての詩歌」を述べたもので
 「神歌」そのものの「オモロ:omoros」である。
 
 また
 沖縄の人々が犠牲祭あるいは日常で焼肉するのに
 ヤギを好むのは、
 地中海域〔ギリシャ・ローマ〕の祝祭で
 犠牲にされるのはヤギ〔山羊〕で、
 その伝統が沖縄にもたらされ
 遺留された伝統の繁栄である。
 
 あの
 エーゲ海は 
 Aigaion または 
 aigeos とやぎ名に係わる用語である。
 
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(5)崇神・垂仁・景行天皇の和名 [日本創世紀]

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《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー

 
 (5)崇神・垂仁・景行天皇の和名
 (a)崇神天皇:ミマキイリヒコイニエ命
 
  『古事記』御眞木入日子印恵命
  『日本書紀』御間城入彦五十瓊殖天皇
 
 ミマキ:「御」を尊敬語すれば「マキ」 maxi で
     「戦闘」を表わす。
  
  また「ミマキ」とすれば 
  memixa で「交戦する」の意味を持つ 
  meignumi 完了形で「戦闘に勝利した」の意味が
       含まれていることになる。
 
 イリヒコ:「ヒコ〔日子・彦〕」は「男子」。
 
 「イリ」は Ellas、Ellin の音写で
 「ギリシャ」「ギリシャの(人)」で「ギリシャの男子」
 
 イニエ: eunai〔錨〕、 eunaoios〔錨〕ながら
      動詞として「舟を導く」の語義がある。
 
 ◎和名の語義:戦争に勝利したギリシャ人の男にして
        軍船を引導した天皇
 
 (b)垂仁天皇:イクメイリヒコイサチ命
 
  『古事記』伊久米伊理毘古伊左知命
  『日本書紀』活目入比古五十狭茅天皇
 
 イクメ:
 iaxhma〔叫び声〕、
 iaxiu〔叫び声、叫び〕
  
 イリヒコ:崇神天皇に同じ「ギリシャ人の男子」
 イサチ:isti〔審判者(法と正義を心得ている人)、
        仲裁者〕。
  これは名詞形。
 
  形容詞形では「知っている、精通している」
 
 ◎和名の語義:神への祈りを大声で叫ぶ
 
  ギリシャ人の男にして(法と正義を心得ている)
 
  審判者の天皇
 
  「垂仁」とは「法と正義<仁>をよく心得ていて、
   それを高らかに叫び行う<垂す>」となる。
 
 (c)景行天皇:オウタラシヒコオシロワケ命
 
  『古事記』大帯日子淤斯呂和気命
  『日本書紀』大足彦忍代別天皇 
 
 タラシ:tarros〔橈〕
 大タラシ:「大きな(長い)橈」で三段橈船や二段橈船
       などの軍船で使われる橈
 
 オシロ:othros オシリス山<テッタリア地方にある山>
 
 ワケ〔別〕:別れて来た
 
 オシロ別:ここではオシロ出身の者あるいは
      オシロ出身者の子孫
 
 ◎和名の語義:(三段橈船の)大きな橈をあやつる
 
  漕ぎ手を指揮した男でギリシャのテッタリア地方の
  オシロ山地出身者の後裔
 
 「景行」の
 「ケイ〔ケヒ〕」は koppi の音写で
 「橈、櫂、橈柄」で「ケイ行」は
 「橈で行く(航海する)」で、
 「軍船を指揮する者」となる。
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(4)崇神天皇と「大和」 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー

 (4)崇神天皇と「大和」
 「神武天皇の東征」は
 「崇神天皇東征」との見解を
 これまでの「行宮」の説明から指摘強調したい。
 
 岡田宮の付近には「シマヅ:島津」との地称があり、
 
 「尊崇する、崇拝する」の語義であった。
 
 次の多祁理宮の
 
 「タキリ」は「哮」で「大声で叫び」ながら
 「神に呼びかける、祈り求める」であると紹介した。
 
 これらの意義は「神を尊敬する」のであり、
 第10代天皇の御名「崇神」と同義である。
 
 この証左から当該者の素性は明白である。
 
 さらに「大和」を考慮すればさらに確信となろう。
 
 同用語は音読み訓読みのいずれにおいても
 
 「ヤマト」とは読めない。
 
 つまり当て字である。
 
 「ヤマト」は前に紹介したヘブライ人の用語で
 「海の人」の語義である。
 
 その背景は本書の終章で解説する。
 
 崇神天皇の勢力が奈良盆地に入来する以前から
 同地に勢力のあった人々の用語である。
 
 「大和」の可能な読み音は
 「ダイワ」あるいは
 「オウワ」であるが、
 後者はすでに「大倭」として紹介した。
 
 つまり「ダイワ」のみが
 この「崇神」勢力集団と係わる呼称である。
 
 その「ダイワ」はギリシャ語における
 theo-philes〔神-愛する〕の音写で
 「神を尊崇する」との語義である。
 
 つまり「崇神」である。
 
 Theo〔神〕は
 インド・ヨーロッパ語圏の祖語を共通にし、
 
 サンスクリット語の deva 、
 ラテン語の divvas、また
 英語の divine である。
 
 Theo-philes は
 ラテン語に 
 dei-fico、deas-facio となり、
 「神として崇拝する」である。
 
 ドイツ語では 
 deifizieren〔神として崇める〕、
 
 英語で 
 deify〔神聖視する〕ともなり、 
 
 「ダイワ」とは「神として崇拝(尊崇)する」
 
 あるいは「神の崇拝者」を表わしており、
 崇神天皇の勢力の慣習を現わしている。
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(3)天鳥船・天鳥楠船 [日本創世紀]

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ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー

(3)天鳥船・天鳥楠船
 『古事記』上巻に
 
 「鳥の石楠船神、亦の名は天鳥船と謂ふ」とあり、
 
 出雲の国譲り伝承で
 
 「爾に天鳥船神を建雷神に副へて遣わはしたまひき」
 
 とある。
 
 建雷神はそこでは武神として描かれ、
 「天鳥船神」には
 それを授ける〔副へる〕性格がみえる。
 
 『日本書紀』の神代上にも
 
 「天磐櫲樟船」あるいは
 「鳥磐櫲樟船」との記述がある。
 
 同呼称の
 「トリ:鳥」はギリシャ語の
 tri〔英語のthree〕の音写で「三」を表わす。
 
 「イワクス:石楠・磐櫲樟」も
 aiakos〔舵、舵柄〕の音写である。
 
 「鳥船」とは「三段船」、
 「石楠船」は「舵船、舵取船」となるが、
 これは「舵付三段橈船」で、
 いわゆる古代ギリシャや地中海東岸域で
 盛んであった「軍船」の称である。
 
 三段橈船は
 (2)の「(b)多祁理宮」でふれた。
 
 この勢力集団の重要な軍備である。
 
 ギリシャ語での同語は
 tri-hreos、
 tri-hris などと表記される。
 
 「延喜式」神名帳備後国〔広島県東部〕
 品治郡に載る
 
 「多理比理神社」名の
 
 「タリヒリ」は同語の音写であるし、
 
 「箆取神社」〔倉敷市連島〕の
 「ヘラ:箆」も
 その
  hres、hris音写で、神社名は「橈取」、
 
 つまり「船子」で
 古来船乗りたちの信仰が篤かった由縁もそこにあり、
 理解できる。
 
 ギリシャの三段橈船は、
 漕ぎ手が船眩左右に百人近くが階段状に並び、
 長い船外に突出する橈(櫂)を一本ずつ担って
 指令者の合図(笛あるいは太鼓)に合わせて漕ぐもので、
 速く漕げば速度は増す。
 
 その用員は船が大きくなると二百人位、
 小さい船でも五十人は位ほどが運行に使われた。
 
 当該「天鳥船」の漕ぎ手たちは
 また戦士でもあったはず。 
 東征に当たっての船数はそう多くはなく、
 二、三船にすぎなかったろう。
 
 つまり戦闘兵数も多くて
 三百人程度と少人数であったとみられる。
 
 そうした小規模の軍団でよくも
 多数の兵士を用意できる
 「敵」を征し得たものだ。
 
 そこには武器の違いがあったはずである。
 
 本書では詳しい解釈は除くが、
 当軍団は鉄製の武器を使用したのである。
 
 同時代在来の勢力の使用する
 金属武器は青銅製のもで、
 その効果において絶大な戦力差がある。
 
 鉄の精製や鉄鍛冶のギリシャの技術は
 「ふいご」にあった。
 
 あの安仁神社〔高嶋宮〕の所在地名
 「藤井」は
 phusi〔吹く、ふいご〕の音写で、
 同地で鉄剣などを製作したと推測される。
 
 「高嶋」を「コウシマ」とするのは
 kausomai〔熱くする〕、
 
 単に「コウ」であっても
 kau と同義であるからである。
 
 『日本書紀』は同所で
 「兵倉を蓄えて」といっている。
 ※三段橈船
M.K記
 

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①-1」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 
《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」》
 14.福山市内浦町田島 
 
 内浦に神武天皇滞在を伝える
 宮址の皇森神社がある。
 
 ここも高嶋宮址であり、
 しばらく滞在したと伝える。
 
 周辺に行幸伝承地が多く、
 滞在期間は長かったと思われる。
 
 15.福山市田尻町 
 
 田尻町にある高島は
 現在は半島部になっているが
 昔は島であった。
 その南端部に八幡神社があり、
 高島宮址の石碑がある。
 
 しかし、宮址は少し北の宮原の地と伝える。
 
 昔橿原神社があったそうであるが
 八幡神社に合祀されたそうである。
 
 ここも滞在期間が長かったようである。
 
 ここに滞在中出雲との往復をしているようで、
 内陸部に入り庄原市の葦嶽山で祭祀をし、
 使者を出雲の言代主命に挨拶に遣わした。
 
 神武天皇自身は高野町にも伝承地があり、
 高野町を越えて出雲往復をしたものと
 考えられる。
 
 この後、
 岡山県笠岡市や岡山市の高嶋宮にも滞在し、
 大和に向かった。
  
 このように神武天皇は
 広島県にかなり多くの伝承を残している。
 
 滞在の順番は方向性を考えながら
 推理したものである。
 
 すべてが真実とはいわないが、
 真実の要素はかなりあるのではないかと
 思っている。
 
 はっきりわかることは、
 一般には武器調達とか
 大和の様子見とか言われているが、
 これほど方々にしかも
 長期間滞在するというのは
 そのような理由によるものではないこと
 を示している。
 
 この滞在の理由をここでは考えてみたい。
 
 「島県内の九州系遺物 」
 
 広島県地方には後期中葉あたりから、
 畿内系土器に混じって、
 大分系土器が出土するようになる。
 
 さらに、
 九州地方に限られていた九州系の鉄器が
 この地方のみに出土するのである。
 
 大和朝廷成立と前後して
 大分県地方からの人々の流入が
 あったことが推定される。 
 
 大分系土器は、
 三原以西の沿岸地方を中心に分布し、
 北部や東部には見られない。
 
 継続がなく、しばらくすると出土しなくなる。
 
 一方、
 畿内系土器は、
 ほとんどの地域に分布するがその数は少ない。
 
 そして、
 出土は時期的に限られたものではなく、
 恒常的で、古墳時代以降にも継続している。
 
 いずれの土器も
 在地系土器と混在する形で出土している。
 
 これは畿内系と違って、
 大分系の人々の流入は
 一時的なものと判断される。
 
 そして、
 土器が在地系と混在していることは
 共に在地の人々と
 共同生活をしたことを意味している。
 
 これは共通の精神基盤がなければ
 不可能なことである。
 
 共に、大和朝廷によって統一され、
 スサノオを最高神として
 崇めていたためにできたのではあるまいか。   
 
 大分系土器は、
 出土地域が限定されていること、
 九州系の鉄器が同じように出土していること、
 時期的に限定されていることから、
 鉄生産を目的とした
 大分県地方からの集団移住と
 とらえることができる。 
 
 また、
 後期中葉に広島県地方に
 九州のAタイプの槍鉋の出土が見られる。
 
 地域は大分系土器の出土領域と重なっている。
 
 大分系土器を持ち込んだ人々が
 槍鉋を持ち込んだと思われる。
 
 「市杵島姫」 
 
 大分県の宇佐地方で
 スサノオとムカツヒメの子として
 生誕した三娘のうち、
 市杵島姫の伝承が広島県下に残っている。
 
 栗原基氏著
 「新説日本の始まり」によると
 広島県高田郡向原町の
 大土山に住んでいた市杵島姫の子供が
 行方不明になったのをきっかけとして、
 
 向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→
 東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→
 東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→
 生口島→
 大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→
 江田島町伊関→廿日市市宮内→
 大竹市→宮島町と転々と移動している。
 
 この滞在の地には
 いずれも厳島神社が存在している。
 
 そして、
 この転々としている領域と
 大分系土器の出土する領域が
 一致しているのである。
 
 市杵島姫がその一族と共に
 大分から広島へ
 移住してきたものと考えられる。
 
 「女王アマテラス」によると、
 市杵島姫は九州へ住んでいたころ、
 ニギハヤヒの子である
 サルタヒコと結婚していた。
 
 サルタヒコが出雲統治に行った後、
 広島県地方に移ったのではあるまいか。
 
 大分県地方から瀬戸内海を渡って、
 広島県地方に上陸するコースを考えてみると、
 崖が迫っているところは上陸しにくいので、
 広島湾に入り込み、
 そこから三篠川に沿って
 上流に移動することが考えられる。
 
 川をさかのぼっていくと、
 その先に大土山がある。
 
 大土山のある向原町には、
 水田の跡と考えられる伝承地が点在している。
 
 この伝承地は
 神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、
 神武天皇の行動と内容が
 よく似ている伝承もある。
 
 また、
 厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われるが、
 市杵島姫を祀っているのも事実である。
 
 この二人に深い関連性を見ることができる。
 
 市杵島姫と神武天皇は
 同時に広島へやってきたのではないかと
 考えている。
 
 「神武天皇安芸国および
  吉備国長期滞在の理由」 
 
 神武天皇の伝承地の集中度を調べてみると、
 よく言われている
 府中町の多家神社周辺ではなく
 福山市周辺である。
 
 多家神社の埃宮と
 福山市周辺の高嶋宮がそれに該当する。
 
 岡山県下にも高嶋宮跡があるが、
 伝承の集中度では福山市が圧倒している。
 
 伝承が多いところに
 長期間滞在したと判断してよいと思われる。
 
 また、
 その間でも方々に
 長期間滞在しているようである。
 
 何のためにこんなに方々で
 滞在したのであろうか。
 
 滞在地の何箇所かで
 巨石祭祀をしているのである。
 
 大規模な巨石を用いており、
 神武天皇と同行している人々だけの力では
 これだけの祭祀施設を作るのは
 無理ではないかと思われ、
 さらに、
 瀬戸内沿岸地方は神武天皇の所属していた
 西倭でも合併する日本国でもない、
 出雲国の支配する東倭に所属する地域である。 
 
 また、
 広島県北部に残る神武天皇関連の伝承は
 比婆郡西条町高の今宮神社の伝承や
 庄原市本村の葦嶽山に伝わるものなど、
 出雲との交渉を示すものがある。
 
 出雲との交渉が
 滞在目的のひとつであったのは
 間違いがないであろう。 
 
 これらから判断して
 この地域の人々を味方につけるために
 神武天皇は
 各地に長期間滞在したのではないかと
 考えるのである。
 
 何のために
 この地域の人々を取り込む必要があったのか。
 
 合併後の大和朝廷の政治に目を向けてみると、
 大和朝廷は海外からの技術導入に
 力を入れなければならず、
 そのためには北九州主要部(伊都国)は
 重要拠点となる。
 
 実際に
 伊都国は後期中葉以降畿内系土器が
 集中出土するようになり、
 方形周溝墓も出現するようになる。
 
 考古学的視点に立っても
 大和朝廷は
 北九州主要部を重視していたことは
 明らかである。
 
 朝廷のある大和から
 伊都国との交流が大切なものとなるが、
 その経路上のほとんどの地域は
 東倭に所属しているのである。
 
 このままでは朝廷成立後の日本国の運営に
 大きな支障が出ることは
 誰の目にも明らかである。
 
 神武天皇としては、
 この状態は何とかしなければと
 考えたに違いない。
 
 どうすれば解決するのであろうか。
 
 一番よいのは
 瀬戸内海沿岸地方を
 東倭から譲り受けることである。
 
 そのために選ばれたのが
 広島県地域ではないのか。
 
 このように考えると
 神武天皇の行動は自然なものとなる。 
 
 この仮説を別方面から
 検討してみることにする。
 
 まず、
 後期中葉の広島県下の土器に変化が
 起こっている。
 
 後期初頭までは
 出雲系土器がまばらに出土していたが、
 後期中葉になると出雲系土器が消滅し、
 
 変わりに畿内系土器の出土が始まるのである。
 
 隣の岡山県や島根県地方には
 この傾向が見られないことから
 広島県地方のみの傾向である。
 
 これは、
 出雲から広島県地域が
 朝廷支配地域になったことを意味している。
 
 しかし、
 朝廷支配地域に出現する
 方形周溝墓が出現せず、
 また、
 出土する畿内系土器は祭祀系土器ではなく、
 日常生活用土器である。
 
 これは
 出雲から広島県地域を譲り受けるときに、
 祭祀をしないという条件があったものと
 考えれば説明がつく。
 
 出雲はスサノオ祭祀をしており、
 日本国はニギハヤヒ系祭祀であるから、
 出雲がそれに抵抗を示すことは
 当然考えられるのである。
 
 伝承では
 言代主は神武天皇からの使者の言葉に
 一度は怒り追い返しているのである。
 
 その後使者の言葉を受け入れている。
 
 もし、
 神武天皇が日本国におもむき、
 西倭との合併の挨拶だけであれば、
 神武天皇が
 日向を出発する前に
 話がついているのであるから
 言代主が怒るはずがない。
 
 広島県地域を譲れという
 思いがけない言葉に怒ったのである。
 
 市杵島姫による説得が功を奏して、
 言代主も納得し宝剣を渡したものと
 考えられる。 
 
 神武天皇が
 福山市周辺で長期間滞在したのも説明がつく。
 
 後期初頭までの出雲系土器がよく出土するのは
 北部地域と芦田川流域である。
 
 この地域をつなぐと、
 瀬戸内海沿岸地方と出雲との交易ルートが
 浮かび上がってくる。
 
 福山周辺の伝承でも、
 スサノオは出雲の斐伊川の川上から
 福山周辺にやってきたことが伝えられている。
 
 出雲と、
 瀬戸内海沿岸地方との交易ルートは
 この経路であることがわかる。
 
 神武天皇がこの地域に長期滞在をし、
 さらに巨石祭祀を行なっているのは
 この地域の人々の心をつかむのと、
 出雲との交渉のためと考えられる。 
 
 そこで、
 交渉の代表者として登場するのが
 市杵島姫となる。
 
 彼女はこの当時生存していた
 数少ないスサノオの娘である。
 
 さらに、
 出雲のサルタヒコは北九州にいたとき、
 この市杵島姫を妻にしていたのである。
 
 出雲の言代主にとって、
 頭の挙がらない人物の一人であろう。
 
 神武天皇もそれを計算して
 宇佐から彼女を同行させたと考えるのである。 
 
 このように考えると、
 神武天皇の長期滞在理由、
 土器の出土状況、
 市杵島姫の広島への移動すべてが
 説明できるのである。
 
 東倭から譲り受けた後の広島県地域は
 市杵島姫が統治していたものと考えられる。
 
 市杵島姫の伝承地が
 転々と移動しているのも地域を
 まとめるためと考えられ、
 大分系土器が出土するのも
 そのためと考えられる。 
 
 安芸国に滞在しているときに、
 出雲国との交渉によって、
 安芸・備後(現広島県)を
 東倭から譲り受けた後の経路については、
 神武天皇が大和で即位した後の
 北九州との航路を安定化するために
 要所となるところに寄港地を
 作るために方々に
 滞在していたのではあるまいか。
 
 磐田山の天津磐境は
 航海の安全を祈る祭祀施設かもしれない。
「後の滞在推定値」 
 
 福山市田尻町の高島宮址を出航した、
 神武天皇一行の
 その後の立ち寄り地を探ってみることにする。
 
 大阪湾岸に到達するまでに、
 以下のような伝承地が存在している。
 
 1.岡山県笠岡市高島 
 
 笠岡諸島のひとつの島である高島には
 高島神社がある。
 
 明治維新までは
 「神武天皇宮」
 「神武天皇社」
 と呼ばれて崇拝されていた。
 
 社は小さいが神武天皇が
 東征された際の仮宮である
 吉備高島宮の跡と言われている。
 近くの最長には高島遺跡が存在している。
 
 長期滞在には不向きと思われ、
 海が荒れたため立ち寄ったのではないだろうか。 
 
 2.児島湾に浮かぶ高島 
 
 児島半島はこの当時島であり、
 児島湾は東西に通じていた海峡であった。
 笠岡の高島を出航した神武天皇一行は
 この海峡に沿って東行し、
 旭川河口にある高島周辺で船を休めた。
 高島は大変小さい島で、
 児島湾上に浮かんでいる。
 
 この島及び児島半島の北岸に
 神武天皇が滞在したという伝承地がある。
 
 このような島に大人数が
 長期滞在するのは無理であるので、
 長期滞在地を探すために
 短期間滞在したのではないかと創造する。
 
 ここに滞在中、
 龍の口山の麓に長期滞在地を
 選定したものと考える。 
 
 3.岡山市賞田、龍の口山の南麓 
 
 岡山市市街地の北西部旭川のそばに
 龍の口山がある。
 
 その南麓に高島神社が存在し、
 神武天皇が滞在した址と伝えている。
 当時はこの近くまで海だったようで、
 児島湾の高島から
 この地に移ったと考えられる。
 
 大和へ向かう経路上より北へずれているため、
 長期滞在したのではないかと考えられる。
 この地より10kmほど南東に兄である
 五瀬命が滞在したと伝えられている
 安仁神社が存在している。
 昔はこの鶴山の麓まで海であったそうで、
 入江の奥の良港だった。
 
 後方の山には磐座や列石があり、
 古代の祭祀跡と見られるところに、
 神武東征の船の
 「ともづな」を掛けたといわれる
 「綱掛石神社」などがある。
 
 この安仁神社の地は
 神武天皇が龍の口山の高島宮に滞在中に
 五瀬命が滞在していたと推定する。 
 
 日本書紀から推定すると、
 ここを出発したのが
 AD81年7月下旬となる。
 
 4.兵庫県家島 
 
 神武天皇が東征の時、海があれ、
 嵐を避けるために家島に御寄港した。
 
 島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、
 まるで自分の家にいるようだったことから、
 「家島」と名づけられたと伝えられている。 
 
 家島は、
 古くは、国生みの島オノゴロ島、
 胞島(エジマ)と呼ばれていた。
 
 その後家島と呼び名を変え、
 瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、
 風待ちの非難港として栄えてきたとも
 いわれている。
  
 「播磨鑑」には
 次のような説話が伝えられている。
  
 「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、
  沖で釣をしていると、
  吉備水道を抜け出て来た船団が
  播磨灘に向かってやってきて、
  翁がこの海に関して詳しい事を知り、
  翁に道先案内を頼みました。 
 
  船団は、
  家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、
  食料の補充をして数年間がたちました。
  そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。
  難波について翁は手柄を褒められました。
 
  翁の亀は、忙しい主人をおいて、
  先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
 
 この話は
 神武天皇の東征時の説話といわれている。 
 
 神武天皇一行が高島を出航したのが
 戊午2月11日で、
 難波の白肩津に着いたのが3月10日なので、
 この間約15日(この頃の1ヶ月は15日と推定)。
 距離から考えて
 家島には五日ぐらい
 滞在したのではあるまいか
  M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 
《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」》
「神武天皇の広島県下での行動について」
 
 昭和16年 
 広島県発行の「神武天皇聖蹟誌」に
 広島県下における神武天皇の行動の跡を
 伝える伝承が詳しく記録されている。
 この伝承をまとめてみると次のようになる。 
 
 1.厳島
 
 日向を発した神武天皇は広島県沖に達したとき、 まず、
 宮島の南端の須屋浦に上陸し
 現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。
 
 渡辺綱吉氏
 「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、
 厳島神社の本当の祭神は
 神武天皇ではないかと書かれている。
 それは昭和15年の
 「厳島神社御由緒等調査記」に
 神武天皇の時代に御鎮座とあり、
 最初に神武天皇が
 この島を訪れているからである。
 
 また、
 島内の山中には巨石を用いた
 祭祀の痕跡が残っている。
 
 これも神武天皇が祭祀したものと思われる。
 
 2.廿日市市地御前 
 
 宮島を発した神武天皇は
 地御前の地御前神社の地に上陸した。
 神社西側の入り江を有府水門といい、
 ここに着岸されたという。 
 
 3.廿日市市串戸
  
 地御前で休息の後、海岸に沿って船を進め、
 串戸に入り広田神社の地
 (近くに天王址碑あり)に着いた。
 天皇が天王社(広田神社)の御戸を開き
 玉串を奉典し奉ったことにより
 串戸と名づけられたという。 
 
 4.廿日市市宮内 
 
 それよりさらに御手洗川に沿って奥地に入り、
 宮内の大幸の八坂神社の地でしばらく滞在した。
 
 天皇がしばらく滞在したため
 宮内と呼ばれるようになった。
 
 5.広島市古江 
 
 その後広島市古江に上陸し
 現在の八幡神社の地にしばらく滞在。
 
 ここを多紀理宮という。
  
 6.安芸郡江田島町切串 
 
 その後、
 江田島に渡り切串の
 長谷川の河口にある丘陵地に
 宮をつくりしばらく滞在。
 
 洪水にあったために
 府中町多家神社の地に移動。
 埃宮とは江の内の意味で
 広島湾岸を意味している。
 
 7.安芸郡府中町多家神社 
 
 かなり長く滞在したようで、
 この滞在中矢野や船越方面にも
 出向いているようである。
 
 このとき(?)皇兄の五瀬命が
 瀬野にて賊退治をしている。
 
 日本書紀から推察すると、
 AD79年12月頃と思われる。
 以下は多家神社滞在中のことと思われる。
 
 ・広島市可部町舟山・・・
  広島湾を北上し広島市可部町舟山に着岸し、
  徳行寺境内の総社の地にしばらく滞在。
 
  このとき惠坂や螺山方面にも
  足を伸ばされている。
 
 ・高田郡吉田町宮之城・・・内陸部に入り、
  宮之城の丘陵にある埃宮神社にしばらく滞在。
 
 ・賀茂郡西条町寺家・・・新宮神社に
  腰掛岩がある。 
 
 ・賀茂郡福富町竹仁・・・
  橿原神社(現在は森政神社に合祀)に
  神武天皇が来遊したと記録されている。 
 
 ・比婆郡西条町高・・・今宮神社に伝承あり。
  埃宮に滞在中出雲との関係を生じ
  この地を数度訪問した。
 
  物資を出雲より取り寄せた。
 
  と言い伝えられている。 
 
 ・比婆郡高野町南・・・
  男鹿見山の麓にある八幡神社に
  大昔より鉾を神宝として伝えている。
  神武天皇が鬼城山の鬼を退治したときの
  鉾と伝える。
 
  この周辺も高嶋という。
 
  この周辺に神武天皇伝承地が多い。
  
  多家神社を基点として方々を巡回後、
  当神社を出発、
  呉市天応
  (立ち寄り伝承あり、
   天応の名も天皇の
   立ち寄りからつけられる)、
  呉市(賊退治伝承あり)と経由し、海に出る。
 
  蒲刈島南方海上を東へ向けて進行中、
  南風を受け船の梶が折れたために、
  上下蒲刈島の間の三ノ瀬に船が入りこんだ。
 
  下蒲刈の向浦に着岸し
  天頭山の岸辺で船を修繕。
 
  このとき蒲を刈ったので、
  ここを蒲刈と名づけられた。
 
  そこから内海に出てさらに東へ進んだ。
  
 8.豊田郡瀬戸田町名荷 
 
 蒲刈を出た天皇一行は瀬戸田町の名荷に到着。
 
 斎串を立てて祀ったので
 この島を生口島と呼ぶようになった。
 
 島の嶽山の麓にあった
 江ノ神社の地に
 しばらく滞在したとの伝承あり。
 
 近くに船を止めたという場所や
 神武天皇使用の井戸の跡、窯の跡、
 斎田の跡などの伝承あり。
 
 伝承内容からしてかなり長い滞在と思われる。
 
 9.豊田郡大崎町大長 
 
 神武天皇が立ち寄ったという。
 付近の島々にも支船を停泊させたと伝える。
 
 また、
 この地に着く前に一支隊が
 四国(三津浜)に立ち寄ったともいう。
 
 10.因島市大浜 
 
 斎島神社由緒
 「昔神武天皇、東国に行かれるとき、
  風波のため航海ができず、
  この大浜に船を留め寒崎山にて
  数日嵐の静まることを天神に祈られた。
  即ちこの島は斎島である。
  後に変わって隠の島(因島)となる。」
 
 11.尾道市高須町 
 
 ここからは備後の国であり、
 滞在地を高嶋宮と伝えている。
 大元山麓の八幡神社の地に
 しばらく滞在したと伝える。
 
 ここから2kmほど南西の大田地区で
 武器製造・貯蔵をしたと伝えられ、
 神武天皇はしばしばここを訪れたそうである。
 
 ここも滞在期間は長かったようである。
 ここに着いたのが
 日本書紀よりAD80年2月頃と考えられる。
 
 12.福山市金江町 
 
 貴船神社があり、ここに船を止めた。
 
 近くの竜王山西麓に
 神武天皇滞在伝承地があり、
 この周辺を高嶋宮という。
 
 石碑もある。
 
 また、
 鏡山の今伊勢神宮に八咫鏡を奉祀した。
 
 そのため、この地を神村という。
 
 近くの磐田山に天津磐境をつくり祭祀をした。
 
 天津磐境の岩を運んだという伝承地もあり、
 このあたりに神武天皇伝承地が極めて多い。
 
 かなり長期にわたって
 滞在したものと思われる。
 
 13.沼隈郡浦崎町 
 
 浦崎町中央部の王太子山中腹に
 王太子神社があり、
 神武天皇の滞在を伝える。
 
 また、
 近くの戸崎に神武天皇上陸伝承地がある。
 
 
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-2」 [日本創世紀]

 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-1」》


 多家「タケ」
 (Grk.)ταγη(tagi/tage)
     支配者、命令を下す者、戦列・前線
    ταγος(tagos)指揮者、支配者
 
 ※多家神社の所在地が
  多祁理宮のあった所とは必ずしもいえない。
 
  特に多祁理宮を
  現在の府中町に想定することは、
  速谷神社の鎮座理由からして不適当。
 
  安藝國の立国時の政治的中心地は
  現在佐伯郡にあったことは
  明らかであり、
  後の國郡制が設けられる時に至って
  府中町方面にその中心が
  移転したものとみられ、
  多家神社はその時代からの鎮座と推測される。
 
 「オホイヱ」「オホイエ」
 (Grk.)οιαζ(oiaks)、αιάκος  
     <舵、舵柄>の転訛か?
 
 ◎多祁理宮の比定地
 
 (1)廿日市市廿日市高州
 
 高州「タカス」
 (Grk.)ταγος(tagos) 指揮者、支配者
    高洲とは表記されないので砂洲ではない。
 
 (2)廿日市市  
   
 峰高「ミネタカ」(旧名)宗高尾「ムネタカ・オ」、
  尾は七尾というように丘陵の尾根の意味
 
 「ミネ」・「ムネ」
 (Grk.)μενο(meno) 
    μενεμεν(不定詞、叙事詩menemen)  
    μενησι(menysi三人称単数) 
  ◦持ち堪える、(特に戦いで)踏み留まる、
   (攻撃に)耐える
 
 「タカ」
 (Grk.)ταγη(tage)
     戦列・前線、支配者、命令を下す者
 
 「ミネ・タカ」
  戦いで踏み止まっている前線
  戦いの前線で踏み止まっている支配者
 
 ※(1)、(2)とも
  東征の前線に駐屯した支配者の駐留地として
  適しい遺称といえる。
 
 ◦福山:ふくやま(廣島県)
 市の中央にある丘陵。福山に依る地名。
 この山は蝙蝠(こうもり)山とも称された。
 
 「こうもり」
 (Grk.)ημερά(hmera) イオニア訛り 
    ημερη(hmeri)
     η(h)は時としてkh(k)と発音される。
 
 「フク」
 (Grk.)ψεγγος(pheggos)日、昼間
    ψεγγους(pheggoys)
     光、輝き、(特に)太陽の光、眼の光、
     燈火
    ψεγγω(pheggo)光り輝く(形容詞)
 
 旭ヶ丘(福山市東南部の丘陵)旧安那郡のうち、
  旭:朝日
 
 引野:ひきの(福山市)旭ヶ丘の西部から
    西北部に広がる地名
 
 「ヒキ」
 (Grk.)ψεγγω(pheggo)光り輝く(形容詞)
    ψεγγους(pheggoys)
     輝き、(特に)太陽の光※朝日に対応する
 
 燧灘:ひうちなだ
    (広島、愛媛、香川3県にまたがる灘)
 
 「ヒウチ」はψεγγος(pheggos)に係わる。
 
 ◦安那郡(備後国東南端の郡名)
 
 「アナ」
 (Grk.)άνα(ana)、άναξ(anaks)、άνακτος    (anaktos)の呼格(voc)
     王、支配者、領主など
  備前国邑久郡安仁神社の「安仁:あに」と同根
 
 ◦多理比神社「延喜式」神名帳 
  備後品治郡 訓「タリヒノ」
 
 「タリヒリ」三段橈船
 (Grk.)τρι-ηρης(tri-hris)
    τρι-ηρεες(tri-hrees)
    τριηρης(trihris)
 
 品治(ホムヂ)郡(現)福山市駅家町周辺
 
 「ホムヂ」(旧名品遅「ホムチ」)
 (Grk.)Ημαθιη(Hmathih/Émathië)
 (現)福山市駅家町坊寺の
   「坊寺」/法師村(江戸時代)
 ※マケドニアの古称<ここではマケドニア人>
 
 江良(福山市駅家町江良)
 
 「エラ」
 (Grk.)ερετμον(eretmon)橈
    ηρης(hris:eris)橈/櫂
    ηρεες(hrees:erees)橈/櫂
 
 大草神社(江良にある)
 
 「オホクサ」
 (Grk.)αικαος(aiakos)舵、舵柄
    οιαξ(oiaks)舵、舵柄
 
 ◦蘇羅比古神社「延喜式」神名帳
  備後国三上郡 訓「ソラヒコノ」
 
 「ソラ」① 
 (Grk.)σολος(solos)鉄の塊
  (現所在地)
 A:広島県庄原市本村町 蘇羅比古神社 
  鍬寄山にある。
 B:広島県庄原市高町川西 蘇羅比古神社
  ※当地は古代より鉄の産地、両地の間にある。
   大黒目山の「黒目」は磁鉄鉱を表わす。
   また、
   篠津原(字名)は(Grk.)の「鉄」を意味する
   σιδλος(sidlos) に係わり
   「篠:ササ」は砂金を表わしている。
  ※当社の創建の理由は
   この「鉄塊」の産地であることに始まると
   考える。
   但し、その後、その解釈は変更される。
 
 「ソラ」② 
 (Grk.)σελας(selas)光、光輝、電光、火
  つまり、電光・雷光(稲妻)の意味が加わる。
  なぜか、
  郡名「三上」・「延喜式」神名帳 訓「ミカミ」
 
 「ミカミ」
 (Grk.)μυκεμα(mykema)咆え声
    μυκαομαι(mykaomai)
     轟く、大きな音をたてる、咆える、唸る
     >雷鳴を表わす。
  ※鉄塊の神から
   「雷神<雷電(光)>の神」へ変わっていった。
   本村町に岳音寺という寺院がある。
   「山(岳)の音」とは雷鳴を窺わせる。
   その本村町の東方
   比婆郡東城町の庄原市よりに
   御神山「ミカミヤマ」があり、
   その北方辺に「帝釈」を冠した地域もある。
 
   帝釈は仏教用語で本来は
   インドのヴェータにおける最高神にして、
   雷神の性格を持つインドラ神の語義であり、
   「ミカミ」が「雷電」に
   係わっていることを示している。
 
   この「三上」は
   滋賀県野洲郡野洲町の三上、三上山と
   同根である。
 
 野洲「ヤス」
 (Grk.)Yης(Yes、本来はディオニソス神の呼称)
    豊饒をもたらす雨神
 
 「ヤツ」
 (Grk.)υετος(yetos) 雨、(特に)激しい驟雨
    υετιος(yetios) 雨をもやらす、雨の
 
 東城町・西城町の「シロ・城」
  この地域が鉄の産地であることから 
  σολος(solos)が語源であろう。
 
 C.高嶋宮〔岡山県〕
 
 『古事記』古事記 中卷
 
  亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐
 
  また其の國より遷り上り幸(いでま)して、
  吉備の高嶋の宮に
  八年(やとせ)坐しましき。 
 
 『日本書紀』卷第三 
  神武天皇(神日本磐余彦天皇) 
 
  乙卯年の春三月の甲寅の朔己未に、
  吉備國に徙りて入りましき。
  行館を起りて居ます。
  之を高嶋宮と曰ふ。
  三年積る間に舟檝を脩へ、兵食を蓄へて、
  將に一たび舉げて天下を平けむと欲也。
 
 「延喜式」神名帳 備前國邑久郡
 ◦安仁(アニノ)神社名神大
 「特選神名諜」
  安仁神社 備前國邑久郡
   名神大、
   祭神:五瀬命(潔云五瀬命と云ふは
          近年云出したる妄説なり)
   祭日:十月三十一日至十一月一日
   社格:國弊中社
   所在:藤井村宮城村(邑久郡大宮村大字藤井)
 
 ◦安仁「アニ」
 (Grk.)άνα(ana)、άναξ(anaks)、
    άνακτος(anaktos)の呼称
   ◦王、支配者、領主、主人、貴族、
  命令者、指揮者
  安仁神社は「久方(ひさかた)宮」
  と呼ばれてきた。
  久「クス」
  (Grk.)άναξ(anaks)のξ(ks)の転用
  ※このことから
   安仁神社とは「王 神社」の語義となる。
   同神社近くに、大王寺が建てられ
   地名となって残っているのも参考となる。
 
   ◦宮城山、(式内社調査報告)別名 鶴山「ツル」
  (Grk.)θυρα(thura)、
     θυρη(thuri、イオニア訛り)
     戸、扉、戸口、門
     ◦邸、宮殿:宮城
   宮城・鶴(つる)は同義で「宮殿」を表わす。
   よって安仁神社は"大王(王)の宮殿"を
   継承するもので、高嶋宮の位置である。
 
 藤井、宮城山のある地域で、旧村名、現大字名
 
 「フジ」
 (Grk.)ψως(phos)
    日、一日、
    ◦燃える火の光◦燈火◦眼の光◦眼
    アテネ神の「輝く眼」に対応する。
    〈久方(ひさかた)の「ヒサ」にも対応〉
 
 東片岡、西片岡
 (安仁神社のある西大寺一宮の西隣りの地区名)
 
 片「カタ」
 (Sk.)ketu 光、光輝、光明、燈火、指導者
 
 朝日(片岡にある字名)ketuに対応する。
 ketuに指導者の意味もあることからすると、
 片岡とは鶴山/宮城山を指している。
 
 滝神社(西大寺一宮)安仁神社の近くに鎮座」
 
 「タキ」
 (Grk.)ταγη(tagi)
    支配者、命令を下す者、戦列、前線  
 
   ◦邑久(おく)郡(古代~現在の郡名)
  「延喜式」民部省國郡表
  九条家本「オホク」
   ◦邑久郷「和名類聚抄」邑久郡のうち
  大化改新(乙巳の変)以前「大伯国」
 
 「オホク」「オク」
 (Grk.)ογκα(ogka)アテネΑθνα神の呼称
  ◦ογκαはまた「オンガ」とも訛り、
  遠賀:オンガ(福岡県)と係わり、
  この邑久・オクも崗水門の「オカ」
  (船の停泊地)であったかもしれない。
 
   ◦幸島「こうじま」(岡山市)片岡・邑久郷の西方
  水門湾お奥で現在水門町となっている地域は、
  元"幸島"と呼ばれる島であった。
  付近の地名 
   神崎(こうざき)、幸田(こうだ)、神崎町 
  ※その他 幸島・こうじま(笠岡市)
 
 「コウ」〈コフ〉
 (Grk.)κωπη(kopi) 
    櫂・カヒ、橈柄、
    ◦軍船(橈船)の寄泊地を
    「コウ」で表わしている。
 
 ※高嶋宮は一般に
  「タカシマ」と訓まれてきたが、
  「コウシマ」と訓む方が真実らしい。
  安仁神社と幸島は3㎞程の距離にあり、
  水門湾の呼称は崗水門(福岡県)と共通であり、
  この静かな湾内に
  軍船を停泊させていたものだろう。
 
  古代の当時は海域が東片岡、つまり
  安仁神社の麓辺りまで入りこんでいた。
  
  船の停泊には最も静かな
  安全地帯であったはずである。
 
  ◦高島・たかしま(岡山港近く、児島湾の島)
  高島神社(岡山市宮浦)
  高島に祭儀の跡を持つ
  高島遺跡があることから、
  この辺りに高嶋宮あったの説もあるが、
  同地はあくまで祭祀場にすぎず、
  軍団の停泊地たり得ない。
 
  祭祀遺跡の遺物は5世紀以降、
  その後半から6世紀前半が盛ん。
 
  ◦阿知〈上下〉(岡山市)邑久郡の東方
        西大寺一宮(安仁神社)の北方
 「アチ」
 (Grk.)Ατθη(Atthi)、Ατθις(Atthis)、
    Αττικη(Attikh)・アッチカ地方
  Αττικηはアテネを主祭人とする。
  ギリシャのイオニア人が建立した
  アテネを含む地方名
 
  ◦阿智郷(倉敷市)
   【古代】「和名類聚抄」
   備中國に浅口郷8郷の1つ。
   (現)倉敷市西阿知町
 「アチ」Ατθη、
 浅口郷「アサクチ」Αττικη(アッチカ)
 
 阿知〈倉敷市〉倉敷の古名 
        (現)倉敷駅の東付近
  阿智神社(倉敷市鶴形)鶴形山に鎮座(山頂)
   ※アッチカの祭神を祀る神社 
  足立神社 「延喜式」神名帳 備中國窪屋郡
  足立神社訓「アシタカノ」
   (現)倉敷市笹沖(旧名篠沖)
  「式内社調査報告」第二十二巻、p.424
   葦高宮、葦高大明神、葦高明神
 
 「アシタカ」
 (Grk.)Αττικη(アッチカ)
 
 「倉敷」
 (Grk.)κελεω(keleysma)
    命令、呼び声、掛け声
        κλησις(kliss)
    呼ぶこと、呼びかけ、呼び名
 
 「クラシキ」
 (Grk.)καλεω(kaleu)
        (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、
    ◦呼び掛ける、呼ぶ
 
 ※「神の名を呼ぶ」のは
  「神を尊崇する」ことであり、
   岡田宮(福岡県)、多祁理宮(広島県)の地名
   などに連なる性格である。
   これらのギリシャ語に従い、
   漢字を当てたももだろう。
   その延長に「児島」はある。
 
 「児島」コシマ、コジマ(倉敷市)
  【古代】「延喜式」民部省國郡表にみえる
   備前國8郷の1つ。
   九条家「コシマ」
   「和名類聚抄」の訓「古之末」
   「延喜式」神名帳 児嶋郡の訓「コジマ」
  ※倉敷市の当該地区はかって"島"であった。
   
 「児」の由来、
   「クラシキ」の語源に発音が近いギリシャ語
 (Grk.)κορος(koros)、κωρος(koros)
    少年、若者を意味し、「児」に相当する。
 ◎児島はこのような相互関係
  で生まれた島名地名である。
 
 箆取神社(倉敷市連島・つらしま西之浦)
  西阿知の南隣が連島地域
 
 箆「ヘラ」
 (Grk.)ηρης(hris)、ηρεες(hrees)
    橈柄、櫂(かい)
 「ヘラ取」櫂取、つまり「船の漕ぎ手」を表わす。
 船乗りの信仰が厚かったのはこの理由による。
 
 連島・つらしま(倉敷市)
 【古代】
 「和名類聚抄」備前國児島郡4郷の1つ。
        都羅郷の比定地、高山寺本
 豆良「ツラ」
 (Grk.)θυρα(thura)◦邸、宮殿」、戸、戸口、門
 ◦ 何時の時か、船乗りたちの親方などの邸宅が
  箆取神社辺りにあったものだろう。
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」 [日本創世紀]


 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」》

  

 A.岡田宮〔福岡県〕

 

 『古事記』

 於筑紫之岡田宮一年坐。

 亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。

 亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。

 

 『日本書紀』

 神日本磐余彥天皇 神武天皇

 十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。

 十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。

 

 遠賀・崗・岡「オカ」

 (Grk.) όχος 乗物・船・車輪・車(οχος)  

  岡湊神社 芦屋町、船頭町

  「オカミナト/崗水門」(Grk.) όχος

  ◦容れるもの⇒船の停泊地

  (Δωμάτιο του πλοίου)

  Πού να πάρετε ένα πλοίο

   船を容れる所

   νηωγ、Πλοίο(舟)の属格「船の」

 

  ※湊(港)の語義で「岡湊」は音写と語義に

   より生み出した用語

 

   船頭町(芦屋市昭和41年からの地名)は

   岡湊神社の鎮座地だが、古くから

   この地の字名として用いられた場合

 

   「オカ」はοίαξ(οίακσ)、αίακος

   双方とも「船」で、この音写でもある。

 

 芦屋「アシヤ」

 (Grk.)οσία(οςία、イオリア訛り)神の掟

    όσίος(οςίος)◦敬神の、聖な、信心深い

          ◦神を祀ること、祭儀、祭式

 

 島津(しまづ)・島門(シマト)「シマト」

 (Grk.)θαημαστης(thaymasths)

      賞賛者:尊崇者・崇拝者

        θαημα(thayma),

        θαηματος(thaymatos)

      驚き、驚嘆、不思議

       θαημα(thaymazw(o)),

        θαηματος(thaymasw(o)) 

     驚く、驚嘆する。

     ◦敬意を表す

     ◦尊ぶ、尊崇する、尊敬する

 

 鬼津(オニヅ)

 (Grk.)αναξ(anaks),ανακτος(anaktos)

    王、支配者、領主、主人、貴族、命令者

 

 浅木・朝木「アサキ」

 (Grk.)Aττικι(Attiki)アッティカ

   アテネ神を祭神とするアテネの町のある地方

 

 鞍手「クラテ/クラジ」

 (Grk.)καλητωρ(kalhtew(o)r)

        (大声で)呼び叫ぶ人<神に祈る人、祭官

 

    καλεω(kalew(o))

    (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ 

    ◦呼ぶ、呼び寄せる、呼びかける

    ◦招く

 

    θεο-κλυτος(theo-klutos)

    神に呼び掛ける

 

    θεο-κλυτεω(theo-klut(o))

    神に呼び掛ける、祈る、祈り求める

 

 岡田・宮「オカタ」

 (Grk.)οχθη(oxthh)高み、川岸、川堤

    οχθος(oxthos)高み、丘、塚、川岸

  ※この用語から宮の置かれた場所は

   遠賀川の川岸に近い小高い丘(崗)で

   あったと推測される。

  ◎遠賀川右岸浅川台の字名に「岡田」がある。

 

 広渡・ひろわたり「ヒロト」

 (Grk.)Παλλαδος、

    Παλλας 

    Aθηνα女神の異称

    〔Pallados〕〔Pallas〕

    浅木の北隣りで遠賀川の川下に接している。

 

 B.多祁理宮〔広島県〕:埃宮

 

 『古事記』

  古事記 中卷

   於竺紫之岡田宮一年坐 亦從其國上幸而 

   於阿岐國之多祁理宮 七年坐

   亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐

 

   其の地より遷移(めぐ)りて、

   竺紫(つくし)の岡田の宮に

   一年(ひととせ)坐しましき。

 

   また其の國より上り幸(いでま)して、

   阿岐(あき)の國の

   多祁理(たぎり)の宮に

   七年(ななとせ)坐しましき。 

 

   また其の國より遷り上り幸(いでま)して、

   吉備の高嶋の宮に

   八年(やとせ)坐しましき。 

 

 『日本書紀』

  卷第三 神武天皇(神日本磐余彦天皇) 

      即位前紀 太歳甲寅十二月

  ○十有二月丙辰朔壬午 至安藝國 居于埃宮

  ○十有二月(しはす)丙辰(ひのえ・たつ)の

   朔(ついたち)壬午(みずのえ・うま)。

   安藝國(あきのくに)に至り、

   埃宮(えのみや)に居(いま)しき。

 

 多祁理宮「タケリ」:"哮・たけり":

  大声でわめき叫ぶこと。

   "たけ・る"大声で叫ぶ、吠え叫ぶ

 (Grk.)θεο-κλντος(theo-klytos) 

     神に呼び掛ける

    θεο-κλντεω(theo-klyteo)

     神に呼び掛ける、祈る、祈り求める

    καλεω(kaleo)

     呼ぶ、呼び寄せる、招く、招待する、

     (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、

     呼び掛ける

 

 〔廿日市市の地名〕

 

 阿品「アジナ」

 (Grk.)Aθηνα(Athina)

    アテネ神、学問、技芸、戦いの女神

 

 平良・部良「ヘラ」【古代】平安期

  『和名類聚抄』種箆郷「タネヘラ」

 

 「タネ・ヘラ」

 (Grk.)τανα-ηρης(tana-hris)

    τανα-ηρης(tana-hrees)

    τανηρης(tanyhris)

    長い橈の船=三段橈船

 

 「タネ」

 (Grk.)τανος(tanaos)長い延びた 

    τανα-,τανυ-(修飾形) 

 

 「ヘラ」

 (Grk.)ηρης、ηρεες 橈、櫂(かひ)

 

 三段橈船 

 (Grk.)τρι-ηρης(tri-hris)

    τρι-ηρεες(tri-hrees)

    τριηρης(trihris)

 ※三段櫂船:


 

 可愛・河合・川井「かわい」

 【中世】鎌倉期にみえる地名。河井。

 

 「カワイ」 

 (Grk.)κωπη(kwpi) 橈柄・櫂(かひ)

 「カヒ」(日本語へ転訛)

  橈(かい)、小檝〔方言〕楫謂之橈

 

 ※清代陳昌治刻本『說文解字』

  【卷六】【木部】楫

  舟櫂也。从木咠聲。子葉切

 

  清代段玉裁『說文解字注』

  所㠯擢舟也。各本作舟櫂也。許無櫂字。

  手部曰。擢,引也。

  楫,所以引舟而行。故亦謂之擢。

  而漢書劉屈氂傳,外戚傳,

  百官表皆用輯濯爲楫擢。假借也。

  毛衞風傳曰。楫所以擢舟也。此許所本。

  今據以正。今毛詩擢譌櫂。

  淺人所改也。鄧通傳。以濯船爲黃頭郎。

  司馬相如傳。濯鷁牛首。

  皆擢舟之義也。詩爾雅音義引說文舟棹也。

  則其誤久矣。棹又櫂之俗。

  從木。咠聲。子葉切。七部。方言曰。

  楫謂之橈。或謂之櫂。

  櫂亦擢之譌也。擢櫂正俗字。方言集汇粤语

 

 ※多祁理宮のあった位置について

  多家(たけ)神社(延喜式神名帳)の

  多家が多祁・理に近いことから、

  現在安芸郡府中町に想定されているが、

  上記の解釈から、

  廿日市市の可愛川両岸辺りに

  あったものと考える

  当地は佐伯郡内で、

  佐伯氏は大伴氏と同族であり、

 

  "東征"の際指揮を執った

  日臣/道臣を祖としており、

  当地に勢力を7年に亘って養った

  遺称と考える。

 

  可愛川上流(内陸)、

  上平良には速谷神社が鎮座し、

  国府が最初に置かれた所である。

 

 ※同地の海向いに厳島神社

  『延喜式神名帳』

   伊都伎嶋(イツキシマノ)神社名神大・

   安藝國佐伯(サエキ)郡が鎮座し、

   宗像神社の祭神・

   多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫の三神が

   奉祭されているが、

   その内の「多紀理姫神」名は

   多祁理と同根語と考える。

 

   これらの固有名は

   巫女の三つの性格から採った名称で

   「イチキ」は「イタコ」、

   「タキツ」は「田心」と表記されるように

   英語の dance (踊り) と同じく

   巫女の舞い姿を

   そして

   「タキリ」は「神に呼びかけ、神を招く」

   というもの。

 

   その「多紀理姫神」を祭る神社の近くに

   「多祁理宮」があったとして

   何らかの係わりを考えさせる。

 

 ※「ヘラ」箆:"へら"とは

  竹片を細長く平たく削ったものをいう。

  (へら)はギリシャ語から日本語へ転訛した。

 

 ※古代ギリシャにおいては

  長い船は軍船を用いた商船を表わす。

 

 佐方「サガタ」「サカタ」

 (Grk.)θυγατηρ(thugatir)娘、

  アテネ Aθηνα神は

   処女神として知られる(パルテノン)

 

 ◎埃宮『日本書紀』

 

 埃:アイ〔集韻〕於開切 ai'、

   チ・ヂ〔集韻〕直几物

   ◦ほこり、すなけむり、もや

 

 ※この名称が"ほこり"の意味から

  付けられたものでないことは明らか

 

 「アイ・え」

 (Grk.)αϋω(ayo) 

     叫ぶ、大声で呼ぶ、鳴り響く、轟く

     "大声で呼ぶ"は多祁理

     (哮たけり:大声でさけぶ、

    θεο-κλντος

     「神に呼びかける」)と同義となる

     ◦ 但し、

      埃は「火+矣」 の誤記か誤用であろう。

  「火+矣」:アイ〔集韻〕於開切、

       キ〔集韻〕虚基切 

       ◦輝く、焼く、熱い

   〔玉編〕「火+矣」 、炫也、

   〔集韻〕「火+矣」 、一日、熱甚、

       炫:ケン・ゲン 

       ◦ひかる、輝く、光が上がる、                                照らす、輝き、火の海

 

 「かがやき」

 (Grk.)γλαυκος(glaukos)

     輝く、光沢のある、明るい

    Γλαυκος(Glaukos)

     船乗りの守護神

    Γλαυκος ύ Πουτιος 

     〔Glaukos u Pontios〕 

     として知られる、つまりアテネ神

     γλαυκ-ομματος(glauk-ommatos) 

     碧い眼の、(あるいは)輝く眼の

    γλαυκ-ωπις (glauk-opis)

     アテネ Aθηνα〔Athina〕神の形容、

     輝く眼のあるいは碧い眼の、を説明 

    γλαυζ(glauks)、 γλαυκος 

    (glaukos)コシキメフクロウ

 

 福佐売(フクサメ)神社(廿日市市可愛)

  『三大実録』廿二 佐伯郡 榎本連福佐売

 

 「フクサ」

 (Grk.)ψεγγος(pheggos)

    ψεγγους(pheggous)

      光り、輝く、(特に)太陽の光、眼の光、

     燈火

 「メ・売」"女"あるいは"眼"

 「フクサ・メ」"かがやく眼"または"かがやく女"で

  「輝く眼の女(神)」、

  つまりアテネ神よりなった名称

 

 ※阿品、佐方はアテネ神に係わる地名である。

  また平良・可愛は橈船にして

  軍船に係わる名称で、

  アテネ神は軍神にして船乗りの守護神である。

  <アテネ・ニケ 勝利の女>

 

 ☆多家神社

 

 『延喜式』神名帳 安藝国安藝郡

 

  訓「オホイヱノ」「オホイヱ」「オホノミ」

  「式内社調査報告」第22巻 619頁

 

 〔社名〕

  多家の訓については諸説あるが、

  明治7年現地に鎮座されて以来、

  もっぱらタケと呼ぶ、

  現地に鎮座される以前の所在は

  後述するように厳密には不明で、

  その訓は

  九条家本には「オホイヱ」、

  武田本には「オホイヱノ」と

  傍訓を付する。

  また

  吉田家本は「多氣神社」と誤寫し

  「氣」傍書して「家」と訂正し、

  「オホイヘノ」と訓じている。

 

  近世、

  伴信友人神名帳考證は

  これらの古訓に忠實に従ひ

  「オホイヘノ」の傍訓を付し、

  度會延經『神名帳考證』が

  多家に「タケ」の訓を付し、

  土佐國安藝郡多氣神社(式内社)を

  「タケ」と呼ぶことを援用してゐるのは

  穏當である。

 

  また

  廣島藩府編集『藝藩通志』巻39、

  祠廟も多氣の古訓がいかにあるべきかを

  種々検討して

  結局「タケ」と訓むべしとしてゐる。

 

 〔所在〕

  廣島県安藝郡府中町上宮の町二〇九一番地

  〔A〕この所在地は

  事項の論社の問題の結果として

  明治7年4月鎮座された場所である。

 

 ※「多家」の訓は

  「オホイヱ」か「タケ」か確定されていない。

 

 ※同神社の鎮座地が

  どこであったか確定されていない。

 

 ◎「多家」は「多祁理」とは

  全く語源が異なり関係はない。

 

 多祁理「タケリ」:哮・たけり/たけ・る:

         大声で叫ぶ

 (Grk.)θεο-κλντος(theo-klytos) 

     神に呼び掛ける、祈る

 

 多家「タケ」

 (Grk.)ταγη(tagi/tage)

     支配者、命令を下す者、戦列・前線

    ταγος(tagos)指揮者、支配者

 

 ※多家神社の所在地が

  多祁理宮のあった所とは必ずしもいえない。

 

  特に多祁理宮を

  現在の府中町に想定することは、

  速谷神社の鎮座理由からして不適当。

 

  安藝國の立国時の政治的中心地は

  現在佐伯郡にあったことは

  明らかであり、

  後の國郡制が設けられる時に至って

  府中町方面にその中心が

  移転したものとみられ、

  多家神社はその時代からの鎮座と推測される。

 

 「オホイヱ」「オホイエ」

 (Grk.)οιαζ(oiaks)、αιάκος  

     <舵、舵柄>の転訛か?

 

 M.K記

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