SSブログ

終章 (7)アズミ族の正体 [日本創世紀]



日本創世紀



 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
 (7)アズミ族の正体
  
 第2章の「(6)奴国」で紹介したように、
 族名「アズミ」は es-ma 
 〔家-船:屋船〕に依る。
 山海経の「天毒」にある
 「其人水居」に適しい典型的な
 「海人YMYT」である。
 アズミ族は
 そのインド〔天毒〕からの
 渡来海洋人だが、
 邪馬臺国のアーリア人系とは
 全く別の系譜の人々で、
 その祖名をヤーダヴァ族という。
 紀元前1500年頃
 北方ヒンズークシ山脈を越えて来た
 牛飼いのアーリア人とは文化の違う
 紀元前5000年頃から
 メソポタミアからインド、
 太平洋のインドネシア諸島の方まで
 流浪していた海洋族である。
 彼等は
 インド亜大陸の西北部インダス川と
 ビンダヤ山脈の間
 アラビア海岸のシンドから
 デリー・マルワ一帯に勢力を広げていた。
 彼等は単なる流浪者ではなく、
 各地方間の交易も開拓していた。
 特にメソポタミアとの間にも
 同地に根強い根拠地を設け
 海路を積極的にインド方面の物産を
 ペルシャ湾を通し輸送した。
 紀元前1800年頃の
 アッカド王シャルルキン王碑銘には
 インド方面からしか得られない
 孔雀や紅玉、黒檀などの品目が
 輸入品目名として刻まれている。
 それより古いメソポタミアの
 シュメルの言葉に貿易相手先地名として
 「メルッハ」名があるが、
 同語は me-lulu-ha 〔土地‐人々‐魚〕で
 「魚人の地」である。
 Lulu は「人」の複数形である。
 上記した
 インドの現在の地方名「マルワ」は
  ma(me)-lu-ha〔土地‐人々‐魚:魚人の地〕と
 「人」が単数形で構成されている。 
 ヤーダヴァ族が建てた国「マッラ」は
 倭人伝の「末廬国」の祖語とした 
 madhura〔甘い物〕を首都にする国だが、
 サンスクリット語で「魚」である 
 matsura 名に依り、
 古代の主要国の一つであった。
 ヤーダヴァ族は
 インド神話に天下分け目の大戦、
 インドプラスタの戦いに敗れ、
 次第にアーリア人に圧迫され衰退していった。
 
 終末期の王は
 クリシュナ〔マハーカーラ:大黒〕といい、
 彼は最後の守城として
 サウラシュトラの海に
 ドヴァラカーという門を
 いくつか備えた城を造るが滅亡し、
 城は海に没してしまったという。
 現在その西北端に 
 Dwarka との町名が残っている。
 「海に没した」とは、
 そこを離れ
 海の中(向こう)に消えてしまったとの
 意味が隠されている。
 彼等が行き着いた先が
 現博多湾の周辺である。
 『古事記』に「綿津見の宮」、
 『日本書紀』の「海神の宮」 の祖形が
 ドヴァラカー城で、
 そのキラキラ輝いていた様相を
 『古事記』は「鱗のごと」といっている。
 その「鱗」が lu で、
 いわゆる「龍宮」とは
 その用語を負わせてた呼称である。
 綿津見の宮、龍宮の伝承にしても
 一切「龍:大きい蛇」は出てこない。
 ヤーダヴァ族はアズミ族の名で、
 その基になっているサンスクリット語中の
  yadas は
 「大きな水棲動物」で
 多分アーリア人には「海の怪物」と
 解釈されたが、
 その祖王(族)名の 
 yadu の基語である。
 Yādava は「yaduの子孫」が語義である。
 誠に「水居」を背景に持つ族類ではある。
 この yadas 、
 単に魚のように水中にいただけでなく、
 陸上においても存在していたのが実際で、
 陸上水中〔海中〕双方で生息できた。
 海洋族そのものである。
 さて、
 水陸を生活の場にした者たちの伝承が
 メソポタミアにある。
 ジャン・ポテロの
 『メソポタミア』に紹介されている
 「オアネス」伝承がそれで、
 少々長いがその翻訳本
 〔法政大学出版局〕から紹介する。
 この神話は当初の姿では残っておらず、
 また正確な内容もわからない。
 部分的ながら復元してみる必要がある。
 まず第一に、前300年頃
 「バビロニアのベール神官」をしていて、
 この古い歴史を持った国の
 「哲学」と歴史との要説をギリシャ語で
 著したベロッソス(Berossos)自身の
 スケッチに頼ることにしよう。
 彼は説明する。
  バビロニアにおいては、
  数多くの人間がよそからカルディアの地
  (メソポタミア南部の、
   ペルシア湾に隣接した地域)
  にやって来て住み着いたが、
  彼らは動物と同様の粗野な生活を送っていた。
  最初の年に、
  紅海からやってきたオアネスという
  名の異様な怪物が、岸辺に現れた。 
  彼の身体は全体として魚のそれであったが、
  頭の下にもう一つの頭が挟み込まれていて、
  それは人間の頭であった。
  足の陰にも人間の足と同じ足が見えた。
  この姿を人々は記憶にとどめていて、
  今日でもそれを再現した像を作っている。
  この生き物は、人間の間に混じって、
  食物を何も採らず日々を過ごし、
  人々に文字、あらゆる種類の科学と技術、
  町の建設、神殿の建造、
  判例の集成、幾何学を教えた。
  同様に穀物(の栽培)や
  果物の収穫などについても明かした。
  要するに、
  彼は人々に文明生活の基本となる
  全てを授けたのである。
  それが完璧であったがために、
  それ以来人々は(この問題に関して)
  これ以上素晴らしいものに
  遭遇することはなかった。
  日没時には、
  オアネスという名のこの怪物は、
  夜を過ごすため水の中に身を沈めた。
  彼は水陸両棲生物だったからである。
  後になって、
  同じような別の生物が現れた……。
 同書はまた、ベロッソスの記述として
 「やはり紅海からやって来た魚人」が
 存在して合計で7人いたといっている。
 その7人は神話で
 「7人の素晴らしいアプカッツル」
 と称されていたとある。
 またその1人は
 「アダバ」の異称を持つという。
 そのアプカッツル、アダバ、魚人は
 ヤーダヴァ族の仲間である。
 「オアネス」名はベロッソスが
 ギリシャ語で書いた名称で、
 それをギリシャ語に捜すと、
 uionos で、その語義は「子供、孫」で、
 「綿津見」をまた「海童」と表記する
 「童:小児」に相当する。
 だから
 アズミ族の人々がメソポタミアとの関係を
 認識していたとの証拠である。
 「アプカッツル」の本書の解釈は 
 ap-ka-lulu 「海の人魚」、
 「アダバ」は 
 a-deb 〔水-歩き回る〕で「水を歩き回る」
 水陸両棲生物の特性である。
 これらは yadas の語義に合致する。
 メソポタミアの
 シュメルの時代に関係した族類が
 インドではヤーダヴァ族となり、
 そこでアーリア系の拡張に圧迫されて
 延命の策として海上へ出て極東へ移動し
 アズミ族となったと解釈される。
 彼らの使用言語は
 サンスクリット語ではない。
 同語はアーリア人の言語である。
 
 インド・ヨーロッパ語圏に属するもので、
 イラン〔ペルシャ〕から
 北方の牧人たちの言葉である。
 アーリア人の起源について述べておくと、
 本来は「アーリアン」で
 シュメル語の
  ar-en 〔賛美する-主(神)〕で
 「神を崇める」の語義である。
 その信仰がバラモン教である。
 彼等はメソポタミアの北部、
 現トルコ方面から
 イラン高原で牛飼いになり約千年もかけて
 ヒンズークシ山脈を越えて来た勢力である。
 アーリア人が
 インドでの先住のヤーダヴァ族を
 どうみていたかを示すよい例がある。
 前述の「メルッハ」が
 サンスクリット語に 
 mleccha とあり、
 「非アーリア人」で「他国人」は宜しいとしても
 「野蛮人」「蛮族」の語義で使用されたのである。
 「シュメル人」とされた人々は
 メソポタミアのペルシャ湾の奥地に
 多大な文化を建設したが、
 いつの間にかそこから消えてしまったのかの
 推測をしておきたい。
 これも前出した
 アッカドの王シャルルキンの勢力が
 巨大となり先住の人々は
 そこにいられなくなったからである。
 アッカド人はアモリ人などと称される
 ユーフラテスの上流
 現シリア方面が祖地である。
 その川沿いに下って
 ペルシャ湾岸に侵入してきたのである。
 シュメルの人々は
 インドへ移りまた極東へ移ったのである。
 シュメルとは後の呼称で
 シュメルの時代には彼らの土地を
 ki-en-gi〔土地-の-葦〕といい、
 『日本書紀』が記す
 「葦原中ッ国」名の祖地といえる。
 これまでの多量の引用の実態から
 「シュメル語」の日本への伝来を
 確信していただきたい。
 シュメル語は
 これまでの太陽信仰ばかりでなく、
 多くの主要な神社文化に徹底的に影響し、
 現在に継承されてきているのである。
 アズミ族の信仰の対象
 福岡市の志賀島にある志賀海神社は
 綿津見神を奉祭するが、
 「シカ」は suku
 〔神域:ギリシャ語sikos:聖域 〕、
 「シカウミ」は 
 zikum〔天、深海〕の音写である。
 志賀島の外海「玄海灘」の「玄」にも
 漢語で「天界」及び「深海」の語義がある。
 シュメルの文化が、
 諏訪、伊勢、出雲の神社に
 影響した実相を簡単に述べる。
 ①諏訪〔長野県〕
 この二つの漢字で
 「スワ」を表記するようになったのは
 そう古いことではない。
 その語義は
 「言葉を受け取ったり放ったり」
 で「会話」「相談」である。
 シュメル語で
 それを 
 sa-bal〔真中・交わる〕の
 「交換する」の概念である。
 ただし、
 『古事記』に「須波」とあるのは
 サンスクリット語の 
 svar〔suvar:天〕に依る。
 諏訪湖から流れ出す天竜川名は、
 その「天」に依る。
 和名類聚抄信濃国諏訪郡の郷名
 「土武」は
 シュメル語の 
 dum〔大工〕また「佐補」 は
 同 za-ab〔地下水〕に依る。
 前者は
 諏訪大社の最古の奉祭氏族
 「守屋」「守宅」と表記される
 mar-e〔作る-神殿〕名であり、
 「千勝、千鹿頭」 は 
 the-du〔柱・建てる〕で
 同大社の大祭
 「御柱祭り」の起源名である。
 また主要氏族名「神氏」の「ジン」は
 gin 及び茅野市名の「チノ」 tun と同一で
 双方とも「斧」を基としている。
 古代においては
 大工の最も重要で技術のいる道具であった。
 漢字「茅野」は「茅」が「葦」で
 「葦野」は ki-en-gi〔土地-の-葦〕とした
 シュメルの古代名で同地に「葦原」の人たちが
 移転してきたことを示している。
 また後者の郷名「佐補」は
 諏訪市内の「有賀:アルカ」が 
 ar-ka〔地面を掘る-口〕で
 「井戸を掘る」を意味する。
 因みにそこの地名「県:アガタ」は
 サンスクリット語の 
 agada で「井、泉」である。
 「蟻」を「アリ」というのは
 彼等が地面に穴を掘るからである。
 「モリヤ」を「洩矢」とする理由は 
 mar-e〔作る-井・泉〕に依る。
 「洩」は「水が湧き出る」の意義である。
 その洩矢氏が大事にしてきた秘法のうちに
 「蟇目神事法」 なるものがある。
 春の初め、
 諏訪大社上社近くの川床の地中から
 冬眠中の「蛙」を獲ってきて
 神に奉るという神事である。
 「蟇目」とは「蟇蛙」のことで、
 あのアプカッルあるいはアダハ名に係り、
 諏訪の一族は
 メソポタミアに関係している。
 茅野市内に「阿久」との地称があるが、
 これは uh〔蛙〕の音写である。
 阿久遺跡からは
 その蛙の意匠をつけた
 縄文土器が出土している。
 つまりシュメルの人々が
 ここに入ってきたのは
 紀元前縄文時代晩期の終末期といえる。
 郷土史研究家の藤森成吉氏が
 縄文期に農業があったとの
 見解を発表されているが、
 多分その渡来して来た人々によって
 栗などを意図して
 植え始めたものと推測される。
 
 ②伊勢〔三重県〕
 「イセ」 名はシュメル語の 
 es で、
 発音は「家」 を表わす用語と同じであるが、
 こちらは「涙水」にして
 「天の涙」で「雨」を表わす。
 伊勢にたくさん奉祭されている
 「大水上神」系譜が
 その信仰の広がりを示している。
 「アメ:雨」は
 a-mah〔水-上(高い)〕で
 「空にある水」との意義である。
 また伊勢神宮の摂社に係わる「客人社」 で
 「マロウド社」というが、
 mar-du〔作る-屋敷〕で
 「神の坐す屋敷を作る」語義で、
 遷宮式においての神殿建造の主祭神である。
 式典において
 「屋船神」と奉している神で
 「アズミ」名での語義であり、
 その大工、
 特に諏訪の大工勢力が
 その役目にあったことを証している。
 ③出雲〔島根県〕
 「出雲」名は 
 es-mah〔家-大きい(高い)〕と理解できる。
 『古事記』の国譲り伝承の段にある
 「多岐志〔現出雲市武志〕」 は 
 
 du-gis〔邸宅(屋敷)-木〕で
 「木の神殿を表わす」。
 この建造に当たるのが「久那斗神」で
 ku-nata〔立てる-柱〕に依り、
 「柱を立てる」ことは「家を建てる」仕事で、
 それをサンスクリット表記した名称が
 「建御名方富神」名となる。
 「建」は「建設」を担う表示で、
 「ミナカタ」は mana-kartt〔建設工、建築工〕と
 「棟梁」といった呼称である。
 「富」はシュメル語の dum〔大工〕で、
 出雲市の東隣り斐伊川を挟んだ斐川町の
 「富村」 名に由来する。
 同地の富神社には久那斗神が祀られている。
 「御名方神」名は
 『古事記』の国譲りの段のみで外にはない。
 しかし意義を同じくする神名はまだある。
 「水戸神」名はminati
 〔(柱)を建てる、建設する、建立する、固定する〕
 の音写である。
 これをさらにギリシャ語で表記したのが、
 「秋津日子命」名の「アキツ」で
 ArXi-Tekton〔建築家、棟梁〕の転訛である。
 同語は英語で 
 arktechter〔箱の技工〕の祖語である。
 久那斗神一族の名称としては
 足長神、手長神また稲田姫とある。
 それぞれ
 es-nagar〔家-大工〕、
 du-nagar〔屋敷-大工〕、
 i-nata〔高くする-柱〕で、
 大工の属類名である。
 しかし、「イズモ」にはまた
 重要なアズミ族の事蹟がある。
 『古事記』に登場する「大穴持命」に係る。
 つまり 
 is-maha〔穴-大きい〕がその源語で
 「シマネ:嶋根」名と関係する。
 「出雲国風土記」が
 「嶋根と號くる所以は國引きましし
  八束臣津野命の詔りたまひて、名を負せ給ひき。
  故、嶋根といふ」
 と述べている。
 「島根」〔現県名〕の由来がそこにはある。
 「シマネ」と「ツノ:津野」は同義である。
 「島」は「鹿児島」名の説明で挙げた「シマ」と同義で、
 za-ma〔国〕に依る。
 そして「ツ:津」はその 
 za の音写でここでは同義である。
 そして「根:ネ」及び「野」は
 同じくシュメル語での na〔石〕の音写で、
 双方ともその語義は「国・石」で、
 ここが「石の国」であるといっている。
 現在、
 島根町は松江市の北側日本海に面してある。
 そこに最近まで国石神社はあった。
 しかし、
 同名社は前記の風土記にもなかったことから
 改名されてしまった。
 『古事記』や
 その風土記がどういう勢力によって
 編纂されたかを知ればその理由も解かるが、
 現名と「国石」とどちらが
 重要か理解できるはずである。
 「シマネ」は「国石」の別称なのである。
 さて「根」は「石」の語義とした 
 na とは発音が異なる。
 「根」は ne である。
 しかしその背景は重要である。
 Ne は「赤い」で、
 その「石類」が
 「赤い石」であることを示唆している。
 「赤石」は「銅」を表わす。
 つまり、
 この地域で銅が産出されていたのである。
 和名類聚抄楯縫郡に「治田」名がある。
 「ハルタ」は hur-te〔山-銅〕で「銅山」である。
 「大穴」とはその坑道をいったものである。
 出雲が強い勢力に成長したのは
 その銅のお陰である。
 島根町内の地名「大芦(蘆)」は
 「大穴:is」に依り
 「加賀」もKVK〔洞〕に依る。
 両方の地域にある
 「木の山神社」名は「金山」である。
 
 
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

nice!の受付は締め切りました

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。