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終章 (8)倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」➀ [日本創世紀]





日本創世紀






 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―




 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦


  


《終章 卑弥呼の「倭錦」
 (8)倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」➀
  倭人伝を注意深く読むと
 倭人及びその社会の性格がみえてくる。
 
 まず「風俗不淫」とある。
 
 これを東洋文庫は
 「倭人の風俗は規律正しい」と読み下している。
 
 確かに大漢和辞典が「淫」字の語義として
 「みだれる、みだす」と上げているので、
 その否定として「みだれない」となり、
 その品性が公正であると説いていると理解できる。
 
 また「婦人不淫不妬不盗」とある。
 
 こちらの「淫」は性的な品行をいい
 
 「婦人はみだらでなく嫉妬もしない」
 
 との意味だが、
 「不妬」はあまり信じられない。
 
 重要なのは「不盗」とある記述で
 「盗難がない」と理解される。
 
 この「品行公正」「不盗」は
 完全でないにしても現代20世紀まで
 日本人が公明正大との社会通念として
 体現してきた気風であった。
 
 21世紀に入った今日、
 そのような風潮は危機に瀕している。
 
 更に重要な記述がある。
 
 「其會同座起父子男女無別人性嗜酒」
 
 と述べられていることである。
 
 紀元前後には倭では社会習慣として
 「集会〔會同〕」が行われていたのである。
 
 本書第2章(9)の「(b)弥奴国」で
 吉野ヶ里遺跡には
 祭壇と大きな建屋はあっても、
 それは「王宮」ではないと説明したように、
 国々は住民による会合を行っていて
 大きな建屋は
 そのためのものであったとみられる。
 
 「会同」とは
 現代中国でも常用している
 「共同する」との用語で、
 倭人伝の文面からすると、
 それは「集会」である。
 
 東洋文庫はそこを
 
 「集会では座席の順序や立ちふるまいに
  父子や男女による区別はない」
 
 と読み下している。
 
 この部分の解釈については、
 倭は未だ未熟(未開)な社会だから
 出鱈目に
 座ったり振る舞っただけだとする向きが
 これまでの見方としてあるが、
 それは妥当としない。
 
 その一般生活の習慣として、
 「大人所敬〔大人(有力者)に対して
  尊敬を示す法〕」や
 
 「下戸興大人相遥道路~
 〔下戸(下級の者)が
  大人と道で出会った場合〕」の
 
 作法との説明があり、
 この「集会」においての仕方は
 全く独特であり、極めて特筆に値する。
 
 そこに指摘されている内容は
 「男女の差別がない」
 「父子といった社会的序列もない」という。
 
 座る者〔参加者〕は
 一切「平等」という仕様である。
 
 こうした集会は祭壇の近くで、
 あるいは巫師の同席の下行われたに違いない。
 
 つまり神の前との観念である。
 
 それは「神社」の思想でもある。
 
 日本では現代に至っても
 神社の氏子制は継続されている。
 
 江戸時代でさえ
 徳川将軍も神田明神や日枝神社の
 一氏子であった。
 
 歴史の実際として
 「氏」は漢字として「家・家系」だが、
 
 本来の「ウジ」
 シュメル語の 
 uzu 〔占い師:巫子〕による表現で、
 その巫子に信頼し従う人々を
 「氏子」といったのである。
 
 巫子は「ヒメ」であったと既に説明した。
 
 繰り返すと「ヒメ」 
 pa-me 〔呼ぶ‐神託(神の命令)〕が
 その役務であった。
 
 「氏子」とはその
 「集団(集落など)が奉祭する
  神の命令に従う者たち」
 である。
 
 それも
 問題を直接的に神に伺いを立てるのではなく、
 前もって氏子たち構成員たちが
 集会を開いて相談しあい
 決定を得られた場合はそれで済みとなるが、
 意見対立でどうにも纏まらない場合に限り
 巫子を通して
 神託を受けるための神事を行ったのである。
 
 つまり
 物事は神前での平等を基礎に
 決められていたのである。
 
 そういう社会状況下、
 卑弥呼は倭の共和国全体の最高の
 巫子(女)であったのである。
 
 倭人には「集会を開く」社会習性があった。
 
 それは日本文明の特性として涵養され続け、
 後代の「惣」を生む状況を作った
 重要事項であった。
 
 その祭壇は「神社」として確立され、
 その体制は
 現在世界に類をみない
 博愛共生の思念となっている。
 
 それは神道などではない
 
 「神社」の思想である。
 
 さて、
 倭の人々の集会も
 「神々が集会を開く」との神話伝承に
 影響されたかとみられる。
 
 その神話の発祥地はメソポタミアであり、
 アズミ族によってもたらされたのである。
 
 「神々の集会」となれば
 一神教では成り立たないし、
 その社会文化の中に同様な集会を行う
 慣習がなければ
 神話にまで止揚されなかったろう。
 
 一神教のキリスト教とは縁がないし、
 多神教といっても
 ギリシャ神話ではたくさんの神がいるものの
 
 ゼウス神という
 絶対的権勢を持つ神が
 支配しているので集会はない。
 
 『旧約聖書』の世界の「主〔神〕」は、
 世界に多くの神はいようが、
 
 「あなたたち(ヘブライ人たち)は
  わたしと契約したのだから、
  わたしはあなた方の「主」であり、
  わたしのいうことに従いなさい」
 
 という主旨で、
 
 人々の集会を求めないし
 神々の集会など想定されない。
 
 これに対し、
 メソポタミアの特定の神話では、
 「創世」の最初期から神々が集会を開いて
 決定したとの物語があるし、
 「人々の集会」
 「神々の集会」へと
 その決議経緯がみえる物語として
 遺存されている。
 
 まず
 「アトラ・ハシース物語」の人間のからむ
 物語を紹介する。
 
 前項「(7)アズミ族の正体」で紹介した
 
 『メソポタミア』の著作家
 ジャン・ポテロの別の著書
 『バビロニア』〔創元社〕によると、
 
 この物語が粘土版に
 楔形文字で書かれたのは
 紀元前1800年頃という。
 
 人間のいない神々だけの社会が原初にあり、
 下級の神々はその重労働に耐えられなくなって
 上級の神と同等でないのは不当だと抗議して
 ストライキを始めてしまったという。
 
 そうした大混乱の中、最も智恵のある神が、
 粘土で神々で似た者たちを創り、
 それに労働させようと
 神々の身代わりを作るとの方策を提案した。
 
 身代わり者の運命には諸条件が付帯されたが、
 この案は神々の全体会議で
 満場一致で可決されたとある。
 
 身代わりの者こそ人間であの創世の物語である。
 
 その詳細はさておき、
 神々が会議〔集会〕を開き
 重大事項の決定を行ったのである。
 
 神々がただ参集することにそう意味はないが、
 「決議(決定)」機能がそこにあった。
 
 これは
 古代メソポタミアの人間社会にあったことが
 想定される
 
 重大事項として認識されるべきである。
 
 さらに
 この「神々の集会」の状況や
 決議に至るまでの過程を
 粘土版の資料から紹介して
 「原始民主制」と主張した
 トゥル・ジェイコプセンの著書に詳しくみる。
 
 彼の研究は『西洋古代史論集』や
 『世界の歴史』〔岩波書店〕などに
 翻訳されている。
 
 彼はまず市民の集会が行われていたからこそ
 「神々の集会」が
 伝えられているのだとの見解を述べている。
 
 その著書 
 Praimitive Democracy in Ancient Mesopotamia 
 から興味ある要点を指摘する。
 
  M.K記

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