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第五章 『旧約聖書』「創世記」(3)ギホン川 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第五章 『旧約聖書』「創世記」(3)ギホン川


  第二の川ギホン Gihon 川は
 クシ Cush の全地を巡るという。
 
 この川をナイル川と考える解説者が多い。
 
 その理由は、
 エジプトのナイル川上流に
 クシ名の地方があることと、
 ヨーロッパ人が
 エデンの園を世界の中心と考え、
 地上の広い範囲に『旧約聖書』の物語を
 拡大しようとする意識が
 潜在していることに依る。
 
 同様の解釈をする例は他にもある。
 
 ソロモンの交易相手名を
 イベリア半島のタルソスに比定したり、
 また
 アーリア人の祖地を
 北ヨーロッパにこじつけたことなどが
 その自己中心的発想による曲解の例である。
 
 このクシの理解についてもその凡例の一つである。
 
  クシをエチオピアと解釈するのが伝統である。
 
 ドイツ聖書協会の現代語版は 
  Kush に留めている。
 
 アメリカ聖書協会の一六一一年発行の
 「キング・ジェームス版」は
 エチオピアと記していたが、
 同協会の新版では Kush と記載替えしており、
 聖書関係者の間にもクシを
 エチオピアとすることに
 疑問のあることを示している。
 
  地名クシは「創世記」第一〇章にも登場する
 「ハムの子孫クシ」に
 係わることを認めないわけにはいかない。
 
 「クシの子はニムロデであって、
  このニムロデは世の権力者となった
  最初の人である。
  (中略)
  彼の国は最初シナルの地にある
  バベル、エレク、アカデ、カルネであった。
 
  彼はその地からアッスリアに出て、
  ニネベ、レホホティリ、カラ及び
  ニネベとカラとの間にある
  大いなる町レセンを建てた。」
 
 と述べる。
 
 ニムロデは
 シュメールの三大神の支配的最高神
 エンリル神の息子ニヌルタ神のことである。
 
 そうするとクシとはエンリル神のこととなる。
 
 シュメール語の 
 kus は牧夫ないし司牧を意味するが、
 
 アッカド語の  kussu 及び
 アッシリアで使われた
 アムル語でも 
 kussu は王座を表す。
 
 この用語は
 ドイツ語の 
 kustos 監督者
 (カトリック、フランシスコ会では
  属管区長に使う)、
 
 英語の 
  coach(スポーツの監督) となる。
 
 以上のようにクシは
 メソポタミアに関連する用語であり、
 エジプト・エチオピアとは無関係である。
 
 『旧約聖書』において
 エジプト地域の王統について
 解説している条句は全くみられず、
 その地域に比定地を求めたのは
 後世の知識による解釈に過ぎない。 
 
  そこで、
 メソポタミアをクシと
 呼んだことがあったかであるが、
 Cush は
 メソポタミアを支配した者達の
 職席的名称であった。
 
 一方メソポタミアを支配した部族の中には 
 カッシー Kassī と呼ばれる者達があった。
 
 伝説のモーセが人々を率いて
 エジプトを出たのは
 紀元前j十三世紀とみられている。
 
 その後、
 彼等はカナアンの地にヘブライ国を建設するが、
 その頃メソポタミアでは
 東北方面から侵入して来た
 カッシー人が王朝 
 Kassito を築いて支配していた。
 
 彼等は紀元前一六五〇年頃から
 南メソポタミア侵入を始め、
 一四〇〇年頃には王国を形成し
 一一五〇年頃間で存続した。
 
 この時代的背景を考慮すると、
 ヘブライ人達はこのカッシー人達の名に因んで
 メソポタミアをクシと
 呼んだのではないかと考えられる。
 
 カッシートは
 ギリシャ語で κασιτικούς(Kassaios) といわれ、
 
 フルリ人の活動した
 東メソポタミアのヌジ遺跡の文書には
 彼等を kussu と記している。
 
  それではギホン川とはどこなのか。
 
 上記の解釈からすると
 メソポタミアを流れる川であることをが
 想定される。
 ギホン川とは、
 北イラクを流れる大ザブ川である。
 
 これまで何回となく引用してきた川でである。
 
 現在イラクでは
 「ハブールの大ザブ川」が正式名である。
 
 この地方はフルリ人の活躍した地域であるが、
 
 gihon は
 ドイツ語の Gehörn 、
 英語の geweih (角) の同類語とみられ、
 
 チグリス川と大ザブ川の東の町 Guwer や
 ニネヴェ近くの遺跡 Tel Gawra の地名に対応する。
 
 ウラルトゥ時代の大ザブ川中流の
 ハブウリにあった
 ムルシルの神殿には牛角を意味する
 ハルディ khardi 神が祀られていた事実も
 補足説明となる。
 
 ギホン川は「角(ツノ)川」である。
 ※ハブール川 
 ハブール川
 (ハブル川、カブル川、
  Khabur、Habor、Habur、Chabur)
 
 アラム語:ܚܒܘܪ, 
 クルド語:Çemê Xabûr, 
 アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur

M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 


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第五章 『旧約聖書』「創世記」(2)ピソン川 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第五章 『旧約聖書』「創世記」」(2)ピソン川
  エデンの園から流れ出した一つの川から
 分れた四つの川のうち、
 第三の川ヒデケルはシュメール語呼称
 Idigna 、またはトルコ語名 Dicle から
 解る通りチグリス川のことであり、
 第四の川ユフラテは
 ユーフラテス川であることは明白である。
 
 しかし、
 第一の川ピソン川と第二の川ギホン川については
 不明瞭である。
  ピソン Pison 川はハビラ Havilah を流れるという。
 ハビラ はハブールのことで、
 北東シリアを流れてユーフラテス川に入る
 ハブール Khabur 川こそピソン川なのである。
 ハブール川とユーフラテス川の合流点に
 Basayrah の町があり、
 そのすぐ西に Bashri 山脈があるが、
 これらは Pison の転訛と考えられる。
 この流域の産物として金、しまめのう、ブドラクが
 挙げられている。
 bdllium は樹脂と理解されている。
 しまめのうは onix であるが、
 めのうは英語で agate 、ドイツ語で Achat である。
 この地方の古代の産物に玄武岩があった。
 玄武岩は英語で basalt という。
 ブドラクは英語で bdllium(アメリカ聖書協会版)
 などに表記され、
 アスファルト(瀝青)、時には松やにも意味する。
 ラテン語の瀝青は pix/picis で、
 松(pix、picea)に由来し、
 ギリシャ語の松 pitus、樹脂 pissa(pitta)に
 対応する。
 ピソン名はこの松樹脂に由来するものとみられる。
  シュメール語で籠あるいは入れ物を表わす用語
 Pisan に近似した Psasan がある。
 この籠は植物のつるなどで編んだものに樹脂を
 塗り込んだものと考えられる。
 パサンは、紀元前二三五〇年から二二九四年までの
 アッカド Agade/Akkad の王として
 建国・君臨したシャルル・キン、
 旧約聖書でいうところのサルゴン王の伝説に登場する。
 彼の伝説のうちの生い立ち物語によると、
 生育まもなく葦の籠に入れられて川に流され、
 ユーフラテス川を流れ下っているうちに
 拾われ助かったという。
 この籠が天然の瀝青を塗った防水籠であったと
 述べられている。
 シャルル・キンの出身は東部セム族に属する
 アッカド語でいう アムル Amuru 人、
 シュメール語でマルトゥ Maruti 人、
 旧約聖書でアモリ Amori 人といわれた部民であった。
 
 彼等はユーフラテス川の上流シリア高原の出身、
 つまりハブール川の流域とされている。
 ピソン川流域の産物にしまめのうがあり、 
 これがめのうの一種であることはもちろんだが、
 ドイツ語名 Achat 英語名 agate は地中海の
 めのう産地シシリ島の西端にある Agates 諸島に
 依るとされている。
 この地方はマルタ島に近く、
 カルト人が進出した居留したところとみられ、
 島名も西アジアから持ち込まれたとみられる。
 シャルル・キンの建国したアッカド名は
 このめのう名に由来すると考えられる。
 彼等ユーフラテス川の上流のめのうを産出する
 ピソンからシュメールの地に移動して来たのである。
 川に流されユーフラテス川を下ったという伝説は
 この経緯を物語化したものであろう。
  創世記のいうピソン川がハブール川で
 あったことを補足説明する物語である。
 

※参考
  シャルル・キンの出身は
 東部セム族に属す
 アッカド語で言う アムル Amuru 人、
 シュメル語でマルトゥ Marti 人、
 『旧約聖書』でアモリ Amori 人
 といわれた部民であった。
 
 彼等はユーフラテス川の上流シリア高原の出身、
 つまり、
 ハブール川の流域とされている。
 
 ピソン川流域の産物に縞瑪瑙があり、
 これが瑪瑙の一種であることはもちろんだが、
 
 ドイツ語名 Achat 、
 英語名 agate は
 
 地中海の瑪瑙の産地シシリ島の西端にある 
 Agates 諸島に依るとされている。
 
 この地方はマルタ島に近く、
 ケルト人が進出し居留した所とみられ、
 
 島名も西アジアから持ち込まれたとみられる。
 
 シャルル・キンの建国したアッカド名は、
 
 この瑪瑙名に由来すると考えられる。
 
 彼等はユーフラテス川を下ったという伝説は、
 
 この経緯を物語化したものであろう。
 
 「創世記」のいうピソン川が
 ハブール川であったことを補足する物語である。
 
 シュメル語で籠あるいは入物を表す用語に
 Pisan に近似した Pasan がある。
 
 この籠は植物の蔓などで編んだものに
 樹脂を塗り込んだものと考えられる。
 
 パサンは、
 紀元前2350年から2294年までの
 アッカド Agade/akkad の王として君臨した
 シャルル・キン、
 
 『旧約聖書』でいうところの
 サルゴン王の伝説に登場する。 
 
 彼の伝説のうちの生い立ち物語りによると、
 生育まもなく葦の籠に入れられて川に流され、
 ユーフラテス川を流れ下っているうちに
 拾われて助かったという。
 
 この籠が天然の瀝青を塗った
 防水籠であったと述べられている。
 
  エデンの園から流れ出した一つの川から
  分かれた四つの川のうち、
 
 第三の川ヒデケルは
 シュメル語呼称 Idigno 、または
  トルコ語名 Dicle から
 解る通りチグリス川のことであり、
 
 第四の川ユフラテは
  ユーフラテス川であることは明白である。  
 
 しかし、
  第一の川ピソン川と
  第二の川ギホンについては不明瞭である。
 
 ピソン Pison 川は
  ハビラ Havilah を流れるという。
 
 ハビラはハブールのことで、
 北東シリアを流れてユーフラテス川に入る
 ハブール Khabur 川こそピソン川なのである。
 
 ハブール川とユーフラテス川の合流点に 
  Basayrāh の町があり、
 
 そのすぐ西に Bashri 山地があるが、
  これらは Pison の転訛と考えられる。
 
 この流域の産物として、
  金、縞瑪瑙、ブドラクが挙げられる。
 
 Bdllium は樹脂と理解されている。
 
 縞瑪瑙は onix であるが、
  瑪瑙は
  英語で agate 、
  ドイツ語で Achat である。
 
 この地方の古代の産物に玄武岩があった。
 
 玄武岩は英語で basalt という。
 
 ブドラクは英語で 
  bdllium (アメリカ聖書教会版) などと表記され、
 
 アスファルト(瀝青)、
  時にはゴム樹脂との解説もされている。
 
 英語の樹脂ないし瀝青を表す用語には 
  pitch があり、
 これは松脂をも意味する。
 
 ラテン語の瀝青は pix/picis で
  松(pix、picea)に由来し、
 
 ギリシャ語の
  松 πιτνζ、
  樹脂 πιζζα(πιττα)に対応する。
 
 ピソン名はこの松樹脂に由来するとみられる 。
 ※ハブール川 
 ハブール川
 (ハブル川、カブル川、
  Khabur、Habor、Habur、Chabur)
 
 アラム語:ܚܒܘܪ, 
 クルド語:Çemê Xabûr, 
 アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur

 



M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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第五章 『旧約聖書』「創世記」(1)エデンの園 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第五章 『旧約聖書』「創世記」」(1)エデンの園



  このエデンの園が聖書の著述者の仲間にあった

 観念的楽園を具体化したものであることを

 受容しながらも、  

 その場所がどこにあったかを探る研究がされてきた。

 

 比定地はばらばらで確実性が低い。

 

 第一に「東のかた」といっているが、

 どこを視点としていっているのか不明である。

 

 「エデン」が

 シュメル語の平原を意味する 

 eden と同音であることより

 メソポタミアのシュメル地方、

 つまり、

 ユーフラテス川とチグリス川の

 ペルシャ湾への河口地帯を

 比定する見解もあるが、これはあり得ない。

 

 エデンは川の流れ出す所で、

 流れ込む所ではない。

 

 また木々の茂る所である。

 

 主が土から造った人間アダムの系譜に連なる

 ノアは糸杉で箱舟を作ったのであるから、

 針葉樹が茂っている所を

 想定しなくてはならないだろう。

 

 「創世記」では続く

 四つの川の説明以外推測させる資料を与えていない。

 

 しかし、

 エデン名はエゼキエル書第二七章23-24に現われる。

 

 イスラエルのソロモン王の交易相手を

 説明している節句である。

 

 イスラエルのソロモン王の交易相手を

 説明している節句は下記である。

 

  ハラン、カンネ、エデン、アッスリヤ、

  キルマデはあなたと取引した。

 

  彼らは、はなやかな衣服と、

  青く縫い取りした布と、ひもで結んで、

  じょうぶにした敷物などをもって、

  あなたと取引した。

 

  これらの交易相手は都市あるいは地方名でる。

 

  ハラン Halan は

  トルコ領アナトリアのユーフラテス川に近い

  現在のウルファ Urfa の古名である。

 

  カンネ Kanneh は

  ギリシャ語の Καννη(kanni) のことで

  ヨシタケを表し

  ハブール高原の都市 Kanishi は

  トルコ語で葦原を表すので、

  その近く古い都市

  ニシビス Nisibis を含めた地域に比定できる。

 

  アッシリアは、

  いうまでもなく北メソポタミアの地域である。

 

  キルマデ Chilmad は

  アッシリアののチグリス川下流の東方

  Kirkuk の南を流れる

  Uzuayn 川流域 

  Taz Khurnatu 、

  Tuz Khurnatu のある地域であろう。

 

  ここにはミタンニ時代の都市アラプハなどがあった。

 

 このようにみてくると、

 「エゼキエル書」の記述は

 北メソポタミアの北西から東南に向かって

 徐々に記述していることになる。

 

 従って第三番目に記されたエデンは

 カンネとアッシリアの間にあったことになる。

 

 エデンはハブール地域の中にあったことになる。

 

 そこでこの地域に探ってみると、

 トルコ領内に 

 Idil という小さな町が現在あることが分かった。

 

 チグリス川のトルコからイラクへ入る地点にある 

 Cizbe の町から

 西に向かって街道を行くと

 チグリス川の別称である Dicle の町があり、

 更に西行した所にある町である。

 

 その先には Haberli の町がある。

 

 この Idil の付近こそ

 エデンの比定地とされるのに十分である。

 

 イディールはギリシャ語の Ιδη(idn) 

  (樹木、森林、森に覆われた山)に係わる。

 

 クレタ島のゼウス神が山羊に養われた聖地の山

 Ιδηι 山の祖語である。

 

 ハブール地方は

 ノアが箱舟を作った糸杉の木の針葉樹林地帯である。

 

 エゼキエル書第三一章では

 「神の園にあるエデンの木」と記し、

 木の多いことを物語っている。

 

 西アジアにおいて

 糸杉(別名ヒマラヤ杉)の植生する地は

 こことキプロス島しかない。

 有名なレバノン杉はハブールに限られることとなる。

 

 シュメル語の杉を表す用語 

 erin は eden に訓音が近似する。

 

 「エゼキエル書」第三一章

 

 第31章

 

  31:1 第十一年の三月一日に、

     主の言葉がわたしに臨んだ。

 

  31:2 「人の子よ、

      エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって

           言いなさい。

        お前の偉大さは誰と比べられよう。

 

   31:3  見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。

      その枝は美しく、豊かな陰をつくり

          /丈は高く、梢は雲間にとどいた。

 

   31:4  水がそれを育て、淵がそれを大きくした。

      淵から流れる川は杉の周りを潤し

          /水路は野のすべての木に水を送った。

 

   31:5 その丈は野のすべての木より高くなり

          /豊かに注ぐ水のゆえに

          /大枝は茂り、若枝は伸びた。

 

  31:6  大枝には空のすべての鳥が巣を作り

         /若枝の下では野のすべての獣が子を産み

         /多くの国民が皆、その木陰に住んだ。

   

  31:7  丈は高く、枝は長く伸びて美しかった。

     豊かな水に根をおろしていたからだ。

 

  31:8  神の園の杉もこれに及ばず

         /樅の木も、その大枝に比べえず

         /すずかけの木もその若枝と競いえず

         /神の園のどの木も美しさを比べえなかった。

 

  31:9  わたしが、多くの枝で美しく飾ったので

         /神の園エデンのすべての木もうらやんだ。

 

  31:10 それゆえ、主なる神はこう言われる。

     彼の丈は高くされ、

         その梢を雲の間に伸ばしたので、

         心は驕り高ぶった。

 

  31:11 わたしは彼を諸国の民の

         最も強い者の手に渡す。

     その者は彼を悪行に応じて扱う。

         わたしは彼を追放する。

 

  31:12 諸国の最も凶暴な民である異国人が

         彼を切り倒し、山々の上に捨てる。

     その枝はすべての谷間に落ち、

         若枝は切られて地のすべての谷を埋める。

     地上のすべての民は、その木陰から逃げ去り、

         彼を捨てる。

  

  31:13 彼の倒された幹には、空のすべての鳥が住み

         /若枝のもとには、野のすべての獣がやどる。

 

  31:14 もはや、

         水のほとりの木もすべて丈を高くしえず、

     梢を雲の間に伸ばしえず、水に潤う木も、

     高ぶってそびえ立つことはできない。

     彼らはすべて死に渡され、

         穴に下る人の子らと共に地の深き所へ行く。

 

   31:15 主なる神はこう言われる。

     彼が陰府に下る日に、

         わたしは彼のゆえに淵を喪に服させ、

         彼を覆う。

     わたしが川をせき止めるので、

         豊かな水も干上がる。

     またレバノンに彼の弔いをさせるので、

     野のすべての木も、彼のゆえにしおれる。

 

  31:16 穴に下る者と共に彼を陰府に下すとき、

     わたしは彼の倒れる音で諸国民を揺り動かす。

     そのとき地の深き所で、

         エデンのすべての木も、

     レバノンのえり抜きの美しい木も、

     水に潤うすべての木も、再び慰められる。

 

  31:17 彼らも、彼と共に陰府に、

         剣で倒れた者たちのところに下って行った。

     かつて諸国民の間で、

         彼の陰に宿っていた仲間たちも共に。

 

  31:18 お前は、エデンの木のなかで、

     栄光と偉大さを誰と比べられたか。

     しかし、

         お前はエデンの木々と共に

         地の深き所に落とされ、

     割礼のない者の間で、

         剣によって倒された者と共に住むであろう。

     これがファラオとそのすべての軍勢の

         運命である。

 

 と主なる神は言われる。


※エデンの園




※糸杉



※レバノン杉



※屋久杉


 

※ハブール川




 

 
M.K記
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第五章 旧約聖書「創世記」エデンと四つの川 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第五章 『旧約聖書』「創世記」エデンと四つの川


  「創世記」第二章は次のように記す。
 
  主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、
  その造った人をそこに置かれた。
 
  また主なる神は、
  見て美しく、食べるに良い
  全ての木を土から生えさせ、
  更に園の中央に命の木と、
  善悪を知る木とを生えさせられた。
 
  また、
  一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、
  そこから分かれて四つの川となった。
 
  その第一の名はピソンといい、
  金のあるハビラの全地をめぐるもので、
  その地の金は良く、
  またそこはブドラクと、
  縞瑪瑙とを産した。
 
  第二の川の名はギホンといい、
  クシの全地をめぐるもの。 
 
  第三の川の名はヒデケルといい、
  アッシリアの東を流れるもの。
 
  第四の川の名はユフラテである。
 


 
M.K記
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第五章 『旧約聖書』「創世記」洪水伝説と祝祭 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
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《第五章 『旧約聖書』「創世記」洪水伝説と祝祭


  ノアの箱舟として知られる洪水伝説は
 『旧約聖書』にだけ特異の物語ではない。
 
 メソポタミアの粘土板の楔形文字文書のなかに
 二つの伝承があるのである。
 
 そううち最も神話として完成され、
 残されているものは、
 
 紀元前二千年頃のアッカドの文書
 「ギルガメシュ叙事詩」に
 語られているものである。
 
 ギルガメシュは
 紀元前三千年紀書紀の
 シュメルの都市ウルの王で、
 ギルガメシュの英雄物語と共に、
 不死を探究して旅に出、
 ウトナピシュティムという不死を
 与えられた者から閉ざされる。
 
 物語は、
 ジョン・グレイ「オリエント神話」など
 すでに日本語に翻訳されているので、
 ここでは
 同書からウトナピシュティムの船が
 洪水が治まってから
 ニシル山に着いてからの
 七日目以降の詩句を転載する。
 
 「オリエント神話」
 
 ウトナピシュティムの船が洪水が治まってから 
 ニシル山に着いてからの七日目以降の詩句を転載する。
 
  七日目になった時、
  私は鳩を派遣し、解放した。
  鳩は飛び去ったが、帰って来た。
  どこにも休む場所が見えなかったので、
  鳩は戻った。
  そこで、私は燕を派遣し、解放した。
  燕は飛び去ったが、帰って来た。
  どこにも休む場所が見えなかったので、
  燕は戻った。
  そこで、私は烏を派遣し、解き放した。
  烏は飛び去り、水が引いたのを見て、
  彼は食べ、旋回し、カアカア鳴き、
  そして戻らなかった。
  そこで私は四つの風に全てを解き放し、
  そして、犠牲を捧げた。
  私は山の頂上に神酒を注いだ。
  私は七つ、また七つと祭器を置いた。
  私はそれらの壺の台の上に、
  草と杉の木とテンニンカを積み上げた。
  神々はその香りを嗅ぎ、
  神々はその甘い香りを嗅ぎ、
  神々は蝿のように、
  犠牲の施主のまわりに群がった。
 
 もう一つの
 メソポタミアの洪水伝説を記す粘土板の文書は
 ニップルから出土した。
 
 しかし、
 こちらは既に破損などによる
 読解不可能部分や欠落があり、
 「ギルガメシュ叙事詩」ほど完全ではないが、
 上記箱舟の部分は読み取りが可能であった。
 
 この粘土板の物語は
 ギルガメシュ叙事詩より古いものと考えられている。
 
 『旧約聖書』のノアあるいは
 ウトナピシュティムに当たる
 この粘土板の王はジウスドラという。
 
 ヘルムート・ウーリッヒ
 「シュメル文明」よりその部分を転載する。
 
  恐れるべき嵐が荒れ狂った。
  同時に破壊的な大洪水が起こった。
  七日七夜にわたって、
  嵐と洪水は国中を被った。
  巨大な箱舟は、
  嵐の中を波のまにまに揺れ動いた。
  その時、太陽の神が現れ、天と地を照らした。
  太陽神ウトゥの光は巨大な箱舟の中に差し込んだ。
  王、ジウスドラは、
  ウトゥの前にひざまづいた。
  王は一頭の牡牛を屠殺し、
  沢山の羊を犠牲に捧げた。
 
 「オリエント神話」
 
 次に『旧約聖書』「創世記」第八章から、
 前証に当たる大洪水後の部分を抜粋して転載する。
 
 (日本聖書教会版)
 
  四十日たって、
  ノアはその造った箱舟の窓を開いて、
  烏を放ったところ、
  烏は地の上から地上の水が乾ききるまで、
  あちこちへ飛びまわった。
  ノアはまた地の面から、
  水がひいたかどうかを見ようと、
  彼の所から鳩を放ったが、
  鳩は足の裏を止める所が見つからなかったので、
  箱舟のノアのもとに帰って来た。
  水がまだ全地の面を覆っていたからである。
  彼は手を伸べて、これを捕らえ、
  箱舟の中のを彼のもとに戻した。
  それから七日待って、再び鳩を箱舟から放った。
  鳩は夕方になって彼のもとに帰って来た。
  見ると、
  そのくちばしには、
  オリーブの若葉をあった。
  ノアは水が地上からひいたのをを知った。
  さらに七日待って、また鳩を放ったところ、
  もはや彼のもとに帰って来なかった。
 
  (中略)
 
  ノアは共にいた子らと、妻と、
  子らの妻たちとを連れて出た。
  また、
  全ての獣、全ての這うもの、
  全ての地の上を動くものは皆、
  種類に従って箱舟を出た。
  ノアは、主に祭壇を築いて
  全ての清い鳥とのうちから取って
  燔祭を祭壇の上に捧げた。
  主はその香ばしい香りをかいで、心に言われた。
 
  「わたしはもはや二度と人のゆえに
   地をのろわない」
 
 前述の三つの洪水伝説を並べてみると、
 
 『旧約聖書』の「ノアの箱舟」伝承は
 明らかにメソポタミアの物語を
 取り入れたものであることが解る。
 
 パレスティナからは、
 紀元前千二百年頃製作の
 洪水伝説を語る粘土板の断片が
 見つかっていることは、
 
 『旧約聖書』が製作される以前に
 同伝説がカナアン地方に
 持ち込まれていたことを明らかに示している。
 
 『旧約聖書』「創世記」の執筆者が
 メソポタミアの資料を参照して、
 独自の神話に組み替えたのだと推測される。
 
 『旧約聖書』の信奉者である
 ヘブライ人との関係はどうなのか。
 
 ノアの系図の子孫テラは
 カルディア人のウルにおり、
 その子ハランはそこで死んだ。
 
 テラはその子アブラムなどとともに
 そこカルディアのウルを出た
 (第二章)と語られている。
 
 カルディアのウルは
 南メソポタミア、シュメルの都市ウルと
 一般に考えられており、
 ヘブライ人と南メソポタミアの民族との
 親密さを語る。
 
 「創世記」に使われるヘブライ語の箱舟は
 tebach であるが、
 これはシュメル語による理解によると
 「行く葦屋」 teb-ach 、
 つまり動く葦屋ということになる。
 
 teb はシュメル語の tsavi 、
 ach は á(家)-gi(葦)の転訛と考えられる。
 
 ギルガメシュ叙事詩において、
 神々の支配者であるエンリル神は
 大洪水を起して人間を滅ぼすことを決めるが、
 エンキ神のアッカド名であるエア神が
 それを人間に語ることを
 禁じられているにもかかわらず、 
 シュルパックのウトピナシュティムの
 葦屋の壁に向かって語る。
 
  王子エアは
  秘密を守る誓いを立てたにもかかわらず、
  彼等の言葉をわたしの葦屋に向かって繰り返した。
 
  「葦屋よ、おお柵よ、壁よ、壁よ、
   家を壊し、舟をつくれ、富を捨て、命を求めよ」
 
 ウタナシュティムの屋敷は葦屋であったのである。
 
 そして彼は家を壊して舟を作ることにする。
 
 そのために集めたのが大工と葦工であった。
 
 エア神にいわれたように
 間口と奥行を等しく方舟を作ったのであるが、
 これは葦舟で、 
 tehach の原型と考えられるのである。
 
 『旧約聖書』においては
 イトスギの木で箱舟が作られた。
 
 箱を表す用語は、
 英語で ark 
 ドイツ語で Arche であるが、
 アッシリア時代ペルシャ湾の貿易商人たちは
 アルク・ティルムンと呼ばれており、
 箱が舟であるとの概念がみられる。
 
 シュメル語の海は ma 、
 ヘブライ語の海は yarn であるが、
 ノア Noah はこの ma を
 転訛させて作られた呼称と考える。
 
 「創世記」は
 シュメル Shmer をシナル Snar という。
 
 MとNとの転換が同様にみられる。
 
 ギリシャ語では海は μόνο(mere) となるが、
 日本では古来から船名に付けられる「丸」は
 この語の流用である。
 
 モーセの姉ミリアムや
 イエスの母聖母マリヤ(ヘブライ語で Miryam )も
 海に因んだ名称である。
 
 三つの洪水伝説に共通する事項のうち、
 注目すべきは箱舟から解放された後、
 犠牲が捧げられていることである。
 
 ウトピナシュティムは
 
 「そして犠牲を捧げ、山の頂上に神酒を注いだ」
 
 と語り、
 ジウスドラ
 
 「一頭の牡牛を屠殺し、沢山の羊を犠牲に捧げた」
 
 またノアは
 
 「主に祭壇を築いて全ての清い獣と、
  全ての清い鳥とのうちから取って
  燔祭を祭壇の上に捧げた」
 
 と語られる。
 
 祝祭は
 メソポタミアの宗教的伝統として
 重要な慣習である。
 
 ここで『旧約聖書』を信奉する人々が
 祝祭の儀礼を持っていることを
 同書を読む者に初めて明白にしている。
 

 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第四章 ゲルマン [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 ゲルマン


  ゲルマン German が

 シュメル語の階段を表す galm を語幹とする 
  galm-an が祖語で
 「野牛の階段」 「野牛の角」 を意味しているとは
 既に述べた。
 
 「ガリア戦記」はベルガエ人の北にはレーヌス河、
 現在のドイツ名ライン河の北方に
 ゲルマニー Germani 人がいることを記す。
 
 そのなかにあって主要で強力な部族は
 スエービー Suebi と称する。
 
 エルベ河からヴィンシュトラ河の広大な地域を
 支配していた一族であった。
 
 北海に流れ入るエルベ河の下流地域に
 ニーデル・ザクセン地方はかって
 サクソニア、ゲルマン神話に
 サクスランドとして登場する。
 
 また北方デンマーク領内フュン島及びその島内の町
 オーデンセ Odense もゲルマン神話に登場する。
 
 谷口幸男の「エッダとサガ」に紹介されている
 「ヘイムスクリンガラ」は
 ゲルマンの開闢神話であるが、
 その第二章の一部を転載する。
   
  タナクヴィースルの東のアシーアーの地は
  アーサランドまたはアーサヘイムと呼ばれた。
 
  城にはオーディンと呼ばれる支配者がいて、
  そこには大きな供犠所があった。
 
  そこで十二名の神殿付司祭が
  最高のコジ(首長)となる習慣だった。
 
  彼等は供犠を主宰し、
  人々の間で判決を下さねばならなかった。
 
  彼等はディーアルまたドウロートナルと呼ばれ、
  全ての民衆は彼等に仕え尊敬を
  表わさなければならなかった。
 
  オーディンは偉大な戦士で、広く各地をめぐり、
  多くの国々を所有していた。
 
  (中略)
 
  オーディンはしばしば何年も旅に出ているほど
  長い間出かけていることが多かった。
 
 谷口幸男の「エッダとサガ」に紹介されている
 「ヘイムスクリンガラ」は
 ゲルマンの開闢神話であるが、
 その第五章の一部を転載する。
 
  その山脈の南のチュルクランドから遠くない。
 
  そこにオーディンは大きな領地を持っていた。
 
  当時ローマの王将らは世界に兵を進めて、
  全ての民を支配下においていた。
 
  それで多くの王達は戦乱を逃れて
  その領地を去った。
 
  だが、
  オーディンは未来がわかり、
  魔法に通じていたので、
  自分の子孫が世界の北の地方に
  住むだろうということがわかった。
 
  兄弟のヴェールとヴィリをアースガルズに残し、
  全てのディーアルと民衆をつれて国を去った。
 
  彼は先ずガルザリーキに行き、
  それからサクスランドに行った。
 
  彼は沢山の息子を持っていた。
 
  サクスランドであまねく、
  多くの国々を手中に治め、
  国の守りに息子達を配した。
 
  それから彼は北進して海に至り、
  ある島で住居を定めた。
 
  そこは今日オーデンセと呼ばれフュン島にある。
 
  タナクヴィースルは
  黒海の北アゾフ海に流れ込むタナイス河、
  現在のヴォルガ河の支流の名称で、
  それより東方をアーシアー、
  つまりアジアであるが、
  アーサランドまたはアーサヘイムと
  呼んだといっている。
 
 このアーサは中国の紀元前二世紀の漢の時代の
 『史記』大宛列伝に表れる
 「奄蔡(えんさい)」(アーサ)のことである。
 
 史記の記述によると、
 現在のキルギスにいた康居(こうきょ)国の
 西北二千里ばかりのところにある国で
 弓を引く兵が十余万人で、
 はてしない大沢に臨んでいるが、
 それは多分北海だろうといっている。
 
 しかし、
 この北海が大西洋に連なる
 イギリスとヨーロッパ大陸の間の
 北海であるかどうかは不明である。
 
 彼等は紀元前二世紀頃、
 第五章にいうチュルクランド、
 現在のトルキスタン地方から
 カスピ海の北方、
 そして黒海の北方からコーカサス山脈の北まで、
 その騎馬を駆使して活動していたと思われる。
 
 外コーカサス山脈に挟んで現在も居住する
 オセット人はこのアース Ās と同族である。
 
 紀元前後になるとギリシャ、
 ローマの文献にアラーン Alān 族として表れる。
 
 中国の史書『魏略』にも阿蘭と記述されている。
 
 オーディンは
 ゲルマン人の父祖とされる最高神である。
 
 同神はゲルマン人の母体であったアーサ国、
 よってアラーン族の首都とみられる
 アーサガルズに城を構え
 支配者として君臨していたが、いつも旅に出ていた、
 つまり、遊牧生活をしていたのである。
 
 そして、
 アーサガルズに大きな供犠所があって
 十二名の司祭がおり、
 その中から首長(コジ)が出ていたという。
 
 アーサガルズはどこにあったのだろうか。
 
 ローマの軍事力に圧迫された地域であったはずだが、
 歴史的にはローマの影響を受けなかっただろう
 トルキスタンから遠くないところといっている。
 
 若干の矛盾がそこにはみられる。
 
 ローマの圧迫を受けたオーディンを主祭神とする
 アーサ族(奄蔡/阿蘭)の部族は
 祭司を初めとする一族を率いていて
 ガルザリーキを経てサクスランド、
 つまりニーデルザクセン地方に至り、
 その後、
 フュン島に渡って住居を定めたという。
 
 その神話によると
 アーサ神族は移動先の神族とみられる
 ヴァン族と戦いを構えるが、
 終局的には平和的に結合し、
 親しい種族として成立することとなる。
 
 紀元後三、四世紀の
 ゲルマン族の大移動時代アラーン人は
 ヨーロッパ大陸中央に進出し、
 その後
 イベリア半島(ポルトガル)の南部にまで移動し、
 Alen-tejo の地名、また
 リスボンの西の半島の先端に
 Casvals 名を残している。
 
 しかし、
 この移動部族は
 オーディンの率いた者達ではない。
 
 彼の率いた部族は、
 その定着地を考慮すると
 ゲルマン人の大族スエヴィ族である。
 
 彼等は東方からの侵入部族と
 土着の種族との血縁的混合を
 行った人々と考えられる。
 
 スエヴィ族が後に作った国の人たち、
 シュワーベン人は
 「頭の黒い人」と呼ばれた。
 
 土着的ヴァン神族は北方人種で
 金髪、皮膚の白い長身の種族である。
 
 アーサ神族が黒い頭髪の人々であったであろう。
 
 彼等は大きな供犠所の祭司を伴ってきた。
 
 その宗教とは
 牛頭崇拝(ゲルマン=大きな階段)であって、
 オーディンの尊称「偉大な戦士」とは
 
 シュメル語の gu-ud であり、
 ドイツ語の神を表す Gott 、
 英語の God は
 この語に由来すると考えられる。
 
 アーサ Ās は鍛冶を意味する。
 
 ドイツの西方ボン市の北方に Essen 市がある。
 
 ここは鉄鉱石の産地で鉄鋼業が盛んであるが、
 その基語 Esse は
 鍛冶場ないし鍛冶用の炉の意味である。
 
 エッセン市は Ass とも表記される。
 
 因みにドイツ語の鉄は Eisen である。
 
 突然であるが、
 奈良県天理市奄治町は
 周囲に鏡作りに係わる神社のある地域で
 『新撰姓氏録』大和国神別に
 奄知造が載るように
 倭鍛冶に係わった地区であったが、
 奄治は奄蔡と同音である。
 
 北コーカサス及びグルジア国内に居住する
 オセット人には
 「ナルト叙事詩」という伝承が残されているが、
 
 日本の神話
 (三種の神器と天孫降臨、海幸彦、山幸彦と
  ウガヤフキアエズノミコトの誕生物語)
 
 と酷似する物語が含まれており、
 アラーン人と日本の古族との間に
 全く無関係とはいうわけではないのである。
 
 アーサ神族が遊牧の民であったにしても、
 彼等が金属加工の技術を獲得していたことが
 うかがわれるところである。
 
 アーサガルズ Assigardz
  (あーさ族の首都)の比定地は定かでない。
 
 しかし、
 この名称には「エデンの園」の概念が
 投影しているように思える。
 
 ドイツ語で東を表す用語は Ost で、
 コーカサスのオセット 
 Osset 東方の意味とみられる。
 
 ガルズ gardz は
 ドイツ語の Garten 、
 英語の garden 、
 ウェールズ語の gard 
 と同類の「庭」を表す用語と考えられる。
 
 アーサガルズは「東方の園」の意義であり、
 
 『旧約聖書』「創世記」に
 
 「主なる神は東のかた、
  エデンに一つの園を設けて」 
 
 と語られる「東のかた」に対応する。
 
 コーカサスのオセット人の領域は
 現在グルジア国とロシアに二分されているが、
 そのロシア領内にオードン Ardon の町と
 そこを流れるオードン川があり、
 その名は Ordhon とも表記され、
 神話のオーデンと縁があろう。
 
 しかし、
 このコーカサスの山中が
 ゲルマン人の祖地とは考えられない。
 
 イランのカビル砂漠の西南ザクロス山脈と
 砂漠との間にカーシャーン Kāshān 地方があるが、
 
 この地方こそ
 ゲルマン人の母体であるアラーン人の祖地である。
 
 そこにエスファンの町がある。
 
 古くはイスパハンと呼ばれ、
 十三世紀にはマルコポールが元への旅の途次
 行帰りとも通った交通の要路に当たるが、
 その北に
 アルデスタン Ardestan という小さな町があり、
 オセットの Andon はこの arde- と同じ語幹である。
 
 Anle- は altar で祭壇を表すので、
 アルデスタンは「祭壇の地」である。
 
 また、
 アルデスタンのさらに北方に地方名と同じ 
 Kāshān の町があり、
 その東側にアーラーン Ārān の町がある。
 
 アラーン人そのものの地名といってよいであろう。
 
 ここは彼等の故郷とするに十分な環境にある。
 
 さらに重要な地方名及び町名 Kāshān である。
 
 この名称はドイツ語の hashieren に対応する。
 
 ドイツ語の意味は「肉を刻む」であるが、
 これはまた kasher (英独語) と 関係する。
 
 同語はヘブライ語の「清浄な」の意味で、
 宗教的にはユダヤ教の典範に適っていることを
 基礎とする形容である。
 
 特に食物についての規則によって
 殺された肉類をいい、
 その点でドイツ語の hashieren と通ずる。
 
 『旧約聖書』「レビ記」に書かれる
 
 「燔蔡の獣の皮を剥ぎ、
  節々に切り分かたなければならない」
 
 に相当する。
 
 Koshei は
 インド・アーリア人の国名
 コーサラ Kosala としても表れる用語で、
 Kāshān は
 祝祭の際に犠牲獣を処理することを意味し、
 祝祭の場であることを意味し、
 祝祭の場であることを地方名・町名にしたのである。
 
 オーデンの故郷には
 大きな供犠所があったとの記述を
 アルデスタンの町名と共に説明するものである。
 
 なお、
 第八章の中の
 「アーリア人の侵入」においても詳説する。
 
 バビロニアにカッシート王朝を築いた人々には
 ザクロス山脈にいた種族ではなく、
 さらに北方から次第にのろのろと
 移動を続けた人々との事実が明らかになっている。
 
 それより古くから定住していた
 アラーン人の祖族は
 
 紀元前19世紀頃からカッシート人に圧迫されて
 ザクロス山脈の東側を北上し、
 北メソポタミアへ侵入し
 ミタンニ国を建てる原動力となり、
 東方の草原に出た部族はアリアナに辿り着き、
 そこに残留した人々はイラン人となり、
 さらに
 東方へとヒンズークシ山脈の南を
 パンジャブ地方へ出た人々が
 アーリア人となったのである。
 
 サンスクリット語のアーリアは
 「高貴な、高徳な」を表す。
 
 本来 Āŗān と関係する用語ではあるがまた
 「高み」の意味があり、
 「高み」である altar (祭壇)、
 アルデスタンとも通じる。 
 
 北方移動したアラーン人は
 カスピ海の西岸イランと
 アゼルバイジャン辺りに長期滞留し、
 アルダビ Ardabi を中心にしてその一部は
 
 紀元前15世紀に
 北メソポタミアにフルリ人を統括して
 ミタンニ国を支配したと推測される。
 
 同地方からは銅や鉛が産出する。
 
 この辺りには青銅器の遺跡が散在する。
 
 アラーン人はこの地で鉄の加工技術を修得し、
 鉄鍛冶を名称とする
 「アース族」の名を得たのかもしれない。
 
 ミタンニ国のフルリ人は金属加工の技術集団である。
 
 鉄についても、
 ギリシャ神話「アルゴー丸の英雄たち」に
 伝承される鋼鉄をつくる
 カリュベス人の国もフルリ人とみられる。
 
 ハッティ(ヒッタイト人に鉄を教えた)人に
 鉄の技術を伝授したのもフルリ人の可能性があり、
 フルリ人が居住する
 北メソポタミアの東に隣接したことにより
 アース族はその技法を習得したのである。
 
 以後彼等の勢力はカスピ海の北方へあるいは
 イラン高原へと拡張することとなる。
 
 森浩一編『鉄』古代東方の鉄鍛冶金には
 村上英之助の報告として
 
 「紀元前七・六世紀と推定される
  イラン出土の刀子(とうす) の構造を
  研究したフランスのラノ(A.F.Lanora) は
  鋼と矛鉄を交互に重ねて
  鍛打したことを明らかにし、
  その製作地をカスピ海南西の
  グルジスタンと推定している」
 
 との一文を紹介している。
 
 グルジスタンは
 現代名のイラン西北部、イラクの東北、
 トルコの南東端を含める地域で、
 アルダビルのある地方をいっているとしてよいだろう。
 
 ここに、
 アルダビルをアース族の祖地としたらどうかとの
 疑念が湧くが、それには条件が十分でない。
 
 牛頭崇拝などの信仰が涵養された
 古くからの史跡がみられないからで、
 主な遺跡は青銅器時代に入ってからであり、
 アース族によってもたらされた
 「ゲルマン」の名称は
 南メソポタミアとケルマンシャーなど
 イランの西南地方を中心とする
 信仰の象徴であることによる。
 
 紀元前2世紀になると
 中国の史料にカスピ海の北辺に活躍する
 「奄蔡」が記録されるようになる。
 
 アルダビル周辺にいた人々は神話の語る通り
 ローマ帝国の脅威を感じて
 さらに北方へと移動して行ったのである。
 
 ゲルマンの大族スエヴィ
 ( Suebi ないし Sueves )は
 「ガリア戦記」に載る
 ローマ人の表記によるものであるが、
 彼等のアルプス山脈の北側に移動した集団は、
 そこにスワビアないしシュワーベン地方を形成する。
 
 中世(13世紀)になると、
 北方のサクソニア地方にハンザ同盟、
 南方にはスワビア同盟という都市同盟を組み、
 神聖ローマ帝国より商業的独立を確保した。
 
 そして、
 スワビアの南に1315年
 スイスのシュヴィッツを中心とする
 三州のスイス自由連邦が成立した。
 
 スイスの国旗にみられるように、
 その象徴「赤十字」である。
 
 このようにスエヴィ族には自主独立の風が強い。
 
 20世紀のフランスの実存主義の哲学者サルトルは
 その血縁にドイツの音楽家にして医者で
 アフリカの聖人シュバイツァ博士がいるように
 スエヴィ族の後裔であるが、
 彼の展開した「主体性」は
 彼の祖先である民族的文化に潜む
 独立・自主の想念 sva を
 集団としての民族から
 「個人」に転換して主張したものである。
 
 このようなスエヴィ族の正確を考慮すると、
 Suebi の祖語は 
 Suva-iberi(十字崇拝者)であった可能性がある。
 
 北メソポタミアの「ケルト人」の
 文化の影響を受けたものである。
 
 
 ※ゲルマン族の大移動時代
 
 
M.K記

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第四章 大陸ケルト人 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 大陸ケルト人




  コーカサスの山塊に 北メソポタミアに成立した
 アッシリア初期の支配的階層が
 スバル人達であったことは確かなことである。
 
 そして、
 シャムシアダト一世が首都を置いた
 シュバト・エンリルは、
 その名の示すとおり
 スバルトゥ(シュバト)の地であった。
 
 スバル人が北方山岳の野蛮な民であったならば、
 
 なぜにそのような不便で危険な高原に
 南方の平野からやって来た
 セム系人が自分達の本拠地を築くだろうか。
 
 すでに見解を述べてきたように、
 この地方は商業的な交易の重要地点で
 魅力があったから首都を置いたのである。
 
 セム人が押し寄せる以前からスバル人たちは
 北メソポタミアからアナトリアへかけて
 商業的ネットワークを
 有効的に展開していたのである。
 
 紀元前二千年を過ぎた頃、
 私的組織が外国貿易に忙しく
 従事していたことが記録に報告されている。
 
 古アッシリアの王権に支配された商人達が
 アナトリアへ進出できたのは
 彼等がアッシリアの王権下に入った
 スバル人の一部で
 あったからと考えられるのであり、
 スバル人の商業的ネットワークに便乗したのである。
 
 その頃には、
 スバル人であるケルト人は
 アナトリアの西端エーゲ海沿岸まで
 到達していただろうと思われる。
 
 また、
 アッシリア、ヒッタイトの興隆ににより
 北メソポタミアとの連絡を
 断たれたケルト人の集団が
 ダーダネルス海峡あるいはポスポラス海峡を渡って
 ヨーロッパ大陸へと入った形跡がある。
 
 トラキアのエーゲ海へ流れ込む川に
 エブロス Ebros 川があるが、
 この名称は Iberi に係わる。
 
 トラキアの古民族にサトライ人がいた。
 
 ラテン語の Satrae は雑煮料理を意味する。
 
 サトライはユダヤの過越の祭の名称でもあり、
 この民族は祝祭を行う人々である。
 
 過越の祭の慣習に従うと、
 旧約聖書・出エジプト記第十二章に詳しいが、
 この日、
 子羊犠牲を捧げ、血を天幕に塗り、
 災いの降りかからないことを祈願する。
 
 トラキアの地に
 祝祭を行う民族がいたことは重要である。
 
 ところで、
 「肉入りスープ」のことをギリシャ語で、
 zoomos というが、
 この用語は日本にやって来て「雑煮」と転訛した。
 
 お正月の元旦の朝に家族皆で食べる
 「もち入り汁」のことである。
 
 平安時代に祝祭が禁止された後に餅に替わったが、
 それ以前は「肉入り汁」であったと思われる。
 
 西アジアの習慣が
 どうして日本へ入ってきたのだろうか。
 
 祝祭が日本の古代において
 盛んに行われていたことは既述の通りである。
 
 黒海の西海岸に
 ルーマニアとブルガリアの
 国境を流れるドナウ川がある。
 
 この川は古代にイシュタル川と呼ばれた。
 
 イシュタルはアッシリアでアシュタルと呼ばれ、
 カナアンでイシュタルとなった女神の神名である。
 
 トラキアからエブロス川を遡及し、
 ドナウ川沿いに影響した
 スバル人の青銅器技術は
 さらに大陸の内奥へと伝播されたと考えられる。
 
 スバル人自身が
 進出していったかどうかは定かでない。
 
 黒海沿岸地帯で吸収された
 金属(青銅器)加工技術と
 祝祭ないし牛角崇拝の信仰文化が、
 この地方の民族に依って運ばれたとも考えられる。
 
 彼等はケルトの名称を技術・文化の総称として
 北メソポタミアのカルトイベリ人から
 受け継いだのである。
 
 彼等がドナウ川の上流で
 西アジアとは違う彼等の個性に合った
 ハルシュタット文化を展開し、
 大量の青銅器を製造したのは
 紀元前十世紀頃からである。
 
 ハルシュタット地方からは銅が産出した。
 
 金属を手に入れたケルト人達は勢力を拡大し、
 紀元前六世紀を過ぎると
 イベリア半島にも至り、移植するようになる。
 
 また、
 ドーバー海峡を渡ってブリタニアから
 アイルランドへと植民者を拡散させた。
 
 また、
 紀元前三世紀にはその一派が
 ポルポルネス海峡を渡ってアナトリアへ入り、
 紀元前二〇〇年頃に
 アナトリアの中央にガラチアの中央に
 ガラチア国を成立させた。
 
 特殊な金属で Britnnia metal  がある。
 
 ブリタニアの特産の錫と銅、
 アンチモニー及び亜鉛を
 加えた合金で銀に似ているという。
 
 また
 フランス語で étainblac「錫」であるので
 意味がまさに「白」であったと考えられる。
 
 ここでローマ時代ブリタニアとよばれた 
 Briton の地名について述べておきたい。
 
 Briton はフランスの Bretagne と祖語を同じくする。
 
 それにまた
 シュメル語の zabar 、
 カナン語の bazel も同祖である。
 
 その意味は「青銅」である。
 
 カナン語と同様であるが、 
 za-bar が bar-za となったものである。
 
 修飾語が後に付くか、
 前になるのかの文法的法則の違いによって
 表記が変わったものである。
 
 ヨーロッパ語は修飾語が先となる。
 
 シュメル語は後である。
 
 Bar はシュメル語において 
 barbar(babbar) の同類語で
 「白い、輝く」に同義である。
 
 Za は「金属」あるいは「鉱石」を意味する。
 
 古代においてブルターニュ、ブリテンは
 錫の重要な産地であった。
 
 Za は
 ドイツ語の zinn 、
 フランス語の étain 、
 英語の tin で「錫」である。
 
 Zabar、barzel、Briton、bretogne は
 「輝く金属」の字義となる。
 
 グルジア語に verzhx(銀) となっている用語である。
 
 これらの地方名は
 古代の青銅器時代にスバル(ケルト)人が錫を求めて
 渡来したことに始まる地名であろう。
 
 ブルターニュ地方、
 ブリテンのコーン・ウォール地方は
 現代においてもケルト人の多く住む地域である。
 
 スバル(ケルト)人と大陸ケルト人との
 関係については確定的な判断ができない。
 
 一九世紀以降の人類学者の研究で
 大陸ケルト人が
 鼻高で金髪のゲルマン人と似た
 人々との判断が覆されつつある。
 
 その様子を
 寺田和夫「人種とは何か」から転載して紹介する。
 
 「フランスの著名な人類学者
  ピエール・ポール・ブローカは
  フランスの身性の研究に基づいて、
  ヨーロッパ大陸でケルト語をしゃべる
  唯一の地方であるブルターニュには
  背の低い褐色の毛髪をもった
  人々のいることを指摘した。
  同じ頃(1865年) イギリスでも、
  ケルト語族とくにウェルシュ人は
  小さくて皮膚も濃色であることが
  明らかになった。
  古典に記されている
  ケルトは背が高く色白であるという
  身体特徴とは矛盾する結果である。
  1870年代には
  ドイツの学者達が
  シュヴァルツヴァルトやアルプスの辺鄙な土地で
  テュートン的でない短頭の人々を見つけ、
  これもケルト族であると考えた。
  ケルト系の地がその地方に多いのも傍証とされた。
  十九世紀の終わり頃は、ケルト族とは、
  歴史上の既述とは逆に、
  濃色、短頭の人種と考えるのが
  人類学者の一致した意見になったと、
  英国のリプレーが記している。」
 
 ケルト人の宗教的権威者はドルイド僧である。
 
 その存在は大陸はもちろん、
 アイルランドまで広く知られている。
 
 特にアイルランドのダブリン地方は
 ドルイド教の大本山があった。
 
 ドルイド 
 Druid(英語)、
 Druide(ドイツ語)、
 δρουιδαι(ギリシャ語)と
 
 表記されるが、
 その語義については未だ確定されていない。
 
 彼等は動物犠牲祭の主宰者で常に槍を保持していた。
 
 その点においてその職席は「ハフリ」である。
 
 ケルト人の宗教は
 このドルイドの名に負ってドルイド教と称される。
 
 ギリシャ語に「槍持」を表す用語 
 δορυ-ψοροζ(槍-持つ) があり、
 doru は槍ではあるが槍の柄を指し、
 「木で作ったもの」の意で、
 本来の意味は「棒材」で「木材」を表す。
 
 アイルランドのゲール語においても 
 cill-dara(樫の木) のように
 dara は「樹木」で、英語の tree と同類である。
 
 Drui- はこの「樹木」の同類と考えられる。
 
 英語に「神にする、祭る」を表す deity を基にした
 deity(神、神性)、
 deism(自然神教)、
 deist(自然神教者) 、
 
 また、
 ラテン語には「神、神人」を表す dei があり、
 アイルランド語 diar は
 ギリシャ語の zeus の同類語 deus/di 
 と同じく神を表す。 
 
 deye は権威となる。
 
 また、
 ユダヤ人を称するヘブライ語 Judea は、
 シュメル語で
 月を表す zu から転訛した 
 Ju 月を信奉する者(月信奉者)の意味である。
 
 よって Drid は 
 tree-deist 樹木神教徒を表すと考えられる。
 
 その宗教的観念における聖木の役割はまさに
 『階段』(シュメル語の gala )である。
 
 ドイツ語の Tritt は「足踏み」ではあるが、
 「高壇」や「はしご(小さい)」の意味を持つし、
 英語の tread は同様に「踏む」ことであるが、
 階段の「踏み段」「はしごの段、横木」 を表し。
 
 階段の機能と係わる。
 
 両語とも druid と訓音が近似しており、
 ドルイドから派生した用語と思われる。
 
 アイルランドの前出
 「樫の木 cill-dara 」は教会名である。
 
 同国の首都ダブリンに近い地方名 
 Kildare はこの樫の木に由来し、
 隣接の Ofaly は
 英語のoffer つまり、供犠の意に依るものであり、
 その首都名 Dabrin 
 シュメル語の司祭を表す Śabra の同祖語である。
 
 イランのウルミエ湖の東にある町 
 Tabriz と同様である。
 
 同市の北に Savaran 山があり、
 その都市名の由来を物語っている。
 
 ドルイド教の祭司たちの本部があった
 史実に対応する地名である。
 
 樹木を表す dara も
 シュメル語の「成長、新緑の」を意味する 
 śar とは同祖と思える。
 
 アイルランドには
 「ケルトの十字架」と呼ばれる
 特異な十字造型がある。
 
 これは本来大陸ケルト人、
 つまり、
 インド・ヨーロッパ系ケルト人の
 文化によるものではない。
 
 紀元前五・六世紀
 彼等がこの島国に侵入する以前に
 イベリア半島のケルト・イベリア人が
 
 マルタ十字紋、渦巻紋、組紐、ジクザク紋を
 持って来たのである。
 
 鉱物を探究し続けた彼等は
 フランスのアルモリカと呼ばれた
 ブルターニュ地方、
 また、
 イングランドの西南の端れ
 デーボン辺りで錫を
 入手することができたのである。
 
 デーボンに近い Śonerset は
 金属を溶解する Sohmelze あるいは
 鍛冶工 Smith と係わる。 
 
 ローマ時代アイルランドは 
 Hibernia と呼ばれたが、
 イベリア半島のその名と関係し、
 「崇拝者」の意であり、
 国名 Eire も
 シュメル語 ār(神を賛美する)の同祖語と考えられる。
 
 スペインの感嘆詞「オーレ」にも関係する。
 ドルイド教の祭司たちの
 本拠地であったことを考慮すれば
 理解できるところである。
 
 後から渡来した大陸ケルト人達は
 先住ケルト・イベリア人の造形的工芸文化を
 破壊せずに踏襲し、発展させたのである。
 
 イングランドの錫の産地デボンよりさらに
 南端のコーンウォールにある
 「ケルト十字架」の石造物にみられる
 十字は正確にマルタ十字形であり、
 原初期に属するものとみられる。
 
 後のものにみられる装飾の全く無い、
 石柱の頭部に円形を刻み、
 その中にマルタ十字を彫ってあるに過ぎない。
 
 未だキリスト教の影響を受けていない
 素朴な十字である。
 
 このコーンウォール Cornwall と
 ウェールズ Wales は本来同語で
 「角形のウェールズ」と理解されている。
 
 Wale は地中海の島マルタ島の首都 
 Valletta の語幹 val である。
 
 つまりシュメル語 bar(交差する)と
 同じ「十字」を意味するのである。
 
 また、
 corn は
 ギリシャ語の κορνη (棒、杖) 、
 カナアン神話の神名ホロン Horon 、
 ひいてはインドの祭
 ホーリー祭の holi と関係する。
 
 Cornwal は棒、
 ここでは柱と理解してよいと思うが、
 「柱(棒)の上の十字」の意義である。
 
 「ケルト十字架」に戸外においては石柱の頂に
 マルタ十字を乗せているのが普通である。
 
 大陸ケルト人達が先住の民の文化を
 抹殺しなかったのは、
 彼等自身もメソポタミアの
 ケルト(スバル)人の文化の影響を強く受けて
 成立してきた共通の土壌にあったからである。
 
 ハルスタット文化にみられる
 渦巻装飾などはその典型である。
 
 ローマ時代カエザル、
 つまり、ジュリアス・シーザーが著した
 「ガリア戦記」の第一巻(紀元前五八年)の最初は
 
  「ガリアは全部で三つに分れ、
   その一にはベルガエ人、
   その二にはアクィーターニー人、
   その三にはその仲間の言葉でケルタエ人、
   ローマでガリー人と呼んでいるものが住む」
 
 から始まる。
 
 ベルガエ人は現在のベルギー辺りで、
 その国名の祖語である。
 
 アクィーターニー人 Aquitania は
 現在のガスコーニュ地方で、
 語幹 aqui- は
 グルジア語の ochar ないし achar に関係し、
 金属の「金」に因む名称で、
 ガスコーニュの同義異名と思われる。
 
 ケルタエ人はケルト人のことであるが、
 ローマ人が Galli と呼び、
 ケルトの地を Gallia と
 呼んだというのがその意味である。
 
 この名称は
 カナアンの紀元前後の名称 
 Galilaea の同祖語である。
 
 大陸ケルト人は
 金属商人たるスバル人の影響の下に青銅を取り扱い、
 この頃には鉄器技術にも精通して
 勢力を拡大した人々である。
 
 「ガリア戦記」は
 
  「ガリー人はガルンナ河で
   アクィーターニー人から、
   マトロナ河とセクアナ河で
     ベルガニ人から分かれる」
 
 と続け、
 その勢力地域が現在も
 フランスの南部ランゴバルト地方から
 北西に向かって流れるガルシナ河以北、
 パリを流れる現代名セーヌ河以南といっている。
M.K記

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第四章 グルジア [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 ウラルトゥ



  コーカサスの山塊に
 グルジア(現)ジョージアの国名による国が
 統一されたのは
 紀元後十世紀後半のことである。
 
 それ以前には長い間イベリア国が存続した。
 
 建国は紀元前六-四世紀のことと伝えられる。
 
 イベリア Iberia は
 ギリシャ語に始まり
 ラテン語(ローマ時代)に
 引継がれた呼称である。
 
 現在のグルジア Gruzia 国では
 自分たちの国名を
 サカルトベロ Sakhardhvelo と称する。
 
 Sa- は「~の」を表す接頭語で、
 Khardhveli がグルジア国人を意味する。
 
 グルジア国民を構成する民族は六民族であるが、
 主体的な民族は
 カルト人、ミングレル人、スヴァン人で、
 彼等を総じて一般にはカルトベリ人と呼ぶ。
 
 イベリアはこの -hveli に基づく呼称である。
 
 グルジア国 Gruzia (英語名 Georgia)は
 コーカサスの外・内両山脈間の
 山塊地から黒海沿岸にわたる国であるが、
 歴史的には
 現在のトルコ領の東北地方を領していたことがあり、
 エルジカン市の西方に
 サカルタン峠の地名が残っているので、
 その辺まで領土が伸びていた。
 
 現在もその地域には
 カルトベリ人が居住しているのである。 
 
 この地域は鉱物資源の宝庫である。
 
 金銀銅が産出するほか、
 特に鉄によく似た金属マンガン鉱が
 チアツラ市近郊から産出する。
 
 マンガンは鉄より軟らかく、
 鉄、銅などの合金として使用され、
 現在においては
 高度マンガン鋼は硬度が高く特殊レールなど
 耐磨耗部品に使われている。
 
 ただし、
 この地方のマンガン鉱が
 古代において
 どのくらい利用されたかについては史料がまだない。
 
 西部グルジアには紀元前にグルジア語で
 エグリシ Egrisi と呼ぶコルキス国があった。
 
 ギリシャのアルゴナウティズ
 (アルゴ丸の船乗りたち)神話に名高い
 金羊皮を守っていた国である。
 
 Egri- はギリシャ語表記の 
 αιγλι で山羊のことである。
 
 エーゲ海文化(クレタ文化)の
 古層に係わる名称である。
 
 コルキス Χολχιζ はギリシャ用語で、
 その祖語は青銅を直接的には意味するが、
 
 銅あるいは一般的な金属品をも意味する 
 Χαλκοζ と考えられる。
 
 黒海に近い地区名アチャーラや
 隣接するアハルチヘは
 グルジア語の金を意味する 
 ocher と係わる地名で、
 金の産地に由来するところであり、
 金羊皮(黄金の毛をした牡羊)伝説の礎になったと
 考えられる。
 
 この一帯はいわゆる金地国といってもよい。
 
 「アルゴ丸の船乗りたち」の物語には、
 コルキスに至りつく前、
 敢えてその場所を推測すると
 黒海の南岸ポントス付近に
 鉄の製錬が上手で鋼鉄を発明したといわれる
 カリュベス Χαλνψ と呼ばれる種族もいた。
 
 その神話のなかで彼等の生活について
 
 「カリュベス人は土地を耕すことなく、
  果樹を植えることも、
  露にぬれた草地に家畜を飼うこともしなかった。
  荒地から鋼や鉄を掘出しては、
   それを食料と交換するのである。
  そして、
   暗闇と濃い煙のなかで激しい労働のうちに
   その日を過ごしていた」
 
 と述べている。
 
 正に「カインの末裔」ともいうべき
 フルリ人金属工たちの
 生活の実態であったかもしれない。
 
 さて、khardhveli の名称は
 これまで確認を繰り返してきたとおり
 「牛角崇拝者」を意味する。
 
 彼等の人種的性格は地中海人種に属する。
 
 彼等は、
 このコーカサスの山塊地方に
 太古から居住していたのではなく、
 南方から紀元前の遅い時期に
 北メソポタミア、ハブール地方から
 ユーフラテス川の上流である
 ムラット川を越えてアチャーラ方面へ、
 また、
 ウラルトゥのハブリウリから大ザブ川を遡し、
 ヴァン湖、セヴァン湖方面から
 首都トビリシ方面へと移動した
 スバル(カルト)人達なのである。
 
 三つの主要民族名のうち
 カルト人はウラルトゥで
 ハルディア人と呼ばれた者達でもあり、
 フルリ人の後裔といってよいであろう。
 
 シングレル人は
 別称イメレディ ymerdhi であるが、
 この語は神を意味するばかりでなく
 「像」の意味を持っている。
 
 スラブ語に入って
 「偶像」を表す komhr となるが、
 彼等こそ
 紀元前三千年頃
 北シリアのハブール川沿いの遺跡
 テル・ブラク で「眼の神殿」を建設し、
 「メ」を神として崇め
 眼の偶像を奉納した人々の後裔と考えられる。
 
 また、
 第三のスヴァン人は
 ヴァン湖、セヴァン湖方面にいた人々である。
 
 グルジア語で svam は「飲み込む」であるが、
 sevan 湖はその用語に従ったもので、
 van 湖はその北に sevan 山があるとおり 
 svam に係わる名称である。
 
 これはウルミア湖も同じであるが、
 両湖とも湖から流れ出す川はなく、
 湛えられた水はすべて地下に吸い込まれてしまう。
 
 以上の三民族の名称においても
 彼等が南方から移動して来たことを理解させる。
 
 トルコ領のアルダハン Ardahan 中心に
 イスラム教化したカルトイベリ人が住んでいるが、
 この町の名はウラルトゥ時代のハブリウリの町
 ムサシルのウラルトゥ語名アルダーニと同じであり、
 その両方には、その転訛 Artin 名の町もある。
 
 グルジア人の氏名の大きな特徴は
 
 「シュワル(十字)」
 「シュヴェリ(息子)」
 「シュビリ・アシュリ(娘)」
 「シュヴィリ(子供)」
 
 が付されていることで、
 スバルやその別称とされた
 シュバリと極めて親密である。
 
 二十世紀のソ連の政治家
 スターリンは同国ゴリ市の出身で、
 グルジア名をシュガシュヴェリといった。
 
 ゴルバチョフ首相の下で
 欧米諸国との間の冷戦を終局させた
 外相シュワルナーゼもグルジアの出身で、
 ソ連解体後帰国して大統領の職席に就いた。
 
 首都トビリシ市内には
 ゲオルゲシェヴェリ通りがある。
 
 ゲオルゲはギリシャ語で農夫を意味するが、
 Gruzia は
 このギリシャ語 γρογγε に由来する。
 
 紀元後三世紀に
 カッパドキアのリッダ Lydda の
 領主の息子に生まれ、
 ローマの将校となっていた
 ゲオルゲが密かにキリスト教を信奉していたが、
 ローマ皇帝の迫害に抵抗したため捕らえられ、
 紀元前三〇三年頃
 パレスチナのベイルートに引かれていき
 斬首されたという。
 
 その行動は
 軍人の鑑と尊崇され、軍人の保護聖人とされた。
 
 その後
 キプロス島、イェサレム、エジプト、ビザンチン帝国に
 多くのゲオルグ教会が作られた。
 
 この聖人の出身の部族は
 アナトリアにいた
 イベリア人/カルト人の仲間であったかもしれない。
 
 イベリア国は逸早く
 紀元前四世紀にはキリスト教へと改宗した。
 
 ここに古来からの
 牛頭崇拝の慣習は停止されることとなった。
 
 だが、
 彼等の民族としての呼称は
 現在に至るまで引継がれているのである。
 
 聖ゲオルグ信仰はローマ時代を通じ西方にも広がり、
 「イベリア半島」でみた San Jorge 、
 ウェールズとアイルランドの間の海峡名 
 Saint Georgia 、
 また
 英国のキリスト教聖人となり
 国王の名称ジョージともなり、
 アメリカのアトランタのあるジョージ州の名となった。
 
 一方、
 ロシアのキリスト教ではユーリー教会など
 その威徳がが尊崇され続けている。
 
 ユーリーはゲオルグのロシア名である。
 
 グルジア語はカルトイベリ諸語の一つといわれるが、
 先にみたように
 ウラルトゥ語との関連、シュメル語との関連、
 さらにイベリア半島のバスク語との
 共通性が追求されている。
 
 また、南インドのドラヴィダ諸語、
 つまりタミール語との共通点について
 シュメル語を介して論議されている。
 
 大野晋が「日本語とタミール語」などで、
 このタミール語と日本語の共通性を論じたり、
 文法的に日本語とグルジア語、
 つまり、
 カルト人の言語が
 全く関係ないとはいえないことになる。
 
 突き詰めるところ、
 高床式神殿の呼称を
 
 『sinjer』と推測したが、
 
 それが祖語となり、諸言語を通って
 
 『じんじゃ(神社)』=『高床式神殿』
 
 となったことを全く否定しさることはできない。
 
 サンスクリット語の 
 srnga (角) がその仲介語であろう。
 
 北シュメル・アルパチア遺跡の
 碗形土器に描かれた高床式建物は
 日本神道と関連していることとなる。
 
 ついでに述べておくが、
 ユダヤ教の聖堂シナゴーグ 
 Sinagog も『sinjer』を祖語とするものと考える。
 
 今日まで、
 カルトイベリ諸語との関連を論議するに当たって
 現在のグルジアのある地籍コーカサスを当該地とする
 コーカサス諸語との呼称による
 捉え方が通例であったが、
 カルトイベリ人の中枢が
 紀元前五世紀頃までは
 北メソポタミアにあったこととを是認すれば、
 交流経緯を組み替えなければならないのである。
 
 本書はメソポタミアを含む
 西アジアの古代を考察するために
 既に多くのグルジア語の単語を参照にしてきた。
 
 また、
 北メソポタミアの牛頭あるいは牛角を
 崇拝する民族名を
 「カルトイベリ人」と延べ、
 その証明のための論証をここまで展開してきた。
 
 多くの歴史的資料を観てきた、
 この段階において、
 紀元前三千年以前における
 「カルトイベリ人」の存在を
 納得できるであろうか。
 
 彼等が古代文明の開拓者であったことを
 否定できるだろうか。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第四章 ウラルトゥ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 ウラルトゥ

  ウラルトゥの建国の時期は
 紀元前九世紀頃といわれる。
 
 その支配的民族はハルディアとは、
 カルディア人として知られている。
 
 ハルディア人とは、カルディア Khardia 人である。
 
 紀元前四世紀のギリシャの歴史家
 クセノフオンが「アナバシス」の中で
 アルメニアとアッシリアの間の山岳地帯に住む
 カルディア (Kardachoi) 人に触れているが、
 この人々であろう。
 
 クセノフオンはソクラテスの弟子で、
 紀元前四〇〇年頃
 ギリシャ軍に兵士として加わり、
 小アジアからメソポタミアの
 バビロン、アッシリア、アルメニア、
 黒海沿岸まで遠征した記録である。
 
 彼はさらにアルメニアに居住する
 カルダイオイ Chaldaioi 人と
 呼ばれる人々についても触れている。
 
 この部族とバビロニアのカルディア人とが
 同族であるとの主張をする見解は
 すでに現われている。
 
 大ザブ川はハリル山脈を巻くように東南へ流れ、
 その山脈が尽きると急に西南へ
 曲線を描いて流れ下る。
 
 この東方に張り出した一帯ををハブリウリと呼び、
 「ハブールのウリ」の意味で、
 シュメルの都市ウルに対応する。
 
 ハブリウリの東部にウラルトゥ人自身が
 アルディーニと呼ぶ
 アッシリア名ムサシルの町があった。
 
 そこの神殿にはハルディ神が祀られており、
 新しく王位に就く者はこの神殿で就任式を行った。
 
 ハルディ神がウラルトゥの神々の最高神であることを
 示唆している史実である。
 
 同神は Khardi (カルト)神で、
 牛頭を象徴している用語の踏襲と考えられる。
 
 ムサシルの主神殿の他にも多くの神殿が建てられた。
 
 ウラルトゥでの神殿の特徴は、
 塔を備えていることで、
 少なくとも六ヶ所のそうした神殿が発見されている。
 
 塔のある神殿といえば、どうしても
 アルパチヤ遺跡出土の碗方土器を
 思い出さざるを得ない。
 
 あの高床式神殿を描いた土器の時代から
 約五千年を経ているが、
 主祭神がハルディ(カルト)神であることを含めて、
 その相互の共通関係を否定することはできない。
 
 アッシリアの楔形文字を利用して
 ウラルトゥ語の文書がたくさん残されているなかで、
 多くの宗教的建物がハルディ神に
 献げられたとうたっている。
 
 その神々のうち、強力な神にティシェバ神がいる。
 
 フルリ人の天候神テシュブ神と関連づけられている
 神であるが、
 同神と思われる牛の上に立っている神像が
 浮彫りされた青銅製の円盤が発見されている。
 
 この円盤には、
 神像の周囲を二重に翼をつけた
 数多くの牡牛が装飾されている。
 
 また、
 エーゲ海のクレタ島の神話に登場する
 上半身が人間で下半身が牛の、
 いわゆるケンタロウスの像に酷似した
 デザインの青銅像がある。
 
 ヴァン湖近くのルサヒニリより
 1870年に発見されたと伝えられている像で、
 金メッキされた王座の一部であったと
 考えられている。
 
 ケンタロウスと違うところは
 青銅製円盤と同様翼を付けていることである。
 
 さらに発見地がトルコ東部と伝えられる
 三頭の牛頭をあしらった大がまと
 三本の牛足をつけた三脚台のセット、
 また四牛頭と四牛足の同型の大がまもある。
 
 セヴァン湖方面のテイヘバイニからは
 尖った頂を持ち、
 三本ずつの角を左右にあしらった兵士用の兜が
 二十個見つかっている。
 
 このようにウラルトゥの文化的基盤には
 牛、角に対する想念が脈々と息づいているのである。
 
 工芸文化の特徴は青銅による器物及び諸像などの
 製作にある。
 
 その精巧な作りは鋳造技術の高かったことを示し、
 優れた技術的集団の存在をうかがわせている。
 
 クセノポンの『アナバシス』にも、
 ギリシャ軍の占領した
 カルドゥコイ人の村の家々には青銅製の
 什器が多数具えてあったが、
 ギリシャ軍は一切手をつけなかったと記されており、
 青銅製物品が一般的に幅広く
 使用されていたことを伝えている。
 
 ウラルトゥ語は
 フルリ人の言語と直接的係わりがあるが、
 フルリ集団が鉱夫であり、
 青銅を加工する技術集団であったこととの
 結びつきを如実に語っている。
 
 紀元前八百年頃のメヌア王の碑文には
 青銅ばかりでなく、
 鉄工技術についても触れられており、
 この時代すでに鉄を巧みに利用していたことを
 示している。
 地元に産出する鉄鉱石を
 大いに利用した結果でもあろう。
 
 同王の碑文は七〇点以上見つかっているが、
 その内容は金属加工のほか
 宮殿、灌漑用水路、倉庫、神殿などの
 建築計画について記述されている。
 
 ウラルトゥ Urartu の名称は新アッシリアの
 サルマナッサル三世の宮殿跡を
 「バラクトの丘」で発掘した際
 見つかった粘土板の楔形文字史料のなかで、
 「アッシリアに敵対する国」として
 言及されたのを初出とする。
 
 因ってその呼称はアッシリア名であることが知られる。
 
 彼等自身は、
 その地方をウラルトゥ語でビィアイニリと呼んでいた。
 
 Urartu の語義については諸説あるが、
 ハブールのウリに
 ハルディ神の主神殿があったことと、
 その所をアルディニと呼んだことを考慮すると
 「ウル Ur の artu」と解釈することができる。
 
 Artu と ardi(-ni) は同根語と考えられるし、
 南メソポタミアの都市名
 エリドゥ Eridu と近似している。
 
 エリドゥ市名の検討に当たってサンスクリット語の
 「登ること」の ā-rudhi などを参照したが、
 塔を備えた神殿が
 多く建造されたことを考え合わせると、
 高床式神殿の「高み」と係わりがある。
 
 独英語で祭壇を表す Altar とも訓音は近い。
 
 碑文書には神殿の呼称として 
 「ハルディの門」が一般的に使われており、
 門は『旧約聖書の』
 創世記第二八章のヤコブの旅の段に語られる
 「神の家」「天の門」の概念とも一致する。
 
 また、スシとも称されたが、
 これはグルジア語の 
 shesavali(入口)  
 zis-kari(天-門)と関連があろう。
 
 このように考えると、
 Urartu は
 「ウルの祭壇」で「ウルの神殿」と
 解釈することができる。
 
 ウラルトゥ国はアッシリアの侵略を受けたが、
 そのセンターが山塊に位置し、
 冬の寒冷及び降雪に助けられ
 国体が何とか保たれていた。
 
 スキタイ人の一派とされる
 キンメリア人が北方より侵入してきてからは
 国威が衰え、
 彼らによって
 セヴァン湖方面のティシェバイニ市が
 陥されると崩壊の一途を辿った。
 
 紀元前612年に
 さすがに強盛を誉ったアッシリアも
 南方バビロニアのカルディア人の圧力や
 東方ザクロス山脈のメディアの支配すると、
 ウラルトゥの地はメディアの支配するところとなった。
 
 チグリス川を挟んだ峡谷の地シュブリアも
 いつしかその名称が消えていってしまった。
 
 その後には
 インド・ヨーロッパ系のアルメリア人が
 国を誕生させることとなる。
 
 カルト人は、
 また北方へ向かって移動を進めたと思われる。
 
 ハルディ語ともいわれたウラルトゥが
 フルリ人の言語を母体にしていたことを述べたが、
 現在のグルジア語と関連があり、
 双方とも膠着語の特質を持っている。
 
 先に述べたが、
 ハルディは khardi であることを再確認しておきたい。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
岩波講座「世界の歴史」は述べる。

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第四章 フルリ人とミタンニ国 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 フルリ人とミタンニ国


  岩波講座「世界の歴史」は述べる。
 
 「いわゆる古代人によって
  スバルトゥと呼ばれた
  この地方の原住民の名であり、
  フルリ人と呼ばれたものの名である。」
 
 第三章のスバルトゥに係わる節で取り上げた
 アッシリアの初代から第三十代までの
 王名についての記述である。
 
 イラクの北端、大ザブ川がトルコ領から国境を超えて
 イラクに入り南東へ行く流れの南側の山地は
 ハリル Harir 山脈と呼ばれる。
 
 山脈の東端、大ザブ河畔に
  ゼバル Zebar の町があり、
 その付近に
 東方からシャムダール川が大ザブ川へ流れ入る。
 
 この地域はハブール地帯の一部であり、
 いわゆるフルリ Huluri 人の発生の地と推測される。
 
 フルリ人は、
 紀元前二千年後のスバルトゥの別称として
 考えられてきた。
 
 彼等の出身地については不明であるとされてきたが、
 上記の地名を考慮すれば
 スバル人(よってカルト崇拝の仲間である)のうちの
 ハブール地方の東北部を拠点とした
 集団であったと考えられる。
 
 この地方は針葉樹林帯内にあり、杉林が広がり、
 
 平原には牧草が繁茂していたとみられ、
 ゼバールの町名が示す通り
 羊などの牧畜が主な業柄であったと思われる。
 
 紀元前二千年頃のアッカドの粘土板に書かれた
 スバルトゥに関する記載のなかで
 フルリ huluri の字義については
 セム語のなかに huluri に音声の近似した 
  pillurtu という「交差」を表す用語があり、
 シュメル語「十字」のアッカド語読みと考えると、
 フルリ人がスバル人であることが納得できる。
 
 Pillurtu の語幹と係わる動詞形(交差する)は 
 eberu で、
 シュメル語の bal の同祖語であり、
 その語義には「追い越す、更に延ばす」の
   内容を含む。
 
 だが、フルリが彼等の集団の特性を
 表しているとするならば、
 アッカド語の 
 huru(掘る) 、
 haru(掘り出す)、 
 haruru(掘る)に関連しよう。
 
 その字義はすべて山を表す
 シュメル語の hur にも係わると思われるが、
 フルリ人とは金属鉱山で
 金属を掘り出す鉱夫を想起させるのである。
 
 アッカド語の山表す用語に 
 hursu があり、
 hurusa は「金、黄金」の意である。
 
 いわゆる山岳を表記するアッカド語は šadu であり、
 hurusu は鉱山の意味であると思われる。
 
 フルリ人は、
 スバル人のうちで鉱業あるいは金属加工を業とする
 thveli(金属工) の技術集団であった可能性がある。
 
 スバル人商業集団の一部であったのである。 
 
 紀元前二千年前を越え、青銅器文化が隆盛になると
 フルリ人特有の文化が醸成された
 北メソポタミア一帯にその活動の場が広がった。
 
 それ以前においてもその足跡は認められ、
 ウル第三王朝時代、
 北メソポタミアの現在のシリアの東北地方の
 ウルキシュやナワルの都市を
 フルリ人が支配していたほか、
 彼等の本拠とみられる
 チグリス川東部の王名ならびに
 フルリ名が顕著であった。
 
 紀元前二千年期にはザグロス山脈方面にも及んだ。
 
 すでにみたように牛頭崇拝の広がりをみせた地域で、
 遠くはカスピ海南方へテヘランに近い 
 トゥクリシュから
 シャッラ、シムッルムのメソポタミア平野に
 近い町まで広がる。
 
 続く時代には、
 アッシュール近郊のエカッラトゥム、
 子ザブ川東方のヌジ、
 ニネヴェの西方ジンジャール山脈の南のカタラ、
 ハブール平原と推定されるアシュナックム、
 さらに西方のオロンテス川沿いのアララクにも
 フルリ系の君主名が残されている。
 
 この地方へのフルリ人の進出は激しく、
 紀元前千四百年頃のアララクの史料には
 全人口の過半数をフルリ人が占めるようになる。
 
 地中海沿岸の町ウガリットにも
 八分の一から七分の一のフルリ系の人名が
 前十四世紀から前十二世紀にわたる
 ウガリット文書の中にみられる。
 
 また、
 エジプトの紀元前十五世紀の文書にみられる
 カナンの地のフルもフルリ人と
 関係がありそうである。
 
 紀元前十六世紀の北メソポタミアに
 ミタンニ王国が建設された。
 
 フルリ人の経済的基盤の上に立脚した王国であった。
 
 アッシリア人はミタンニをアッカド語で
 ハニカルバドと呼んだが、
 これは多分「商品を交換する国」の意であろう。
 
 ミタンニ Mitanni は
 マタンニ Matanni とも呼ばれたが、
 グルジア語で mdha というので、
 「山の国」が本義であったと考えられる。
 
 その首都ワシュガンニの所在地は
 未だ不確定であるが、
 これもグルジア語による解釈によると
 「谷を出た所」の意であり、
 ハブール高原のどこかであったことは
 間違いないだろう。
 
 ミタンニ王国の最盛期には、
 その領土が東方のヌジのあるザクロス山脈の
 西麓からアッシリア地方、
 北方はヴァン湖の南岸から
 チグリス川の水源ハザ湖周辺を含む
 アルシュ、イシュワ地方、西方はタロス山脈の東部、
 地中海北岸ウガリットはもちろん
 オロンテス川上流カデシュまで達し支配した。
 
 北方のアナトリアの帝国ヒッタイトと
 クズル・ウルマク川付近で、
 南方のエジプトとカナンのビブロスあたりで
 常に拮抗していた。
 
 ミタンニ国は両国の圧力により滅亡し消滅するが、
 フルリ人が抹殺されたわけではない。
 
 彼等は続くアッシリア、カッシートなどの
 バビロンの覇権の下にも存続し、
 紀元前九世紀頃アッシリアの北辺に
 ヴァン湖を取り巻いて
 ウラルトゥ国を建設することになる。
 
 本来アッシリアも
 スバル人の一部の民族の建設した
  商業国家であったが、
 新アッシリアは軍国主義国家の性格が強く、
 古アッシリアの重商主義的国家組成の条件が
 変わってしまった。
 
 新アッシリア治下の紀元前九世紀頃、
 スバル人たちはシンジャール山脈の北側
 ハブール高原から次第に北方アナトリアの
  山岳地帯へと
 その居住地域を移転し始めたと考えられる。
 
 ハブール平原のスバルトゥの地から
 一山脈を超えたチグリス川流域へ、
 そこは鉱物の豊富な谷合であるが、
 彼等の拠点が移され、
 シュブリア「スバル人の土地」
 と称するようになったものと思われる。
 
 また、
 大ザブ川のハブリウリから上流にも
 スバル人は根強く勢力を張っていたが、
 彼等も次第にウルミア湖ヴァン湖方面に
 移動を続けたとみられる。
 
 移動理由には、
 アッシリアの軍事的圧迫があったことは
 容易に推測できるが、
 
 すでに始まっていたことは
 鉄器時代の進展にともない、
 鉄鉱石の産地がシュブリア地方、また
 ハブウリからウルミア湖に至る地方に
 分布していたことにもよると考えられる。
 
 彼等は青銅器文化の必要な担い手であったが
 鉄器文化への転換も始まったものと推測できる。
 
 スバル人と呼ばれ、フルリ人と呼ばれた
 カルト人の根幹勢力は
 祖地を離れて北方のコーカサスに向けて
 次第に移動を開始したのである。
 
 フルリ人の天候神テシュブ神は
 牡牛に乗る男神である。
 
 また、
 女神ヘポトは牝獅子に乗る神である。
 
 この関係は
 インドのシヴァ神の乗物(牡牛)と
 ドゥルガーの乗物(虎)に対応する。
 
 獅子はライオンで虎ではない。
 
 カナン神話におけるバアル神の乗物が
 牡牛であるのに対する
 イシュタル女神の乗物がライオンで
 あることにも対応する。
 
 フルリ人の故郷が北メソポタミアのハブール地方で、
 チグリス(虎)川が流れることを考えると
 本来虎であったとみられる。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第三章 地中海人種 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 地中海人種




  イベリア半島のスペインから西アジアの
 非常に広い地域に
 居住していた古代の人々も総称していう。
 
 その範囲はバルカン半島、アフリカ北部を含む。
 
 古代の文明を開いたローマ、ギリシャ、エジプト、
 そして西アジアの人種はこの範疇に入る。
 
 現在においては
 地方的変異もみられるようになっている。
 
 その系統は地中海地方ばかりでなく、
 
 コーカサス地方、アジアのインド亜大陸にも
 広がっている。
 
 スペインのバレアレス諸島の調査報告によると、
 そこの人々は、
 身長が一六四センチメートル程度と低く、
 長頭で顔は長く卵型、鼻筋が通り、唇が厚い。
 
 皮膚の色合いは比較的濃く、
 日焼けした症状は
 ヨーロッパ大陸の北方人種ように
 斑点になるのではなく濃褐色になる。
 
 これらの特徴に整合する人々は
 イベリア半島、フランスの一部、
 イタリア付近の島々と、
 地中海の西部中部地方に分布している。
 
 以上にみた地中海人種の特性は、
 メソポタミアの古代紀元前七千から六千年の間の
 サマッラ式土器期のイラク中部にある
 チョガ・マミ遺跡から
 出土した彩文女性頭部土偶に酷似している。
 
 長い髪を巻き上げて頭上で纏めていることを
 考慮しても長頭で、
 顔は卵型、鼻がよく伸び、唇が厚く張っている。
 
 目が大きく造られているのは
 シュメルの彫像にもみられるように
 メソポタミアにおける全般的特性である。
 
 同じくイラクの中部にある
 テル・アル・ソワン遺跡の
 サマッラ期の墓地から出土した
 アラバスター製人物像は、
 長頭で鼻がよく通っている。
 
 さらに紀元前三千一百年頃の
 北メソポタミアのテル・ブラク
 「眼の神殿」から見つかった石製頭像は、
 鼻が高く取られ、唇も厚めに彫られ、目も大きく、
 チョガ・マミ遺跡の人頭土偶の特徴を踏襲している。
 
 また、
 紀元前三千年頃の古代都市トゥトゥヴの
 テル・ハファージェ遺跡の長円形神殿から
 出土した銅製
 「箱を頭に乗せた人物立像」の頭部の特徴も全く
 「女性頭部土偶」と同じで、複製ともいえる。
 
 このように
 メソポタミアの新石器時代から
 青銅器時代に渡る人物造型に、
 地中海人種の特性が強く表現されていることは
 重要である。
 
 北メソポタミアの文化的影響は、
 紀元前六千年から五千四百年に至る
 ハラフ式土器期に地中海沿岸に
 定着した様子がみられる。
 
 オロンテス川の北端地域にアラアク遺跡などの
 ムキシュ地区に
 その遺跡が集中している。
 
 紀元前三千年期に特徴づけられる
 斜めの口縁を持つ鉢は
 南メソポタミアの生活用容器であるが、
 同型の鉢の出土分布が
 北メソポタミアからオロンテス川流域にまでみられ、
 南メソポタミア文化が地中海北部と
 連結していたことを示している。
 
 地中海人種と北メソポタミアの人々とには
 深い人種的関係が認められるのである。
M.K記

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島


  古代のイベリア半島で重要な条件は、
 銅、鉛、銀、錫が、
 そして金が産出されたことであった。
 
 スペインの南東の端アルメリア近郊は銅、
 鉛のほか銀の鉱脈が露面近くにあって
 半島有数の鉱山があった。
 
 セルヴィアからポルトガルの南端にかけては
 銅、銀及び錫が産出した。
 
 また、
 北西のガリシア地方からは金、銀、鉛、錫が産出し、
 スペインとフランスの国境のピレネー山脈が
 大西洋のビスケー湾に向かっていく地帯からは金が、
 スペイン側の湾岸地方からは鉄も産出された。
 
 地中海地帯で錫が産出する所は
 アドリア海の東岸ダルマチア地方と
 イベリア半島のジプラルタル海峡を
 大西洋へ出た半島の西南端地方しかない。
 
 青銅器時代においてイベリア半島が
 重要であった理由はここにある。
 
 ギリシャ人、ラテン人が野蛮と称した 
 barbar を
 「自分自身」 berbera の意味に用いている民族がある。
 
 スペイン語で Vasco と表記され、
 Basque ないし Euskal と自称する民族である。
 
 彼等は大西洋岸ビスケー湾の底に当たる
 スペインとフランスの国境を挟んでというより
  両国に分けられて居住している。
 
 バスク人の伝説で、彼等の祖とされる人物の名は 
  Tubel トゥベルという。
 
 この名称は
  カナン・ガリレアの町チベリアス Tiberias 、
  と同様
 メソポタミアの金属工 Thveli の同祖語とみられる。
 
 十六世紀のスペインの歴史家
  エステ・バン・カリバイは、
 バベルの塔の後、トゥベルという男が
 バビロンからバスク語を
  スペインへもたらしたと述べている。
 
 また、バスクの伝承には大洪水を逃れた
  Aitor はバスク人のもう一人の祖とされている。
 
 バスク語の aita は「父」を表すので、
  アイターは父祖の意であろう。
 
 また神話上の用語として「神の国」である
 jainkoaren-begi があるが、
 これはシュメル語の dingir-igi ni 対応するだろう。
 
 Euskal はフランス語では Gascogne と表記されるが、
 これはシュメル語の guskin の同祖語と考えられる。
 
 グスキンは金・金鉱の意味であるが、
  この地方からは金が掘り出された。
 
 バスク人とは、
  金鉱山に係わる金属工であったと推測できるのである。
 
 例として挙げるのであるが、バスク語で鹿を意味する
  orein はコーカサスのグルジア語での 
  iremi の同義同根語である。
 
 文法上でも能格を持ち主格と区別されるなど
 バスク語とコーカサスの諸言語との共通性を是認し、
 バスク人はコーカサスからやって来たと
  主張した学者がいた。
 
 ここで対象にされているコーカサスの諸民族とは
 グルジアに居住する諸族のことである。
 
 バスクがコーカサスと結びつけられたのは、
 グルジアの地にイベリア国がローマ時代まであって、
 その名称がイベリア半島の
  イベリア人の呼称であることにもよる。
 
 イベリア人とバスク人の関係については
  語学上原初イベリア語はバスク語であったとの
  見解を述べる学者が以前にはいたけれど、
 
 現在では原初のイベリア族は単一民族でなく、
 その言語も単一の言語でなかったと考えられる。
 
 バスク語もイベリア族の複数言語のうち一つであったとの 見解が一般的に承認されている。
 
 イベリア族も土着の民族とは考えておらず、
 外来の民族で起源をコーカサスに求められているのは
 上記の通りである。
 
 論争の争点は
 コーカサスからの移動行程についてである。
 
 その一は、コーカサスを発ち大陸を横断し、
 ピレネー山脈の北方から入ってきたというもの。
 
 その二は、アナトリアを経てアフリカ大陸に入り、
 南方から上陸して来たというものである。
 
 グルジアのイベリア半島でも
 スペインの中央から東方の地方は
 古くにはセルティベリアと呼ばれ、
 そこに住む人々をセルティベロ族 Celthbero 
 と称したが、
 この民族名について
 一般的にイベリア人とケルト人が混血して
 形成された民族であるというのが定説である。
 
 その学説によると
 紀元前九〇〇年頃から六〇〇年頃にかけて
 インド・ヨーロッパ語族が波状的に
 ピレネー山脈を越えて侵入して来たが、
 その中でもケルト人の侵入が顕著で、
 往古からの居住者イベリア人との混血が進み、
 その結果ケルトイベリ族 
 Celtbero が形成されたという。
 
 スペインの北東ピレネー山脈の南方を
 カタルナ Cataluna というが、
 そこを地中海へ向かってバスク地方を水源とする
 エブロ Ebro 川が流れる。
 
 ローマ時代にはイベリス Iberis 川と呼ばれた。
 
 河口近くに Tortosa 、Cherta の町があるが、
 トルトーサの語幹 toro- は牡牛を意味し、
 チェルタは角 khard/celt の転訛であるので、
 エブロ川は「牡牛の角崇拝者の川」
 であったかもしれない。
 
 カタルナは、
 シュメル語の kuršada (牧畜業者)、
 ドイツ語の Kuhhirte(牛飼)、
 英語の cattle(家畜:アメリカでは畜牛) 
 の同義語である。
 
 トルトーナ市は闘牛の盛んな土地である。
 
 エブロ川の河口近くに
 サン・ホルヘ San Jorge 湾があるが、
 これは英語名で sant George と称し、
 ウェールズとアイルランドの間の
 海峡名ともなっている。
 
 この聖者名は、
 第二世紀のローマ時代の
 コーカサスのイベリア人出身の
 キリスト教聖者の名である。
 
 また近郊のタラゴナ 
 Tarragona はギリシャの東北方に当たる
 トウキアの地名と対応する。 
 
 そこにもエーゲ海に流れ入る
 エブロス Evros 川が流れている。
 
 Thraki/Tarraga-na は「崇拝者」を意味し、 
 Iben と同義である。
 
 エブロ川を遡ると
 バスク地方のナバル Navarra に至る。
 
 ナバ nava は
 バスク語で「山間の平原」を意味するが、
 その東部に現在 Lumbier の町がある。
 
 この町はかって Habier と称し、
 十六世紀に
 日本へキリスト教の布教のために渡来した
 イエスズ会所属の
 宣教師フランシスコ・ザビエル  
 Francisio de Xavier の出身地である。
 
 Xavier は英語名で、
 スペイン語では Javier で Habier のことであり、
 
 彼の名は
 「ハビエル出身のフランシスコ」の意である。
 
 ハビエルは、キリスト教の場合修道士であるが、
 シュメル語においては祭司である。
 
 シュメル語において、 
 Sabur,haber は祭司を表すことはすでにみた通りで、
 バスク語とイベリア語の間で発音の転換がみられる。
 
 Iberi を Javier の転訛と考えても
 祭司である崇拝者を表すことになる。
 
 イベリア半島の「牡牛崇拝者」達は
 遠い祖先の縁故関係にある
 カルトイベリア人出身のキリスト教聖者が
 ゲオルゲ George を信奉することにより
 祖先伝来の「牡牛崇拝」を
 キリスト教へと宗旨替えしたのである。
 
 だが、
 その伝統のすべてを捨てたわけではなかった。
 
 闘牛はナバラ地方から興ったとされるが、
 ハビエルは祭司、つまりハフリ(祝)で、
 牛の屠殺者の町だったのである。
 
 メソポタミアの殺牛技術法の検討のために、
 闘牛の最終場面、
 闘牛士が牡牛に止めを刺す技法を紹介したが、
 このショウは牡牛屠殺の祝祭であることを前提とし、
 その祭儀がメソポタミアから
 取り入れられたと考えていたからである。
 
 スペインにおいては闘牛だけでなく、
 掛け声「オーレ」が激励のため叫ばれる。
 
 この掛け声はシュメル語の
 ār 「神を賛美する、誉める」が 
 olè に転訛したもので、
 本来祝祭におけるものである。
 
 バビロンの新年祭に吟唱が行われたが、
 マルドゥク神が牡牛を伏せて矛を立てたシーンに
 群集が上げる叫び、
 中国の雲南省の少数民族の村で
 殺牛祭の祭司が牛を刺殺した瞬間
 「オー」と参集者達が一斉に叫びを上げ、
 さらに
 日本の神社で神官が祈願の祝詞(ノリト)を
 上げる前に大きな声で
 「オー」と発声するが、
 これも
 「神を誉め祭る」
 と申し上げているのである。
 
 闘牛のショウは本来の祝祭を離れてはいるものの、
 年間の定められた日の祭事として
 開催されている古来からの
 牛飼達の伝統行事なのである。
 
 スペインでは、
 サン・フェルミンの牛追祭など
 牛に係わる行事が盛んである。
 
 学者の中にも牛をトーテムとした原住民がおり、
 牡牛への信仰が闘牛の始まりとなったと
 主張する学者もあったが、
 牛の崇拝者はクロマョン人のような
 石器時代の原住民ではなく、
 イベリア人(正確にはケルト・イベリ人)自身が
 北メソポタミアの信仰を持ち込んだものと
 考えられるのである。
 
 紀元前二千五百年頃までには
 青銅器文化と牡牛崇拝の商業的金属工達が
 半島の地中海側南方から上陸して来た。
 
 彼等の総称がとけると・
 イベリ人であったと考えるのである。
 
 紀元前九世紀以降ケルト人を初め
 多くのインド・ヨーロッパ語の諸族が
 渡来したことは確かであるが、
 
 「背が高くて肌は白く碧眼紅毛」
 
 のケルト人の遺跡は
 半島の西北部に集中しており、
 スペイン全土に分布しているというわけではない。
 
 それに比べてイベリア半島の青銅器文化は
 その原料鉱の産地の故に強盛であった。
 
 鐘形土器はその時代の象徴であったが、 
 その分布はハンガリーやザクセンあたりまでも
 もたらされていた。
 
 銅、特に錫をその手に治めた人々は
 それだけ強盛であったのである。
 
 ガリシア地方にサンチャゴ・デ・コンポステラ
 santiago de Compostela という都市がある。
 
 サンチャゴは
 「十字を切る」ことで「十字」に係わり、
 コンポステラは「組成、組合せ」であり、
 町の名称は「組合せの十字」の意味になる。
 
 これはガリシアと隣接する地方 
 Coruna(角) があること、
 
 聖ヤコブの墓であるとの伝承を持つ
 教会のシンボルを考慮すると
 「角を組合せた十字」であることが解ってくる。
 
 santi-ago の語幹はマルタ語の「しるし」を表す 
 sinjal に関係し、
 北イラクの sinjar 、
 そしてインドの Sindu の同類語である。
 
 聖ヤコブの墓があると伝えられる中世に
 巡礼の大移動を巻き起した
 教会のシンボル「赤い十字」は、
 形象がマルタ十字でキリスト教の
 布教後にこの地に入ってきたのではなく、
 それ以前に入っていたものと思われる。
 
 ガリシアは鉱物特に錫の産地であった。
 角や十字紋に対する信仰を持った
 ケルト・イベリ人が居住した土地と考えられる。
 
 鉱物の産地といえば半島の南方
 アンダルシア地方もその宝庫である。
 
 フェニキアの植民者たちが
  Cadrz 、 Malaga 、Cartagena などの
 商業都市を建設したことは
 よく知られているところだが、
 それより二千年も前に青銅器文化が
 この南部地方に入ってきたと
 史学者、J・ビセンス・ビーベスは
 説明しているのである。
 
 アルメリアは青銅器文化のセンターであった。
 セヴィラ Sevila は
 シュメル語の zabar(青銅)の
 同祖語の転訛とも考えられる。
 
M.K記

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(7)ベルベル人 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(7)ベルベル人




  ギリシャ神話で、クレタ島の神母エウロペーの父
 シリア・チュロスの王アゲーノールは
 リビュエーとポセイドンとの間に
 生まれた双生児の兄で、
 弟の名前はベーロス 
 Βεμοσ, Bēlos であった。
 
 ベーロスはカルタゴの女王となった
 ディードー Dido の父で
 また、
 アッシリアやペルシャの王として知られる。
 
 ベーロスは
 ウガリット神話に支配的王として登場する
  Baal バール神の転訛名と考えてられている。
 
 神話上とはいえ、
 カルタゴの開祖がカナンばかりか
 アッシリア、ペルシャと結びつけられている
 伝承は重要である。
 
 フェニキア人の都市チュロスから
 アッシリアの圧迫に追われてカルタゴへ行き、
 同市が建設されたというのが
 これまでの一般的理解であった。
 
 だが、
 同市の開闢は紀元前七世紀というような
 遅い時期ではなくかなり遡ぼるだろう。
 
 現在のリビアの地中海にあるシルテ Sirte 湾は
 古代にはケルト Kert 湾であった。
 
 首都トリポリの西方にある 
 Zuwarah は古代都市 sabrata の近くの町で、
 その名称の裏にスバルがある。
 
 リビアの西方、カルタゴのある国
 チュニジア及び首都チュニスは
 フェニキアのチュルスを移した地名である。
 
 チュニスからまた西方へ海岸を辿って行くと
 現在のアルジェリア国内になるが、 
 古代においてキルタ Cirta という町があった。
 
 ケルト湾、サブラタ、カルタゴ、チュニス、キルタは
 ケルト人に係わる固有名である。
 
 Carthago の名称についても「新しい都」を意味する
 Qart-hadasht を
 ローマ人が訛って呼んだものとの見解も 
 出されているが妥当性は低いと思う。
 
 語幹はケルトで、
 語尾 -ago ないし -hago は
 クレタ島を称した Agia ないし Hagia に対応し、
 ギリシャのアルゴーナウティカ神話に登場する
 パイアーキアと関係すると考えられる。
 
 カルタゴの地域が数千年間にわたり繁栄した理由は、
 この地域に鉛が採れたからである。
 
 北アフリカ地中海海岸一帯にも
 池中海系人種は分布していた。
 
 彼等は白人系人種で
 ベルベル人 Beriber 人と呼ばれた。
 
 ギリシャ語では非ギリシャ人の総称で
 野蛮人の代表であったが、
 ギリシャ人にもエジプト人、リビア人とならんで
 ベルベル人が知られていた証左とはなる。
 
 紀元前千九百年頃、
 牛に車を引かせる画を岸壁に描いた
 牛飼の集団はベルベル人であった。
 
 ベルベルの名称は
 シュメル語で「輝く、白い」を意味する
 barbar を礎にしたもので、
 メソポタミアの金属工たちが
 その祖であったとも推測できる。
 
 カルタゴの鉛鉱山は
 彼等の活動の中心であっただろう。
 
 因みにシュメル語の 
 ku-barbar は「白い金属」ではあるが、
 銀を表すとされている。
 
 ギリシャの繁栄時代、クレタ島の南方対岸の
 キレネ、アポロニアがある地方は
 穀物などの食料産地で
 ギリシャへの供給地であった。
 
 北アフリカは豊穣の血であったのである。
 
 イベリア半島へ紀元前三千年頃
 農耕技術と家畜飼育の技術を導入したのは
 アフリカの民族であるとの
 ビセンス・ビーベスの見解があるが、
 その担い手はベルベル人の仲間しかないであろう。
 
 なぜならば
 金属鋳造の技術も伝播されたと
  述べているからである。
 
 紀元前三千年頃のアフリカの民族は金属鋳造、
 つまり鋳造銅の技術を知っていたことになる。
 
 スペイン語の中にはアフリカ北部地方を
 古くは Berberia と名づけていたとの名残りがある
M.K記
 
 

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(6)ラチウム(ローマ) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(6)ラチウム(ローマ)




  ローマ人がやってくる前に
 そこにはすでに人が住んでいたというのが
 ローマ人自身による伝承である。
 
 紀元前二千年紀前半の新石器時代の終わりから
 金石併用器始めにかけてとみられる
 ローマ市の遺跡から
 銅剣が出土したことを初め、
 青銅器時代を通しての居住が確認されている。
 
 青銅製の斧が二丁見つかっていて、
 ここに青銅器文化が波及したことを示唆している。
 
 この時代の居住者は
 インド・ヨーロッパ語系の人々でないことは
 言語的に確実で、
 彼等は一般に地中海系人種と称されている。
 
 この地中海系人種とされる人々が
 残した地名が
 ラチウム Latium で、
 ローマの祖地の名称であり、
 Latin ラテンの祖語である。
 
 ラチウムの語幹 
 Lat- は、
 その北方の地域エトルリアの言葉にも、
 ましてや後にやってくる
 ローマ人の語彙にも含まれない用語とされる。
 
 そのため
 この土地で独自に成立した名称であるとの
 見解もあるが、
 そうともいえない。
 
 クレタ島の北岸に現在 
 Rethymnon という町がある。
 
 古代に 
 Ρέθυμνο と呼ばれた町で、
 その名は 
 Layium と酷似しており、
 こちらもギリシャ語の語彙に
 含まれていない用語で、
 二つの用語は同語と考えられる。
 
 クレタ島とラチウムが深い関係にあると
 述べたのはこの一件に始まる。
 
 Lati の語義を探ると、
 マルタ語にその手がかりがある。
 
 その用語は 
 lazz で「綱、紐、ロープ」を意味する。
 
 クレタ島のラチウムナの近くに 
 lappa という古代の町があるが、
 この地名はギリシャ語の「棒、棹、鞭」など
 「打つもの」を意味する 
 ραπις と対応する。
 
 また、
 アテネの郊外で革なめしが行われていた場所を 
 leproi といったが、
 lepis,lepyron は外皮のことであるので、
 この地名「革」に係わる用語で 
 luper の同類後である。
 Lappa は
 ラチウムの人々にとっての元祖に係わる祭儀
 ルペルカーリア祭 
 Lupercalia の Luper と係わる。
 
 同祭は 
 Lupercal と呼ばれる
 洞窟に集まって行われる祭儀である。
 
 エイナル・イェシュタードの報告で
 その祭儀の概略を紹介する。
 
 Luperci 儀式の祭司が 
 Lupercal という洞窟に集まった。
 
 第一に山羊及び犬の供犠を行った。
 
 ルペルキーのうち身分の高い二人の若者が
 前に引き出され、
 額に犠牲にされた山羊の血が塗られ、
 ついでにミルクに浸した羊毛で
 その血は拭き取られた。
 
 若者は笑わなければならない。
 
 すべてのルペルキーは
 犠牲にされた山羊の毛皮を腰に巻き、
 餐を共にした。
 
 それが終わるとなお、毛皮をまとったままか、
 あるいは裸で
 ルペルカールの外側をかなりの距離走り回った。
 
 走行中かれらは遇った人々、
 とりわけ女性を山羊の毛皮から
 切り取られた細紐で打った。
 
 この細紐は浄祓の道具 
 februa と呼ばれ、
 これからルペルカーリアの祭礼が行われる月 
 February の名前が生まれた。
 
 ※ファウヌス - Wikipedia
  ファウヌス(Faunus)は、古代イタリアの神格。
  ギリシア神話のパーンに相当し、
  ローマ神話の農耕神・ルべルクスとも同一視される。
  彼自身を象徴する彼の持ち物は
  狼の毛皮、花や草で作った冠、酒杯(ゴブレット)。
  家畜と田野や森を守る神である。
  この他、多産も司る。
  名は「いるもの」を意味する。
  これは予言の力があるからとも言い、
  また森の中で不意に不思議な音のするのは
  この神の仕業であるとも言う。
  伝説ではファウヌスはラティウムの古王とされ、
  古代イタリアの農業神
  ピークスの息子だったといわれる。
  ローマ人に神託を与え、
  ローマとエトルリアの戦争の際には
  ローマ人たちへ
  ローマ側が有利である事を伝え、
  勝利に導いたとされる。
  ファウヌスはローマの古くからある
  祭式ルペルカーリア(Lupercalia)と
  結びついている。
  この行事は、
  腰にわずかにヤギの皮の帯をつけただけの
  裸体の神事青年たち
  (ルペルキー Luperci)が走って
  村を一回りするもので、
  走りながらヤギの皮の紐で女を打つ。
  フレイザーも言う様に、
  古代では女の不毛または
  多産と地のそれとは密接な関連にある。
  この儀式は2月15日に行われた。
  ファウヌスの女性形が
  ファウナ(Fauna)である。
  ファウナはまた、
  ローマで女人だけの祭る不思議な
  女神ボナ・デア(Bona Dea 善女真)の
  名前とされた。
  中世以降はパーンや
  サテュロスのイメージと混同され、
  財宝の守護者とも夢魔ともいわれた。 
 
 Luper はラテン語では狼であるが、
 この祭儀の Luper とは 
 「山羊の毛皮から切り取られた細紐」であることが
 理解できる。
 
 その同義語にはマルタ語の他にギリシャ語の 
 ruta 手綱、鞭、
 英語の lash 鞭紐などが挙げられる。
 また、紐は fever と称されるというが、
 この語はマルタ語の habel 網に対応する。
 
 マルタ語に 
 ghal アール という「洞窟」を表す用語がある。
 
 これは Lupercal の cal に対応する。
 
 よって、この祭儀の名は
 「山羊の毛皮鞭の洞窟際」ということになる。
 
 祭司達は「山羊の毛皮を腰に巻く」が、
 これは
 アナトリアのチャタル・フユクの遺跡の
 牡牛を大書した壁画で
 猟人や祭司達が毛皮を腰に巻いて
 走り回っている風景や
 アルパチヤ遺跡の碗形土器に描かれた
 猟人の姿を思い出させる。
 
 若者の額に犠牲のされた山羊の血が塗られが、
 これは血をぬることにより
 「山羊の権化」あるいは
 「神人」になるための儀式である。
 
 この神人は 
 Cali ないし Caro-dei と呼ばれるが、
 Caro は肉のことで屠殺をも意味する。
 
 洞窟で聖餐が行われるのであるから、
 この祭りは明らかに祝祭で、
 キリスト教が布教された後の
 ローマでは謝肉祭となり、
 カトッリク教の重要な儀式となり、
 現在カーニバルとして
 世界各地にその名称のお祭りが行われている。
 
 山羊はクレタ島との係わりを示唆する犠牲獣である。
 
 イダー山はゼウスが山羊によって育てられたとの
 伝承を持つ「山羊山」である。
 
 クレタ島の両岸にある
 フェストスから出土した彩紋をほどこした壺には
 渦巻と大麦の穂を対角に交差させた
 十字紋が描かれているが、
 これは北メソポタミアの
 サマッラ期土器の意匠に類似しており、
 渦巻は山羊の角を象徴しているように思える。
 
 山羊に対する想念を土器の意匠に
 たくさん描いたのはシュメル地方の東、
 スーサである。
 
 スーサは「大麦の種」の意味であるが、
 ヒゲと大きな日本の角を付けた
 山羊の横からの姿が
 紀元前四千年前の広口深鉢に四面描かれ、
 大書きされた角の円形の中に
 大麦の穂は対になって一つの想念を表している。
 
 その構成を持つ彩文土器が
 スーサから遠く離れた北方のテヘランに近い
 テーペ・ヒサールからも見つかっている。
 
 イランの高原とクレタ島との関係を
 論ずることは困難であるが、
 スーサ出土の広口深鉢には
 山羊の意匠とともに走り回る犬の姿も描かれており、
 ルペルカーリアにおいて
 山羊と犬が供犠される事実と関係がありそうである。
 
 ラチウムを流れる川はチベリス川 Tiberis で、
 現在の Tivoli の町は古代に Tibur と呼ばれた。
 
 この川はルーモ Rumo 川とも呼ばれたが、
 これは地中海系人種の後にやって来た
 人々によって同地域が
 ローマといわれるようになってからであろう。
 
 ローマは明らかに
 インド・インド・ヨーロッパ語系用語である。
 
 ドイツ語の革紐はRiemen で、
 サンスクリット語のroma ないし roman は
 「毛、体毛」を意味し、
 ラテン語の ruma,rumina に対応する。
 
 後からやって来たかれ等が
 先住民の祭儀ルペルカーリアに接し、
 
 「山羊の毛皮」の祭りの場として
 自分達の言葉でローマと呼んだのである。
 
 チベリス川の名称はケルト人の 
 thveli 金属工がこの土地にやって来て
 青銅器の製作加工に係わったからだろうと思われる。
 
 ローマにおいては渦巻紋様が宗教的崇拝の象徴であった。
 
 ラテン語で「回転、渦巻」を表す用語が volvo で、
 建築などの装飾としての渦巻は volta と呼ばれた。
 古代の Voltar という町は現在 Velletr となり、
 マルタの首都名と同じで、
 渦巻十字紋を基礎にしていることを物語っている。
 
 渦巻がクレタ島のフェストスから
 出土した壺にみられるように
 山羊の角の抽象であることを確認しておきたい。
 
 ラテン語で白色を表す 
 alba がラチウムの別名として使われ、
 チベリス川の別名であったり、
 都市名であったりした。
 アルプス山脈と絡めて 
 alba と山と解釈する向きもあるが、
 牛頭である alpu の転訛とも考えられる。
 
 クレタ島の王ミノスの母はエウロペーで、
 同島の神母であるが、
 その呼称が alpu 牛頭の転訛と理解すれば、
 クレタ島の影響を受けたラチウムの別称 
 alba が alpu の
 転訛と判断してもおかしくはない。
 
 しかし、
 ラチウムには牛頭に係わる史料が他に見つからない。
 先住民の地中海系人は
 山羊信仰の人々であったのである。
 
 彼等は、
 クレタ島(Camares)や
 マルタ島の洞窟文化と共通する。
 
 さらにシャニダールの洞窟遺跡、
 サヴィ・チェミ遺跡を思い起させるが、
 祝祭による信仰心を持って
 ルペカールへやってきたのである。
 
 後からやって来て
 ローマの祖となったと神話上で語られる
 トロイの王アイネイアース、
 アスカニウス親子一族も
 クレタ島からトロイへ進出した
 地中海系人種(ケルト人)の一族であったかもしれない。
 
 神話によると、………………………………
 ラチーヌス王の父はファウヌスといい牧羊神である。
 
 アスカニウスの系譜から
 狼に育てられたという伝説を持つ
 ロームルスが生まれ、ローマの祖になったという。
 
 牧羊神ファウヌスはパーンとも呼ばれ、
 森の神で人間、家畜、農産物の多産・豊饒を司る。
 
 その姿は上半身が人間、
 しかし下半身には山羊の脚を持つ。
 
 人間と山羊を合体させた観念は
 クレタ島で人間と牡牛を合わせて
 ミーノータウロスを想像した発想と同じで、
 ラチウムの信仰が牡牛ではなく
 山羊であることを確証する伝説である。
 
 ラテン語で角を表す用語は cornu であるが、
 ローマ共和国時代紀元前二〇二年にザマの戦いで
 カルタゴのハンニバルを破ったスキピオを生んだ名族
 Cornellius 一族は「角崇拝」と
 関係があったのであろう。
 同族からはスキピオのほかスラ、グラッチィなど
 多くの有名な人々が輩出した。
 
 以上のようにみてくると、
 エジプトの史料に
 紀元前十五世紀以前、地中海東岸の南方地域を
 フル Hwrw ばかりでなく、
 レテヌ Rtnw とも呼び、
 Raphia という町があったことが知られているが、
 このフル(フルリ)人が住む地域を
 レテヌといったと解釈すれば、
 フルリはケルト人の呼称であるので、
 このレテヌの人々がラチウムへ移住し
 ラテン人 Latin となったとも考えられる。
 ラティアは luper と同類の用語であろう。
 
 また、 
 Rtnw は Rhethymna 、
 Raphia は lappa と
 
 クレタ島の地名にも対応する。
 
M.K記

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(5)マルタ島 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(5)マルタ島




  マルタ語については、
 これまでに何回となく引用してきた。
 
 同語はセム語系とされている。
 今から千百年ほど前に
 アラビア語が入ってきたからとの理由による。
 
 ローマ系の言葉も多く混入している。
 
 マルタ人は独自の国語を守って
 言語的独立を保ってきた。
 
 マルタの字義についてはすでに紹介した。
 
 マルタ十字紋の歴史は
 アラビアやローマに求められるものでなく、
 
 紀元前二千年以前に
 地中海に広がったケルト人たちの象徴である。
 
 マルタ島の地理的配偶は、
 地中海の東方クレタ島方面から航海するものが
 イタリア半島の先を通って西地中海へ出る際には
 通過しなければならない緊要な地にあり、
 商船などの寄港地であったと考えられる。
 
 ローマ時代は Melita と呼ばれた。
 
M.K記
 

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)クレタ島:ミノス [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)クレタ島:ミノス


  後にミノス王の分身としての
 ミノタウロス「ミノスの牡牛」の物語が語られる。

 
 ミノタウロスは上半身が牛、下半身が人間、
 時にはその反対に描かれる
 人間と牡牛との合体した神である。
 
 神話では
 ミノスの妻パシパエが牝牛に変身して牡牛と交わり
 ミノタウロスが生まれたと語られているが、
 
 その印象は青銅で造られた巨人タロスと重なってくる。
 
 ミノタウロスはアテナイの英雄テーセウスにより
 クレタ島で退治されるとの物語が続く。
 
 バビロン市の守護神マルドゥク神が
 シュメルの信仰の象徴である
 牡牛を圧殺したように
 アテナイの勢力が
 クレタ島の勢力を制圧したとの解釈が成り立つだろう。
 
 アテネ神とクレタ文化のもう一方の英雄とみられる
 ポセイドンとのアッチカをめぐっての戦闘も
 両勢力間の軋轢である。
 
 ポセイドンは海神で三叉の矛を持ち、牡牛に跨る、
 アゲーノールの父神である。
 
 クレタ島の商人たちはエーゲ海地域において、
 ミケーネ文化の勢力が拡張する以前、
 活発な活動を展開していたと考えられる。
 
 線文字Bの粘土板が
 ペロポンネソス半島のメッセニアの町ピュロスで
 出土していることはもとより、
 古いポセイドン神殿は各地にあった。
 
 その代表がアテネから南東の岬スニオンにある
 「ポセイドン神殿」で長きに渡り
 篤い信仰を集めていた。
 
 トルコのアナトリアのエーゲ海沿岸にも
 その勢力の痕跡がみられる。
 
 ミュシアにクレタ島と同じ
 イディの名を持つ山があることはその代表である。
 
 ストラボン『地誌』には
 トロイ(トロイゼン)ではポセイドンが祭られており、
 ポセイドニア(ポセイドンの町)と
 呼ばれていたという。
 
 また、
 彼等のネットワークはカナン地方にも何らかの形で
 張り巡らされていただろう。
 
 あの牛頭のリュトン(角杯)がみつかるからである。
 
 「海の民」よりかなり古い時期で、
 多分ケルト人の交易網に組み入れられ、
 地中海に飛躍してたのであろう。
 
 勿論ギリシャ人が成立する以前のことである。
 
 パイアーキア島(クレタ島)の王アルキノオスはいう。
 
 「パイアーキア人たちにとっては矢や鞏は役立たず、
  檣や櫂や釣合いのよくとれた船に力を注ぎます。
  彼等は点々と白い波が波立っている海を
  航海するのが好きなのです。」
 
M.K記


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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)クレタ島:アゲーノールとエウロペー [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
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《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)クレタ島:アゲーノールとエウロペー




 彼等の出身地をうかがわせる挿話が
 ギリシャ神話にある。
 
 エウロペーとゼウスを取り巻く伝説である。
 
 海の神ポセイドンとリビュエーとの間に生まれた
 アゲーノール Agenor は
 シリア、チュロス(またはシドン)の王になり、
 三人の男子と一女を得て穏やかな生活を
 過ごしていた。
 
 その一人娘がエウロペーである。
 
 ところが、
 海辺で遊ぶエウロペーを見て
 その美しさに魅せられた
 ゼウスが何とか自分のものにしたいと考え、
 使者を使って
 アゲーノール王の家畜を海辺に追いたて、
 その家畜(牛)の中に白い牡牛に変身してまぎれ、
 エウロペーに近づく。
 
 最初この牡牛に恐れをなしていた
 エウロペーであったが、
 
 花を与えたり、なぜたりするるようになり、
 遂にその背に乗るようになった。
 
 彼女が牡牛の背に乗った途端
 牡牛は海に向かって駆け出し、
 波に乗ってクレタ島へやってきたというのである。
 
 ゼウスとエウロペーはクレタ島の南岸にある
 ゴルティンの近くの泉のほとりで交わった。
 
 そしてミノスなど三人の子供が生まれた。
 
 ゼウスは
 クレタ島を守るため鍛冶神であるヘパイストスに
 青銅の巨人タロス Thalos を作り、
 一日三回島の周囲を見回ることを義務付けた、
 
 タロスには首から踵まで
 青銅の釘がはめてあったという。
 
 エウロペー神話で第一に重要な要素は
 舞台がシリア、チュルスまたは
 シドンという地中海東岸地方と
 クレタ島であることにある。
 
 アゲーノールは
 フェニキアの祖神といわれている。
 
 同神の名称は、
 ギリシャ語で「山羊飼」を意味する 
 αιγελατης と近似する。
 
 ウガリットと関係がありそうであるし、
 クレタ島においては
 イダー山の別称 
 エゲイオス (Aigaios) 山の名称に取り入れられ
 「山羊の山」の意であり、
 Aigaion はエーゲ海となる。
 
 Aigaionは「猟槍、投槍」で矛ないし斧を表し、
 クノッソスの西方の古代名の都市アクソス 
 Atos に関係し、
 また
 「アルゴナゥティーズ神話」にのる
 ケルキューラ島の
 パイアーキア人の王アルキオスにも係わる。
 
 ケルキューラはクレタ島、
 パイアーキアは双斧ではあるが矛を意味する。
 
 古代地名 Agia ないし Hagia は
 この呼称に依るものである。
 
 ミノス Minos はクレタ島の王となるが、
 この呼称は、
 同島がギリシャ本土などの大陸から離れて
 海の中に
 孤立(Meno)しているからである。
 
 島を守るために
 「青銅の巨人タロス」を作ったとは、
 カナンから青銅技術を
 導入できたことの代弁である。
 
 タロスの名はクノッソスの西方の町 
 Tylisos に対応し、
 その名はカナンの都市名、
 アゲーノールが王であったと神話で語られる
 チュロスの直輸入である。
 
 さて、 
 ゼウスによってクレタ島へつれてこられた
 エウロペー Europe の名称であるが、
 これはカナン語の「牛頭 alp 」の転訛である。
 
 ゼウスを登場させたのは
 ギリシャ神話におけ
 る同神の権威付けのためであり、
 深刻な意義はない。
 
 ただし、
 ゼウス Zeus はZea,Dios,Dia,Di 
 とも表されるので、
 クレタ島の古文字 Dä とも関係し、
 フェニキアの都市名 
 Zor(チュニス)および Dor とも
 関係がありそうなので、
 シュメル語の鍛冶工 de と
 祖語を同じくするとの推測も成り立ち、
 その神名の故地を
 北メソポタミアに想定することも可能である。
 
 カナンの牛飼の支配者が
 「牛頭信仰」を
 地中海の東岸カナン地方から
 クレタへ移入したというのが、
 その主要な眼目である。
 
 ハフリは
 北メソポタミアを祖地とする
 牛頭信仰の神官であるが、
 その名称が古文字の中に発見されている。
 
 線文字Aで 
 ha-hiereus は
 ホ(定冠詞)
 ヒルと発音され、
 いわゆるハフリで、
 「ヒル」は
 ギリシャ語でΚειρω 
 ラテン語で caro 
 英語で kil となり、
 
 「切る、打ち殺す」の意味で、
 サンスクリット語の hur に対応する。
 
 線文字Bで iere となる。
 
 エウロペー伝説は、
 ケルト人の牛頭信仰が
 青銅器に係わる技術とともに
 クレタ島へ輸入された歴史の神話化された
 物語であったと考えられるのである
M.K記

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)クレタ島:クノッソス [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)クレタ島:クノッソス


 この島のギリシャ語名は 
 Κρητη クリティである。
 
 その意味が「牡牛の角」であり、
 同島がケルト島であることは
 十分納得できるところである。
 
 クリティの名をつけたのは後にやってくる
 ミケーネ文化の担い手は
 ドーリス人たちであっただろうと思われる。
 
 クノッソス宮殿の東側を流れて
 エーゲ海に流れ入る川は Kairatos という。
 
 ギリシャ語における ai の発音は「エ」となる。
 
 例えば 
 Aijaiwv はエーゲ海であり、 
 Aijvptos はエジプトである。
 
 よって
 kairatos は「ケラト」となり、
 角を意味することとなる。
 
 さらに
 クノッソス Knosos を
 クレタ島の古文字(線文字B)に探ると
 ko-no-so と表記されるが、
 これは 
 ko-(lあるいはr)no-so と訓読できる。
 
 この性格は線文字Bとギリシャ語との対応から
 導き出された同文字表記の規則で、
 
 青銅は ko-ko- と表記されるが
 ギリシャ語では kha(l)ka(s) 、
 
 少年は ko-wo と表記されるが、
 ギリシャ語では 
 ko(l)wo(s) であることに対応する。
 
 ko-(l/r)no-so はギリシャ語の 
 kopvjtis 棍棒を持ち歩く人が直接に結びつき、
 王位にある者の表徴となる。
 
 クノッソス宮殿には双斧の間があり、
 「双斧」が王位のシンボルであることが知られるが、
 その形象は明らかに「奉献の角」で、
 二又の矛と同義である。
 
 ギリシャ語の「角」は 
 kepas 、kepatos で Konoso の
 直接に転訛した結果かもしれない。
 
 古代にヘラクレオンと呼ばれた
 「ケルト川」河口に近い町は現在 
 Canda と呼ばれる。
 
 また、
 バローチー語で角を kant という例がある。
 
 Ko-lr-no-so が礎になり
 ラテン語の cornu が誕れ、
 ローマ帝国の影響で
 
 フランス語、スペイン語、英語へと
 波及したと考えられる。
 
 クレタ島とローマの祖地、
 ラテン語の母体であった
 ラチウムとは深い関係にある。
 
 クレタ島に住み付き
 「牛頭崇拝」を根付かせた人々とは
 「ケルト人」であったことは今や明らかである。
 
 しかし、
 彼等はどこから来たのだろうか。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)クレタ島 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)クレタ島


 クレタ島が牡牛信仰の、
 それも牛角崇拝の聖地であることは
 よく知られているところである。
 
 クノッソス宮殿には牡牛の角を模した
 「奉納の角」と称される
 巨大な石造物が天を突いて立っている。
 
 宮殿の壁にも牡牛は描かれている。
 
 宮殿の北口玄関付近の壁には、
 角を前に突き出し突進する
 朱塗りの牡牛が描かれている。
 
 壁画の中にはスポーツ競技の一種であったのか、
 牡牛の背を逆立して飛び越える
 競技者らしい姿を描いたものもある。
 
 また、
 工芸品の中に凍石製の牡牛の頭に
 金色の長い角をつけた角杯がみつかり、
 その精巧さと写実性は
 発掘後驚嘆されたところである。
 
 また、
 「奉納の角」型の像が
 宮殿内のあちこちの部屋に掲げられたり、
 祭壇の上に置かれており、
 この島の宗教が
 「牛頭崇拝」であることを示している。
 
 このような
 「牛頭崇拝」は島内で成立したものであろうか。
 
 現在のクノッソス宮殿の遺構は
 紀元前一六世紀の中頃、
 クレタ島に近いティーラ島の
 サントリニ火山が爆発し、
 排灰により埋め尽くされ破壊が少なかったため
 貴重な遺物が現在にもたされたのである。
 
 同遺跡の地にはそれよりさらに
 四千年も前からの人の居住址が
 地中に埋もれている。
 
 クノッソスの新石器時代の居住建物の址から
 銅の斧が一丁みつかっていることから、
 金属器を使う人々が古くに
 住んでいたことが知られる。
 
 ピーター・レーヴィが
 
 「クレタ人はもともと
  レヴァント地方のどこかから、
  たぶんエジプトの混乱を逃れて、
  あるいはもっと東方からやってきた」
 
 と推測するように
 島外からその文化が持ち込まれて来たと
 判断するのが妥当であろう。
 
 これまで、この古層の居住者について
 アナトリアのチャタル・フユクの遺跡と
 結びつけたりした推測がされてきたが、
 未だ不確定である。
 
 クレタ島の遺跡文化を
 「ミノア文明」というのは
 ギリシャ神話に語られる
 伝説的王ミノスに因んで
 「ミノア」と近代の発掘者により 
 呼称されたもので、
 紀元前二千年頃、
 彼等自身何と称していたのか不明である。
 
M.K記
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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)カナアン(カナン) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カナン神話》

 


  現在使われている

 アルファベッドの「A」の原義は

 「牡牛の頭」である。

 

 紀元前千六百年前の

 カナンで発明された原カナン絵文字から始まる。

 

 この絵文字を基礎として、

 表意文字「フェニキア文字」に発展し

 ギリシャ文字、ラテン文字となり、

 現在の「A」となってきた。

 

 絵文字「牡牛の頭」は alp と読まれ、

 アルファベッドの語幹であることは

 すでに紹介した。

 

 これはカナン人たちの

 「牡牛の頭」に対する想念を記録する史料である。

 

 カナン神話における祖神は「神」を意味する

 エル el で「創造物の創造主」として知られるが、

 「牡牛」によって象徴される。

 

 エル神の神族中の立場は

 シュメル神話のエン En 神に類似している。

 

 しかし、ジョン・グレイは

 「カナン人がメソポタミア人の

  複雑な構造をもった万神殿で

  宇宙論について何も知らなかったことは

  明らかである。」と述べるので、

 シュメルのエン神を

 直接に移入したものとはいえないようにみえる。

 

 だが、

 ウガリットに近いユーフラテス川岸にある

 原新石器時代のムレイビト遺跡から

 「牛頭崇拝」の痕跡が

 みつかっていることからすると、

 古来「牛頭」を表意する祖語が

 北メソポタミア方面、地中海東岸地帯にわたって

 共通していた可能性はあろう。

 

 ムレイビト遺跡と

 チグリス川沿いのケルメズ・テレ遺跡とは

 同時代的遺跡で、

 双方とも同様な

 「牛頭掲示」の慣習が残されていたことは

 紹介済みである。

 

 「A」が「エイ」と発音されるように

 カナン絵文字の牛頭は

 「アルプ」というより

 「エルプ」に近かっただろうと思われる。

 

 創造主エル名は明らかに

 「牛頭」信仰と関係があろう。

 

 エル神はラス・シャムラから出土した

 「ウガリット文書」において

 「彼は通常世を離れて、はるか遠く座し、

  二つの川の流れ出る所で玉座についている者」

 と描かれている。

 

 「二つの川の流れ出る所」を

 どこに比定できるか不明であるが、

 牛頭信仰の痕跡があえる所としてチグリス川が

 アナトリアの山岳地から

 メソポタミアの平原へと流れ出し、

 また、

 ハブール川の水源地であるハブール平原の

 スバルトゥと考えることもできる。

 

 ケレト伝説とも関係するが、

 エル神は「遠く離れ」た

 ケレト人の祖地の神であり、

 カナンにおいては活動しない神であったのである。

 

 カナン神話で支配的権威を誇る神は

 バアル・ハダトである。

 

 バアル神は天の宮廷の王位に着くと、

 牡牛の角をつけた王冠により象徴されるようになる。 

 その祭儀に供される獣は牡牛である。

 

 その性格は

 南メソポタミア神話の

 エンリル、マルドウク、アダト、

 アッシリアのアッシュル神に類似しており、

 「行政官」である。

 

 バアル神話における同神の演ずる主要な役目は

 農業の収穫に係わる季節循環と

 節々の式典に登場することである。

 

 また、

 同神の持物は雷光で、

 雨をつかさどる天候神でもある。

 

 農業地帯であるカナンにとって

 バアル神に代表された

 牛頭信仰は盛大であった。

 

 バアル神殿も数多く造営され、

 『旧約聖書』にはその様子がたくさん語られ、

 信仰の根強よかったことがうかがわれる。

 

 さらにバアル神の演じる役目は

 「海」あるいは

 「海の王子」である「海流の支配者」

 と戦ったことである。

 

 バビロン市の守護神マルドゥクは

 「海」であるティアマトである海は

 ペルシャ湾の高潮ないし洪水と考えられるが、

 ウガリットにおいても高潮や洪水と戦う

 季節的状況があったのだろうか。

 

 地中海の自然環境を考慮すると否定的になる。

 

 また宗教的理由から

 マルドゥク神の英雄譚を

 移入したというものでないだろう。

 

 カナンの独自性から発想された

 神話であると考えられる。

 

 つまり、

 ウガリット市が海の交易都市国家で

 あることによるからで、

 海の荒れることは圧殺しなければならないし、

 季節風や海流を知り尽くし制圧することは

 海外進出の重要な用件であったはずである。

 

 ※原カナン絵文字


 
M.K記
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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)カナアン(カナン) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)カナアン(カナン)


 紀元前一八世紀、
 ユーフラテス河の流れる
 シリアとイラクとの国境近くに栄えた都市
 マリの王国文庫から発見された楔形文字の粘土板
 「マリ文書」にカナン人の名称 
 Kinahnu が出てくる。
 
 エジプト人は
 紀元前十五世紀の中頃から
 「アジア」の土地フルを
 カナン knnw と呼ぶようになり、
 紀元前一四三〇年頃に
 ミタンニ時代の記録に
 カナンの地 māt Kinaning があり、
 紀元前一四世紀初めの
 エジプトの史料
 「アマルナ文書」には
 アッカド語による呼称を取り入れた
 カナン権 pihati kinahi がのっている。
 
 現在のシリアの地名で、その南端で
 ドルシェ Druze 山があり、
 山の西に Busra の町がある。
 
 紀元前一世紀のローマ時代に
 Basan 地方と呼ばれるた地域内であるが、
 その意味は農耕である。
 
 ドルシェ山の周辺には 
 Qanawat 、Qanaytra の町がある。
 
 領地名ともカナンの派生語である。
 
 カナンの祖語はグルジア語にある 
 Basan と同義「耕す」を意味する 
 Xnav と同根とみられる。
 
 東方北メソポタミアからやってきた
 ケルト人たちが、
 地中海沿岸の恵まれた気候のもと
 麦類などの耕作をしていた
 農耕民およびその土地を
  kanaan と呼ぶようになったのである。
 
 カナンの沿岸地帯には
 交易都市が続々育っていくこととなる。
 
 現代の都市名ベイルートは
 シュメル語において「輝く」の意味から
 金属に敷衍(ふえん)されて
 使われる bar から派生した 
 Berybos が古代の都市名であった。
 
 シュメル語の鍛冶工 
 de の同類語 Dor 名の都市が
 カルメール山の南にあった。
 
 この dor を基礎としたと思われる都市が 
 Zor で、別称 Tyrus である。
 
 この都市名には、
 ドイツ語で Zinn 、
 英語で tin となる錫のおもかげが隠されている。
 
 都市名ゲバル Gebal は
 シュメル語の青銅を表す 
 zabar ないし kabar の同類語による。
 
 このように金属特に青銅と関係した地名が多い。
 
 その背景には
 同地域に銅産地をかかえていたことによるだろう。
 
 レバノン山脈で銅が産出したばかりでなく、
 至近のキプロスから多量に入手できたのである。
 
 チルス市の勢力が建設したのが、
 アフリカ北岸の植民地都市カルタゴであるが、
 現在そこはチュニジアで、
 その首都名をチュニス Tunis という。
 
 チュニスはチルス市名に由来する。
 
 このあたりは紀元後四世紀に
 「ゲルマン民族の大移動」に乗って
 イベリア半島からモロッコに渡った
 ヴァンダル民族が本拠を置いた地方である。
 
 ローマ時代、ヴァンダル時代を経て 
 Tunis と呼ばれるようになったわけで、
 
 Tyrus の原語が
 錫を意味していたことを示唆している。
 
 また
 ベリトス Berytos の地名はギリシャ神話において、
 チルス市から出てカルタゴの女王となった
 ディードー Dido の父である
 ベロース Belos と関連する。
 
 ベロースはバール神の転訛名である。
 
 同市は新アッシリア時代になると
 ハルデとも呼ばれるようになった。
 
 これは
 カルト khard を市名にしたものとみられる。
 
 ※1969(昭和44)年6月12日読売新聞に、
  天竜川中流域の静岡県水窪町で、
  紀元前600年頃と推定される、
  文字が刻まれた石(水窪石)が
  発見されたと報じられた。
 
  解読の結果
  「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と
  書かれていることがわかった。
 
  バルーツとは、
  フェニキア民族の根拠地・
  シリア地方の自然神バールの女性形同一神である。
  フェニキアという名は民族の守護神・
  フェニックス(不死鳥)に由来するのだが、
  ガシアンは鳥=主神という意味である。
 
  同様の文字は、
  アケメネス朝ペルシャの円筒印章や
  パキスタン岩絵、
  インド洞窟画、中国岳神図、朝鮮石壁文字、
  さらには北米東海岸・
  ニューハンプシャー州ミステリーヒル碑文からも
  発見されていて、
  当時のフェニキア人の足跡が偲ばれる。
  フェニキア人はBC1500年頃、
  アルファベットを実用化した事で知られている。
 
  ユダヤ人や有色アジア人種と同じセム族で、
  自らはカナン人と称していた。
 
  カナンとは、
  東地中海のシリア・レバノン・イスラエル
  北部の海岸地帯を指す。
 
  彼らは海の遊牧民と言われる海洋交易民族で、
  トルコのビザンチオン(イスタンブール)、
  ロードス島、キプロス島、シチリア島、
  クレタ島、ギリシャのアテネやスパルタ、
  北アフリカ・カルタゴなど、
 
  地中海全域に根拠地を建設し、
  スーダンの金やレバノン杉などを交易していた。
 
  外洋航海の技術や知識は、クレタ流と言われる。
 
  BC2000~1700年頃に栄えた
  クレタ文明のミノア人も、優れた海洋民族だった。
 
  ギリシャの歴史家・ヘロドトスは、
  フェニキア人が紅海を発して南の海を航行し、
  3年目にヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を
  回って再びエジプトに帰ってきたと、
  アフリカ大陸周航の事実を記している。
 
  また
  フェニキア人は、
  当時スペインやフランスに居住していた
  ケルト人と、
  鉱山開発や貿易を通じて協力関係にあった。
 
  ケルト人は、
  ドナウ・ライン・セーヌ・ロワール川などの
  河川を利用した交易集団でもあった。
 
  フェニキア船団は、ケルト人やユダヤ人、
  エジプト人やギリシャ人などが
  混在する多民族混成旅団だった。
 
  しかし彼らには共通の信仰があった。
 
  セム語で「主」を意味する牛の神バールである。
 
  クレタのミノッソス、エジプトのイシスも
  牡牛に象徴される。
 
  ユダヤ王ソロモンの玉座には、
  黄金の仔牛アモンが刻まれ、
  ゾロアスター教のミトラ神の原型も
  バール神である。
 
  何故牡牛なのかはよくわからないが、
  源流は伝説のアトランティス文明に
  あるとも言われている。
 
  さて、こうした事をふまえた上で、
  再びBC600年頃の静岡県水窪町に話を戻そう。
 
  当時は大和朝廷初代・神武天皇が
  即位したとされる頃で、
  出雲・丹後・大和の王朝が
  ゆるやかに連合していた、弥生時代中期である。
 
  水窪という地は、
  縄文の頃から黒曜石の産地として知られていた。
 
  おそらくフェニキア船団員は、
  現在「糸魚川・静岡構造線」として知られている
  断層線に沿って、
  金銀銅鉄などの鉱脈を探していたのだろう。
 
  鉱山師は川筋の鉱物を見てあたりをつけ、
  鉱脈を探すという。
 
  水窪石は、その為の願かけだったのかもしれない。
 
  水窪から天竜川を源流まで遡ると、
  信濃国諏訪湖がある。
 
  この周辺は良質な粉鉄こがね(砂鉄)の産地だった。
 
  出雲神話で大国主命の国譲りに反対した
  息子の建(たけ)御名(みな)方神(かたのかみ)は、
  建(たけ)御雷之(みかず゜ちの)男神(おかみ)  との相撲に負けて
  諏訪へ逃げるわけだが、
  当時から出雲国の重要拠点だったのだろう。
 
  鉄が日本史に登場するのは
  2~3世紀の古墳時代だが、
  紀元前1800年頃から
  トルコのヒッタイトで使用されていたわけだから、
 
  フェニキア人たちが知らないはずはない。
 
  アムートゥという鉄は、
  エジプトとの間で
  金の5倍、銀の40倍の価格で取引されていた。
 
  お宝を探し当てたフェニキア人たちが、
  諏訪に住みついたと想像してみたくなる。
 
  諏訪大社南方に守屋山という名の山があるが、
  創世記22章の
  「アブラハムがモリヤ山で息子イサクを
   生け贄として神に捧げた」という、
  ユダヤ的なエピソードを連想させる名前である。
 
  出雲王朝は、BC1046年に牧野の戦いで
    周に滅ぼされた
  殷王朝亡命難民が主要な構成員であり、
  日本に弥生時代の稲作文化や
  銅剣・銅鐸文化を招来したと思われる。
 
  殷はシュメル古拙(こせつ)楔形(せっけい)文字
  に似た甲骨文字を創始し、亀甲占いを行う。
  なるほど出雲地方には亀甲神紋が多く、
  亀甲占いは皇室の秘事と聞く。
 
  殷はBC2070年に成立した、
  南方系龍蛇(ナーガ)信仰の「夏」を滅ぼし、
  BC1600年に成立した国だが、
  道教神話では夏以前の神話時代、
  石の巨人・磐(ばん)古(こ)、
  蛇身の女神・女媧(にょか)、
  牛の角を持つ炎帝神農の
  元始三皇に始まるとされる。
 
  この炎帝神農こそバール神であり、
  古韓国語ではスサという。
 
  牛頭ごず天王てんのうの別名を持つ
  「スサノオ」である。
 
  なぜ殷王朝に
  オリエント・地中海世界のバール神なのか。
 
  殷族とは本来、アーリア系イン族とされる。
  加えてシュメルのウル第3王朝が
  BC2024年に滅亡した事と、
  かなりの関係があるように思われる。
 
  神話では易経と文字の発明は
  伏羲(ふくき)の役になっているが、
  崑崙山を越えて来た
  シュメル文明の末裔たちが
  創始したのではないかと。
 
  殷は天地自然の神々を信仰し、
  王を支える武士団が存在し、
  殉死の風習があった。
  周に殉死はない。
  一族の旗印は白。
  周は赤。
  民族の守護神は、
  フェニキア人同様に鳥(鳳凰)だった。
 
 現在のレバノンとイスラエルとの国境地帯が
 ガリレア galilaea のメイロン山付近に
 zafat、Kefar-nahum の町があるが、
 シュメル語の zabar 、kabar による遺称であり、
 galila も
 シュメル語の gar-ra (金属加工する) と関係する。
 
 地域内にある都市 Tiberias (ローマ時代)は
 thveli を付名したもので、
 ここで鍛冶工業が行われたからであろう。
 
 ウガリット市は
 「海の民」の攻勢により陥落し没落の憂目にあう。
 
 しかし、
 その後においてフェニキアとして
 集合された諸都市は、
 ウガリットと同じく海洋交易の利権を確保し、
 地中海の西方に向けて
 力を伸張していくことになるが、
 やはりウガリットが敷いた海洋ネットワークを
 再構成したものであろうと考えられる。
 
 紀元前3000年前後:レバノンへのセム系民族の移動
          ↓
 紀元前2000年前後:アモリ人の流入
          ↓
 カナン人の形成「海の民」による航海技術
          ↓        
 紀元前1200年前後:フェニキア人と呼ばれるようになる。





M.K記
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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(3)アジア [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(3)アジア




 Philister / Peleset は、

 現在のアナトリア西南部の古い地名

 Phrygia あるいは pamphylia 

 が祖地であったと考える。

 

 この地域から「海の民」として離陸し、

 一時エジプトの海岸地帯に停留した後

 現在のパレスチナ地方へ上陸したものであろう。

 

 フィルギア地域内にある都市 

 Burdur はかって Askanih とよばれた。

 

 アシュ湖がその近郊にあるが、

 このアシュを冠した都市名 

 Ashdodo と Askalon は

 フィリステルの都市名であり、

 彼等の一部が建設したと思われる

 死海の東北の町

 フィラデルフィア名の町が

 同地域に内にセルジュクトルコ時代に表れる。

 

 またカフトリは

 リキアの南端ギリシャ領の小さな島

 kastellohzon に

 その遺称を留めているものと考える。

 

 同地域は紀元前千五百年頃に

 アッヒヤワと呼ばれていたらしい。

 

 この名称はギリシャ人の一派

 アカイア人との関係も論じられてきたが、

 彼等が現われのは紀元前八・九世紀である。

 

 アッヒヤワの時代は

 それより五百年前のことで、

 ミタンニ国の当時のスバル人の地方名

 イシュワ Isva と係わりがあるそうだ。

 

 イシュワ(スバル)の商人たちが

 古くから到着して

 商業活動を展開していたとみられる。

 

 アッヒヤワ Ahhiyawa は

 ヒッタイト帝国の首都ハットゥサスの遺跡から

 出土したボアズ・キョイ文書から

 出始めた国名である。

 

 その比定地については

 いろいろと論議があり確定していない。

 

 フィリギアの真中、

 ブルドール市の北方にある

 アフィヨン Afyon 地方

 をその比定地と考えたい。

 

 同地域には、

 Sahut、sandiki、Eder(湖)と

 メソポタミアと関係する地名が散在する。 

 

 アフィヨン市はアナトリアの東方から

 エーゲ海の貿易港スミルナへの街道筋にあり、

 南北に走る街道の交差点でもある。

 

 ローマ時代にプリネッソスと呼ばれた町で、

 アピシディ地方と呼ばれた。

 

 シュメル語で階段を意味する 

 galam に由来する

 Karamanli の町がブルドール市の南方にある。

 

 ギリシャ人たちは「アシア」の呼称を

 最初この西アナトリアの地方に対して使ったが、

 彼等は「商人」の意味で

 「アシア」を使っていた形跡がある。

 

 ギリシャ語の用語の中に

 「商業、商人」を表す swa があり、 

 swene は「商業の町」である。

 

 アシアの名の由来について、

 ギリシャ神話の海神オーケアノスと

 テーテュースの娘アシアーによる、

 あるいは

 フェニキア人が東方の意味で呼び始めたなどの

 見解が通説となっているが、

 本実は 

 Isva が Asia に転訛したものと考えられる。

 

 語尾変化 va:ia 関係は

 トロイの都市名 Trowa が

 ギリシャ名で troia になった

 ケースと同様である。

 

 その商業の担い手が

 スバル人でなかったにしても、

 スバルという商人の総称を冠された人々が

 ネットワークを張っていたことは

 間違いないであろう。

 

 紀元前十五世紀以前に

 エジプト人が地中海東岸南方に住む人々を

 「アジア人」と呼んだとの史料があるが、

 同時にその地方をフル hwrw とも呼んでいた。

 

 フルはフルリ人のことで 

 スバル人の別称とされる呼称であり、

 

 それ以前に進出していたことがうかがわれる。


M.K記
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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(2)フィリステル [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(2)フィリステル




 『旧約聖書』ゼパニヤ書第二章も

 ケレテが登場する。

 

  ともあれ、ガザは捨てられ、

  アシュケロンは荒れはて、

  アンドドは真昼に追い払われ、

  エクロンは抜き去られる。

 

  わざわいなるかな、

  海べに住む者、ケレテの国民。

 

  ペリンテだとの地、カナンよ、

  主の言葉があなたがたに臨む。

 

 前後の地名から判断すると、

 聖書においてペリンテといわれる

 ギリシャ名フィリステルは

 現在のパレスティナであるが、

 この海岸地帯に住む人々を

 「ケレテの国民」といっている。

 

 カナンは「ペリシテびとの土地」であり、

 「ペリシテびと」は「

 ケレテの国民」であるとの内容になる。

 

 また、サムエル書下の第八章には

 

 「エホヤダの子ベナヤはケレテ人と

  ぺレテ人との長、

  ダビデの子たちは祭司であった(18)」

 

 との節句がる。

 

 この「ケレテびととぺレテびと」を

 

 ヘブライ語で 

 Cherethites・Pelethites とも、

 

 ドイツ語聖書では 

 Krethi・Prethi と表記されている。

 

 彼等は

 ダビデ王の親衛隊を構成していた人々である。

 

 Prethi については

 ペリシテ人 Philister 

 と解釈されている場合もあるが、

 

 同じ第八章一二に Philistines の表記があり、

 同義とすることは難しく、

 正確のところは不明である。

 

 ゼパニヤ書のいうように

 フィリステルの紀元前十世紀

 ヘブライの王ダビデの時代に、

 ウガリットの祖先の王家名と

 同じケレト人が

 活動していたとの記録は重要である。

 

 また、カナン語で 

 keret と発音された用語が

 ヨーロッパ語圏のドイツ語において

 Krethi と発音されたことも

 留意すべき事項である。

 

 Philister については、

 紀元前1230年頃から

 エジプトの海岸に現れた

 「海の民」と呼ばれる地中海東部に起った

 海の流浪民のうち、

 武装集団パラサティ Peleset が

 チェケル Tiekkel とともに

 当該地域に上陸して

 都市を形成したことによるとの

 見解が是認されている。

 

  Pelesat は

 ダニエル書第五章に語られる 

 tekel、u-pharsin(25)と

 関連しているようにみられる。

 

 Tekel は Tjekkel を、

 Phărsin は  Peleset に対応し、

 

 続く条句で

 

 「テケルはあなたが秤で量られて、

  その量の足りないことが

  あらわれたことをいうのです(27)。

  ペレスはあなたの国が分かれて(28)」

 

 と説明される。

 

 Phărsin/peres は創世記第一〇章に

 セムの子孫ペレク peleg を

 

 「これは彼の代に

  地の民が分かれたからである(35)」

 

 と説明している「分化」と

 字義とする同類語である。

 

 Tjekkel 及び Peleset は

 エジプトの史料にのる

 「海の民」九武装集団に含まれる

 集団名であるが、

 ケレテはその九っの集団名に含まれていない。

 

 つまり、

 ケレテ人は

 「海の民」の属さない人々であったと

 考えた方がよいと思われるのである。

 

 Chevethites について、

 彼等の祖地がクレタ島( Cret )とする見解が

 西欧の専門家によって採られてきた。

 

 例えばアメリカの

 『 Evangelical Commentary on the Bible 』

 は記す。

 

 Kerethite is a reference to the Cretan origin

 of philistines.

 

 確かにアシュケロンには

 同市で最古の神殿とされる

 「ミノス神殿」があることが

 知られているほか、

 ガザ市はローマ時代に

 「ミノスの後裔」と喧伝されたが、

 牛角崇拝の神殿信仰が

 クレタ島から来たとは限らない。

 

 カナン神話の主神バアルは

 牡牛の上に立つ神であり、

 「ケレト」自身が

 牛角であることは言うまでもない。

 

 ガザ gaza の地名は

 アッシリアを Gadatas と称すが、

 この Gada- が転訛したものであろう。

 

 この語はシュメル語の 

 Gud の同類語と考えられるので、

 牡牛を市名に冠したものである。

 

 『旧約聖書』創世記第一の章は

 「カフトリ族からペリシテ族が出た(14)」、

 ケレテとはいっていない。

 

 このカフトリは、また西欧において

 クレタ島との定説があるが疑問である。

 

 カフトリ族は

 ミツライム(エジプト)から出た種族(13)

 と説明している。

 

 確かにクレタ島には

 ギリシャ神話の海神ポセイドンの馬に

 まつわる影が投影されており、

 

 その祖地がリビア、

 つまり『旧約聖書』にいう

 「プト」であるとの見解もあるので、

 クレタをカフトリとすることを

 全く否定する訳にはいかないが

 妥当性は低いと考える。

 

 アメリカ聖書協会版聖書の扇ページに

 付けられた西アジア周辺地図には

 クレタ島を Caphtor としながらも

 ?をやくやく添えていて

 疑いを示唆している。


M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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