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(7) バビロン捕囚を逃れたユダ王国の人々 [神聖の系譜]





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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 第1章 エルサレムへの安置
  (7) バビロン捕囚を逃れたユダ王国の人々
 (A)エルサレムに残った人々
 
  「エレミヤ書」の第39章40章を丁寧に読むと、
 ユダ国エルサレムにさえ捕囚を逃れて
 同地に潜行していた人々があったことが
 事実として解ってくる。
 
 「エレミヤ書」第40章は
 預言者エレミヤがバビロンにおいて捕囚から
 解放されてエルサレムへ帰還した経緯を述べている。
 
 しかし、
 ここでは詳しく解釈する必要はない。
 
  第40章は言う。
 
   そこでエレミヤはミツバにいる
   アヒカムの子ゲダルヤのところに行って、
   彼と共に国に残された民の中に住んだ。
 
  また同章12は言う。
 
   そこでユダ人はみな散らされていた
   全ての所からユダの地に帰って来て  
   ミツバのゲダルヤのもとに行き、
   ぶどう酒と夏の果物を非常に多く集めた。
 
  更に第42章12、13にも「残った者」は語られる。
 
   (略)
   身分の低い者も高い者も皆寄って来て 
   預言者エレミヤに言った。
 
   「どうぞ私たちのため、
    この残った者皆のためにあなたの神、
    主に祈って下さい。
    ご覧のとおり、私たちは多くの者から
    ごくわずかだけ残ったのです。
    あなたの神、主が私たちの歩むべき道と 
    なすべきことを
    私たちに告げてくださいますように」
 
 当該部分でいう
 「残された民」あちは「残った者」の
 イブル語はShAR、shorと表記される。
 
 同語は第42章15や第43章5にも用いれている。
 
 その内実は
 バビロン捕囚を逃れてユダ王国内のエルサレムや
 他地方に隠れていた者たちを指す。
 
  また、
  「エズラ書」第9章8、13、14、15には
  以下のようにある。
 
   (9)しかし、
    今しばらくの間私たちの神、
    主の哀れみの依って私たちに
    逃れた者を残しておき、
    私たちのためにご自分の聖なる所の中に
    一つの釘を与えて下さいました。
 
   (13)
    ……事実私たちの神、
    あなたは私たちの科(とが)の受ける刑罰よりも
    このように軽く罰し、
    逃れた者を私たちに残して下さいました。
 
   (14)
    あなたは私たちを怒り、ついには私たちを
    絶ち滅ぼし生き残った者も、逃れた者も
    いないようにされるのではないでしょうか。
 
   (15)  
    イスラエルの神、主、あなたは正しい方です。
    まことに今日あるように私たちは逃れた者として
    残されています。
 
 ここにおいてのイブル語は
 「逃れた者」をPLYTH、peletah、
 「生き残った者」を
 前記のShAR、shorが用いられている。
    
 これらの指摘は新バビロニアのユダ国遠征で
 被害を受けたにしても
 「死ななかった人々」をも含め捕囚(及び死から)
 「逃れ」「生き残った」人々を表している。
 
 このShAR、shorにはバビロン捕囚から釈放されて
 エルサレム帰還した者たちをも表しており、
 「エルサレムに残った者」
 と理解するのが妥当である。
 
  前述が示すとおり
 バビロン捕囚以降の聖典には
 一切「十戒石」にはついては語られていない。
 
 あくまで推測を出ないが、二枚の「十戒石」は、
 ユダ国に「残された者」たちが
 密かに「隠匿」して奉祭していたのである。
 
 さもなければご神体たる「十戒石」無くして
 第二神殿が建設建設されるはずがない。
 
 この新バビロニアの征服という大事件は以降
 「十戒石」は「隠されるもの」となったのである。
 
 (B)ユダ国から避難した人々
 
  「エレミヤ書」の第43章から第46章までは
 バビロン捕囚を逃れてユダ国外、
 具体的には
 エジプトへ避難した集団について語られる。
 
 つまり、
 ユダ国の全てのイブル人が
 新バビロニアのバビロンへ
 強制移転させられたのではない。
 
 エルサレムなどユダ国に
 「残された」人々の様子は前項(A)で述べた。
 
 ここではユダ国外のエジプトに
 「逃れた者」のあったことを紹介する。
 
 彼らは新バビロニアが攻略する以前に
 ユダ国から避難してしまった人々である。
 
 第43章の初めには偽りを語っている者のあることを
 エレミヤに語らせている。
 
   (2)あなたは偽りを語っている。
      私たちの神、主は
     「エジプトに行って寄留してはならない」と
          言わせるためにあなたを遣わされたのではない。
 
   (3)(略)あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、
     私たちをカルデア人の手に渡して私たちを死なせ、
     また私たちをバビロンへ引いて行かせようと
     しているのだ」
 
   (4)全ての将校と全ての民は「ユダの国に留まれ」
     という主の御声に聞き従わなかった。
 
   (5)そして
     カレアハの子ヨハナンと全ての将校は
     散らされていた国々からユダの残りの者全てを
      
   (6)男も女も子供も王の娘も、
     それに侍従長ネブザルアダンが
     シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに
     託した全ての者、
     エレミヤとネリヤのバルぐを連れて 
  
   (7)エジプトの国に行った。
     彼らは主の御声に従わなかったのである。 
 
 第4章において、
 主なる神はエジプトに寄留した者たちに対して
 エレミヤを通して語る。
 
   (12)私は寄留したエジプトの国に
     住んでいる者たちを取り除く。(略)
 
   (13)私はエルサレムを罰したと同じように
     エジプトの国に住んでいる者たちを
     剣と飢饉と疫病で罰する。
 
   (14)エジプトの国に来てそこに寄留している
     ユダの残りの者のうち逃れて生きる者、
     帰って行って住みたいと願っている
     ユダの地へ帰る者はいない。
     ただの逃れる者だけが帰れよう。
 
 バビロン捕囚の事件が起こったのは
 紀元前6世紀のことである。
 
 エジプトへ逃れ避難した者のうちには神の預言を
 恐れたのか同地を捨てて更にナイル川を上流へ向かい、
 現在のエチオピアを定住の地とした人々さえある。
 
 ギリシャのヘロトドスの「歴史」(紀元前5世紀)に
 「エチオピア」の地名が表れる。
 
 同語のギリシャ語理解は
 「黒い(赤褐色の)人」として知られるが、
 原初的には同地に避難したユダ国人たちが
 その信仰を守ろうとそこでの自分自身を
 IDHといったことに始まろう。
 
 「エチオピアEthiopia」を分析すると以下のようになる。
 
 IDH(イブル語)とは
 本来「集団、会象、大象」との語義ながら、
 「イブル人の共同体」との固有な意義で
 使われるようにもなっていた。
 
 その発音はiedahで、Ethiopiaあるいは
 ギリシャ語のAithiopiaとの関係は次のようになる。
 
  Ie-d-o-h
  Ai-thi-o-p(h:f:p):Eithi-o-i-[a]
 
 ヘロトドスの「歴史」に最初に記述されているのは
 巻4・183で「穴居エチオピア人」と」あり、
 その補足にAithiopsとある(Aithioph)。
 
 紀元後1世紀のギリシャ語文献
 「エリュトラ―海案内記」にAETHIOPIAとの表記がある。
 
  さてエジプトへ寄留したユダ国人と基として、
 後のアレキサンダー大王のエジプト征服後の
 ギリシャのカナアン、エジプト支配下に
 ユダ国人たちは「聖書」を初めてギリシャ語に翻訳した。
 
 それは「ギリシャ語七十人訳聖書」といわれる。
 
 その時期は紀元前285年頃からとされている。
 
 「聖書」をギリシャ語でBIBLOSといい、
 ラテン語など
 ヨーロッパ諸語でBIBLEというようになるが、
 その原語は
 ”パピルス(ナイル川岸に生えていた葦の一種)”に依る。
 
 その葦を薄く削いでつなげ紙状にしたもので
 羊皮紙より使い勝手が良かったに違いない。
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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(6) エルサレムの第二神殿の建設 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 第1章 エルサレムへの安置
  (6) エルサレムの第二神殿の建設
  前記(5)ユダ族などのエルサレムへの
 帰還で歴代誌(下)の最終末において
 次の文句を紹介した。
 そこには神殿の再建について述べられている。
   ペルシャの王クロスは言う。
   
   『天の神、主は地の全ての王国を
    私に賜った。
  
    この方はユダにあるエルサレムに
    ご自身のために宮を建てることを
    私に委ねられた。
    
    あなた方が、全ての主の民に
    主の民に属する者は誰でも、
    その神、
    主がその者と共におられるように。
    
    その者は
    ユダにあるエルサレムに上がり、
    イスラエルの神、
    主の宮を建てるようにせよ。
    この方は
    エルサレムにおられる神である』。
 この文面で明白にユダ族などがエルサレムに
 「王の宮」の神殿を建ててもよいとの許可が
 クロス王から出されたのである。
 神殿の再建完成までの経緯は
 「エズラ書」第2章から第9章までに詳しい。
  第2章68は言う。
   一族のかしらのある者はたちは
   エルサレムにある主の宮に着いた時、
   それをもとの所に建てるために、
   神の宮のために
   自分から進んで捧げものをした。
   すなわち
   彼らは自分たちでできることとして
   工事の資金のために
   金6万1千ダリフ、銀5千ミナ、
   祭司の長服百着を捧げた。
  第3章述べる。
  彼らはあくまで
  祝祭の、犠牲を神に献げる
  〔供儀の〕民であった。
   イスラエル人は自分たちの町々にいたが、
   第7の月が近づくと、
   民は一斉にエルサレム集まって来た。
   (略)
   彼らは第7の月の第1日から
   全焼の生贄を主に捧げ始めたが、
   主の神殿の礎はまだ据えられていなかった。
   彼らは石切工や木工には金を与え、
   シドンとツロの人々には
   食べ物や飲み物や油を与えた。
   それは
   ペルシャの王クロスが与えた許可に依って
   レバノンからから
   海路ヤフォに杉材を運ぶためだった。
 かってソロモン王が初めて神殿を建てた際、
 レバノンのヒラム王の協力得たように、
 どうしても同地の
 木材(レバノン杉)が必要だったある。
  続けて言う。
   彼らが(バビロンから)エルサレムにある
   神の宮にのところに着いた
   翌年の第2の月にシェアルティエルの子
   ゼルバペルとエホツァダクの子
   ヨシュアとその地の兄弟たちの
   祭司レビ人たち、及び捕囚からエルサレムに
   帰って来た全ての人々は主の宮の工事を
   指揮するために20歳以上のレビ人を
   立てて工事を始めた。
   こうして
   ユダ人ヨシュアとその子、その兄弟たち、
   カデミエルとその子たちは一致して立ち
   神の宮の工事をする者を指揮した。
   レビ人ナダテの一族と
   その子、その兄弟たちもそうした。
   建築師たちが主の神殿の礎を据えた時、
   イスラエルの王ダビデの規定に依って
   主を賛美するために祭服を着た祭司たちは
   ラッパを持ち、
   アサフの子らのレビ人たちは
   シンバルを持ち出て来た。
 この記述に依って判ることは、
 この建築の主な人々がユダ族及び
 祭司としてのレビ族であったことである。
 更に注意を引くのは
 新バビロニア〔カルディア〕のネブカデネザルの
 ユダ国征服に依ってイスラエル人〔ユダ族など〕の
 虐殺が行われたが、生き残った者たち全てが
 捕囚としてバビロンに連れて
 行かれたのではなかったとの事実である。
 ここに上げられたシェアルティエルの子や
 ヨシュアとその兄弟たち、
 また祭司のレビ人は捕囚を逃れて
 エルサレム周辺に残り得た者の
 後裔と解釈される。
  建築工事は着々と進められた。
 しかし周辺勢力の圧力で中止されることもあった。
 その様子をここに述べる必要はない。
  第5章からペルシャのクロス王の
 次のダリヨス王が
 この建設を支援した様子が記述されている。
  第6章14からは次のように述べ、
  建築が完成し終わったことを
  明らかにしている。
   ユダ人の長老たちは
   預言者ハガイの子ゼカリヤの預言に依って、
   これを建てて成功した。
   彼らはイスラエルの神の命令により、
   またクロスとダリヨスとペルシャの王
   アルタシャスタの命令に依って
   これを建て終えた。
   こうしてこの宮は
   ダリヨス王の治世の第6年〔紀元前515年〕
   アダルの月の3日に完成した。
 《参考》レバノン杉と屋久杉
   
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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(5) バビロン捕囚の終焉 [神聖の系譜]





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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
    (5) バビロン捕囚の終焉
 
  (A)ユダ族などのエルサレムへの帰還   
 
  歴代誌(下)の最終末は述べる。
 
   ペルシャの王クロスの第1年にエレミヤより
   告げられた主の言葉を実現するために、
   主は
   ペルシャの王クロスの霊を奮い立たせので、
   王は王国中におふれ出し文書にして言った。
 
   ペルシャの王クロスは言う。
 
   『天の神、主は地の全ての王国を私に賜った。
    この方はユダにあるエルサレムに、
    ご自分のために宮を建てることを
    私に委ねられた。
    あなたがた、
    全ての主の民に属する者はだれでもその神、
    主がその者と共におられるように、
    その者は上がって行くようにせよ』
 
 最後文の「上がって行く」とは
 「エルサレムへ帰還せよ」との意義である。
 
 ここに登場した「エレミヤ」は預言者で、
 彼の活躍は「エレミヤ書」として纏められ
 一書をなしており、
 ユダ王国の人々の「バビロン捕囚」について
 歴代誌以上に詳細に述べられている。
 
 しかし、
 その経過は「誌」とそう異なりはない。
 
 ただカルディアの王名がこちらでは銘記され、
 「ネブカトネザル」とある。
 
 「エズラ書」は
 ユダのエルサレムへの帰還について
 より詳細に説明している。
 
 「ペルシャの王は言う」と
 前記歴代誌の文句を述べる。
 
  そして続けて言う〔第1章3、5〕。
 
   その者はユダにあるエルサレムに上がり、
   イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。
 
   この方はエルサレムにおられる神である。
   (略)
 
      そこでユダとベニヤンの一族のかしらたち、
   祭司たち、レビ人たち、すなわち
   神にその霊を奮い立たされた者はみな、
   エルサレムにある主の宮を建てるために
   上って行こうと立ち上った。
 
 こうして捕囚を解かれたユダ王国の人々は
 バビロンからエルサレムへ向かって
 出発して行ったのである。
 
 捕囚の時〔紀元前625年〕から70年後の
 紀元前7世紀末年のことである。
 
 この際ペルシャのクロス王は
 彼等の帰還を支援した。
 
 「エズラ書」第1章の同王の宣言の最後に
 彼は述べている。
 
   残れる者はみな、
   その者を援助するようにせよ。
   
   どこに寄留しているにしても、
   その所から、その土地の人々が
   エルサレムにある神の宮のために
   進んで献げる捧げ物のほか、
   銀、金、財宝、家畜をもって援助せよ。
 
 「残れる者」とはエルサレムへ帰還しないで
 バビロンに「残留する者」の意義である。
 
  第1章から述べる。
 
   クロス王はネブカデネザルがエルサレムから
   持って来て自分の神の宮に置いていた
   主の宮の用具を運び出した。
 
   すなわちペルシャの王クロスは宝庫係
   ミテレダテに命じてこれを取り出し、
   その数を調べさせ、それを
   ユダの君主シェシュバツアルに渡した。 
   (略)
   捕囚の民がバビロンからエルサレムに
   連れて来られたとき、      
   シェシュバツアルはこれらの物を
   みんな一緒に携えて上った。
 
  (B)エルサレム帰還の21宗簇
 
  「エズラ書」はエルサレムに帰還した人数を
 「全集団の合計は4万2千360名であった。
 また彼らには男女の歌うたいが200名いた」と述べ、
 その支族名を詳細に説明している。
 
 このうちエルサレムとユダ(州)に帰って来た
 支族名について「ネヘヤ記」第7章が
 区別して記述している。
 
   バビロンの王ネブカデネザルが
   引いて行った捕囚の民で、
   その捕囚の身から解かれて上り、
   エルサレムとユダに戻り、
   銘々自分の町に戻ったこの州の人々は
   次のとおりである。
 
 とあり、
 以下の支族名が上げられている。
 
 その族類は21支族であった。
 
   パルオシュ族、
   シェファテヤ族、
   アラフ族、
   ヨシュア族、
   ヨアブ族、
   エラム族、
   ザド族、
   ザカイ族、
   ビタイ族、
   ベバイ族、
   アズガデ族、
   アドニカム族、
   ビグアイ族、
   アディン族、
   ヒゼキヤ族、
   ハシュム族、
   ベッアイ族、
   ハリフ族、
   ギブオン族、
   エラム族(別の)、
   ハリム族
 
 
M.K記
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(4) ユダ王国の滅亡とユダ族のバビロンへの捕囚 [神聖の系譜]



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     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (4) ユダ王国の滅亡と
     ユダ族のバビロンへの捕囚
 
  歴代誌(下)第36章17は述べる。
 
   そこで、
   主は彼らのもとに
   カルデア人の王を攻め上がらせた。
 
   彼らは剣で彼らのうちの若い男たちを
   その聖所の家の中で殺した。
 
   若い男も若い女も年寄りも
   老衰の者も容赦しなかった。
 
   彼は神の宮の全ての大小の器具、
   主の宮の財宝としてその司たちの財宝、
   これら全てをバビロンへ持ち去った。
 
   彼らは神の宮を焼き、 
   エルサレムの城壁を取り壊した。
 
   その高殿の全部を火で燃やし、
   その中の宝としていた器具を
   一つ残らす破壊した。
  
 ここにおいて、
 ユダ王国は完全に破壊され滅亡したのである。 
 
 その年は紀元前586年であった。
 
  歴代誌(下)第36章20は続けて述べる。
 
   彼は剣をのがれた残りの者たちを
   バビロンへ捕えて移した。
 
   こうして
   彼らはぺルシャ王国が支配権を握るまで
   彼とその子たちの奴隷となった。
  
 この歴史はメソポタミアの
 ユーフラテス川とチグリス川の
 合流地点付近に建国された
 〔紀元前625年〕カルデア国(新バビロニア) が
 イスラエルに遠征攻略し、
 エルサレムを破壊して
 ユダ王国を滅亡させた時の記録である。
 
 主の神殿初め市中にあった財宝を全て略奪して
 ハビロンへ持ち帰ってしまったと言っている。
 
 そして多くの老若男女が
 虐殺されてしまったとも言っている。
 
 ただそれでも剣難をかろうじて
 のがれた人々をカルデア軍は
 奴隷として連れ去ったのである。
 
 それを「バビロン捕囚」という。
 
  しかし、
 その記述において「神の箱」とか
 「二枚の十戒石」がどうなったかは
 一切説明されていない。
 
 続いて述べられるところによると
 エルサレムには70年の安息、
 つまり捕囚が終わったのは、
 その頃ペルシャが巨大化し、
 クロス〔キロス〕王がカルデアに
 遠征し新バビロニアを壊滅させたからである。
 
 聖書は
 預言者エレミヤが預言していた通りと述べるが、
 クロス王がユダ王国の人々がエルサレムへ
 帰還するのを許したのである。
 
 
M.K記
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(3) ソロモン王の奉祭〔神殿建設〕 [神聖の系譜]





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  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (3) ソロモン王の奉祭〔神殿建設〕
 
  (A)ソロモン王の追加した木材
 
  歴代誌(下)第1章は次のように始まる。
 
   さて、
   ダビデの子ソロモンは増々王権を強固にした。
   彼の神、主は彼と共におられ、
   彼を並外れて偉大な者とされた。
 
 その第2章は述べる。
 
   さて、ソロモンは主の御名のための宮と
   自分の王国のための宮殿とを建てようと
   考えた。
 
 そこでソロモンはダビデ王を授けたツロの王
 ヒラムのもとに使いを出して助力を求めた。
 ソロモンは使いに説明させた。
 
   私が建てる宮は壮大な宮です。
   私たちの神は全ての神々に勝って
   偉大な神だからです。
 
 と述べ、
 「杉、もみ、アムレグの木材を
  レバノンから送って下さい」
 と要求した。
 ツロの王はその回答を寄せて言う。
 
   私たちの方ではお入用なだけ
   レバノンから木材を切り、
   これを筏に組んで海路をヤフォまで
   あなたのもとにお届けします。
   そこからあなたがたがこれを
   エルサレムに運び上がって下さい。
 
 またダビデ王が用意した金属及び
 木材などの加工を行う者、ダビデが定めた職人や
 ツロの「才知に恵まれた熟練工、職人」が
 加わって神殿建設の準備が整った。
 
  (B)ソロモン王の神殿建設と「契約の箱」の納入
 
  歴代誌(下)第3章は次のように始まる。
 
   こうしてソロモンは主がその父ダビデに
   ご自身を現わされた所、すなわち
   エルサレムのモリヤ山上で
   主の家の建物に取りかかった。
   彼が建設に取りかかったのはその治世の
   第4年第2の月の2日であった。
 
 続いて第4章までその神殿の大きさや
 本堂、内堂、祭壇などの装飾の様子が説明される。
 
  第5章の始めなって言う。
 
   こうしてソロモンが主のためにした
   全ての工事が完成した。
   そこでソロモンは父ダビデが聖別した物、
   すなわち銀、金、各種の器具類を運び入れ、
   神の宮の宝物倉に納めた。
   そのときのソロモンはイスラエルの長老たち
   およびイスラエル人の部族の頭たちと 
   一族の長老たちを全てエルサレムに召集した。
   ダビデの町シオンから主の契約の箱を
   運び上げるためであった。
   こうして
   イスラエルの長老全員が到着した所で、
   レビ人たちは箱を担い、
   箱と会見の天幕と天幕にあった全ての
   聖なる用具とを運び上げた。
   ソロモンと彼のところに集まった
   イスラエルの全会集は箱の前に行き、
   羊や牛の群れを生贄として捧げたが、
   その数があまりにも多くて
   数えることも調べることもできなかった。
   それから祭司たちは主の契約の箱を
   定めの場所、すなわち神殿の内堂である
   至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。
   (略)
   箱の中には二枚の板のほかには
   何も入っていなかった。
   これは
   イスラエル人がエジプトから出て来たとき
   主が彼らと契約を結ばれたときに
   モーセがホレブで入れたものである。
 
 このようにしてモーセの「十戒石」の箱は
 ソロモン王が建設した神殿に安置されたのである。
 
  歴代誌(下)は第35章まで
  その後ユダ族が主として
  奉祭してきた記録が述べられる。
 
 
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(2) ダビデ王の神殿建設準備 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (2) ダビデ王の神殿建設準備
 
  歴代誌(上)第21章の終末はいう。
 
   モーセが荒野で造った主の幕屋(天幕)と
   全焼の生贄の祭壇は
   その時ギブオンの高き所にあった。
   ダビデは神を求めて
   その前に出ていくことができなかった。
   主の使いの剣を恐れたからである。
 
  続いて第22章は述べ、
  ダビデ王が「主の宮」建設の用意に入ったことを
  明白にしている。
 
   そこでダビデは言った。
   「これこそ神である主の宮だ。
    これこそイスラエルの全焼の生贄の祭壇だ」。
   そしてダビデは命じて、イスラエルの地にいる
   在留異国人を招集し神の宮を建てるための石材を
   切り出す石切り工を任命した。
 
 次いで
 「門の扉の釘および留め金用の鉄」
 「青銅」「杉の木」を用意させた。
 
  ダビデの考えが次いで述べられる。
 
   ダビデは言った。
   「わが子ソロモンはまだ若く力もない。
    主のために建てる宮は全地の名となり栄えと
    なるように大いなるものとしなければならない。
    それで、私はそのために用意しておく」。
   こうしてダビデは彼が死ぬ前に
   多くの用意をしておいた。
 
  歴代誌(上)第22章6からソロモンが登場してくる。
 
   彼(ダビデ)はその子ソロモンを呼び、
   イスラエルの神、
   主のために客を建てるように彼に命じた。
   ダビデはソロモンに言った。
   「我が子、私はわが神、
    主の御名のために宮を建てようとする
    志を持ち続けてきた。
   (略)
   我が子よ、主があなたとともにおられ、
   主があなたについて語られた通り、
   あなたがあなたの神、主の宮を立派に
   建て上げられるように。
   ただ主があなたに思慮と分別を与えて、
   あなたをイスラエルの上に任命し、
   あなたの神、
   主の律法を守らせてくださるように、
   主がイスラエルについてモーセに命じられた
   掟と定めをあなたが守り行うなら、
   あなたは栄える。  
 
 そしてダビデはソロモンにそれまで用意してきた
 品々とその加工を行う人々について説明する。
 
   「私は困難の中に主の家のために
    金十万タラント、銀百万タラントを用意した。
    また青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。
    それに木材と石材も用意した。
    あなたが、これらにもっと加えてほしい。
    あなたのもとには石を切り出す者、
    石や木に細工する者、
    各種の仕事に熟練した者など多くの仕事を
    する者がいて金銀青銅鉄を扱うが、
    その人数は数えきれない。
    立ち上がって行いなさい。
    主があなたとともにおられるように」。
 
   そして、
   ダビデはイスラエルの全ての司たちに、
   その子ソロモンを助けるよう命じた。
   (略) 
   「そこで今、
    あなたがたは心を尽くして
    あなたがたの神、主に求めなさい。
    立ち上がって
    神である主の聖所を建て上げ、
    主の御名のために建てられた宮に
    主の契約の箱と神の聖なる器具を
    運び入れなさい」。
 
 ソロモンが建てるだろう「宮」とは神殿
 「主の家」「主の聖所」である。
 
 更にダビデはソロモンにその宮に
 「主の契約の箱」つまり「神の箱」を
 運び入れ安置せよといっている。
 
  歴代誌(上)第23章は述べ始める。
 
   ダビデは老年を迎え長寿を全うして、
   その子ソロモンを
   イスラエルの部族の人々に彼なき後、
   つまりソロモン王を支えるための役目を
   部族毎に分け決めた。
 
 そして同28章においてダビデは
 イスラエルの勇士」たちをエルサレムに
 招集した集会において述べる。
 
   ダビデ王は立ち上がってこう言った。
   「私の兄弟たち、私の民よ、
    私の言うことを聞きなさい。
    私は主の契約の箱のため、
    私たちの神の足台のために
    安息の家を建てる志を持っていた」。
   私は建築の用意をした。
 
 ダビデは彼の子ソロモンを次の王として
 万全の備えをしたかった。
 
 ユダ族がイスラエルの君主として
 神が決めたことを説明し、
 全イスラエルに
 それを主の命令であると宣言した。
 
  第29章は言う。
 
   次にダビデ王は全集団に言った。
 
   「我が子ソロモンは神が選ばれた
    唯一人の者であるが、
    まだ若く、力もなく、この仕事は大きい。
    この城は人のためでなく
    神である主のためだからである」。
     
   私は全力を尽して、
   私の神の宮のために用意した。
   すなわち金製品のため金、銀製品のための銀、
   青銅製品ための青銅、鉄製品のための鉄、   
   木製品のための木、縞瑪瑙、
   色とりどりのモルタルの石の象嵌細工、
   あらゆる宝石、代理石をおびただしく用意した。
 
 最後に
 「ダビデは全集団の前で主をほめたたえ」
 「今、私たちの神よ私たちはあなたに感謝し、
  あなたの栄に満ちた御名をほめ讃えます」と
 全イスラエルに神をほめ讃えることを命じた。
 
  こうして
 ソロモンは主の設けられた王座に着き、
 父ダビデに代わり王となって栄えた。
 
 全イスラエルは彼に聞き従った。
 
 モーセの「十戒石」を納めた「神の箱」は
 エルサレムにおいて
 ダビデ王からソロモン王へと移託されたのである。
 
 
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(1) エルサレムへの運び上げ [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (1) エルサレムへの運び上げ
  (A)ダビデ王「神の箱」をエルサレムへ招来
  サムエル記第5章1は述べる。
   イスラエルの全部族は
   ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。
   「ご覧の通り、私たちはあなたの骨肉です」。
 この意味するところは、
 イスラエル(イブル)の全部族が
 ダビデの統率に服することを了承した、
 つまりダビデを王として認めたのである。
 
  続けていう。
   これまでサウルが私たちの王であった時でさえ、
   イスラエルを動かしていたのはあなたでした。
   しかし、主はあなたに言われました。
   「あなたがわたしの民イスラエルを牧し、
    あなたがイスラエルの君主となる」。
   イスラエルの全長老が
   ヘブロンの王のもとに来たとき、
   ダビデ王は
   ヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、
   彼らはダビデに油をそそいで
   イスラエルの王とした。
   ダビデは20歳で王となり、40年間王であった。
   ヘブロンで7年6ヵ月、ユダを治め、
   エルサレムで33年全イスラエルとユダを治めた。
 このようにダビデは初めヘブロンにいた。
 しかし、彼はその第5章7でうとおり
 エルサレムへ進攻した。
   ダビデはシオンの要塞を攻め取った。
   これがダビデの町である。
   エルサレムを攻略し、そこに本拠を移した。
   それを「ダビデの町」という。
 
  サムエル記第6章は
  「神の箱」の移転について語り始める。
   ダビデは再びイスラエルの精鋭3万を
   ことごとく集めた。
   ダビデはユダのバアラから神の箱を
   エルサレムへ運び上ろうとして、
   自分につくす全ての民と共に出かけた。
   彼らは神の箱を新しい車に載せて丘の上にある
   アビナダナの家から運び出した。
   (略)
   ダビデは主の箱を彼のところ、
   ダビデの町に移したくなかったので
   ガデ人オベデ・エドムの家にそれを回した。
   (略)
   主は神の箱のことでオベデ・エドムの家と
   彼の家に属するすべてのものを祝福された
   ということがダビデ王に知らされた。
   そこでダビデは行って、喜びをもって
   神の箱をオベデ・エドムの家から
   ダビデの町へ運び上がった。
   (略)
   ダビデとイスラエルの全家は歓声をあげ、
   角笛を鳴らして主の箱を運び込み、
   ダビデがそのために張った
   天幕の真ん中の場所に安置した。
   それからダビデは主の前に
   全焼のいけにえ和解のいけにえをささげた。
 ダビデ王はユダ族というイブル人の一人であった。
 イブル人はあくまで祝祭
 (いけにえを主に〔神〕に献げる)の民であった。
 
  歴代誌(上)第15章も述べる。
   彼(ダビデ)は
   ダビデの町に自分のために家を造り、
   そのときダビデは言った。
   「レビ人でなければ
    神の箱をかついではならない。
    主は主の箱をかつがせ、とこしえまでも
    ご自身に仕えさせるために
    彼らを選ばれたからである。
   (略)
   そこでレビ人たちはイスラエルの神、
   主の箱を運び上げるために身を聖別した。
   そしてレビ人はモーセのことばに従って
   命じられたとおり神の箱をにない棒で  
   肩にかついだ。
 レビ人(族)が主の祭司として
 祝福されたことは既述した。
 ここにおいて神の箱に納められた
 モーセの「十戒石」は
 エルサレムのダビデの町の天幕に
 安置されたのである。
 《参考》レビの子孫-大司祭の系譜
 
 
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目次5:歴史学講座「創世」小嶋 秋彦 [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
  第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
 
 第1章 エルサレムへの安置
  (1) エルサレムへの運び上げ
  (2) ダビデ王の神殿建設準備
  (3) ソロモン王の奉祭〔神殿建設〕
  (4) ユダ王国の滅亡と
     ユダ族のバビロンへの捕囚 
  (5) バビロン捕囚の終焉
  (6) エルサレムの第二神殿の建設
  (7) バビロン捕囚を逃れたユダ王国の人々
  (8) 神の箱〔十戒石〕は行方不明となった
  (9) 神の箱〔十戒石〕は
     ユダ王国の祭司〔レビ族〕と
     ユダ王国王家〔ユダ族〕によって
     秘匿された
 
 第2章 神の箱〔十戒石〕の
     エルサレムからの退避行 
  (1) 紅海を南下してジプチへ
  (2) 極東へ運ばれた神の箱 
 
 
 
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第十一章 秘匿 [神聖の系譜]

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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
 第十一章 秘匿
 
  日本海沿岸を船によって運ばれ北上して来た
 契約の箱に納められた「像石」つまり
 「十戒石」が最終的に安置された地が
 佐渡島であることは明白で、
 現在においても人知れず隠れた聖所で
 秘密裡に保護されている。
 
 何しろ佐渡「サド」名はイブル語の
 SV、sed 〔秘密〕と共に
 SDR、seder〔隠れ場所〕の音写である。
 
 (A)佐渡の秘密 
  
  佐渡が史書に表われるのは『記・紀』からである。
 
 『古事記』の国生みの条に「佐度嶋」とあり、
 これを『日本書紀』は「佐渡州」と記す。
 
 同紀には欽明天皇5年に「佐渡島」、
 『続日本紀』の文武天皇の大宝元年(701年)に
 「佐渡」と表われる。
 
 7世紀末までに北陸と同じくその地名が
 定着していたとみられる。
 
 佐渡は「延喜式」には訓がない。
 
 「サド」は上記の通りイブル語の
 SVD(秘密、内緒)の音写である。
 
 以下の見解に依り同島に適した
 名称であることが解かる。
 
 「延喜式」民族及び神名帳の
 羽茂、雑太、賀茂の三郡名が載っている。
 
 「雑太」の訓を「サハタ」としている。
 
 「サハタ」は『古事記』が
 「其少名毘古那神を顕はし白せし謂はる久延毘古は、
  今者は山田の曾富謄(そほど)いふぞ」という
 「曾富謄」と同根で
 (Heb.),סהָפהֶת,ShVPhT,shophet 裁判官、土師
 の音写であり、少彦名神を示唆している。
 
 この件については後述する。
 
 漢字「雑太」の「サッタ」は
 (Heb.),סֶדֶר,SDR,seder
 「隠れ家、隠れ場所」を表わしSVD(秘密)に対応する。
 
 神名帳の式内社に引田部神社が載る。
 同社は現在真野町金丸に同名で鎮座している。
 
 地名金丸は石川県鹿島郡鹿西町の
 宿那彦神像石神社の鎮座地名と同じ
 KhNYH-MLKh (船乗りの宿営地)で
 少彦名神の鎮座地であることを示している。
 
 引田氏は大彦命の後裔とされ、
 同命を祭神に祀るとする説もあるが、
 社伝がいう
 大己貴命にして少彦名神が優先されよう。
 
 社号の「引」あるいは「引田」は
 HK(hok)あるいはHKhT(hokit)の音写で
 「法律の、規則の」で、
 「類語「石などに刻む」のKh(H)KKは
 「法律を制定する」との字義で
 用いられており、モーセが十戒を石板に刻んで
 伝授された故事に付合させている。
 
 当該神社名を「引-田部」と分けて理解する。
 
 「田部」同じ神名帳の記載社御食神社の
 「食」と同根と考えるからである。
 
 同社に神名帳は「ミケ」訓じているが、
 これは「田部」と同様「みタベ」で
 TRLH(tabelah)の転訛である。
 
 同語は「(金属、石、木)の平板」を
 意味するので、
 「御食」は「お板」、
 「引田部」は「法律の板」と解釈され、
 「十戒の石板」を表わしている。
 
 御食神社は現在畑野町宮川に
 同名で鎮座している。
 
 このように雑太郡には「十戒の石板」に
 係わる秘密が隠されている。
 
 神名帳の同郡には飯持神社が記載され、
 同名社が現在畑野町河内に鎮座しているが、
 神名帳は「イモチ」「ミケモチ」と訓じている。
 
 前者はもう一つの郡名
 「羽茂郡」の訓「ハモチ」に通じ、
 飯持も羽茂も「ハネモチ」と訓め、
 これはHVN(hun)の転写で「富、財産」を
 表わす用語でこれまで述べた飯島(安来市)と
 その概念を共有する「羽茂」を「ウモ」と
 訓んでるいるのはまた理由がある。
 
 同郡に記載されている式内社大目神社と関係し、
 IRMH(armah)の転訛で
 「山、塚、積み重ね」が字義である。
 
 大目神社の訓を神名帳は
 「オホマ(秘称)」としている。
 
 新潟県頚城郡青海町の「オウメ」も同様で、
 石板の佐渡への経路としての地名と考える。
 
 同名の神社が現在真野町吉岡に鎮座している。
 
 祭神は
 「佐渡国寺社境内案内帳」「神社明細帳」が
 大己貴命としているのが正しい。
 
 ただ草創の頃の鎮座地は現在の羽茂町椿尾の
 大目神社跡として伝えられている場所である。
 
 「神社明細帳」が徳治2年(1307年)に
 本間遠江守が守護神として
 現在地に遷したというのは史実であろう。
 
 「和名抄」羽茂郡の大目郷の地である。
 
 鎌倉時代の守護本間氏は佐渡において
 神社の改めをいろいろとやったらしい。
 
 このように
 「延喜式」神名帳に載る諸社については
 解釈される。
 
 だが、これらの神社に能登半島を離れた
 「十戒の石板」が納められている訳ではない。
 
  さて、地名帳が「御食」を「ミケ」とし、
 「飯持」を
 「ミケモチ」としていることのも背景がある。
 
 『記紀』が崇神天皇のとき大彦命を
 北陸に遣わしたことを述べているが、
 佐渡にも大彦命の勢力の遠征が
 あったことの伝承が遺っている。
 
 大彦命を祖とする安部氏の「アヘ」が
 サンスクリット語のaharである。
 
 「ミケ」とはそのaharである
 「神饌」称していうのである。
 
 その本実はただし前述の通り
 「御タベ」で「板」ある。
 
 しかし、御食は「オケ」と訓めるので
 この点を疎かにできない。
 
 佐渡島の南端小木(おぎ)町がある。
 
  観光用に桶舟を出すなどオケにこだわっている。
 
 また民謡の佐渡おけさ節の「オケサ」が
 生まれるなどその類似語は
 佐渡の文化の鍵となっている。
 
 「オケ」あるいは「オケサ」はイブル語の
 ARGAZ(aregaz)の転訛で「箱、木箱」の字義で
 「契約の聖櫃」を指している。
 
 この中に「十戒の石板」が納められたのである。
 
 「オケサの島」は「聖櫃の島」である。
 
 そして「櫃・箱」の名称のある所に
 石板は安置されている。
 
 そこは現在神社となっているが、
 「延喜式」神名帳の頃には 
 神社としての社殿が無かったので、
 それには記載なかったと考えられる。
 
 (B)物部神社〔延喜式神名帳「佐渡国雑太郡」
  (現)佐渡市(畑野町)小倉
 ※数十年前には近くに「野田」との地名があった。
  越後国から佐渡国へ
  「十戒石」を
  船で運んできたのは物部氏族であった。
 
 (C)度津神社〔延喜式神名帳「佐渡国雑太郡」
  (現)佐渡市(旧羽茂町飯岡)度津神社
 
 度「ワタ」(Heb.),בַתֻ,BT,batu 石
 ※この名称によると、寺泊(三嶋郡)から
  「十戒石」が運ばれて来て
  「越の高浜」の大石(大石湾)へ
  到着させたいえる。
  この浜には船は押上がったのである。
 
 佐渡「サド」(Heb.),סַדַ,SVD,sada 秘密、内緒
 ※「十戒石」が何処に隠されたかは秘密とされた。
  しかし、地元では何か秘密が行われたと
  嘘になったのではないか。
 
 (D)イスラエルの石板とユダの石板
 
  以上の見解のように佐渡はヨシュア族等に
 授けられた十戒を刻んだ二枚の石板を
 埋納して隠れ場を築き護ってきた
 「秘密」の聖所なのである。
 
 とはいえ、
 この石板は「出エジプト記」が言う神が
 モーセに与え、
 後にダビデに依ってエルサレムへ移され、
 ソロモンによって建てられた神殿に安置された
 ものでないことを認めておきたい。
 
 従って佐渡島に安置されている石板を
 「イスラエルの石板」ということにする。
 
 ヘブライ王国がソロモン王亡き後
 イスラエル国とユダ国に分裂し、
 紀元前8世紀にアッシリアにより
 滅ぼされ捕囚となったのは
 北のイスラエル国の人々(失われた十支族)で、
 ガド族はそれに属していたからである。
 
 これに対しエルサレムの神殿に安置されていた
 「モーセの十戒石」を
 「ユダの聖櫃」「ユダの石板」ということができる。
 
 英語で言う Ark of Judei(ユダヤの箱)である。
 
 この「ユダの聖櫃」も紀元前に新バビロニアに
 よって捕囚され、
 帰還後に復興したエルサレムの神殿も
 破壊されたために行方不明になってしまった。
 
 現在もその所在は知られていない。
 
 その「ユダの石板」の現在の安置所をについて
 次の第5部第6部において説明することにする。
 
 
  最後に北陸道の別称を
 『日本書紀』が「クヌカノミチ」、
 『西宮記』が「クルカノミチ」、
 『北山抄』が「久流加之道」
 という理由を述べる。
 
 「クヌカ」は
 少彦名神と石板の移動宿営地である
 KhNYH(khanykh)の音写である。
 
 鹿西町、真野町の金丸の「カネ」の祖語である。
 
 「クルカ」はGVLH(golah)の音写で
 祖国からの「追放、捕囚」の語義が
 「離散した「イスラエルの居留地」となった用語で、
 本節でみたようにイスラエルの人々の濃密に
 居住した北陸地方の名称として適しい。
 
 富山市の呉羽名はGVLH名であろう。
 
 呉羽が属していた婦負郡は
 現在「ニフ」と呼ばれるが、
 古代には「メフ」であった。
 
 これは彝イブル語のMPhRTsの転訛で
 「入江、湾」を表す用語で
 富山湾に因んだ地名である。
 
 その富山は「富山郷」名に由来するが、
 市内の本郷町辺りが当該比定地であろう。
 
 隣の「大町」名は
 羽咋市の場合と同じく「二つの」であり、
 太田は証人のID(ied)に依る。
 
 その太田地区に刀尾神社が鎮座し、
 「トゥオ(ビ)」が「富トミ」になったらしい。
 
 なお、重要な歴史的・時系列的事実として、
 いわゆる
 ユダヤ人〔YHVDY〕が日本の古代文化に
 影響した事実は一切ない。
 
 「ユダヤ人」が成立したのは、
 6・7世紀〔紀元後〕で、
 本書が対照にしている時代より」
 数世紀後世のことである。
 
 《参考》少彦名神と山田〔海国:大倭・大和〕
 
M.K記
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第十章 新潟県における「十戒石」の移動 [神聖の系譜]


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 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
 
   第十章 新潟県における「十戒石」の移動 
 
 (A)頚城郡
 
 (1)物部神社 
  〔延喜式神名帳「越後国頚城郡」〕
 (現)揖取神社(頚城郡能生町小泊)
 
 (2)水嶋磯辺神社〔延喜式神名帳「越後国頚城郡」〕 
 (現)頚城郡能生町筒石
 
 (3)居田神社〔延喜式神名帳「越後国頚城郡」ケタ〕
 「全国神社名鑑」居田神社(上越市五智)
 祭神:大国主命、他
 
 居田「ケタ」:「気田」に同じ
 (Heb.),כֶתַֻ,KTV,ketau 文字、筆跡
 ※ガド族の「十戒石」は時に従って
  日本海岸を東方へ船で運ばれた。
 
 (4)寺、寺島、押上、大町〔糸魚川市〕
 
 押上、伝承によると
 「霊石を乗せた神舟が押上浜に着いた」
 ※この地域には「寺」が付く地名が多い。
  そのうちのかなりは
  次の用語の音写と判断される。
 
 寺「テラ」(Heb.),תָרַה,TVRA,torah 
       トーラー、律法、モーセ五書 
 
 寺島「トーラーの島」:
  島根県安来市の砥神嶋〔出雲国風土記〕
 
 大町「オウ」(Heb.),ֶַֻנ,AVN,aeun 石〔霊石〕
 
 (B)三嶋郡〔和名抄「越後国」〕
 
 (1)物部神社 
  〔延喜式神名帳「越後国三嶋郡」〕
 「全国神社名鑑」物部神社(二田大明神)
 (現)刈羽郡西山町二田
 ※「二田」は能登の原語に同じ
 祭神は二田天物部稚桜命
 
 (2)御嶋石部神社 
  〔延喜式神名帳「越後国三嶋郡」
   ミシマノイソベ〕
 (現)御嶋石部神社(刈羽郡西山町二田添)
 
 二田「ニタ」(Heb.),נָת,NVT,not (船の)舵取り
 
 西山「ニシヤマ」(Heb.),,NSYM,nisiym 驚異
 ※つまり信じられないような奇跡がここに
  もち上がったのである。
 
 御嶋「ミシマ」(Heb.),,MShMT,mishimati
         規律、服すること
  〔長門国(山口県)の「三隅」に同じ〕
 
 (3)寺泊町〔三嶋郡〕
 
  この「寺」は TVRH トーラー〔律法〕を指す。
 「十戒石」はここ三嶋郡に至るも安心できる
 「隠し場所を得ることができなかった。」
 「寺泊」に「泊」とあるからには一時
 「石船」は停泊したものの更にどこかへ
 行ってしまったのである。
 漂泊はまだ終わらなかった。
 
 寺泊の港からは現在でも船が発して行く。
 なおこの地の北側には
 古来「岩船郡」との地名があるが、
 同名の起りは「十戒石」とは全く関係ない。
 
 《参考》像石・気多・石部・寺・物部
M.K記
連絡先:090-2485-7908 
 
   

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第九章 富山湾岸〔富山県〕 [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
   第九章 富山湾岸〔富山県〕
 
 (A)須久那彦神社
 (現)富山県氷見市脇、少彦名神社とも表記された。
 ※像石〔十戒石〕は黒崎より船で富山湾を南下し、
  脇村に一時泊まっていたようだ。
 
 (B)磯部神社
  〔延喜式神名帳「越中国」磯部神社〕
 (現)磯部神社(氷見市磯部)
 
 (C)射水郡〔和名抄「越中国」〕
 
 物部神社
  〔延喜式神名帳「越中国射水郡」〕
 (現)射水市(旧高岡市)東海老坂
 祭神:饒速日命
 
 射水「イミズ」(Heb.),ִמֶֻתס,AMTs,imuets 養子、女婿
 ※『古事記』物部氏の祖
  饒速日命は
  大和國(奈良県)において登美族の
  那賀須泥毘古(長髄彦)の妹
  等弥姫の「入婿」となった。
 
 (D)気多神社〔延喜式神名帳「越中国射水郡」〕
 「全国神社名鑑」気多神社(高岡市)
 (旧)伏木一ノ宮
 祭神:大己貴命
 
 《参考》像石・能登・羽咋・宿那彦神
 
 《参考》北陸の少彦名神社
北陸の少彦名神社.jpg
 
M.K記
連絡先:090-2485-7908 
 
 
 

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第八章 北陸の秘密 〔福井県、石川県の石部神社〕 [神聖の系譜]



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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
 第四部 「十戒石」をイスラエル人は日本へ移転させた
   第八章 北陸の秘密
     〔福井県、石川県の石部神社〕
 
 (A)「北陸」の語義
 
 「北陸」の秘密を知るには当然ながら
 その語義を考究しなければならないが、
 そのためには
 この地方福井県から新潟県に亘る
 広く信仰されている少彦名神や
 その関連の神社について知ることが必要である。
 
 北陸地方は「延喜式」に
 「北陸道、若狭爲近国、越前、加賀、能登、
  越中、右爲中国、越後、佐渡、右爲遠国」とあり、
 「北陸道」は
 現在の福井県、石川県、富山県、新潟県を指す。
 
 この「北陸」は『延喜式』、『和名抄』共に
 訓を欠いており、何と言われたのか不明である。
 
 史書においては、
 『日本書紀』の崇神天皇10年9月の条に
 「大彦命以って北陸に遣わす」、
 景行天皇25年の秋7月の条にも
 「武内宿禰を遣わしたまひて、
  及び東方の諸国の地形且
  百姓の消息を察しめたまふ」とあるが、
 双方とも後世の知識に依る記述と考えられる。
 
 これに対し、『続日本紀』巻第3、
 文武天皇の時大宝3年(703年)春正月の条に
 「従七位上高向朝臣大足于北陸道」に遣わすとあり、
 7世紀末までに
 東海道、山陰道、山陽道、南海道、西海道と共に
 その地域的概念が固められたとみられる。
 
 「北陸」の音訓を一般に「ホクロク」としているが、
 『日本書紀』の傍記に「クスカノミチ」、
 平安時代の書である「西宮紀」に「クルカノミチ」、
 「北山抄」には「久流加之道」と訓まれている。
 
 文武天皇時に「北陸道」と決めたものの、
 平安時代の識者たちはその地域の伝承などから
 固有の呼び方をしていたのである。
 
 このことからも北陸道が「北の陸の道」を
 旨とした呼称でないことが察せられる。
 
 上記六道名はそれぞれのその縁りが明白であるが、
 「北陸」だけが曖昧でである。
 
 「西宮紀」は「キタノミヤ」と「キタ」という。
 
 これは「北」に通じるが、
 実際は別の由来があると考える。
 
 「キタ」は但馬国気多郡(現在兵庫県城崎郡日高町)、
 石川県羽咋市寿家町の気多神社、
 同小松市額見町の気多神社、
 同七尾市藤橋町の気多本宮神社、
 富山県高岡市伏木町の気多神社、
 同新湊市三日曽根の気多社、
 新潟県上越市五智の居多神社(古くは気多神社)と
 山陰から北陸の各所に亘ってある
 「気多」に依る呼称である。
 
 (B)石部神社
 
 石部「イシノヘ」は
 「石船」で「岩船」と同じく「十戒石」を載せた、
 物部氏が運行する宗教的船を表す。
 
 (1)石部神社〔延喜式神名帳「越前国今立郡〕
        (現)福井県鯖江市磯部町
 祭神:吉日古命、吉日売命 
 
 吉「キチ」(Heb.),תֶתַֻ,KTV,tetau 文字、筆跡
 ※祭神を二神にしているのは
  「十戒の石板」が二枚に依ることに因む。
 
 (2)宮村(山+石)部神社〔延喜式神名帳「加賀国江沼郡」〕
        (現)石川県加賀市宮町、
 祭神:磯部薬師
 磯部「イソヘ」石部、石船に同じ
   
 (3)菅生石部神社〔延喜式神名帳「加賀国江沼郡」〕
        (現)石川県加賀市岡町
 主祭神:菅生石部神
 
 (4)氣田御子神社〔延喜式神名帳「加賀国江沼郡」〕
    (現)石川県小松市岡町(羽咋市寺屋家町)
 主祭神:大己貴神
 
 (5)石部神社〔延喜式神名帳「加賀国能美郡」〕
    (現)石川県小松市能見山
 主祭神:櫛日方別命
 
 (6)神田神社〔延喜式神名帳「加賀国石川郡」:カムタ〕
  (現)少彦名神社に比定されている。(石川県小松市)
 
 神田「ガウタ」(Heb.),גַֻדָל,GD,gaudol ガド族の神社
 
 (7)神田神社〔延喜式神名帳「加賀国加賀郡」:カンタ〕
 
 神田「ガンタ」(Heb.),גַֻדָל,GD,gaudol ガド族の神社
 
 (C)気田大社と大穴持像石神社〔石川県羽咋市〕
 
  気田神社の祭神は大己貴命である。
 
 北陸地方では同神と共に
 少彦名神を祀る神社が多い。
 
 神社本庁の「全国神社名鑑」をみると、
 「スクナヒコ神」を神社名を祠は
 福井県13社、石川県29社、富山県12社、
 新潟県3社と57社に及ぶ。
 
 それは少彦名神に対する
 信仰の厚さを示すものである。
 
 特に多いのが石川県であるが、
 この加賀、能登の地域は
 イスラエル人の活発に活躍した地域である。
 
 金沢市諸江町にも少彦名神社が鎮座する。
 
 諸江「モロエ」(Heb.),מָלַה,MLKh,molah の音写で
  「船乗り、船員」を意味する。
 
 『記・紀』において
 少彦名神が海から寄り来る姿は、
 同神が船乗りであることを示している。
 
 その同類語にはNVT(not)があり、
 これが「能登」の祖語で
 「船の舵取り、楫取り」を意味する。
 
 またその同類語には
 「水をかくこと、(櫂で)船をこぐこと」を
 意味するKhTYRH(khatiyrak)があり、
 これが「キタロク」で
 「北陸」の祖語とみられるのである。
 
 「北陸」は「船乗り」である
 少彦名神を以って生まれた地方名と考える。
 
 鹿島郡鹿西町金丸に
 能登比古神社が鎮座するが、
 鎮座地名「金丸」の「カナマル」は
 (Heb.),כַנֶיה־מָלַה,KhNYVH-MLKh,kaneyh-molah 
  で船乗りの宿営地・宿泊地であり、
 少彦名神の
 一時的奉祀地であったことを物語っている。
 
 宿営地(野営地)とは奇妙な解釈であるが、
 理由がある。
 
 その理由は、同地に鎮座し「延喜式」神名帳
 にも載る宿名彦像石神社が明らかにしてくれる。
 
 「像石(かたいし)」が重要な謎解きの要点である。
 
 「像石」名を持つ神社がもう一社
 神名帳の能登國に載る。
 
 羽咋郡の大穴持神像石神社で、
 現在羽咋市寺家に同名で
 気田神社の東方200㍍に鎮座している。
 
 祭神は大己貴神と少彦名神である。
 
 「大己貴神と少彦名神」で
 両神が一体である様子は既にみた。
 
 ここにおいてもそれは同様と考えられる。
 
 また現在
 七尾市黒崎に宿那彦像石神社鎮座している。
 「延喜式」神名帳に載る同名社について
 二社が論社となっているようだが、
 実態は以下のようなことである。
 
 つまり能登の羽咋市寺家に奉られた
 少彦名神が鹿西町金丸、七尾市黒崎へと
 奉祭地を遷して行ったのである。
 
 いかなる理由に依りそうしなければ
 ならなかったのかはここでは問わない。
 
 「金丸」とは少彦名神である
 「船乗りの宿営地」であるから、
 三カ所共一時的に本殿が置かれたに
 過ぎないと考える。
 
 本殿が移転したことは
 ご神体の移動を意味するが
 そのご神体が「像石」である。
 その「像石」こそ
 ヨシュアに授けられた
 「十戒の石板」のことであり、
 ここに渡来したイスラエルの人々が
 最も重宝した「証し」で、
 「契約の箱」に納められ保たれていたものである。
 
 「像石」は、「像」が示すように石に形像が
 刻まれているのであるが、
 その「カタ」とは「字、文字、筆跡」の
 KhTV(khetau)であり、文法的に解釈すれば
 KhTVV(khetau)で「カタ石」は
 「文字で書かれている・石」となり、
 神が十戒を書いてモーセに渡した石板を表している。
 
 それは而も「二枚一組」である。
 
 羽咋市の大穴持神像石神社の鎮座地名
 「寺家」は「ジケ」で「一対、二つ一組」を
 意味するZVGの音写である。
 
 同社は一般に「オナッサマ」と親しまれているが、
 これは「お石様」の意味である。
 
 「オナ」はAVN(石)である。
 
 鹿西町金丸の南隣りに当たる
 曽根、羽咋市の下曽根の「ソネ」は
 ShNY(sheney)の音写で、ZVGと同義の用語で
 あるばかりか、その隣り大町の「ダイ」も
 DV(duu)の音写で上記ニ語と全く同義の用語で
 二枚の石板に係る。
 
 また七尾市名は現在「ナナオ」であるが、
 古くは「シテオ」であったはずである。
 
 市内に「下(した)町」があり、
 近くに藤原四手諸神社名がある。
 
 「シテオ」はShTY-AVNの音写でShTY(shetey)は
 接頭語の「二つの」で、AVNは「石」であるから、
 同語は「二枚の石」の意味であり、
 「七尾」は本来「二枚の(十戒の)石板である」。
 
 寺家、曽根、大
 
 ※羽咋市の大穴持神像石神社には境内に
  石柵に囲まれた長さ90cm、幅60cm、
  地上に見える部分24cmの「地震石」ないし
  「地震圧え石」と呼ばれる霊石がある。
  
  鹿西町の宿那彦像石神社には
  「総丈一尺七寸余の薄緑石の真石」が
  ご神体として伝えられている。
 
  また七尾市の同名社でも
  「たて七尺二寸、下三尺八寸、上幅二尺五寸」の
  「像石」を少彦名神のご神霊として祀っている。
 
  同像石は同社が昭和23年まで鎮座していた
  海が見える薬師の森に鎮まっていたが、
  尚和39年の国道開設のため
  東南に120㍍移され祠に納められている。
 
  これ等の霊石は実のところ
  ご神体(像石)そのものではない。
 
  イスラエルの人々の習慣からすると、
  GVLL(golel)と呼ばれる
  墓所の入口に置かれた丸石に当るもので、
  まさに「おさえ石」であり、
  「十戒の石板」を護っていた
  磐座を示しているものである。
 
 (D)能登・羽咋と宿那彦像石神社(石川県)
 
 (1)能登国羽咋郡(和名抄) 
 
 能登「ノト」(Heb.),נָת,NVT,not (船の)舵取り
 
 羽咋「ハガイ」(Heb.),כהַגַֻי,KhGY,khaguay 
         ガドの第二子:物部氏の祖名
 
 羽咋「ハクイ」(Heb.),הֶגֶה,HGH,hegeh (船の)舵
 
 ※能登と羽咋は「船の舵」に係わる
  共一の類似技術用語で同義
 
 (2)気多神社〔延喜式神名帳「能登国羽咋郡」〕
 
 「全国神社名鑑」気多神社 (現)羽咋市寺家町
 祭神:大己貴命
 
 気多「ケタ」(Heb.),כֶתַֻ,KTV,ketau 文字、筆跡
 
 (3)大穴持像石神社
  〔延喜式神名帳「能登国羽咋郡」〕
 「全国神社名鑑」大穴持像石神社 (現)羽咋市寺家町  
 祭神:大己貴命、少彦名命
 
 像石「カタ」(Heb.),כֶתַֻ,KTV,ketau 文字、筆跡
 
 像「カタ」(動詞形)KTV、katau 書く、記す。
 
 ※「像石」は「文字が書か(刻ま)れた石。」
 
 寺家「ジケ」ZVG、ziueg(動詞形)に対する。
 
 (形容詞形)(Heb.),זֻגִי,ZVGY,zugiy 対の、二つ一組の
 
 ※この地に「二枚一組」の(十戒の)文字が
  刻印された(書かれた)石が奉祭されていたのである。
 
  それらは「船乗り(舵取り)」によって
  当地にもたらされた。
 
  つまり「石船」で運ばれて来たのである。
 
 (4)宿那彦名像石神社
  〔延喜式神名帳「能登国能登郡」〕
 「全国神社名鑑」宿那彦名像石神社
  (石川県鹿島郡鹿西町金丸)
 祭神:少彦名命、他
 
 鹿島「カシマ」(Heb.),,HShM,hashuem 
         (神の)御名、神の別称
 
 金丸「カナマル」(Heb.),KhMYH-MLKh,, 
         〔宿泊地-船乗り〕船乗りの宿泊地
 
 ※羽咋市寺家の地は「像石」にとっては
  安心のできる所ではなかった。
 
  そのため「像石」はまた移動を始め、
  陸路を東へ行き、第一の宿泊地(宿営地)が
  「ハシェム」の地であったが、その後更に
  七尾市から城山(七尾城がある)周辺の
  山中を越えて富山湾岸の黒崎へと至った。
 
 (5)宿那彦名像石神社
  (現)富山県七尾市黒崎
 祭神:少彦名神
 
 ※この神社には「巨石神霊」伝承がある。
 
  ≪参考≫福井県・石川県の石部神社

 

 像石・能登・羽咋・宿那彦神
M.K記
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