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(2)極東へ運ばれた「神の箱」① [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」①
 
(A) 紀元4世紀頃までに知られた東方の情報
 
第二イザヤ書と言われる同書第40章以下に記述された
「地の果ての島々」 についての説明は
本書第3部第2章2すでにしてある
〔また拙著「日本創世紀」133ページ以下にも詳しい〕。
 
これらの情報は紀元前一世紀には
活発な東西交易を担ったイブル人のうちの
ガド族によって
エルサレムにもたされたものだろう。
 
イザヤ書第42章10
「海に漕ぎ出す者、海に落ちる者、
島々とそこに住む者」
とは正にガド族のことである。
 
彼等は絹を積んだ船で
東方特に日本列島西部の情報をも載せていたのであり、
エルサレムなど地中海東岸やイブル人社会に
その情報が広められる役目を果たしたのである。
 
紀元前1世紀になると
ギリシャ人にまで東方への興味が広まっていった。
 
その主な理由はやはり絹織物に対する関心からであった。
当時ローマ帝国の上流社会では
絹が最も欲しい商品で、
海路を経て大量に地中海北岸にまで運ばれた。
 
その交易を盛んにしたのは
ローマ人でもギリシャ人でもなかった。
 
イブル商人たちが
東方の厚目の絹織物〔縑:カトリ〕を
エルサレム周辺でローマ人の好みに合わせ
薄い織布に作り替えてローマへ送った。
 
ローマ帝国の金貨が
大量にインド亜大陸へ送られて
ローマ帝国経済が崩壊しそうになったほどであった。
 
インドにはイブル人の居住する交易中継地があった。
 
そこは
大陸の南方アラビア海に面した
現在ケララ州といわれる地域である。
 
プトレマイオス朝下のエジプトを拠点として
活動していたギリシア人商人が
書き纏めた海洋交易関わる東方の情報が
「エリュトラー海案内記」には載っている。
 
そこには
「セリカ」という「シナ海沿岸」に
あったとみられる絹の産地名が記されている。
 
「セリカ:ラテン語で serika 」絹の総称で、
同語の由来は絹の生産集団であった
倭人が「繭」を「石」と呼んでいたことに原因し、
日本列島へ紀元前の早くから
既(すで)に進出していた
インド人系商人たちがそれに従って
サンスクリット語で 
seilika 「石」と通称し始めたことによると考えられる。
 
良質の繭は潰そうとしても
潰れない石のような硬さを持っている。
 
和人の養蚕を行う人々はまた
繭から繊維にして織物にする技術を持っていた。
 
西方の海洋商人達は
インドの鉄鋼や銅の加工品などと交換して
絹を入手したのであろう。
 
「セリカ」名は地中海北岸に
「絹製品」の総評として広がった。
 
何しろ現在で英語で
シルクsilkというなどの原語である。
 
「セリカ」には
日本列島の九州を含めてよいはずである。
 
紀元前2世紀になると、
「セリア」という地方名が
地理書に記載されるようになる。
 
ギリシャの家しかパウサニアスの汽車案内が
それで紀元160年により出された。
 
ギリシャ本土周辺に関連した情報を纏めたものだが、
第6章26節6~9の金の産地に関して
述べられている中にその名称はある。
 
「エリュウトラー海の西奥にセリアの島がある」とある。
 
「エリュトラー海」とは本来紅海ながら、
アラビア海からインド洋、太平洋方面まで含んでいる。
 
明らかに
「エリュトラー海案内記」の効力に依っている。
 
その「最奥」というのだから
太平洋の北方方面とすることができよう。
 
「セリアの島」とは
日本列島の西部分「九州」に該当する。
 
何しろ同記述の前段「セリアの島」の近くに
Abasa アバサ と Saxaia サカイアという
二つの島があるといっており、
前者は現沖縄本島を指す。
 
浦添市に「安波茶」とあるのがその遺称で、
後者は先島諸島の「先」として遺留されている。
 
Abasa、Saxaiaともサンスクリット語で
前者が abasa 〔光〕、
後者が sucyah〔輝く、光を発する〕
に依っており、
後にギリシャ語呼称に転換して
「輝く、ピカピカの、白い」の
leukosを取入れ「リュウキュウ:琉球、瑠球」と
表記されるようになっている。
 
これに依って
「セリア:seria」の原語を探れば、
同じくサンスクリット語で
セリカsailika〔石〕と
同義語のsaila〔石〕あるいは
sailā〔石の多い、石よりなる〕があり、
これらの単語は
全て「白い繭」に由来した呼称で絹に係わっている。
 
このように紀元2世紀に至って
東方の事情が西方でかなり知られるようになっていた。
 
ましてや3、4世紀になれば
さらに詳しいことが西方の関心ある者たちには
周知されいぇいっただろう。
 
紀元後1世紀にジプチへ移転したユダ国の人々には
「イザヤ書」を手にして
東方についてかなり知り得ていたと言える。
 
特に紀元前からガド族が居留した
日本の西部の実情を把握し、また
海路の実情をも理解していたはずである。
 
ユダの人々はエチオピアが
キリスト教に改宗した頃から
同地の安全に確信を持ち得なくなってしまったらしい。
 
より安全が安心できる土地が望ましいと
考えるようになったといってよい。
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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