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第二章 高床式神殿の祭神(三)創造主 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 高床式神殿の祭神(三)創造主

 
 碗形土器には垂幕の図絵が
 二ヶ所に描かれている。
 
 双方とも幕の端に房を付けているので、
 明らかにベイル veil である。
 
 一方のベイルは
 髪の長い二人の女性の手によって
 掲げられている。
 
 布幕の中は空白で何も無い。
 
 ベイルとは何かを覆い隠す幕のことであり、
 その向こうに何かが存在するが、
 
 空白は
 それを敢えて語らないことにしている
 意思の表明である。
 
 この図柄から読み取ることができる状況は
 まさに
 「ありてなきもの、なきてあるもの」
 を見る者が
 感得しなければならない
 形而上学的表現である。
 
 しかし、
 「なきもの」の実体を推測するための材料が
 全く提供されていない訳ではない。
 
 まず布幕に付けられている房は紐状で、
 幕の内が神聖な場所(聖所)ないし
 事柄を秘めていること
 及び二人の女性が侍していることから
 女性に係わる秘所であると思われる。
 
 ベイルは英語の呼称ではあるがヒントがある。
 
 シュメルの絵文字を捜っていくと、
 この図柄に酷似した文字「絵文字」があり、
 シュメル語で bar と読まれ、
 「聖所」の意味であり、 
 veil と近似している。
 
 絵文字には碗形土器の意匠では
 空白であった囲みの中に
 V のマークが書かれているが、
 これは土器の女性にも白抜きで
 逆三角形が取られているように
 女性の性器の象徴であり、
 幕の内に女性が坐すことを示している。
 
 シュメル語 bar を
 同じ英語に捜ってみると bear があり、
 その意味は
 「子供を産む」であるばかりでなく
 「支える、持つ」の字義があり、
 二人の女性が
 垂幕を支え持っている行為自体が
 「出産」を表意していると解釈できる。
 
 産み出す役目をするのは母の役割である。
 
 この幕の内には母神が坐すことが解ってくる。
 
 シュメル時代に実在した王の名ドゥムジは
 アッカド語に tammuz と転訛し、
 神格化され賛美歌が寄せられているが、
 その中で「太古の母」である 
 zikum とすでに紹介した
 「天空」が名指しされていると同時に
 「空を横断する偉大な母」
 と太陽を想起させる表現がある。
 
 シュメル語で
 は母は「アマ ama 」といい、
 絵文字では「米□」と描かれ、
 天空 zikum 「絵文字」を神「絵文字」が
 移動していく図柄で、
 楔形文字では「絵文字」となり
 天空の中を神が動くことを示す
 「絵文字」が付け加えられている。
 
 明らかに母神が太陽である証明となっている。
 
 ここで、
 巻頭に紹介した日本の信濃風土記逸文に残る
 「箒木」を思い出していただきたい。
 
 あるとみえるが、
 近づくと見えないというのが主旨であった。
 
 目を直に向けると眩みして
  何も見えなくなる現象といったものと
 考えれば
  碗形土器の幕の内に
 何も描かれていない意図は
 太陽を表していると理解できる。
 
 因みに tammuz は聖木の呼称となっており
 「箒木」に対応される。
 
 絵文字「楔形文字」には 
 bar より古いとみられる
 barg という訓読があり、
 同じく聖所を意味する。
 
 この用語はサンスクリット語に入って 
 praja となって、
 「出産する、生じる」を
 名詞形で
 「生殖・繁殖・子孫・創造物」
 を意味する。
 
 構成用語 pra- は
 英語の pre- に対する
 接頭語(先の、前の)であるが、
 親族関係に使われると祖あるいは
 曽の内容となる。
 
 Ja は jan と同義で
 「産む、発生させる、出産する、創造する」
 の動詞である。
 
 同類語 janka も
 「生む、産出す」また名詞として
 「父」を表す。
 
 Jan~a は「出生・起源」である。
 
 Prajaに係わる熟語 praja-pabi は
 インドの文献、
 歴史がヴェータ時代に諸神を主宰する
 至上の神で「子孫の主」であるが、
 
 また
 「生産の主、繁殖を司る守護神、
  生命の保護者、創造主」と
 神話の中で高い地位を与えられた。
 
 同類語 prajn~a は「知恵」を意味するが
 prajn~a-pāramita は般若波羅蜜多、
 つまり「般若経」の祖語で
 最高度の知識または理解を示している。
 
 この合成語を解釈すれば、
 「原初の起源を知る」ことで、
 般若経の条句「色即是空」を悟ることとなる。
 
 以上のことから
 碗形土器に描かれた二人の女性が
 保持する垂幕意匠には
 太陽に象徴されるた大母神である
 創造神への信仰が
 込められているとしてよいであろう。
 
 となるように、
 グルジア語も本来は 
 ha(b) eri であったと考えられる
 
 カルト語では……?……
 また、
 マルタ語の huburu に係わり
 碗形土器のヴェールの向こう(の大母神)の
 性格を示唆している。
 
 現在のカトリック教修道女の衣裳や
 イスラエル教の女性が
 外出する際に身を覆い、
 顔を隠すベイルの起源はすでに
 この紀元前六千年前の
 アルパチヤの碗形土器に
 その端緒があるともいえる。
 
 ところで
 シュメルの神を表す絵文字「」は 
 dingir とは別に
 「天」を表す「アン an 」とも読まれる。
 
 シュメルの三大神のうちのアン神は
 アッカド語でアヌ anu と転訛するが、
 シュメルの神話における
 天の諸神の父である始祖神の地位にある。
 
 シュメル語の対称によると
 母神 ama に対して 
 an は父神である。
 
 サンスクリット語 jna は
 この an の転訛と考えられ、
 
 「主・支配者・太陽」の字義ではあるが 
 jan の派生語と思われる。
 
 また、 janaka は Enki の転訛であろう。
 
  Enki の意味も父ではあるが、
 「創造主」と称した方がよいであろう。
 
 メソポタミアとインダス文明との
 関係について
 ここで多くを語ることはできないが、
 インダス河の河口地帯の西に 
 Kirthar 山脈があり、
 そこを流れる川が Hab 川で、
 その河口のアラビア海に向かった
 前のパキスタンの首都 
 Karachi の名称は
 カルト人が移動したか影響された遺称で、
 古代からの地域名 
 Sindh は
 Singar あるいは dingir の
 祖語の転訛であると考えられる。
 
 インドの創世神話に語られる
 太初からの四っの時代(ユガ)のうち、
 第一の黄金時代を
 クリタユガ krta-yuga というのも
 示唆するところがある。
 
  Krta は「作られた」ではあるが、
 聖紐の意味もある。
 
碗形土器垂幕の図
 創造主.jpg
 Tell Arpachiyah (Iraq)
 
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、
 マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に
  描かれている) 
 
 ※ARPACHIYAH 1976
 
 ※高床式神殿


M.K記

 

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第二章 高床式神殿の祭神(二)水神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 高床式神殿の祭神(二)水神


 アルパチヤの碗形土器には
 二人の人間の身長よりも大きい壺が
 描かれている。
 
 壺はアッカドのマルドゥク王の場合のように
 王の象徴でもあった。
 
 ハラフ期・ウバイド期の神殿に
 残された壺の中からは
 穀物、動物の骨、魚の骨などが
 発見されていて、
 神殿への奉納のための容器として
 使われたことを示している。
 
 しかし、
 牛頭・マルタ十字紋と並列された壺には
 単なる貯蔵用容器を表すだけでない
 神への期待が込められている。
 
 「水の恵み」を
 祈願しているものとみられるのである。
 
 シュメル語の畑を表す 
 aša は「真ん中に水がある」字義で、
 農耕のために水がいかに
 貴重視されていたかが解る。
 
 「ア a 」が水、
 「シャ sa 」が中央を表す。
 
 高床式神殿の「高み」にある聖所は
 suku ないし sug と称したことは
 紹介済みだが、
 この用語の絵文字は「○の中に横∬」で、
 容器の中に水があることを表している。
 
 楔形文字になると、
 刻文は一つでも「池・堤」を表し、
 amber と読まれた。
 
 また、
 天空 zikum を表す楔形文字は 
 engur とも読まれ
 「深海」ないし「深水」の意味で、
 大量の水を想像させる。
 
 河川は「 id イドゥ」であるが、
 その楔形文字は水と
 engur/zikumとの合成語である。
 
 エリドゥの神殿の呼称は 
 e engur で「水の神殿」の意である。
 
 Engur の楔形文字を分析すると、
 容器( gur )が星型米( an )を囲んでいる。
 
 つまりengur は an-gur であり、
 「天にある容器」と解釈でき、
 雨を降らせるために水を貯える
 天の壺と考えられる。
 
 壺は dug ないし duk と呼ばれた。
 
 この楔形文字はまた buk とも読まれ、
 動詞形になり、「所蔵する」の意味になる。
 
 さらにこの語は「耕作する」にも使われ、
 神殿の壺が穀物の豊饒を祈っていることも
 理解される。
 
 ARPACHIYAH1976.jpg
アルパチャ遺跡の碗形土器
神殿の壺
 
 Tell Arpachiyah (Iraq)
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、
 マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に
  描かれている) 
M.K記



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第二章 高床式神殿の祭神(一)豊饒神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 高床式神殿の祭神(一)豊饒神


 あの碗形土器の高床式神殿には
 屋根がついているが、
 その形状は牡牛の角のように
 上に向かって弧を描いており、
 牛頭の象徴であろうことをうかがわせている。
 
 碗形土器の意匠には
 マルタ十字紋様が四つ描かれている。
 
 十字紋や卍字紋意匠は
 サマッラ土器に特異な紋様である。
 
 十字紋の上に星形と動物の横身姿と思われる
 小さな図形がある。
 
 このことにより
 十字紋が信仰に係わる何かの象徴と
 判断できる。
 
 マルタ十字の名称は地中海の
 イタリア半島の西シシリア島の
 アフリカ側にある小さな島マルタ
 Malta国 と関係がある。
 
 首都は Vallette である。
 
 マルタ国は
 古来独自の文化を保持継続してきたが、
 言語的にもラテン語・アラビア語などの
 影響を受けながら自国語を守ってきた。
 
 そのマルタ語の中に
 神への信奉、敬愛、供施、慈愛を表す言葉 
 arita があり、
 また、
 Sinjurは宗教的表現でないが、
 主・主人・紳士を意味し、
 一般的に
 男性を呼ぶ「~さん」に使われている。
 
 北メソポタミアの影響と
 考えられる単語である。
 
 国名 Malta は
 ラテン語の「結婚させる」の 
 marto に関係する。
 
 結婚は男女が「交わる」ことであるが、
 同島の地理的環境は
 東西南北の交通の要所でまさに
 「交差点」であり十字の中心である。
 
 以上のことを根拠とすると、
 「交差する」ことは
 「結婚するする」ことで、
 動物の場合は「交配させる」ことで、
 繁殖を意味することとなる。
 
 シュメル語 bal の派生語 
 šabal は子供、子孫を表す。
 
 碗形土器に描かれたマルタ十字紋は
 豊饒祈願のシンボルと
 考えられることになる。
 
 別の一角にも二つのマルタ十字紋とともに
 蛇の姿が描かれている。
 
 これは牡牛の男根の象徴であろう。
 
 シュメル時代に入ってからの、
 碑文を刻んだグディア王像を
 先に取り上げたが、
 同王の時代、
 紀元前二千年頃に作られた
 神像と思われる人、
 頭と牡牛の体した像には、
 その腹部に男根がが浮き彫りされている。
 
 土器の蛇には首のあたりに
 リボン状の紐を結っている。
 
 紐をつけることは
 祝福されていることの目印で
 神聖の象徴である。
 
 十字紋はハラフ期の当時
 何と呼ばれていたのであろうか。
 
 マルタ語の「主」を表す 
 sinjur の同類後に
 「しるし、標識、記号」を表す 
 sinjal がある。
 
 Sinjur と北イラクの山脈名 Sinjer は
 同根語で、
 sinjer は先にみたように神殿を表わした。
 
 この用語は現在のマルタでは
 「主、主人」の意味ではあるが、
 古代においては
 「神」そのものを意味したように思われる。
 
 するとマルタ十字紋である
 「しるし sinjal 」自体が
 「神体」の象徴であったことになる。
 
 「神への信奉」を字義とする
  karita を持つこの島の人々の基層には
  khard 人が存在したと考える。
 
 彼等がマルタ十字紋を
 「シンジャル」と
 称していたといってもよいだろう。
 
 牛頭崇拝の文化を
 北メソポタミアから持ってきたのである。
 
 シュメル語に入った神をいう場合の 
 dingir は
 この sinjer の
 祖語の転訛であると考えられる。
 
 Dingir の絵文字「米」は
 星の抽象化によるものと解釈がされている。
 
 シュメル語の天空を意味する 
 zikum は「□の中に米」に作られ、
 星のある世界ということである。
 
 「高床式神殿の高み」にある
 「聖所」はsukuで、
 十字紋の坐すさらなる「高み」の天空を
 「神の坐す聖所」と考え、
 zikum と称したと考えられる。
 
 サンスクリット語に七星を表す 
 krittika (星座名)がある。
 
 この星座は小童である
 医方神 karttikeya の乳母とされているが、
 khard を祖語とする同類語と考えられる。
 
 Rarttikya神の性格は
 エンキ神によく似ている。
 
 Krittikaは
 漢訳では昴(すばる)宿とされている。
 
 しかし、
 インドの神話から判断すると
 北斗七星か小熊座であろう。
 
 サンスクリット語には
 大熊座(北斗七星)内の星を指す 
 Kratu もあるが、
 karttikeya が小童であることを
 考慮すれば
 小熊座の方である。
 
 七つの星はひしゃくを
 表す配置になっていて、
 北斗七星の「斗」は
 そのひしゃくを意味するが、
 またこの形象は角を形作る。
 
 古代のメソポタミアにおいても
 khard座と呼ばれたことは十分ありえよう。
 
 サンスクリット語 kratu は
 「知恵、知識、犠牲、供犠」を意味し、
 カルト人の性向に一致する。
 
 また同類語 kartr は
 祭官を意味するばかりでなく、
 「創造者」あるいは「創造主」を
 字義としており、
 
 最初の知恵者であったことを
 髣髴させている。
 
 小熊座にある北極星は
 天空の中心点にあるものとして
 感得されていたと思われる。
 
 小熊座の名称は便宜上使うが、
 ギリシャ人が名付けたもので
 紀元前六千年期のカルト人には係わりがない。
 
 牡牛座などの星座名も全く同様である。
 
 サンスクリット語では
 十字紋、卍字紋を総称して
 スワスティカといい
 吉兆のシンボルであることは
 すでに記述した。
 
 この「スワ」は
 シュメル語にある 
 šabal の同義語と考える。
 
 文法的解釈では
 「交差する中央」ではあるが、
 十字を表し、子供・子孫をも表す。
 
 紀元前二千五百年頃の史料に、
 アッカドのサルゴン王に
 征服された土地の中に
 北メソポタミアの種族として
 スバル人ないし、レスバルトゥが現れる。
 
 彼らが十字紋 šabal 信奉者であり、
 それが種族名の由来と考えられるので、
 カルト人の中から興ったか、
 その別称であったと思われる。
 
 スバル人の呼称の始原は、
 しかし
 紀元前二千五百年期より
 かなり遡ぼるだろう。
 
 ある見解によると
 紀元前三千五百年前には現れたとしている。
 
 紀元前三千年頃の
 シュメル語に取り入れられた
 鍛冶屋を表す thveli は
 スバル人の職業的変名である。
 
 スバル人のアナトリアの銅を
 商業的に発展させた結果を表す。
 
 このように後世スバル人と呼称されるが、
 ハラフ期からウバイド期にかけて
 北メソポタミアで
 活動していたのはカルト人であり、
 
 彼等は高床式神殿で
 天空の極点にある北極星を
 スバル星(中心星)とし、
 周辺の七星を角座として信仰したと
 解釈することができる。
 
 カルトがスバルに代わったことを
 証明する明白な根拠がある。
 
 先に述べたように
 「創造者・創物主」を表す用語は、
 サンスクリット語で kartr であった。
 
 同義の用語がドイツ語にあって、
 Schöpher がその用語で、
 シュメル語 śubal に対応する。
 
 サンスクリット語の成立は
 紀元前一千年頃からであるのに対し、
 ドイツ語の祖語を使うゲルマン人が
 現れるのは
 紀元前二、三世紀頃と遅い。
 
 ゲルマン神話の主神オーディン伝説を記す
 「ヘイムスクリングラ王朝」の成立は
 紀元後のことである。
 
 相互の時代的経緯を考え合わせると
 カルトがスバルに代わっていることの
 証左である。
 
 ドイツ語の schöphe には前記の他神、
 それも「全能の神」を schöpher 、
 さらに「すくう人、汲む人」を内容とする。
 
 スバルがひしゃくの神であり、
 北極星を含む角座あるいは北斗七星が
 信仰の対象になっていたこ 
 その動詞形schöphen の意味は「汲む」のほか、
 植物を対象とする使用方法で「受精する」、
 
 戯曲表現で女性が
 「妊娠する」の使用例があり、
 
 高床式神殿の豊饒祈願と
 合致するところである。
 
 シュメル語に 
 kalu と表記してスバル
 と発音させる慣用句がある。
 
 「豊饒の門」の意味で、
 神殿への信仰を思わせる。
 
ARPACHIYAH1976.jpg
アルパチャ遺跡の碗形土器
高床式建物
 ※Tell Arpachiyah (Iraq)
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、
 マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に
  描かれている) 



M.K記


 

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第二章 高床式建物と「高み」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 高床式建物と「高み」


神聖の系譜.jpg


 高床式建物に託された
 宗教的想念には埋葬儀礼を脱却した
 未来志向の新しい信仰心が
 発揚されていると考えられる。
 
 階段 galam 
 を昇って至るどころでの「高み」は
 神聖な場所であったことは明らかである。
 
 Galam を表す楔形文字はまた 
 sukudとも読まれた。
 
 その意味は「高くする」で、
 階段を昇って行くことである。
 
 階段上の聖所は 
 suku ないし sugと 称された。
 
 高床式建物の構造からすれば、
 このような建物が作られ始めた頃には
 簡単な仕組みで柱によって
 箱を支えるようなもので、
 箱中へは人間は入らなかっただろう。
 
 その聖所に穀物を蓄えることを 
 si-en-gar といい、
 貯蔵する容器を sahar(sakar)、
 穀倉としての建物は gur と称され、
 管理者は sanga で、
 神殿の司祭ということであったと思われる。
 
 このような高床式建物は 
 unu と呼ばれる祭式の場で、
 高床式神殿といってもよいであろう。
 
 建物を建てる技術は、
 洪水神話に語られる
 「箱船」の建設技術の基礎になっていると
 推測される。
 
 北メソポタミアの Oihok市 の西方
 (無土器新石器時代のネムルク遺跡付近)
 チグリス川の近くに
 Allakoの町がある。
 
 この町名は、
 ギリシャ語のαργω、
 ドイツ語のArche、
 英語のArkと同根と思われる。
 
 箱を意味する言葉である。
 アッシリア時代ではあるが、
 ペルシャ湾のディルムンと
 交易する貿易商人を
 アルクArkと呼んだ。
 
 「箱」が「商船」の意味に使われたのである。
 
 「箱船」を表記する町が
 北イラクのこの地域にあることは重要である。
 
 また「箱を作る人」は、
 ドイツ語でArchitekt、
 現在でいう建築技師である。
 
 箱を備えつけた
 高床式神殿を建築することは
 貴重な技術革新であったと考えられる。
 
 ウバイド期にエリドゥなどで
 発展した煉瓦で建立された神殿技術は、
 紀元前五千四百年頃より一千年間くらい続く
 後期ウバイド期に入って、
 北メソポタミアにも伝波され、
 ニネヴェ近郊のテペ・ガウラなどで
 煉瓦を積上げ、
 壁を作った建物が神殿として
 現れるようになった。
 
 シュメル語で
 「煉瓦・壁」を表す用語は 
 sig である。
 
 Sigの同根語がドイツ語にある。
 Ziegelが煉瓦を、
 Zingelが囲壁、市の城壁などの壁をを表し、
 Singelは市の外壁を表す。
 
 この同類語が
 北イラクの山脈シンジャール
 Sinjerである。
 
 ドイツ語のZingelには
 壁の他に台地や段丘の意味があるが、
 これも神殿の基壇である土塁と
 解釈できるので結局神殿を意味する。
 
 また、
 Zingelの原意は
 紐、帯、飾り帯を意味する
 Gurtelと関連があるという。
 
 サンスクリット語の縄・紐を表す 
 gardura と同義語である。
 
 また
 カトリック教の聖紐は 
 Zinglum と称される。
 
 以上の言語から理解すると、
 原初的には
 紐による縄張りが
 行なわれていたと推測される。
 
 高床式神殿を動物の害から守るため
 周囲に紐を回らしたのである。
 
 紐を張ることを 
 Zingel といったのである。
 
 紐は動物の皮革であっただろうが、
 次第に垣根を作るようになり、
 壁を建てる工夫を思いついたと思われる。
 
 これが
 ジンジャ sinjer である。
 
 このように理解すると、
 供儀所を備えた神殿の発祥地が
 北メソポタミアにあったと考えてよいであろう。
 
 なお、
 神殿に穀物を貯蔵する行動は
 ウバイド期からウルク期の遺跡
 シンジャール山脈にある
 グライ・レシュの至聖所内から
 大麦・小麦を大量に納めた
 甕が見つかっていることからも
 慣習であったと考えられる。
 
 Sinjerの祖語は、
 シュメル語に波及し、
 神・天を表す dingir へ転訛したと考える。
 
 また、
 シュメル語Sahar、Sakarは
 ドイツ語のSchrein、
 英語のShrineと同根語で、
 容器・箱を表すが、
 日本の神社も英独語に翻訳する際には
 この用語が当てられている。
アルパチャ遺跡の碗形土器
高床式建物
ARPACHIYAH1976.jpg
M.K記


 

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第二章 高床式建物と神殿 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第二章 高床式建物と神殿

 

アルパチャの碗形土器に描かれた

高床式建物

ARPACHIYAH1976.jpg

 

 再三アルパチャ遺跡の碗形土器に

 戻ることになるが、

 容器の底円形の中に描かれた図柄は、

 日本人の想像力には

 瞬間的に反応できるものである。

 

 神社の高床式神殿を

 簡単に連想できるからだが、

 ヨーロッパの人々にはそうはいかないだろう。

 

 階段を備えつけた神殿は

 日本の神社の本殿そのものの構造をもつ。

 

 この高床式建物に表された想念は、

 これまでの牛頭信仰の基礎にあった

 埋葬儀礼を抜け出しており

 葬送と関係はなくなっていると思われる。

 

 「牛頭」を崇拝の対象とした信仰へと

 発揚していると思われる。

 

 まずどのような理由により

 高床式建物は造られたのであろうか。

 

 推測の範囲に過ぎないが、

 農耕が進歩し耕作面積が

 拡大したことにより、

 麦類が主な穀類であることは

 明らかだが、

 その収穫量が増え、

 重要な種になる穀粒を

 安全に保管する必要が

 生じたのではないだろうか。

 

 河川の洪水で野生獣の群れの襲撃を

 避けるためには高い所に

 貯蔵しておくことが有利であったからと

 考えられる。

 

 ハラフ期のその当時の草原地帯は

 害を及ぼす野生獣を

 完全に排除できるような状況では

 まだなかったのではないか。

 

 また、家畜化したとはいえ

 羊、山羊などは放し飼い状態であっただろう。

 

 シュメルの絵文字など

 柵に囲われた様子を礎にした

 羊の表記(○のなかに+⊕)がみられるが、

 その時代より三千年も古い時代の状況である。

 

 動物を柵内に囲って飼育し始めたのは

 何時の頃だろうか。

 

 大ザブ川沿いの

 ザウィ・チェミ遺跡の羊の家畜化が

 始まった頃は

 その必要も全くなかっただろう。

 

 柵が必要になったのは

 牛や馬の大型獣の家畜化を

 始めた時期以降だろう。

 

 野生の馬や牛が絶滅に近くになり、

 その確保の必要に迫られてからと考える。

 

 必要量の不足が予想されて捕獲して保持する

 あるいは繁殖させる知恵が働いたのである。

 

 後世十五世紀末に始まった

 イングランドの囲い込み運動、

 さらに

 日本の海岸で1970年代から始められた

 ハマチ養殖業はその例である。

 

 アルパチャの碗形土器に描かれた

 この高床式建物の時代は、

 まだ野生獣類は草原地帯に大量に棲息し、

 人間を脅かす存在であった。

 

 特に牡牛は獰猛でその威力に対する恐れが

 神格化され祀られたとの見解もある。

 

 野生獣から収穫した麦などの穀類、

 特に種とする穀粒を守り、

 神の加護を祈願したと理解したいのである。

 

 神は「高み」に座す。

 

 神の座所に至るためには、

 はしごあるいは階段が必要になる。

 

 高床式神殿には必ずはしごか階段が

 ついていなければならないのである。

  《参考》

 ※Tell Arpachiyah (Iraq)


 

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、

 マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に

  描かれている) 



 

 ※高床式神殿


 


M.K記



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第二章 地名「アルパチヤ」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 地名「アルパチヤ」




  これまで説明の対象にしてきた

 碗形土器を出土した

 アルパチャ遺跡からは、

 その他にも牛頭意匠をあしらった

 鉢形土器などの彩色土器類が

 発見されていることは先に説明した。

 

 これらの土器類は

 外から輸入されたものでなく、

 この域内で焼成されたものであることは

 イスマイル・ヒジャラなど

 イラクの専門家の発掘調査により

 明らかになっている。

 

 ここに

 「牛頭信仰」の拠点があったことを知らせる

 土器類の遺留状況である。

 

 アルパチャ・Arpachiya遺跡は

 ニネヴェの東側でそう遠くない地点に

 位置している。

 

 ニネヴェは

 アッシリア帝国の中心都市であった。

 

 紀元前1800年頃に

 北メソポタミアに君臨し始めた

 古アッシリアは首都を南下させ、

 新アッシリアの紀元前9~7世紀になると

 ニネヴェを中心とする地域に

 首都を置くようになる。

 

 アッシリア語の牛頭を表す用語は

 アルプ alpu である。

 

 この言葉は北メソポタミア起源でもないし、

 シュメル語でもない。

 

 紀元前1600年を少々遡る頃

 地中海沿岸のカナアン地方で

 発明された原カナアン文字の系統に

 連なる言葉である。

 

 この文字は、

 楔形文字の表意文字に対し、

 表音文字の始源となり、

 フェニキア語(ウガリト文字)、アラム語、

 後のヘブライ語、アラビア語の

 基礎となったばかりでなく、

 その波及はフェニキア文字を取り入れた

 ギリシャ文字やラテン文字へと広がり、

 現在使われている

 アルファベットの根源でもある。

 

 アッシリア語 alpu は

 この原カナアン語 alp を

 移入した呼称である。

 

 因みに alp は

 フェニキア文字などで変化し、

 現在の「A」になっており、

 この文字体系を alphabet というのである。

 

 アルパチャの地名はこの alpu に起源をもつ。

 

 ハラフ期からカルト 

 khald と称されていた「牛頭」は、

 多分中期アッシリア時代からか

 アルプに変名したのである。

 

 その後「土地」ないし「境界」を意味する 

 tô^ をつけ、

 地名として Arpachiya が成立し、

 現在に至っていると考えられる。

 

 この地方に「牛頭信仰」の拠点としての

 神殿があったことを

 示しているといえるだろう。

 

 ※旧約聖書創世記第10章22に出てくる

  セムの子孫名

  アルパクサデ・Alpaxadは

  このアルパチャの地に係わる

  名称であることを付記しておきたい。

 

 ※イラクの考古学者イスマイル・ヒジャラ 

   (ISMAIL HIJARA)が1976年に報告した:


  IRAQ VOLUME XLII PART2 AUTUMN 1980       ARPACHIYAH 1976

  by ISMAIL HIJARA AND OTHERS

  ARPACHIYAH1976

 

 ※ARPACHIYAH 1976 ISMAIL HIJARA AND OTHERS


 

 『参考』Tell Arpachiyah (Iraq)


 



M.K記

 

 

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第二章 牛頭崇拝と角 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 牛頭崇拝と角


   牡牛を表すシュメル語で多用されているのは、
 「グ gu、 グドゥ gudu 、グドゥル gudr 」で、
 この語はサンスクリット語にも入り、
 gu あるいは go として使われている。
 
 「ウケ」あるいは「オックス」は
 インド・ヨーロッパ語圏の用語で
 シュメル語にはみえない。
 
 シュメル語で角を意味する用語は
 「シ si 」であることは
 エリドゥの遺物を分析した際、紹介した。
 
 この単語は「目」をも意味する。
 
 また、
 「ア a 」という腕、力を表す単語が
 「ア・アム a-am 」と熟語になって
 角の意になる。
 
 「アム am 」は野牛の意味で、
  a-am は「野牛の角」となる。
 
 この語も慣用句化されているようである。
 
 ギリシャ語の角を表す言葉は 
 kepatos あるいは kepos 、
 ラテン語では cornu 、
 ドイツ語で horn 、
 英語で horn あるいは geweih である。
 
 このうち cornu 系統は
 エーゲ海のクレタ島のミノス文化より
 始まった比較的新しい、
 といっても
 紀元前1450年から1375年頃とされる
 線文字Bに表われる用語である。
 
 それに対し
 「ケラトス keratos 」はかなり古くから
 北メソポタミアで生まれた用語であると
 判断できる。
 
 その理由を説明するのは
 帰納法的展開を要するのでややこしくなる。
 
 ハラフ期からのこの地方における角の呼称は、
 現代の表現でも実在する 
 khard あるいは chald であったと考える。
 
 このカルトないしケルトの崇拝者たちは
 自称をカルトリ khardli ないし
 カルダエ chalda と称して、
 現在においても北イラクに居住しているほか、
 トルコでは東部アナトリア地方などに
 二千万人にのぼる人々がいる。
 
 この人々の文化が
 紀元前五千年期から三千年期にかけて
 盛大であったことを
 これまであまり評価されてこなかった面があり
 再評価すべきと考えている。
 
 また、
 歴史時代への過渡期に当たって彼等の文化は
 南・中央ヨーロッパの全域に
 影響を与えたと考えられる。
 
 ハルシュタット文化を興したのを初め、
 広域に分布した
 ケルト Celt・Kelt 文化は
 その影響の波及したものであろう。
 
 ここでは多くは述べられないので
 後述することとしたい。
 
 ハラフ式土器の広がりは、
 ハッスーナ期やサマッラ期に比べて
 格段に拡大している。
 
 専門家が推測しているとおり、
 その新しいファッションの土器類を
 使用したのは一種族だけではないであろう。
 
 ハフリ地名のある地域も広大である。
 そのような環境のなか、
 北メソポタミアに
 カルト(牛角)信仰の連帯感が広がり、
 カルト人としての集団意識が
 芽生えたのではないだろうか。
 
 そして、
  人々はハフリたちによって
 統率行動を取っていたと考えられる。
 
 また、
 このカルト信仰を行なっている土地を
 ハブールと称したといってよいだろう。
 
 シュメル語に「イ I 」という語がある。
 
 「高める・上げる」を意味する。
 
 ドイツ語の同意語は heben で、
 「持ち上げる、起こす、引き上げる、掲げる」
 と内容が広がる。
 
 この heben に対応する
 英語が heave である。
 
 独英の単語が
 古代の北メソポタミアと
 どのような経緯で関係あるのか
 具体的に証することはできないが、
 「牛頭を掲げる」の「掲げる」の表現に
 係わりがあると思われる。
 
 つまり、
 現在に継承されている 
 iberi 、 eberi の同義語と考えるからである。
 
 「牛頭を掲げる者」は固有名詞となり、
 牛頭の「信奉者」ないし「崇拝者」をも
 内包して使用されるようになったと
 思えるのである。
 
 Khald-iberi 、 Celtiber は
 ギリシャ語やラテン語にもみえる
 ギリシャ・ローマ時代の呼称である。
 
 シュメル語の中に
 「 i-ab-ri 供儀の牛を献げる」
 という表現があり、
 
 その文法上の慣習から母音短縮が起こり
 ibri ないし ebri の
 用語が生まれた可能性もある。
 
 ともあれ古代において
 カルトイベリが存在したことは
 史料の上でも確かな事実である。
 
 牛角信仰を持った人々の名称が
 カルト人ばかりでなく、
 「牛角を掲げる人々」としての
 カルトイベリ人でもあったことを
 確認しておきたいのである。

M.K記

 

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第二章 牛頭崇拝とハフリ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 牛頭崇拝とハフリ


     シュメル語に

 「アブレ ab-re」という言葉がある。

 

 直訳した意味は「踏みつける牛」である。

 

 飯島紀の

 『シュメール人の言語・文化・生活』に

 紹介されている。

 

 ルーブル博物館所蔵のグデア像Bに刻まれた

 楔形文字碑文の一説である。

 

 グデアは王名で、

 紀元前二千年百年頃ラガシュ市を治めていた。

 

 ラガシュ市は、

 その当時のペルシャ湾の西北海岸沿いにあり、

 シュメル人によって設立された都市と

 みられている。

 

 「ab-re」の一節は神殿建設に関する

 グデア王の業績について

 述べられている一段に記されたもので、

 「ab」は牛を表し、

 せまい意味では雌牛となり、

 「e」は「踏みつける」の意味で、

 文法的には「踏みつける牛」となる。

 

 「牛を踏みつける」行為は、

 ここまで紹介した緒資料に登場した

 牛を屠殺する者の重要な行動要素である。

 

 よって、

 「ab-re」は「犠牲に供される牛」

 と解釈されるだろう。

 

 ここで留意したいのは、

 この表現が

 慣用句化される固有名詞となっていると

 思われることである。

 

 紀元前二千百年頃に神殿において

 牛を供犠する祝祭が行われていたことを

 記録する一条であり、

 

 その牛を指して

 「アブリ」と称していた事実である。

 

 ハラフ期のアルパチヤ遺跡の時代からは

 約四千年の隔たりがあるが、

 慣用句化されている様子からすると、

 その語の起源はかなり遡るだろう。

 

 「ファファリ phahare 」と

 読める楔形文字がある。

 

 司祭あるいは聖職者を表す用語である。

 

 楔形文字「ファ」だけでは

 枝・翼を意味するが、

 また、

 「シャ」とも読まれるので「ファファリ」は

 「シャブラ Śabra」とも表記され、

 同じく司祭・聖職者の意味である。

 

 シュメル語で表現された

 「ファファリ」を構成する

 楔形文字と意義との間に

 相関関係を理屈づけるのは難しいので、

 この用語は移入されたものと思われる。

 

 そこで語源として想起する用語は

 「ハフリ habre 」である。

 

 ハフリは明らかに

 司祭、祝祭の主催者の役目を持っている。

 

 ハフリは「ファファリ」と

 同根語であると考えられるのである。

 

  Abre と  habre とも

 当然関連があると判断でいるが、

 シュメル語の楔形文字の上で

 関係づけるのは難しい。

 

 しかし、

 ハフリが牛の屠殺に担わる者であっても、

 牛に対する崇拝者であったと判断できる。

 

 そして、

 牛信仰の故郷が北メソポタミアであることは

 牛頭を掲げた住居跡が多く出土するなどの

 事情から明らかである。

 

 北メソポタミアにおける

 「ハフリ」に関係する地名を

 現在の地名などがから拾ってみる。

 

 まず第一に

 これまで何回か取り上げた

 トルコからシリアの東端を流れる

 ハブール( Khabūr )川、

 チグリス川がトルコの西方から来て

 イラクへ入る直前に

 東方からの流れを吸収して南流を始めるが、

 その合流点にある町が

 ハブル( Habur )、

 それより西方 Midiya との間に

 イディル Idil とともにあるのが

 ハベルリ Haberli で

 アッシリア時代の碑文で

 確認されている町である。

 

 また、

 チグリス川がイラクへ流れ入る地点で

 東方より合流するトルコに水源を持ち

 イラクの北端を流れる川が

 ハブール( Khabūr )川の町である。

 

 さらに、これまで注目を繰り返してきた

 大ザブ川は「ハブールの大ザブ川」と

 イラクでは呼ばれている。

 

 トルコ領を流れる大ザブ川沿いに

 ハッカリ(Hakkari)の町がある。

 

 これは「ハフリ」の

 トルコ語転訛と考えられる地名である。

 

 その東南方にシャムダールの山峡がる。

 

 その大ザブ川がイラクに入り

 北方から西方へ流れを変えるあたりから

 下流一帯をハブリウリ(Habūri-uri)と

 アッシリア時代には呼んだ。

 

 そこからかなり南方の地域になるが、

 バクダッドの東方イラン領に

 ハボール(Habor)山脈がる。

 

 ハボールから東方のザグロス山脈を越えた

 テヘランの南方に広がる砂漠が

 カビール(Kavir)砂漠と呼ばれる。

 

 因みにシリアのハブール川に

 ハッサカ付近で

 西方のトルコから流れきて合流する川を

 シャブール(Shabūr)川という。

 

 以上の紹介で解るように

 ハフリの地名のある地域は

 新石器時代に大量の野牛が

 狩猟された地域である。

 

 特に集中している地点が、

 北イラクのシンジャール山脈の北方、

 トルコとの国境に広がる

 山岳地帯と草原地帯との

 分れ目一帯であることが

 改めて確認できた。

 

 一般に

 この草原地帯をハブール高原と呼んでいる。

 

 ここに列挙して地名の中に

 

  Khabūr あるいは Kavir 

 と表記される所もあるが、

 これは飯島紀の「前掲書」によると

 奉献をを意味する熟語として

 gaba-ri-a という語があるので、

 この語との関連があるかもしれない。

 

 どちらにしても神への奉献は供犠であり、

 本来的に同類語と考えられる。

 

 グデア像

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

 

 ※参考

 ⦅ハラフ期の土器について⦆   


 

 ⦅ハブール川⦆


 

 ハブール川

 (ハブル川、カブル川、Khabur、Habor、

            Habur、Chabur、

  アラム語:ܚܒܘܪ, 

  クルド語:Çemê Xabûr, 

  アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur

 

 ⦅ARPACHIYAH 1976⦆






M.K記


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第二章 野牛狩と殺牛技法 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第二章 埋葬儀礼と牛頭




    チャタル・フユク遺跡の一祠堂の壁には、

 狩猟の情景が描かれていた。

 

 その壁画が復元されている。

 

 壁の中央には

 長さ二メートルに及ぶ太った雄牛が描かれ、

 その周囲を腰巻あるいは

 褌として獣皮を巻いた人々が

 弓や槍を持って野生動物を追い回している。

 

 人に比べて雄牛は巨大である。

 

 人がつけている腰巻は

 祭儀の装束ともみられている。

 

 アルパチャ遺跡出土の碗形土器にも

 野生牛二頭と狩人一人の狩猟意匠が

 描かれている。

 

 狩人が弓を引いて背には

 三叉の矛らしきものが

 負わされていることはすでに紹介した。

 

 三叉の矛はデーヴィー女神が水

 牛の魔物マヒシャ・ドゥルガーを

 圧倒する時に携えられ、

 水牛ないし雄牛の背に

 突き立てられた武器である。

 

 紀元前六千年紀のハラフ期に

 すでに野生牛を仕留める技法が

 確立していたのではなかろうか。

 

 その技法は、

 スペインなどで盛んに開催されている

 闘牛ショウの過程が参考になる。

 

 闘牛の規則と作法によると

 1チーム7人で殺牛に当たる。

 

 1人が馬上から

 牛の首根を刺すことから始まる。

 

 牛の力を削ぎ、弱らせるためである。

 

 古代の野牛狩の場合は

 弓矢を打ち込み牛の弱まるのを待ったであろう。

 

 闘牛ショウの場合は

 赤い布を駆使した見せ場が展開され、

 最後牛の命を絶つために

 剣士(マタドール)が

 剣で頚椎の間をねらって突きこむ。

 

 心臓につながる筋肉と神経を

 切断するためである。

 

 牛を瞬時にして絶命させるには

 剣を突く角度が重要であるという。

 

 マタドールの行為は、牛の咽喉を切る、

 つまり、屠殺を意味する。

 

 三叉の矛は牛を弱らせるために使われた

 槍の役目を果たしたと思われる。

 

 日本の

 『古事記・日本書紀』に記述された

 天石窟前おける

 天鈿女命の舞踏に隠された伝承を辿ると

 紀元前六千年期の

 北メソポタミアに起源があることとなる。

 

 シュメル人が

 南メソポタミアに現れる時期よりも

 アルパチヤ遺跡の時代は三千年も古い。

 

 その当時、

 牛や雄牛などを何と呼んでいたかを明かす

 言語的史料は全くない。

 

 言葉を書くという技術を

 まだ思いついていなかったのである。

 

 その事実を確認した上で、

 推測を展開してみたい。

 

 チャタル・ヒュユク


M.K記


 

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第二章 埋葬儀礼と牛頭 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第二章 埋葬儀礼と牛頭


   ケルメズ・テレ遺跡が属する原新石器時代

 (紀元前九千三百年~八千五百年頃まで)
 と同時代の遺跡が北シリアにある。
 
 アレッポの東方、ユーフラテス川のトルコから
 流れ出し大きく曲がって東流を開始する地点に
 現在アサド湖と呼ばれる人造湖が
 造成されているが、
 その東近くにあるムレイビト遺跡がそれである。
 
 ここでも円形ないし楕円形の住居が
 原新石器時代の古い時期から
 永きにわたって使用された遺構として、
 残されている。
 
 遺物の中から動物の骨が発掘され、
 野生のロバ、鹿、野牛を
 狩猟していたことが解る。
 
 しかし、注目すべきは、
 動物の頭骨が
 建物の壁に掛けられていたことを
 示す発掘があったことである。
 そのような住居の慰留は今までのところ
 ムレイビト遺跡を以って最古とする。
 
 馬、牛、鹿(ガゼル)などの大型有蹄獣の狩猟は
 次の無土器新石器時代
 (紀元前八千五百年から七千年頃まで)
 に入ると盛んに行われるようになる。
 
 アナトリアのタウロス山脈の西側にある
 ハジラル遺跡では二万五千体に及ぶ
 牛の遺骨が堆積していた。
 
 また、イランのテヘランの北側、 
 カスピ海の南岸に広がるエルブス山脈にある
 タペ・サンギチャハマック遺跡からは
 約六千体の牛の遺骨が
 確認されたとの報告がある。
 
 同遺跡からは
 馬の遺骨四千一百体も確認されている。
 
 ケルメズ・テレ遺跡の埋葬住居のなかには
 人間の頭骨だけで動物の頭骨はなかった。
 
 ムレイビト遺跡では、ケルメズ・テレのような
 埋葬儀礼に新しい想念が添加されて
 動物の頭骨が壁に掛けられるようになったと
 解釈できるだろう。
 
 ザウィ・チェミ遺跡の時代から
 その永いメソポタミアの
 永い古代史の中で人間の頭骨が
 壁に揚げられていたとの報告は聞かない。
 
 ただし、タウロス山脈の北方にある
 チャタル・フユク遺跡では部屋の中の祭壇上に
 四つの頭骨が並べられていた例はある。
 
 埋葬住居の床面か床下に埋葬されているのが
 普通である。
 
 ムレイビト遺跡の場合、
 どのような理由によって
 動物の頭骨を壁に掲げるようになったのか
 まだ過分の推測は許されないだろう。
 
 しかし、
 無土器新石器時代の遺跡からは
 その推測が許されるような遺構が表れる。
 
 動物の頭骨、
 特に牛頭が壁に掛けられた遺跡が増え、
 ザクロス山脈のケルマンシャーの東方にある
 ガンジ・ダレ遺跡、
 北イラクのモスールの北方にあるネムリス遺跡、
 トルコのダイヤルバキル北方のチュユヌ遺跡、
 そして無土器時代から、
 次の粘土で容器などを作るようになる
 土器新石器時代への過渡期に当る 
 チャタル・フユク遺跡である。
 
 チュユヌ遺跡でも一つ住居内に雄牛の頭骨が
 人間の頭骨と混在してみつかった。
 
 その上、
 犠牲用に使われたと推測される建物と
 儀礼に使われたらしい建物との
 三つの建物跡があり、
 埋葬儀礼の拡大した構成と考えられている。
 
 北イラクの紀元前七千五百年頃の
 ネムリス遺跡でも
 牛頭が壁に掲げられた跡が出土した。
 
 この遺跡は
 ケルメズ・テレ遺跡とチグリス川を挟んだ
 そう遠くない位置にある。
 
 同遺跡からは鳥形石偶も発掘され、
 その抽象的な形作りは力強い。
 
 チャタル・フユク遺跡の発掘は、
 動物の頭骨の掲示、
 動物のに似せ泥で作った像、
 壁に描いた動物像など
 多くの儀礼的遺物を明らかにした。
 
 同遺跡には十四層にわたる生活面が
 堆積しており、
 最下層は
 紀元前六千八百五十年から六千三百年頃
 までとされている。
 
 注目すべきは祠堂の多さで、
 各民家に必ず
 聖所が備えつけられているといってもよく、
 
 1961年から1963年までの間に
 ジェームス・メラートが発掘した
 住宅区街からは
 広さが大小の祠堂十六箇所が確認された。
 
 これらは神殿ではない。
 
 彼がいうとおり祠堂である。
 
 チャタル・フユク遺跡において
 壁に掲げられた動物の頭骨の特徴は、
 その多くが土製であることであるが、
 本物の頭骨や角を芯に
 使っているものもみられる。
 
 最も多い動物の頭像は
 雄牛、雄羊、雄鹿の頭像も作られた。
 
 これらの頭像は祠堂の中に一体だけではなく、
 三個、五個、七個と奇数に合わせて
 壁に掲げられるか、台座に置かれていた。
 
 人間の頭骨が床に置かれるのは
 これまでの慣習と変わっていない。
 
 このような状況から推測すると、
 埋葬儀礼に係わる牛頭への崇拝が
 すでに成熟していただろうということが解かる。
 
 本物の牛頭骨は少なく、
 塑像が多くなった状況は、
 形式化が始まっていたと判断してもよい。
 
 また、
 民家の祠堂で燔祭(はんさい)が
 行われたとは考えられず、
 儀式のみが祠堂内で行われたと思われる。
 
 そうすると
 燔祭はすでに行われなかったのだろうか。
 
 前世代のチュユヌ遺跡の例でみられたように、
 犠牲祭は
 集落内の別の聖所で行ったとおもわれる。
 
 それが神殿である。
 
 民家の祠堂は納骨堂と考えてよいであろう。
 
 チャタル・フユク遺跡での神殿の姿を
 まだみることができないのは残念である。
 
 人々が住宅に入るのは屋根からであった。
 
 民家の屋根と屋根との間には
 梯子(はしご)が掛けられ、
 屋根を伝って行き来した造りになっている。
 
 地面には中庭はあるものの路地はなく、
 特異な空間である。
 
 建物内には祠堂だけでなく、
 生活のための部屋もあり、
 人々が住んでいたのも確かである。
 
 この区域が
 周宗教的特別区でないのであれば、
 人々の死霊に対する想念を
 表しているのではなかろうか。
 
 その信仰の想念を
 明らかにすることは難しいが、
 確かな事実は牛頭に対する信仰が
 盛んであったということである。
 
 チャタル・フユク遺跡のある地域は、
 トルコの地中海に岸に迫る
 タロス山脈の北側に位置する。
 
 その山脈中にあるハジラル遺跡から
 大量の牛骨が発見されたことを述べたが、
 タロスとはギリシャ語の牛を意味する 
 ταυρς に依っており、
 多くの野牛が棲息していたことを
 伝える呼称である。
 
 チャタル・フユク遺跡の文化について、
 マックス・マロワンは、
 北メソポタミアからの影響があって
 成り立ったと述べていることを
 補足しておきたい。
 
 同遺跡の後期の時代は、
 土器新石器時代が始まった
 ハッスーナ式土器、
 サマッラ式土器の時期に当たる。
 
 彩色土器の紋様の中に
 幾何学紋様、植物紋様と共に
 動物意匠が描かれ始めた時代である。
 
 そして、
 ハラフ期になると、チャタル・フユクのような
 聖所に牛の頭骨を
 大掛りに掲げる遺構は消えていく。
 
 その代わりに
 彩色土器の中に宗教的意匠が増える。
 
 彩色土器の牛頭意匠が宗教的想念を
 表したもであることは、
 アルパチア出土の碗形土器ですでに確認した。
 
 同遺跡は、チグリス川で沿いで、
 ケルメズ・デレ遺跡、ネルリク遺跡から
 少々南下したところに位置する。
 
 この遺跡の彩文土器の特徴は、
 これまで言及してきた碗形土器ばかりでなく、
 その他の鉢形土器に表された
 牛頭意匠やマルタ十字紋で、
 極めて宗教的色彩が強い。
 
 そのような彩色土器は
 犠牲や儀礼に使用されたと考えられよう。
 
 同遺跡の下層には方形の家屋、
 上層になると円形の建物が築かれていた。
 シンジャール山脈の南側に位置する
 ヤリム・テペでも
 
  サマッラ期(Ⅰ)
  ハラフ期(Ⅱ)
  ウバイド期
 
 に及ぶ遺構のうち
 Ⅱ期の遺跡から方形家屋と共存して
 円形建物が発掘されている。 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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第二章 埋葬儀礼 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 埋葬儀礼


    ザウィ・チェミおよびシャニダールの

 両遺跡では埋葬儀礼が

 すでに始まっていたことを指摘できる。

 

 シャニダール洞窟の墓地では、

 遺骨と共に小さな箱状に形作られた台座と

 思われる石が並べられていた。

 

 また、ザウィ・チェミの遺跡では

 円形の家やシャニダール洞窟で

 並列されていたのと

 同じ方形の石を配列した石囲いがもられた。

 

 これらの石の配列は

 葬送儀礼との関係を示唆している。

 

 何らか式典のような作業があったに違いない。

 

 埋葬儀礼の様子は

 次の原新石器時代の遺跡とされる

 モスールに近い

 ケルメズ・デレ遺跡ではより

 具体的にみえてくる。

 

 最も古い建物跡は、

 日本古代の竪穴住居のように

 地面を掘り込んで

 外淵を地面より高く土で盛り上げて

 壁を作った円形住居であったが

 その内部に石と漆喰でできた

 矩形の柱石状構造物と

 石の環状配列が残されていた。

 

 また、

 胴体をはずされた人間の頭骨が

 六体発見されたので、

 単なる住居でなく埋葬に係わる儀礼の場で

 あったことをうかがわせる。

 

 環状の石の配列は炉と考えられており、

 葬送に当り燔祭を行ったことを推測される。

 

 エリドゥの神殿の供物台の上で

 供物が焼かれたり、

 湯沸かし器で魚が煮られたことを思い出せば、

 この無土器の新石器時代においては、

 供物を焼くことが調理することであり、

 炉が調理の場であった。

 

 供物台の元祖であると

 考えてよいのではないだろうか。

 

 そうすれば、

 エリドゥの最古と思われる最下層から

 第四層の神殿建物の外に作られた

 円形の構造物をは

 火を焚いた炉または

 窯であったことが推測される。

 

 一辺三メートルに足らない建物の中で

 供物を調理することはできなかったのである。

 

 それに続く時代には神殿建物自体が拡大され、

 内部で火を使っても危険が無くなり、

 供物台上で焼いた痕跡が

 残されることとなったのである。

 

 柱石状の立体物は

 祭壇になる以前の神の依代であることが

 判ってくる。

 

 あるいは葬送の式礼の中で

 死んだ者の頭骨を

 その柱(台座)に置いて

 儀礼を行ったとも考えられる。

 

 頭骨を胴体から離し、別のところに

 しかも集落の一定箇所に埋葬するのは

 西アジアでの死者を葬送する方法として

 よく行われた慣習である。

 

 パレスティナ、レヴァント、

 そしてアナトリア高原の遺跡で

 一般化していた方法である。

 

 頭骨に塗装したり、

 飾り付けしたものさえ発見されている。

 

 このような儀礼については、

 一種の祖先信仰を表しており、

 祖先が死後も残されたものに対して

 強い影響を及ぼすため、

 祈りや犠牲を捧げることによって、

 鎮めねばならないと信じられていたというのが

 専門家による理解である。


M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第二章 角の崇拝 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 角の崇拝

 

  エリドゥ市のウバイド期の神殿建物の中から
 奇妙に曲がった釘状のものが発見された。
 
 先のラッパ状の飲み口のついた
 「魚湯わかし器」と同じ時期である。
 
 この遺物は頭の部分が先の方で曲げられ、 
 先端が尖っている。
 
 粘土製で焼成されているが、
 塗装されたものと素焼きのものとがある。
 
 発掘時の調査では
 壁に打ちつけられた様子は全くないので、
 その目的があったことは否定されている。
 
 その多くが 
 魚の骨などと共に
 神殿裏の土中に埋められていたので、
 やはり信仰に係わる役目を果たしたと
 専門家は推測している。
 
 彼等はこれを「角」と呼んでいるが、
 多分それが正しいと思われる。
 
 シュメル語は角のことを
 シ ši というが、
 基になっている絵文字によく似ている。
 
 この形象は羊の角を表すとみられる。
 
 メソポタミアを取り囲む山岳地帯で
 現在も飼われている雄羊の角は、
 牛や鹿のように起立することなく、
 頭の側面に従って下がって生える。
 
 しかも巻くこともなく先の方で
 顔面の方へカーブを取るのが大半である。
 
 よって、
 釘状の遺物は
 「雄羊の角」を象徴したものと考える。
 
 エリドゥの神殿への供犠は
 絶対的に魚であった。
 
 しかし、魚には角がない。
 
 人々はかって信仰の依代として
 崇めてきた動物のシンボルであり、
 
 崇拝の依代の代表であった角を
 粘土製の角で代用したと推測できる。
 
 海岸地帯でしかも湿地帯であった地域は、
 灌漑によって農地化し
 小麦などの穀物は生産できても、
 多量の牧草を要する家畜の飼育は難しく、
 頻繁に供犠するほど
 獲保できなかったのであろう。
 
 彼等の信仰には角が重要であったのだ。
 
 彼等の宗教的祖地は
 牧畜が行われていた地域に
 あったと考えられよう。
 
 シュメル語で羊飼いをシパ sipa と呼ぶ。
 
 この言葉は
 
 ヘブライ語で seber 、
 ドイツ語で Schäfer 、
 英語で sheperd となり、
 
 西アジアからヨーロッパにかけて
 広く使われている呼称である。
 
 羊は人間によって
 最初に家畜化された動物ともいう。
 
 紀元前九千年頃に羊は家畜化された。
 
 その痕跡を残すのが、先に触れたが、
 ニネヴェの南で
 チグリス川へ東方から合流する
 大ザブ川の上流、
 シャニダール川との合流点に近い
 ザウィ・チェミ 
 Zawi Chemi 遺跡である。
 
 ここの集落跡の最深層から、
 つまり、
 この集落の頭初の遺物の堆積から
 大量の骨類が出土したが、
 その大部分は赤鹿のものであった。
 
 野生の羊の骨も混じっていたが
 家畜化した動物の骨はまだ無かった。
 
 しかし、
 その上層の遺物から
 家畜された羊の骨が発見されたのである。
 
 山羊はまだ野生であった。
 
 この集落ではまた
 作物の栽培のための用具が発見されている。
 
 しかし、
 突然に表われたという様子で、
 この集落の人々が
 耕作を思いついたかどうかは解らないし、
 農耕集落の形とはえない段階にある。
 
 にもかかわらず、
 マックス・マロワンは、
 羊の家畜化と野菜の栽培の発生は
 大きな経済的革命を
 予告するものだと評している。
 
 ザウィ・チェミ遺跡のある
 北限イラクの東側の地域は
 前歴史時代の動物家畜化に係わる歴史に
 重要な役割を果たしたことが理解できた。
 
 そして、
 その後の歴史時代においても
 この地方の人々が時代のまにまに
 活発な活動をしたと考えられる。
 
 現在の地名にその文化遺産を残している。
 
 第一に遺跡で登場した Zawi は
 大ザブ川の Zab と同じく
 シュメル語の羊飼いと同根であると考える。
 
 大ザブ川沿いにある町ゼバル Zebar 
 は羊飼いの町であり、 
 ハリル山系の東端の延長の山々
  Spilik 山地の名称も羊飼いと関係があろう。
 
 ゼバルから南方のイランとの国境方面の町
  Ramandiz は牡牛(英語 ram )。
 さらに南方の Arbil は赤鹿、
 この赤鹿の名はザクロス山脈の南方になるが、
 スーサを中心としたエラム Elam 、
 そしてその地方名
 ルリスタン Luristan に反映している。
 
 町 Gawra は鹿の角の意である。
 Gawra は
 
 ギリシャ語の κερος
 ドイツ語の Gehörn
 英語の Corn と同根語である。
 
 『旧約聖書』創世記に記される
 エデンを流れ出た川が
 四っに分流したうちの一つである
 ギホン Gihon 川は
 このガウラを流れる
 大ザブ川の別称であると考えられる。
 
 大ザブ川沿いの町ゼバルから
 上流へ遡及してしばらくすると
 北方のトルコから国境を越えて
 英語名シャニダール川、
 現地名ではシャムディルナ川 
 Shamdrna (シャムディの川)が合流する。
 
 その川の上流国境を越えたトルコ領内には    Shamdr 山があり、
 山の東方に Samdinli の村がある。
 
 この深い峡谷のイラク領の一角に
 シャンデル洞窟があり、
 ザウィ・チェミ遺跡と
 同時期の遺物が発見されている。
 
 ザウィ・チェミ遺跡あたりの人々が
 冬の寒い季節に登って来て
 この洞窟を住居としたのではないかとの
 見解が出されている。
 
 洞窟内から二十六体の人骨が
 発見されたために有名になったが、
 この洞窟は墓地として使われたのである。
 
 ところで、
 Shamdr の語幹となる語は
 シュメルの šum と同根であると考える。
 
 絵文字に表される 
 Sam の意味は「咽を切る」で、
 「虐殺する」あるいは「屠殺する」である。
 
 さらに「供与する」の意味まで含まれる。
 
 語尾 dr は「~する人」あるいは
 「~する者」の意である。
 
 Shamdr はサンスクリットは取り込まれて、
 祝祭における屠殺者 šamitr となっている。
 
 犠牲獣を屠殺し解体して調理するのが
 その役目である。
 
 以上のように山狭の一角に
 羊を家畜化した最古の地に関係ある地名が
 集中してみられるのである。
 
 羊の家畜化を始めた人々が、
 その羊を屠殺することに
 特別の想念を興しただろうことは
 容易に想像できるが、
 当地域付近から羊に対する崇拝や
 祝祭に関連ありそうな遺構や遺物は
 いまのところみつかっていない。
 
 また、
 ザウィ・チェミ、シャニダール洞窟の文化が、
 地域において後世へ継承されたかについて
 専門家は考古学的確証を得ていないので
 否定的である。
 
 さらに、
 この山狭で屠殺に関連した宗教的儀式が
 成立したとはいえない状況である。
 
 しかし、
 この地域の羊飼いたちは
 流動性を持った生活者であった。
 
 トルコのヴァン湖周辺の黒曜石や
 現在の地名でも「銅の町」意味する
 ダイヤルバギル市の北にある
 エルガニ・マデンから粗銅を
 また、
 イラクのアルビルよりさらに南へ離れた
 キルクークから
 アスファルト用の瀝青を手に入れている。
 
 彼等は文化を伝播させる行動力を
 十分備えていたと判断してもよいだろう。
 
 シュメル語で売買する意味の用語は 
 šam である。
 
 発音が šum に近似している。
 
 貨幣にによる交換はなく、
 物々交換による
 交易であったに違いない時代、
 羊飼い達は羊を追いながら遠出を行い、
 物々交換が成立すると羊を屠殺して
 手渡しを行ったのかもしれない。
 
 屠殺者は売買人なのである。
 
 羊飼い達は、
 彼等の流動性を生かして
 次第に商人としての性格を
 確保していったと十分考えられる。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器

 

 エリドゥに神殿を建てた人々とは
 どのような人々であったか。
 
 エリドゥ市の成立の過程から、
 人々がここに来てから神殿を建てる信仰心を
 獲得したと考えるのは難しい。
 
 やはり、移住してきた第一の先住民が、
 彼等の生活思想として持ち込んで来たと
 考えるのが妥当であろう。
 
 エリドゥ市が成立した
 ウバイド期のうちに同市と共通した文化風土を
 持った遺跡文化を他の地に求めざるを得ない。
 
 メソポタミアの開明の舞台となったのは
 ペルシャ湾近くの両大河の河口地域ではない。
 
 両河の源であり、
 この平野を取り巻く山脈と平野との境界地帯で
 あった。
 
 レバノン山脈、
 トルコのタウルス(トロス)山脈から
 アナトリアの山岳地帯、
 イラク北端のシンジャール、
 ハルルの両山脈、
 そしてイランのザクロス山脈へと山塊は連なる。
 
 これらの山々に育まれて
 人々は文明への胎動を始め、
 揺籃期を送ったのである。
 
 チグリス川の支流、
 大ザブ川のそのまた支流シャニダール川に
 近い新石器時代の集落で
 羊の家畜化を始めたのは
 紀元前九千年期の初期であった。
 
 マイケル・ローフの資料によると、
 北方の山地一帯には
 野生の大麦小麦が分布していた。
 
 また
 羊やヤギ、鹿などの生育に適した土地でも
 あった。
 
 そのような環境の中、紀元前七千年期には
 天水農耕を利用した集落が形成され始め、
 土器が作られるようになった。
 
 その土器新石器時代初期を
 原ハッスーナ文化という。
 
 そして
 紀元前七千年期半ばになると
 土器製作に発達がみられ、
 
 単調なものから、
 彩文刻文を持つ洗練された土器が
 作られるようになった。
 
 これを
 原ハッスーナ文化の発展したものとの判断から
 ハッスーナ文化という。
 
 この名称は
 ニネヴェの南方チグリス川と大ザブ川の合流点の
 わずか西方に位置するハッスーナに因む。
 
 紀元前七千年期の終わり頃になると、
 このハッスーナ文化の中から
 新しい形式の土器が作られるようになる。
 
 焼成精度は向上し、
 チョコレート色の彩文が見事に描かれたのが
 象徴である。
 
 この文化の範囲は大きく広がり、
 西方はハブール川近くバグーズまで、
 東方はイランのザグロス山脈、
 そして
 南方はチグリス川下流のサマッラ市、
 さらにそこから
 東南の遺跡チョガ・マミまで至った。
 
 遺跡名サマッラがこの土器文化の呼称とされた。
 
 サマッラ期の大きな事件は、
 人々がかなりの距離の運河を掘り、
 それを維持する灌漑技術を習得したことである。
 
 サマッラ文化の南端に位置する
 チョガ・マミ遺跡で運河跡が見つかっている。
 
 この灌漑用水路発見されている
 運河の最古のものである。
 
 遺物の中には大麦などに天水農耕期とは違う
 新しい改良品種の作物もみられ、
 天然の品種より実の太りがよくなって
 収穫量の増加を来しただろうことの
 証拠とみられる。
 
 灌漑技術は天水農耕地帯に増収穫が、
 雨の少ない地帯でも農耕できる
 農地開墾が可能となった。
 
 紀元前六千年頃になると、
 ハッスーナ文化は
 ハラフ文化に取って替わられる。
 
 この文化はサマッラ文化よりさらに広い地帯に
 影響をもたらした。
 
 天水農耕の南限に沿って
 西方はユーフラテス川の最西を越え、
 現在のアレッポ辺りまで、
 
 南東はザグロス山脈まで達した。
 
 この期には土器製作に技術的向上がみられ、
 二室構造の窯で焼成した彩文土器は
 見事であった。
 
 粘土の質も粒子がきめ細かく、
 色彩はサーモン・ピンクが多かった。
 
 ただ、
 この広い分布圏内には土器形成の異なりが
 地域によって表れることから判断して
 同一民族が
 その担い手であったとはいえないという見解を
 マイケル・ローフは述べている。
 
 ハラフの名称は
 ハブール川とその西方ユーフラテス川との
 間にある
 ウルファ市に近い遺跡名テル・ハラフに因む。
 
 ハラフ文化の後にやってきたのが
 ウバイド文化である。
 
 その分布範囲には
 エリドゥのあるペルシャ湾沿岸から
 チョガ・マミの辺りまで
 両大河の周辺に限られた狭い地域である。
 
 その最古の遺跡は
 紀元前五千九百年頃までに遡及するとされる。
 
 このエリドゥの最古の遺跡から始まる時期を
 ポラダの編年表ではエリドゥ期と呼んでいた。
 
 この文化の象徴は
 サマッラ文化との類似が
 みられるという点である。
 
 ロンドン大学のジェイムス・メラート教授は、
 サマッラ文化の顕著な広がりが
 南メソポタミアやフジスタンを中心として
 みられ、
 エリドゥなどの遺跡が
 サマッラ中期・後期文化の大きな影響を
 受けていると指摘した。
 
 さらに
 北メソポタミアでは天水農耕が可能であるが、
 南メソポタミアは灌漑をしないと
 農耕が不可能なのであり、
 この灌漑農耕によって
 シュメルやアッカドの文明が
 可能となったといえようとも述べている。
 
 灌漑技術の発明は
 人々の生活に革命的変化をもたらしたのである。
 
 その最高の技術は単に人から人へ、
 地方から地方へ
 伝播されたというのではなく、
 
 技術者達が賢者として移動していったと
 十分考えられる。
 
 サマッラ文化のエリドゥへの影響について、
 マックス・E.L.マロワンも
 「ケンブリッジ古代史」の中で
 
 「エリドゥの陶器が持つ重大性は疑いもなく
  かなり北方のサマッラと知られる
  彩文土器のグループから
  影響を受けていることである」
 
 と述べている。
 
 西アジアの土器は彩文土器が多いことに
 特徴があり、
 メソポタミアではハッスーナ期から
 刻線文などの幾何学紋が頻繁に使われた。
 
 サマッラ文化以降には
 動物や植物の意匠をほどこしたものが
 増大したほか、
 物語を意匠として展開させた平皿なども
 みられるようになった。
 
 サマッラ土器に卍字紋が
 たくさん用いられている点は見逃せない。
 
 卍字紋とは、
 マルタ十字紋様、
 鉤十字紋を幾何学図形・動物意匠、
 時には植物とみられる意匠で紋様化したもので、
 宗教的表現と判断できるものもある。
 
 古代ギリシャでいうブクラニオン、
 牡牛の頭を正面からみた形も角を
 長く強調して描かれている。
 
 動物の中ににはレイヨウが
 抽象化された形で多く描かれている。
 
 ハラフ期初期の彩文土器になるが、
 イラクの考古学者
 イスマイル・ビジャラ(ISMAIL HIJARA)が
 1976年に報告した:
 
 IRAQ VOLUME XLII PART2 AUTUMN 1980  ARPACHIYAH 1976
 by ISMAIL HIJARA AND OTHERS 
ARPACHIYAH1976.jpg
  ※ARPACHIYAH 1976 ISMAIL HIJARA AND OTHERS
 
  ※アルパチヤ
 アルパチヤ遺跡出土の碗形土器に描かれた
 彩文土器意匠には驚きがある。
 
 日本の神社に酷似した
 建物意匠が描かれているからである。
 
 アルパチヤは
 ニネヴェのすぐ東に隣接する遺跡である。
 
 建物意匠ばかりでなく、
 この碗形土器には宗教的物語が語られていて
 興味深い。
 
 図の第一段には牛頭の正面、
 マルタ十字、蛇とマルタ十字、
 さらに二人の人間とその身長より大きい壺、
 
 第二段には半面の牛頭と幕と思われるものに
 二人の髪の長い女性。
 
 第三段には二頭の牛と矛を背に負い
 弓を手に持った狩人、
 
 幕と思われる布、
 そして第四段円の中には
 斜めの階段つき高床式建物を描いている。
 
 この建物の構造は
 日本の神社の本殿そのものである。
 
 メソポタミア北部のしかも
 紀元前六千年期の神殿が
 日本の神殿とどう結びつくのだろうか。
 
 また、この碗形土器を紹介する
 増田精一は
 
 「西アジアでは、
  布幕はその背後に聖なるものの存在を
  象徴する時に用いられる」
 
 とコメントしているが、
 日本の神殿においても垂幕はつきものである。
 
 この碗に描かれた布幕の内に坐す神は
 どのような存在なのだろうか。
 
 今のところその神名は不明である。
 
 さて、サマッラ文化・ハラフ文化の彩文土器に
 表現された卍字紋意匠、
 正面向きの牛頭意匠は製作者たちの
 共通な想念によっていると考えられる。
 
 卍紋は
 サンスクリット語で svastika 
 スワスティカという。
 
 スワは吉兆の意、
 スティカは
 英語でいうステッカーで形象のことである。
 
 日本で仏教寺院のマークと決め付けている
 卍字紋は元より、
 多くの神社が神紋としている巴紋も
 この範疇に入ることは明らかである。
 
 この卍紋が使われた
 サマッラ・ハラフの両文化の分布するセンターが
 後に紀元前三千年期以降になってからではあるが
 カルトゥ、スバル人の国と呼ばれたことを
 想起していただけると思う。
 
 卍紋とスバル人とを結びつけることは
 できるだろうか。
 
 メソポタミア北方に生まれた
 サマッラ・ハラフ両文化の陶器に
 表された彩色紋様が南メソポタミアへ伝播し、
 影響したことは確実である。
 
 多様な紋様のうち幾何学意匠は
 紀元前五千年期初めのウバイド期初期から
 エリドゥ、ウルまたその近郊の
 テル・ウェイリ遺跡などに表れ、
 紀元前三千年頃まで、
 専門家がいうウルクまで続いた。
 
 そしてこの間
 南部の陶器製作者は
 北部から影響され続けたのである。
 
 エリドゥ市の神殿跡から発見された
 ラッパ状の長い飲み口を付けた
 フィツシュ・ケトル(魚湯わかし器)と
 称される容器の同類が
 ニネヴェの北に位置する
 テペ・ガウラの遺跡からも
 発見されていることからも解る。
 
 テペ・ガウラのものの方が製作時期が早い。
 
 メロワンは、
 この比較をもって
 南部メソポタミアの陶器が
 北方から影響を受けたとことの
 証拠としている。
 
 
M.K記

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第二章 エリドゥ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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《第二章 エリドゥ
 
 紀元前五千年紀に神殿が
 エリドゥに建てられ始めたという事実は
 重要である。
 
 シュメルの楔形文字文書の中に
 『王名表』がある。
 
 この地を支配してきた
 原初からの歴代王朝の記録で、
 現存する最古の写本は
 前二千年紀初頭作成されたものである。
 
 この写本を紀元前四世紀になって
 
 バビロニア人でベロッソスという書記が
 
 転写した写本は
 
  "[nam]-lugal an-ta èd-dè-a-ba
   [eri]duki nam-lugal-la"
 
 「王権が天より下ってきたのち、
  エリドゥ市が王権の(所在地)となった」
 
 から始まっている。
 
 マイケル・ローフによると
 エリドゥについて叙事詩が語る。
 
  葦は生えていなかった。
  木はできていなかった。
  家は建てられていなかった。
  都市はできていなかった。
  大地はすべて海であった。
  そして、
  エリドゥがつくられた。
 
 エリドゥの地は何もない処女地であり、
 ここに初めて王権を保持した人々がやってきて
 家々を建て集落を形成し
 都市を築いたというのである。
 
 先に述べたとおり、
 エリドゥは本来シュメル語ではない。
 
 「降臨の地」という解釈もできよう。
 
 「リドゥの神殿」とも解釈できる。
 
 「エ É 」がシュメル語で
 多用される家ないし神殿を、
 
 日本語でいうところの「イエ」で、
 リドゥ ridu をリタ rta と解釈できる。
 
 紀元前二千前紀に北メソポタミアで活躍し、
 専門家によっては
 スバル人の別名として扱われている
 フルリ人が信奉する神名の一つである。
 
 エリドゥの神殿はウル・ナンム(地名)で、
 その遺構が発掘された。
 
 ウバイド期から十八回の再建が行われ、
 最古の神殿は建物遺物があるだけで
 本当に神殿かどうか疑わしいが、
 その上に建てられた
 第二の神殿は確かなものである。
 
 薄い壁で造られた
 二・八メートル四方の小さな
 礼拝祠堂という方が似つかわしい。
 
 それも一部の壁が欠落したり、
 内部の配置など建前が不完全で
 実際あった様子がみられない。
 
 第三の神殿になって、
 第二の神殿より若干敷地面積が大きくなり、
 建物の見取が判明してくる。
 
 部屋の中に祭壇と供物台が一つずつ据えられ、
 時代の経過と共に建物規模は拡大され、
 祭壇の位置が奥の壁に着けられていることに
 変わりがないものの、
 祭壇と供物台との間は広げられ、
 この中央の広間で礼拝に係わる祭事が
 行われたことを推測させる。
 
 また、
 神殿は常につき堅められた土台の上に
 建てられている。
 
 この土台の高度化が後に聖塔(ジックラト)へと
 発展したのだとの理解がされている。
 
 祭壇と供物台が対になっているのも
 その後のメソポタミアにおける
 神殿構成上の基本的要素となっている。
 
 大きな建物が造築されるようになると、
 補強のため
 外側に扶壁がつけられるようになるのも
 特徴である。
 
 供物台も、単に供物を置いただけでなく、
 台上で犠牲を焼いた痕跡の確認された
 遺構もある。
 
 建物の外には炉跡が最古の神殿の時代から
 掘られていた。
 
 その形は建物の壁と同様
 日乾煉瓦で固めた円形であった。
 
 現在、
 イラクのどこにもエリドゥの都市名はない。
 
 古代の名を現在までそのまま受け継いでいる
 ウル市の南にある
 テル・アブ・シャハラインが遺跡地である。
 
 古代においては
 ペルシャ湾はこの辺まで入り込み、
 エリドゥはその海岸近くに建てられたのである。
 
 供物だったものの中に魚の骨が
 多くみられるのもそのためである。
 
 エリドゥを建てた人々がどのような人であったか
 実際のところ明らかでないが、
 
 この地方への第一の移住民であったことは
 確かである。
 
 近郊のウル市も同時期かそう遅からず
 創建されたところであるが、
 
 後世には建造されたが、
 頭初には神殿の造築がなかったので、
 両市が連携していたのではないかとの推測が
 なされている。
 
 その後紀元前三千年頃、伝承ではあるが、
 海の方からか東南のペルシャ高原からか、
 シュメル人といわれる
 頭の黒い人々がやって来る。
 
 彼等もその素性はよく解っていない。
 
 現在彼等と言語の性格を同じくする言語は
 他に捜し得ていないので
 膠着語の仲間に入っている。
 
 シュメル人は、
 前三千年紀のうちに西北方から圧し寄せてきた
 アッカド人を始めとする
 セム系民族に吸収されるか、
 あるいは外地へ移動したのか、
 前二千年紀が始まる前とは
 固有集団としての動きを
 この地域から全く消してしまった。
 
 「シュメル」の呼称は
 アッカド時代になって表れるが、
 本来土地の呼称で彼等自身は
 キ・エン・ギ Ki.en.gi と呼んだ。
 
 それは葦の土地(葦原)の意であった。
 
 シュメル人は
 第一の移住者たちの文化を
 拒否したわけではなく、
 その伝統を引き継いだ。
 
 そして革新・発明も行った。
 
 その例が文字の発明であり、
 神話の集大成であった。
 
 第一の先住民が移動してきた
 紀元前五千年紀のウバイド期から
 文書が書かれた粘土板ができるまで
 二千年の年月が経っている。
 
 文書の遺留物のうち、
 我々にみられるようになったのは
 ウルク市から発見された
 絵文字の粘土板がその嗃矢(最初)である。
 
 シュメル語での判読はされているものの、
 その当時これらの文書を使った人々が
 何と読んだかは
 今のところ専門家の努力にもかかわらず
 不明である。
 
 しかし、
 これらの絵文字は
 楔形文字の原型と考えられている。
 
 ウルク市は現在のワルカ市(ワルカ遺跡)
 シュメル時代はウヌ unu と呼ばれ、
 
 旧約聖書にはエレクと記述されている町である。
 
 エリドゥと同じく
 市名の基になっている意味は
 諸説考えられているが不確定である。
 
 私見では、
 絵文字が発見された土地であることを
 第一の理由として
 
 「言語」ないし「書き言葉」
 
 つまり文字を表しているのがウヌの原語である。
 
 
M.K記

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第二章 バビロニアの新年祭 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 バビロニアの新年祭
 
 新バビロニア時代
 (紀元前六二五年~五三九年)
 バビロン市で毎年行われた
 新年祭での神殿における祝宴の最中
 朗誦された
 市の守護神マルドウク神への
 賛歌を紹介する。
 
 バビロンの『創世神話』と呼ばれる
 
 『エヌマ・エリシュ』の
 クライマックスとなる部分である。
 
  〔マルドウクは〕後ろからついて来た
  「悪魔」を彼女の顔に吹きつけた。
 
  ティアマトが彼を飲み込もうとして、
  口を開いた時
  彼は「悪風」を送り込み、
  彼女が口を閉じられないようにした。
 
  凶暴な風は彼女の腹に突撃したので、
  彼女の体は膨張し、
  彼女の口は大きく開いた。
 
  彼が矢を放つと、
  それは彼女の腹を引き裂き、
  それは彼女の内臓を突き通し、
  その心臓を断ち割った。
 
  このようにして彼女を征服し、
  彼は彼女の生命を断った。
 
  彼は彼女の死体を投げ倒し、
  その上にたった。
 
 マルドウクとティアマトの戦いの最終場面で、
 この一節が朗々と轟くと周囲の聴衆から
 「オウー」といった歓声が聞こえてきそうだ。
 
 ティアマトとは塩水を意味し、
 海を表すアッカド語である。
 
 ティアマトはここでは魔物として登場する。
 
 最後の一節はドゥルガーを圧倒した
 デーヴィー女神の勝ち誇った有様と
 全く同じく死体を投げ倒し、
 つまり
 伏せてその上に立ったという表現になっている。
 
 インドの「デーヴィー・マハートミヤ」の
 クライマックスと同じであることが
 確認できる。
 
 また、「エヌマ・エリシュ」神話では、
 マルドウク神が
 どのような理由により
 バビロン市の王位を
 掌握することになったかの経緯を
 述べるのが主題であるが、
 デーヴィー女神が他の神々によって
 魔物マヒシャと戦う任務を
 担わされることになったと同様、
 マルドウク神も他の神々の集会によって
 魔物ティアマトと戦う任務を
 与えられることになったのである。
 
 「デーヴィー・マハートミヤ」では、
 その経緯の重要性を
 さほど重大なことと
 解釈しているようにみえないが、
 「エヌマ・エリシュ」における
 マルドウク神の場合は、
 神々の集会で推薦され魔物と戦い退治して
 勝利したことにより
 王位に就くという決定的な
 教訓が含まれており、
 バビロン市が
 どうしてマルドウク神を
 都市神としているかを
 教宣しているのである。
 
 ここに引いた
 「エヌマ・エリシュ」の一部は
 紀元前三〇〇年頃の
 比較的新しい粘土板文書によるものである。
 
 この創世神話はけっして新しくはない。
 
 ジョン・グレイは
 
 「現存する最古の断片は
  前一千年紀のものであるが、
  その神話は言語や文体から判断して
  前二千年紀初頭の原本に
  遡り得ることは確実である」
 
 といっている。
 
 前二千年紀の初頭とは
 セム系民族のアッカドの人々が徐々に
 西北方から葦原である
 両大河の河口方面へ在り、
 先住の民族と摩擦を起こしていたが、
 前二三五〇年に
 サルゴン大王により
 遂にシュメルの諸都市を圧倒し、
 彼等の帝国を成立させ、
 アガデに彼等の都市を建設した頃である。
 
 ティアマトとは
 塩水の海の意であると紹介したが、
 シュメルの諸都市にとっては
 原初的な神々の母神
 フブルの別称でもあった。
 
 アッカドの人々の神である
 マルドウク神が湿地
 つまりシュメル原初的母神を
 圧倒したというのは、
 シュメルの諸都市を
 治下に敷いたという
 事跡の象徴であったのだろうか。
 
 マルドウクの
 マル maru は息子の意、
 ドゥク dug は壺の意味である。
 
 メソポタミアでは
 壺を持った神像が多く造られた。
 
 神の壺から流れ出る水は
 塩からい潮水ではなく、
 淡水で甘い水である。
 
 人々に豊饒と安らぎをもたらす
 神の恵みである。
 
 マルドウク神はそのため
 アッカド語で エア Eá 、
 シュメル語のエンキ Enki 神の
 息子とされる。
 
 エンキ神は「地の神」の意であるが
 水神である。
 
 地を掘ると淡水が湧き出てくる
 井戸ないし泉の神というのが
 専門家の見解である。
 
 シュメルの万神殿には三大神がおり、
 
 「天空の神」アン An 、
 「大気の神」エンリル Enlil 、そして
 「水の神」であるエンキ神である。
 
 少々混沌とするが、
 シュメルの人々にとって
 原初的母神と述べたフブルは
 アン神の父祖神といわれる
 アンシャル神とともに
 もう一つ古い世代の神で
 あったと考えられる。
 
 シュメル人がこの地にやって来て
 活躍したのは
 紀元前三千紀である。
 
 それ以前紀元前五千年紀に
 第一の先住民が移住してきてから
 二千年が経過した頃である。
 
 第一の先住民が集落を作り、
 神殿を建てた都市
 エリドゥの名称もシュメル語ではない。
 
 第一先住民の移動し定住した時期を
 専門家は一般にウバイド期と呼んでいる。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第二章 供儀の起源 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]


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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 供儀の起源
 
 ドゥルガー女神の乗物は虎である。
 
 虎はサンスクリット語で bagh という。
 
 インドの西部ヴィンダヤ山脈の西方に
 Bagh と名付けられた町がある。
 
 古い石窟で知られた町である。
 
 虎を神格化した所がインドにはかなりある。
 
 しかし、
 ドゥルガー女神との関係は
 特に認められない。
 
 そして、
 イラクの首都バグダッド 
 Baghdad 市を想起せざるを得ない。
 
 「虎の都」の意である。
 
 しかも、
 そこを流れる河がチグリス Tigris 川で、
 これはギリシャ語化された呼称、
 英語でいうところの Tiger 、
 つまり虎の名が付いているのである。
 
 どうしても興味を
 古代メソポタミアへ移さざるを得ない。
 
 メソポタミアとは、
 「二つの川の中央」を意味する
 ギリシャ語を地方名としたものである。
 
 古代メソポタミア文明は
 現在のイラクと
 シリア、トルコ、イランの地籍の一部を
 含んで発展拡大した文明である。
 
 イラク国では
 ペルシャ湾に近い地方をシュメル、
 その北をアッカド、
 その北方のバグダッドを
 中心とする地帯をバビロニア、
 そのまた
 北方シリア・トルコ・イランの
 国境に挟まれたモスールを
 中心とする地帯をアッシリアと呼んでいる。
 
 歴史的時代区分の呼称も
 この地方名の南からの序列で
 呼ばれてきたのである。
 
 シュメル前代は紀元前三千年代、
 アッカド時代は紀元前二三五〇年から
 バビロン王朝の時代は
 紀元前一八三〇年からとされている。
 
 一方北方では
 スバル人がシュメル前代より
 勢力を持っていたと考えられるが、
 紀元前二千年ころから
 アッカドの勢力と
 スバル人の一部が混合して
 
 古アッシリア、
 中期アッシリア、
 新アッシリアと
 
 三回にわたり
 メソポタミア中原に覇をとなえた。
 
 この間栄枯盛衰は
 激しいものがあったが、
 紀元前五三九年に
 新バビロニアが
 イランのスーサから興った
 ペルシャ帝国によって滅亡させられて、
 
 メソポタミアの古代文明の時代は
 終わりとなった。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第二章 メソポタミアと牡牛 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 メソポタミアと牡牛
 ドゥルガーという
 もう一つの尊称を得た
 デーヴィー女神に関する要件で
 さらに疑問が生じる。
 
 女神に刺し殺される悪魔は
 なぜ水牛ないし牡牛の姿なのか
 などの疑問である。
 
 この疑問に対しても
 魔女ホーリーの原像の考察とも
 同様であるが、
 インドの資料だけを分析しても
 その本当のところは
 解ってこないだろうという見解を持つ。
 
 他の文明地域の資料の中に
 データ収集・分析するのが
 望ましいと判断する。
 
 デーヴィー女神が
 虎を乗物としたこと、
 三叉の矛で突き立てる相手が
 水牛ないし牡牛の姿であること、
 伏せて圧え倒して足踏みにし、
 その上に立つ行為などの
 根幹をなす主題に
 モデルがあったのではないかという
 考察をしたいのである。
 
 プロトタイプ化した伝承があり、
 それがインドにも移植され、
 独自の環境の中で
 徐々にいろいろな装飾が付けられて
 インドらしい物語に
 成り立ってきたのだろうという
 仮題が提起されるのである。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼
 インドにおいては、
 一年のうちで
 全土的に重要な伝統的祭礼がもう一度ある。
 
 一月中旬の
 マカラ・サンクランティ 
 Makara samkranti である。
 
 太陽が黄道上の南から北へ入る日を
 吉祥の日として祝うのである。
 
 太陽暦の一月十五日、
 日本ではいう旧正月がその日に当たる。
 
 ヒンドウーの暦で
 太陽が星座にいうマカラ宮に
 移転 samkranbi する。
 
 つまりマカラ月が始まることから、
 この吉日は
 マカラ・サンクランティと呼ばれる。
 
 この日聖地においては沐浴すると
 罪、穢れが消えるという。
 
 さて、
 日本で一月十五日に古来行われてきた行事に、
 宮廷における左儀杖、
 また地方により呼称が異なるが、
 三九郎・どんど焼ある。
 
 左儀杖は三毬杖とも書かれ、
 禁中清涼殿の東庭で
 青竹を束ね立て毬打三個をゆわえつけ、
 吉書を添えて扇子、短冊ともどもに
 謡いはやしつつ
 火をつけ燃え上がらせたという行事で、
 市中の巷間で一般的に長い竹数本を立て
 正月の門松、注連(しめ)縄、
 書初めなどを地域ごとに寄せ集めて焚く。
 
 その火で餅を焼く風習があり、
 これを食べれば病気や災難などを
 除けられるという。
 
 三九郎・どんど焼は
 長野県で使われる名称である。
 
 この左儀杖と三九郎は
 実はサンスクリットに祖語を持ち、
 しかも同一語から転訛したものである。
 
 ここまで述べてきた
 インドの祭礼でいうところの
 サンクランティ 
 Samkranti/Sankranti がそれである。
 
 この用語はタイの三月中頃、
 ちょうどインドのホーリー祭の頃
 行われる水かけ祭 
 ソンクラン 
 Songkhla/Sankrandhi ともなっている。
 
 タイでは
 一週間国中どこへ行っても
 同様に色粉や水をかけ合う。
 
 最近は水ポンプで豪快にかけてくる。
 
 自動車のフロントガラスも
 赤粉で前が見えなくなる。
 
 それは、ともかく、
 左儀杖は、
 中世に左儀打とも書かれたが 
 (S)an(k)ran(t)I
 の三音を取ったもの、
 三九郎は、
 (S)(a)(n)(k)ranti の四音を
 取ったものである。
 
 どんど焼は左儀杖のサンスクリット語 
 danda の転訛したもので、
 杖のほか棒、竿、木を意味することは
 すでに述べたところである。
 
 この行事は
 ホーリー祭の主旨に同ずるもので、
 返ってホーリー祭の原点を
 補足説明をもしているのである。
 
 南インドでは、マカラ・サンクランティの日
 ポンガル Pongal という収穫祭が行われる。
 
 その主旨内容はホーリー祭に似ている。
 
 インド亜大陸の南端
 タミル・ナードゥ州がその中心であるが、
 スリランカのタミル人の間でも行われる。
 
 先に紹介したジャフナ市はその北端の都市で
 タミル・ナードゥ州と海峡を隔てて
 向かい合っている。
 
 牛小屋を焼いたのも
 実は一月十四日ポンガルの日のことであった。
 
 タミルと日本語との関係はもちろん、
 ポンガルと日本の民間風習
 との関連についても
 『日本語以前』に詳しいが、
 これら伝統的慣習の日本との対比は
 タミルに限られない。
 
 地域限定をはずしても貴重な報告である。
 
 信濃の三九郎について
 昭和三十二年(1957年)頃
 採集した記録の中から
 若干取り上げておきたい。
 
 三九郎を組み上げるための
 竹あるいは松の木は
 三・五・七の奇数本でなければいけない。
 
 この木は先にある枝葉だけは残して
 林から切り出される。
 
 正月の七日各民家で外された角松や注連縄を
 子供達が集めて小屋風の組立建てる。
 
 七日から十五日までの七日間、
 この小屋の中は
 子供達の寒さ除けの遊び場となる。
 
 どんど焼きの当日は、昼中の十二時、
 人々が各戸で正月の七日の日に
 米粉を練って丸め柳の枝にさし、
 家内の神棚などに掲げられていた
 繭玉という餅を持って集まって来る。
 
 火の点けられた三九郎は
 角松の油脂で炎がよく上がる。
 
 火炎が落着くと
 人々は繭玉を焼いて食べるのが楽しみである。
 
 信濃のポンガルについて、
 『日本語以前』は
 江戸時代の学者・菅江真澄が
 天明四年(1784年)に
 信州を旅した日記
 『すわのうみ』に
 ひろった鳥追いの歌詞を紹介している。
 
   今日は誰の鳥追、
   太郎殿の鳥追か、
   太郎殿の鳥追か、
   己(おら)もちと追ってやろ、
   ホンガラ、ホ
 
 昭和三十二年に長野県塩尻市で
 採集された歌詞を上げておく。
 
   今日は誰の鳥追いじゃ、
   太郎次郎の鳥追いじゃ、
   おれもちっと追ってやれ、
   ホンガラ、ホーイのホーイ
 
 子供達は歌いながら集落内の道路を
 東西南北歩き回るのである。
 
 集落境で隣り集落の子供達と
 ぶつかり合うと大変だ。
 
 追いやって来た災いの鳥たちが
 また舞い戻ってしまう。
 
 そこでゆずり合うわけにいかないので
 喧嘩となるのは止むをえない。
 
 しばらく騒いでさっと別れる。
 
 そうすると驚いた鳥たちは
 どこかへ行ってしまう。
 
 思金(兼)神の解説で
 信濃への
 サンスクリット語文化の流入を紹介したが、
 三九郎・どんど焼の原語も
 同様であったのである。
M.K記

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第一章 ホーリー祭 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
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《第一章 ホーリー祭

 ドゥルガー・プージャーが
 デーヴィー女神を賛美する
 豊穣祭であることが明らかになった。
 
 この祭礼は毎年九月下旬秋分の日
 (太陽暦九月二十三日頃)を
 はさんで行われる。
 
 また、
 この祭礼が大麦と関係が深いとみえてきた。
 
 実は、
 祭礼の終わった後、
 西インドでは
 大麦、小麦などの麦の耕作期を迎える。
 
 十月から十一月が播種期で
 翌年の三月・四月に収穫期がやってくる。
 
 その三月、
 春分の日(太陽暦三月二十一日頃)を
 はさんで行われるのが
 ホーリー Holi 祭である。
 
 インドのヒンドゥー暦(インド国定暦)での
 十二月大晦日と新年の一月一日が
 やってきて正月となる。
 
 インドのヒンドゥー暦の最終月は
 バーグン月というが、
 その満月の夜、つまり大晦日の夜に
 街や村の路地に枯木、古布、古い家具を
 積み上げ、
 魔女ホーリーになぞらえて
 火を燃え上がらせる。
 
 魔女ホーリーの名に依って
 ホーリー祭と呼ばれる。
 
 しかし、この魔女ホーリーの実像は
 いろいろの説があって実のところ解っていない。
 
 地方ごとに解釈が異なり、
 ドゥルガー女神のように
 地方によって名前が変わっても
 明らかに同女神であることが解るような
 共通性がみえていない。
 
 最もよく知られる伝承は、
 ある魔王が
 信心深い自分の息子をうとましく思い、
 自分の妹であり不死身だと知られた
 ホーリー(ホーリカー)が
 その息子を抱いている時
 火をかけ焼き殺させようとしたが、
 反対に妹が死んでしまい、
 息子は信心深さ故に
 助かったという神話である。
 悪いものを焼き滅し、
 信心深い者あるいは善いものの
 残り盛んになることを
 祈願する祭であると解釈されている。
 
 翌日が正月で、
 新しい月名は
 チャイトラ Caitra といい、
 月替わりのことを
 チャイトラ・サンクランティ 
 Caitra-Samkranti という。
 
 「チャイトラ月への移転」という味である。
 チャイトラは火神アグニと関係するので、
 この祭礼で魔女を殺すことと係りがある。
 
 さて、
 ホーリーはカナアン神話と
 関連がありそうである。
 
 カナアンとは、
 シリアの古代名で
 旧約聖書にいわれる地名である。
 
 ラス・シャムラで
 発掘された粘土板の神話のなかで
 冥界の神そして語られる
 ホロン Holon と関係すると思うのである。
 
 ラス・シャムラは、
 古代名ウガリットで、
 シュメール(シュメル)の時代から
 フルリ人の影響を受けたとみられる。
 
 特に彼等が支配者階層を占めたとみられる
 ミタンニ時代には商業市として
 経済を支えた地中海沿岸の港湾都市である。
 
 ジョン・グレイ『オリエント神話』によると、
 その粘土板には太陽の女神が
 大地から暗闇を取り去るように
 懇願されることによる詩句から始まる。
 
 次の詩句が出てくる。
 
 「大地の毒の力を
  有害な噛みつく獣の口から
  破壊的な大食漢の口から
  (暗闇を取り去って下さい)」
 
 さらに
 
 「我々が見出すところから判断して、
  そこには日照りへの言及があり、
  それは暗闇と一対になって
  太陽がぼんやりとかすんでしまうほど
  ひどい埃をもたらすシロッコ、
  すなわち砂漠の熱風を示している。
 
  我々はこの神話が植物を枯らしてしまう
  長期にわたるシロッコに対する
  特別の呪文としての
  蛇の「乳しぼり」との関連で
  用いられたと言いたい」
 
 と述べている。
 
 大地の毒の力とは砂漠の熱風
 すなわち
 旱魃を起こす自然の脅威を
 いっているのである。
 
 冥界の神ホロンは
 次に蛇の姿をした
 太陽女神の娘である女神に花嫁料、
 もしくは
 好意に対する報酬と思われるものを
 支配の約束をする。
 
 数段の物語の後、
 精力に満ちたホロンが
 女神のところへやってくるが、
 女神は家に鍵をかけて開けてくれない。
 
 彼女は彼に対し、呪文で家に鍵をかけ、
 彼女は彼に対し、家を閉じ、
 彼女は彼に対し、ブロンズ(のかんぬき)で
 鍵をかけた。
 
 ホロンはしきりに嘆願する。
 家を開けて下さい。
 宮殿を(を開け)、私を休ませて下さい。
 
 この後、女神はさらに要求する。
 蛇を幾匹か持って来て下さい。
 
 私の花嫁料として、
 爬虫類を持って来て下さい。
 
 私の愛の報酬として、蛇の血を……。
 
 ホロンはこれについても承諾する。
 
 グレイこれらの詩句を
 
 「長期にわたって吹き荒れる
  シロッコに対する呪文とみなしている。」
 
 と見解を付している。
 
 この後どうなったか解らない。
 
 粘土板が欠落しているからである。
 
 しかし、
 続く詩句の中でこの女神が
 家ごと鍵を掛けられて
 焼き殺されたと推測する。
 
 カナアンのホロンは冥界の男神である。
 ホーリーは魔女である。
 全くの異なりをみせている。
 
 プロトタイプのホロン神話があり、
 カナアンでは冥界の神に
 ホロンの名が与えられたが、
 インドに流入した神話では
 太陽女神の娘神が
 ホーリーとされたのであろう。
 
 枯木やボロ布を集めて
 魔女ホーリーに見立てて燃やすというのは
 カナアン神話でいう
 太陽女神の娘神に擬装しているのである。
 
 大野晋著『日本語以前』によると
 スリランカのジャフナ付近では
 祭りの日
 円屋根がつき木材で建詰めされた
 牛小屋を焼いてしまうという。
 
 ウガリットは後に地中海沿岸に建国された
 フェニキアに吸収されたが、
 ウガリット語を基礎にしたフェニキア文字は
 ギリシャに取り入れられ、
 
 現在我々が日常的に使っている
 アルファベットを誕み出した。
 
 このアルファベットの
 アルファはセム語の牡牛を意味する
 alp が
 ギリシャ語に取り入れられたものである。
 
 ギリシャ語の 
 αλψιτ は碾割(ひきわり)大麦を表し、
 碾臼で大麦をあらびきするのに
 牛が活躍した名跡と考えられる。
 
 さて、カナアンの冥界の神ホロンは
 ギリシャ語で 
 κορνη となり、
 棒、棍棒、杖の意味である。
 
 つまり、
 これは穀物を脱穀するのに使われ
 杵をもいうのであろう。
 
 インドの 
 Holi のサンスクリット類似語は
 khali で杵をいう。
 khali-stoka で杵臼を表す用例がある。
 khala は打穀場を時には穀物そのものを表す。
 
 その上興味ひくことに 
 khalā は悪婦をいう。
 
 ヨーロッパの言語に拾ってみると、
 ドイツ語では prügel で棍棒、むち打ちを
 英語では pole で棒、柱、竿の意である。
 
 さらに同意語を
 サンスクリット語に捜ってみると
 danda があり棒、杖、竿、木を表す。
 danda はインド神話の地界の、
 つまりホロンと同じように冥界の神
 ヤマ Yama 神の武器である。
 
 このようにみてくると
 ホーリー祭の実像がみえてくる。
 
 暑さを増しつつある三月のこの時季、
 旱魃をもたらす砂漠の熱風の代名である
 毒婦を火神アグニの神徳で追放し、
 収穫が近づいた大麦などの
 麦類の豊饒を願って、
 採入脱穀の象徴である杵を神格化して崇め、
 火神アグニに
 使い古しの杵や竿を火に投じて
 ささげたのである。
 
 アグニ神には人々に災苦をもたらす
 魔界の力を圧えつける力があるのである。
 
 悪魔を容赦なく絶滅させた物語は
 インドで最古の聖典
 『リグ・ヴェータ』から語られている。
 
 巷間に人気高い物語は
 『ラーマーヤナ』に
 ラーマ王子の宿敵として登場する
 暴虐の魔王ラーヴァナも
 アグニ神にはかなわない。
 
 コントロールされるのである。
 
 ホーリー祭の翌日はお正月である。
 
 新年を迎えたことを祝って人々は、
 午前中は色粉や色水を互いにかけあう。
 
 いわゆる水かけ祭である。
 
 午後になると着飾って
 親戚や教師、職場の上司など
 常日頃お世話になる人々に
 新年の挨拶をするため出かける。
M.K記

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第一章 淀姫と矢保佐神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第一章 淀姫と矢保佐神社》
 大麦は日本神話にも登場する。
 
 『古事記』の大気比売神の屍のうち
 陰部に麦が生じ、
 『日本書紀』の保食神の段にも陰部に
 大豆・小豆共に化生したことが
 述べられている。
 
 麦との表現だけでなく
 大麦なのか小麦など
 他種の麦なのか判明しないが、
 以下の考察によりやはり
 大麦が優先されると考えられる。
 
 保食神の祀られている神社として、
 長崎県松浦市御厨町郭公尾免の
 保食神社を上げたが、
 延喜式神名帳には
 記載されてはいない神社とはいえ、
 たいへん興味を引く神社である。
 
 保食神、ウケ・雄牛を
 食膳とする神であることは
 すでに述べてきたところである。
 
 この保食神社のある地名御厨町の
 「厨(くりや)」は
 サンスクリット語 
 kriyā の転訛である。
 
 本来は、製作、実行、仕事の意味であるが、
 祭式、供犠、儀式を意味し、
 調理をも内容とする。
 
 保食神の調理場が
 この地区の名称なのである。
 
 この地方に
 神社への御供所としての認識は
 古くからあったと知られている。
 
 御厨の地名は
 鎌倉期に宇野御厨荘としてみえ始める。
 
 延喜式には
 「肥前国堧野牧」が載っているが、
 この牧では牛が養育されていたと思われる。
 
 後の「国牛十国」には御厨牛の名があり、
 
 「肥前国宇野御厨が牛を貢めたので、
  これを御厨牛と称する。
  角が長く、骨は太く、皮突は厚く、
  えだ肉も太い。
  ほとんどの牛は(体躯)大きい。
  中世・古代の名牛は、
  多くの場合
  ここから産出されたものである」
 
 と紹介されている。
 
 御厨の地名は、
 史料的には鎌倉期からであるが、
 実際は
 それよりかなり古いものと推測できる。
 
 堧野牧もやはり
 「クリヤ牧」であったと考える。
 
 松浦市御厨町に僯して志佐町がある。
 
 その志佐町浦免に淀姫神社が鎮座している。
 
 淀姫とは、
 実にドゥルガー女神を呼んだものである。
 
 淀はサンスクリット語の 
 yodha または yudha の転訛で、
 軍兵、武士をまた戦闘、合戦を表す。
  
 ドゥルガー女神を戦闘の女神と解釈し、
 直訳寄名したのである。
 
 さらに、御厨町および調川町に
 矢保佐神社と称する神社が鎮座している。
 
 このこれまで正体の知られなかった神社も
 正にドゥルガー女神信仰に
 係わっていたのである。
 
 矢保佐は大麦のことである。
 
 サンスクリット語の
 大麦 yavasa で、
 その転訛が矢保佐なのである。
 
 この地方ではドゥルガー女神を信仰し、
 大麦を供え、その豊饒を祈願したのである。
 
 そして女神から、
 つまり神社から供物として、
 麦芽モルツが人々に配られたと考えられる。
 
 というもの、
 この地方名松浦郡は
 「魏志倭人伝=魏書倭人章」に登場する
 末廬に依拠し、
 末廬はマツーラ、
 麦芽モルツから作られた
 水飴あるいは麦芽糖のことで、
 
 サンスクリット語 
 madhuura の転訛した甘味、甜、蜜、
 石蜜奨を意味する。
 
 後世仏教の時代となって、
 お花祭り、
 つまりお釈迦さまの誕生を祝う祭りの日、
 寺院では訪れた信者に甘茶が
 ふるまわれたことにも共通する。
 
 この慣習は
 古代インドの神々の恵み
 甘露を礼拝者にふるまったことに由来する。
 
 松浦とは、
 そのように天の神の恵みの土地なのである。
 
 現在松浦郡は
 佐賀県と長崎県にまたがっているが、
 矢保佐神社は
 唐津市、西有田町、呼子町、松浦市、
 平戸市、佐世保市などに広がっている。
 
 また、
 淀姫神社も
 矢保佐神社の分布と重なるように
 佐賀県、長崎県に分布しているが、
 特に取り上げておきたいのは、
 佐賀県佐賀郡大和町の河上神社である。
 
 延喜式神名帳に肥前国四座のうち、
 佐嘉郡一座として記載されている
 與止日女神社の比定社である。
 
 祭神は與止日女命で、
 欽明天皇の時に創祀されたとの
 伝承を持つ古社である。
 
 大和町の北富士町無津呂も
 末廬(松浦)と語源を同じくとする。
 
 Madhura は、
 古代インドで都市名に取り入れられ
 現在にまで至っている。
 
 あの
 「本生図と踊子像のある石柱」が
 発掘された町
 マトゥラー Madhurā 市、
 英語でマッラ Matura と称せられる
 古代紀元前七・八世紀に
 十六国の一に数えられた
 マッヤ Matsuya 国の首都のことである。
 
 長崎県松浦郡の地名について補足すると、
 佐々(ささ)町は薬草、草、穀物を意味する 
 sasa 、
 佐世保(市)は若草あるいは発芽した
 穀物の芽、
 ここでは麦芽を意味する 
 śaspa の転訛である。
 
 マッーラは、
 ドゥルガー女神の供物ではあるが、
 古代には
 健康を保つために極めて重要なもので、
 ときには薬としても重宝がられたのである。
 
 松浦市の西に田平(たびら)町がある。
 
 田平はデーヴィー Devi の転訛で、
 町内に
 淀姫神社(上亀免)、
 矢保佐神社(山内免)が鎮座している。
 
 この田平あるいは歴史の経緯のなかで
 田之平称される在所は
 長崎県内にかなりある。
 
 (松浦市志佐田平免、
  南高来郡吾妻町田之平免、
  南串山町京都泊名の田平、
   北有馬町田平)
 
 また、
 このデーヴィーの転訛と判断できる地名に
 田原がある。
 
 (松浦市御厨町田原免、
  平戸市田原免、
  佐世保市田原町、
  北松浦郡佐々町本田原免、
  小佐々町田原免、
  吉井町田原免、
  北高来郡小長井町田原名)
 
 また、
 田平町田代免にある阿羅仁神社には、
 曙晄を表す 
 aruni を神社名としたもので、
 デーヴィー女神に係わる呼称である。
 
 田平町の南に鹿町町がある。
 
 鹿町カーマ 
 Carma で皮革、獣皮の意であり、
 同町内には五社、
 東隣りの江迎町内に五社、
 田平町内に四社鎮座の鎌倉神社と
 関係している。
 
 つまり、
 鎌倉は 
 Carmakārā/Cammakārā の転訛で
 皮革職人または皮製物品を表すからである。
 
 平戸市のある平戸島の平戸は
 和名抄で庇羅郡、
 『日本後紀』に値賀島と載ることを
 考慮すると、
 やはりサンスクリット語の
 智恵、知識を意味する
 veda の転訛であることを指摘しておきたい。
 
 最後に、
 淀姫神について肥前国風土記に載る
 景行天皇の妹君の名が
 淀姫(豊姫・世田姫)で、
 その姫を祭るとの由来伝承を
 どう評価するかであるが、
 『角川地名大辞典』がいう通り
 真偽の程は疑わしい。
 
 京都府伏見区淀本町に
 「與杼(よど)神社」がある。
 
 同社はまた
 佐賀県大和町の与止日女神社から
 平安時代の応和年間に招請されたので、
 淀姫神社とも呼ばれる。
 
 延喜式乙訓郡に記載された古社である。
 延喜式山城国に葛野郡に坐す
 「大酒神社元名大群神」があり、
 大群神はまたデーヴィー神を表す。
 
 「大酒」とされるのはドゥルガー神の別称
 麻多羅 madira を祭神としているからで、
 「酔わせるもの、酒精飲料」を意味している。
 
 兵庫県赤穂市坂越(さこし)に大避神社がある。
 
 祭神は大避大神で大酒大明神ともいう。
 
 同社の所在地坂越は古史料に
 尺師と記されているようにシャクシで、
 延喜式山城国乙訓郡に載る
 
 「白玉手祭耒酒解(さかとげ)神社名神大
  元山埼社」の社名と同様
 
 サンスクリット語 
 šakti の転訛であり、
 シヴァ神の神妃としての
 デーヴィー神を象徴する。
 
 「白玉手祭来」は
 現在の京都市右京区梅津フケノ川町の
 梅宮大社の地をかっては玉手といったためで
 「延喜式」葛野郡に
 「梅宮坐神田社並名神大」
 と記載されている
 同社より酒解神を招請し奉祭したという
 説明書きをつけているのである。
 
 梅宮のウメは
 ウマー Umā で、
 これもデーヴィー女神の別称である
 酒解神がデーヴィー女神であることが
 これでも解かる。
 
 社伝によると
 同社もまた
 現在の綴喜郡井手町付近の
 山城国相楽郡井手庄から
 平安初期に鎮座替えされたという。
 
 井手には現在玉川が流れ、
 玉水あるいは玉津の地名がある。
 
 ところで「井」は
 セキ、シャウと訓ずるので
 「井手」の音読はシャクティであり、
 デーヴィー女神を表している。
 
 京都から流れて大阪湾に入る淀川は
 この淀姫の名に依る物である。
 
 ただし、
 応和年代(961~964)は
 神名帳の編まれた
 延喜(901~923)より後なので、
 神名帳に記す同社の祭神については
 別の解釈をしなければならない。
M.K記

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第一章 ドゥルガー・プージャー [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第一章 ドゥルガー・プージャー》
 豊穣の女神として、
 現在でもインドの人々に
 日常的にいかに崇拝されているかは、
 彼女の図像が
 民家の台所やレストランの厨房に
 掲げられていることで明らかである。
 
 ドゥルガー女神信仰は
 東インドのベンガル地方と
 南インド地方に盛んといわれる。
 
 女神を祀った寺院は、
 ヒンドゥー教徒が
 沐浴の聖地として訪れることで
 有名なガンジス河岸、
 ウッタル・プラデーシュ州の
 通称ベナレス、ワーラーナシー市にある。
 
 猿が多くいることで有名な
 モンキーテンプル・ドゥルガー寺院や
 インド亜大陸中央部に広がるデカン高原の
 カルナータカ州北部
 バーダミ市郊外のアイホーレにある
 ドゥルガー寺院が名高く、
 多くの信者を集めている。
 
 しかし、
 注目すべきはドゥルガー・プージャーである。
 
 毎年九月秋分の日をはさんだ
 数日間行われる祭礼のことである。
 
 プージャー pujā とは礼拝供養を意味する。
 
 その祭神が女神であることにより
 女性の活躍する祭りとして
 各地において盛大に行われる。
 
 地方ごとに
 その祭事の様相に異なりをみせている。
 
 ベンガルのある地方では
 街角や路地に紅白の幔幕を張り廻らし、
 中に祭壇をしつらえ、
 ラクシュミー、サラスヴァティーの
 女神像と共に、
 ドゥルガー女神の図像が中央に掲げられる。
 
 祭礼の日には、
 香が焚かれて煙がたなびくなか、
 太鼓が鳴り、人々は盛装して参拝に訪れる。
 
 プージャーは礼拝であるので、
 供儀つまり動物を殺して
 献げるようなことはしない。
 
 しかし、
 供養として果物や穀類は献げられる。
 
 祭礼の主旨は、
 ドゥルガー女神が雄牛の姿をした
 悪魔マヒシャを退治してくれたことに感謝し、
 女神を讃えて礼拝するというものである。
 
 カルカッタ市のある地域では、
 地域の名家や共同体が寄付金を集めて、
 等身大あるいはそれ以上に大きい
 豪華な女神像を作り上げる。
 
 もちろん十の腕を備え、
 目を剥いた怒りの形相である。
 
 祭りの日多くの女性が集まる。
 
 祭司による礼拝儀式の後、
 女性たちは天界に帰るという
 女神の旅路のために食物を供える。
 
 食物を献げることが
 供養プージャーなのである。
 
 女神の祝福を受けた既婚の女性たちだけが
 相互の額に赤い粉をつけ合って
 平穏な生活が続くことを願うという。
 
 祭礼の日の夕暮れ、
 祭りの最後には
 男たちが女神像を担ぎ出して、
 ガンジス川の支流フグリ河畔に向け練り歩く。
 
 川岸に着いてから船に像を乗せ、
 河の中程まで運び流れに乗せる。
 
 女神はガンジス河に入り、
 巡り廻って天界に帰っていくというのである。
 
 ドゥルガー女神が
 豊穣の女神であることを
 うかがわせる報告が
 小西正捷の
 『インド民衆の文化誌』にみえる。
 
 バナナの若芽が女神の姿にされて
 祭壇に供えられること、
 ビルヴァ(ベール)の木や大麦が
 密接に関わっているとの報告である。
 
 特に
 
 「プージャーの第一日目に
  大麦の種が播かれ、
  十日目に引き抜かれて
  モヤシ状となったものを
  供物として信者に配る。
 
  米どころのベンガルで、
  なぜわざわざ大麦が
  重要視されるのかは
  この祭りの起源を
  示唆するものかもしれない」
 
 と書いている。
 
 そうなのである。
 
 大麦は、
 ドゥルガー・プージャーを考える上に
 大変重要な用件である。
 
 大麦は、現在のインド人を構成し、
 インド文化の基礎を築いた
 アーリア人の原初的な
 主食作物であったのである。
 
 しかも彼らは牛の遊牧が
 得意であったらしい。
 
 大麦は紀元前九千年以前から始まった
 農耕文化の中で
 重要な役目を持っていた。
 
 ヨーロッパから
 中近東、エジプト、ペルシャ、
 インダス河流域まで、
 その耕作地域は広い。
 
 メソポタミアでは、主要食料であり、
 経済の主人公でもあった。
 
 日本の江戸時代における
 米の役目を果たしていたのである。
 
 税として徴収され、
 都市の中には俸給として
 役人などに配給されたり、
 労務者の俸給として支給した例もある。
 
 インダス文明の
 モヘンジョダロやハラッパの遺跡では
 遺物の中に大麦が発見されている。
 
 この大麦、豊饒を願う犠牲祭において、
 供儀される動物の頭にふりかけられるのが
 儀式の慣例であった形跡がある。
 
 ギリシャ語と残る 
 ολαι 、ολων は
 その大麦の粒のことで、
 屠殺の前に犠牲獣の頭にふりかけた。 
 
 この慣習は、
 中国雲南省の少数民族の殺牛儀礼にも、
 大麦が穀物特に米の粥に交替しているが、
 踏襲され反映している。
 
 大麦の「モヤシ状なるもの」は
 明らかに麦芽である。
 
 麦芽が礼拝者に配られることは、
 ドゥルガー女神が
 豊穣の女神であることの
 明白な証左であろう。
 
 麦芽は、
 ビールの原料つまりモルツであり、
 水飴を作ったり、
 麦芽糖の原料にされた。
 
 ビールは
 メソポタミアのシュメル時代に
 すでに醸造され、
 祭礼にも用いられた。
 
 モルツは、
 ドイツ語で Malz 、
 英語で malt 、
 サンスクリット語では valśa 、
 芽あるいは枝の意にはなっている。
 
 大麦を表すサンスクリット語は、
 穀類穀粒をも意味する 
 yava ないし yavasa である。 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第一章 デーヴィー・マハートミヤ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 デーヴィー・マハートミヤ》
 ここに造形されたモティーフは
 ドゥルガーの英雄譚
 「デーヴィー・マハートミヤ 
  Devi-mahatmya 」に依拠している。
 
 デーヴィーは前に述べたように
 ドゥルガーの本称、
 マハートミヤは大勝利、大業の意で
 「デーヴィーの大威徳伝」
 というのが名称である。
 
 シヴァ神の女性的力( śakti )の
 象徴であるデーヴィーには二面がある。
 
 猛々しい一面とやさしい一面である。
 
 前者の代表はウマーで
 ヒマラヤ山の生まれで黄金の神である。
 
 ドゥルガーは後者の猛々しい姿を表す。
 
 この神名は本来
 水牛の悪魔の名前であって、
 彼女が、このドゥルガーと呼ばれた
 マヒシャースラを殺したことにより
 その名を与えられたのである。
 
 英雄譚には悪魔との戦いの原因、経緯、
 最後に悪魔を死に至らしめた
 戦いの情景が描かれている。
 
 ヴェロニカ・イオンズの
 「インドの神話」に
 その戦いの有様を紹介してもらう。
 
 この神話は、
 悪魔ドゥルガーが三界を征服し、
 神々を天国から追い出し森へ入って
 暮すよう強制したことに始まる。
 
 神々はシヴァ神に助けを求めたが、
 彼は妻であるデーヴィーに
 相談してほしいといい、
 デーヴィーは助力を承諾した。
 
 神妃デーヴィーは
 特別に創りだした闇夜を送ったが、
 悪魔たちには勝てなかった。
 
 そこでデーヴィーは
 自ら戦いに加わることを決意し、
 カイラーサ山を出発した。
 
 戦いに臨む彼女は
 猛々しく威嚇的な表情になり、
 十本の腕を持ち、虎に乗っている。
 
 神々は悪魔退治に向かう彼女に
 それぞれに象徴される武器を
 十本の腕に携えるよう与えた。
  
 ヴィシュヌ神の円盤、
 水の神ヴァルナの巻貝、
 火の神アグニの燃える投槍、
 風の神ヴァーユの弓、
 太陽神スーリヤの箙と矢、
 地界の神ヤマの鉄棒、
 インドラ神の稲妻、
 財宝神のクベーラの棒、
 龍神シェシェの蛇の花輪、
 山岳神ヒマラヤの攻撃用の虎
 
 がデーヴィーの武器となったのである。
 
 デーヴィーがマヒシャの領土に近づくと、
 悪魔は彼女を捕らえようとした。
 
  マヒシャの軍勢、
  一億台の戦車、
  一千二百億の像、
  一千万頭の馬と
  無数の兵が待ち構えていた。
 
 デーヴィーも援軍として
 さまざまな被造物を集め整えた。
 
 戦いが始まる。
 
 デーヴィーは
 矢の嵐と木と岩の洪水に攻撃された。
 
 しかし、
 一千本の腕を生やしたデーヴィーは
 ドゥルガーに武器を投げつけた。
 
 武器は彼の軍勢の多くを死滅させた。
 
 ドゥルガーは二本の燃える投槍で
 これにこたえたが、
 デーヴィーは一千本の腕でこれをかわした。
 
 別の一本の矢、一本の棒、一本の大釘も
 女神によってかわされた。
 
 そして、
 女神は悪魔を捕らえ、その上に足をにせた。
 
 彼はもがいて逃れ、戦いは再開した。
 
 今やデーヴィーは
 おのれ自身の身体から
 九百万の被造物を創出し、
 
 これらが悪魔の全軍を打ち滅ぼした。
 
 彼女はまた武器サショヌを持ち出した。
 
 これはドゥルガーの作り出した
 霰(あられ)を伴った嵐から彼女を守った。
 
 それから、
 悪魔は彼女めがけて山を投げた。
 
 彼女はそれを七つに切断し、
 矢を打ち込み、無害なものにした。
 
 今や、
 ドゥルガーは山のように
 大きい象に化けたが、
 デーヴィーの偃月刀のような
 瓜によって切られ、断片となった。
 
 すると彼は、巨大な水牛となり、
 その鼻息によって木々をちぎり、
 これを石や山と一緒に
 女神めがけて投げつけた。
 
 しかし、
 デーヴィーは三叉槍で彼を突き刺し、
 その正常な姿
 ―千本の腕をもち、
 その―本―本に武器を携えている悪魔
 を取り戻すよう強制した。
 
 女神はその千本の手で彼の腕をつかみ、
 引きずりおろした。
 
 それから、
 彼女は―本の矢で彼の胸を貫いた。
 
 彼は死んだ。
 
 血がその口から流れ出た。
 
 勝利のあと、
 デーヴィーは自分の名をドゥルガーとした。
 
 こうして
 デーヴィーとマヒシャとの戦いは収束したが、
 水牛ないし牡牛を殺戮する場面が、
 エローラ石窟第一四号窟に
 浮彫された情景なのである。
 
 デーヴィー・マハートミヤには、
 デーヴィーの英雄譚として
 さらに別の物語を載せている。
 
 一万一千年に及ぶ苦行の功徳によって
 シヴァ神からいかなる神の攻撃を
 受けないと保証を得ていた
 スンバとニスンバという
 兄弟の悪魔との戦いの物語である。
 
 さまざまな軍勢との戦い後、
 デーヴィーは
 スンバとニスンバと一騎打ちで戦い、
 双方を殺し勝利を収める。
 
 このようにして、
 デーヴィーは神々を代表し悪魔と戦い、
 勝利を得て戦いの女神として
 象徴化されたのである。
 
 だが、
 戦いの相手となったドゥルガーは
 単に水牛の化物で
 悪事を働いたからというだけなのだろうか。
 
 そうではない。
 ドゥルガーは、
 自然の脅威、旱魃を象徴しているのである。
 
 ドゥルガー女神の神名が 
 durga 、
 つまり困難を冠したものであることを述べた。
 
 この語には困難のほか、
 近づき難きもの、近づき難き処、
 険阻な処の意味がある。
 
 しかし、
 これでは抽象的すぎる。
 
 そこで同語義で語音の近い用語を
 インド・ヨーロッパ語に捜ってみると、
 
 英語に drought が出てくる。
 
 dry に由来した旱魃を意味する用語である。 
 
 ドイツ語の同義語は dürre 、
 ギリシャ語では 
 δηλησνζ 破壊 
 δηλητηρ 破壊者と変化する。
 
 デーヴィーの戦いの端緒は
 「ドゥルガーが、神々を天国から追い出し、
  森へ入って暮すよう強制したこと」
 であった。
 
 多分人々は旱魃のために
 耕地が破壊や疲弊し、
 作物の収穫が上がらず、
 止むを得ず森林の産物、
 バナナなどの果物や果実に頼って
 生活しなければならなくなった経験があり、
 古代のインドの人々にとって
 旱魃といかに対処するかが
 重大な仕事であったかを
 教えてくれる神話なのである。
 
 旱魃がいかに過酷で過重な苦闘が
 繰り返されたかを物語りにしたのが、
 デーヴィーの水牛あるいは牡牛の魔物
 マヒシャまたの名ドゥルガーとの
 戦いなのであった。
 
 そして、
 悪魔との戦いに勝利する。
 
 つまり自然の脅威や災害に打ち勝って後
 もたらされるのは豊饒の喜びである。
 
 ドゥルガー女神はまた豊穣の女神、
 安穏を与えてくれる女神なのである。
 食料を豊富に確保し食膳の喜びを
 与えてくれる女神なのである。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第一章 ドゥルガー [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 ドゥルガー》
 天鈿女命が神懸りして神に舞踊を奉納する
 巫女であることは明らかである。
 
 しかし、
 三叉の矛を持って牛を伏す
 荒々しい姿はまだみえてこない。
 
 全ページの
 「踊り子像のある石柱」に
 そのヒントはある。
 
 踊り子の足下に
 「蹲る獅子」が彫られていることで、
 この踊り子は
 獅子の上に立つ巫女と考えられるのである。
 
 そのような姿を持った物語伝承が
 インドにはあるのだろうか。
 
 全く驚きであるが、
 怖ろしい虎(獅子)を乗物として支配し、
 戦う神として
 
 「(獅子に乗り)三叉の矛で
  水牛あるいは牡牛を刺し殺す女神」
 
 がいるのである。
 
 その女神の神名が
 ドゥルガー Drugā である。
 
 艱難(druga)を冠されたこの女神は
 バラモン教の最高神の
 シヴァ Siva 神の神妃で、
 インドの神々が
 一般にかなり多くの別称を
 持っているのにならい。
 
 デーヴィ、サティ、ウマー、
 パールヴァティ、カーリー、ガウリ
 とも呼ばれる。
 
 それらの神名は
 それぞれに特有の神話に彩られている。
 
 ドゥルガー神に与えられた尊称は、
 この女神の神話、崇拝の謂れを教えてくれる。
 「マヒシャー・マルディニー 
  Mahiśa-mardini 」はその尊称である。
 
 mahiśa は
 水牛ないし牡牛を意味する魔物の名、
 mardini は殺す者、
 英語の murderei で
 「悪魔水牛を退治するもの」となる。
 
 またの尊称 
 Mahiśâsura-sudini は
 「水牛の魔神を圧しつぶすもの」の意である。
 
 三叉の矛を逆手に取って
 水牛または牡牛に突き立てている
 女神がドゥルガーの造形を
 捜し出すのは容易い。
 
 なぜならば、
 現在においても一般に親しみのある
 モティーフであるからである。
 
 ヒンズー教の神として印刷された図像は
 インドの人々の日常生活に入り込んでいる。
 
 各家庭の台所やレストランの調理場に
 張られているし、
 名刺大のカードに印刷された女神は
 人々の懐に入れられ持ち歩かれている。
 
 食膳の神として
 豊穣の神として
 尊崇されているのである。
 
 西インド、ヴィンダヤ山脈の南方
 アウランガーバード
 北西に名高いエローラの石窟がある。
 
 仏教、ヒンズー教などの石窟が七十余あり、
 その地域は約2キロメートルに亘っている。
 
 その中の第一四窟に
 ドゥルガー像が浮彫りされている。
 
 憤怒の形相の女神は
 左手で牛の口先を圧さえ、
 右足でその臀部を踏みつけ、
 右手を逆手に矛を持って
 水牛の背に突き立てている。
 
 この戦いに臨んだ
 女神は十本の手に
 十の武器を手草んでいるのだが、
 ここでは四本の手に武器を持たせている。
 
 この姿こそ
 『古事記』にいう
 
 「小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて
  天の石屋戸に汗気伏せて蹈み登杼呂許志」
 
 の実像と考える。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第一章 インドの踊子と天鈿女命 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 インドの踊子と天鈿女命》
 天鈿女命が御巫であり、
 石屋戸前の神集いで御巫舞を踊ったことは
 すでに理解できただろう。
 
 古代インドの舞踊とは
 どんなものであったのだろう。
 
 まず写真を参照する。
 
 これは1984年3月から7月にかけて
 東京と京都で開かれた
 インド古代彫刻展に出展された
 「本生図と踊子像のある石柱」の
 正面写真である。
 

 前2世紀から1世紀の
 シュンガ朝時代に製作されたもので、
 ニューデリから南方へ
 タージ・マハルで有名なアグラへ行く途中
 中程のマトゥラー市で出土した石柱である。
 
 石柱の高さは202センチメートルある。
 
 カタログ説明をそのまま記載する。
 
 「玉垣の石柱に浮彫りヤクシー像が
  大きく表現されている。
  正面向きで、しなやかな服を交叉し、
  両手で条帯をもって舞踊する姿である。
 
  豪華な結髪や髪飾り、蘡珞、腕釧、
  緩帯、足環にいたるまで
  細密克明に表現し、
  当時の宮廷の踊り子の姿を追感される。
 
  上部のメダイオンは仏陀の前世の物語が、
  下には踊る獅子が彫られている。
 
  豊満な乳房や陰部の大らかな造形は、
  この女神が豊穣吉祥を象徴している
  インド的な
  造形の一つであることを示している。」
 
 正に踊り手である天鈿女命を髣髴させる。
 
 「胸乳を掛き出で、
  裳緒を番登(ほと)に忍し垂れき」
 
 と表現されてる舞衣裳そのままである。
 
 裳緒は衣裳のひもで、
 これを持って
 番登を隠したり見せたりしたというのである。
 
 「垂れき」は単に下げたという意味ではない。
 
 本地垂迹説と使われているように
 「垂」は顕現、顕れるの意である。
 
 また
 福岡県久留米市御井町の
 高良玉垂命神社の祭神名に入っている。
 
 祭神高良玉垂命については諸説あるが、
 鏡を神格化したものといえる。
 
 サンスクリット語の鏡を意味する 
 atam-darsu は、
 自己を見る、我見 
 ātam-darsin から派生した用語で、
 
 drsa は眺め、 
 darsiká は顕(うつし)、
 drsi は観ること、視、試みること、
 その動詞は 
 drs は見る、発見するの語義である。
 
 日本語のうちにも
 「顕」を意味する「垂」の用法例はある。
 
 「みたらしだんご」がそれで、
 その実状をよく教えてくれる。
 
 透明の掛け汁によって
 内の身団子が見えるように調えられている。
 
 これが
 あんこや海苔で巻かれたものは
 「みたらし」ではない。
 
 ごまだれ、醤油だれ、蒲焼のたれなど
 透明性があって
 中身の姿形を隠さない調味料をいう。
 
 最近家庭の食卓に乗るようになった
 ドレッシング dressing は
 英語名のたれである。
 
 これは dress 
 古語で drest に由来する。
 
 最近は
 服を着る、着飾る、正装するなどの意味で
 使われているが、
 本来は観せる、顕わすにある。
 
 Dress は観せるための衣裳を着ることで、
 肉体を透かせても隠さず
 露わに観せる衣裳をいう。
 
  Dressing-table は鏡台、
 単なる dressing は鏡つきタンスをいう。
 
 ドイツ語では 
 tracht (衣裳、流行)、
 動詞 trachen は
 試みる、志す、見出そうとするである。
 
 「垂」は
 インド・ヨーロッパ語圏の用語である。
 
 石柱の踊り子も腰から二股にかけて
 薄手の衣裳紋様が刻まれ、
 後にも下っているので
 透けた衣裳を着けていたとも考えられる。
 
 股の交叉は
 この女神が踊っているいることを示す。
 
 サンスクリット語で舞踊のことを 
 thandava という。
 
 ドイツ語でtanz 、
 英語で dance であるが
 タンダ(田手)は古代日本へも入った。
 
 次に、
 「蹈み登杼呂許志」
 「足を踏みならし」
 である。
 
 足を踏み鳴らして踊るダンスの代表に
 スペインのフラメンコがある。
 
 この舞踊は
 スペイン固有の伝統芸能ではない。
 
 伝承によると
 インドから流れ流れやって来た
 流浪の民によって始められたという。
 
 あの激しい足踏みとリズムは
 見聞する者を次第に陶酔させ
 恍惚した気分に吸い込んでいく。
 
 踊り手は次第にいわゆる
 「神懸り」し
 聴衆をその境地に曳き込んでいくのである。
 
 インドの伝統舞踊の中に 
 katak がある。
 
 かっては
 吟遊詩人が演じていた舞踊である。 
 
 日本でも靴音を
 「カタカタ」と表現するが、
 インドでも 
 katakata という。
 
 Katak は
 この足踏みから取られた名称らしい。
 
 現在インドの宗教は
 ヒンドゥー教が大勢であるが、
 その hindu の語幹 hind には遍歴、
 つまりさまよい行くの意味があり、
 吟遊詩人が各地を道遙しながら
 神譯を歌い上げ神々を賛美したのである。
 
 そのような吟遊詩人たちによって
 演舞された 
 katak は宗教的雰囲気の強いもので
 「神懸り」的ダンスと理解できる。
 
 阿知女作法で伴奏として
 和琴のみが奏されると紹介したが、
 フラメンコの場合もギターのみが伴奏し、
 歌と踊りから構成されている。
 
 ダンサーは男女双方にいる。
 
 katak も同様
 男女両方が舞うことが許されていた。
 
 この舞踊は16世紀になって成立した
 ムガール帝国の宮廷舞踊に取り入れられ、
 形式化されたのである。
 
 また 
 katākali という伝統舞踊があり、
 こちらは男性のみが舞い手になれた。
 
 大きな冠をかむり、
 スカート状の衣裳を着けて
 日本の歌舞伎のような劇中で舞われた。
 
 男性が女性の姿となって演舞した。
 
 インドの伝統舞踊のうち最も古いと
 考えているのが 
 Bharata-nātga で、
 バラータは
 日本を「やまと」と呼ぶのと同じ
 インドの古名、
 ナークは舞踊を意味するが、
 使われ始めたのは比較的新しく
 西暦4、5世紀らしい。
 
 しかし、
 この舞踊は巫女が寺院で
 神に奉納した舞踊に起源があるといわれ、
 インダス文明にまで遡及する
 と解説されている。
 
 「本生図と踊子像のある石柱」に
 造形された女神は
 「豊穣吉祥」を祈願する舞姿であり、
 天鈿女命の舞姿であると理解できる。
 
 巫女たちは少女のうちに、
 つまり月経が始まらないうちに
 寺院に献げられ
 激しい特別の訓練を受けるという。
 
 《参考》
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、
 マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に
  描かれている) 
 本生図と踊子像のある石柱
M.K記

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第一章 豊宇気毘売神(登由宇気神) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 豊宇気毘売神(登由宇気神)》
 ウケは牡牛の意味であり、
 また
 「食物、食膳、饌」の意に
 用いられることが明らかになった。
 
 ここに至って
 豊宇気毘売神に触れない訳にはいかない。
 
 いうまでもなく、
 伊勢神宮、天照皇大神宮の
 御饌都(みけつ)神として
 外宮に祀られている
 豊受大神にことである。
 
 御饌都神は
 「ミケツ神」と称されてきたが、
 大気都比売と同様に
 「オケツ神」と読み替えるべきだろう。
 
 豊宇気毘売神のトヨ(豊)は
 「多く富んだ」であるが、
 別称の「登由」から判断すると
 
 サンスクリット語の 
 dgu (天上の、天界の、神の)の音写で、
 
 登由宇気は神の食膳
 「神饌(しんせん)」と理解される。
M.K記
 

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第一章 ウケ(牛)と保食神 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 ウケ(牛)と保食神》
 ウケモチ(保食)神は
 日本書紀特有の神名である。
 天照大神が葦原中国に
 この神がいることを
 聞き及んで月夜見尊を派遣する。
 月夜見尊が到着すると、
 保食神は
 国の方向に首を回して
 口から飯を出し、
 海に向かって
 鯺の広物、
 鯺の狭物を口から出し、
 また
 山に向かうと麤物柔物を口から出し、
 これらを総てを
 百個もの机に積み上げてご馳走としたが、
 月夜見尊はご馳走するのに
 口から吐き出したものでするなど
 汚らわしい、卑しいかぎりだと怒って
 剣で保食神を殺してしまう。
 口から出すというイメージは
 牛の反芻機能を言ったものと考えられる。
 ウケモチのウケが牛であることが
 「口から出す」働きから知れる。
 
 神名を漢字で保食(ほじき<音読>)
 と書くのは、
 サンスクリット語 
 bhojana を音写したもので
 語意は「食事、膳、饌」で、
 この神の職能そのものである。
 月夜見尊が天上に帰り、
 天照大神に奉上すると、
 大神は怒って
 今度は天熊人を派遣する。
 同神が到着した時には
 保食神はすでに死んでおり、
 その
 頭に牛と馬が
 顱の上に粟、
 眉の上に蚕、
 眼の中に稗、
 腹の中に稲、
 陰部には麦と大豆・小豆が化生していた。 
 そこで、
 天熊人はこれらのものを持って
 天照大神に献上した。
 大神は喜んで
 蒼生が食べて生活するのに
 必要なものだといって
 五穀(稲・粟・稗・麦・豆)を
 水田、畑に挽き、
 秋には盛大な収穫を得る。
 また
 口の中に蚕を含んで
 そのまま糸を抽き出し、
 これが養蚕の起こりと記している。
 
 『古事記』では、
 須佐之男命が
 大気津比売神に食物を乞ったので、
 鼻口及び尻より
 種々の味物を取り出し
 料理して進物としたところ、
 これらの様子を見てしまった
 須佐之男命が怒って
 大気津比売神を殺してしまい、
 その身の頭に蚕、
 二つの目に稲種、
 二つの耳に粟、
 鼻に小豆、
 陰部に麦、
 尻に大豆が生えたと記している。
 この大気津比売神はこれまで
 「オオゲツヒメ」と呼称されてきたが、
 やはり
 「ウケツヒメ」は少々無理があるとしても
 「オゲツヒメ」と称されるべきと考える。
 死体化生の信仰は
 ユーラシア大陸に
 広く行われきたところである。
 保食神を祀る神社は
 長崎県の松浦郡に多く、
 その代表的な神社は
 松浦市御厨町郭公尾免の
 保食神社である。
 阿知女作法の
 「オケ」は
 「ウケ」で、
 また
 『記・紀』の汙気、覆槽の本源は
 すべて牡牛である。
 そして、
 天石屋戸の神集いは牛を殺して(伏せて)
 火の中に投げ入れる。
 つまり
 供儀に捧げる祝祭であったのである
 「伏す」はサンスクリット語の
 Huで
 「火の中に投げ入れる、捧げる」である。
 『日本書紀』の「火處焼き」は
 燔祭(はんさい)と解釈できる。
M.K記
 

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第一章 「牛祝祭」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 「牛祝祭」》
  諏訪大社の祝は御射山祭を主宰する祭官で、
 その祭典が謝肉祭であったことを述べたが、
 この謝肉祭とは二十世紀になって
 日本語に取り入れられた言葉である。
 ドイツ、フランス、イタリア、スペインなどの
 カトリック教で
 キリストの復活祭前四旬節(四十日の斎戒期)の
 直前に行われる祝祭、
 カーニバルの内容翻訳語である。
 古代日本では
 犠牲祭のことを何と呼んでいたのだろうか。
 『日本霊異記』には
 「牛の宍(しし)の饗」という表現が出てくる。
 中巻二十四話、
 奈良時代聖武天皇の御世平城京左京の
 檜磐嶋という人物の話である。
 『続日本紀』延暦十年に
 「牛を殺して用ひて漢神を祭ることを禁ず」、
 『日本霊異記』中巻五話
 「漢神の祟りにより牛を殺して祭ったが、
  病気が直らなかった」
 によって理解できるように、
 奈良時代に
 漢神を祭るための祝祭だったことが知られる。
 漢神はまた「韓神」で
 『延喜式神名帳』に
 宮内庁坐神三座のうち
 園神社、韓神社に座とある
 宮中神三十六座のうちに祭られている神である。
 『古事記』では
 須佐之男命が
 大山津見神の女神大市比売を娶して
 生まれた子大年神の御子神韓神として出てくる。
 因みに
 次弟會富理神は上記の国神を関係するよいう。
 この「韓」は韓半島に係わる韓とは
 直接的に関係の無いことを
 ここでは言っておきたい。
 韓神に供儀するこの祭を
 その頃何と呼んでいたか推測できないが、
 牛祝祭と呼ぶこととする。
 「牛宍饗」の宍(しし)は毛物の肉のことで、
 転じて獣・猪・鹿も
 「しし」と呼ぶようになった。
 「にく(肉)」は祝祭によって
 神に捧げられた宍の意であると
 考えている。
 諏訪大社信仰とは
 「鹿食免(かじきめん)」の幣あるいは
 「鹿食免箸」があった。
 諏訪明神の許し(免)があれば
 宍を食しても構わないというものであった。
 
 仏教の影響により
 肉食が禁じられたなかで特別の扱いである。
 日本に食肉料理文化が発展しなかったには、
 平安時代に殺牛信仰が禁止されたためで、
 韓半島のおいても
 同様の殺牛信仰が広がっていたが、
 禁止などということが起こらなかったので
 肉食文化は発達し、
 現在その芳名を高めているのである。
 さて、
 牛祝祭の実態は
 どのようなものであっただろうか。
 専らに描写した記録は残念ながら
 今のところ見当たらない。
 古典の中から抽出しなければならない。
 手掛かりは阿智である。
 阿智神社の祭神思金神は
 天照大御神の前を政る祭官であることは
 すでに解明されたが、
 阿智神に係わる事項として、
 神楽の一種で作法を重要視する
 阿知女作法なるものがある。
 神楽は夕暮れ後庭燎が焚かれ、
 和琴だけによる演奏が鳴り、
 作法が開始され、唱和も始まる。
  本方「アチメ、オ、オオ、オ」
  末方「オケ、アチメ、オ、オオ、オ」
  本方「オ、オケ」
 ここに唱和される
 「オ、オオ」は呼び掛けの事で、
 本来は神をほめる言葉であるが、
 アチメ、オケとなんだろうか。
 伝承によると
 天鈿女(天宇受売命)が
 天石窟(天岩屋戸)の前で
 奏した神楽舞に起源があるという。
 古事記、日本書紀の
 その場面を転記してみる。
 『古事記』
  八百萬の神、天安の河原に神集ひて、
  高御産巣は神の子、思金神に思はしめ、
  常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を
  集めて鳴かしめて、…略…
  天宇受売命、
  天の香山の天の日影を手次(たすき)に
  緊(か)けて、
  天の眞折(まさき)を縵として、
  天の香山の小竹葉(ささば)を
  手草(たぐさ)に結(ゆ)ひて、
  天の岩屋戸に汗気伏せて蹈(ふ)み
  登杼呂許志(とどろこし)、
  神懸(かみがか)り為(し)て、
  胸乳を掛き出で裳緒(もひも)を
  香登(ほと)に忍(お)し垂れき。
  璽に高天の原動(どよ)みて、
  八百萬の神共に咲ひき。
 『日本書紀』
  八百萬神、天安河に會(つど)ひて、
  其の祈るべき方を計ふ。
  故、思兼神、深く謀(はか)り
  遠く慮(たばか)りて、
  遂に常世の長鳴鳥を聚(あつ)めて、
  互に長鳴せしむ。
  …略…又猿女君(さるめのきみ)の
  遠祖天細女命(あめのうずめのみこと)、
  則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、
  天石窟戸の前に立たして、
  巧(たくみ)に作俳優(はざをさ)す。
  亦天香山真坂樹を以って鬘にし、
  蘿(つた)を以って手繦(たすき)にして、
  火處焼き、履槽置(うけふ)せ
  (履槽此れをば于該(うけ)と云ふ)、
  顕神明之憑談す(顕神明之憑談。
  此をば歌牟鵝可梨(かむがかり)と云ふ)。
 『古事記』にはないが、
 『日本書紀』に「火處焼き」とある。
 これは燔祭をいうのか、
 さもなければ古語拾遺の
 「挙庭燎」と同じく
 阿知女作法で庭燎が
 焚かれるのと同様である。
 『古事記』に「神懸り為て」、
 『日本書紀』に
 「顕神之憑談(歌牟我可梨)して」
 とあることから
 天鈿女命は御座であることが知られる。
 御座が種々の身飾り品を着けて
 舞を踊ったというのである。
 注目したいのは小竹葉(ささば)(古事記)で、
 『日本書紀』の「茅を綣いた矛」であり、
 手草に踊ったものである。
 矛は、鉾であるが、桙もある。
 正倉院の宝物の中に楽桙、
 つまり演舞用の矛が
 二例宝庫南倉に納められている。
 二例とも1977年の正倉院展に出展されたが、
 伎楽に用いられたと考えられており、
 まさに天石窟戸を想い起させる。
 一例は桧製で、「桙というに」ふさわしい。
 三叉形に彫出し黒漆で塗布された
 桙形先端のみ
 長さ39.3センチメートルのものである。
 第二の楽桙は、
 穂先が脇鈷一本だけの二又形状、
 鉄製で「桙」というべきである。
 径2.2センチの樫木の柄に
 金銅製金具を嵌め、
 目釘に壺金具を通して表裏に
 四弁花文の座金を装飾した
 全長105.3センチメートルの矛である。
 ところで小原一夫「南島入墨考」によると、
 八重山諸島の入墨文様のうちに
 「竹葉」と呼ばれるものがある。
 矢ともいうが、形状は三叉形である。
 つまり竹葉は三叉矛を表す。
 古語拾遺に「鐸をつけた矛」、
 つまり
 鈴をつけた矛という用語が出てくるが、
 これを実物説明するものが、
 先に触れた
 長野県辰野町に鎮座する
 矢彦神社に伝えられている。
 この「矢彦」が
 八重山諸島の入墨紋様でもわかるように
 矛を表すのだが、
 「鐸鉾(さなぎのほこ)」に
 実状をうかがい知ることができる。
 この鉾は毎年7月27日の例祭
 「御射山神事」
 つまり御狩の神事に登場する。
 鉄鐸(宝鈴)一個をつけた
 三叉鉾に柄を入れて
 長さ1.8メートルあり、
 同じ長さの麻製の和幣がつけられる。
 矢彦神社に近い
 塩尻市小野に鎮座する小野神社には
 社宝「神代鉾」が
 11個の鉄鐸と共に納められている。
 この鉾も三叉鉾で和幣が垂らされている。
 こちらも
 御射山神事に用いられたものであるが、
 御射山祭といえば諏訪大社が大元で、
 同社と上社にも鉄鐸が宝物となっている。
 先に触れた神長官の申立ともども
 御射山祭の御狩神事において
 獲物と屠殺する道具を
 奉祭したのが鐸鉾である。
 小竹葉は三叉鉾であったのである。
 『記・紀』に載る天鈿女命の所作は、
 平安時代の11月中寅日、
 宮中で行われる例祭鎮魂祭に反映している。
 9世紀後半の貞観儀式によると、
 雅楽の演奏と唱和、
 つまり
 阿知女作法に則りと思われるが、
 御巫舞が奉納された。
  「御巫、宇気槽を覆せ、
   その上に立ち桙をもって槽を撞く。
   十度畢(おわ)るごとに、
   佰・木綿縵を結ぶ。
   おわりて御巫舞おわる。」
 『古事記』において天鈿女命が
 「汙気伏せて蹈み登杼呂許志」。
 『日本書紀』において
 「覆槽(于該)伏せ足をふみならした」
 場面を
 貞観儀式は上記のように記している。
 宇気槽、中が空の船形の桶を伏せ、
 御巫がその上に乗って、
 木製の矛で槽を撞く儀式となったのである。
 これが10世紀初めの延喜式になると、
 宇気槽が臼に、
 桙(木製の矛)が杵に替えられ、
 結果稲籾を臼に入れて木槌で撞く、
 米収穫を内容とする儀式へと変転する。
 儀式当日には
 御巫がこの米を炊いて供物として
 祭所に奉るのが行事であった。
 
 三叉の矛は木製の槌に変わったのであった。
 宮中行事の変転にかかわらず、
 信濃の神社では、
 神代鉾として古式が
 守られてきたことになる。
 
 汙気を日本書紀が覆槽と表記し始めたことに
 遠因があると思うのだが、
 これを中が空の船形樋と解釈したのは
 日本古典文学大系の解釈などに
 従った表現である。
 しかし、戦闘の武具であり、
 狩の道具である矛を手革に結いて
 伏せた桶の上で足踏みをしながら、
 なぜ、
 天照大御神に
 石屋戸からお出ましいただくよう
 舞踊するのだろうか。
 単に大騒ぎをすればよいのだろうか。
 それならば、
 もっと音を出す器もあろうというものである。
 茅を纏いた矛は漢字の語呂合わせで、
 やはり笹(小竹葉・茅)に
 過ぎなかったのだろうか。
 そうではない。
 ウケ(汙気・覆槽)の解釈に
 問題があるのである。
 結論を明かせば、
 ウケとは牡牛(雄牛)を広くは牛を意味する。
 天石屋戸の神集いの情景は
 牛祝祭のスケッチなのである。
 ウケ・ウケソウは、
 サンスクリット語 
 uksan の転訛である。
 タイ語では水牛のことを 
 ekuaye という。
 Ai/aye 「~公」の意味で、
 エクアイは牛公である。
 インド・ヨーロッパ語圏の
 英語では ox 、
 ドイツ語では ochs となり牡牛を意味する。
 我々が現在使う「ウシ(牛)」は
 このウケの転訛と考える。
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第一章 祝祭(ハフリ) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 祝祭 祝祭(ハフリ)》
 先に阿智神社に
 智里昼神が鎮座していることを述べたが、
 この昼神とは八意思兼神が奉祭した神である。
 『古事記』の天石屋戸の段において、
 須佐之男命の乱暴に怒った天照大御神が
 石屋戸に入り隠れてしまった場面において
 八百萬神は困って思兼神に相談し、
 天照大御神が
 石屋戸から出て坐(ま)す計略を工夫し、
 諸神が集まって祭宴開き、
 大御神が遂に出て坐された経緯からすると、
 思兼神が祭宴を主宰し
 大御神に仕え奉る祭司である。
 天照大御神は
 別に天照大日孁尊(おおひるめのみこと)
 と称された。
 ところで、
 阿智神社を奉祀したのは阿智祝と伝えられ、
 八意思兼神、天表春命は
 この祝部の祖神である。
 風土記逸文に出てきた
 地名(ふせや伏谷)であるが、
 かっては
 阿智伏谷と合わせて
 呼ばれていたのではないかと推測される。
 阿智伏谷は
 サンスクリット語に
 祭司を表す adhivarya とみられるし、
 阿智はこの語から生まれたと考えられる。
 祭司=アチヴァーヤは
 供儀の祭を行う実務に精通しており
 実行の際には主宰する神官で、
 祭は数種の職制に分かれて取り行われるが、
 その第一に位するものである。
 八意思兼神は、
 このアチヴァーヤであり、
 阿智祝であったのである。
 さらに注目すべき、
 明らかになってきた重要な点は、
 天石屋戸における神集いは供儀の祭、
 つまり動物などの犠牲を神に供えて
 祈願を行う祝祭の情景を
 描いたものであることである。
  
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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箒(ははき)木は智恵の木 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《箒(ははき)木は智恵の木:はじめに》

《はじめに》
 「件木(くだんのき)は美濃信濃両国界、
  その原ふや世やと云所にある木なり。
  とほくてみれば、
  ははきをたてたるやうにたてり。
  ちかくてみれば、それに似たる木もなし、
  然れば、
  ありとはみれどあはぬ物たとへ侍り」
 八世紀の前半、奈良時代に編まれた
 「風土記」信濃国逸文
 「ははき木」の一説である。
 遠くから見ると
 箒(ほおき)立てたような
 形のような木があるが、
 近づいて見ると、
 そのような木は見えない。
 それ故に、
 あると見えているが、
 会うことができない物に
 例えられているという。
 紫式部「源氏物語」の「箒木」巻は
 この逸文に依って名づけられたものである。
 さて、この箒木を概念的に解釈すれば、
 「有りて無きもの、無きて有るもの」
 ということになる。
 まさに、
 「色即是空、空即是色」で
 般若心経の真髄を表わしている。
 般若心経は
 「大唐西域記」で知られる
 唐の僧玄奘(げんじょう)が
 西暦629年から645年にかけて
 現在の中央アジア・インドを
 旅行した後に漢訳した
 「般若波羅蜜多心経」のことで、
 般若は
 サンスクリット語 prajna を音写した
 「智恵」を意味する用語である。
 箒木が
 この「智恵」の表徴であることが
 理解できるであろう。
 美濃国は信濃国の境(界)
 「その原ふせやしとは
  どこだろうだろうか。」
 現在の長野県下伊那郡阿智村園原、
 智里伏谷のことである。
 古代東山道の美濃、
 現在の中津川市神坂から
 県境の神坂峠を越えて
 信濃へ入ったばかりの
 山岳地に位置している。
 現在この村は
 中央自動車道が貫通しており、
 トンネルに関する掘削から
 道路管理まで日本の最新知識と技術が
 結集されて建造された
 恵那山トンネルと網掛トンネルが
 道路距離の半分を占めている。
 だが、古代においては、
 東山道の東国へ旅する
 第一の険阻な関門であった。
 そして
 神坂峠は信濃国への入り口でもあった。
 
 阿智村智里こそは
 長野県の呼称信濃あるいは
 科野<シナノ>という
 名称の起こる大元と考えられるのである。
 智里はかって智里村といっていたが、
 その鎮守として
 昼神地区に阿智神社が
 前宮奥宮に分かれ祀られている。
 
 平安時代十世紀の
 延喜式神名帳に記載されている古い神社で、
 祭神は
 八意思兼(やごころのおもいかね)命、
 天表春(あまのおもはる)命が
 主神として祀られている。
 思兼神は、
 『日本書紀』の天石窟戸(あまのいわやど)、
 邇邇芸命(ににぎのみこと)の
 天孫降臨の段に登場する
 八百萬神(やおよろずのかみ)中
 第一の智恵神である。
 『古事記』においては
 邇邇芸命の天孫降臨の段の
 常世思金(とこよおもいかね)神と称され、
 高木神からは
 「思金は前(さき)の事取り持ちて、
  政(まつりごと)を為(せ)よ」と託され、
 また、
 「高御産巣日の子、思金神命」
 と表されている神である。
 高木神と高御産巣日神は
 同神として知られる。
 風土記逸文にみえる
 「その原」は園原で
 智里から神坂峠へ向かった
 その半場に位置するが、
 そこからさらに横川川を
 遡った山峡横川地籍に
 安布知神社が鎮座する。
 祭神は阿智神社と変わらない。
 「安布智」は「大智」と解釈できる。
 また、
 「大智」いえば大智度論が想起されるが、
 これは
 インドの大乗仏教僧で
 漢名「龍樹」と呼ばれた
 ナーガルジュナが著し、
 中央アジア地方から
 唐の長安に来たといわれる
 鳩摩羅汁(くまらじゅう)が
 漢訳した大品般若経の注釈書である。
 ここで問題は
 阿智神社が仏教寺院ではないことである。
 古来日本固有の宗教とされる
 神道の神社に智恵の神、
 仏教の般若の神が祀られていることが
 問題である。
 祭神名思兼と思金は異字同声である。
 両神名を音読みしてみると
 思兼 shiken 、
 思金は shikin で語幹は同じ、
 語尾が ken 、 kin と異なるといえ、
 これもほとんど同声である。
 このように
 日本固有の神道の神々の呼称を
 音訓化するなど
 異称から考察することが
 意義あることか検討してみる必要がある。 
 この今までなされてこなかった手法で
 『記・紀』神話を初めとする
 古代史に挑戦してみたのが本書である。
 特に西暦でいう一、二、三世紀の歴史は
 実に「箒木」で、
 時間的に過去のできごという
 絶対的条件もあり、
 「有りて無きもの、無きて有るもの」
 である。
 さて、
 この shiken / shikin の原語を
 追求したところ、
 インドの古代言語
 サンスクリット語 sikhin に
 由来するのが結論で、
 その意味は「智恵」である。
 また
 「智度」は
 同じく
 サンスクリット語のcitta の音写で
 智恵を表す。
 さらに智恵、
 智識を表す用語として jñana があり、
 これこそ「シナノ」へ転訛した言語で、
 科濃の呼称の大元が
 阿智村智里であると述べた理由である。
 阿智神社の東を流れる川の名が
 梨子野川で、
 北方に梨子野山がある。
 また、
 阿智村の北に清内路村がある。
 この二つの地名は jñana の転訛であり、
 「シナノ」名を補足するものである。
 ところで、
 サンスクリット語を祖語とする用語が
 神名に付されているのは、
 仏教が渡来し、
 本地垂迹説が広がり
 影響した後の名称ではないかとの
 疑問が起こってくる。
 その妥当ではないことは、
 『記・紀』の成立年代を考慮すれば
 明白になる。
 『古事記』は712年、
 『日本書紀』は720年に
 本地垂迹説が広がり始めるより
 100年余り前のことである。
 日本の古代史とはいえ、
 その考察には『記・紀』、『風土記』
 を始めとする日本の古代史料は元より、
 諸外国の歴史資料をも
 参考にしなければならない。
 『三国史記』、『三国遺事』など
 韓半島の史料、
 『書経詩経』、『史記』、『漢書』、
 『魏書』などの歴記、
 ベトナムの大越史記全書、
 インドの古代史料である
 リグ・ヴェーダなどの聖典から
 「ミリンダ王の問い」に至る
 仏教経典とその伝承、
 さらに
 メソポタミア、ユダヤ、ギリシャの資料まで
 考察の対象を広げなければならない。
 当然、
 これらの資料を成立させている言語は
 重要なデータの母体である。
 さらに重要な資料は地名である。
 地名や神社名は
 有言の歴史的事件の語り手である。
 例えば、
 日本の古代王権の中心地と見なされている
 奈良県は大和(やまと)国と呼ばれたが、
 このヤマトやナラでさえ、
 何故ヤマトとナラと呼ばれたのか
 解明されていない。
 これが解明されれば、
 日本の古代史はより実際的となる。
 どう発音してもヤマトと読めない。
 「大和」が当てられているのも
 不可解なことである。
 この点についてもまた箒木状態である。
 地名をどのように読み込んでいくかは、
 その「有るもの」に迫る
 効果的な手法であると考える。
 これが解明されれば
 日本の古代史はより実際的となる。
 安布知神社は、
 阿智村の横川地籍に鎮座しており、
 その地名に因んだ河
 が横川川と先に触れたが、
 この地名横川は長野県にはよくみられる。
 同じ伊那のうち上伊那郡辰野町、
 中央線が飯田線と分かれる辰野駅から
 松本方面に向かってしばらく行った
 川島駅付近で、
 西方から横川川が天竜川に流れ込み
 小野川と合流している。
 横川の地名も川上にある。
 また一山越えた南に
 小横川川が小野川に流れ込む。
 駅のある川島地区に智子神社があり、
 これも
 サンスクリット語の sikin の
 転訛とみられる。
 天竜川の水源諏訪湖の北岡谷市には
 横川地区があり、
 横河川が北から南の諏訪湖に向かって
 貫流している。
 この横河川は筑摩山地鉢伏山が水源だが、
 その南に通称高ボッチ山という
 奇妙な名の山があり、別称が横山である。
 山といえば、
 長野県と山梨県の県境に聳える
 八ヶ岳のうちに横岳がある。
 さらに群馬県となるが、
 軽井沢町碓氷峠の東松井田町に横川がある。
 信越本線の横川駅のあった地区である。
 これらの横川ないし横には
 相互に関係があるのだろうか。
 このような研究の探求の方法、
 つまり資料分析で
 「有ったもの」迫るものである。
 資料分析の発想は、
 製造工業などにおける
 生産経営と生産管理技法のうち
 品質管理手法に学んでいる。
 商品となる製造品と歴史資料とは
 分析対象として
 全く違う性格を持っているが、
 まずはデータ収集が
 大切であることには変わりがない。
 そして、
 いうところの散布図により
 同質性によるカテゴリー分類、
 特性要因によりその正当性を検討し、
 不良品を排除、
 認可範囲(管理用)に入るもののみ以って
 標準品として出荷するのである。
 真実であったとの推測を提起し、
 相関図を想定し、
 物語化するというものである。
 ここに述べた品質管理活動、
 つまり科学的品質管理手法とは、
 アメリカの統計学を生産現場に取り入れ、
 デミングの手法を日本に移植し、
 一般従業員の経営参加観念の方法として
 全社的品質管理の名の下に
 従業員間に品質管理グループ
 (QCサークルという)を結成させ、
 品質改善、
 コストダウン・生産工程改善などで
 現場にいる彼等に改善案を提案させ、
 生産性を向上させるというものである。
 1945年の第二次世界大戦の終結後、
 民主主義の潮流の中で構想され
 発足したこの活動は、
 日本経済の高度成長に
 生産性向上の面から多大の貢献をした。
 この活動の提唱者は
 東京大学教授であった石川馨であった。
 なぜ、
 この品質管理活動について
 概説したかというと、
 江上波夫が
 「騎馬民族国家」などの著作で
 日本に韓半島を経て騎馬民族がやって来て
 国を創建したという理論を展開したことと、
 その精神的風土が類似していると
 考えたからである。
 両博士が認識を共通していたかどうかは
 別として、
 その底にあるのは
 第二次世界大戦前にあった
 上(国家)から与えられて行動することへの
 反感だっただろうと考える。
 石川馨の場合は、
 底辺と決めつけられやすい
 従業員の発言を重要視し、
 上層からの圧迫に対する自我を発揚させた。
 江上波夫の騎馬民族国家論は、
 皇国史観への
 アンチ・テーゼ(反対主張)と
 解釈できるのである。
 この理論は比較文化論を発揚させ、
 神話学、考古学面で多くの研究がなされ、
 現在に至っては多くの資料を
 参照できるようにしたいう
 大きな功績があったいえよう。
 だが、
 未だ決定的な考古学的史料と思われる
 古墳などが
 参照できないでいるいう事情は
 あるにしても、
 今日までどのような民族が渡来し、
 その国家とは
 どのような政朝であるかなどの
 結論はでておらず、
 歴史として確立するまでに至っていない。
 歴史観としては、
 東アジア各国歴史研究家に刺激を与え、
 江上理論を基にした
 解釈を展開している者も
 かなりいるようである。
 以上述べた歴史研究観からすれば、
 本書に展開する提起は弁証法的にいえば、
 騎馬国家民族論へのアンチ・テーゼである。
 勿論、
 当然のことながら
 皇国史観に立ったものでは全くない、
 新しい主張(テーゼ)と
 解釈していただきたいと思う。
 
 新しい世紀(21世紀)における、
 東アジア古代史研究の方向としての
 問題提起と
 考えていただきたいと思っている。
 特に遺物を以って
 実証とする研究をしている方々には、
 インドのように火葬にして
 その灰を聖なる川に流してしまい、
 墳墓を作らない文化もあることを
 認識してほしい。
 その葬むられた人々の骨格も成分も
 今や把握されないのである。
 また、
 その伝承を文字に残すのではなく、
 口承により伝承された文化もあるのである。
 「箒木」は今にいう[ほうき]、
 現代生活では電気掃除機に
 その主役を譲ってしまったが、
 無用となり、
 忘れさられているものではない。
 箒木は安産の神との伝承もあり、
 大事にされているところもある。
 栃木県那須郡の塩原町から
 矢板市、大田原市を箒川が流れ、
 小川町の東の端で那珂川に合流している。
 塩谷町玉生には伯耆根神社、
 矢板市内には
 箒根神社が現在少なくとも
 5社が鎮座している。
 箒木は、
 『古事記』の天石窟戸の場面に出てくる
 「天波波迦」とも関係するだろうし、
 「ハハ」は「妣」と関係する。
 『古事記』によると
 須佐之男命が母神とされる
 伊邪那岐命に向かって
 「僕は妣の国根の堅洲国に
  羅(まから)むと欲(おも)ふ。
  故、哭(な)くなり。」といって
 涕(な)泣き叫ぶ物語の
 「妣の国」のことである。
「羽賀ヒカル 神社チャンネル」
「般若波羅蜜多心経」
M.K記
 

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目次1 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]







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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 
  1946年   長野県生まれ
  早稲田大学文学部卒業
  東邦生命保険相互会社 
  財団法人海外技術者研修協会勤務
 
  1988年より歴史研究に専念
  1999年から2年「創世紀」執筆
  2002年8月 歴史学講座「創世」開講〔草加市(古代史)〕
  2006年8月 「再成塾」開講〔草加市(近世史・近代史)〕
  2006年10月 歴史学講座「創世」うらわ塾〔現さいたま塾〕開講
  2009年 2月 歴史学講座「創世」葛飾塾開講〔松戸市〕
  2012年2月 「さいたま再成塾」開講〔さいたま市〕  
     2014年 12月  「日本創世紀:倭人の来歴と邪馬台国の時代」出版
   2017年   7月 歴史学講座「創世」狭山塾開講〔狭山市〕
     2019年   7月  「神聖の系譜:メソポタミア〔シュメール
         ヘブライそして日本の古代史」出版
 
目次1
第1章・第2章・第3章・第4章・第5章第6章
 
 はじめに「ははき(帚・箒)木」
 
 第1章 祝祭
  祝(ハフリ)  
 
 
  ウケ(牛)と保食神
 
  豊宇気毘売神(登由宇気神)
 
  インドの踊子と天鈿女命
 
  ドゥルガー
 
  デーヴィー・マハートミヤ
 
  ドゥルガー・プージャー
 
  淀姫神社と矢保左神社
 
  ホーリー祭 
 
  左儀仗・三九郎
 
 第2章 メソポタミアと牡牛
 
  供犠の起源
 
  バビロニアの新年祭
  エリドウ          
 
    メソポタミアの開明期と彩文土器
  
   角の崇拝           
 
  埋葬儀礼
 
  埋葬儀礼と牛頭
 
  野牛狩と殺牛技法
 
  牛頭崇拝とハフリ       
 
  牛頭崇拝と角
 
  地名「アルパチア」
 
  高床式建物と神殿       
 
  高床式神殿と「高み」     
 
  高床式神殿の祭神(1)豊饒神 
  
  高床式神殿の祭神(2)水神
 
  高床式神殿の祭神(3)創造主
 
  太陽神            
 
  カルト人と南メソポタミア    
 
  角と「メ」信仰        
 
  エンキ神と「メ」の職能    
 
 第3章 カルト人の進出     
 
  「創世記」カインの本実    
 
  スバル人とスバルトウ     
 
  スバル人の商業活動      
 
  カルト(スバル)人の地中海進出
 
   (1)ウガリト       
 
   (2)フィリステル
 
   (3)アジア
 
   (4)カナアン(カナン) 
  
  カナン神話
 
   (4)クレタ島
 
    クノッソス
 
     アゲノールとエゥロペー
 
     ミノス
 
     (5)マルタ島       
  
   (6)ラチウム(ローマ)   
 
   (7)ベルベル人
 
   (8)イベリア半島     
  
  地中海人種
 
 第4章 カルト人の移動     
  フルリ人とミタンニ国     
 
  ウラルトウ          
 
  グルジア:(現)ジョージア           
 
  大陸ケルト人         
 
  ゲルマン
 
 第5章 『旧約聖書』「創世期」   
  洪水伝説と祝祭        
 
  エデンと四つの川       
 
  (1)エデンの園       
 
  (2)ピソン川        
 
  (3)ギホン川        
 
  ノアの系譜          
 
  (1)ヤペテの子孫   
       (a)ゴメルの子孫
       (b)ヤワンの子孫
 
  (2)ハムの子孫
    (a)クシの系図       
    (b)クシの子ニムロデ
 
  (3)セムの子孫
   (a)アルパクサデの系図 
   (b)ペレグ
 
  (3)セムの子孫
   (c)アブラムとアブラハム
 
  ヘブライ人とユダヤ人      
 
  ヤハウェとモーセ        
  
  ヤハウェと祝祭
 
 ※第6章は第16章と合成する
 
M.K記
 

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