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第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器

 

 エリドゥに神殿を建てた人々とは
 どのような人々であったか。
 
 エリドゥ市の成立の過程から、
 人々がここに来てから神殿を建てる信仰心を
 獲得したと考えるのは難しい。
 
 やはり、移住してきた第一の先住民が、
 彼等の生活思想として持ち込んで来たと
 考えるのが妥当であろう。
 
 エリドゥ市が成立した
 ウバイド期のうちに同市と共通した文化風土を
 持った遺跡文化を他の地に求めざるを得ない。
 
 メソポタミアの開明の舞台となったのは
 ペルシャ湾近くの両大河の河口地域ではない。
 
 両河の源であり、
 この平野を取り巻く山脈と平野との境界地帯で
 あった。
 
 レバノン山脈、
 トルコのタウルス(トロス)山脈から
 アナトリアの山岳地帯、
 イラク北端のシンジャール、
 ハルルの両山脈、
 そしてイランのザクロス山脈へと山塊は連なる。
 
 これらの山々に育まれて
 人々は文明への胎動を始め、
 揺籃期を送ったのである。
 
 チグリス川の支流、
 大ザブ川のそのまた支流シャニダール川に
 近い新石器時代の集落で
 羊の家畜化を始めたのは
 紀元前九千年期の初期であった。
 
 マイケル・ローフの資料によると、
 北方の山地一帯には
 野生の大麦小麦が分布していた。
 
 また
 羊やヤギ、鹿などの生育に適した土地でも
 あった。
 
 そのような環境の中、紀元前七千年期には
 天水農耕を利用した集落が形成され始め、
 土器が作られるようになった。
 
 その土器新石器時代初期を
 原ハッスーナ文化という。
 
 そして
 紀元前七千年期半ばになると
 土器製作に発達がみられ、
 
 単調なものから、
 彩文刻文を持つ洗練された土器が
 作られるようになった。
 
 これを
 原ハッスーナ文化の発展したものとの判断から
 ハッスーナ文化という。
 
 この名称は
 ニネヴェの南方チグリス川と大ザブ川の合流点の
 わずか西方に位置するハッスーナに因む。
 
 紀元前七千年期の終わり頃になると、
 このハッスーナ文化の中から
 新しい形式の土器が作られるようになる。
 
 焼成精度は向上し、
 チョコレート色の彩文が見事に描かれたのが
 象徴である。
 
 この文化の範囲は大きく広がり、
 西方はハブール川近くバグーズまで、
 東方はイランのザグロス山脈、
 そして
 南方はチグリス川下流のサマッラ市、
 さらにそこから
 東南の遺跡チョガ・マミまで至った。
 
 遺跡名サマッラがこの土器文化の呼称とされた。
 
 サマッラ期の大きな事件は、
 人々がかなりの距離の運河を掘り、
 それを維持する灌漑技術を習得したことである。
 
 サマッラ文化の南端に位置する
 チョガ・マミ遺跡で運河跡が見つかっている。
 
 この灌漑用水路発見されている
 運河の最古のものである。
 
 遺物の中には大麦などに天水農耕期とは違う
 新しい改良品種の作物もみられ、
 天然の品種より実の太りがよくなって
 収穫量の増加を来しただろうことの
 証拠とみられる。
 
 灌漑技術は天水農耕地帯に増収穫が、
 雨の少ない地帯でも農耕できる
 農地開墾が可能となった。
 
 紀元前六千年頃になると、
 ハッスーナ文化は
 ハラフ文化に取って替わられる。
 
 この文化はサマッラ文化よりさらに広い地帯に
 影響をもたらした。
 
 天水農耕の南限に沿って
 西方はユーフラテス川の最西を越え、
 現在のアレッポ辺りまで、
 
 南東はザグロス山脈まで達した。
 
 この期には土器製作に技術的向上がみられ、
 二室構造の窯で焼成した彩文土器は
 見事であった。
 
 粘土の質も粒子がきめ細かく、
 色彩はサーモン・ピンクが多かった。
 
 ただ、
 この広い分布圏内には土器形成の異なりが
 地域によって表れることから判断して
 同一民族が
 その担い手であったとはいえないという見解を
 マイケル・ローフは述べている。
 
 ハラフの名称は
 ハブール川とその西方ユーフラテス川との
 間にある
 ウルファ市に近い遺跡名テル・ハラフに因む。
 
 ハラフ文化の後にやってきたのが
 ウバイド文化である。
 
 その分布範囲には
 エリドゥのあるペルシャ湾沿岸から
 チョガ・マミの辺りまで
 両大河の周辺に限られた狭い地域である。
 
 その最古の遺跡は
 紀元前五千九百年頃までに遡及するとされる。
 
 このエリドゥの最古の遺跡から始まる時期を
 ポラダの編年表ではエリドゥ期と呼んでいた。
 
 この文化の象徴は
 サマッラ文化との類似が
 みられるという点である。
 
 ロンドン大学のジェイムス・メラート教授は、
 サマッラ文化の顕著な広がりが
 南メソポタミアやフジスタンを中心として
 みられ、
 エリドゥなどの遺跡が
 サマッラ中期・後期文化の大きな影響を
 受けていると指摘した。
 
 さらに
 北メソポタミアでは天水農耕が可能であるが、
 南メソポタミアは灌漑をしないと
 農耕が不可能なのであり、
 この灌漑農耕によって
 シュメルやアッカドの文明が
 可能となったといえようとも述べている。
 
 灌漑技術の発明は
 人々の生活に革命的変化をもたらしたのである。
 
 その最高の技術は単に人から人へ、
 地方から地方へ
 伝播されたというのではなく、
 
 技術者達が賢者として移動していったと
 十分考えられる。
 
 サマッラ文化のエリドゥへの影響について、
 マックス・E.L.マロワンも
 「ケンブリッジ古代史」の中で
 
 「エリドゥの陶器が持つ重大性は疑いもなく
  かなり北方のサマッラと知られる
  彩文土器のグループから
  影響を受けていることである」
 
 と述べている。
 
 西アジアの土器は彩文土器が多いことに
 特徴があり、
 メソポタミアではハッスーナ期から
 刻線文などの幾何学紋が頻繁に使われた。
 
 サマッラ文化以降には
 動物や植物の意匠をほどこしたものが
 増大したほか、
 物語を意匠として展開させた平皿なども
 みられるようになった。
 
 サマッラ土器に卍字紋が
 たくさん用いられている点は見逃せない。
 
 卍字紋とは、
 マルタ十字紋様、
 鉤十字紋を幾何学図形・動物意匠、
 時には植物とみられる意匠で紋様化したもので、
 宗教的表現と判断できるものもある。
 
 古代ギリシャでいうブクラニオン、
 牡牛の頭を正面からみた形も角を
 長く強調して描かれている。
 
 動物の中ににはレイヨウが
 抽象化された形で多く描かれている。
 
 ハラフ期初期の彩文土器になるが、
 イラクの考古学者
 イスマイル・ビジャラ(ISMAIL HIJARA)が
 1976年に報告した:
 
 IRAQ VOLUME XLII PART2 AUTUMN 1980  ARPACHIYAH 1976
 by ISMAIL HIJARA AND OTHERS 
ARPACHIYAH1976.jpg
  ※ARPACHIYAH 1976 ISMAIL HIJARA AND OTHERS
 
  ※アルパチヤ
 アルパチヤ遺跡出土の碗形土器に描かれた
 彩文土器意匠には驚きがある。
 
 日本の神社に酷似した
 建物意匠が描かれているからである。
 
 アルパチヤは
 ニネヴェのすぐ東に隣接する遺跡である。
 
 建物意匠ばかりでなく、
 この碗形土器には宗教的物語が語られていて
 興味深い。
 
 図の第一段には牛頭の正面、
 マルタ十字、蛇とマルタ十字、
 さらに二人の人間とその身長より大きい壺、
 
 第二段には半面の牛頭と幕と思われるものに
 二人の髪の長い女性。
 
 第三段には二頭の牛と矛を背に負い
 弓を手に持った狩人、
 
 幕と思われる布、
 そして第四段円の中には
 斜めの階段つき高床式建物を描いている。
 
 この建物の構造は
 日本の神社の本殿そのものである。
 
 メソポタミア北部のしかも
 紀元前六千年期の神殿が
 日本の神殿とどう結びつくのだろうか。
 
 また、この碗形土器を紹介する
 増田精一は
 
 「西アジアでは、
  布幕はその背後に聖なるものの存在を
  象徴する時に用いられる」
 
 とコメントしているが、
 日本の神殿においても垂幕はつきものである。
 
 この碗に描かれた布幕の内に坐す神は
 どのような存在なのだろうか。
 
 今のところその神名は不明である。
 
 さて、サマッラ文化・ハラフ文化の彩文土器に
 表現された卍字紋意匠、
 正面向きの牛頭意匠は製作者たちの
 共通な想念によっていると考えられる。
 
 卍紋は
 サンスクリット語で svastika 
 スワスティカという。
 
 スワは吉兆の意、
 スティカは
 英語でいうステッカーで形象のことである。
 
 日本で仏教寺院のマークと決め付けている
 卍字紋は元より、
 多くの神社が神紋としている巴紋も
 この範疇に入ることは明らかである。
 
 この卍紋が使われた
 サマッラ・ハラフの両文化の分布するセンターが
 後に紀元前三千年期以降になってからではあるが
 カルトゥ、スバル人の国と呼ばれたことを
 想起していただけると思う。
 
 卍紋とスバル人とを結びつけることは
 できるだろうか。
 
 メソポタミア北方に生まれた
 サマッラ・ハラフ両文化の陶器に
 表された彩色紋様が南メソポタミアへ伝播し、
 影響したことは確実である。
 
 多様な紋様のうち幾何学意匠は
 紀元前五千年期初めのウバイド期初期から
 エリドゥ、ウルまたその近郊の
 テル・ウェイリ遺跡などに表れ、
 紀元前三千年頃まで、
 専門家がいうウルクまで続いた。
 
 そしてこの間
 南部の陶器製作者は
 北部から影響され続けたのである。
 
 エリドゥ市の神殿跡から発見された
 ラッパ状の長い飲み口を付けた
 フィツシュ・ケトル(魚湯わかし器)と
 称される容器の同類が
 ニネヴェの北に位置する
 テペ・ガウラの遺跡からも
 発見されていることからも解る。
 
 テペ・ガウラのものの方が製作時期が早い。
 
 メロワンは、
 この比較をもって
 南部メソポタミアの陶器が
 北方から影響を受けたとことの
 証拠としている。
 
 
M.K記

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