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第二章 エリドゥ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 エリドゥ
 
 紀元前五千年紀に神殿が
 エリドゥに建てられ始めたという事実は
 重要である。
 
 シュメルの楔形文字文書の中に
 『王名表』がある。
 
 この地を支配してきた
 原初からの歴代王朝の記録で、
 現存する最古の写本は
 前二千年紀初頭作成されたものである。
 
 この写本を紀元前四世紀になって
 
 バビロニア人でベロッソスという書記が
 
 転写した写本は
 
  "[nam]-lugal an-ta èd-dè-a-ba
   [eri]duki nam-lugal-la"
 
 「王権が天より下ってきたのち、
  エリドゥ市が王権の(所在地)となった」
 
 から始まっている。
 
 マイケル・ローフによると
 エリドゥについて叙事詩が語る。
 
  葦は生えていなかった。
  木はできていなかった。
  家は建てられていなかった。
  都市はできていなかった。
  大地はすべて海であった。
  そして、
  エリドゥがつくられた。
 
 エリドゥの地は何もない処女地であり、
 ここに初めて王権を保持した人々がやってきて
 家々を建て集落を形成し
 都市を築いたというのである。
 
 先に述べたとおり、
 エリドゥは本来シュメル語ではない。
 
 「降臨の地」という解釈もできよう。
 
 「リドゥの神殿」とも解釈できる。
 
 「エ É 」がシュメル語で
 多用される家ないし神殿を、
 
 日本語でいうところの「イエ」で、
 リドゥ ridu をリタ rta と解釈できる。
 
 紀元前二千前紀に北メソポタミアで活躍し、
 専門家によっては
 スバル人の別名として扱われている
 フルリ人が信奉する神名の一つである。
 
 エリドゥの神殿はウル・ナンム(地名)で、
 その遺構が発掘された。
 
 ウバイド期から十八回の再建が行われ、
 最古の神殿は建物遺物があるだけで
 本当に神殿かどうか疑わしいが、
 その上に建てられた
 第二の神殿は確かなものである。
 
 薄い壁で造られた
 二・八メートル四方の小さな
 礼拝祠堂という方が似つかわしい。
 
 それも一部の壁が欠落したり、
 内部の配置など建前が不完全で
 実際あった様子がみられない。
 
 第三の神殿になって、
 第二の神殿より若干敷地面積が大きくなり、
 建物の見取が判明してくる。
 
 部屋の中に祭壇と供物台が一つずつ据えられ、
 時代の経過と共に建物規模は拡大され、
 祭壇の位置が奥の壁に着けられていることに
 変わりがないものの、
 祭壇と供物台との間は広げられ、
 この中央の広間で礼拝に係わる祭事が
 行われたことを推測させる。
 
 また、
 神殿は常につき堅められた土台の上に
 建てられている。
 
 この土台の高度化が後に聖塔(ジックラト)へと
 発展したのだとの理解がされている。
 
 祭壇と供物台が対になっているのも
 その後のメソポタミアにおける
 神殿構成上の基本的要素となっている。
 
 大きな建物が造築されるようになると、
 補強のため
 外側に扶壁がつけられるようになるのも
 特徴である。
 
 供物台も、単に供物を置いただけでなく、
 台上で犠牲を焼いた痕跡の確認された
 遺構もある。
 
 建物の外には炉跡が最古の神殿の時代から
 掘られていた。
 
 その形は建物の壁と同様
 日乾煉瓦で固めた円形であった。
 
 現在、
 イラクのどこにもエリドゥの都市名はない。
 
 古代の名を現在までそのまま受け継いでいる
 ウル市の南にある
 テル・アブ・シャハラインが遺跡地である。
 
 古代においては
 ペルシャ湾はこの辺まで入り込み、
 エリドゥはその海岸近くに建てられたのである。
 
 供物だったものの中に魚の骨が
 多くみられるのもそのためである。
 
 エリドゥを建てた人々がどのような人であったか
 実際のところ明らかでないが、
 
 この地方への第一の移住民であったことは
 確かである。
 
 近郊のウル市も同時期かそう遅からず
 創建されたところであるが、
 
 後世には建造されたが、
 頭初には神殿の造築がなかったので、
 両市が連携していたのではないかとの推測が
 なされている。
 
 その後紀元前三千年頃、伝承ではあるが、
 海の方からか東南のペルシャ高原からか、
 シュメル人といわれる
 頭の黒い人々がやって来る。
 
 彼等もその素性はよく解っていない。
 
 現在彼等と言語の性格を同じくする言語は
 他に捜し得ていないので
 膠着語の仲間に入っている。
 
 シュメル人は、
 前三千年紀のうちに西北方から圧し寄せてきた
 アッカド人を始めとする
 セム系民族に吸収されるか、
 あるいは外地へ移動したのか、
 前二千年紀が始まる前とは
 固有集団としての動きを
 この地域から全く消してしまった。
 
 「シュメル」の呼称は
 アッカド時代になって表れるが、
 本来土地の呼称で彼等自身は
 キ・エン・ギ Ki.en.gi と呼んだ。
 
 それは葦の土地(葦原)の意であった。
 
 シュメル人は
 第一の移住者たちの文化を
 拒否したわけではなく、
 その伝統を引き継いだ。
 
 そして革新・発明も行った。
 
 その例が文字の発明であり、
 神話の集大成であった。
 
 第一の先住民が移動してきた
 紀元前五千年紀のウバイド期から
 文書が書かれた粘土板ができるまで
 二千年の年月が経っている。
 
 文書の遺留物のうち、
 我々にみられるようになったのは
 ウルク市から発見された
 絵文字の粘土板がその嗃矢(最初)である。
 
 シュメル語での判読はされているものの、
 その当時これらの文書を使った人々が
 何と読んだかは
 今のところ専門家の努力にもかかわらず
 不明である。
 
 しかし、
 これらの絵文字は
 楔形文字の原型と考えられている。
 
 ウルク市は現在のワルカ市(ワルカ遺跡)
 シュメル時代はウヌ unu と呼ばれ、
 
 旧約聖書にはエレクと記述されている町である。
 
 エリドゥと同じく
 市名の基になっている意味は
 諸説考えられているが不確定である。
 
 私見では、
 絵文字が発見された土地であることを
 第一の理由として
 
 「言語」ないし「書き言葉」
 
 つまり文字を表しているのがウヌの原語である。
 
 
M.K記

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