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(2)極東へ運ばれた「神の箱」③ [神聖の系譜]


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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」③
 
 (4) マレー語、インドネシア語、
タガログ語(フィリピン)、の石と法律
 
マレー半島、スマトラ南部、ジャワ島を中心に、
7、8世紀にはバラモン教を信仰の主眼とした
シュリーヴィジャ国が興り13世紀までに
その係累の国が栄えた。
 
ジャワ島のボロブドールの神殿はその典型である。
 
その後15世紀にはイスラム教が浸透し
マタラム国などの王国がイスラム教で支配した。
 
言うまでもなく
同教のコーランなどの言葉はアラビア語で、
その影響は21世紀の今日まで
色濃く継続している。
 
そうした歴史を持つ
マレー語、インドネシア語、タガログ語の中に
興味ある用語がある。
 
第一に
batu〔マレー語、インドネシア語〕
bato〔タガログ語〕で
三語とも
「石」あるいは「岩」との語義で共一である。
 
その祖語はイブル語の BT で、
『旧約聖書』の中にある「創世記」で語られる
アブラハムが息子イサクを神に捧げようとして
犠牲の祭壇を築いたモレヤの山を BT の山と
二ヶ所で表記しているのに連なる。
 
これは明らかに
「石の山」あるいは「岩の山」の義である。
 
BT は今においては「娘」の意味で
英語版や日本語版の聖書には
「娘の山」と翻訳されている。
 
つまり 
BT の表記を「石、岩」とする用法は
死んでしまったのである。
 
マレー語等での用語は
アラビア語からの移入ではない。
 
イスラム教化する以前から
この地方に定着していた用語と言える。
 
さらに注目されるのはその BT を語幹とする 
batas が「掟」あるいは「法律」の
意味であることである。
 
インドネシアのジャワ島では
「石」をwatu(batu)と表記し、
「法律」を wet という。
 
これも「石」と「法律」の関係に
「石」が介在している。
 
その背景にはモーセの「十戒石」に
「戒律(法律)」が書かれた実情に由来し、
この地に「十戒石」が渡来し、
人々の関心を引いたとの事実を示すものである。
 
因みにインドネシア語、マレー語の双方に
「法律」との用語として hukum とあるが、
同語もイブル語の hkhum の音写で、
形容詞として「賢い」ながら名詞として
「賢人、専門家」となり、
特に「博学な人」として
「宗教的律法学者」と
「律法」の専門家との意味があり、
これも「十戒」に詳しい人を指している。
 
これらの言葉の分析から、
明らかにこの地域に
紀元前後の頃「十戒石」及び
イブル人の信仰が
渡来していたと言えるのである。
 
loh(マレー語) lauh(インドネシア語)は
「石板」「書板」の語義でアラビア語からの移入と
解釈されているが、果たして本当か疑わしい。
 
イブル語、アラビア語ではその祖語を
カナアンのセム語に由来する共一語が多い。
 
マラッカからさらに船に乗せられた
「神の箱」はマレー半島の南端を回り
カリマンタン(ボルネオ)の西側近くを北上し、
フィリピン諸島よりの南シナ海、
ルソン島海峡を越えて台湾の東岸方面の
太平洋へ出て北上を続けた。
 
その当時4世紀は帆船だったはずで、
春から夏の季節風、
南風(はえ)に
ゆっくり送られていったのだろう。
 
BT〔石〕との用語は日本に渡来してしている。
 
本書(神の系譜)第4部
イスラエル人は「十戒石」を日本へ移転させた
で紹介した物部氏の「物」は「ブツ」が本来で
「物部」は「石」が本義と紹介した。
 
「ブツ」BTである。
 
物部氏の奉祭した神社に
石上神社(奈良県天理市)がある。
 
神社名は「イソノウエ」で
「石船」を背景とする。
 
そして同社の御祭神である「布都神」とは
「石の神」であるの意義にして BT の音写に依る。
 
もう一つの御祭神「布都神」は「フツシュ」にして
Batas〔戒律〕でここに祭っているのが
「十戒石」であることを表わしている。
 
同社の巫女舞で知られる
「ヒイ、フウ、ミ、ヨウ、イツ、
ムウ、ナナ、ヤ、ココナ、トウ」とは
「十戒」の第1条から第10条を
数え上げている様子で、
氏子が「十戒」を信仰し保持しますと
神に申し上げているのである。
 
物部氏とは
イブル人のガド族〔イスラエル人〕である。
 
ユダ族がモーセ自身が彫った「十戒石」を
極東へ渡来させたより400年は前の
紀元前1世紀中に日本へ海洋商人として
伊都国(福岡県)居留を始めた人々である。
 
ガド族の重要な「十戒石」については
本書(神の系譜)第4部で詳細に紹介した。
 
マレー半島などでの BT との用語遺留は
ガド族の仕業(しわざ)である。
 
ユダ国人〔ユダ族〕が
極東へ移動しようと決心させたのは
ガドの情報があってこそであるし、
彼等を渡来させたのは
ガド族がの所業があってこそであるし、
彼等を渡来させたのは倭人の絹であった。
 
(5) 「神の箱」の南九州への到着と安堵
〔大隅半島志布志湾〕
 
ユダ族の人々に奉祭された
モーセの「十戒石」を納めた
「神の箱」を乗せた船は
ついに地の果ての日本列島の端に到着した。
 
そこは
志布志湾〔鹿児島県大隅半島〕の
穏やかな海岸であった。
 
ジプチを船出してから十年近くは
少なくともかかったに違いない。
 
それを明白にする資料は全くない。
さて志布志湾に至ったユダ族の人々は
そこで大安心を感じた。
 
その感慨を表しているのが地名である。
湾名の「志布志」は「シブシ」で
イブル語の SVF-SVF 〔最後の最後〕で 
「遂に」とか「終わった」
という気持ちの表れである。
 
日本語に現在「しぶしぶ」とあり、
「いやいやながら」
との気持をいうものになっているが、
それも「最後の最後にはとの結末を
肯定的に表わす用語である。
 
「志布志」とはその想いの表象である。
 
「安楽」との字名も志布志町内にある。
 
いかにも「安心」を得た
安堵感の喜しさを表わしている。
 
有明町〔曽於郡・志布志町の隣り〕(ありあけ)
「アリヤケ」YLYH、ialiyah〔上ること〕
ここでは海から陸へ上がること。
 
同町の海岸に「上之浜」とある。
 
ここに着岸したのである。
※出典:現在と未来の世界遺産IN中国 海のシルクロード
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 巫女舞

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E8%88%9E

 

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 志布志湾

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%B8%83%E5%BF%97%E6%B9%BE

 

 

『古代日本へ渡来した人々の系譜』

 


小嶋秋彦(歴史研究家)原図

https://matmkanehara.blog.ss-blog.jp/2019-03-14-4

 

M.K記(責)

   連絡先:090-2485-7908


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(2)極東へ運ばれた「神の箱」② [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」②
 (B) 船に乗せられアラビア海へ出た「神の箱」
 
「神の箱」は奉祭するユダ族総がかりで
船に乗せられ彼らに守護されて
アラビア海へ出ていったに違いない。
 
船は太平洋へ出るまでの途次
安全なところを見定めて寄留した。
 
(1) ラカディーブ諸島
〔LacacadiveまたはLakshadweep〕
 
インド南端の西方
現ケララ州コーチン市の西方にある。
 
アラビア海の東端といってもよい
海中にある島々で、
その南方とはモルジブ国の島々が続く。
 
アデン湾からは紀元前後に開発され
知られるようになった。
 
季節風に乗って
インド洋を横断通過すればこの地域に至る。
 
何しろ大陸域は人も多く危険である。
 
小さな島に寄ったほうが秘密も保てるし、
はるかに安全である。
 
アデン湾を出て現イェーメンやイラン、
パキスタン、インドとアラビア海岸に沿って
航海するのは危険極まりなく採るべき航路ではない。
 
この諸島の透明を燻る語で解釈する。
 
〇Laccadive〔LVKh(VT)-DV、Iukh(at)-du〕
<板-二つの>二枚の板。
 
〇Lakshdweep〔Lukh(VT)-ShTVkh、Iukh(at)-shtuukh〕
<板-海中に出された>船で海に押し出された板
 
〇アンドロート島〔Androth〕ANDRTH、anedo ritoh
<記念碑、彫刻物(石)>
 
〇アミンディビ島〔Amindivi〕AMNH、DV、amenh-du
<契約(の石)-二つの>二枚の契約(証拠)の石
 
これらの島称はモーセの「十戒石」に係わる用語。
 
因みに対岸のケララ〔kerela〕州名は
イブル語KLL、kelal「掟」「原則」ながら
「社会」「大衆」の語義があり、
イブル人の共同社会をいうものである。
 
ガド族はなど先に渡来していた人々の居留地である。
 
「十戒石」を納めた「神の箱」は
ここに永く安置されていたのではなく、
船は東方へと航海して行った。
 
(2) ニコバル諸島〔Nicobar、Nicobal〕
 
ニコバル諸島はインド洋東北区域、
ベンガル湾の外で
ミャンマー・タイ半島部に
近い海中の島々で、
北側にアンダマン諸島、
南東に海を行くと
インドネシアのスマトラの北端に至る。
 
わずかに200kmである。
 
諸島中のカタハルkatchallには
ミシャMishaなる町があって、
同名がモーセ名に由来するとも推測される。
 
カタハル は〔KTV-Khll katau-khell:文字-掟〕で
「十戒(掟)の刻み文字」と十戒石の印刻文を指し、
それはモーセのなせる所であった。
 
ニコバル Nicobar は NK-BRYT 
〔休む(上陸する)-契約〕で
「契約(十戒石)の休息(上陸)」と、
ここに十戒石を納めた「神の箱」を
陸揚げしたとの記録である。
 
とはいえ、
この地も安置の聖所を設けるには
万全な場所ではなかった。
 
さらに東方へと移動して行った。
 
ニコバル諸島を南下すると
マラッカ海峡を通ることになる。
 
その海峡名はマレーシアの都市名
「マラッカ」に依っており、
同名が古いものであることが理解される。
 
(3) マラッカ〔Melaka・Malacca:マレーシア〕
 
マラッカは
首都クアランプールの南数時間の
海峡の海に面した小さな地域で、
後にポルトガルやオランダの
植民港に使用された港が
その開拓を誘因したところである。
 
紀元前から
東方との海洋交易に乗り出していた
イブル人のガド族はさらに
少々南のシンガポールを
寄留港として占有していたはずである。
 
Singa-とはサンスクリット語で
「ライオン」を表している。
古代からインド亜大陸以東には
ライオンは棲息していない。
メソポタミア以西の動物である。
 
その呼称がここに定着しているのは、
西方のライオンを象徴している民族が
渡来し居留した証拠である。
 
向いのスマトラ側に
広く Riau という地帯が広がっているし、
唐代、日本の奈良時代の史料に
「羅越」の地名が遺されているが
これらも「ライオン」に依拠している。
 
旧約聖書のうちに
ライオンを形容に使っている
ガド族、ユダ族が代表的である。
 
創世記の第49章9および10には
次のように述べられている。
 
ヤコブがその最後(死)の日に彼の子達を集めて
それぞれ与えた言葉である。
 
 
ユダは獅子の子、
わが子よ、
あなたは獲物によって成長する。
 
雌獅子のように彼はうずくまり身を伏せる。
 
誰がこれを起こすことができようか。
 
王権はユダを離れず、
統治者の杖は
その足の間を離れることはない。
 
 
最後の文句は前に引用したものである。
 
また「申命記」第23章20は次のようにある。
 
モーセが死の前に
イスラエルの人々を祝福して言ったと
同章の初めにある。
 
 
ガードについて言った。
「ガドを大きくする方はほむべきかな。
ガドは雌獅子のように伏し
腕や頭の頂をかき裂く」。
 
 
「創世記」の当該語は 
ARYH、ariyee、luya の二語
 
「申命記」の当該語はその後者が使われている。
 
さらに「創世記」にある「王権」は
本来
「王権の杖(棒)を表わす ShVT、shevet]
となっているが、
「王権」は MLVKhH、milukhae で、
王は MLKh、melekhである。
 
この語がマレーシアの地名の 
Melaka(Malacca)の原語で、
 
当地がユダ族の中心的寄留地であり、
「神の箱」が一時寄せられたいたことに
始まったと考える。
M.K記
連絡先:090-2485-7908

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(2)極東へ運ばれた「神の箱」① [神聖の系譜]


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メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
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第5部 イブル・ユダ王国に奉祭された
     「十戒石」の運命 
第2章 神の箱〔十戒石〕の
       エルサレムからの退避行
(2)極東へ運ばれた「神の箱」①
 
(A) 紀元4世紀頃までに知られた東方の情報
 
第二イザヤ書と言われる同書第40章以下に記述された
「地の果ての島々」 についての説明は
本書第3部第2章2すでにしてある
〔また拙著「日本創世紀」133ページ以下にも詳しい〕。
 
これらの情報は紀元前一世紀には
活発な東西交易を担ったイブル人のうちの
ガド族によって
エルサレムにもたされたものだろう。
 
イザヤ書第42章10
「海に漕ぎ出す者、海に落ちる者、
島々とそこに住む者」
とは正にガド族のことである。
 
彼等は絹を積んだ船で
東方特に日本列島西部の情報をも載せていたのであり、
エルサレムなど地中海東岸やイブル人社会に
その情報が広められる役目を果たしたのである。
 
紀元前1世紀になると
ギリシャ人にまで東方への興味が広まっていった。
 
その主な理由はやはり絹織物に対する関心からであった。
当時ローマ帝国の上流社会では
絹が最も欲しい商品で、
海路を経て大量に地中海北岸にまで運ばれた。
 
その交易を盛んにしたのは
ローマ人でもギリシャ人でもなかった。
 
イブル商人たちが
東方の厚目の絹織物〔縑:カトリ〕を
エルサレム周辺でローマ人の好みに合わせ
薄い織布に作り替えてローマへ送った。
 
ローマ帝国の金貨が
大量にインド亜大陸へ送られて
ローマ帝国経済が崩壊しそうになったほどであった。
 
インドにはイブル人の居住する交易中継地があった。
 
そこは
大陸の南方アラビア海に面した
現在ケララ州といわれる地域である。
 
プトレマイオス朝下のエジプトを拠点として
活動していたギリシア人商人が
書き纏めた海洋交易関わる東方の情報が
「エリュトラー海案内記」には載っている。
 
そこには
「セリカ」という「シナ海沿岸」に
あったとみられる絹の産地名が記されている。
 
「セリカ:ラテン語で serika 」絹の総称で、
同語の由来は絹の生産集団であった
倭人が「繭」を「石」と呼んでいたことに原因し、
日本列島へ紀元前の早くから
既(すで)に進出していた
インド人系商人たちがそれに従って
サンスクリット語で 
seilika 「石」と通称し始めたことによると考えられる。
 
良質の繭は潰そうとしても
潰れない石のような硬さを持っている。
 
和人の養蚕を行う人々はまた
繭から繊維にして織物にする技術を持っていた。
 
西方の海洋商人達は
インドの鉄鋼や銅の加工品などと交換して
絹を入手したのであろう。
 
「セリカ」名は地中海北岸に
「絹製品」の総評として広がった。
 
何しろ現在で英語で
シルクsilkというなどの原語である。
 
「セリカ」には
日本列島の九州を含めてよいはずである。
 
紀元前2世紀になると、
「セリア」という地方名が
地理書に記載されるようになる。
 
ギリシャの家しかパウサニアスの汽車案内が
それで紀元160年により出された。
 
ギリシャ本土周辺に関連した情報を纏めたものだが、
第6章26節6~9の金の産地に関して
述べられている中にその名称はある。
 
「エリュウトラー海の西奥にセリアの島がある」とある。
 
「エリュトラー海」とは本来紅海ながら、
アラビア海からインド洋、太平洋方面まで含んでいる。
 
明らかに
「エリュトラー海案内記」の効力に依っている。
 
その「最奥」というのだから
太平洋の北方方面とすることができよう。
 
「セリアの島」とは
日本列島の西部分「九州」に該当する。
 
何しろ同記述の前段「セリアの島」の近くに
Abasa アバサ と Saxaia サカイアという
二つの島があるといっており、
前者は現沖縄本島を指す。
 
浦添市に「安波茶」とあるのがその遺称で、
後者は先島諸島の「先」として遺留されている。
 
Abasa、Saxaiaともサンスクリット語で
前者が abasa 〔光〕、
後者が sucyah〔輝く、光を発する〕
に依っており、
後にギリシャ語呼称に転換して
「輝く、ピカピカの、白い」の
leukosを取入れ「リュウキュウ:琉球、瑠球」と
表記されるようになっている。
 
これに依って
「セリア:seria」の原語を探れば、
同じくサンスクリット語で
セリカsailika〔石〕と
同義語のsaila〔石〕あるいは
sailā〔石の多い、石よりなる〕があり、
これらの単語は
全て「白い繭」に由来した呼称で絹に係わっている。
 
このように紀元2世紀に至って
東方の事情が西方でかなり知られるようになっていた。
 
ましてや3、4世紀になれば
さらに詳しいことが西方の関心ある者たちには
周知されいぇいっただろう。
 
紀元後1世紀にジプチへ移転したユダ国の人々には
「イザヤ書」を手にして
東方についてかなり知り得ていたと言える。
 
特に紀元前からガド族が居留した
日本の西部の実情を把握し、また
海路の実情をも理解していたはずである。
 
ユダの人々はエチオピアが
キリスト教に改宗した頃から
同地の安全に確信を持ち得なくなってしまったらしい。
 
より安全が安心できる土地が望ましいと
考えるようになったといってよい。
M.K記
連絡先:090-2485-7908
 

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