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第7章 卑弥呼の「倭錦」(5)筑紫〔ツクシ〕の背景 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  
《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(5)筑紫〔ツクシ〕の背景
 
  和名類聚抄において福岡県地域は
 「筑前国筑後国」となっているが、
 従来、全域を「筑紫」といってきた。
 
 「筑紫国風土記」逸文に
 その地名由来が書かれているが、
 あまり合理的とは思えないので、
 ここでは触れない。
 
 地理的に筑紫平野は
 有明海へ流れ込む
 筑後川の流域地帯である。
 
 つまり「筑紫」とは
 「貝紫の染料を採る」あるいは
 「筑(つく)る」との字義である。
 
 その呼称「ツクシ」は
 アズミ族の言葉で成っており、
 
 「ツク」は 
 tuk〔織物〕 ないし tug〔布〕、
 
 「シ」は 
 si(sir)〔光〕で「光る織物」となる。
 
 「光る、輝く」織布は「絹」を指す。
 
 ヘブライ語の「ニシキ」と同義である。
 
 「延喜式」神名帳の筑後国に
 「筑紫神社」が載る。
 
 同社は現在筑紫野市に鎮座するが、
 その伝承に依ると
 同社は元「城山」に置かれていたという。
 
 その
 「シロ:城」名は 
 sir〔si:光〕による。
 
 同地周辺で養蚕が盛んだったに違いない。
 
 「ツクシ国」とは
 養蚕で絹を生産していることを
 主張した呼称である。
 
 その生産役目を果たしたのは倭人で、
 加工を主導したのは
 ヘブライ人などの海洋商人たちであった。
 
 福岡県には
 その絹の重要性を奉祭した神社がある。
 もはやその由来が全く亡失されている
 「地祿神社」で、
 その鎮座区域は倭人伝がいう奴国の領域、
 アズミ族の言葉が厚く定着した所で、
 彼等も養蚕を行う
 倭人を奉って大事にしたのである。
 
 「地祿:チロク」の源語はその 
 zalag で
 
 語義は
 「きらめく」で
 「光る: si(sir)」と同義であり
 「ツクシ」名を補佐する神社名である。
 
 「全国神社名鑑」により
 
 その所在地と神社数を記載する。
 
  〇福岡市博多区  5社
  〇福岡市南区   4社
  〇福岡市西区   1社
  〇筑紫野市    2社
  〇大野城市    4社
  〇筑紫郡大宰府町 1社
  〇筑紫郡那珂川町 2社
 
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第7章 卑弥呼の「倭錦」(4)「倭錦」は貝染の織物 [日本創世紀]

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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(4)「倭錦」は貝染の織物
 
  「錦:ニシキ」名について解釈してみたい。
  
 「ニシキ」はヘブライ語の
 NTsKh〔輝き、光輝〕の音写で、
 絹が光沢を持つ理由により呼ばれたものである。
 
 「大漢和辞典」は「錦」を「あやおり」としている。
 
 その「アヤ(綾)」も
 ヘブライ語の IYN による呼称名で、
 本来は「目」であるが、
 「編み目」「色合い」である。
 
 「説文解字」及びその「通訓定声」は
 
 「紫絲織之」とある内容を前に紹介したが、
 絲(絹)をまず染色し、
 それを以って紋様を付けて織布したもの、
 編み目を以って装飾するものである。
 
 同書がいうには
 染色の色は「紫」と限っている。
 
 織布の後に染色するのではなく
 絲の段階で染色するものである。
 
 よって「倭錦」は
 
 「絲(絹)を紫色に染めたもので織りながら
  紋様を付けた絹織物」となる。
 
 その紫色は「貝紫」によって製作された、
 倭国独自の工芸によって算出されたものであった。
 
 「倭錦」を「貝紫」とする見解はすでに
 布目順郎氏はじめ
 吉野ヶ里遺跡発掘に係わった人々によって
 提出されている。
 
 紀元前2、1世紀から
 紀元後2、3世紀にかけて、
 
 九州方面は従来解釈されてきたような
 非文化的後進社会ではなく、
 西方の技芸まで浸透し先端技術を獲得して
 生活の用に備えた先進社会にして
 国際性豊かな社会だったのである。
 
 本書では解説しない
 ガラス工芸や青銅<錫合金>など
 極めて高い精度の製造品を生産していて、
 その工作の様子が解る遺品が
 同地方の遺跡から出土している。
 
 もちろん、
 その工業段階は手工芸であり、
 大規模工場などはない。
 
 その先進的工芸の一つが「倭錦」で、
 卑弥呼は
 その高技芸品を魏国へ贈ったのである。
 
 ために魏国側も朝貢貿易の轍に即して
 それ相応の上等品を答礼として
 使節に渡したのである。
 
 その状況から判断すると、
 倭〔邪馬台国〕は
 決して魏の属国でもなかったし、
 帯方郡の傘下の属領でもまかった。
 
 つまり、
 その冊封体制〔封建制〕の外にあったのである。
 
  M.K記
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第7章 卑弥呼の「倭錦」(3)倭錦の真相 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第7章 卑弥呼の「倭錦」
(3)倭錦の真相
 
 (a) 吉野ヶ里遺跡の染色絹
 
 繰り返しになるが、
 佐賀県教育委員会『弥生時代の吉野ケ里』の解説に
 
 「貝紫や日本茜で染められたものも確認され……」
 
 とあった。
 
 この報告は重大である。
 
 弥生時代の染色技法のうちに
 「貝染」があったとの指摘も重要であるし、
 また、
 「貝紫」が日本古来、
 つまり
 縄文時代に開発されていたと証明が
 あるとは全く聞かないことも認識すると、
 そこからの判断はまた重大である。
 
 つまり、
 その技術は海外から移入されたとしか
 考えられないとの結論になる。
 
 それも
 弥生時代前期紀元前後にである。
 「紫」色は
 シナにおいても古来宗義上貴重な色で、
 特に織布を紫色に染めて使った。
 
 漢語に「茈」とある植物が
 通称「紫草」で、
 東南アジアには広範に野生種としてある。
 
 その根を用いて染色したものが「紫」で
 表される織布で、特に絹を染めた。
 
 このように「茈」「紫」の伝統技法は
 東アジアにあったが、「貝紫」はなかった。
 
 (b) 貝染の倭への伝承
 
 「貝染」は技術を倭へ持ち込んだのは
 倭人伝がいう「伊都国」に定着した
 ヘブライ人の海洋貿易商人たちである。
 ヘブライの商人たちはローマ帝国へ
 絹製品を輸出した中継商人として活動し、
 ローマ人からは 
 MESHI と呼ばれるほどの絹商人で、
 東方から送られてきた絹を地中海東岸、
 ヘブライ人の祖地イスラエルで加工し直して
 ローマへ送り出していた。
 
 その加工技術のうちの染色は、
 イスラエルの北方を
 紀元前の古くから占めていた
 フェニキア人たちが
 地中海の貝から採取した染料で
 羊毛の毛織物を紫色に染める技法を創出し、
 その工芸で産業を栄えさせていたものである。
 
 フェニキアの祖族となったのはケルト人で、
 彼等はクレタ島、カルタゴ
 さらにはイベリア半島から
 ブリテン(イギリス)まで
 鉱物〔錫〕を求めて航海遠征し、
 それらの地に植民地を築いた有能な人々で、
 工芸面でも錫のほかにガラス工芸を発展させた。
 
 彼等はそいう技術集団で、
 「貝染」もその当時における
 先端技術で専門的であった。
 
 貝染の中心となったのが地中海東岸の都市、
 ティロス、シドンであった。
 
 しかし、
 ケルト人あるいはフェニキア人が勢力となって
 極東へ渡来し、
 その技法を定着させたのではない。
 
 隣の貿易、特に東方交易の協働者ヘブライ人が
 その役目を果たしたのである。
 
 両者の親密さはここで詳しく説明できないが、
 
 紀元前10世紀
 ヘブライ王ソロモンが主導した海洋貿易のための
 
 「タルシン船」は
 
 フェニキア人の協力によって
 成立し得たものであった。
 
 ヘブライ語「フェニキア」をいった用語 
 
 KVNKhYH は「巻貝」を表す。
 
 貝染の染料を持つ貝類は
 すべてその巻貝(累貝)に限られる。
 
 フェニキア人が染色したのは羊毛で、
 絹もまた動物性繊維である。
 
 そこに注意を向けた
 ヘブライ人の貿易商人も
 有能であったといえる。
 
 (c) 貝染技術と紫色
 
 繊維類に染色するには染料が要る。
 
 貝染の染料は巻貝(累貝)の内臓腺から採る。
 
 それを発見したのが
 地中海東岸のフェニキア人であった。
 
 巻貝の内腺から採れるエキスはわずかで
 多くの貝を殺さなければ」ならない。
 
 『水生無脊椎動物』〔世界大博物図鑑〕によると、
 
 地中海では
 ツロブリボラあるいは
 シリッブルボラという
 体長2㎝余りの小さな貝がそのため使われた。
 
 また
 日本から東南アジアに分布するチリメンボラが
 貝紫の原料となったと説明している。
 
 前記『弥生時代の吉野ケ里』は
 
 「貝紫の色素を抽出できる有明海生息の貝類」
 
 として
 
 アカニシ、レイシ、イボニシ名を挙げている。
 
 このうちアカニシは大牟田歴史資料館の
 1999年「展示図録」に
 縄文時代中期から後期の遺跡
 
 「毛無貝塚」から出土した実物と
 紹介しているので、
 有明海には古くから同貝がいたことを証している。
 
 ただしそれは
 食料として採られたもので、
 染料としては考えられない。
 
 貝染によって付けられる色は、
 「貝紫」と通称されるように紫色であるが、
 その範囲は広く、
 フェニキアを「赤い国」と
 称したように赤色、赤紫色、青紫色となり、
 総称して「茜色」といえる。
 
 その色彩は本来「晒」に依り、
 夕焼けの色が赤色から青色、碧、紫色と
 変色するのに合わせている。
 
 (d) 巻貝と有明海〔地名:鐘ヶ江と古賀〕
 
 上記の通り、有明海の巻貝を採取して
 染色を施していたことは明白である。
 
 福岡県〔筑後国〕・佐賀県・長崎県〔肥後国〕の
 有明海沿岸地域には、
 
 そこで巻貝を採集していたことを示す地称が
 今日まで数多く継承されている。
 
 言い方を代えれば、
 それらの地名が
 巻貝に由来しているということになる。
 
 まず大川市の筑後川沿いに
 「鐘ヶ江」との地称がある。
 
 この「カネカエ」は
 ヘブライ語でフェニキアを言うと紹介した
 KVNKhYH〔巻貝〕の移入である。
 
 また同市に「兼木」との字名もあり、
 その理由を同じくする。
 
 長崎県の諫早市に「船越」との地称があり、
 これも
 「フナコエ」と読めその語源が同とみられる。
 
 周辺には貝津町あるいは大染島といった貝染と
 係わる地称があるからである。
 
 さらに、
 下記に列記するように「コガ」との
 地称がここにはたくさんある。
 
 これはギリシャ語の「貝」を語義とする
 
 kogxe の音写による。
 
 なぜここに
 ギリシャ語が入り定着しているかというと、
 「先代旧事本紀」国造本記に載る
 「筑紫米多國造」に係わる。
 
 その「米多」は佐賀県の吉野ケ里遺跡の東方、
 和名類聚抄の三根郡米多郷にして現在、
 目達原と表記される地のことである。
 
 国造本記には
 
 「志賀高穴穂朝(成務)息長公同祖
  稚沼毛二俣命孫都紀女加定賜國造」とある。
 
 息長氏は、
 本書第6章(7)で詳説したように
 イリ〔ギリシャ〕族の仲間である。
 
 この経緯により、
 ここにギリシャ語が入った理由を説明できる。
 
 「コガ:古賀」などと訓める
 地称及び関連地称を挙げる。
 
  〇下古賀〔佐賀県小城郡芦刈町〕
  〇鹿ノ子・古賀〔佐賀市〕
  〇下古賀〔佐賀県佐賀郡東与賀町〕
  〇東古賀・西古賀・小久森〔佐賀県佐賀郡川副町〕
  〇鐘ヶ江、古古賀、北古賀、息古賀、古賀<兼木>、
   五家、紅粉屋〔福岡県大川市〕
  〇古賀、久々原、中古賀〔福岡県柳川市〕
  〇今古賀〔福岡県山門郡三橋町〕
  〇古開〔福岡県山門郡大和町〕
  〇岩古賀〔福岡県三潴郡三潴町〕
  〇古賀〔福岡県三潴郡大木町〕
 
 その他、北九州市小倉区に「紫川」との
 興味ある川名がある。
 
 同地は和名類聚抄豊前国などにいう
 「企救郡」の地で「キク郡」という。
 
 同名はギリシャ語の
 「紫貝からとった染料」との
 
 kikis の音写で、
 
 区名「小倉」の「コクラ」は
 
 同 koglos〔巻貝〕の音写である。
 
 また、吉野ヶ里遺跡出土の織物として
 「茜:アカネ」との解説があった「アカネ」も
 フェニキアを祖地としている。
 フェニキア人の祖族はケルト人と紹介したが、
 その始祖名をギリシャの伝承では 
 Aghnor といい、
 同語はそのうち 
 A-gh-no をとっていったものである。
 
 朝焼けをいう「アケボノ:曙」は同語の
 A-g-h-no に依る。
 
 曙も晒と同様の色彩を見せる。
 
 また漢字「貲」は「紫-貝」との構成であるが、
 これは日本語で「あがなふ」と読み、
 Aghnor に係わる。
 
 このように
 この地方の「巻貝」、「貝紫」に
 関係する用語には
 フェニキア及びギリシャ語が
 根深く浸透している。
 
 ただし、
 これらギリシャ語が同地に定着したのは、
 「国造」の制が始められた時期以後
 5世紀ないし6世紀のことで、
 邪馬台国時代2、3世紀のことではない。
 
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第7章 卑弥呼の「倭錦」(2)弥生時代の「絹」 [日本創世紀]

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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(2)弥生時代の「絹」
 
 1989年7月
 吉野ヶ里遺跡から出土した甕棺の中から
 染色した絹の織物がみつかったと報じられた。
 
 朝日新聞は18日
 「日本最古の染色絹、見えた!弥生の色」と
 見出しを付けている。
 
 佐賀県教育委員会が
 京都工芸繊維大学の布目順郎名誉教授に
 鑑定してもらった結果を17日発表したもので、
 「約30種の織物中から透き目絹」を確認したとある。
 
 同委員会が編集した2008年3月発行の
 『弥生時代の吉野ケ里』に
 「朱が付着した透目の絹、弥生時代中期」とある。
 
 また「縫目の残る絹織物」も紹介されている。
 
 その解説には
 
 「吉野ヶ里遺跡からは弥生時代中期から
  後期の甕棺墓7基の棺内から出土した
  人骨や銅剣、貝殻製腕輪などに付着して
  多数の絹や大麻の布片が発見された。
 
  布目順郎氏の分析研究によって、
  絹は日本産の絹糸で数種類の織り方を
  もつことなどが判明した。
 
  また、
  絹布の中には貝紫や日本茜で
  染めたものも確認され、
  粗末な麻の布を身にまとっていただけという
  弥生人の印象からは程遠い高度な
  弥生の染織文化が証明されていた」
 
 とある。
 
 ここに「絹や大麻の布片」が出てきた事実は、
 倭人伝の
 「種禾稲紵麻蠶桑絹績」との記述に対応する。
 
 「紵麻」は「大麻」に、
 「蠶桑絹績」が絹に係わっていて、
 吉野ヶ里遺跡のこの時期が倭人伝の時代、
 つまり
 邪馬台国<弥奴国>の時代に相当しているといえよう。
 
 布目順郎氏はそれ以前に
 
 『繊維の考古学』
 『絹の東伝』との著述により、
 
 弥生時代前中後期の遺跡から絹が出土したのは
 北九州に限られていて、
 瀬戸内海以東、出雲や近畿方面の絹出土は
 古墳時代前期からと指摘している。
 
 つまり
 紀元2、3世紀〔卑弥呼の時代〕に
 おいて養蚕を行っていたのは九州方面のみで、
 卑弥呼が
 絹をかなりの量産出した地域にいたことを
 倭人伝の記述からすると、
 邪馬台国の所在がどこだったかは明白である。
 
  M.K記

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第7章 卑弥呼の「倭錦」(1)倭人伝が記す倭国の「絹」 [日本創世紀]

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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
 (1)倭人伝が記す倭国の「絹」
  倭人伝においては
 倭国と魏とは朝貢貿易を行っていた。  
 
 その交易品のうち最も注目すべきは絹製品である。
 
 魏歴景初2年〔238〕12月の記録に
 魏国が倭からの使節に贈った品目のうちに
 
 「絳地交龍錦五匹」
 「紺地同文錦三匹」
 「白絹五十匹」
 
 とある。
 
 「錦」「絹」とあることから、
 それらが絹製品であることが明白である。
 
 同条にはまた「汝所獻上貢直」とあり、
 倭からの貢奉品と同価値に
 それらの贈呈品は相当すると述べ、
 「朝貢貿易」の様式であることを記している。
 
  正始4年(243)の記録には
 「倭王複遣~上獻~倭錦絳青縑緜衣帛~」とある。
 
 ここにおける
 「錦」「縑緜」「帛」も絹製品の称である。
 
 つまり倭国において養蚕が行われ絹を得て
 織物にした品を魏に献上したとある。
 
 本書第5章「(1)倭人伝が記す倭の養蚕」で、
 
 倭国では邪馬台国時代すでに養蚕が行われ、
 「縑緜」などという織物があったことを説明した。
 
 上記倭からの献上品のうち注目されるのは
 「倭錦」との記述である。
 
 「錦」は日本語では一般的に「ニシキ」というが、
 漢語では
 「脱文解字」〔紀元後1世紀、最古の辞典〕では、
 
 「染絲織之」とあり、
 
 まず糸を染色して次にこれを織ったものとの説明で、
 日本語では「あやおり」という。
 
 倭人伝があえて「倭錦」といっているからには、
 魏(支那)にはない
 倭国特有の染色によった
 糸を使って綾〔紋様〕織りにした織布と推測される。
  M.K記
 

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(7)息長<気長>氏の背景 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
 
 
 (7)息長<気長>氏の背景
 神功皇后は『記・紀』によると、
 第14代仲哀天皇の正妃〔皇后〕で,
 
 その元名を
 
 『古事記』は「息長帯比賣命」、
 『日本書紀』は「気長足姫尊」と記す。
 
 双方とも呼称は「オキナガタラスヒメ」という。
 
 「息長氏」を考える場合、
 皇后の出自であることが
 大きな理解の助けの役目をなす。
 
 その息子「品陀和気命」
 『古事記』は
 
 第15代応神天皇となり、
 第25代武烈天皇まで
 5世紀の永きまでを、
 
 また伝承によれば、
 第26代継体天皇も
 応神天皇の苗裔とされていることから、
 
 5世紀の大古墳時代から
 7世紀の飛鳥時代までと
 
 その族類は「大和」における
 政権の中心に位していた。
 
 そういう大族の背景を考察するが、
 
 まず
 
 仲哀天皇の和名
 「帯仲日子」について解釈する。
 
 同語は「タラシナカヒコ」という。
 
 「タラシ」は thalassioe で「海」を
 「ナカ」は nha で「船」の複数形である。
 
 その語義は「海船団」となり、
 天皇の和名は
 
 「海の船団の男子」にして「海船団長」となる。
 
 崇神天皇(第10代)の系譜に列なる
 族類の来歴を名称として継承している。
 
 そこで「オキナガ」だが、
 oky-nha〔速い船〕の音写で
 すでに指摘したように「軍船」を示す。
 
 その表記に「長」があることからして
 「軍船の船〔艦〕長」となろう。
 
 でも
 「長」は「ナガ」で
 「ナカ:中」とは違うので
 oky-nau-agos〔速い船の指揮者〕とする
 妥当かもしれない。
 
 同氏族は崇神天皇の「東征」の際、
 三段橈船運行の指揮を執っていた者で
 あったとすることができる。
 
 息長氏が定着した滋賀県坂田郡米原町の
 「能登瀬:ノトセ」は 
 nautos の音写で「船乗り」である。
 
 また郡名
 「サカタ:坂田」は多祁理宮の地
 廿日市市の「佐方」と同様 
 thugatir〔娘:処女〕の音写で「戦争の女神」
 
 あるいは
 「航海安全の女神」であるアテネ神を指す。
 
 「オキナガタラシ姫」はよって
 「速い船(軍船)の指揮者海の女子」となり、
 その息子応神天皇の系譜もまた
 崇神天皇の東征に
 協働したイリ〔ギリシャ〕族の
 後裔であることを示している。
 
 神功皇后の系譜は、
 開化天皇〔第9代〕と
 意祁都比売命の息子日子坐王を始めとし、
 次に山代之大筒木真若王、
 次に迦邇米王雷、
 次に息長宿禰王、
 次に息長日子王とあり、
 同王のうちの長姉が
 息長帯比売命である。
 
 なお、
 応神天皇名の
 「品陀(ホムダ)」
 「品治(ホムチ:吉備国の郡名<前出>)」、
 
 日子坐王の
 「坐:ナマス」の源語は
 すべてギリシャ語の
 Hmthih で「マケドニア」ないし
 ギリシャの北方オリンポス山あるいは
 オシリス山付近を指す地称である。
 
 M.K記

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(6)琉球あるいは沖縄 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
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《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
 (6)琉球あるいは沖縄
 紀元2世紀後半に
 ギリシャの地誌家パウサニスが著した
 「ギリシャ案内記」に絹の産地の情報として
 「セリアの島」との記述がある。
 
 その詳細は終章で解釈を行うが、
 その島の近くに
 「アバサAbasa」と「サカイアSaxaia」という
 二つの島があるといっている。
 
  Abasaはサンスクリット語の 
 abhasa〔光〕また
 
 Saxaia も同 
 sucyah〔輝く、光を発する〕の
 
 ギリシャ語表記した呼称である。
 
 前者は現在の沖縄本島を指す。
 
 浦添市の市役所のある地称「安波茶」として、
 また本島西方の伊是名島と久米島の間にある島
 「粟国島」名として遺留されている。
 
 そして後者はそこから南方の先島諸島の
 「サキ」として遺留されている。
 
 紀元2世紀の中頃には日本列島西部の情報が
 ギリシャに伝えられていたのである。
 
 西方からギリシャの軍船団が渡来したのは、
 紀元3世紀の終末から4世紀初頭の間である。
 
 その軍船集団が一時この沖縄地域に
 滞留していたことは以下の説明で明白である。
 
 その影響が現在までに遺されているのである。
 
 第一の証左が「琉球」名である。
 
 「リユウキュウ」はギリシャ語の 
 leukos〔輝く、ピカピカの、白い〕の音写で、
 同地をそれより先にサンスクリット語呼称で
 abhasa〔光〕といっていたのを
 ギリシャ語呼称に変換したのである。
 
 その上に「阿児奈波」と
 奈良時代にまで記録される地方名を遺した。
 
 「アゴナハ」は 
 agono-nhasの音写で「軍船」の語義である。
 
 「ナハ:nahas」は naews〔船〕の複数形である。
 
 この呼称は後に「オキナハ:沖縄」となるが、
 これは 
 oku-nawas の音写で「速い船」との語義で
 実際また「軍船」を表わす。
 
 南部の市名
 「ナハ:那覇」は
 明らかに 
 nhas〔船の複数形〕である。
 
 沖縄におけるギリシャとの共通事項を
 二つだけ挙げておきたい。
 
 同地の信仰で使われる
 「神歌」を「オモロ」というが、
 
 これはあの
 「イーリアス」
 「オディセア」の
 
 作者といわれる
 ホメロスの元称 
 Omhros と同根語で、
 
 上記二書はともに
 「神々についての詩歌」を述べたもので
 「神歌」そのものの「オモロ:omoros」である。
 
 また
 沖縄の人々が犠牲祭あるいは日常で焼肉するのに
 ヤギを好むのは、
 地中海域〔ギリシャ・ローマ〕の祝祭で
 犠牲にされるのはヤギ〔山羊〕で、
 その伝統が沖縄にもたらされ
 遺留された伝統の繁栄である。
 
 あの
 エーゲ海は 
 Aigaion または 
 aigeos とやぎ名に係わる用語である。
 
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(5)崇神・垂仁・景行天皇の和名 [日本創世紀]

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《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー

 
 (5)崇神・垂仁・景行天皇の和名
 (a)崇神天皇:ミマキイリヒコイニエ命
 
  『古事記』御眞木入日子印恵命
  『日本書紀』御間城入彦五十瓊殖天皇
 
 ミマキ:「御」を尊敬語すれば「マキ」 maxi で
     「戦闘」を表わす。
  
  また「ミマキ」とすれば 
  memixa で「交戦する」の意味を持つ 
  meignumi 完了形で「戦闘に勝利した」の意味が
       含まれていることになる。
 
 イリヒコ:「ヒコ〔日子・彦〕」は「男子」。
 
 「イリ」は Ellas、Ellin の音写で
 「ギリシャ」「ギリシャの(人)」で「ギリシャの男子」
 
 イニエ: eunai〔錨〕、 eunaoios〔錨〕ながら
      動詞として「舟を導く」の語義がある。
 
 ◎和名の語義:戦争に勝利したギリシャ人の男にして
        軍船を引導した天皇
 
 (b)垂仁天皇:イクメイリヒコイサチ命
 
  『古事記』伊久米伊理毘古伊左知命
  『日本書紀』活目入比古五十狭茅天皇
 
 イクメ:
 iaxhma〔叫び声〕、
 iaxiu〔叫び声、叫び〕
  
 イリヒコ:崇神天皇に同じ「ギリシャ人の男子」
 イサチ:isti〔審判者(法と正義を心得ている人)、
        仲裁者〕。
  これは名詞形。
 
  形容詞形では「知っている、精通している」
 
 ◎和名の語義:神への祈りを大声で叫ぶ
 
  ギリシャ人の男にして(法と正義を心得ている)
 
  審判者の天皇
 
  「垂仁」とは「法と正義<仁>をよく心得ていて、
   それを高らかに叫び行う<垂す>」となる。
 
 (c)景行天皇:オウタラシヒコオシロワケ命
 
  『古事記』大帯日子淤斯呂和気命
  『日本書紀』大足彦忍代別天皇 
 
 タラシ:tarros〔橈〕
 大タラシ:「大きな(長い)橈」で三段橈船や二段橈船
       などの軍船で使われる橈
 
 オシロ:othros オシリス山<テッタリア地方にある山>
 
 ワケ〔別〕:別れて来た
 
 オシロ別:ここではオシロ出身の者あるいは
      オシロ出身者の子孫
 
 ◎和名の語義:(三段橈船の)大きな橈をあやつる
 
  漕ぎ手を指揮した男でギリシャのテッタリア地方の
  オシロ山地出身者の後裔
 
 「景行」の
 「ケイ〔ケヒ〕」は koppi の音写で
 「橈、櫂、橈柄」で「ケイ行」は
 「橈で行く(航海する)」で、
 「軍船を指揮する者」となる。
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(4)崇神天皇と「大和」 [日本創世紀]

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《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー

 (4)崇神天皇と「大和」
 「神武天皇の東征」は
 「崇神天皇東征」との見解を
 これまでの「行宮」の説明から指摘強調したい。
 
 岡田宮の付近には「シマヅ:島津」との地称があり、
 
 「尊崇する、崇拝する」の語義であった。
 
 次の多祁理宮の
 
 「タキリ」は「哮」で「大声で叫び」ながら
 「神に呼びかける、祈り求める」であると紹介した。
 
 これらの意義は「神を尊敬する」のであり、
 第10代天皇の御名「崇神」と同義である。
 
 この証左から当該者の素性は明白である。
 
 さらに「大和」を考慮すればさらに確信となろう。
 
 同用語は音読み訓読みのいずれにおいても
 
 「ヤマト」とは読めない。
 
 つまり当て字である。
 
 「ヤマト」は前に紹介したヘブライ人の用語で
 「海の人」の語義である。
 
 その背景は本書の終章で解説する。
 
 崇神天皇の勢力が奈良盆地に入来する以前から
 同地に勢力のあった人々の用語である。
 
 「大和」の可能な読み音は
 「ダイワ」あるいは
 「オウワ」であるが、
 後者はすでに「大倭」として紹介した。
 
 つまり「ダイワ」のみが
 この「崇神」勢力集団と係わる呼称である。
 
 その「ダイワ」はギリシャ語における
 theo-philes〔神-愛する〕の音写で
 「神を尊崇する」との語義である。
 
 つまり「崇神」である。
 
 Theo〔神〕は
 インド・ヨーロッパ語圏の祖語を共通にし、
 
 サンスクリット語の deva 、
 ラテン語の divvas、また
 英語の divine である。
 
 Theo-philes は
 ラテン語に 
 dei-fico、deas-facio となり、
 「神として崇拝する」である。
 
 ドイツ語では 
 deifizieren〔神として崇める〕、
 
 英語で 
 deify〔神聖視する〕ともなり、 
 
 「ダイワ」とは「神として崇拝(尊崇)する」
 
 あるいは「神の崇拝者」を表わしており、
 崇神天皇の勢力の慣習を現わしている。
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(3)天鳥船・天鳥楠船 [日本創世紀]

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《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー

(3)天鳥船・天鳥楠船
 『古事記』上巻に
 
 「鳥の石楠船神、亦の名は天鳥船と謂ふ」とあり、
 
 出雲の国譲り伝承で
 
 「爾に天鳥船神を建雷神に副へて遣わはしたまひき」
 
 とある。
 
 建雷神はそこでは武神として描かれ、
 「天鳥船神」には
 それを授ける〔副へる〕性格がみえる。
 
 『日本書紀』の神代上にも
 
 「天磐櫲樟船」あるいは
 「鳥磐櫲樟船」との記述がある。
 
 同呼称の
 「トリ:鳥」はギリシャ語の
 tri〔英語のthree〕の音写で「三」を表わす。
 
 「イワクス:石楠・磐櫲樟」も
 aiakos〔舵、舵柄〕の音写である。
 
 「鳥船」とは「三段船」、
 「石楠船」は「舵船、舵取船」となるが、
 これは「舵付三段橈船」で、
 いわゆる古代ギリシャや地中海東岸域で
 盛んであった「軍船」の称である。
 
 三段橈船は
 (2)の「(b)多祁理宮」でふれた。
 
 この勢力集団の重要な軍備である。
 
 ギリシャ語での同語は
 tri-hreos、
 tri-hris などと表記される。
 
 「延喜式」神名帳備後国〔広島県東部〕
 品治郡に載る
 
 「多理比理神社」名の
 
 「タリヒリ」は同語の音写であるし、
 
 「箆取神社」〔倉敷市連島〕の
 「ヘラ:箆」も
 その
  hres、hris音写で、神社名は「橈取」、
 
 つまり「船子」で
 古来船乗りたちの信仰が篤かった由縁もそこにあり、
 理解できる。
 
 ギリシャの三段橈船は、
 漕ぎ手が船眩左右に百人近くが階段状に並び、
 長い船外に突出する橈(櫂)を一本ずつ担って
 指令者の合図(笛あるいは太鼓)に合わせて漕ぐもので、
 速く漕げば速度は増す。
 
 その用員は船が大きくなると二百人位、
 小さい船でも五十人は位ほどが運行に使われた。
 
 当該「天鳥船」の漕ぎ手たちは
 また戦士でもあったはず。 
 東征に当たっての船数はそう多くはなく、
 二、三船にすぎなかったろう。
 
 つまり戦闘兵数も多くて
 三百人程度と少人数であったとみられる。
 
 そうした小規模の軍団でよくも
 多数の兵士を用意できる
 「敵」を征し得たものだ。
 
 そこには武器の違いがあったはずである。
 
 本書では詳しい解釈は除くが、
 当軍団は鉄製の武器を使用したのである。
 
 同時代在来の勢力の使用する
 金属武器は青銅製のもで、
 その効果において絶大な戦力差がある。
 
 鉄の精製や鉄鍛冶のギリシャの技術は
 「ふいご」にあった。
 
 あの安仁神社〔高嶋宮〕の所在地名
 「藤井」は
 phusi〔吹く、ふいご〕の音写で、
 同地で鉄剣などを製作したと推測される。
 
 「高嶋」を「コウシマ」とするのは
 kausomai〔熱くする〕、
 
 単に「コウ」であっても
 kau と同義であるからである。
 
 『日本書紀』は同所で
 「兵倉を蓄えて」といっている。
 ※三段橈船
M.K記
 

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①-1」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 
《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」》
 14.福山市内浦町田島 
 
 内浦に神武天皇滞在を伝える
 宮址の皇森神社がある。
 
 ここも高嶋宮址であり、
 しばらく滞在したと伝える。
 
 周辺に行幸伝承地が多く、
 滞在期間は長かったと思われる。
 
 15.福山市田尻町 
 
 田尻町にある高島は
 現在は半島部になっているが
 昔は島であった。
 その南端部に八幡神社があり、
 高島宮址の石碑がある。
 
 しかし、宮址は少し北の宮原の地と伝える。
 
 昔橿原神社があったそうであるが
 八幡神社に合祀されたそうである。
 
 ここも滞在期間が長かったようである。
 
 ここに滞在中出雲との往復をしているようで、
 内陸部に入り庄原市の葦嶽山で祭祀をし、
 使者を出雲の言代主命に挨拶に遣わした。
 
 神武天皇自身は高野町にも伝承地があり、
 高野町を越えて出雲往復をしたものと
 考えられる。
 
 この後、
 岡山県笠岡市や岡山市の高嶋宮にも滞在し、
 大和に向かった。
  
 このように神武天皇は
 広島県にかなり多くの伝承を残している。
 
 滞在の順番は方向性を考えながら
 推理したものである。
 
 すべてが真実とはいわないが、
 真実の要素はかなりあるのではないかと
 思っている。
 
 はっきりわかることは、
 一般には武器調達とか
 大和の様子見とか言われているが、
 これほど方々にしかも
 長期間滞在するというのは
 そのような理由によるものではないこと
 を示している。
 
 この滞在の理由をここでは考えてみたい。
 
 「島県内の九州系遺物 」
 
 広島県地方には後期中葉あたりから、
 畿内系土器に混じって、
 大分系土器が出土するようになる。
 
 さらに、
 九州地方に限られていた九州系の鉄器が
 この地方のみに出土するのである。
 
 大和朝廷成立と前後して
 大分県地方からの人々の流入が
 あったことが推定される。 
 
 大分系土器は、
 三原以西の沿岸地方を中心に分布し、
 北部や東部には見られない。
 
 継続がなく、しばらくすると出土しなくなる。
 
 一方、
 畿内系土器は、
 ほとんどの地域に分布するがその数は少ない。
 
 そして、
 出土は時期的に限られたものではなく、
 恒常的で、古墳時代以降にも継続している。
 
 いずれの土器も
 在地系土器と混在する形で出土している。
 
 これは畿内系と違って、
 大分系の人々の流入は
 一時的なものと判断される。
 
 そして、
 土器が在地系と混在していることは
 共に在地の人々と
 共同生活をしたことを意味している。
 
 これは共通の精神基盤がなければ
 不可能なことである。
 
 共に、大和朝廷によって統一され、
 スサノオを最高神として
 崇めていたためにできたのではあるまいか。   
 
 大分系土器は、
 出土地域が限定されていること、
 九州系の鉄器が同じように出土していること、
 時期的に限定されていることから、
 鉄生産を目的とした
 大分県地方からの集団移住と
 とらえることができる。 
 
 また、
 後期中葉に広島県地方に
 九州のAタイプの槍鉋の出土が見られる。
 
 地域は大分系土器の出土領域と重なっている。
 
 大分系土器を持ち込んだ人々が
 槍鉋を持ち込んだと思われる。
 
 「市杵島姫」 
 
 大分県の宇佐地方で
 スサノオとムカツヒメの子として
 生誕した三娘のうち、
 市杵島姫の伝承が広島県下に残っている。
 
 栗原基氏著
 「新説日本の始まり」によると
 広島県高田郡向原町の
 大土山に住んでいた市杵島姫の子供が
 行方不明になったのをきっかけとして、
 
 向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→
 東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→
 東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→
 生口島→
 大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→
 江田島町伊関→廿日市市宮内→
 大竹市→宮島町と転々と移動している。
 
 この滞在の地には
 いずれも厳島神社が存在している。
 
 そして、
 この転々としている領域と
 大分系土器の出土する領域が
 一致しているのである。
 
 市杵島姫がその一族と共に
 大分から広島へ
 移住してきたものと考えられる。
 
 「女王アマテラス」によると、
 市杵島姫は九州へ住んでいたころ、
 ニギハヤヒの子である
 サルタヒコと結婚していた。
 
 サルタヒコが出雲統治に行った後、
 広島県地方に移ったのではあるまいか。
 
 大分県地方から瀬戸内海を渡って、
 広島県地方に上陸するコースを考えてみると、
 崖が迫っているところは上陸しにくいので、
 広島湾に入り込み、
 そこから三篠川に沿って
 上流に移動することが考えられる。
 
 川をさかのぼっていくと、
 その先に大土山がある。
 
 大土山のある向原町には、
 水田の跡と考えられる伝承地が点在している。
 
 この伝承地は
 神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、
 神武天皇の行動と内容が
 よく似ている伝承もある。
 
 また、
 厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われるが、
 市杵島姫を祀っているのも事実である。
 
 この二人に深い関連性を見ることができる。
 
 市杵島姫と神武天皇は
 同時に広島へやってきたのではないかと
 考えている。
 
 「神武天皇安芸国および
  吉備国長期滞在の理由」 
 
 神武天皇の伝承地の集中度を調べてみると、
 よく言われている
 府中町の多家神社周辺ではなく
 福山市周辺である。
 
 多家神社の埃宮と
 福山市周辺の高嶋宮がそれに該当する。
 
 岡山県下にも高嶋宮跡があるが、
 伝承の集中度では福山市が圧倒している。
 
 伝承が多いところに
 長期間滞在したと判断してよいと思われる。
 
 また、
 その間でも方々に
 長期間滞在しているようである。
 
 何のためにこんなに方々で
 滞在したのであろうか。
 
 滞在地の何箇所かで
 巨石祭祀をしているのである。
 
 大規模な巨石を用いており、
 神武天皇と同行している人々だけの力では
 これだけの祭祀施設を作るのは
 無理ではないかと思われ、
 さらに、
 瀬戸内沿岸地方は神武天皇の所属していた
 西倭でも合併する日本国でもない、
 出雲国の支配する東倭に所属する地域である。 
 
 また、
 広島県北部に残る神武天皇関連の伝承は
 比婆郡西条町高の今宮神社の伝承や
 庄原市本村の葦嶽山に伝わるものなど、
 出雲との交渉を示すものがある。
 
 出雲との交渉が
 滞在目的のひとつであったのは
 間違いがないであろう。 
 
 これらから判断して
 この地域の人々を味方につけるために
 神武天皇は
 各地に長期間滞在したのではないかと
 考えるのである。
 
 何のために
 この地域の人々を取り込む必要があったのか。
 
 合併後の大和朝廷の政治に目を向けてみると、
 大和朝廷は海外からの技術導入に
 力を入れなければならず、
 そのためには北九州主要部(伊都国)は
 重要拠点となる。
 
 実際に
 伊都国は後期中葉以降畿内系土器が
 集中出土するようになり、
 方形周溝墓も出現するようになる。
 
 考古学的視点に立っても
 大和朝廷は
 北九州主要部を重視していたことは
 明らかである。
 
 朝廷のある大和から
 伊都国との交流が大切なものとなるが、
 その経路上のほとんどの地域は
 東倭に所属しているのである。
 
 このままでは朝廷成立後の日本国の運営に
 大きな支障が出ることは
 誰の目にも明らかである。
 
 神武天皇としては、
 この状態は何とかしなければと
 考えたに違いない。
 
 どうすれば解決するのであろうか。
 
 一番よいのは
 瀬戸内海沿岸地方を
 東倭から譲り受けることである。
 
 そのために選ばれたのが
 広島県地域ではないのか。
 
 このように考えると
 神武天皇の行動は自然なものとなる。 
 
 この仮説を別方面から
 検討してみることにする。
 
 まず、
 後期中葉の広島県下の土器に変化が
 起こっている。
 
 後期初頭までは
 出雲系土器がまばらに出土していたが、
 後期中葉になると出雲系土器が消滅し、
 
 変わりに畿内系土器の出土が始まるのである。
 
 隣の岡山県や島根県地方には
 この傾向が見られないことから
 広島県地方のみの傾向である。
 
 これは、
 出雲から広島県地域が
 朝廷支配地域になったことを意味している。
 
 しかし、
 朝廷支配地域に出現する
 方形周溝墓が出現せず、
 また、
 出土する畿内系土器は祭祀系土器ではなく、
 日常生活用土器である。
 
 これは
 出雲から広島県地域を譲り受けるときに、
 祭祀をしないという条件があったものと
 考えれば説明がつく。
 
 出雲はスサノオ祭祀をしており、
 日本国はニギハヤヒ系祭祀であるから、
 出雲がそれに抵抗を示すことは
 当然考えられるのである。
 
 伝承では
 言代主は神武天皇からの使者の言葉に
 一度は怒り追い返しているのである。
 
 その後使者の言葉を受け入れている。
 
 もし、
 神武天皇が日本国におもむき、
 西倭との合併の挨拶だけであれば、
 神武天皇が
 日向を出発する前に
 話がついているのであるから
 言代主が怒るはずがない。
 
 広島県地域を譲れという
 思いがけない言葉に怒ったのである。
 
 市杵島姫による説得が功を奏して、
 言代主も納得し宝剣を渡したものと
 考えられる。 
 
 神武天皇が
 福山市周辺で長期間滞在したのも説明がつく。
 
 後期初頭までの出雲系土器がよく出土するのは
 北部地域と芦田川流域である。
 
 この地域をつなぐと、
 瀬戸内海沿岸地方と出雲との交易ルートが
 浮かび上がってくる。
 
 福山周辺の伝承でも、
 スサノオは出雲の斐伊川の川上から
 福山周辺にやってきたことが伝えられている。
 
 出雲と、
 瀬戸内海沿岸地方との交易ルートは
 この経路であることがわかる。
 
 神武天皇がこの地域に長期滞在をし、
 さらに巨石祭祀を行なっているのは
 この地域の人々の心をつかむのと、
 出雲との交渉のためと考えられる。 
 
 そこで、
 交渉の代表者として登場するのが
 市杵島姫となる。
 
 彼女はこの当時生存していた
 数少ないスサノオの娘である。
 
 さらに、
 出雲のサルタヒコは北九州にいたとき、
 この市杵島姫を妻にしていたのである。
 
 出雲の言代主にとって、
 頭の挙がらない人物の一人であろう。
 
 神武天皇もそれを計算して
 宇佐から彼女を同行させたと考えるのである。 
 
 このように考えると、
 神武天皇の長期滞在理由、
 土器の出土状況、
 市杵島姫の広島への移動すべてが
 説明できるのである。
 
 東倭から譲り受けた後の広島県地域は
 市杵島姫が統治していたものと考えられる。
 
 市杵島姫の伝承地が
 転々と移動しているのも地域を
 まとめるためと考えられ、
 大分系土器が出土するのも
 そのためと考えられる。 
 
 安芸国に滞在しているときに、
 出雲国との交渉によって、
 安芸・備後(現広島県)を
 東倭から譲り受けた後の経路については、
 神武天皇が大和で即位した後の
 北九州との航路を安定化するために
 要所となるところに寄港地を
 作るために方々に
 滞在していたのではあるまいか。
 
 磐田山の天津磐境は
 航海の安全を祈る祭祀施設かもしれない。
「後の滞在推定値」 
 
 福山市田尻町の高島宮址を出航した、
 神武天皇一行の
 その後の立ち寄り地を探ってみることにする。
 
 大阪湾岸に到達するまでに、
 以下のような伝承地が存在している。
 
 1.岡山県笠岡市高島 
 
 笠岡諸島のひとつの島である高島には
 高島神社がある。
 
 明治維新までは
 「神武天皇宮」
 「神武天皇社」
 と呼ばれて崇拝されていた。
 
 社は小さいが神武天皇が
 東征された際の仮宮である
 吉備高島宮の跡と言われている。
 近くの最長には高島遺跡が存在している。
 
 長期滞在には不向きと思われ、
 海が荒れたため立ち寄ったのではないだろうか。 
 
 2.児島湾に浮かぶ高島 
 
 児島半島はこの当時島であり、
 児島湾は東西に通じていた海峡であった。
 笠岡の高島を出航した神武天皇一行は
 この海峡に沿って東行し、
 旭川河口にある高島周辺で船を休めた。
 高島は大変小さい島で、
 児島湾上に浮かんでいる。
 
 この島及び児島半島の北岸に
 神武天皇が滞在したという伝承地がある。
 
 このような島に大人数が
 長期滞在するのは無理であるので、
 長期滞在地を探すために
 短期間滞在したのではないかと創造する。
 
 ここに滞在中、
 龍の口山の麓に長期滞在地を
 選定したものと考える。 
 
 3.岡山市賞田、龍の口山の南麓 
 
 岡山市市街地の北西部旭川のそばに
 龍の口山がある。
 
 その南麓に高島神社が存在し、
 神武天皇が滞在した址と伝えている。
 当時はこの近くまで海だったようで、
 児島湾の高島から
 この地に移ったと考えられる。
 
 大和へ向かう経路上より北へずれているため、
 長期滞在したのではないかと考えられる。
 この地より10kmほど南東に兄である
 五瀬命が滞在したと伝えられている
 安仁神社が存在している。
 昔はこの鶴山の麓まで海であったそうで、
 入江の奥の良港だった。
 
 後方の山には磐座や列石があり、
 古代の祭祀跡と見られるところに、
 神武東征の船の
 「ともづな」を掛けたといわれる
 「綱掛石神社」などがある。
 
 この安仁神社の地は
 神武天皇が龍の口山の高島宮に滞在中に
 五瀬命が滞在していたと推定する。 
 
 日本書紀から推定すると、
 ここを出発したのが
 AD81年7月下旬となる。
 
 4.兵庫県家島 
 
 神武天皇が東征の時、海があれ、
 嵐を避けるために家島に御寄港した。
 
 島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、
 まるで自分の家にいるようだったことから、
 「家島」と名づけられたと伝えられている。 
 
 家島は、
 古くは、国生みの島オノゴロ島、
 胞島(エジマ)と呼ばれていた。
 
 その後家島と呼び名を変え、
 瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、
 風待ちの非難港として栄えてきたとも
 いわれている。
  
 「播磨鑑」には
 次のような説話が伝えられている。
  
 「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、
  沖で釣をしていると、
  吉備水道を抜け出て来た船団が
  播磨灘に向かってやってきて、
  翁がこの海に関して詳しい事を知り、
  翁に道先案内を頼みました。 
 
  船団は、
  家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、
  食料の補充をして数年間がたちました。
  そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。
  難波について翁は手柄を褒められました。
 
  翁の亀は、忙しい主人をおいて、
  先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
 
 この話は
 神武天皇の東征時の説話といわれている。 
 
 神武天皇一行が高島を出航したのが
 戊午2月11日で、
 難波の白肩津に着いたのが3月10日なので、
 この間約15日(この頃の1ヶ月は15日と推定)。
 距離から考えて
 家島には五日ぐらい
 滞在したのではあるまいか
  M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 
《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」》
「神武天皇の広島県下での行動について」
 
 昭和16年 
 広島県発行の「神武天皇聖蹟誌」に
 広島県下における神武天皇の行動の跡を
 伝える伝承が詳しく記録されている。
 この伝承をまとめてみると次のようになる。 
 
 1.厳島
 
 日向を発した神武天皇は広島県沖に達したとき、 まず、
 宮島の南端の須屋浦に上陸し
 現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。
 
 渡辺綱吉氏
 「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、
 厳島神社の本当の祭神は
 神武天皇ではないかと書かれている。
 それは昭和15年の
 「厳島神社御由緒等調査記」に
 神武天皇の時代に御鎮座とあり、
 最初に神武天皇が
 この島を訪れているからである。
 
 また、
 島内の山中には巨石を用いた
 祭祀の痕跡が残っている。
 
 これも神武天皇が祭祀したものと思われる。
 
 2.廿日市市地御前 
 
 宮島を発した神武天皇は
 地御前の地御前神社の地に上陸した。
 神社西側の入り江を有府水門といい、
 ここに着岸されたという。 
 
 3.廿日市市串戸
  
 地御前で休息の後、海岸に沿って船を進め、
 串戸に入り広田神社の地
 (近くに天王址碑あり)に着いた。
 天皇が天王社(広田神社)の御戸を開き
 玉串を奉典し奉ったことにより
 串戸と名づけられたという。 
 
 4.廿日市市宮内 
 
 それよりさらに御手洗川に沿って奥地に入り、
 宮内の大幸の八坂神社の地でしばらく滞在した。
 
 天皇がしばらく滞在したため
 宮内と呼ばれるようになった。
 
 5.広島市古江 
 
 その後広島市古江に上陸し
 現在の八幡神社の地にしばらく滞在。
 
 ここを多紀理宮という。
  
 6.安芸郡江田島町切串 
 
 その後、
 江田島に渡り切串の
 長谷川の河口にある丘陵地に
 宮をつくりしばらく滞在。
 
 洪水にあったために
 府中町多家神社の地に移動。
 埃宮とは江の内の意味で
 広島湾岸を意味している。
 
 7.安芸郡府中町多家神社 
 
 かなり長く滞在したようで、
 この滞在中矢野や船越方面にも
 出向いているようである。
 
 このとき(?)皇兄の五瀬命が
 瀬野にて賊退治をしている。
 
 日本書紀から推察すると、
 AD79年12月頃と思われる。
 以下は多家神社滞在中のことと思われる。
 
 ・広島市可部町舟山・・・
  広島湾を北上し広島市可部町舟山に着岸し、
  徳行寺境内の総社の地にしばらく滞在。
 
  このとき惠坂や螺山方面にも
  足を伸ばされている。
 
 ・高田郡吉田町宮之城・・・内陸部に入り、
  宮之城の丘陵にある埃宮神社にしばらく滞在。
 
 ・賀茂郡西条町寺家・・・新宮神社に
  腰掛岩がある。 
 
 ・賀茂郡福富町竹仁・・・
  橿原神社(現在は森政神社に合祀)に
  神武天皇が来遊したと記録されている。 
 
 ・比婆郡西条町高・・・今宮神社に伝承あり。
  埃宮に滞在中出雲との関係を生じ
  この地を数度訪問した。
 
  物資を出雲より取り寄せた。
 
  と言い伝えられている。 
 
 ・比婆郡高野町南・・・
  男鹿見山の麓にある八幡神社に
  大昔より鉾を神宝として伝えている。
  神武天皇が鬼城山の鬼を退治したときの
  鉾と伝える。
 
  この周辺も高嶋という。
 
  この周辺に神武天皇伝承地が多い。
  
  多家神社を基点として方々を巡回後、
  当神社を出発、
  呉市天応
  (立ち寄り伝承あり、
   天応の名も天皇の
   立ち寄りからつけられる)、
  呉市(賊退治伝承あり)と経由し、海に出る。
 
  蒲刈島南方海上を東へ向けて進行中、
  南風を受け船の梶が折れたために、
  上下蒲刈島の間の三ノ瀬に船が入りこんだ。
 
  下蒲刈の向浦に着岸し
  天頭山の岸辺で船を修繕。
 
  このとき蒲を刈ったので、
  ここを蒲刈と名づけられた。
 
  そこから内海に出てさらに東へ進んだ。
  
 8.豊田郡瀬戸田町名荷 
 
 蒲刈を出た天皇一行は瀬戸田町の名荷に到着。
 
 斎串を立てて祀ったので
 この島を生口島と呼ぶようになった。
 
 島の嶽山の麓にあった
 江ノ神社の地に
 しばらく滞在したとの伝承あり。
 
 近くに船を止めたという場所や
 神武天皇使用の井戸の跡、窯の跡、
 斎田の跡などの伝承あり。
 
 伝承内容からしてかなり長い滞在と思われる。
 
 9.豊田郡大崎町大長 
 
 神武天皇が立ち寄ったという。
 付近の島々にも支船を停泊させたと伝える。
 
 また、
 この地に着く前に一支隊が
 四国(三津浜)に立ち寄ったともいう。
 
 10.因島市大浜 
 
 斎島神社由緒
 「昔神武天皇、東国に行かれるとき、
  風波のため航海ができず、
  この大浜に船を留め寒崎山にて
  数日嵐の静まることを天神に祈られた。
  即ちこの島は斎島である。
  後に変わって隠の島(因島)となる。」
 
 11.尾道市高須町 
 
 ここからは備後の国であり、
 滞在地を高嶋宮と伝えている。
 大元山麓の八幡神社の地に
 しばらく滞在したと伝える。
 
 ここから2kmほど南西の大田地区で
 武器製造・貯蔵をしたと伝えられ、
 神武天皇はしばしばここを訪れたそうである。
 
 ここも滞在期間は長かったようである。
 ここに着いたのが
 日本書紀よりAD80年2月頃と考えられる。
 
 12.福山市金江町 
 
 貴船神社があり、ここに船を止めた。
 
 近くの竜王山西麓に
 神武天皇滞在伝承地があり、
 この周辺を高嶋宮という。
 
 石碑もある。
 
 また、
 鏡山の今伊勢神宮に八咫鏡を奉祀した。
 
 そのため、この地を神村という。
 
 近くの磐田山に天津磐境をつくり祭祀をした。
 
 天津磐境の岩を運んだという伝承地もあり、
 このあたりに神武天皇伝承地が極めて多い。
 
 かなり長期にわたって
 滞在したものと思われる。
 
 13.沼隈郡浦崎町 
 
 浦崎町中央部の王太子山中腹に
 王太子神社があり、
 神武天皇の滞在を伝える。
 
 また、
 近くの戸崎に神武天皇上陸伝承地がある。
 
 
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-2」 [日本創世紀]

 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-1」》


 多家「タケ」
 (Grk.)ταγη(tagi/tage)
     支配者、命令を下す者、戦列・前線
    ταγος(tagos)指揮者、支配者
 
 ※多家神社の所在地が
  多祁理宮のあった所とは必ずしもいえない。
 
  特に多祁理宮を
  現在の府中町に想定することは、
  速谷神社の鎮座理由からして不適当。
 
  安藝國の立国時の政治的中心地は
  現在佐伯郡にあったことは
  明らかであり、
  後の國郡制が設けられる時に至って
  府中町方面にその中心が
  移転したものとみられ、
  多家神社はその時代からの鎮座と推測される。
 
 「オホイヱ」「オホイエ」
 (Grk.)οιαζ(oiaks)、αιάκος  
     <舵、舵柄>の転訛か?
 
 ◎多祁理宮の比定地
 
 (1)廿日市市廿日市高州
 
 高州「タカス」
 (Grk.)ταγος(tagos) 指揮者、支配者
    高洲とは表記されないので砂洲ではない。
 
 (2)廿日市市  
   
 峰高「ミネタカ」(旧名)宗高尾「ムネタカ・オ」、
  尾は七尾というように丘陵の尾根の意味
 
 「ミネ」・「ムネ」
 (Grk.)μενο(meno) 
    μενεμεν(不定詞、叙事詩menemen)  
    μενησι(menysi三人称単数) 
  ◦持ち堪える、(特に戦いで)踏み留まる、
   (攻撃に)耐える
 
 「タカ」
 (Grk.)ταγη(tage)
     戦列・前線、支配者、命令を下す者
 
 「ミネ・タカ」
  戦いで踏み止まっている前線
  戦いの前線で踏み止まっている支配者
 
 ※(1)、(2)とも
  東征の前線に駐屯した支配者の駐留地として
  適しい遺称といえる。
 
 ◦福山:ふくやま(廣島県)
 市の中央にある丘陵。福山に依る地名。
 この山は蝙蝠(こうもり)山とも称された。
 
 「こうもり」
 (Grk.)ημερά(hmera) イオニア訛り 
    ημερη(hmeri)
     η(h)は時としてkh(k)と発音される。
 
 「フク」
 (Grk.)ψεγγος(pheggos)日、昼間
    ψεγγους(pheggoys)
     光、輝き、(特に)太陽の光、眼の光、
     燈火
    ψεγγω(pheggo)光り輝く(形容詞)
 
 旭ヶ丘(福山市東南部の丘陵)旧安那郡のうち、
  旭:朝日
 
 引野:ひきの(福山市)旭ヶ丘の西部から
    西北部に広がる地名
 
 「ヒキ」
 (Grk.)ψεγγω(pheggo)光り輝く(形容詞)
    ψεγγους(pheggoys)
     輝き、(特に)太陽の光※朝日に対応する
 
 燧灘:ひうちなだ
    (広島、愛媛、香川3県にまたがる灘)
 
 「ヒウチ」はψεγγος(pheggos)に係わる。
 
 ◦安那郡(備後国東南端の郡名)
 
 「アナ」
 (Grk.)άνα(ana)、άναξ(anaks)、άνακτος    (anaktos)の呼格(voc)
     王、支配者、領主など
  備前国邑久郡安仁神社の「安仁:あに」と同根
 
 ◦多理比神社「延喜式」神名帳 
  備後品治郡 訓「タリヒノ」
 
 「タリヒリ」三段橈船
 (Grk.)τρι-ηρης(tri-hris)
    τρι-ηρεες(tri-hrees)
    τριηρης(trihris)
 
 品治(ホムヂ)郡(現)福山市駅家町周辺
 
 「ホムヂ」(旧名品遅「ホムチ」)
 (Grk.)Ημαθιη(Hmathih/Émathië)
 (現)福山市駅家町坊寺の
   「坊寺」/法師村(江戸時代)
 ※マケドニアの古称<ここではマケドニア人>
 
 江良(福山市駅家町江良)
 
 「エラ」
 (Grk.)ερετμον(eretmon)橈
    ηρης(hris:eris)橈/櫂
    ηρεες(hrees:erees)橈/櫂
 
 大草神社(江良にある)
 
 「オホクサ」
 (Grk.)αικαος(aiakos)舵、舵柄
    οιαξ(oiaks)舵、舵柄
 
 ◦蘇羅比古神社「延喜式」神名帳
  備後国三上郡 訓「ソラヒコノ」
 
 「ソラ」① 
 (Grk.)σολος(solos)鉄の塊
  (現所在地)
 A:広島県庄原市本村町 蘇羅比古神社 
  鍬寄山にある。
 B:広島県庄原市高町川西 蘇羅比古神社
  ※当地は古代より鉄の産地、両地の間にある。
   大黒目山の「黒目」は磁鉄鉱を表わす。
   また、
   篠津原(字名)は(Grk.)の「鉄」を意味する
   σιδλος(sidlos) に係わり
   「篠:ササ」は砂金を表わしている。
  ※当社の創建の理由は
   この「鉄塊」の産地であることに始まると
   考える。
   但し、その後、その解釈は変更される。
 
 「ソラ」② 
 (Grk.)σελας(selas)光、光輝、電光、火
  つまり、電光・雷光(稲妻)の意味が加わる。
  なぜか、
  郡名「三上」・「延喜式」神名帳 訓「ミカミ」
 
 「ミカミ」
 (Grk.)μυκεμα(mykema)咆え声
    μυκαομαι(mykaomai)
     轟く、大きな音をたてる、咆える、唸る
     >雷鳴を表わす。
  ※鉄塊の神から
   「雷神<雷電(光)>の神」へ変わっていった。
   本村町に岳音寺という寺院がある。
   「山(岳)の音」とは雷鳴を窺わせる。
   その本村町の東方
   比婆郡東城町の庄原市よりに
   御神山「ミカミヤマ」があり、
   その北方辺に「帝釈」を冠した地域もある。
 
   帝釈は仏教用語で本来は
   インドのヴェータにおける最高神にして、
   雷神の性格を持つインドラ神の語義であり、
   「ミカミ」が「雷電」に
   係わっていることを示している。
 
   この「三上」は
   滋賀県野洲郡野洲町の三上、三上山と
   同根である。
 
 野洲「ヤス」
 (Grk.)Yης(Yes、本来はディオニソス神の呼称)
    豊饒をもたらす雨神
 
 「ヤツ」
 (Grk.)υετος(yetos) 雨、(特に)激しい驟雨
    υετιος(yetios) 雨をもやらす、雨の
 
 東城町・西城町の「シロ・城」
  この地域が鉄の産地であることから 
  σολος(solos)が語源であろう。
 
 C.高嶋宮〔岡山県〕
 
 『古事記』古事記 中卷
 
  亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐
 
  また其の國より遷り上り幸(いでま)して、
  吉備の高嶋の宮に
  八年(やとせ)坐しましき。 
 
 『日本書紀』卷第三 
  神武天皇(神日本磐余彦天皇) 
 
  乙卯年の春三月の甲寅の朔己未に、
  吉備國に徙りて入りましき。
  行館を起りて居ます。
  之を高嶋宮と曰ふ。
  三年積る間に舟檝を脩へ、兵食を蓄へて、
  將に一たび舉げて天下を平けむと欲也。
 
 「延喜式」神名帳 備前國邑久郡
 ◦安仁(アニノ)神社名神大
 「特選神名諜」
  安仁神社 備前國邑久郡
   名神大、
   祭神:五瀬命(潔云五瀬命と云ふは
          近年云出したる妄説なり)
   祭日:十月三十一日至十一月一日
   社格:國弊中社
   所在:藤井村宮城村(邑久郡大宮村大字藤井)
 
 ◦安仁「アニ」
 (Grk.)άνα(ana)、άναξ(anaks)、
    άνακτος(anaktos)の呼称
   ◦王、支配者、領主、主人、貴族、
  命令者、指揮者
  安仁神社は「久方(ひさかた)宮」
  と呼ばれてきた。
  久「クス」
  (Grk.)άναξ(anaks)のξ(ks)の転用
  ※このことから
   安仁神社とは「王 神社」の語義となる。
   同神社近くに、大王寺が建てられ
   地名となって残っているのも参考となる。
 
   ◦宮城山、(式内社調査報告)別名 鶴山「ツル」
  (Grk.)θυρα(thura)、
     θυρη(thuri、イオニア訛り)
     戸、扉、戸口、門
     ◦邸、宮殿:宮城
   宮城・鶴(つる)は同義で「宮殿」を表わす。
   よって安仁神社は"大王(王)の宮殿"を
   継承するもので、高嶋宮の位置である。
 
 藤井、宮城山のある地域で、旧村名、現大字名
 
 「フジ」
 (Grk.)ψως(phos)
    日、一日、
    ◦燃える火の光◦燈火◦眼の光◦眼
    アテネ神の「輝く眼」に対応する。
    〈久方(ひさかた)の「ヒサ」にも対応〉
 
 東片岡、西片岡
 (安仁神社のある西大寺一宮の西隣りの地区名)
 
 片「カタ」
 (Sk.)ketu 光、光輝、光明、燈火、指導者
 
 朝日(片岡にある字名)ketuに対応する。
 ketuに指導者の意味もあることからすると、
 片岡とは鶴山/宮城山を指している。
 
 滝神社(西大寺一宮)安仁神社の近くに鎮座」
 
 「タキ」
 (Grk.)ταγη(tagi)
    支配者、命令を下す者、戦列、前線  
 
   ◦邑久(おく)郡(古代~現在の郡名)
  「延喜式」民部省國郡表
  九条家本「オホク」
   ◦邑久郷「和名類聚抄」邑久郡のうち
  大化改新(乙巳の変)以前「大伯国」
 
 「オホク」「オク」
 (Grk.)ογκα(ogka)アテネΑθνα神の呼称
  ◦ογκαはまた「オンガ」とも訛り、
  遠賀:オンガ(福岡県)と係わり、
  この邑久・オクも崗水門の「オカ」
  (船の停泊地)であったかもしれない。
 
   ◦幸島「こうじま」(岡山市)片岡・邑久郷の西方
  水門湾お奥で現在水門町となっている地域は、
  元"幸島"と呼ばれる島であった。
  付近の地名 
   神崎(こうざき)、幸田(こうだ)、神崎町 
  ※その他 幸島・こうじま(笠岡市)
 
 「コウ」〈コフ〉
 (Grk.)κωπη(kopi) 
    櫂・カヒ、橈柄、
    ◦軍船(橈船)の寄泊地を
    「コウ」で表わしている。
 
 ※高嶋宮は一般に
  「タカシマ」と訓まれてきたが、
  「コウシマ」と訓む方が真実らしい。
  安仁神社と幸島は3㎞程の距離にあり、
  水門湾の呼称は崗水門(福岡県)と共通であり、
  この静かな湾内に
  軍船を停泊させていたものだろう。
 
  古代の当時は海域が東片岡、つまり
  安仁神社の麓辺りまで入りこんでいた。
  
  船の停泊には最も静かな
  安全地帯であったはずである。
 
  ◦高島・たかしま(岡山港近く、児島湾の島)
  高島神社(岡山市宮浦)
  高島に祭儀の跡を持つ
  高島遺跡があることから、
  この辺りに高嶋宮あったの説もあるが、
  同地はあくまで祭祀場にすぎず、
  軍団の停泊地たり得ない。
 
  祭祀遺跡の遺物は5世紀以降、
  その後半から6世紀前半が盛ん。
 
  ◦阿知〈上下〉(岡山市)邑久郡の東方
        西大寺一宮(安仁神社)の北方
 「アチ」
 (Grk.)Ατθη(Atthi)、Ατθις(Atthis)、
    Αττικη(Attikh)・アッチカ地方
  Αττικηはアテネを主祭人とする。
  ギリシャのイオニア人が建立した
  アテネを含む地方名
 
  ◦阿智郷(倉敷市)
   【古代】「和名類聚抄」
   備中國に浅口郷8郷の1つ。
   (現)倉敷市西阿知町
 「アチ」Ατθη、
 浅口郷「アサクチ」Αττικη(アッチカ)
 
 阿知〈倉敷市〉倉敷の古名 
        (現)倉敷駅の東付近
  阿智神社(倉敷市鶴形)鶴形山に鎮座(山頂)
   ※アッチカの祭神を祀る神社 
  足立神社 「延喜式」神名帳 備中國窪屋郡
  足立神社訓「アシタカノ」
   (現)倉敷市笹沖(旧名篠沖)
  「式内社調査報告」第二十二巻、p.424
   葦高宮、葦高大明神、葦高明神
 
 「アシタカ」
 (Grk.)Αττικη(アッチカ)
 
 「倉敷」
 (Grk.)κελεω(keleysma)
    命令、呼び声、掛け声
        κλησις(kliss)
    呼ぶこと、呼びかけ、呼び名
 
 「クラシキ」
 (Grk.)καλεω(kaleu)
        (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、
    ◦呼び掛ける、呼ぶ
 
 ※「神の名を呼ぶ」のは
  「神を尊崇する」ことであり、
   岡田宮(福岡県)、多祁理宮(広島県)の地名
   などに連なる性格である。
   これらのギリシャ語に従い、
   漢字を当てたももだろう。
   その延長に「児島」はある。
 
 「児島」コシマ、コジマ(倉敷市)
  【古代】「延喜式」民部省國郡表にみえる
   備前國8郷の1つ。
   九条家「コシマ」
   「和名類聚抄」の訓「古之末」
   「延喜式」神名帳 児嶋郡の訓「コジマ」
  ※倉敷市の当該地区はかって"島"であった。
   
 「児」の由来、
   「クラシキ」の語源に発音が近いギリシャ語
 (Grk.)κορος(koros)、κωρος(koros)
    少年、若者を意味し、「児」に相当する。
 ◎児島はこのような相互関係
  で生まれた島名地名である。
 
 箆取神社(倉敷市連島・つらしま西之浦)
  西阿知の南隣が連島地域
 
 箆「ヘラ」
 (Grk.)ηρης(hris)、ηρεες(hrees)
    橈柄、櫂(かい)
 「ヘラ取」櫂取、つまり「船の漕ぎ手」を表わす。
 船乗りの信仰が厚かったのはこの理由による。
 
 連島・つらしま(倉敷市)
 【古代】
 「和名類聚抄」備前國児島郡4郷の1つ。
        都羅郷の比定地、高山寺本
 豆良「ツラ」
 (Grk.)θυρα(thura)◦邸、宮殿」、戸、戸口、門
 ◦ 何時の時か、船乗りたちの親方などの邸宅が
  箆取神社辺りにあったものだろう。
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」 [日本創世紀]


 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」》

  

 A.岡田宮〔福岡県〕

 

 『古事記』

 於筑紫之岡田宮一年坐。

 亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。

 亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。

 

 『日本書紀』

 神日本磐余彥天皇 神武天皇

 十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。

 十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。

 

 遠賀・崗・岡「オカ」

 (Grk.) όχος 乗物・船・車輪・車(οχος)  

  岡湊神社 芦屋町、船頭町

  「オカミナト/崗水門」(Grk.) όχος

  ◦容れるもの⇒船の停泊地

  (Δωμάτιο του πλοίου)

  Πού να πάρετε ένα πλοίο

   船を容れる所

   νηωγ、Πλοίο(舟)の属格「船の」

 

  ※湊(港)の語義で「岡湊」は音写と語義に

   より生み出した用語

 

   船頭町(芦屋市昭和41年からの地名)は

   岡湊神社の鎮座地だが、古くから

   この地の字名として用いられた場合

 

   「オカ」はοίαξ(οίακσ)、αίακος

   双方とも「船」で、この音写でもある。

 

 芦屋「アシヤ」

 (Grk.)οσία(οςία、イオリア訛り)神の掟

    όσίος(οςίος)◦敬神の、聖な、信心深い

          ◦神を祀ること、祭儀、祭式

 

 島津(しまづ)・島門(シマト)「シマト」

 (Grk.)θαημαστης(thaymasths)

      賞賛者:尊崇者・崇拝者

        θαημα(thayma),

        θαηματος(thaymatos)

      驚き、驚嘆、不思議

       θαημα(thaymazw(o)),

        θαηματος(thaymasw(o)) 

     驚く、驚嘆する。

     ◦敬意を表す

     ◦尊ぶ、尊崇する、尊敬する

 

 鬼津(オニヅ)

 (Grk.)αναξ(anaks),ανακτος(anaktos)

    王、支配者、領主、主人、貴族、命令者

 

 浅木・朝木「アサキ」

 (Grk.)Aττικι(Attiki)アッティカ

   アテネ神を祭神とするアテネの町のある地方

 

 鞍手「クラテ/クラジ」

 (Grk.)καλητωρ(kalhtew(o)r)

        (大声で)呼び叫ぶ人<神に祈る人、祭官

 

    καλεω(kalew(o))

    (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ 

    ◦呼ぶ、呼び寄せる、呼びかける

    ◦招く

 

    θεο-κλυτος(theo-klutos)

    神に呼び掛ける

 

    θεο-κλυτεω(theo-klut(o))

    神に呼び掛ける、祈る、祈り求める

 

 岡田・宮「オカタ」

 (Grk.)οχθη(oxthh)高み、川岸、川堤

    οχθος(oxthos)高み、丘、塚、川岸

  ※この用語から宮の置かれた場所は

   遠賀川の川岸に近い小高い丘(崗)で

   あったと推測される。

  ◎遠賀川右岸浅川台の字名に「岡田」がある。

 

 広渡・ひろわたり「ヒロト」

 (Grk.)Παλλαδος、

    Παλλας 

    Aθηνα女神の異称

    〔Pallados〕〔Pallas〕

    浅木の北隣りで遠賀川の川下に接している。

 

 B.多祁理宮〔広島県〕:埃宮

 

 『古事記』

  古事記 中卷

   於竺紫之岡田宮一年坐 亦從其國上幸而 

   於阿岐國之多祁理宮 七年坐

   亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐

 

   其の地より遷移(めぐ)りて、

   竺紫(つくし)の岡田の宮に

   一年(ひととせ)坐しましき。

 

   また其の國より上り幸(いでま)して、

   阿岐(あき)の國の

   多祁理(たぎり)の宮に

   七年(ななとせ)坐しましき。 

 

   また其の國より遷り上り幸(いでま)して、

   吉備の高嶋の宮に

   八年(やとせ)坐しましき。 

 

 『日本書紀』

  卷第三 神武天皇(神日本磐余彦天皇) 

      即位前紀 太歳甲寅十二月

  ○十有二月丙辰朔壬午 至安藝國 居于埃宮

  ○十有二月(しはす)丙辰(ひのえ・たつ)の

   朔(ついたち)壬午(みずのえ・うま)。

   安藝國(あきのくに)に至り、

   埃宮(えのみや)に居(いま)しき。

 

 多祁理宮「タケリ」:"哮・たけり":

  大声でわめき叫ぶこと。

   "たけ・る"大声で叫ぶ、吠え叫ぶ

 (Grk.)θεο-κλντος(theo-klytos) 

     神に呼び掛ける

    θεο-κλντεω(theo-klyteo)

     神に呼び掛ける、祈る、祈り求める

    καλεω(kaleo)

     呼ぶ、呼び寄せる、招く、招待する、

     (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、

     呼び掛ける

 

 〔廿日市市の地名〕

 

 阿品「アジナ」

 (Grk.)Aθηνα(Athina)

    アテネ神、学問、技芸、戦いの女神

 

 平良・部良「ヘラ」【古代】平安期

  『和名類聚抄』種箆郷「タネヘラ」

 

 「タネ・ヘラ」

 (Grk.)τανα-ηρης(tana-hris)

    τανα-ηρης(tana-hrees)

    τανηρης(tanyhris)

    長い橈の船=三段橈船

 

 「タネ」

 (Grk.)τανος(tanaos)長い延びた 

    τανα-,τανυ-(修飾形) 

 

 「ヘラ」

 (Grk.)ηρης、ηρεες 橈、櫂(かひ)

 

 三段橈船 

 (Grk.)τρι-ηρης(tri-hris)

    τρι-ηρεες(tri-hrees)

    τριηρης(trihris)

 ※三段櫂船:


 

 可愛・河合・川井「かわい」

 【中世】鎌倉期にみえる地名。河井。

 

 「カワイ」 

 (Grk.)κωπη(kwpi) 橈柄・櫂(かひ)

 「カヒ」(日本語へ転訛)

  橈(かい)、小檝〔方言〕楫謂之橈

 

 ※清代陳昌治刻本『說文解字』

  【卷六】【木部】楫

  舟櫂也。从木咠聲。子葉切

 

  清代段玉裁『說文解字注』

  所㠯擢舟也。各本作舟櫂也。許無櫂字。

  手部曰。擢,引也。

  楫,所以引舟而行。故亦謂之擢。

  而漢書劉屈氂傳,外戚傳,

  百官表皆用輯濯爲楫擢。假借也。

  毛衞風傳曰。楫所以擢舟也。此許所本。

  今據以正。今毛詩擢譌櫂。

  淺人所改也。鄧通傳。以濯船爲黃頭郎。

  司馬相如傳。濯鷁牛首。

  皆擢舟之義也。詩爾雅音義引說文舟棹也。

  則其誤久矣。棹又櫂之俗。

  從木。咠聲。子葉切。七部。方言曰。

  楫謂之橈。或謂之櫂。

  櫂亦擢之譌也。擢櫂正俗字。方言集汇粤语

 

 ※多祁理宮のあった位置について

  多家(たけ)神社(延喜式神名帳)の

  多家が多祁・理に近いことから、

  現在安芸郡府中町に想定されているが、

  上記の解釈から、

  廿日市市の可愛川両岸辺りに

  あったものと考える

  当地は佐伯郡内で、

  佐伯氏は大伴氏と同族であり、

 

  "東征"の際指揮を執った

  日臣/道臣を祖としており、

  当地に勢力を7年に亘って養った

  遺称と考える。

 

  可愛川上流(内陸)、

  上平良には速谷神社が鎮座し、

  国府が最初に置かれた所である。

 

 ※同地の海向いに厳島神社

  『延喜式神名帳』

   伊都伎嶋(イツキシマノ)神社名神大・

   安藝國佐伯(サエキ)郡が鎮座し、

   宗像神社の祭神・

   多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫の三神が

   奉祭されているが、

   その内の「多紀理姫神」名は

   多祁理と同根語と考える。

 

   これらの固有名は

   巫女の三つの性格から採った名称で

   「イチキ」は「イタコ」、

   「タキツ」は「田心」と表記されるように

   英語の dance (踊り) と同じく

   巫女の舞い姿を

   そして

   「タキリ」は「神に呼びかけ、神を招く」

   というもの。

 

   その「多紀理姫神」を祭る神社の近くに

   「多祁理宮」があったとして

   何らかの係わりを考えさせる。

 

 ※「ヘラ」箆:"へら"とは

  竹片を細長く平たく削ったものをいう。

  (へら)はギリシャ語から日本語へ転訛した。

 

 ※古代ギリシャにおいては

  長い船は軍船を用いた商船を表わす。

 

 佐方「サガタ」「サカタ」

 (Grk.)θυγατηρ(thugatir)娘、

  アテネ Aθηνα神は

   処女神として知られる(パルテノン)

 

 ◎埃宮『日本書紀』

 

 埃:アイ〔集韻〕於開切 ai'、

   チ・ヂ〔集韻〕直几物

   ◦ほこり、すなけむり、もや

 

 ※この名称が"ほこり"の意味から

  付けられたものでないことは明らか

 

 「アイ・え」

 (Grk.)αϋω(ayo) 

     叫ぶ、大声で呼ぶ、鳴り響く、轟く

     "大声で呼ぶ"は多祁理

     (哮たけり:大声でさけぶ、

    θεο-κλντος

     「神に呼びかける」)と同義となる

     ◦ 但し、

      埃は「火+矣」 の誤記か誤用であろう。

  「火+矣」:アイ〔集韻〕於開切、

       キ〔集韻〕虚基切 

       ◦輝く、焼く、熱い

   〔玉編〕「火+矣」 、炫也、

   〔集韻〕「火+矣」 、一日、熱甚、

       炫:ケン・ゲン 

       ◦ひかる、輝く、光が上がる、                                照らす、輝き、火の海

 

 「かがやき」

 (Grk.)γλαυκος(glaukos)

     輝く、光沢のある、明るい

    Γλαυκος(Glaukos)

     船乗りの守護神

    Γλαυκος ύ Πουτιος 

     〔Glaukos u Pontios〕 

     として知られる、つまりアテネ神

     γλαυκ-ομματος(glauk-ommatos) 

     碧い眼の、(あるいは)輝く眼の

    γλαυκ-ωπις (glauk-opis)

     アテネ Aθηνα〔Athina〕神の形容、

     輝く眼のあるいは碧い眼の、を説明 

    γλαυζ(glauks)、 γλαυκος 

    (glaukos)コシキメフクロウ

 

 福佐売(フクサメ)神社(廿日市市可愛)

  『三大実録』廿二 佐伯郡 榎本連福佐売

 

 「フクサ」

 (Grk.)ψεγγος(pheggos)

    ψεγγους(pheggous)

      光り、輝く、(特に)太陽の光、眼の光、

     燈火

 「メ・売」"女"あるいは"眼"

 「フクサ・メ」"かがやく眼"または"かがやく女"で

  「輝く眼の女(神)」、

  つまりアテネ神よりなった名称

 

 ※阿品、佐方はアテネ神に係わる地名である。

  また平良・可愛は橈船にして

  軍船に係わる名称で、

  アテネ神は軍神にして船乗りの守護神である。

  <アテネ・ニケ 勝利の女>

 

 ☆多家神社

 

 『延喜式』神名帳 安藝国安藝郡

 

  訓「オホイヱノ」「オホイヱ」「オホノミ」

  「式内社調査報告」第22巻 619頁

 

 〔社名〕

  多家の訓については諸説あるが、

  明治7年現地に鎮座されて以来、

  もっぱらタケと呼ぶ、

  現地に鎮座される以前の所在は

  後述するように厳密には不明で、

  その訓は

  九条家本には「オホイヱ」、

  武田本には「オホイヱノ」と

  傍訓を付する。

  また

  吉田家本は「多氣神社」と誤寫し

  「氣」傍書して「家」と訂正し、

  「オホイヘノ」と訓じている。

 

  近世、

  伴信友人神名帳考證は

  これらの古訓に忠實に従ひ

  「オホイヘノ」の傍訓を付し、

  度會延經『神名帳考證』が

  多家に「タケ」の訓を付し、

  土佐國安藝郡多氣神社(式内社)を

  「タケ」と呼ぶことを援用してゐるのは

  穏當である。

 

  また

  廣島藩府編集『藝藩通志』巻39、

  祠廟も多氣の古訓がいかにあるべきかを

  種々検討して

  結局「タケ」と訓むべしとしてゐる。

 

 〔所在〕

  廣島県安藝郡府中町上宮の町二〇九一番地

  〔A〕この所在地は

  事項の論社の問題の結果として

  明治7年4月鎮座された場所である。

 

 ※「多家」の訓は

  「オホイヱ」か「タケ」か確定されていない。

 

 ※同神社の鎮座地が

  どこであったか確定されていない。

 

 ◎「多家」は「多祁理」とは

  全く語源が異なり関係はない。

 

 多祁理「タケリ」:哮・たけり/たけ・る:

         大声で叫ぶ

 (Grk.)θεο-κλντος(theo-klytos) 

     神に呼び掛ける、祈る

 

 多家「タケ」

 (Grk.)ταγη(tagi/tage)

     支配者、命令を下す者、戦列・前線

    ταγος(tagos)指揮者、支配者

 

 ※多家神社の所在地が

  多祁理宮のあった所とは必ずしもいえない。

 

  特に多祁理宮を

  現在の府中町に想定することは、

  速谷神社の鎮座理由からして不適当。

 

  安藝國の立国時の政治的中心地は

  現在佐伯郡にあったことは

  明らかであり、

  後の國郡制が設けられる時に至って

  府中町方面にその中心が

  移転したものとみられ、

  多家神社はその時代からの鎮座と推測される。

 

 「オホイヱ」「オホイエ」

 (Grk.)οιαζ(oiaks)、αιάκος  

     <舵、舵柄>の転訛か?

 

 M.K記

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(2)岡田宮・多祁理宮・高嶋宮 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
 
(2)岡田宮・多祁理宮・高嶋宮
 太安麿が纏めた『古事記』の神武東征伝承には
 三ヵ所の行宮が上げられている。
 
 『古事記』はいう。
 
  竺柴の岡田宮に一年坐しき。
  亦其の國より上り幸できまして、
  阿岐國の多祁理宮に七年坐しき。
  亦其の國より遷り上り幸できまして、
  吉備の高嶋宮に八年坐しき。
 
 (a)岡田宮
 
 『日本書紀』には
 
 「天皇、筑紫國の岡水門に至りたまふ」とある。
 
 「岡水門」は
 現福岡県遠賀郡芦屋町芦屋の遠賀川の河口近い
 左岸に「岡湊神社」が鎮座しているので
 その付近を指す。
 
 「岡田宮」も同所近辺にあったことに間違いない。
 
 「岡田」との地称は
 芦屋の対岸浅川地内に字名としてあり、
 この台地がその行宮の地であったはず。
 
 川名も「遠賀」も「岡」と同様
 源語は「オカ」であっただろう。
 
 ギリシャ語の oxos で
 「乗物」ながらここでは「船」である。
 
 よって「岡湊」は「船の停泊地」となる。
 
 但し「岡田宮」名の「オカタ」は
 oxthe で「高み」「川岸」、
 oxthos はまた「川岸」「丘」の語義で、
 浅川の台地に妥当な呼称である。
 
 岡湊神社の上流に「島津」との地名がある。
 
 同称は平安時代の延喜式に
 駅名として載る「島門」の地であるが、
 「シマヅ」は thymazō の音写で
 「尊崇する、崇拝する」で、
 「シマト」はその名詞形の 
 thymaths で「尊崇者、崇拝者」となる。
 
 そして町名芦屋の「アシヤ」は
 osia〔神の掟〕に係わる
 osios〔敬神の、信心深い〕となる。
 
 これらの語義とこれらの語群は
 「東征」 勢力及びその次に続く
 行宮などに極めて重い意義を持つ。
 
 (b)多祁理宮
 
 『日本書紀』に
 
 「安藝國に至りまして埃宮に居します」とある。
 
 安藝國〔『古事記』では阿岐国〕は、
 広島市から西方の広島県域をいう呼称である。
 
 「埃宮」名の「埃」は「ほこり」の字義で、
 これは「エ」ないし「アイ」音の音写で、
 語義から
 この行宮の意義を考え出すには無理がある。
 
 「アイ」はこの東征勢力の言葉
 ギリシャ語に 
 ayo 〔叫ぶ、大声で呼ぶ〕があり、
 同語の音写である。
 
 なぜならば、
 『古事記』が記す「多祁理:タケリ」とは
 同義であるからである。
 
 同義を一字で表わせば「哮:たけり」であり、
 「たける」は「大声でさけぶ」である。
 
 同音もギリシャ語 
 theo-klytos,theo-kyteo の転訛で
 「神に叫びかける」
 「神に呼びかける、祈りを求める」となる。
 
 同類語 kaleo は「呼ぶ」ながら
 「神の名を呼ぶ、呼びかける」である。
 
 これらの用語は「神を崇拝する者」の行為で、
 岡田宮で説明した
 「島津」名の源語と同質である。
 
 安芸国地域内に「アイ」「エ」と訓める地称がある。
 
 広島市の西側廿日市市の「可愛」で
 地名および川名となっていて、
 伝統的には「かあい」ながら「エ」とも称した。
 
 多祁理[埃]宮は
 この海に接した区域にあったと限られる。
 
 「可愛」川の流域に現在「平良」との地区がある。
 
 その呼称は「ヘラ」で和名類聚抄には
 「種箆郷」とあるのに当たる。
 
 「タネヘラ」はギリシャ語
 tana-hrees〔長い橈の船〕に依る。
 
 Tana〔長い、延びた〕と 
 hrees、hris〔橈・櫂〕の合成語で、
 「(かあい)かい」と読んでいるのも、
 日本語に「カイ」「カヒ」と称する源語
 koppi〔橈・櫂〕と同義であるからである。
 
 「カイ」は「カヒ」である。
 
 〔長い橈の船〕とは
 戦さのための船で「軍船」を表わす。
 
 古代ギリシャなどの「戦さ船」は
 速度を速くするため橈で搬ぐ必要から
 多くの橈を備えた。
 
 それを二段橈船、三段橈船といい
 上下に搬手〔ほとんどが奴隷〕を
 段上に並ばせていた。
 
 しかもその橈は比較的長く、
 上段になれば
 海面に届かせるためさらに長かった。
 
 船形も長く細い垂型であった。
 
 これに対し
 商船は円く腹が孕んだ円形で
 風を利用した帆船である。
 
 その軍船のうちの最も大きなものは
 三段式橈である。
 
 廿日市市内に「安品:阿品」との地称がある。
 「アジナ」というが、
 これはギリシャの戦いの女神 
 Athina〔アテネ神〕名で、
 この勢力は「戦い」ながら移動する、
 つまり
 「征服を行いながら東へ征して行く」
 戦闘軍事勢力だったのである。
 
 安品:阿品地区の東方に「佐方」地域がある。
 この「サガタ」は 
 thagatir の音写で「娘」が語義である。
 
 英語の daughter と同じである。
 「娘」とは「処女」で、
 アテネ神が「処女神」として知られるのに
 相応している。
 
 (c)高嶋宮
 
 『日本書紀』に
 
  「吉備國に徒りて入りましき。
   行館を起りて居ます。
   これを高嶋宮と曰ふ。
   三年積る間に舟檝を脩へ、
   兵舎を蓄えて将に天下を平けむと欲す」
 
 とある。
 
 吉備国は
 広島県の東部と岡山県の岡山市辺りから
 西部の地域である。
 
 「東征」の勢力集団は
 「(b)多祁理宮」で解釈したように
 軍船〔多分複数〕を備えた軍団で、
 その軍船によって瀬戸内海の北側を
 徐々に征圧を繰り返して移動したのである。
 
 高嶋宮のあったところはどこかであるが、
 そこは
 岡山県邑久郡宮村藤井の
 「宮城山」と解釈される。
 
 「宮城」名自体、
 天皇が居られる居館〔行宮〕の呼称で、
 そこに鎮座する「安仁神社」は延喜式神名帳の
 備前国邑久郡に載る「名神大」社で、
 その訓に「アニ」とあり、
 ギリシャ語 
 ana 〔王、支配者、領主、指揮者〕であると
 解釈されるからである。
 
 「アニ」は"天皇"を指称するのに十分な理由となる。
 
 同神社近くに「大王寺」が建てられ、
 現在地名となって遺されている。
 
 宮城山は別称を「鶴山」という。
 
 その「ツル」は 
 thura、thuri〔宮城、宮殿〕の音写で、
 「宮城山」と合致する。
 
 安仁神社は「大王の宮城」を継承するものである。
 
 同神社の西方に「片岡」との地称があるが、
 その地区、水門湾の奥に
 水門町となっている地域は
 元「幸島」と呼ばれる島であった。
 
 付近に
 幸崎(こうざき)、
 幸田(こうだ)、
 神崎町(こうざき)との
 地名呼称があることから
 「幸島」も「コウシマ」と呼ばれたに違いなく、
 「高嶋」も「こうしま」にして「幸島」の異字であり、
 「高嶋宮」は「コウシマ宮」と称すべきである。
 
 「水門」は
 「(a)岡田宮」で紹介した「岡水門」にも関係し、
 そこが彼等の船団の停泊地であった。
 
 その当時の古代では、
 幸島が海中の島であったように、
 海が深く安仁神社の宮城山まで切り込んだ地形で、
 穏やかにして安全に船の停泊できる入江であった。
 
 安仁神社は通称として
 「久方(ひさかた)宮」と呼ばれてきた。
 
 この久は「クス」で「アニ(安仁)」と合成すると
 anaks となる ana と同義の「王、支配者」 である。
 
 また同社近く(西大寺一宮)に鎮座する
 滝神社の「タキ」は 
 tagi の音写でまた同義〔支配者〕で
 また「命令を下す者」「戦列、前線」で、
 この戦闘集団は高嶋宮で戦線の準備をしたのである。
 
 『日本書紀』が記す通り
 
 ここで軍備や兵糧を整えたのである。
 
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」
  ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-1」
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①-1」

 
  M.K記



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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(1)「神武東征」は「崇神東征」 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
(1)「神武東征」は「崇神東征」
 倭人伝の記述の様子によると、
 「倭王」が再び使節を送ったとの記述のある
 魏暦正始4年(243)から
 次の記述の正始8年(247)の4年のうちに
 卑弥呼は死亡したことになる。
 
 卑弥呼の死後男王を立てたが
 国中が服従しなかったので、
 また卑弥呼の一族の壹與(台与)という
 13歳の女子を王に立てたという。
 
 文章の流れからすると、
 その壹與(台与)が魏に使節を送ったのが
 正始8年(247)ということらしい。
 
 よってより正確な推測をすると、
 卑弥呼の死亡は
 紀元245年の前後合わせて3年の間だろう。
 
 「台与」はサンスクリット語の 
 duyo 〔第二の〕音写で、
 彼女を「第二代」の巫女として、
 連合国家が再構築されたものとみられる。
 
 しかし、この連合も3世紀の後半
 〔多分紀元270年頃〕から
 4世紀初めにかけての間に海外から
 武力侵攻して来た勢力によって壊滅させられ、
 邪馬臺国(邪馬台国)はじめ
 傍国諸国の独立も存続が
 あやうくなったものとみられる。
 
 吉野ヶ里遺跡の発掘・再現によって
 明らかになっている長大な「柵」は、
 その外圧から村落を守護するための
 大掛かりな構造物で、
 実際その外圧勢力と戦争を行ったのである。
 
 遺跡内に埋葬された長躯の遺体は
 その敵の犠牲となった者の死体である。
 
 その海外から侵攻し来た勢力とは
 「崇神天皇」及びその和名「御真来入日子印恵」、
 垂仁天皇の「伊久米伊理毘古伊佐知」に
 込められている
 「イリ:入・伊理」人の勢力である。
 
 「イリ」は Ellas 〔ギリシャ〕あるいは
   Ellan 〔ギリシャ人〕の音写で、
 この勢力の祖地が
 古代にエーゲ海を挟んだ東西の地方
 ギリシャにあったことを示している。
  M.K記

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第5章 養蚕と絹(7)伊都国の背景伊都国の背景〔「イト」の語義と由来 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
 (7)伊都国の背景伊都国の背景〔「イト」の語義と由来
 「伊都国」とは魏志倭人伝に記載された国名である。
 
 本書第2章「(5)伊都国」で述べた国である。
 
 前節「(6)」旧約聖書イザヤ書の地の果ての島々」に
 ヘブライ人が作った居留地〔国〕である。
 
 「伊都名」は『日本書紀』仲哀天皇8年に
 「伊覩」と表記されて登場している。
 
 「筑紫の伊覩県主の祖である五十迹手(いそとて)」 
 「~そこで五十迹手をお褒めになられて
   『伊蘇志』と仰せられた。
   そこで時の人は
   五十迹手の本土を名付けて伊蘇国といった。
   いま伊覩というのは訛ったものである。」
 
 この「五十迹手」とある
 「イソトテ」は IShT-YT〔差し出す・手〕で
 「(救いの)手を差し延べる」「~を援助する」。
 
 次の「伊蘇志」は「イソシ」で 
 IZZ の音写で「勇敢、力」ながら、
 ここでは
 「栄光、誉れ」の語義で「栄誉なことだ」となる。
 また「伊蘇」だけみると YShV (動詞形)は
 「入植地を作る」「開拓する」「定住させる」で、
 YShV (名詞形)は「入植地、定住地」となる。
 
 このように解釈してくると
 「伊覩・伊都」の「イト」は、
 離散したヘブライ人が各地に形成した
 「共同体」を表す IDH の音写と判断できる。
 
 しかし、
 その背景にはヘブライ人たちの重要な民族の由来を
 保証するための祈りがある。
 
 つまり IDH と表音が近似する YD があり、
 それは「記念物、記念碑」にして
 「証拠」「証左」が語義であることに係わる。
 
 その経緯を物語っているのが「ヨシュア記」で、
 その物語はかなり込み入っているので略記する。
 
 この「記念物」は
 ヘブライ人の人々がエジプトを脱出し
 カナアン地方などへ入植した後、
 その12支族のうち
 ガド族、マナセ族、ルベン族が
 エルサレムの祭壇とは別に祭壇〔石塚〕を造り、
 他の支族等と争いになりそうになったが、
 最終的にはヨシュアを中心とする他の支族が
 誤解を解いて納得した。
 
 ヨシュアはガド族などに
 「律法と戒め」の記念物を与えたと解釈され、
 ガド族等は
 それは紀元前8世紀のアッシリアへの捕囚や
 その後の放浪の間も彼らの象徴として保持しつづけ、
 「地の果て」にまでもたらし、
 時として石塚〔岩倉・岩山〕を造営したのである。
 
 その記念は彼等の最高に貴重な、
 しかし隠し通さなければならないものであった。
 
  ヨシュア記
  
  第22章10 
   ルベンとガドの人々および
   マナセの半部族は
   カナンの土地にヨルダン川の
   ゲリロトに着いたとき、
   そこに一つの祭壇を築いた。
 
   それは目立って大きい祭壇であった。
 
  第22章34 
   それでルベン族とガド族はその祭壇を
   「まことにこれは私たちの間で主が神で
    あるという証拠だ」と呼んだ。
    (日本聖書協会)
 
 この「証拠」あるいはミルトス社版が
 「証人」としているヘブライ語が ID である。
 
 この ID:証拠〔YDは証人〕こそ
 「伊都〔伊覩〕」の祖語であり、
 特にヘブライの12族のうちの
 ルベン族、ガド族 、マナセ族にとっては
 彼等がヘブライ〔イスラエル〕人の
 仲間であるとの証拠にして象徴なのである。
 
 「祭壇」人が
 ノミを入れた彫み石で組まれたものでない。
 
 自然の石を積み上げた石塚であった。
 
 倭人伝の伊都国の当該地が
 現福岡県の糸島市だとはすでに述べた。
 
 その市内西方「神在」の宮地嶽頂上に
 宮地嶽神社が鎮座しているが、
 その神殿の基壇は石組されたもので
 「石塚」を踏襲しているといってよい。
 
 因みに「宮地」の「ミヤチ」の祖語は MYTV で
 「最高のもの」「最良のもの」を表し、
 「証拠」に係るものが
 その昔奉祭されていたと解釈できる。
 
 これらが証明するところは
 「伊都国」が
 ヘブライ人たちの「居留地」
 だったということである。
 
 前市名であった
 「マエバル:前原」は MIBRA の音写で
 「渡し場」つまり「港」を表し、
 ヘブライ系海洋貿易商船が
 船付けした所となる。
 
 古代紀元前後の頃は玄界灘からの加布里湾が
 今よりずっと内陸まで入り込んでいて、
 「浦志」とか「泊」辺りまで海で、
 湾内は波も静かで船溜りとして
 適しい状況であった。
 
 和歌山県の(現)橋本市辺りは
 紀伊国の「伊都郡」であるが、
 郡内にある町名「九度山」は
 そのような山(岳)名もないことからしても
 「クドヤマ」はヘブライ語の KDYM の音写で
 「東の、東方の」の語義である。
 つまり当地が「東の伊都」との表れで、
 九州の伊都の勢力が
 東方へ伸張してきたことを示している。
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(6)旧約聖書「イザヤ書」の「地の果ての島々」 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
 (6)旧約聖書「イザヤ書」の「地の果ての島々」
 「イザヤ書」とは
 旧約聖書のうち預言書と称されるものの
 第5番目の書である。
 
 その内容は3部に分割することができ、
 これまで第1のイザヤ書
 〔第1章から39章まで〕は
 紀元前8世紀に著されたといい、
 
 第2のイザヤ書と称される
 第40章から55章までは
 紀元前550年頃の成立、
 
 第3のイザヤ書と称される
 第56章から66章は
 同じく紀元前515年頃の成立とされる。
 
 ここでは
 特に第2のイザヤ書と称されるもののうちの
 40章から49章までに注目する。
 
 この書は一般に預言書といわれ、
 神の啓示の記述となっている。
 
 しかし、
 その内容にバビロン捕囚事件や
 ペルシャのキロス王名など、
 記述年より後の事件の具体的な
 固有名詞が載っていることから、
 当該書が宗教書としても、
 諸事項(件)発生後に記録として
 留められたとする方が妥当性がある。
 
 これまでのヘブライ学者は
 「預言」との通称にとらわれ、
 それぞれ事件以前の成立とすることに
 こだわってきたのではないかと推測される。
 
 歴史研究家的視点からすると、
 そういう第2イザヤ書は
 紀元前2世紀の終末期から
 同1世紀に記録されたものと、
 少なくとも加筆されたものと考える。
 
 なぜならば、
 その頃西方〔ローマ帝国、地中海東岸〕と
 極東との交易網が
 西方諸国の人々にやっと認知され始めた
 証左がその内容に含まれているからである。
 
 その状況は前章で説明した。
 この第2イザヤ書に興味深い事項がある
 「島々」「地の果て」などがそれである。
 
 以下に注目すべき箇所を
 ミルトス社ヘブライ語聖書対訳シリーズの
 イザヤ書から日本語部分を転載する。
 
  第40章
    15 見よ、
      主は島々を細かいちりのように取り上げる
   28 主は、永遠の神、
      地の果てまで創造された方
 
  第41章
    1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。
      国々の民よ、力を新たにせよ。
    5 島々は畏れをもって仰ぎ、
      地の果てはおののき、
      共に近づいて来る。
    9 わたしはあなたを固くとらえ、
      地の果て、
      その隅々から呼び出して言った
 
  第42章
    4 島々は彼の教えを待ち望む
   10 新しい歌を主に向かって歌え、
      地の果てから主の栄誉を歌え、
      海に漕ぎ出す者、海に満ちる者、
      島々とそこに住む者よ
   12 主に栄光を帰し、
      主の栄誉を島々に告げ知らせよ
 
  第43章
    6 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う
 
  第45章
   22 地の果てのすべての人々よ
 
  第48章
   20 バビロンを出よ、
      カルデアを逃げ去るがよい。
      喜びの声をもって告げ知らせ、
      地の果てまで響かせ、届かせよ
 
  第49章
    1 島々よ、わたしに聞け、
      遠い国々よ、耳を傾けよ
    6 だがそれにもまして、
      わたしはあなたを国々の光とし、
      わたしの救いを
      地の果てまでもたらす者とする
 
  まず、この「島々」を日本聖書協会の
 「旧約聖書」は
 「海沿いの国々」と記している。
 「オックスフォード・ケンブリッジ版」は
  coasts and islands と記している。
 
 それに影響されたのだろう。
 それよりも古い King James Version は
 islands〔「島」の複数形〕とし、
 「島々」と同義である。
 
 ギリシャ語版を載せる
  The Septuagint with Apocryha においても
 νησοι〔nhsoi〕としνησος〔nhsos:島〕の
 複数形である。
 
 やはりヘブライ語版にあるAYYM「島々」というのが
 本来の表記であろう。
 
 また「地の果て」について各英語版とも
 end of earth とし共通している。
 
 この用語のうち「地」は
 ヘブライ語で ARTs で
 英語〔earth〕と近似している。
 
 「果て」はイザヤ書の各表記が
  KTsHT あるいは KTsHT で前者が原型である。
 
 「地の果て」表現は
 ユーラシア大陸の東端〔日本列島〕を想起させる。
 
 紀元前数世紀から西方の関心は、
 東方特に極東への関心が高くなった。
 
 紀元前4世紀の
 アレキサンダー大王の東征の目的は
 アジア〔ユーラシア〕の東端に
 辿り着くことであった。
 
  実際は中央アジアまでで終わってしまった。
 
 イザヤ書のいう「地の果て」は
 明らかにその「極東」をいったものと考える。
 
 そして「島々」とは
 日本列島の西部地域とすることができる。
 
 「果て」である KTsH には
 「端」のほか「はずれ」の概念もある。
 
 大陸から少々はなれていてもかまわないのであり
 「島々」とはその「地の果て」の「はずれ」に
 あるものとすることができる。
 
 イザヤ書はそこに国々があると知らせている。
 
 KTsH の発音は「クェツェエ」であったと考えられ、
 これは「クシュウ:九州」の祖語とみられる。
 
 「州」とは「国」である。
 
 「島々」とは
 日本の九州を中心とする
 諸島々を想定して言われたことになる。
 
 このヘブライ語の「果て」を原語とする地称が
 九州のシナ海〔日本海〕方面にはある。
 
 例えば鹿児島県加世田市名は
 KTsHT の音写であるし、
 串木野市名も KTsH-KNP〔果て-果て〕で
 「果ての果て」となり、
 いかにも「極地」らしい。
 
 長崎県の「口之津」も「クチノ」 KTsNI の音写で
 語義を同じくする。
 
 この「島々」の情報は
 イザヤ書第42章10に登場する
 「海に漕ぎ出す者」あるいは
 「海に満ちる者」と
 海洋航海に生きる交易商人たちが
 海路を経てもたらしたものとみられる。
 
 つまり、それらの記述は、
 その頃ヘブライ人の海洋商人たちが
 「地の果て:極東」へ
 達していたことを明白たらしめているのである。
 
 その続きに「島々とそこに住む者よ」と
 すでにそこに
 ヘブライ人が居住しているといっている。
 
 さらにそればかりでなく、
 第43章6の「地の果てから連れ帰れ」
 と述べていることからも同様に、
 「地の果て」には
 ヘブライ人がすでに居住していたといえる。
 
 それが「国々」である。
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(5)ギリシャ語資料にみる東方の絹の産地 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
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《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
    
(5)ギリシャ語資料にみる東方の絹の産地
 古代に絹が東方から内陸中央アジアを越えて
 西方のギリシャ・ローマへ
 知られるようになったのは
 紀元前1世紀頃からである。
 
 そしてギリシャ語資料に
 「セリカ」「セレス」といった
 絹やその産地を指すおぼろげながら 
 知られるようになった。
 
 「セリカ」名がギリシャ資料に出始めたのは、
 ギリシャ人地理学者プトレマイオスかららしい。
 
 さらに紀元後1世紀になると
 今度は東方から海路インドを経て
 大量の絹製品がローマ帝国へ輸入され始めた。
 
 当時の高位政治家や豪商が愛好するところとなり、
 あげくにはローマ金貨が代替としてインドへ
 多量移送され、
 2世紀に入るとローマ帝国の経済を
 圧迫するほどになった。
 
 その紀元1世紀にエジプトに居た
 東方海洋貿易商人がギリシャ語で
 紅海、アラビア海、インド大陸の海洋貿易港、
 そしてさらなる東方の交易網をまとめて紹介した。
 
 それを村井堅太郎氏が
 「エリュトラー海案内記」〔中公文庫〕として
 翻訳出版している。
 (a)絹の産地セリカ
 これは伝説である。
 
 史記「封禅書」に次のような記載がある。
 
 明治書院漢文新釈大系から取る。
 
  〔三神山〕(斉の)威王・宣王、燕の照王から、
  人をやって海に入り、
  蓬莱・方丈・瀛州(という三つの神仙)を
  さがさせるということがはじまった。
 
  この三神仙は、言い伝えによれば、
  渤海のなかにあって、
  さほど遠いところではない。
 
  ただ、今にも行き着くかと思うと時に、
  船が風に引かれるままに、離れてしまうのが、
  いかにも残念なのである。
 
  つまり、
  昔には行きつけていたものがいたようで、
  そこにはもろもろの仙人達もおれば、
  不死の薬もあって、
  そこにあるもの鳥、獣まで白一色で、
  黄金と白銀とで宮殿をつくっている。
 
  そこまで行かぬうちに
  遠く望めば雲のようであり、
  そこまで行ってみると
  三神山はかえって水の下にあり、
  それを 覗き込むと、
  決まって風が船を引いて離してしまい、
  結局、誰も行き着くことができなかった。
 
  という。 
 
 このような情景は、現代の知識で解釈すると、
 蜃気楼を反映させたものであることが
 容易に推察できる。
 
 斉国は「禹貢」にいう青洲、
 山東半島地域に周の時代
 紀元前7世紀から3世紀まで、
 秦が九州を統一するまで続いた侯国で、
 渤海湾に面している。
 
 そのためシナ海方面の情報を得ていたものである。
 
 三神山名について、
 現在どの地を指しているのか明らかでない。
 
 蜃気楼との解釈を含めて、
 あくまで伝説といわざるを得ない。
 
 三神山については、
 史記「秦始皇帝本紀」にも
 
 「海中の三神山有り、
  名づけて蓬莱、方丈、瀛州といふ。
  僊人之に居る」とある。
 
 僊人は仙人であろう。
 
 史記が成立したのは紀元前1世紀のことで、
 これらの情報はそれ以前のものといえる。
 
 ここで注目したいのは
 
 「黄金と白銀とで宮殿を造っている」
 
 という一節である。
 
 白銀の「白」は
 清時代の解釈により入れられたもので、
 本来は「銀」であったらしい。
 
 この伝説が漢の時代になって渡来するようになった
 インドの商人たちに伝えられた痕跡がある。
 
 それが、
 また西方のローマへ伝えられることとなった。
 
 古代ローマの
 ポンピニウス・メラガクラウディウヌ帝
 (紀元41-54年)に
 東方の絹の産地について書いたものの中に、
 セリカの南のインドの辺りに
 二つの新しい島があって、
 その名前がクリゼ島とアルジレ島である、
 という。
 
 そして
 
 「名前が事実からか、
  いい伝えが名前からか、
  どちらにしても、
  その土地の一方が金で出来ていて、
  もう一方は銀で出来ている」
 
 と述べている。
 
 クリゼ島名はギリシャ語の 
 χρυσός krisos(金)、
 
 アルジレ島名は 
  ασήμιargiros(銀)に依拠する。
 
 また、サンスクリット語の 
  krśana(黄金、宝石) 、
 arjuna(銀、銀の、白い) に対応する。
 
 これらは伝説に始まったことであり、
 比定地を想定することは無意味である。
 
 だが、
 情報の伝播を推測させる話である。
 
 しかし、
 セリカは確かな地域名として想定されていた。
 
 セリカ名は、
 ローマ時代の地理学者が絹に係わるインドより
 東方(オリエント)の用語として記述している。
 
 ラテン語 sērica は「絹地、絹織物」を表わす。
 英語の silk の原語で
 日本語にシルクとして知られる。
 
 また同類の 
 Sēr、Seris、Sēres も絹の産地に
 係わる用語として知られる。
 
 紀元140年頃作成され
 プトレマイオスの世界地図は
 インド亜大陸、セイロン島(Taprobana)、
 ビルマ地域、マレー半島、
 インドシナ半島からトンキン湾辺りまでから
 推察されるような構図となっている。
 
 トンキン湾の北方シナイ(Sinae)名、
 そしてその上方(北方)に
 セリカ serica 名がつけられている。
 
 シナイはティナイ Thinae を都としていると
 伝えられている。
 
 この地名は前漢の時代雲南省にあった
 滇国(Dian)名に由来すると見られる。
 
 倭語である日本語での読みは「シン」である。
 
 また、
 セリカは書経「禹貢」などで見た東シナ海に面した
 兗州から揚州までの絹の産地を
 いったものと考えられる。
 
 しかし、紀元2世紀の前半においては、
 東方の地理について詳しい情報は
 西方へ伝わっておらず、
 その陸地の様子が不明であったことを
 プトレマイオスの世界地図は示している。
 
 この時期紀元1、2世紀には、
 海路を通じて大量の絹製品が
 東方からインドを経由して
 西方ローマへ運搬されていた。
 
 東方での担い手はインドの商人が中心であり、
 漢の商人も一部参加していたことが
 漢書「地理志」に依って窺われる。
 
 そして、
 絹の主な取引地域が
 東シナ海沿岸であったかもしれないが、
 彼等の交易網が韓半島、
 九州にも広がっていたと考えられるのが
 「三国志魏書倭人伝」などの史書で確認される
 絹の産地の広がりである。
 
 そればかりではない。
 
 沖縄などの島々は
 商船の停泊地としての役目を
 果たしていたと見られるのである。
 
 (b)セリカ名の由来と遺称
 
 ラテン語 sērika(ca) は
 絹製品の総称と考えられるが、
 絹をなぜセリカというのだろうか。
 
 その産地であるシナでは
 「絹」は juán 、
 絲綢 si-chóu など
 絹糸を表わす絲は si で
 その語源を漢語に求めても無く、
 最近は中国語は求めることを止め、
 朝鮮語の sir やモンゴル語に求めた
 見解などが出ている。
 
 モンゴル語に求めるのは
 時代の隔たりから無理であり、
 朝鮮語とするのは後述するように移入であり、
 祖語となるものではない。
 
 本当のところ、
 セリカは
 サンスクリット語の 
 śailika の音写である。
 
 その意味は「石」で 
 śaila (石、石よりなる) と同義である。
 
 Śailika は
 繭を「石」と比喩的に形容した名称であり、
 インド商人が通称とし、
 その用語を使い始めたものと考える。
 
 ただし、上質の繭は固く、
 手で潰そうとしてもなかなかへこまない。
 
 石のような感覚がし、しかも重い。
 
 沖縄県浦添市に「勢理客」という地名が
 安謝川の河口一帯にある。
 
 沖縄の呼称ではジッチャクというが、
 本来「セリカ」と考える。
 ここは交易商船の寄港地であったと見られる。
 
 「勢理客」名は国頭郡本部半島今帰仁村の
 勢理客(セリームキャク)、
 伊是名島の同名地区があるほか
 名護市の世良慶、恩那村の瀬良垣とある。
 
 また
 鹿児島県大島郡沖氷良部島の
 瀬利覚も同様である。
 
 さらに
 宮古列島の石垣島も祖語を同じくすると考える。
 
 このように
 西南諸島にセリカの遺称が多く残ることは、
 ここが絹取扱い商船の寄港地として
 重要であったとことを物語っている。
 
 まるで、
 セリカの南にあるという伝説の島、
 グルビ島とアルジレ島のようである。
 
 この勢理客が絹と係わることは
 次のような状況からも判断できる。
 
 浦添市の勢理客と那覇市の境を流れる川を
 安謝川といい、安謝の地名もある。
 
 この地名は
 サンスクリット語の「光、光明」を表わす
 amśu の転訛である。
 
 A(m)śu を語幹とした a(m)śuka は
 「布、衣服」を意味し、
 漢訳では「絹、絹羅」とされている。
 
 これは 
 a(m)śu-paṭṭa が市を表わすことによる。
 
 国頭郡今帰仁村の勢理客の南側には
 天底地区があるが、
 これは a(m)śuka の音写であり、
 北側の越地は繭を表わす kośa を祖語とする。
 
 このように勢理客は絹に係わる地名である。
 
 鹿児島湾の別称は錦江湾である。
 
 「錦」は絹織物の一種、
 布を織る工程で絵柄を織り込んだものをいう。
 
 湾岸に絹の産地があったことになる。
 
 石垣(セリカ)名は揖宿郡頴娃町にある。
 
 まず、注目するのは
 姶良郡加治木町に代表される一帯である。
 
 「カジキ」は
 サンスクリット語の「絹、絹布(帛)」を表わす
 kauśīka の音写である。
 
 町内の反土(たんど)は反物などに係わる
 tantu(糸)、tan(織物を擴(す)く)を祖語とする。
 
 また反土の西側に位置する木田は「キタ」で
 kita(蚕)の音写で、
 地区内にある隅姫神社の「クマ」は
 krmi の転訛で蚕を表わす。
 
 反土には小鳥神社が鎮座し、
 その北方に薬草を意味する
 ośadhi である小山田地区があり、
 インドの医薬・健康に対する
 信仰文化が浸透したことを示している。
 
 この一帯は明治29年までは
 「和名類聚抄」にもある「桑原郡」であった。
 
 つまり養蚕の地であったのである。
 
 (c)セレスと青龍
 
 セリカ sērika(ca) とともに
 ラテン語で ser、seris、
 ギリシャ語で Σηρ、Σηρος 
 と表現される用語について
 触れておかなければならない。
 
 これらは、
 そこから絹を入手したアジアの種族名で、
 シナ人の呼称とされている呼称である。
 
 この用語の語源についての追求もされてきたが、
 確定されるまでに至っていない。
 
 これもセリカ同様、
 漢語の絹商品に係わる用語に
 語源を求めることはすでに止められ、
 朝鮮語やモンゴル語に求める
 見解があることを既述したが、
 モンゴル語に設定するのは理屈が通らない。
 
 朝鮮語の絹は絹を表わす 
 sir は
 斯盧、新盧、新羅と表記された。
 
 サンスクリット語
 sila〔石〕が祖語である。
 
 しかし、
 斯盧が韓半島の南部に表れるのは
 紀元後のことで、
 セレスが史料に表れるのが
 紀元前2世紀であることを考慮すると、
 これに由来するとするのは難しい。
 
 海路を経て西アジアへ伝えられた
 「絹」名はセリカである。
 
 これに対し、
 セレスは内陸、中央アジアを経て
 西アジアへ伝えられた
 絹を生産する人々の名称である。
 
 ジャン・ノエル・ロベールは
 「ローマから中国へ」の中で、
 ローマの地理学者ストラボーンが
 バクトリアの王(メナンドロス)が
 
 「彼の支配をセレス人にまで及ぼした」
 
 と記述し、
 それは
 別の地理学者アポロドロスに
 依ることを述べているので、
 アポロドロスは紀元前1世紀の初めに
 セレス人について言及していたと述べている。
 
 メナンドロスは紀元前180年頃バクトリアに君臨し、
 163年頃には
 パンジャブ地方〔インド西部〕へも勢力を伸長した
 ギリシャ人の王の中で最も強盛な王で
 「ミリンダ王」である。
 
 紀元前1世紀の初めに
 ローマの地理学者
 セレスの存在を知ったことになる。
 
 そこで想起されるのは月氏の西遷である。
 
 彼等は紀元前176年に
 甘粛省の安定から匈奴に追われ西遷を始め、
 紀元前138年には
 バクトリアに到着し定着を始めたとされる。
 
 紀元前2世紀の後半に移動したのである。
 
 第六章 月氏と秦氏でみたように彼等こそ
 絹貿易の仕掛人と考えられるのである。
 
 月氏は安定(地名)辺りで和氏
 〔第1章の(5「和氏」及び「羲氏」)〕と
 接触していたに違いない。
 
 和氏は絹の技術知識を持って
 安定(地名)の地、
 三危山の麓へ移っていたのである。
 
 嫘祖伝承により「和夷」である阿泥族の故郷
 四川省西方の高原が
 「蠶」の発祥地であることはすでに述べた。
 
 川西高原を流れる現在の大渡河は明の時代まで
 峨水あるいは和水と表記された
 和族(氏)の居住地であった。
 
 「禹貢」の「和夷」を
 この和水の流域に住む夷族と解釈するのが
 シナの古典的理解であった。
 
 しかし、
 現代になって少数民族の研究が進み「和夷」を
 阿泥族とするのが一般的理解となっている。
 
 涼山彝族自治省を流れる川に安寧河があるが、
 この河はかって阿泥河であった。
 
 安寧は阿泥の転換であることが解かる。
 
 大渡河の上流大金川沿いに「安寧」の地名がある。
 阿泥(和)族の遺称地である。
 
 山海経「海内経」には次のようにある。
 
  西海の内、流沙の中に国あり、名は壑市(かくし)
  …中略…
  流沙の東、黒水の西に朝雲の国、
  司彘(してい)の国あり、
  黄帝の妻、雷祖は昌意を生む。
 
 雷祖とは嫘祖のことである。
 
 国水はアハチベット族自治省を流れ
 岷江に合流する黒水河のことで、
 その西とは大渡河(和水)の上流大金川流域である。
 
 つまり嫘祖は和族(氏)の出であることを
 ここでも解いているのである。
 
 このような考察及び韓半島、
 日本の倭族の養蚕に対する記録によると、
 安定(地名)へ移された「和氏」は
 十分に絹の知識を持っていたことが解る。
 
 和氏と同居した月氏は、
 和氏から紀元前2世紀のうちにその情報を獲得し、
 牧畜民〔温帯地帯型羊飼い〕から
 絹商人へと転換したのである。
 
 彼等の運んだ絹商品が
 パルチアを経由してローマに到達し、
 ローマの貴重品となったのである。
 
 セレスとは絹を扱う商人達ではあるが、
 その生産地の人々をいうものと
 ラテン語、ギリシャ語では理解されているので、
 四川盆地辺りの人々ということになる。
 
 紀元前2世紀頃の
 蜀の主要民族は「和夷」であった。
 
 そして彼等の「蠶」の神として崇拝されたのは
 「天叢氏」の青衣神、
 西王母の乗物となる「青龍」であった。
 
 特に蜀が「青龍」の地となっていたことは、
 「青龍」の地名龍門山、龍泉山の山名などにより
 理解ができる。
 
 つまり、
 セレス seris は、
 「青龍」sha〔tshie、tsie:緑〕-lu〔龍〕の
 転訛と考えられるのである。
 
 和人〔倭人〕の後裔である日本語訓(よ)みでは、
 これを sei-ryu といい、より seris に近い。
 ストラボンはセレスは紅毛で碧眼であったと
 記述しているところみると、
 絹を商品として取り扱っていたのは、
 単に和族だけでなかったことが窺われる。
 
 月氏は紅毛碧眼の民といえないだろうが、
 流通に他の複数の種族(ソクディア人)が
 係わっていた表われであろう。
 
 紀元前2世紀になっても
 東方の絹の生産地について
 ローマでは詳しいことを解っていなかった。
 
 当時マケドニアの商人
 マエスが陸路「絹の国」へ至ったという。
 
 彼はそこをセリカといったが、 
 そこに15の町があり、
 首都をセラ Sera といったという。
 
 この sera も青龍を原語とするとみられる。
 
 セレスは青龍の転訛と考えられるのである。
 
 そのほとんどは紀元後の史料となるが、
 タクラマカン砂漠の周辺から
 ソグディアナ〔中央アジア〕の一帯で
 養蚕が行われた記録と
 実際の絹製品が遺物として残されている。
 
 その大生産地が
 現在ホータン(和田)という
 タクラマカン砂漠の西南の町である。
 
 そこはクシャン王朝の王家の発祥地でもある。
 
 クシャン(貴霜)名の語幹について
 繭を表わす kosa があることが指摘される。
 
 そのギリシャ語市名 
 Kustana、Kothan などの
 祖語も kosa(繭) にあるといってよいと考えられる。
 
 漢の時代の「蚕種西遷」伝承や
 現在においても絹の生産が盛んであることをみると、
 桑の生育に適した環境といえよう。
 
 中央アジアからトルコにかけて繭、絹は現在でも
 kosa と呼び慣らされている。
 
 西王母の故郷として
 カシミールまで考えられているのは、
 青龍である蚕が西方にも
 広く飼われるようになったことにもよる。
 
 古代ローマでは、
 シナのことを
 「セリカ(絹の国)」とよんだように、
 シナの絹織物は、
 古くから陸路を経て遠く運ばれた。
 
 シリアのパルミラから出土した
 漢代の錦・綾・綺(にしき あや あやぎぬ)など、
 交易路の各地点より出土した
 漢代から唐代にかけての多量の絹織物は、
 それを伝えている。
 
 しかし、
 シナは製品の絹織物を輸出しても、
 蚕種(さんしゅ)(蚕の卵)の
 国外への持ち出しは
 かたく禁じていた。
 
 そのため、こうした地域には、
 蚕種の西方への伝播にまつわる
 いくつかの伝説が残されている。
 
 タリム盆地のホータンにある
 この地に嫁ぐ王女が蚕種を
 帽子の中に隠して伝えたという
 蚕種西遷説話が描かれている。
   M.K記

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第5章 養蚕と絹(4)漢書の海洋交易網 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

  (4)インドの海洋交易商人
 シンハリ族が現在のスリランカに移民し、
 国を開いたのは紀元前4世紀のことという。
 
 彼等はヒマヤラ山脈の麓の民族といわれ、
 アラビア海のカンベイ湾方面から船で航海し
 セイロン島に辿り着いたとみられている。
 
 一族を大量に運ぶ船の能力は
 大きいといわざるをえない。
 
 その当時すでに
 インドの航海術は沿岸航海にしても
 質量ともに高いものがあったに違いない。
 
 インドの西方メソポタミアとの交易が、
 史料で明らかになっているのは
 紀元前二千年紀からである。
 
 その当時の交易の担い手は
 ヤーダヴァ族であったと考えられる。
 
 そして紀元前3世紀頃になると
  アーリア人の海洋交易商人が登場し、
 彼等は同業者組合 shaba を組織し、
 活発に海外貿易に乗り出すようになった。
 
 紀元後には遠洋航海についての記述も
 仏教経典などの史料にみられるようになる。
 
 大海に入って貿易することは最大な利益を生み、
 末代まで楽に生活できる富を得られるとか、
 貧しい人々の生活を改善するためには
 海外貿易を行って得た財力で
 策を講ずるなどの記述がある。
 
 また、遠洋航海のための労働者が育ってきた。
 
 中村元氏の「インド古代史」には
 「増壱阿舎経」に載る
 ベナレスの商人の物語が紹介されているが、
 そこに航海技術者として
 
 「諸々(もろもろ)の船舶を備え、
  また五人を雇いぬ。
  其の五人とは、
  一は船を執り、
  二は棹を指し、
  三は漏るるを杼(く)み、
  四は沈み浮かぶことに善巧にして、
  五は船師なり」
 
 とある。
 
 インドの海洋貿易商人は
 サンスクリット語で vānika と呼ばれたが、
 商人は vanija で売買をして
 生活する者というのが語幹となっている。
 
 この vani- を祖語とした伝説が
 東南アジアにあるワニ伝説である。
 
 海洋貿易商人が航海に使う船舶は
 yana-pātra と特別視されたが、
 船の総称は nauaka, nāvā で
 ギリシャ語でも nau と語源を同じくする。
 
 船乗りたちは nāvāja, navika と呼ばれた。
 
 インドの商人たちが海路
 東アジアに向かって中国へも活動の範囲を
 拡げていたことを明らかにする仏典がある。
 
 それは「ミリンダ王の問い」と訳されている
 Milinda pañha で、
 その第二編第九章に、
 次のような節句がみられる。
 
 東洋文庫の同名書から転載する。
 
  大王よ、たとえば、港において
  <貿易の>利得を得る富裕の船主が、
  大海に乗り出して、
  ヴァンガ(ガンジス河下流)、
  タッコーラ(北アルコット地方)、
  チーナ(支那)、
  ソーヴィーラ、
  スラッタ(カーティヤーワール半島)、
  アラサンダ(アレキサンドリア)、
  コーラ(コロマンデル)港、
  スヴァナブーミ(金地国、ビルマ沿岸地方)、
  へ行き、
  また船の航行するところは
  どこにでも行くごとく、
  大王よ。
 
 
 以下は教義の解釈に関する説明になるので略す。
 
 ここにチーナ(支那)が現れ、
 貿易航海者たちが中国沿岸まで
 達していたことを示唆している。
 
 ミリンダ大王とは、
 アレキサンダー大王に率いられて
 紀元前4世紀に
 中央アジアまで遠征してきた
 ギリシャ人たちが創建した
 バクトリアの紀元前180年頃
 ヘレニズム勢力が最も強盛であったとされる
 メナンドロス王のサンスクリット語名である。
 
 彼の出身であるとみられ、
 バクトリア朝の支配的ギリシャ王
 オーディドーモス家は
 小アジアのスミルナを中心とする
 イオニアの出身であったと伝えられている。
 
 「ミリンダ王の問い」は
 このメナンドロス王と仏教の尊者
 ナーガとの間の対話の形式で、
 ギリシャ的見地からの質問に
 仏教思想を説くことを主旨としている。
 
 メナンドロス王はチーナにも支配を及ぼした
 との記述が別の史料にはあり、
 中央アジア方面のタリム盆地へも
 一時勢力を伸ばしたのではないかと
 考えられている。
 
 上記の記述はしかしながら
 同王の生存中の実話とは
 専門家たちはみていない。
 
 経典の成立を紀元1世紀と推測しており、
 貿易商人が活躍し、その到達した地名も
 その当時の情報に依るものと解釈される。
 
 ➀ヴァンガ:Vanga
 
 史料(叙事詩)に アンガ Anga とは
 一つの郷国を形成していたとの表現があり、
 ガンジス河下流との判断がなされる。
 
 ②タッコーラ:Takkola
 
 東洋文庫は上記のように
 北アルコット地方としているが、
 この比定には疑問が残る。
 
 サンスクリット語の同語は
 「芥子(からし)」で
 カラシナをいい、
 その実を粉末にして唐芥子を作る香料である。
 
 主な産地は東アジアであり、
 南シナ海以北のアジア地域を
 想定することができるのである。
 
 ③チーナ:Cina
 
  明らかに支那で
 南・東シナ海沿岸のうちと解釈できる。
 
 ④ソヴィーラ:Sovira
 
 同名はアヴァンティの王朝に関係して
 
 「カーティヤワール半島の北方、
  ラージプーターナー地方の南方に
  サウヴィーラ(Sovira、Sauvira)国があった」
 
 と仏典が伝えていると
 
 水野弘(仏教研究)
 
 「初期仏教の印度に於ける流通分析に就いて」で
 
 紹介していると「インド古代史」で
 述べられていることから、
 西インドのアラビア海に面した
 地域とすることができる。
 
 次のスラッタと近接する。
 
 ⑤スラッタ:Surrattha
 
 西インドカンベイ湾の入口に現在あるSuratである。
 
 ⑥アラサンダ:Alasanda
 
 アレキサンドリアのことで、
 マケドニアのアレキサンダー大王が
 遠征中に各地に造った都市名で
 エジプトのアレキサンドリアが
 現在最も有名であるが、
 
 「ミリンダ王の問い」に載る所は
 
 彼の軍隊が中央アジアからインダス川を下り、
 その河口付近で一年をかけ
 軍隊を乗せる船を建造した港、
 当時のゲドロシア、
 現在のカラチ辺りとするのが妥当とみられる。
 
 ⑦コーラ:Kolapattana
 
 東洋文庫は
 インド亜大陸の東海岸コロマンデルとしている。
 
 Kolaには猪つまり豚と筏(船筏)との二つがあるが、
 ここでは後者の意味で
 pattana が都市、町の意味であるため、
 同文庫はコーラ港と訳している。
 
 それを考えると、
 コロマンデルとすることには疑問が残る。
 
 ⑧スヴァ―ナブーミ:Suvanna-bhumi
 
 「黄金の土地」の意味で金地国となる。
 
 この比定地も
 ビルマ沿岸地方としているが疑問である。
 
 本書の第4章の(1)で説明した「黄金郷」、
 つまり邪馬台国の地が
 その当該地だったともいえる。
 
 インドの海洋交易商人(vanīka)たちは
 何を求めてチーナまで遠路航海したのだろうか。
 
 その主な商品は絹である。
 漢書地理志の
 漢の商人の航路知識を紹介したなかに
 
 「黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた」
 
 とある。
 
 また、
 紀元前2世紀の記録「史記大宛列伝」の張騫が
 中央アジアの大夏で見出した「蜀の布」は絹であり、
 蜀(四川省)から身毒(インド)へ蜀の商人が運んで、
 中央アジアへもたらされたものであった。
 
 当時よく知られた織布のうちにはシナ製の布
 pattanna eina paṭṭam や
  絹布 koseyyam の名称があった。
 
 これらの名称は、西方のギリシャ商人たちが
 シルク(セリカ・セレス)名を獲得する
 以前の名称であると考える。
 
 大宛伝の伝承は、
 インドでは当初、蜀の地である
 四川盆地から雲南省、 
 ミャンマーの陸路を経て
 絹を入手していたことを物語っているのである。
 
 R・S・シャルマが「古代インドの歴史」で
 インドの東海岸で絹を入手して
 西海岸へ陸路運んだ、
 と述べるのもそのような
 交易網の理由によるものである。
 
 マラッカ海峡を越えたインドの商人たちは、
 そのうちに単に寄港するばかりでなく、
 沿海航路の要地に
 自分たちの植民都市を開くようになる。
 
 それが、現在のカンボジアの扶南や
 ベトナム中部のチャンパ(林邑)で、
 これらは紀元1世紀には
 その始めが置かれたみられ、
 2世紀になると国としての
 構成が整えられていく。
 
 そして絹の生産地に置かれた
 基地が山海経のいう
 朝鮮の隣にある「天毒」である。
 
 そこで問題は、
 インド商人が求めた絹の産地とはどこかである。
 その答えはすでに第1章で明白にした。
  
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(3)漢書の海洋交易網 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

 (3)漢書の海洋交易網
 すでに第2章で述べたとおり、
 山海経は朝鮮の近くに
 インド〔天毒〕のような国
 あるいはインド人の国があるといっている。
 
 とすると、
 インド亜大陸と朝鮮のある東アジアとの行き来が
 紀元前後には実際あったとの推測が出てくる。
 
 まず漢の史料にその海路についての
 当時の情報が記載されているので紹介する。
 
 『漢書地理志』がその史料で
 「粤(おつ)国」に続いて延べられている。
 
 粤は越と同義で
 漢の時代には南シナ海に面する地域で、
 前漢時代の紀元前111年には
 現在のベトナムのホイアンに
 日南郡を置くなど漢は勢力を伸ばした。
 
 『漢書地理志』は
 紀元2世紀の著述とされている。
 
 その海路の解説部分を
 
 東洋文庫の
 
 「漢書食貨・地理・溝洫志」から転載するが、
 合浦及び徐聞は広東省の雪洲半島の境で
 儋耳(たんじ)と珠厓(しゅがい)は
 海南島の港町(郡名)である。
 
 海南島も紀元前111年に漢によって属州とされた。
 
 合浦や徐聞から南に海に出ると大きな州に出会う。
 
 東西南北一辺が千里もあり、
 武帝の元封元年、攻略して儋耳・珠厓両郡とした。
 
 住民は大風呂敷のような一枚の布を身につけ、
 真中に穴をあけてそこから頭を出す。
 
 男子は農耕を行い、禾稲や紵麻を種え、
 女は蚕を飼って機を織る。
 
 (中略)
 
 元帝の時代とうとうここを放棄した。
 
 日南郡の陣塞や徐聞、合浦から
 五ヶ月ばかり行くと都元国がある。
 
 また舟で四ヶ月ほどで
 邑盧没国(ゆうろぼっこく)があり、
 さらに二十日あまりで諶離(しんり)国がある。
 
 そこから陸路十日あまりで夫甘都盧国に達する。
 
 夫甘都盧国から舟で二ヶ月以上行くと黄支国で、
 住民の習俗は珠厓とほぼ似通っている。
 
 その州は広大で人々も多く珍しい物が多い。
 
 武帝時代より、いずれも貢物を携えて来見した。
 
 訳長がいて黄門に属し、
 募集に応じた者とともに船出して
 明琭、辟流璃(へきるり)、宝石や
 珍奇な品物を購わんと、
 黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた。
 
 行く先々の国々では、食事に女性がはべり、
 蛮夷の商船がリレー式に運んでくれる。
 
 だが、
 取引の利益をめぐって、剽掠(かすめ)られたり、
 殺されることもあり、
 風波に悩まされて溺死したりする。
 
 さもなくば数年たって帰国し、
 周囲二寸もある珠玉をもちきたる。
 
 平帝の元始年間、王莾(おうもう)が政権をにぎり、
 その威徳を輝かそうと黄支国に莫大な贈物をもたせ、
 生きた犀を献上するよう使者を遣わした。
 
 黄支から舟で八ヶ月ほどで皮宗に到着し、
 さらに海路二ヶ月で
 日南、象林地方に到着するといわれる。
 
 黄支の南に已程不国があるが、
 漢の訳使はそこで引き返す。
 
 ➀都元国 
  (日南郡、徐聞、合浦から海路五ヶ月ばかり)
   シンハラ国(現スリランカ)の港
   Dehiwala と考えられる。
 
   サンスクリット語で名の Tamaraparna 
   ギリシャ語名で Taprobanes として知られた。
 
 ②邑盧没国:ゆうろぼっこく
  (都元国から船で四ヶ月ほど)
   インド亜大陸西海岸、
   古代名 suroarka (港町)に比定される。
 
   Sur は美称で、パラカに対応するが、
   現在のムンバイ、
   かってボンベイといわれた市近くの港 
   Alibog がその遺称とみられる。
 
 ③諶離国:しんりこく
  (邑盧没国より船で二十日あまり)
   surat のことで、
   紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。
 
   諶離は shila の音写と考える。
 
 ④夫甘都盧国
  (諶離国から陸路十日あまり)
   当時ペルシャを支配していた
   ぺルチア王国の首都 
   Hecatonpylos のことである。
   同市は内陸カスピ海の南東に位置する。
 
   インドの sura-shila から
   陸路で十日では到達できない。
 
   その表記に「十日」あるいは
   「何十日」などの
   誤写か欠字があるとみられる。
 
 ⑤黄支国
  (夫甘都盧国から船で二ヶ月以上)
   船で二ヶ月以上行くとは、
   ヘカトンピロスから
   カスピ海の東岸から船出して西岸にいたる
   旅程を含むものである。
 
   現在の Bandar-shah から 
   Bandare-Pahlavi 方面の水上交通は
   現在においても重要な航路である。
 
   黄支は
   紀元2世紀当時ローマ帝国の支配下にあった
   Antiochiya のことで、
   現在の Antakaya を指すとみられる。
 
   黄支は ochi の音写である。
   漢書大宛て列伝では「条枝」と表記された。
 
   これはアンチオキアに主都を置いていた
   セレウコス Seleuucos 朝名の転訛である。
 
   同市はローマの東方支配の拠点都市であった。
 
   ヘカトンピロスから
   カスピ海の水路と陸路を合わせての
   行程と解釈される。
 
 ⑥已程不国(黄支の南)
   已程不(いてふ)と解釈すれば 
   Egypt の音写と考えられる。
 
   已程不(きていふ)ないし
   巳程不(していふ)と読めば
   Kithem(旧約聖書創世記に出る)
   Sidon に対応し、
   地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。
 
 ⑦皮宗(黄支から船で八か月ほど)
   アンチオキアから陸路で
   紅海あるいはペルシャ湾に出て、
   海路船で東方へ向かう行程と考えられる。
 
   紀元2世紀頃の主要海路は紅海を経て
   ローマとインド西海岸を結ぶものであった。
 
   皮宗は当時のインド亜東岸の港町 
   Pitha-puran である。
 
  紀元2世紀は後漢の時代である。
 
 大秦王安敦
 (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、
  その献貢物品の内容から疑問も出されている)
 の使節がやって来たのは166年のことで、
 東西の海路による交流が盛んになった時代である。
 
 漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて
 航海に出たとの記述は重要である。
 
 この地理志の西方に関する情報は、
 後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が
 かなり入ってきていたことを示すものである。
  
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(2)唐時代の「彌羅国の金蠶」

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ー紀元前後西方と極東の貿易ー

 (2)唐時代の「彌羅国の金蠶」
 
 時代は大分後の唐代のことではあるが、
 「社陽雑編巻上」作者:蘇鶚 唐
 唐の時代の記述に次のようにある。
 
 永泰元年東海彌羅國所貢。
 云其國有桑、枝幹盤屈、覆地而生、
 大者連延十數頃、小者蔭百畝。
 其上有蠶、可長四寸、其色金、其絲碧、亦謂之金蠶絲。
 ...
 
 永泰元年は8世紀の後半765年である。
 
 「東海」は唐国からみて東シナ海から太平洋を指す。
 
 「彌羅国」を考察すると、
 2~4世紀頃の邪馬台国を想定した呼称で、
 一般的に北九州を示していよう。
 
 「彌羅」は「ミラ」で
 サンスクリット語の meru の音写にして、
 あの「スメル山〔仏教の須弥山〕」名である。
 
 同記録は次いで
 「その国に桑があって枝や幹は天に『盤屈覆地』」
 とある。
 
 それに続く記述は
 その「桑樹」の大きいもの、小さいものの規模で、
 その「高大さ」を表現している。
 
 つまり、「桑樹」は jambu 樹の説明である。
 
 続く記述は「其上有蠶、可長四寸」とある。
 
 その桑樹には「蠶」がいて、その身長は4寸と説く。
 
 つまり「養蚕」あるいは
 「野蚕」の「絹虫」がいたというのである。
 
 そしてその虫〔おかいこ〕の色が
 「金」だといっている〔其色金〕。
 
 さらに「其絲碧、亦謂之金蠶絲」とある。
 
 「絲」とは「帛」つまり「絹糸」のことで、
 その金蠶が出す「絹糸は碧色」で、
 これを「金蠶絲」というとある。
 
 「碧」は本来「青」であるが、
 ここで推測されるのは「青紫色」であろう。
 
 その背景も倭錦と係わるので後述する。
 ともかく「彌羅國」は
 邪馬台国由縁の「スメル」の地方から「絹」を
 貢物として贈った〔所貢〕と記しているのである。
 
 その絲:絹は極めて特徴のあるものだったのである。
 
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(1)倭人伝が記す倭の養蚕 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
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《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

 (1)倭人伝が記す倭の養蚕
 
   倭人伝は
 「(倭人が)種禾稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」と記し、
 倭においてその当時紀元2、3世紀において
 養蚕が行われていたことを伝えている。
  
 第2章で述べたとおり「蠶」は「蚕」の本当の用字で
 「縑」は「絹の厚織り布」、
 「緜」は「絹布あるいは絹糸」を表す。
 
 また「正始4年(243)」に
 八人の使節を魏へ派遣した際、
 倭より「倭錦絳青縑緜衣帛布」を献上したとある。
 
 「錦」は「絹織物」の呼称で、
 それに「倭」を付して
 「倭錦」としていることからすると、
 「倭錦」とはシナ〔魏〕にはない
 倭の特有な産品(絹織物)とみることができる。
 
 続く「絳青の縑、緜衣、帛布」は
 すべてこれも絹製品を表わす。
 
 このように倭においては
 単に養蚕が行われていたばかりでなく、
 多様な製品を産んでいたのである。
 
 それぞれには異なった加工技法が
 用いられていたわけで
 その程度もかなりの技術だったはずである。
 
 特に「倭錦」には
 当時の日本列島の国際性を
 証す背景があるので後に述べる。
 

 M.K記
 連絡先:090-2485-7908
  

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