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第5章 養蚕と絹(4)漢書の海洋交易網 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

  (4)インドの海洋交易商人
 シンハリ族が現在のスリランカに移民し、
 国を開いたのは紀元前4世紀のことという。
 
 彼等はヒマヤラ山脈の麓の民族といわれ、
 アラビア海のカンベイ湾方面から船で航海し
 セイロン島に辿り着いたとみられている。
 
 一族を大量に運ぶ船の能力は
 大きいといわざるをえない。
 
 その当時すでに
 インドの航海術は沿岸航海にしても
 質量ともに高いものがあったに違いない。
 
 インドの西方メソポタミアとの交易が、
 史料で明らかになっているのは
 紀元前二千年紀からである。
 
 その当時の交易の担い手は
 ヤーダヴァ族であったと考えられる。
 
 そして紀元前3世紀頃になると
  アーリア人の海洋交易商人が登場し、
 彼等は同業者組合 shaba を組織し、
 活発に海外貿易に乗り出すようになった。
 
 紀元後には遠洋航海についての記述も
 仏教経典などの史料にみられるようになる。
 
 大海に入って貿易することは最大な利益を生み、
 末代まで楽に生活できる富を得られるとか、
 貧しい人々の生活を改善するためには
 海外貿易を行って得た財力で
 策を講ずるなどの記述がある。
 
 また、遠洋航海のための労働者が育ってきた。
 
 中村元氏の「インド古代史」には
 「増壱阿舎経」に載る
 ベナレスの商人の物語が紹介されているが、
 そこに航海技術者として
 
 「諸々(もろもろ)の船舶を備え、
  また五人を雇いぬ。
  其の五人とは、
  一は船を執り、
  二は棹を指し、
  三は漏るるを杼(く)み、
  四は沈み浮かぶことに善巧にして、
  五は船師なり」
 
 とある。
 
 インドの海洋貿易商人は
 サンスクリット語で vānika と呼ばれたが、
 商人は vanija で売買をして
 生活する者というのが語幹となっている。
 
 この vani- を祖語とした伝説が
 東南アジアにあるワニ伝説である。
 
 海洋貿易商人が航海に使う船舶は
 yana-pātra と特別視されたが、
 船の総称は nauaka, nāvā で
 ギリシャ語でも nau と語源を同じくする。
 
 船乗りたちは nāvāja, navika と呼ばれた。
 
 インドの商人たちが海路
 東アジアに向かって中国へも活動の範囲を
 拡げていたことを明らかにする仏典がある。
 
 それは「ミリンダ王の問い」と訳されている
 Milinda pañha で、
 その第二編第九章に、
 次のような節句がみられる。
 
 東洋文庫の同名書から転載する。
 
  大王よ、たとえば、港において
  <貿易の>利得を得る富裕の船主が、
  大海に乗り出して、
  ヴァンガ(ガンジス河下流)、
  タッコーラ(北アルコット地方)、
  チーナ(支那)、
  ソーヴィーラ、
  スラッタ(カーティヤーワール半島)、
  アラサンダ(アレキサンドリア)、
  コーラ(コロマンデル)港、
  スヴァナブーミ(金地国、ビルマ沿岸地方)、
  へ行き、
  また船の航行するところは
  どこにでも行くごとく、
  大王よ。
 
 
 以下は教義の解釈に関する説明になるので略す。
 
 ここにチーナ(支那)が現れ、
 貿易航海者たちが中国沿岸まで
 達していたことを示唆している。
 
 ミリンダ大王とは、
 アレキサンダー大王に率いられて
 紀元前4世紀に
 中央アジアまで遠征してきた
 ギリシャ人たちが創建した
 バクトリアの紀元前180年頃
 ヘレニズム勢力が最も強盛であったとされる
 メナンドロス王のサンスクリット語名である。
 
 彼の出身であるとみられ、
 バクトリア朝の支配的ギリシャ王
 オーディドーモス家は
 小アジアのスミルナを中心とする
 イオニアの出身であったと伝えられている。
 
 「ミリンダ王の問い」は
 このメナンドロス王と仏教の尊者
 ナーガとの間の対話の形式で、
 ギリシャ的見地からの質問に
 仏教思想を説くことを主旨としている。
 
 メナンドロス王はチーナにも支配を及ぼした
 との記述が別の史料にはあり、
 中央アジア方面のタリム盆地へも
 一時勢力を伸ばしたのではないかと
 考えられている。
 
 上記の記述はしかしながら
 同王の生存中の実話とは
 専門家たちはみていない。
 
 経典の成立を紀元1世紀と推測しており、
 貿易商人が活躍し、その到達した地名も
 その当時の情報に依るものと解釈される。
 
 ➀ヴァンガ:Vanga
 
 史料(叙事詩)に アンガ Anga とは
 一つの郷国を形成していたとの表現があり、
 ガンジス河下流との判断がなされる。
 
 ②タッコーラ:Takkola
 
 東洋文庫は上記のように
 北アルコット地方としているが、
 この比定には疑問が残る。
 
 サンスクリット語の同語は
 「芥子(からし)」で
 カラシナをいい、
 その実を粉末にして唐芥子を作る香料である。
 
 主な産地は東アジアであり、
 南シナ海以北のアジア地域を
 想定することができるのである。
 
 ③チーナ:Cina
 
  明らかに支那で
 南・東シナ海沿岸のうちと解釈できる。
 
 ④ソヴィーラ:Sovira
 
 同名はアヴァンティの王朝に関係して
 
 「カーティヤワール半島の北方、
  ラージプーターナー地方の南方に
  サウヴィーラ(Sovira、Sauvira)国があった」
 
 と仏典が伝えていると
 
 水野弘(仏教研究)
 
 「初期仏教の印度に於ける流通分析に就いて」で
 
 紹介していると「インド古代史」で
 述べられていることから、
 西インドのアラビア海に面した
 地域とすることができる。
 
 次のスラッタと近接する。
 
 ⑤スラッタ:Surrattha
 
 西インドカンベイ湾の入口に現在あるSuratである。
 
 ⑥アラサンダ:Alasanda
 
 アレキサンドリアのことで、
 マケドニアのアレキサンダー大王が
 遠征中に各地に造った都市名で
 エジプトのアレキサンドリアが
 現在最も有名であるが、
 
 「ミリンダ王の問い」に載る所は
 
 彼の軍隊が中央アジアからインダス川を下り、
 その河口付近で一年をかけ
 軍隊を乗せる船を建造した港、
 当時のゲドロシア、
 現在のカラチ辺りとするのが妥当とみられる。
 
 ⑦コーラ:Kolapattana
 
 東洋文庫は
 インド亜大陸の東海岸コロマンデルとしている。
 
 Kolaには猪つまり豚と筏(船筏)との二つがあるが、
 ここでは後者の意味で
 pattana が都市、町の意味であるため、
 同文庫はコーラ港と訳している。
 
 それを考えると、
 コロマンデルとすることには疑問が残る。
 
 ⑧スヴァ―ナブーミ:Suvanna-bhumi
 
 「黄金の土地」の意味で金地国となる。
 
 この比定地も
 ビルマ沿岸地方としているが疑問である。
 
 本書の第4章の(1)で説明した「黄金郷」、
 つまり邪馬台国の地が
 その当該地だったともいえる。
 
 インドの海洋交易商人(vanīka)たちは
 何を求めてチーナまで遠路航海したのだろうか。
 
 その主な商品は絹である。
 漢書地理志の
 漢の商人の航路知識を紹介したなかに
 
 「黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた」
 
 とある。
 
 また、
 紀元前2世紀の記録「史記大宛列伝」の張騫が
 中央アジアの大夏で見出した「蜀の布」は絹であり、
 蜀(四川省)から身毒(インド)へ蜀の商人が運んで、
 中央アジアへもたらされたものであった。
 
 当時よく知られた織布のうちにはシナ製の布
 pattanna eina paṭṭam や
  絹布 koseyyam の名称があった。
 
 これらの名称は、西方のギリシャ商人たちが
 シルク(セリカ・セレス)名を獲得する
 以前の名称であると考える。
 
 大宛伝の伝承は、
 インドでは当初、蜀の地である
 四川盆地から雲南省、 
 ミャンマーの陸路を経て
 絹を入手していたことを物語っているのである。
 
 R・S・シャルマが「古代インドの歴史」で
 インドの東海岸で絹を入手して
 西海岸へ陸路運んだ、
 と述べるのもそのような
 交易網の理由によるものである。
 
 マラッカ海峡を越えたインドの商人たちは、
 そのうちに単に寄港するばかりでなく、
 沿海航路の要地に
 自分たちの植民都市を開くようになる。
 
 それが、現在のカンボジアの扶南や
 ベトナム中部のチャンパ(林邑)で、
 これらは紀元1世紀には
 その始めが置かれたみられ、
 2世紀になると国としての
 構成が整えられていく。
 
 そして絹の生産地に置かれた
 基地が山海経のいう
 朝鮮の隣にある「天毒」である。
 
 そこで問題は、
 インド商人が求めた絹の産地とはどこかである。
 その答えはすでに第1章で明白にした。
  
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(3)漢書の海洋交易網 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

 (3)漢書の海洋交易網
 すでに第2章で述べたとおり、
 山海経は朝鮮の近くに
 インド〔天毒〕のような国
 あるいはインド人の国があるといっている。
 
 とすると、
 インド亜大陸と朝鮮のある東アジアとの行き来が
 紀元前後には実際あったとの推測が出てくる。
 
 まず漢の史料にその海路についての
 当時の情報が記載されているので紹介する。
 
 『漢書地理志』がその史料で
 「粤(おつ)国」に続いて延べられている。
 
 粤は越と同義で
 漢の時代には南シナ海に面する地域で、
 前漢時代の紀元前111年には
 現在のベトナムのホイアンに
 日南郡を置くなど漢は勢力を伸ばした。
 
 『漢書地理志』は
 紀元2世紀の著述とされている。
 
 その海路の解説部分を
 
 東洋文庫の
 
 「漢書食貨・地理・溝洫志」から転載するが、
 合浦及び徐聞は広東省の雪洲半島の境で
 儋耳(たんじ)と珠厓(しゅがい)は
 海南島の港町(郡名)である。
 
 海南島も紀元前111年に漢によって属州とされた。
 
 合浦や徐聞から南に海に出ると大きな州に出会う。
 
 東西南北一辺が千里もあり、
 武帝の元封元年、攻略して儋耳・珠厓両郡とした。
 
 住民は大風呂敷のような一枚の布を身につけ、
 真中に穴をあけてそこから頭を出す。
 
 男子は農耕を行い、禾稲や紵麻を種え、
 女は蚕を飼って機を織る。
 
 (中略)
 
 元帝の時代とうとうここを放棄した。
 
 日南郡の陣塞や徐聞、合浦から
 五ヶ月ばかり行くと都元国がある。
 
 また舟で四ヶ月ほどで
 邑盧没国(ゆうろぼっこく)があり、
 さらに二十日あまりで諶離(しんり)国がある。
 
 そこから陸路十日あまりで夫甘都盧国に達する。
 
 夫甘都盧国から舟で二ヶ月以上行くと黄支国で、
 住民の習俗は珠厓とほぼ似通っている。
 
 その州は広大で人々も多く珍しい物が多い。
 
 武帝時代より、いずれも貢物を携えて来見した。
 
 訳長がいて黄門に属し、
 募集に応じた者とともに船出して
 明琭、辟流璃(へきるり)、宝石や
 珍奇な品物を購わんと、
 黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた。
 
 行く先々の国々では、食事に女性がはべり、
 蛮夷の商船がリレー式に運んでくれる。
 
 だが、
 取引の利益をめぐって、剽掠(かすめ)られたり、
 殺されることもあり、
 風波に悩まされて溺死したりする。
 
 さもなくば数年たって帰国し、
 周囲二寸もある珠玉をもちきたる。
 
 平帝の元始年間、王莾(おうもう)が政権をにぎり、
 その威徳を輝かそうと黄支国に莫大な贈物をもたせ、
 生きた犀を献上するよう使者を遣わした。
 
 黄支から舟で八ヶ月ほどで皮宗に到着し、
 さらに海路二ヶ月で
 日南、象林地方に到着するといわれる。
 
 黄支の南に已程不国があるが、
 漢の訳使はそこで引き返す。
 
 ➀都元国 
  (日南郡、徐聞、合浦から海路五ヶ月ばかり)
   シンハラ国(現スリランカ)の港
   Dehiwala と考えられる。
 
   サンスクリット語で名の Tamaraparna 
   ギリシャ語名で Taprobanes として知られた。
 
 ②邑盧没国:ゆうろぼっこく
  (都元国から船で四ヶ月ほど)
   インド亜大陸西海岸、
   古代名 suroarka (港町)に比定される。
 
   Sur は美称で、パラカに対応するが、
   現在のムンバイ、
   かってボンベイといわれた市近くの港 
   Alibog がその遺称とみられる。
 
 ③諶離国:しんりこく
  (邑盧没国より船で二十日あまり)
   surat のことで、
   紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。
 
   諶離は shila の音写と考える。
 
 ④夫甘都盧国
  (諶離国から陸路十日あまり)
   当時ペルシャを支配していた
   ぺルチア王国の首都 
   Hecatonpylos のことである。
   同市は内陸カスピ海の南東に位置する。
 
   インドの sura-shila から
   陸路で十日では到達できない。
 
   その表記に「十日」あるいは
   「何十日」などの
   誤写か欠字があるとみられる。
 
 ⑤黄支国
  (夫甘都盧国から船で二ヶ月以上)
   船で二ヶ月以上行くとは、
   ヘカトンピロスから
   カスピ海の東岸から船出して西岸にいたる
   旅程を含むものである。
 
   現在の Bandar-shah から 
   Bandare-Pahlavi 方面の水上交通は
   現在においても重要な航路である。
 
   黄支は
   紀元2世紀当時ローマ帝国の支配下にあった
   Antiochiya のことで、
   現在の Antakaya を指すとみられる。
 
   黄支は ochi の音写である。
   漢書大宛て列伝では「条枝」と表記された。
 
   これはアンチオキアに主都を置いていた
   セレウコス Seleuucos 朝名の転訛である。
 
   同市はローマの東方支配の拠点都市であった。
 
   ヘカトンピロスから
   カスピ海の水路と陸路を合わせての
   行程と解釈される。
 
 ⑥已程不国(黄支の南)
   已程不(いてふ)と解釈すれば 
   Egypt の音写と考えられる。
 
   已程不(きていふ)ないし
   巳程不(していふ)と読めば
   Kithem(旧約聖書創世記に出る)
   Sidon に対応し、
   地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。
 
 ⑦皮宗(黄支から船で八か月ほど)
   アンチオキアから陸路で
   紅海あるいはペルシャ湾に出て、
   海路船で東方へ向かう行程と考えられる。
 
   紀元2世紀頃の主要海路は紅海を経て
   ローマとインド西海岸を結ぶものであった。
 
   皮宗は当時のインド亜東岸の港町 
   Pitha-puran である。
 
  紀元2世紀は後漢の時代である。
 
 大秦王安敦
 (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、
  その献貢物品の内容から疑問も出されている)
 の使節がやって来たのは166年のことで、
 東西の海路による交流が盛んになった時代である。
 
 漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて
 航海に出たとの記述は重要である。
 
 この地理志の西方に関する情報は、
 後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が
 かなり入ってきていたことを示すものである。
  
 M.K記

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