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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①-1」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 
《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」》
 14.福山市内浦町田島 
 
 内浦に神武天皇滞在を伝える
 宮址の皇森神社がある。
 
 ここも高嶋宮址であり、
 しばらく滞在したと伝える。
 
 周辺に行幸伝承地が多く、
 滞在期間は長かったと思われる。
 
 15.福山市田尻町 
 
 田尻町にある高島は
 現在は半島部になっているが
 昔は島であった。
 その南端部に八幡神社があり、
 高島宮址の石碑がある。
 
 しかし、宮址は少し北の宮原の地と伝える。
 
 昔橿原神社があったそうであるが
 八幡神社に合祀されたそうである。
 
 ここも滞在期間が長かったようである。
 
 ここに滞在中出雲との往復をしているようで、
 内陸部に入り庄原市の葦嶽山で祭祀をし、
 使者を出雲の言代主命に挨拶に遣わした。
 
 神武天皇自身は高野町にも伝承地があり、
 高野町を越えて出雲往復をしたものと
 考えられる。
 
 この後、
 岡山県笠岡市や岡山市の高嶋宮にも滞在し、
 大和に向かった。
  
 このように神武天皇は
 広島県にかなり多くの伝承を残している。
 
 滞在の順番は方向性を考えながら
 推理したものである。
 
 すべてが真実とはいわないが、
 真実の要素はかなりあるのではないかと
 思っている。
 
 はっきりわかることは、
 一般には武器調達とか
 大和の様子見とか言われているが、
 これほど方々にしかも
 長期間滞在するというのは
 そのような理由によるものではないこと
 を示している。
 
 この滞在の理由をここでは考えてみたい。
 
 「島県内の九州系遺物 」
 
 広島県地方には後期中葉あたりから、
 畿内系土器に混じって、
 大分系土器が出土するようになる。
 
 さらに、
 九州地方に限られていた九州系の鉄器が
 この地方のみに出土するのである。
 
 大和朝廷成立と前後して
 大分県地方からの人々の流入が
 あったことが推定される。 
 
 大分系土器は、
 三原以西の沿岸地方を中心に分布し、
 北部や東部には見られない。
 
 継続がなく、しばらくすると出土しなくなる。
 
 一方、
 畿内系土器は、
 ほとんどの地域に分布するがその数は少ない。
 
 そして、
 出土は時期的に限られたものではなく、
 恒常的で、古墳時代以降にも継続している。
 
 いずれの土器も
 在地系土器と混在する形で出土している。
 
 これは畿内系と違って、
 大分系の人々の流入は
 一時的なものと判断される。
 
 そして、
 土器が在地系と混在していることは
 共に在地の人々と
 共同生活をしたことを意味している。
 
 これは共通の精神基盤がなければ
 不可能なことである。
 
 共に、大和朝廷によって統一され、
 スサノオを最高神として
 崇めていたためにできたのではあるまいか。   
 
 大分系土器は、
 出土地域が限定されていること、
 九州系の鉄器が同じように出土していること、
 時期的に限定されていることから、
 鉄生産を目的とした
 大分県地方からの集団移住と
 とらえることができる。 
 
 また、
 後期中葉に広島県地方に
 九州のAタイプの槍鉋の出土が見られる。
 
 地域は大分系土器の出土領域と重なっている。
 
 大分系土器を持ち込んだ人々が
 槍鉋を持ち込んだと思われる。
 
 「市杵島姫」 
 
 大分県の宇佐地方で
 スサノオとムカツヒメの子として
 生誕した三娘のうち、
 市杵島姫の伝承が広島県下に残っている。
 
 栗原基氏著
 「新説日本の始まり」によると
 広島県高田郡向原町の
 大土山に住んでいた市杵島姫の子供が
 行方不明になったのをきっかけとして、
 
 向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→
 東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→
 東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→
 生口島→
 大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→
 江田島町伊関→廿日市市宮内→
 大竹市→宮島町と転々と移動している。
 
 この滞在の地には
 いずれも厳島神社が存在している。
 
 そして、
 この転々としている領域と
 大分系土器の出土する領域が
 一致しているのである。
 
 市杵島姫がその一族と共に
 大分から広島へ
 移住してきたものと考えられる。
 
 「女王アマテラス」によると、
 市杵島姫は九州へ住んでいたころ、
 ニギハヤヒの子である
 サルタヒコと結婚していた。
 
 サルタヒコが出雲統治に行った後、
 広島県地方に移ったのではあるまいか。
 
 大分県地方から瀬戸内海を渡って、
 広島県地方に上陸するコースを考えてみると、
 崖が迫っているところは上陸しにくいので、
 広島湾に入り込み、
 そこから三篠川に沿って
 上流に移動することが考えられる。
 
 川をさかのぼっていくと、
 その先に大土山がある。
 
 大土山のある向原町には、
 水田の跡と考えられる伝承地が点在している。
 
 この伝承地は
 神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、
 神武天皇の行動と内容が
 よく似ている伝承もある。
 
 また、
 厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われるが、
 市杵島姫を祀っているのも事実である。
 
 この二人に深い関連性を見ることができる。
 
 市杵島姫と神武天皇は
 同時に広島へやってきたのではないかと
 考えている。
 
 「神武天皇安芸国および
  吉備国長期滞在の理由」 
 
 神武天皇の伝承地の集中度を調べてみると、
 よく言われている
 府中町の多家神社周辺ではなく
 福山市周辺である。
 
 多家神社の埃宮と
 福山市周辺の高嶋宮がそれに該当する。
 
 岡山県下にも高嶋宮跡があるが、
 伝承の集中度では福山市が圧倒している。
 
 伝承が多いところに
 長期間滞在したと判断してよいと思われる。
 
 また、
 その間でも方々に
 長期間滞在しているようである。
 
 何のためにこんなに方々で
 滞在したのであろうか。
 
 滞在地の何箇所かで
 巨石祭祀をしているのである。
 
 大規模な巨石を用いており、
 神武天皇と同行している人々だけの力では
 これだけの祭祀施設を作るのは
 無理ではないかと思われ、
 さらに、
 瀬戸内沿岸地方は神武天皇の所属していた
 西倭でも合併する日本国でもない、
 出雲国の支配する東倭に所属する地域である。 
 
 また、
 広島県北部に残る神武天皇関連の伝承は
 比婆郡西条町高の今宮神社の伝承や
 庄原市本村の葦嶽山に伝わるものなど、
 出雲との交渉を示すものがある。
 
 出雲との交渉が
 滞在目的のひとつであったのは
 間違いがないであろう。 
 
 これらから判断して
 この地域の人々を味方につけるために
 神武天皇は
 各地に長期間滞在したのではないかと
 考えるのである。
 
 何のために
 この地域の人々を取り込む必要があったのか。
 
 合併後の大和朝廷の政治に目を向けてみると、
 大和朝廷は海外からの技術導入に
 力を入れなければならず、
 そのためには北九州主要部(伊都国)は
 重要拠点となる。
 
 実際に
 伊都国は後期中葉以降畿内系土器が
 集中出土するようになり、
 方形周溝墓も出現するようになる。
 
 考古学的視点に立っても
 大和朝廷は
 北九州主要部を重視していたことは
 明らかである。
 
 朝廷のある大和から
 伊都国との交流が大切なものとなるが、
 その経路上のほとんどの地域は
 東倭に所属しているのである。
 
 このままでは朝廷成立後の日本国の運営に
 大きな支障が出ることは
 誰の目にも明らかである。
 
 神武天皇としては、
 この状態は何とかしなければと
 考えたに違いない。
 
 どうすれば解決するのであろうか。
 
 一番よいのは
 瀬戸内海沿岸地方を
 東倭から譲り受けることである。
 
 そのために選ばれたのが
 広島県地域ではないのか。
 
 このように考えると
 神武天皇の行動は自然なものとなる。 
 
 この仮説を別方面から
 検討してみることにする。
 
 まず、
 後期中葉の広島県下の土器に変化が
 起こっている。
 
 後期初頭までは
 出雲系土器がまばらに出土していたが、
 後期中葉になると出雲系土器が消滅し、
 
 変わりに畿内系土器の出土が始まるのである。
 
 隣の岡山県や島根県地方には
 この傾向が見られないことから
 広島県地方のみの傾向である。
 
 これは、
 出雲から広島県地域が
 朝廷支配地域になったことを意味している。
 
 しかし、
 朝廷支配地域に出現する
 方形周溝墓が出現せず、
 また、
 出土する畿内系土器は祭祀系土器ではなく、
 日常生活用土器である。
 
 これは
 出雲から広島県地域を譲り受けるときに、
 祭祀をしないという条件があったものと
 考えれば説明がつく。
 
 出雲はスサノオ祭祀をしており、
 日本国はニギハヤヒ系祭祀であるから、
 出雲がそれに抵抗を示すことは
 当然考えられるのである。
 
 伝承では
 言代主は神武天皇からの使者の言葉に
 一度は怒り追い返しているのである。
 
 その後使者の言葉を受け入れている。
 
 もし、
 神武天皇が日本国におもむき、
 西倭との合併の挨拶だけであれば、
 神武天皇が
 日向を出発する前に
 話がついているのであるから
 言代主が怒るはずがない。
 
 広島県地域を譲れという
 思いがけない言葉に怒ったのである。
 
 市杵島姫による説得が功を奏して、
 言代主も納得し宝剣を渡したものと
 考えられる。 
 
 神武天皇が
 福山市周辺で長期間滞在したのも説明がつく。
 
 後期初頭までの出雲系土器がよく出土するのは
 北部地域と芦田川流域である。
 
 この地域をつなぐと、
 瀬戸内海沿岸地方と出雲との交易ルートが
 浮かび上がってくる。
 
 福山周辺の伝承でも、
 スサノオは出雲の斐伊川の川上から
 福山周辺にやってきたことが伝えられている。
 
 出雲と、
 瀬戸内海沿岸地方との交易ルートは
 この経路であることがわかる。
 
 神武天皇がこの地域に長期滞在をし、
 さらに巨石祭祀を行なっているのは
 この地域の人々の心をつかむのと、
 出雲との交渉のためと考えられる。 
 
 そこで、
 交渉の代表者として登場するのが
 市杵島姫となる。
 
 彼女はこの当時生存していた
 数少ないスサノオの娘である。
 
 さらに、
 出雲のサルタヒコは北九州にいたとき、
 この市杵島姫を妻にしていたのである。
 
 出雲の言代主にとって、
 頭の挙がらない人物の一人であろう。
 
 神武天皇もそれを計算して
 宇佐から彼女を同行させたと考えるのである。 
 
 このように考えると、
 神武天皇の長期滞在理由、
 土器の出土状況、
 市杵島姫の広島への移動すべてが
 説明できるのである。
 
 東倭から譲り受けた後の広島県地域は
 市杵島姫が統治していたものと考えられる。
 
 市杵島姫の伝承地が
 転々と移動しているのも地域を
 まとめるためと考えられ、
 大分系土器が出土するのも
 そのためと考えられる。 
 
 安芸国に滞在しているときに、
 出雲国との交渉によって、
 安芸・備後(現広島県)を
 東倭から譲り受けた後の経路については、
 神武天皇が大和で即位した後の
 北九州との航路を安定化するために
 要所となるところに寄港地を
 作るために方々に
 滞在していたのではあるまいか。
 
 磐田山の天津磐境は
 航海の安全を祈る祭祀施設かもしれない。
「後の滞在推定値」 
 
 福山市田尻町の高島宮址を出航した、
 神武天皇一行の
 その後の立ち寄り地を探ってみることにする。
 
 大阪湾岸に到達するまでに、
 以下のような伝承地が存在している。
 
 1.岡山県笠岡市高島 
 
 笠岡諸島のひとつの島である高島には
 高島神社がある。
 
 明治維新までは
 「神武天皇宮」
 「神武天皇社」
 と呼ばれて崇拝されていた。
 
 社は小さいが神武天皇が
 東征された際の仮宮である
 吉備高島宮の跡と言われている。
 近くの最長には高島遺跡が存在している。
 
 長期滞在には不向きと思われ、
 海が荒れたため立ち寄ったのではないだろうか。 
 
 2.児島湾に浮かぶ高島 
 
 児島半島はこの当時島であり、
 児島湾は東西に通じていた海峡であった。
 笠岡の高島を出航した神武天皇一行は
 この海峡に沿って東行し、
 旭川河口にある高島周辺で船を休めた。
 高島は大変小さい島で、
 児島湾上に浮かんでいる。
 
 この島及び児島半島の北岸に
 神武天皇が滞在したという伝承地がある。
 
 このような島に大人数が
 長期滞在するのは無理であるので、
 長期滞在地を探すために
 短期間滞在したのではないかと創造する。
 
 ここに滞在中、
 龍の口山の麓に長期滞在地を
 選定したものと考える。 
 
 3.岡山市賞田、龍の口山の南麓 
 
 岡山市市街地の北西部旭川のそばに
 龍の口山がある。
 
 その南麓に高島神社が存在し、
 神武天皇が滞在した址と伝えている。
 当時はこの近くまで海だったようで、
 児島湾の高島から
 この地に移ったと考えられる。
 
 大和へ向かう経路上より北へずれているため、
 長期滞在したのではないかと考えられる。
 この地より10kmほど南東に兄である
 五瀬命が滞在したと伝えられている
 安仁神社が存在している。
 昔はこの鶴山の麓まで海であったそうで、
 入江の奥の良港だった。
 
 後方の山には磐座や列石があり、
 古代の祭祀跡と見られるところに、
 神武東征の船の
 「ともづな」を掛けたといわれる
 「綱掛石神社」などがある。
 
 この安仁神社の地は
 神武天皇が龍の口山の高島宮に滞在中に
 五瀬命が滞在していたと推定する。 
 
 日本書紀から推定すると、
 ここを出発したのが
 AD81年7月下旬となる。
 
 4.兵庫県家島 
 
 神武天皇が東征の時、海があれ、
 嵐を避けるために家島に御寄港した。
 
 島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、
 まるで自分の家にいるようだったことから、
 「家島」と名づけられたと伝えられている。 
 
 家島は、
 古くは、国生みの島オノゴロ島、
 胞島(エジマ)と呼ばれていた。
 
 その後家島と呼び名を変え、
 瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、
 風待ちの非難港として栄えてきたとも
 いわれている。
  
 「播磨鑑」には
 次のような説話が伝えられている。
  
 「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、
  沖で釣をしていると、
  吉備水道を抜け出て来た船団が
  播磨灘に向かってやってきて、
  翁がこの海に関して詳しい事を知り、
  翁に道先案内を頼みました。 
 
  船団は、
  家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、
  食料の補充をして数年間がたちました。
  そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。
  難波について翁は手柄を褒められました。
 
  翁の亀は、忙しい主人をおいて、
  先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
 
 この話は
 神武天皇の東征時の説話といわれている。 
 
 神武天皇一行が高島を出航したのが
 戊午2月11日で、
 難波の白肩津に着いたのが3月10日なので、
 この間約15日(この頃の1ヶ月は15日と推定)。
 距離から考えて
 家島には五日ぐらい
 滞在したのではあるまいか
  M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 
《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」》
「神武天皇の広島県下での行動について」
 
 昭和16年 
 広島県発行の「神武天皇聖蹟誌」に
 広島県下における神武天皇の行動の跡を
 伝える伝承が詳しく記録されている。
 この伝承をまとめてみると次のようになる。 
 
 1.厳島
 
 日向を発した神武天皇は広島県沖に達したとき、 まず、
 宮島の南端の須屋浦に上陸し
 現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。
 
 渡辺綱吉氏
 「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、
 厳島神社の本当の祭神は
 神武天皇ではないかと書かれている。
 それは昭和15年の
 「厳島神社御由緒等調査記」に
 神武天皇の時代に御鎮座とあり、
 最初に神武天皇が
 この島を訪れているからである。
 
 また、
 島内の山中には巨石を用いた
 祭祀の痕跡が残っている。
 
 これも神武天皇が祭祀したものと思われる。
 
 2.廿日市市地御前 
 
 宮島を発した神武天皇は
 地御前の地御前神社の地に上陸した。
 神社西側の入り江を有府水門といい、
 ここに着岸されたという。 
 
 3.廿日市市串戸
  
 地御前で休息の後、海岸に沿って船を進め、
 串戸に入り広田神社の地
 (近くに天王址碑あり)に着いた。
 天皇が天王社(広田神社)の御戸を開き
 玉串を奉典し奉ったことにより
 串戸と名づけられたという。 
 
 4.廿日市市宮内 
 
 それよりさらに御手洗川に沿って奥地に入り、
 宮内の大幸の八坂神社の地でしばらく滞在した。
 
 天皇がしばらく滞在したため
 宮内と呼ばれるようになった。
 
 5.広島市古江 
 
 その後広島市古江に上陸し
 現在の八幡神社の地にしばらく滞在。
 
 ここを多紀理宮という。
  
 6.安芸郡江田島町切串 
 
 その後、
 江田島に渡り切串の
 長谷川の河口にある丘陵地に
 宮をつくりしばらく滞在。
 
 洪水にあったために
 府中町多家神社の地に移動。
 埃宮とは江の内の意味で
 広島湾岸を意味している。
 
 7.安芸郡府中町多家神社 
 
 かなり長く滞在したようで、
 この滞在中矢野や船越方面にも
 出向いているようである。
 
 このとき(?)皇兄の五瀬命が
 瀬野にて賊退治をしている。
 
 日本書紀から推察すると、
 AD79年12月頃と思われる。
 以下は多家神社滞在中のことと思われる。
 
 ・広島市可部町舟山・・・
  広島湾を北上し広島市可部町舟山に着岸し、
  徳行寺境内の総社の地にしばらく滞在。
 
  このとき惠坂や螺山方面にも
  足を伸ばされている。
 
 ・高田郡吉田町宮之城・・・内陸部に入り、
  宮之城の丘陵にある埃宮神社にしばらく滞在。
 
 ・賀茂郡西条町寺家・・・新宮神社に
  腰掛岩がある。 
 
 ・賀茂郡福富町竹仁・・・
  橿原神社(現在は森政神社に合祀)に
  神武天皇が来遊したと記録されている。 
 
 ・比婆郡西条町高・・・今宮神社に伝承あり。
  埃宮に滞在中出雲との関係を生じ
  この地を数度訪問した。
 
  物資を出雲より取り寄せた。
 
  と言い伝えられている。 
 
 ・比婆郡高野町南・・・
  男鹿見山の麓にある八幡神社に
  大昔より鉾を神宝として伝えている。
  神武天皇が鬼城山の鬼を退治したときの
  鉾と伝える。
 
  この周辺も高嶋という。
 
  この周辺に神武天皇伝承地が多い。
  
  多家神社を基点として方々を巡回後、
  当神社を出発、
  呉市天応
  (立ち寄り伝承あり、
   天応の名も天皇の
   立ち寄りからつけられる)、
  呉市(賊退治伝承あり)と経由し、海に出る。
 
  蒲刈島南方海上を東へ向けて進行中、
  南風を受け船の梶が折れたために、
  上下蒲刈島の間の三ノ瀬に船が入りこんだ。
 
  下蒲刈の向浦に着岸し
  天頭山の岸辺で船を修繕。
 
  このとき蒲を刈ったので、
  ここを蒲刈と名づけられた。
 
  そこから内海に出てさらに東へ進んだ。
  
 8.豊田郡瀬戸田町名荷 
 
 蒲刈を出た天皇一行は瀬戸田町の名荷に到着。
 
 斎串を立てて祀ったので
 この島を生口島と呼ぶようになった。
 
 島の嶽山の麓にあった
 江ノ神社の地に
 しばらく滞在したとの伝承あり。
 
 近くに船を止めたという場所や
 神武天皇使用の井戸の跡、窯の跡、
 斎田の跡などの伝承あり。
 
 伝承内容からしてかなり長い滞在と思われる。
 
 9.豊田郡大崎町大長 
 
 神武天皇が立ち寄ったという。
 付近の島々にも支船を停泊させたと伝える。
 
 また、
 この地に着く前に一支隊が
 四国(三津浜)に立ち寄ったともいう。
 
 10.因島市大浜 
 
 斎島神社由緒
 「昔神武天皇、東国に行かれるとき、
  風波のため航海ができず、
  この大浜に船を留め寒崎山にて
  数日嵐の静まることを天神に祈られた。
  即ちこの島は斎島である。
  後に変わって隠の島(因島)となる。」
 
 11.尾道市高須町 
 
 ここからは備後の国であり、
 滞在地を高嶋宮と伝えている。
 大元山麓の八幡神社の地に
 しばらく滞在したと伝える。
 
 ここから2kmほど南西の大田地区で
 武器製造・貯蔵をしたと伝えられ、
 神武天皇はしばしばここを訪れたそうである。
 
 ここも滞在期間は長かったようである。
 ここに着いたのが
 日本書紀よりAD80年2月頃と考えられる。
 
 12.福山市金江町 
 
 貴船神社があり、ここに船を止めた。
 
 近くの竜王山西麓に
 神武天皇滞在伝承地があり、
 この周辺を高嶋宮という。
 
 石碑もある。
 
 また、
 鏡山の今伊勢神宮に八咫鏡を奉祀した。
 
 そのため、この地を神村という。
 
 近くの磐田山に天津磐境をつくり祭祀をした。
 
 天津磐境の岩を運んだという伝承地もあり、
 このあたりに神武天皇伝承地が極めて多い。
 
 かなり長期にわたって
 滞在したものと思われる。
 
 13.沼隈郡浦崎町 
 
 浦崎町中央部の王太子山中腹に
 王太子神社があり、
 神武天皇の滞在を伝える。
 
 また、
 近くの戸崎に神武天皇上陸伝承地がある。
 
 
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-2」 [日本創世紀]

 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-1」》


 多家「タケ」
 (Grk.)ταγη(tagi/tage)
     支配者、命令を下す者、戦列・前線
    ταγος(tagos)指揮者、支配者
 
 ※多家神社の所在地が
  多祁理宮のあった所とは必ずしもいえない。
 
  特に多祁理宮を
  現在の府中町に想定することは、
  速谷神社の鎮座理由からして不適当。
 
  安藝國の立国時の政治的中心地は
  現在佐伯郡にあったことは
  明らかであり、
  後の國郡制が設けられる時に至って
  府中町方面にその中心が
  移転したものとみられ、
  多家神社はその時代からの鎮座と推測される。
 
 「オホイヱ」「オホイエ」
 (Grk.)οιαζ(oiaks)、αιάκος  
     <舵、舵柄>の転訛か?
 
 ◎多祁理宮の比定地
 
 (1)廿日市市廿日市高州
 
 高州「タカス」
 (Grk.)ταγος(tagos) 指揮者、支配者
    高洲とは表記されないので砂洲ではない。
 
 (2)廿日市市  
   
 峰高「ミネタカ」(旧名)宗高尾「ムネタカ・オ」、
  尾は七尾というように丘陵の尾根の意味
 
 「ミネ」・「ムネ」
 (Grk.)μενο(meno) 
    μενεμεν(不定詞、叙事詩menemen)  
    μενησι(menysi三人称単数) 
  ◦持ち堪える、(特に戦いで)踏み留まる、
   (攻撃に)耐える
 
 「タカ」
 (Grk.)ταγη(tage)
     戦列・前線、支配者、命令を下す者
 
 「ミネ・タカ」
  戦いで踏み止まっている前線
  戦いの前線で踏み止まっている支配者
 
 ※(1)、(2)とも
  東征の前線に駐屯した支配者の駐留地として
  適しい遺称といえる。
 
 ◦福山:ふくやま(廣島県)
 市の中央にある丘陵。福山に依る地名。
 この山は蝙蝠(こうもり)山とも称された。
 
 「こうもり」
 (Grk.)ημερά(hmera) イオニア訛り 
    ημερη(hmeri)
     η(h)は時としてkh(k)と発音される。
 
 「フク」
 (Grk.)ψεγγος(pheggos)日、昼間
    ψεγγους(pheggoys)
     光、輝き、(特に)太陽の光、眼の光、
     燈火
    ψεγγω(pheggo)光り輝く(形容詞)
 
 旭ヶ丘(福山市東南部の丘陵)旧安那郡のうち、
  旭:朝日
 
 引野:ひきの(福山市)旭ヶ丘の西部から
    西北部に広がる地名
 
 「ヒキ」
 (Grk.)ψεγγω(pheggo)光り輝く(形容詞)
    ψεγγους(pheggoys)
     輝き、(特に)太陽の光※朝日に対応する
 
 燧灘:ひうちなだ
    (広島、愛媛、香川3県にまたがる灘)
 
 「ヒウチ」はψεγγος(pheggos)に係わる。
 
 ◦安那郡(備後国東南端の郡名)
 
 「アナ」
 (Grk.)άνα(ana)、άναξ(anaks)、άνακτος    (anaktos)の呼格(voc)
     王、支配者、領主など
  備前国邑久郡安仁神社の「安仁:あに」と同根
 
 ◦多理比神社「延喜式」神名帳 
  備後品治郡 訓「タリヒノ」
 
 「タリヒリ」三段橈船
 (Grk.)τρι-ηρης(tri-hris)
    τρι-ηρεες(tri-hrees)
    τριηρης(trihris)
 
 品治(ホムヂ)郡(現)福山市駅家町周辺
 
 「ホムヂ」(旧名品遅「ホムチ」)
 (Grk.)Ημαθιη(Hmathih/Émathië)
 (現)福山市駅家町坊寺の
   「坊寺」/法師村(江戸時代)
 ※マケドニアの古称<ここではマケドニア人>
 
 江良(福山市駅家町江良)
 
 「エラ」
 (Grk.)ερετμον(eretmon)橈
    ηρης(hris:eris)橈/櫂
    ηρεες(hrees:erees)橈/櫂
 
 大草神社(江良にある)
 
 「オホクサ」
 (Grk.)αικαος(aiakos)舵、舵柄
    οιαξ(oiaks)舵、舵柄
 
 ◦蘇羅比古神社「延喜式」神名帳
  備後国三上郡 訓「ソラヒコノ」
 
 「ソラ」① 
 (Grk.)σολος(solos)鉄の塊
  (現所在地)
 A:広島県庄原市本村町 蘇羅比古神社 
  鍬寄山にある。
 B:広島県庄原市高町川西 蘇羅比古神社
  ※当地は古代より鉄の産地、両地の間にある。
   大黒目山の「黒目」は磁鉄鉱を表わす。
   また、
   篠津原(字名)は(Grk.)の「鉄」を意味する
   σιδλος(sidlos) に係わり
   「篠:ササ」は砂金を表わしている。
  ※当社の創建の理由は
   この「鉄塊」の産地であることに始まると
   考える。
   但し、その後、その解釈は変更される。
 
 「ソラ」② 
 (Grk.)σελας(selas)光、光輝、電光、火
  つまり、電光・雷光(稲妻)の意味が加わる。
  なぜか、
  郡名「三上」・「延喜式」神名帳 訓「ミカミ」
 
 「ミカミ」
 (Grk.)μυκεμα(mykema)咆え声
    μυκαομαι(mykaomai)
     轟く、大きな音をたてる、咆える、唸る
     >雷鳴を表わす。
  ※鉄塊の神から
   「雷神<雷電(光)>の神」へ変わっていった。
   本村町に岳音寺という寺院がある。
   「山(岳)の音」とは雷鳴を窺わせる。
   その本村町の東方
   比婆郡東城町の庄原市よりに
   御神山「ミカミヤマ」があり、
   その北方辺に「帝釈」を冠した地域もある。
 
   帝釈は仏教用語で本来は
   インドのヴェータにおける最高神にして、
   雷神の性格を持つインドラ神の語義であり、
   「ミカミ」が「雷電」に
   係わっていることを示している。
 
   この「三上」は
   滋賀県野洲郡野洲町の三上、三上山と
   同根である。
 
 野洲「ヤス」
 (Grk.)Yης(Yes、本来はディオニソス神の呼称)
    豊饒をもたらす雨神
 
 「ヤツ」
 (Grk.)υετος(yetos) 雨、(特に)激しい驟雨
    υετιος(yetios) 雨をもやらす、雨の
 
 東城町・西城町の「シロ・城」
  この地域が鉄の産地であることから 
  σολος(solos)が語源であろう。
 
 C.高嶋宮〔岡山県〕
 
 『古事記』古事記 中卷
 
  亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐
 
  また其の國より遷り上り幸(いでま)して、
  吉備の高嶋の宮に
  八年(やとせ)坐しましき。 
 
 『日本書紀』卷第三 
  神武天皇(神日本磐余彦天皇) 
 
  乙卯年の春三月の甲寅の朔己未に、
  吉備國に徙りて入りましき。
  行館を起りて居ます。
  之を高嶋宮と曰ふ。
  三年積る間に舟檝を脩へ、兵食を蓄へて、
  將に一たび舉げて天下を平けむと欲也。
 
 「延喜式」神名帳 備前國邑久郡
 ◦安仁(アニノ)神社名神大
 「特選神名諜」
  安仁神社 備前國邑久郡
   名神大、
   祭神:五瀬命(潔云五瀬命と云ふは
          近年云出したる妄説なり)
   祭日:十月三十一日至十一月一日
   社格:國弊中社
   所在:藤井村宮城村(邑久郡大宮村大字藤井)
 
 ◦安仁「アニ」
 (Grk.)άνα(ana)、άναξ(anaks)、
    άνακτος(anaktos)の呼称
   ◦王、支配者、領主、主人、貴族、
  命令者、指揮者
  安仁神社は「久方(ひさかた)宮」
  と呼ばれてきた。
  久「クス」
  (Grk.)άναξ(anaks)のξ(ks)の転用
  ※このことから
   安仁神社とは「王 神社」の語義となる。
   同神社近くに、大王寺が建てられ
   地名となって残っているのも参考となる。
 
   ◦宮城山、(式内社調査報告)別名 鶴山「ツル」
  (Grk.)θυρα(thura)、
     θυρη(thuri、イオニア訛り)
     戸、扉、戸口、門
     ◦邸、宮殿:宮城
   宮城・鶴(つる)は同義で「宮殿」を表わす。
   よって安仁神社は"大王(王)の宮殿"を
   継承するもので、高嶋宮の位置である。
 
 藤井、宮城山のある地域で、旧村名、現大字名
 
 「フジ」
 (Grk.)ψως(phos)
    日、一日、
    ◦燃える火の光◦燈火◦眼の光◦眼
    アテネ神の「輝く眼」に対応する。
    〈久方(ひさかた)の「ヒサ」にも対応〉
 
 東片岡、西片岡
 (安仁神社のある西大寺一宮の西隣りの地区名)
 
 片「カタ」
 (Sk.)ketu 光、光輝、光明、燈火、指導者
 
 朝日(片岡にある字名)ketuに対応する。
 ketuに指導者の意味もあることからすると、
 片岡とは鶴山/宮城山を指している。
 
 滝神社(西大寺一宮)安仁神社の近くに鎮座」
 
 「タキ」
 (Grk.)ταγη(tagi)
    支配者、命令を下す者、戦列、前線  
 
   ◦邑久(おく)郡(古代~現在の郡名)
  「延喜式」民部省國郡表
  九条家本「オホク」
   ◦邑久郷「和名類聚抄」邑久郡のうち
  大化改新(乙巳の変)以前「大伯国」
 
 「オホク」「オク」
 (Grk.)ογκα(ogka)アテネΑθνα神の呼称
  ◦ογκαはまた「オンガ」とも訛り、
  遠賀:オンガ(福岡県)と係わり、
  この邑久・オクも崗水門の「オカ」
  (船の停泊地)であったかもしれない。
 
   ◦幸島「こうじま」(岡山市)片岡・邑久郷の西方
  水門湾お奥で現在水門町となっている地域は、
  元"幸島"と呼ばれる島であった。
  付近の地名 
   神崎(こうざき)、幸田(こうだ)、神崎町 
  ※その他 幸島・こうじま(笠岡市)
 
 「コウ」〈コフ〉
 (Grk.)κωπη(kopi) 
    櫂・カヒ、橈柄、
    ◦軍船(橈船)の寄泊地を
    「コウ」で表わしている。
 
 ※高嶋宮は一般に
  「タカシマ」と訓まれてきたが、
  「コウシマ」と訓む方が真実らしい。
  安仁神社と幸島は3㎞程の距離にあり、
  水門湾の呼称は崗水門(福岡県)と共通であり、
  この静かな湾内に
  軍船を停泊させていたものだろう。
 
  古代の当時は海域が東片岡、つまり
  安仁神社の麓辺りまで入りこんでいた。
  
  船の停泊には最も静かな
  安全地帯であったはずである。
 
  ◦高島・たかしま(岡山港近く、児島湾の島)
  高島神社(岡山市宮浦)
  高島に祭儀の跡を持つ
  高島遺跡があることから、
  この辺りに高嶋宮あったの説もあるが、
  同地はあくまで祭祀場にすぎず、
  軍団の停泊地たり得ない。
 
  祭祀遺跡の遺物は5世紀以降、
  その後半から6世紀前半が盛ん。
 
  ◦阿知〈上下〉(岡山市)邑久郡の東方
        西大寺一宮(安仁神社)の北方
 「アチ」
 (Grk.)Ατθη(Atthi)、Ατθις(Atthis)、
    Αττικη(Attikh)・アッチカ地方
  Αττικηはアテネを主祭人とする。
  ギリシャのイオニア人が建立した
  アテネを含む地方名
 
  ◦阿智郷(倉敷市)
   【古代】「和名類聚抄」
   備中國に浅口郷8郷の1つ。
   (現)倉敷市西阿知町
 「アチ」Ατθη、
 浅口郷「アサクチ」Αττικη(アッチカ)
 
 阿知〈倉敷市〉倉敷の古名 
        (現)倉敷駅の東付近
  阿智神社(倉敷市鶴形)鶴形山に鎮座(山頂)
   ※アッチカの祭神を祀る神社 
  足立神社 「延喜式」神名帳 備中國窪屋郡
  足立神社訓「アシタカノ」
   (現)倉敷市笹沖(旧名篠沖)
  「式内社調査報告」第二十二巻、p.424
   葦高宮、葦高大明神、葦高明神
 
 「アシタカ」
 (Grk.)Αττικη(アッチカ)
 
 「倉敷」
 (Grk.)κελεω(keleysma)
    命令、呼び声、掛け声
        κλησις(kliss)
    呼ぶこと、呼びかけ、呼び名
 
 「クラシキ」
 (Grk.)καλεω(kaleu)
        (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、
    ◦呼び掛ける、呼ぶ
 
 ※「神の名を呼ぶ」のは
  「神を尊崇する」ことであり、
   岡田宮(福岡県)、多祁理宮(広島県)の地名
   などに連なる性格である。
   これらのギリシャ語に従い、
   漢字を当てたももだろう。
   その延長に「児島」はある。
 
 「児島」コシマ、コジマ(倉敷市)
  【古代】「延喜式」民部省國郡表にみえる
   備前國8郷の1つ。
   九条家「コシマ」
   「和名類聚抄」の訓「古之末」
   「延喜式」神名帳 児嶋郡の訓「コジマ」
  ※倉敷市の当該地区はかって"島"であった。
   
 「児」の由来、
   「クラシキ」の語源に発音が近いギリシャ語
 (Grk.)κορος(koros)、κωρος(koros)
    少年、若者を意味し、「児」に相当する。
 ◎児島はこのような相互関係
  で生まれた島名地名である。
 
 箆取神社(倉敷市連島・つらしま西之浦)
  西阿知の南隣が連島地域
 
 箆「ヘラ」
 (Grk.)ηρης(hris)、ηρεες(hrees)
    橈柄、櫂(かい)
 「ヘラ取」櫂取、つまり「船の漕ぎ手」を表わす。
 船乗りの信仰が厚かったのはこの理由による。
 
 連島・つらしま(倉敷市)
 【古代】
 「和名類聚抄」備前國児島郡4郷の1つ。
        都羅郷の比定地、高山寺本
 豆良「ツラ」
 (Grk.)θυρα(thura)◦邸、宮殿」、戸、戸口、門
 ◦ 何時の時か、船乗りたちの親方などの邸宅が
  箆取神社辺りにあったものだろう。
 M.K記

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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」 [日本創世紀]


 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」》

  

 A.岡田宮〔福岡県〕

 

 『古事記』

 於筑紫之岡田宮一年坐。

 亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。

 亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。

 

 『日本書紀』

 神日本磐余彥天皇 神武天皇

 十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。

 十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。

 

 遠賀・崗・岡「オカ」

 (Grk.) όχος 乗物・船・車輪・車(οχος)  

  岡湊神社 芦屋町、船頭町

  「オカミナト/崗水門」(Grk.) όχος

  ◦容れるもの⇒船の停泊地

  (Δωμάτιο του πλοίου)

  Πού να πάρετε ένα πλοίο

   船を容れる所

   νηωγ、Πλοίο(舟)の属格「船の」

 

  ※湊(港)の語義で「岡湊」は音写と語義に

   より生み出した用語

 

   船頭町(芦屋市昭和41年からの地名)は

   岡湊神社の鎮座地だが、古くから

   この地の字名として用いられた場合

 

   「オカ」はοίαξ(οίακσ)、αίακος

   双方とも「船」で、この音写でもある。

 

 芦屋「アシヤ」

 (Grk.)οσία(οςία、イオリア訛り)神の掟

    όσίος(οςίος)◦敬神の、聖な、信心深い

          ◦神を祀ること、祭儀、祭式

 

 島津(しまづ)・島門(シマト)「シマト」

 (Grk.)θαημαστης(thaymasths)

      賞賛者:尊崇者・崇拝者

        θαημα(thayma),

        θαηματος(thaymatos)

      驚き、驚嘆、不思議

       θαημα(thaymazw(o)),

        θαηματος(thaymasw(o)) 

     驚く、驚嘆する。

     ◦敬意を表す

     ◦尊ぶ、尊崇する、尊敬する

 

 鬼津(オニヅ)

 (Grk.)αναξ(anaks),ανακτος(anaktos)

    王、支配者、領主、主人、貴族、命令者

 

 浅木・朝木「アサキ」

 (Grk.)Aττικι(Attiki)アッティカ

   アテネ神を祭神とするアテネの町のある地方

 

 鞍手「クラテ/クラジ」

 (Grk.)καλητωρ(kalhtew(o)r)

        (大声で)呼び叫ぶ人<神に祈る人、祭官

 

    καλεω(kalew(o))

    (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ 

    ◦呼ぶ、呼び寄せる、呼びかける

    ◦招く

 

    θεο-κλυτος(theo-klutos)

    神に呼び掛ける

 

    θεο-κλυτεω(theo-klut(o))

    神に呼び掛ける、祈る、祈り求める

 

 岡田・宮「オカタ」

 (Grk.)οχθη(oxthh)高み、川岸、川堤

    οχθος(oxthos)高み、丘、塚、川岸

  ※この用語から宮の置かれた場所は

   遠賀川の川岸に近い小高い丘(崗)で

   あったと推測される。

  ◎遠賀川右岸浅川台の字名に「岡田」がある。

 

 広渡・ひろわたり「ヒロト」

 (Grk.)Παλλαδος、

    Παλλας 

    Aθηνα女神の異称

    〔Pallados〕〔Pallas〕

    浅木の北隣りで遠賀川の川下に接している。

 

 B.多祁理宮〔広島県〕:埃宮

 

 『古事記』

  古事記 中卷

   於竺紫之岡田宮一年坐 亦從其國上幸而 

   於阿岐國之多祁理宮 七年坐

   亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐

 

   其の地より遷移(めぐ)りて、

   竺紫(つくし)の岡田の宮に

   一年(ひととせ)坐しましき。

 

   また其の國より上り幸(いでま)して、

   阿岐(あき)の國の

   多祁理(たぎり)の宮に

   七年(ななとせ)坐しましき。 

 

   また其の國より遷り上り幸(いでま)して、

   吉備の高嶋の宮に

   八年(やとせ)坐しましき。 

 

 『日本書紀』

  卷第三 神武天皇(神日本磐余彦天皇) 

      即位前紀 太歳甲寅十二月

  ○十有二月丙辰朔壬午 至安藝國 居于埃宮

  ○十有二月(しはす)丙辰(ひのえ・たつ)の

   朔(ついたち)壬午(みずのえ・うま)。

   安藝國(あきのくに)に至り、

   埃宮(えのみや)に居(いま)しき。

 

 多祁理宮「タケリ」:"哮・たけり":

  大声でわめき叫ぶこと。

   "たけ・る"大声で叫ぶ、吠え叫ぶ

 (Grk.)θεο-κλντος(theo-klytos) 

     神に呼び掛ける

    θεο-κλντεω(theo-klyteo)

     神に呼び掛ける、祈る、祈り求める

    καλεω(kaleo)

     呼ぶ、呼び寄せる、招く、招待する、

     (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、

     呼び掛ける

 

 〔廿日市市の地名〕

 

 阿品「アジナ」

 (Grk.)Aθηνα(Athina)

    アテネ神、学問、技芸、戦いの女神

 

 平良・部良「ヘラ」【古代】平安期

  『和名類聚抄』種箆郷「タネヘラ」

 

 「タネ・ヘラ」

 (Grk.)τανα-ηρης(tana-hris)

    τανα-ηρης(tana-hrees)

    τανηρης(tanyhris)

    長い橈の船=三段橈船

 

 「タネ」

 (Grk.)τανος(tanaos)長い延びた 

    τανα-,τανυ-(修飾形) 

 

 「ヘラ」

 (Grk.)ηρης、ηρεες 橈、櫂(かひ)

 

 三段橈船 

 (Grk.)τρι-ηρης(tri-hris)

    τρι-ηρεες(tri-hrees)

    τριηρης(trihris)

 ※三段櫂船:


 

 可愛・河合・川井「かわい」

 【中世】鎌倉期にみえる地名。河井。

 

 「カワイ」 

 (Grk.)κωπη(kwpi) 橈柄・櫂(かひ)

 「カヒ」(日本語へ転訛)

  橈(かい)、小檝〔方言〕楫謂之橈

 

 ※清代陳昌治刻本『說文解字』

  【卷六】【木部】楫

  舟櫂也。从木咠聲。子葉切

 

  清代段玉裁『說文解字注』

  所㠯擢舟也。各本作舟櫂也。許無櫂字。

  手部曰。擢,引也。

  楫,所以引舟而行。故亦謂之擢。

  而漢書劉屈氂傳,外戚傳,

  百官表皆用輯濯爲楫擢。假借也。

  毛衞風傳曰。楫所以擢舟也。此許所本。

  今據以正。今毛詩擢譌櫂。

  淺人所改也。鄧通傳。以濯船爲黃頭郎。

  司馬相如傳。濯鷁牛首。

  皆擢舟之義也。詩爾雅音義引說文舟棹也。

  則其誤久矣。棹又櫂之俗。

  從木。咠聲。子葉切。七部。方言曰。

  楫謂之橈。或謂之櫂。

  櫂亦擢之譌也。擢櫂正俗字。方言集汇粤语

 

 ※多祁理宮のあった位置について

  多家(たけ)神社(延喜式神名帳)の

  多家が多祁・理に近いことから、

  現在安芸郡府中町に想定されているが、

  上記の解釈から、

  廿日市市の可愛川両岸辺りに

  あったものと考える

  当地は佐伯郡内で、

  佐伯氏は大伴氏と同族であり、

 

  "東征"の際指揮を執った

  日臣/道臣を祖としており、

  当地に勢力を7年に亘って養った

  遺称と考える。

 

  可愛川上流(内陸)、

  上平良には速谷神社が鎮座し、

  国府が最初に置かれた所である。

 

 ※同地の海向いに厳島神社

  『延喜式神名帳』

   伊都伎嶋(イツキシマノ)神社名神大・

   安藝國佐伯(サエキ)郡が鎮座し、

   宗像神社の祭神・

   多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫の三神が

   奉祭されているが、

   その内の「多紀理姫神」名は

   多祁理と同根語と考える。

 

   これらの固有名は

   巫女の三つの性格から採った名称で

   「イチキ」は「イタコ」、

   「タキツ」は「田心」と表記されるように

   英語の dance (踊り) と同じく

   巫女の舞い姿を

   そして

   「タキリ」は「神に呼びかけ、神を招く」

   というもの。

 

   その「多紀理姫神」を祭る神社の近くに

   「多祁理宮」があったとして

   何らかの係わりを考えさせる。

 

 ※「ヘラ」箆:"へら"とは

  竹片を細長く平たく削ったものをいう。

  (へら)はギリシャ語から日本語へ転訛した。

 

 ※古代ギリシャにおいては

  長い船は軍船を用いた商船を表わす。

 

 佐方「サガタ」「サカタ」

 (Grk.)θυγατηρ(thugatir)娘、

  アテネ Aθηνα神は

   処女神として知られる(パルテノン)

 

 ◎埃宮『日本書紀』

 

 埃:アイ〔集韻〕於開切 ai'、

   チ・ヂ〔集韻〕直几物

   ◦ほこり、すなけむり、もや

 

 ※この名称が"ほこり"の意味から

  付けられたものでないことは明らか

 

 「アイ・え」

 (Grk.)αϋω(ayo) 

     叫ぶ、大声で呼ぶ、鳴り響く、轟く

     "大声で呼ぶ"は多祁理

     (哮たけり:大声でさけぶ、

    θεο-κλντος

     「神に呼びかける」)と同義となる

     ◦ 但し、

      埃は「火+矣」 の誤記か誤用であろう。

  「火+矣」:アイ〔集韻〕於開切、

       キ〔集韻〕虚基切 

       ◦輝く、焼く、熱い

   〔玉編〕「火+矣」 、炫也、

   〔集韻〕「火+矣」 、一日、熱甚、

       炫:ケン・ゲン 

       ◦ひかる、輝く、光が上がる、                                照らす、輝き、火の海

 

 「かがやき」

 (Grk.)γλαυκος(glaukos)

     輝く、光沢のある、明るい

    Γλαυκος(Glaukos)

     船乗りの守護神

    Γλαυκος ύ Πουτιος 

     〔Glaukos u Pontios〕 

     として知られる、つまりアテネ神

     γλαυκ-ομματος(glauk-ommatos) 

     碧い眼の、(あるいは)輝く眼の

    γλαυκ-ωπις (glauk-opis)

     アテネ Aθηνα〔Athina〕神の形容、

     輝く眼のあるいは碧い眼の、を説明 

    γλαυζ(glauks)、 γλαυκος 

    (glaukos)コシキメフクロウ

 

 福佐売(フクサメ)神社(廿日市市可愛)

  『三大実録』廿二 佐伯郡 榎本連福佐売

 

 「フクサ」

 (Grk.)ψεγγος(pheggos)

    ψεγγους(pheggous)

      光り、輝く、(特に)太陽の光、眼の光、

     燈火

 「メ・売」"女"あるいは"眼"

 「フクサ・メ」"かがやく眼"または"かがやく女"で

  「輝く眼の女(神)」、

  つまりアテネ神よりなった名称

 

 ※阿品、佐方はアテネ神に係わる地名である。

  また平良・可愛は橈船にして

  軍船に係わる名称で、

  アテネ神は軍神にして船乗りの守護神である。

  <アテネ・ニケ 勝利の女>

 

 ☆多家神社

 

 『延喜式』神名帳 安藝国安藝郡

 

  訓「オホイヱノ」「オホイヱ」「オホノミ」

  「式内社調査報告」第22巻 619頁

 

 〔社名〕

  多家の訓については諸説あるが、

  明治7年現地に鎮座されて以来、

  もっぱらタケと呼ぶ、

  現地に鎮座される以前の所在は

  後述するように厳密には不明で、

  その訓は

  九条家本には「オホイヱ」、

  武田本には「オホイヱノ」と

  傍訓を付する。

  また

  吉田家本は「多氣神社」と誤寫し

  「氣」傍書して「家」と訂正し、

  「オホイヘノ」と訓じている。

 

  近世、

  伴信友人神名帳考證は

  これらの古訓に忠實に従ひ

  「オホイヘノ」の傍訓を付し、

  度會延經『神名帳考證』が

  多家に「タケ」の訓を付し、

  土佐國安藝郡多氣神社(式内社)を

  「タケ」と呼ぶことを援用してゐるのは

  穏當である。

 

  また

  廣島藩府編集『藝藩通志』巻39、

  祠廟も多氣の古訓がいかにあるべきかを

  種々検討して

  結局「タケ」と訓むべしとしてゐる。

 

 〔所在〕

  廣島県安藝郡府中町上宮の町二〇九一番地

  〔A〕この所在地は

  事項の論社の問題の結果として

  明治7年4月鎮座された場所である。

 

 ※「多家」の訓は

  「オホイヱ」か「タケ」か確定されていない。

 

 ※同神社の鎮座地が

  どこであったか確定されていない。

 

 ◎「多家」は「多祁理」とは

  全く語源が異なり関係はない。

 

 多祁理「タケリ」:哮・たけり/たけ・る:

         大声で叫ぶ

 (Grk.)θεο-κλντος(theo-klytos) 

     神に呼び掛ける、祈る

 

 多家「タケ」

 (Grk.)ταγη(tagi/tage)

     支配者、命令を下す者、戦列・前線

    ταγος(tagos)指揮者、支配者

 

 ※多家神社の所在地が

  多祁理宮のあった所とは必ずしもいえない。

 

  特に多祁理宮を

  現在の府中町に想定することは、

  速谷神社の鎮座理由からして不適当。

 

  安藝國の立国時の政治的中心地は

  現在佐伯郡にあったことは

  明らかであり、

  後の國郡制が設けられる時に至って

  府中町方面にその中心が

  移転したものとみられ、

  多家神社はその時代からの鎮座と推測される。

 

 「オホイヱ」「オホイエ」

 (Grk.)οιαζ(oiaks)、αιάκος  

     <舵、舵柄>の転訛か?

 

 M.K記

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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(2)岡田宮・多祁理宮・高嶋宮 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
 
(2)岡田宮・多祁理宮・高嶋宮
 太安麿が纏めた『古事記』の神武東征伝承には
 三ヵ所の行宮が上げられている。
 
 『古事記』はいう。
 
  竺柴の岡田宮に一年坐しき。
  亦其の國より上り幸できまして、
  阿岐國の多祁理宮に七年坐しき。
  亦其の國より遷り上り幸できまして、
  吉備の高嶋宮に八年坐しき。
 
 (a)岡田宮
 
 『日本書紀』には
 
 「天皇、筑紫國の岡水門に至りたまふ」とある。
 
 「岡水門」は
 現福岡県遠賀郡芦屋町芦屋の遠賀川の河口近い
 左岸に「岡湊神社」が鎮座しているので
 その付近を指す。
 
 「岡田宮」も同所近辺にあったことに間違いない。
 
 「岡田」との地称は
 芦屋の対岸浅川地内に字名としてあり、
 この台地がその行宮の地であったはず。
 
 川名も「遠賀」も「岡」と同様
 源語は「オカ」であっただろう。
 
 ギリシャ語の oxos で
 「乗物」ながらここでは「船」である。
 
 よって「岡湊」は「船の停泊地」となる。
 
 但し「岡田宮」名の「オカタ」は
 oxthe で「高み」「川岸」、
 oxthos はまた「川岸」「丘」の語義で、
 浅川の台地に妥当な呼称である。
 
 岡湊神社の上流に「島津」との地名がある。
 
 同称は平安時代の延喜式に
 駅名として載る「島門」の地であるが、
 「シマヅ」は thymazō の音写で
 「尊崇する、崇拝する」で、
 「シマト」はその名詞形の 
 thymaths で「尊崇者、崇拝者」となる。
 
 そして町名芦屋の「アシヤ」は
 osia〔神の掟〕に係わる
 osios〔敬神の、信心深い〕となる。
 
 これらの語義とこれらの語群は
 「東征」 勢力及びその次に続く
 行宮などに極めて重い意義を持つ。
 
 (b)多祁理宮
 
 『日本書紀』に
 
 「安藝國に至りまして埃宮に居します」とある。
 
 安藝國〔『古事記』では阿岐国〕は、
 広島市から西方の広島県域をいう呼称である。
 
 「埃宮」名の「埃」は「ほこり」の字義で、
 これは「エ」ないし「アイ」音の音写で、
 語義から
 この行宮の意義を考え出すには無理がある。
 
 「アイ」はこの東征勢力の言葉
 ギリシャ語に 
 ayo 〔叫ぶ、大声で呼ぶ〕があり、
 同語の音写である。
 
 なぜならば、
 『古事記』が記す「多祁理:タケリ」とは
 同義であるからである。
 
 同義を一字で表わせば「哮:たけり」であり、
 「たける」は「大声でさけぶ」である。
 
 同音もギリシャ語 
 theo-klytos,theo-kyteo の転訛で
 「神に叫びかける」
 「神に呼びかける、祈りを求める」となる。
 
 同類語 kaleo は「呼ぶ」ながら
 「神の名を呼ぶ、呼びかける」である。
 
 これらの用語は「神を崇拝する者」の行為で、
 岡田宮で説明した
 「島津」名の源語と同質である。
 
 安芸国地域内に「アイ」「エ」と訓める地称がある。
 
 広島市の西側廿日市市の「可愛」で
 地名および川名となっていて、
 伝統的には「かあい」ながら「エ」とも称した。
 
 多祁理[埃]宮は
 この海に接した区域にあったと限られる。
 
 「可愛」川の流域に現在「平良」との地区がある。
 
 その呼称は「ヘラ」で和名類聚抄には
 「種箆郷」とあるのに当たる。
 
 「タネヘラ」はギリシャ語
 tana-hrees〔長い橈の船〕に依る。
 
 Tana〔長い、延びた〕と 
 hrees、hris〔橈・櫂〕の合成語で、
 「(かあい)かい」と読んでいるのも、
 日本語に「カイ」「カヒ」と称する源語
 koppi〔橈・櫂〕と同義であるからである。
 
 「カイ」は「カヒ」である。
 
 〔長い橈の船〕とは
 戦さのための船で「軍船」を表わす。
 
 古代ギリシャなどの「戦さ船」は
 速度を速くするため橈で搬ぐ必要から
 多くの橈を備えた。
 
 それを二段橈船、三段橈船といい
 上下に搬手〔ほとんどが奴隷〕を
 段上に並ばせていた。
 
 しかもその橈は比較的長く、
 上段になれば
 海面に届かせるためさらに長かった。
 
 船形も長く細い垂型であった。
 
 これに対し
 商船は円く腹が孕んだ円形で
 風を利用した帆船である。
 
 その軍船のうちの最も大きなものは
 三段式橈である。
 
 廿日市市内に「安品:阿品」との地称がある。
 「アジナ」というが、
 これはギリシャの戦いの女神 
 Athina〔アテネ神〕名で、
 この勢力は「戦い」ながら移動する、
 つまり
 「征服を行いながら東へ征して行く」
 戦闘軍事勢力だったのである。
 
 安品:阿品地区の東方に「佐方」地域がある。
 この「サガタ」は 
 thagatir の音写で「娘」が語義である。
 
 英語の daughter と同じである。
 「娘」とは「処女」で、
 アテネ神が「処女神」として知られるのに
 相応している。
 
 (c)高嶋宮
 
 『日本書紀』に
 
  「吉備國に徒りて入りましき。
   行館を起りて居ます。
   これを高嶋宮と曰ふ。
   三年積る間に舟檝を脩へ、
   兵舎を蓄えて将に天下を平けむと欲す」
 
 とある。
 
 吉備国は
 広島県の東部と岡山県の岡山市辺りから
 西部の地域である。
 
 「東征」の勢力集団は
 「(b)多祁理宮」で解釈したように
 軍船〔多分複数〕を備えた軍団で、
 その軍船によって瀬戸内海の北側を
 徐々に征圧を繰り返して移動したのである。
 
 高嶋宮のあったところはどこかであるが、
 そこは
 岡山県邑久郡宮村藤井の
 「宮城山」と解釈される。
 
 「宮城」名自体、
 天皇が居られる居館〔行宮〕の呼称で、
 そこに鎮座する「安仁神社」は延喜式神名帳の
 備前国邑久郡に載る「名神大」社で、
 その訓に「アニ」とあり、
 ギリシャ語 
 ana 〔王、支配者、領主、指揮者〕であると
 解釈されるからである。
 
 「アニ」は"天皇"を指称するのに十分な理由となる。
 
 同神社近くに「大王寺」が建てられ、
 現在地名となって遺されている。
 
 宮城山は別称を「鶴山」という。
 
 その「ツル」は 
 thura、thuri〔宮城、宮殿〕の音写で、
 「宮城山」と合致する。
 
 安仁神社は「大王の宮城」を継承するものである。
 
 同神社の西方に「片岡」との地称があるが、
 その地区、水門湾の奥に
 水門町となっている地域は
 元「幸島」と呼ばれる島であった。
 
 付近に
 幸崎(こうざき)、
 幸田(こうだ)、
 神崎町(こうざき)との
 地名呼称があることから
 「幸島」も「コウシマ」と呼ばれたに違いなく、
 「高嶋」も「こうしま」にして「幸島」の異字であり、
 「高嶋宮」は「コウシマ宮」と称すべきである。
 
 「水門」は
 「(a)岡田宮」で紹介した「岡水門」にも関係し、
 そこが彼等の船団の停泊地であった。
 
 その当時の古代では、
 幸島が海中の島であったように、
 海が深く安仁神社の宮城山まで切り込んだ地形で、
 穏やかにして安全に船の停泊できる入江であった。
 
 安仁神社は通称として
 「久方(ひさかた)宮」と呼ばれてきた。
 
 この久は「クス」で「アニ(安仁)」と合成すると
 anaks となる ana と同義の「王、支配者」 である。
 
 また同社近く(西大寺一宮)に鎮座する
 滝神社の「タキ」は 
 tagi の音写でまた同義〔支配者〕で
 また「命令を下す者」「戦列、前線」で、
 この戦闘集団は高嶋宮で戦線の準備をしたのである。
 
 『日本書紀』が記す通り
 
 ここで軍備や兵糧を整えたのである。
 
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」
  ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-1」
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①-1」

 
  M.K記



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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(1)「神武東征」は「崇神東征」 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
(1)「神武東征」は「崇神東征」
 倭人伝の記述の様子によると、
 「倭王」が再び使節を送ったとの記述のある
 魏暦正始4年(243)から
 次の記述の正始8年(247)の4年のうちに
 卑弥呼は死亡したことになる。
 
 卑弥呼の死後男王を立てたが
 国中が服従しなかったので、
 また卑弥呼の一族の壹與(台与)という
 13歳の女子を王に立てたという。
 
 文章の流れからすると、
 その壹與(台与)が魏に使節を送ったのが
 正始8年(247)ということらしい。
 
 よってより正確な推測をすると、
 卑弥呼の死亡は
 紀元245年の前後合わせて3年の間だろう。
 
 「台与」はサンスクリット語の 
 duyo 〔第二の〕音写で、
 彼女を「第二代」の巫女として、
 連合国家が再構築されたものとみられる。
 
 しかし、この連合も3世紀の後半
 〔多分紀元270年頃〕から
 4世紀初めにかけての間に海外から
 武力侵攻して来た勢力によって壊滅させられ、
 邪馬臺国(邪馬台国)はじめ
 傍国諸国の独立も存続が
 あやうくなったものとみられる。
 
 吉野ヶ里遺跡の発掘・再現によって
 明らかになっている長大な「柵」は、
 その外圧から村落を守護するための
 大掛かりな構造物で、
 実際その外圧勢力と戦争を行ったのである。
 
 遺跡内に埋葬された長躯の遺体は
 その敵の犠牲となった者の死体である。
 
 その海外から侵攻し来た勢力とは
 「崇神天皇」及びその和名「御真来入日子印恵」、
 垂仁天皇の「伊久米伊理毘古伊佐知」に
 込められている
 「イリ:入・伊理」人の勢力である。
 
 「イリ」は Ellas 〔ギリシャ〕あるいは
   Ellan 〔ギリシャ人〕の音写で、
 この勢力の祖地が
 古代にエーゲ海を挟んだ東西の地方
 ギリシャにあったことを示している。
  M.K記

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第5章 養蚕と絹(7)伊都国の背景伊都国の背景〔「イト」の語義と由来 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
 (7)伊都国の背景伊都国の背景〔「イト」の語義と由来
 「伊都国」とは魏志倭人伝に記載された国名である。
 
 本書第2章「(5)伊都国」で述べた国である。
 
 前節「(6)」旧約聖書イザヤ書の地の果ての島々」に
 ヘブライ人が作った居留地〔国〕である。
 
 「伊都名」は『日本書紀』仲哀天皇8年に
 「伊覩」と表記されて登場している。
 
 「筑紫の伊覩県主の祖である五十迹手(いそとて)」 
 「~そこで五十迹手をお褒めになられて
   『伊蘇志』と仰せられた。
   そこで時の人は
   五十迹手の本土を名付けて伊蘇国といった。
   いま伊覩というのは訛ったものである。」
 
 この「五十迹手」とある
 「イソトテ」は IShT-YT〔差し出す・手〕で
 「(救いの)手を差し延べる」「~を援助する」。
 
 次の「伊蘇志」は「イソシ」で 
 IZZ の音写で「勇敢、力」ながら、
 ここでは
 「栄光、誉れ」の語義で「栄誉なことだ」となる。
 また「伊蘇」だけみると YShV (動詞形)は
 「入植地を作る」「開拓する」「定住させる」で、
 YShV (名詞形)は「入植地、定住地」となる。
 
 このように解釈してくると
 「伊覩・伊都」の「イト」は、
 離散したヘブライ人が各地に形成した
 「共同体」を表す IDH の音写と判断できる。
 
 しかし、
 その背景にはヘブライ人たちの重要な民族の由来を
 保証するための祈りがある。
 
 つまり IDH と表音が近似する YD があり、
 それは「記念物、記念碑」にして
 「証拠」「証左」が語義であることに係わる。
 
 その経緯を物語っているのが「ヨシュア記」で、
 その物語はかなり込み入っているので略記する。
 
 この「記念物」は
 ヘブライ人の人々がエジプトを脱出し
 カナアン地方などへ入植した後、
 その12支族のうち
 ガド族、マナセ族、ルベン族が
 エルサレムの祭壇とは別に祭壇〔石塚〕を造り、
 他の支族等と争いになりそうになったが、
 最終的にはヨシュアを中心とする他の支族が
 誤解を解いて納得した。
 
 ヨシュアはガド族などに
 「律法と戒め」の記念物を与えたと解釈され、
 ガド族等は
 それは紀元前8世紀のアッシリアへの捕囚や
 その後の放浪の間も彼らの象徴として保持しつづけ、
 「地の果て」にまでもたらし、
 時として石塚〔岩倉・岩山〕を造営したのである。
 
 その記念は彼等の最高に貴重な、
 しかし隠し通さなければならないものであった。
 
  ヨシュア記
  
  第22章10 
   ルベンとガドの人々および
   マナセの半部族は
   カナンの土地にヨルダン川の
   ゲリロトに着いたとき、
   そこに一つの祭壇を築いた。
 
   それは目立って大きい祭壇であった。
 
  第22章34 
   それでルベン族とガド族はその祭壇を
   「まことにこれは私たちの間で主が神で
    あるという証拠だ」と呼んだ。
    (日本聖書協会)
 
 この「証拠」あるいはミルトス社版が
 「証人」としているヘブライ語が ID である。
 
 この ID:証拠〔YDは証人〕こそ
 「伊都〔伊覩〕」の祖語であり、
 特にヘブライの12族のうちの
 ルベン族、ガド族 、マナセ族にとっては
 彼等がヘブライ〔イスラエル〕人の
 仲間であるとの証拠にして象徴なのである。
 
 「祭壇」人が
 ノミを入れた彫み石で組まれたものでない。
 
 自然の石を積み上げた石塚であった。
 
 倭人伝の伊都国の当該地が
 現福岡県の糸島市だとはすでに述べた。
 
 その市内西方「神在」の宮地嶽頂上に
 宮地嶽神社が鎮座しているが、
 その神殿の基壇は石組されたもので
 「石塚」を踏襲しているといってよい。
 
 因みに「宮地」の「ミヤチ」の祖語は MYTV で
 「最高のもの」「最良のもの」を表し、
 「証拠」に係るものが
 その昔奉祭されていたと解釈できる。
 
 これらが証明するところは
 「伊都国」が
 ヘブライ人たちの「居留地」
 だったということである。
 
 前市名であった
 「マエバル:前原」は MIBRA の音写で
 「渡し場」つまり「港」を表し、
 ヘブライ系海洋貿易商船が
 船付けした所となる。
 
 古代紀元前後の頃は玄界灘からの加布里湾が
 今よりずっと内陸まで入り込んでいて、
 「浦志」とか「泊」辺りまで海で、
 湾内は波も静かで船溜りとして
 適しい状況であった。
 
 和歌山県の(現)橋本市辺りは
 紀伊国の「伊都郡」であるが、
 郡内にある町名「九度山」は
 そのような山(岳)名もないことからしても
 「クドヤマ」はヘブライ語の KDYM の音写で
 「東の、東方の」の語義である。
 つまり当地が「東の伊都」との表れで、
 九州の伊都の勢力が
 東方へ伸張してきたことを示している。
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(6)旧約聖書「イザヤ書」の「地の果ての島々」 [日本創世紀]

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 日本創世紀
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《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
 (6)旧約聖書「イザヤ書」の「地の果ての島々」
 「イザヤ書」とは
 旧約聖書のうち預言書と称されるものの
 第5番目の書である。
 
 その内容は3部に分割することができ、
 これまで第1のイザヤ書
 〔第1章から39章まで〕は
 紀元前8世紀に著されたといい、
 
 第2のイザヤ書と称される
 第40章から55章までは
 紀元前550年頃の成立、
 
 第3のイザヤ書と称される
 第56章から66章は
 同じく紀元前515年頃の成立とされる。
 
 ここでは
 特に第2のイザヤ書と称されるもののうちの
 40章から49章までに注目する。
 
 この書は一般に預言書といわれ、
 神の啓示の記述となっている。
 
 しかし、
 その内容にバビロン捕囚事件や
 ペルシャのキロス王名など、
 記述年より後の事件の具体的な
 固有名詞が載っていることから、
 当該書が宗教書としても、
 諸事項(件)発生後に記録として
 留められたとする方が妥当性がある。
 
 これまでのヘブライ学者は
 「預言」との通称にとらわれ、
 それぞれ事件以前の成立とすることに
 こだわってきたのではないかと推測される。
 
 歴史研究家的視点からすると、
 そういう第2イザヤ書は
 紀元前2世紀の終末期から
 同1世紀に記録されたものと、
 少なくとも加筆されたものと考える。
 
 なぜならば、
 その頃西方〔ローマ帝国、地中海東岸〕と
 極東との交易網が
 西方諸国の人々にやっと認知され始めた
 証左がその内容に含まれているからである。
 
 その状況は前章で説明した。
 この第2イザヤ書に興味深い事項がある
 「島々」「地の果て」などがそれである。
 
 以下に注目すべき箇所を
 ミルトス社ヘブライ語聖書対訳シリーズの
 イザヤ書から日本語部分を転載する。
 
  第40章
    15 見よ、
      主は島々を細かいちりのように取り上げる
   28 主は、永遠の神、
      地の果てまで創造された方
 
  第41章
    1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。
      国々の民よ、力を新たにせよ。
    5 島々は畏れをもって仰ぎ、
      地の果てはおののき、
      共に近づいて来る。
    9 わたしはあなたを固くとらえ、
      地の果て、
      その隅々から呼び出して言った
 
  第42章
    4 島々は彼の教えを待ち望む
   10 新しい歌を主に向かって歌え、
      地の果てから主の栄誉を歌え、
      海に漕ぎ出す者、海に満ちる者、
      島々とそこに住む者よ
   12 主に栄光を帰し、
      主の栄誉を島々に告げ知らせよ
 
  第43章
    6 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う
 
  第45章
   22 地の果てのすべての人々よ
 
  第48章
   20 バビロンを出よ、
      カルデアを逃げ去るがよい。
      喜びの声をもって告げ知らせ、
      地の果てまで響かせ、届かせよ
 
  第49章
    1 島々よ、わたしに聞け、
      遠い国々よ、耳を傾けよ
    6 だがそれにもまして、
      わたしはあなたを国々の光とし、
      わたしの救いを
      地の果てまでもたらす者とする
 
  まず、この「島々」を日本聖書協会の
 「旧約聖書」は
 「海沿いの国々」と記している。
 「オックスフォード・ケンブリッジ版」は
  coasts and islands と記している。
 
 それに影響されたのだろう。
 それよりも古い King James Version は
 islands〔「島」の複数形〕とし、
 「島々」と同義である。
 
 ギリシャ語版を載せる
  The Septuagint with Apocryha においても
 νησοι〔nhsoi〕としνησος〔nhsos:島〕の
 複数形である。
 
 やはりヘブライ語版にあるAYYM「島々」というのが
 本来の表記であろう。
 
 また「地の果て」について各英語版とも
 end of earth とし共通している。
 
 この用語のうち「地」は
 ヘブライ語で ARTs で
 英語〔earth〕と近似している。
 
 「果て」はイザヤ書の各表記が
  KTsHT あるいは KTsHT で前者が原型である。
 
 「地の果て」表現は
 ユーラシア大陸の東端〔日本列島〕を想起させる。
 
 紀元前数世紀から西方の関心は、
 東方特に極東への関心が高くなった。
 
 紀元前4世紀の
 アレキサンダー大王の東征の目的は
 アジア〔ユーラシア〕の東端に
 辿り着くことであった。
 
  実際は中央アジアまでで終わってしまった。
 
 イザヤ書のいう「地の果て」は
 明らかにその「極東」をいったものと考える。
 
 そして「島々」とは
 日本列島の西部地域とすることができる。
 
 「果て」である KTsH には
 「端」のほか「はずれ」の概念もある。
 
 大陸から少々はなれていてもかまわないのであり
 「島々」とはその「地の果て」の「はずれ」に
 あるものとすることができる。
 
 イザヤ書はそこに国々があると知らせている。
 
 KTsH の発音は「クェツェエ」であったと考えられ、
 これは「クシュウ:九州」の祖語とみられる。
 
 「州」とは「国」である。
 
 「島々」とは
 日本の九州を中心とする
 諸島々を想定して言われたことになる。
 
 このヘブライ語の「果て」を原語とする地称が
 九州のシナ海〔日本海〕方面にはある。
 
 例えば鹿児島県加世田市名は
 KTsHT の音写であるし、
 串木野市名も KTsH-KNP〔果て-果て〕で
 「果ての果て」となり、
 いかにも「極地」らしい。
 
 長崎県の「口之津」も「クチノ」 KTsNI の音写で
 語義を同じくする。
 
 この「島々」の情報は
 イザヤ書第42章10に登場する
 「海に漕ぎ出す者」あるいは
 「海に満ちる者」と
 海洋航海に生きる交易商人たちが
 海路を経てもたらしたものとみられる。
 
 つまり、それらの記述は、
 その頃ヘブライ人の海洋商人たちが
 「地の果て:極東」へ
 達していたことを明白たらしめているのである。
 
 その続きに「島々とそこに住む者よ」と
 すでにそこに
 ヘブライ人が居住しているといっている。
 
 さらにそればかりでなく、
 第43章6の「地の果てから連れ帰れ」
 と述べていることからも同様に、
 「地の果て」には
 ヘブライ人がすでに居住していたといえる。
 
 それが「国々」である。
 M.K記

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