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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(2)岡田宮・多祁理宮・高嶋宮 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
 
(2)岡田宮・多祁理宮・高嶋宮
 太安麿が纏めた『古事記』の神武東征伝承には
 三ヵ所の行宮が上げられている。
 
 『古事記』はいう。
 
  竺柴の岡田宮に一年坐しき。
  亦其の國より上り幸できまして、
  阿岐國の多祁理宮に七年坐しき。
  亦其の國より遷り上り幸できまして、
  吉備の高嶋宮に八年坐しき。
 
 (a)岡田宮
 
 『日本書紀』には
 
 「天皇、筑紫國の岡水門に至りたまふ」とある。
 
 「岡水門」は
 現福岡県遠賀郡芦屋町芦屋の遠賀川の河口近い
 左岸に「岡湊神社」が鎮座しているので
 その付近を指す。
 
 「岡田宮」も同所近辺にあったことに間違いない。
 
 「岡田」との地称は
 芦屋の対岸浅川地内に字名としてあり、
 この台地がその行宮の地であったはず。
 
 川名も「遠賀」も「岡」と同様
 源語は「オカ」であっただろう。
 
 ギリシャ語の oxos で
 「乗物」ながらここでは「船」である。
 
 よって「岡湊」は「船の停泊地」となる。
 
 但し「岡田宮」名の「オカタ」は
 oxthe で「高み」「川岸」、
 oxthos はまた「川岸」「丘」の語義で、
 浅川の台地に妥当な呼称である。
 
 岡湊神社の上流に「島津」との地名がある。
 
 同称は平安時代の延喜式に
 駅名として載る「島門」の地であるが、
 「シマヅ」は thymazō の音写で
 「尊崇する、崇拝する」で、
 「シマト」はその名詞形の 
 thymaths で「尊崇者、崇拝者」となる。
 
 そして町名芦屋の「アシヤ」は
 osia〔神の掟〕に係わる
 osios〔敬神の、信心深い〕となる。
 
 これらの語義とこれらの語群は
 「東征」 勢力及びその次に続く
 行宮などに極めて重い意義を持つ。
 
 (b)多祁理宮
 
 『日本書紀』に
 
 「安藝國に至りまして埃宮に居します」とある。
 
 安藝國〔『古事記』では阿岐国〕は、
 広島市から西方の広島県域をいう呼称である。
 
 「埃宮」名の「埃」は「ほこり」の字義で、
 これは「エ」ないし「アイ」音の音写で、
 語義から
 この行宮の意義を考え出すには無理がある。
 
 「アイ」はこの東征勢力の言葉
 ギリシャ語に 
 ayo 〔叫ぶ、大声で呼ぶ〕があり、
 同語の音写である。
 
 なぜならば、
 『古事記』が記す「多祁理:タケリ」とは
 同義であるからである。
 
 同義を一字で表わせば「哮:たけり」であり、
 「たける」は「大声でさけぶ」である。
 
 同音もギリシャ語 
 theo-klytos,theo-kyteo の転訛で
 「神に叫びかける」
 「神に呼びかける、祈りを求める」となる。
 
 同類語 kaleo は「呼ぶ」ながら
 「神の名を呼ぶ、呼びかける」である。
 
 これらの用語は「神を崇拝する者」の行為で、
 岡田宮で説明した
 「島津」名の源語と同質である。
 
 安芸国地域内に「アイ」「エ」と訓める地称がある。
 
 広島市の西側廿日市市の「可愛」で
 地名および川名となっていて、
 伝統的には「かあい」ながら「エ」とも称した。
 
 多祁理[埃]宮は
 この海に接した区域にあったと限られる。
 
 「可愛」川の流域に現在「平良」との地区がある。
 
 その呼称は「ヘラ」で和名類聚抄には
 「種箆郷」とあるのに当たる。
 
 「タネヘラ」はギリシャ語
 tana-hrees〔長い橈の船〕に依る。
 
 Tana〔長い、延びた〕と 
 hrees、hris〔橈・櫂〕の合成語で、
 「(かあい)かい」と読んでいるのも、
 日本語に「カイ」「カヒ」と称する源語
 koppi〔橈・櫂〕と同義であるからである。
 
 「カイ」は「カヒ」である。
 
 〔長い橈の船〕とは
 戦さのための船で「軍船」を表わす。
 
 古代ギリシャなどの「戦さ船」は
 速度を速くするため橈で搬ぐ必要から
 多くの橈を備えた。
 
 それを二段橈船、三段橈船といい
 上下に搬手〔ほとんどが奴隷〕を
 段上に並ばせていた。
 
 しかもその橈は比較的長く、
 上段になれば
 海面に届かせるためさらに長かった。
 
 船形も長く細い垂型であった。
 
 これに対し
 商船は円く腹が孕んだ円形で
 風を利用した帆船である。
 
 その軍船のうちの最も大きなものは
 三段式橈である。
 
 廿日市市内に「安品:阿品」との地称がある。
 「アジナ」というが、
 これはギリシャの戦いの女神 
 Athina〔アテネ神〕名で、
 この勢力は「戦い」ながら移動する、
 つまり
 「征服を行いながら東へ征して行く」
 戦闘軍事勢力だったのである。
 
 安品:阿品地区の東方に「佐方」地域がある。
 この「サガタ」は 
 thagatir の音写で「娘」が語義である。
 
 英語の daughter と同じである。
 「娘」とは「処女」で、
 アテネ神が「処女神」として知られるのに
 相応している。
 
 (c)高嶋宮
 
 『日本書紀』に
 
  「吉備國に徒りて入りましき。
   行館を起りて居ます。
   これを高嶋宮と曰ふ。
   三年積る間に舟檝を脩へ、
   兵舎を蓄えて将に天下を平けむと欲す」
 
 とある。
 
 吉備国は
 広島県の東部と岡山県の岡山市辺りから
 西部の地域である。
 
 「東征」の勢力集団は
 「(b)多祁理宮」で解釈したように
 軍船〔多分複数〕を備えた軍団で、
 その軍船によって瀬戸内海の北側を
 徐々に征圧を繰り返して移動したのである。
 
 高嶋宮のあったところはどこかであるが、
 そこは
 岡山県邑久郡宮村藤井の
 「宮城山」と解釈される。
 
 「宮城」名自体、
 天皇が居られる居館〔行宮〕の呼称で、
 そこに鎮座する「安仁神社」は延喜式神名帳の
 備前国邑久郡に載る「名神大」社で、
 その訓に「アニ」とあり、
 ギリシャ語 
 ana 〔王、支配者、領主、指揮者〕であると
 解釈されるからである。
 
 「アニ」は"天皇"を指称するのに十分な理由となる。
 
 同神社近くに「大王寺」が建てられ、
 現在地名となって遺されている。
 
 宮城山は別称を「鶴山」という。
 
 その「ツル」は 
 thura、thuri〔宮城、宮殿〕の音写で、
 「宮城山」と合致する。
 
 安仁神社は「大王の宮城」を継承するものである。
 
 同神社の西方に「片岡」との地称があるが、
 その地区、水門湾の奥に
 水門町となっている地域は
 元「幸島」と呼ばれる島であった。
 
 付近に
 幸崎(こうざき)、
 幸田(こうだ)、
 神崎町(こうざき)との
 地名呼称があることから
 「幸島」も「コウシマ」と呼ばれたに違いなく、
 「高嶋」も「こうしま」にして「幸島」の異字であり、
 「高嶋宮」は「コウシマ宮」と称すべきである。
 
 「水門」は
 「(a)岡田宮」で紹介した「岡水門」にも関係し、
 そこが彼等の船団の停泊地であった。
 
 その当時の古代では、
 幸島が海中の島であったように、
 海が深く安仁神社の宮城山まで切り込んだ地形で、
 穏やかにして安全に船の停泊できる入江であった。
 
 安仁神社は通称として
 「久方(ひさかた)宮」と呼ばれてきた。
 
 この久は「クス」で「アニ(安仁)」と合成すると
 anaks となる ana と同義の「王、支配者」 である。
 
 また同社近く(西大寺一宮)に鎮座する
 滝神社の「タキ」は 
 tagi の音写でまた同義〔支配者〕で
 また「命令を下す者」「戦列、前線」で、
 この戦闘集団は高嶋宮で戦線の準備をしたのである。
 
 『日本書紀』が記す通り
 
 ここで軍備や兵糧を整えたのである。
 
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」
  ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-1」
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①-1」

 
  M.K記



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