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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(1)「神武東征」は「崇神東征」 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
(1)「神武東征」は「崇神東征」
 倭人伝の記述の様子によると、
 「倭王」が再び使節を送ったとの記述のある
 魏暦正始4年(243)から
 次の記述の正始8年(247)の4年のうちに
 卑弥呼は死亡したことになる。
 
 卑弥呼の死後男王を立てたが
 国中が服従しなかったので、
 また卑弥呼の一族の壹與(台与)という
 13歳の女子を王に立てたという。
 
 文章の流れからすると、
 その壹與(台与)が魏に使節を送ったのが
 正始8年(247)ということらしい。
 
 よってより正確な推測をすると、
 卑弥呼の死亡は
 紀元245年の前後合わせて3年の間だろう。
 
 「台与」はサンスクリット語の 
 duyo 〔第二の〕音写で、
 彼女を「第二代」の巫女として、
 連合国家が再構築されたものとみられる。
 
 しかし、この連合も3世紀の後半
 〔多分紀元270年頃〕から
 4世紀初めにかけての間に海外から
 武力侵攻して来た勢力によって壊滅させられ、
 邪馬臺国(邪馬台国)はじめ
 傍国諸国の独立も存続が
 あやうくなったものとみられる。
 
 吉野ヶ里遺跡の発掘・再現によって
 明らかになっている長大な「柵」は、
 その外圧から村落を守護するための
 大掛かりな構造物で、
 実際その外圧勢力と戦争を行ったのである。
 
 遺跡内に埋葬された長躯の遺体は
 その敵の犠牲となった者の死体である。
 
 その海外から侵攻し来た勢力とは
 「崇神天皇」及びその和名「御真来入日子印恵」、
 垂仁天皇の「伊久米伊理毘古伊佐知」に
 込められている
 「イリ:入・伊理」人の勢力である。
 
 「イリ」は Ellas 〔ギリシャ〕あるいは
   Ellan 〔ギリシャ人〕の音写で、
 この勢力の祖地が
 古代にエーゲ海を挟んだ東西の地方
 ギリシャにあったことを示している。
  M.K記

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