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岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①-1」 [日本創世紀]

日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 
《岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」》
 14.福山市内浦町田島 
 
 内浦に神武天皇滞在を伝える
 宮址の皇森神社がある。
 
 ここも高嶋宮址であり、
 しばらく滞在したと伝える。
 
 周辺に行幸伝承地が多く、
 滞在期間は長かったと思われる。
 
 15.福山市田尻町 
 
 田尻町にある高島は
 現在は半島部になっているが
 昔は島であった。
 その南端部に八幡神社があり、
 高島宮址の石碑がある。
 
 しかし、宮址は少し北の宮原の地と伝える。
 
 昔橿原神社があったそうであるが
 八幡神社に合祀されたそうである。
 
 ここも滞在期間が長かったようである。
 
 ここに滞在中出雲との往復をしているようで、
 内陸部に入り庄原市の葦嶽山で祭祀をし、
 使者を出雲の言代主命に挨拶に遣わした。
 
 神武天皇自身は高野町にも伝承地があり、
 高野町を越えて出雲往復をしたものと
 考えられる。
 
 この後、
 岡山県笠岡市や岡山市の高嶋宮にも滞在し、
 大和に向かった。
  
 このように神武天皇は
 広島県にかなり多くの伝承を残している。
 
 滞在の順番は方向性を考えながら
 推理したものである。
 
 すべてが真実とはいわないが、
 真実の要素はかなりあるのではないかと
 思っている。
 
 はっきりわかることは、
 一般には武器調達とか
 大和の様子見とか言われているが、
 これほど方々にしかも
 長期間滞在するというのは
 そのような理由によるものではないこと
 を示している。
 
 この滞在の理由をここでは考えてみたい。
 
 「島県内の九州系遺物 」
 
 広島県地方には後期中葉あたりから、
 畿内系土器に混じって、
 大分系土器が出土するようになる。
 
 さらに、
 九州地方に限られていた九州系の鉄器が
 この地方のみに出土するのである。
 
 大和朝廷成立と前後して
 大分県地方からの人々の流入が
 あったことが推定される。 
 
 大分系土器は、
 三原以西の沿岸地方を中心に分布し、
 北部や東部には見られない。
 
 継続がなく、しばらくすると出土しなくなる。
 
 一方、
 畿内系土器は、
 ほとんどの地域に分布するがその数は少ない。
 
 そして、
 出土は時期的に限られたものではなく、
 恒常的で、古墳時代以降にも継続している。
 
 いずれの土器も
 在地系土器と混在する形で出土している。
 
 これは畿内系と違って、
 大分系の人々の流入は
 一時的なものと判断される。
 
 そして、
 土器が在地系と混在していることは
 共に在地の人々と
 共同生活をしたことを意味している。
 
 これは共通の精神基盤がなければ
 不可能なことである。
 
 共に、大和朝廷によって統一され、
 スサノオを最高神として
 崇めていたためにできたのではあるまいか。   
 
 大分系土器は、
 出土地域が限定されていること、
 九州系の鉄器が同じように出土していること、
 時期的に限定されていることから、
 鉄生産を目的とした
 大分県地方からの集団移住と
 とらえることができる。 
 
 また、
 後期中葉に広島県地方に
 九州のAタイプの槍鉋の出土が見られる。
 
 地域は大分系土器の出土領域と重なっている。
 
 大分系土器を持ち込んだ人々が
 槍鉋を持ち込んだと思われる。
 
 「市杵島姫」 
 
 大分県の宇佐地方で
 スサノオとムカツヒメの子として
 生誕した三娘のうち、
 市杵島姫の伝承が広島県下に残っている。
 
 栗原基氏著
 「新説日本の始まり」によると
 広島県高田郡向原町の
 大土山に住んでいた市杵島姫の子供が
 行方不明になったのをきっかけとして、
 
 向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→
 東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→
 東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→
 生口島→
 大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→
 江田島町伊関→廿日市市宮内→
 大竹市→宮島町と転々と移動している。
 
 この滞在の地には
 いずれも厳島神社が存在している。
 
 そして、
 この転々としている領域と
 大分系土器の出土する領域が
 一致しているのである。
 
 市杵島姫がその一族と共に
 大分から広島へ
 移住してきたものと考えられる。
 
 「女王アマテラス」によると、
 市杵島姫は九州へ住んでいたころ、
 ニギハヤヒの子である
 サルタヒコと結婚していた。
 
 サルタヒコが出雲統治に行った後、
 広島県地方に移ったのではあるまいか。
 
 大分県地方から瀬戸内海を渡って、
 広島県地方に上陸するコースを考えてみると、
 崖が迫っているところは上陸しにくいので、
 広島湾に入り込み、
 そこから三篠川に沿って
 上流に移動することが考えられる。
 
 川をさかのぼっていくと、
 その先に大土山がある。
 
 大土山のある向原町には、
 水田の跡と考えられる伝承地が点在している。
 
 この伝承地は
 神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、
 神武天皇の行動と内容が
 よく似ている伝承もある。
 
 また、
 厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われるが、
 市杵島姫を祀っているのも事実である。
 
 この二人に深い関連性を見ることができる。
 
 市杵島姫と神武天皇は
 同時に広島へやってきたのではないかと
 考えている。
 
 「神武天皇安芸国および
  吉備国長期滞在の理由」 
 
 神武天皇の伝承地の集中度を調べてみると、
 よく言われている
 府中町の多家神社周辺ではなく
 福山市周辺である。
 
 多家神社の埃宮と
 福山市周辺の高嶋宮がそれに該当する。
 
 岡山県下にも高嶋宮跡があるが、
 伝承の集中度では福山市が圧倒している。
 
 伝承が多いところに
 長期間滞在したと判断してよいと思われる。
 
 また、
 その間でも方々に
 長期間滞在しているようである。
 
 何のためにこんなに方々で
 滞在したのであろうか。
 
 滞在地の何箇所かで
 巨石祭祀をしているのである。
 
 大規模な巨石を用いており、
 神武天皇と同行している人々だけの力では
 これだけの祭祀施設を作るのは
 無理ではないかと思われ、
 さらに、
 瀬戸内沿岸地方は神武天皇の所属していた
 西倭でも合併する日本国でもない、
 出雲国の支配する東倭に所属する地域である。 
 
 また、
 広島県北部に残る神武天皇関連の伝承は
 比婆郡西条町高の今宮神社の伝承や
 庄原市本村の葦嶽山に伝わるものなど、
 出雲との交渉を示すものがある。
 
 出雲との交渉が
 滞在目的のひとつであったのは
 間違いがないであろう。 
 
 これらから判断して
 この地域の人々を味方につけるために
 神武天皇は
 各地に長期間滞在したのではないかと
 考えるのである。
 
 何のために
 この地域の人々を取り込む必要があったのか。
 
 合併後の大和朝廷の政治に目を向けてみると、
 大和朝廷は海外からの技術導入に
 力を入れなければならず、
 そのためには北九州主要部(伊都国)は
 重要拠点となる。
 
 実際に
 伊都国は後期中葉以降畿内系土器が
 集中出土するようになり、
 方形周溝墓も出現するようになる。
 
 考古学的視点に立っても
 大和朝廷は
 北九州主要部を重視していたことは
 明らかである。
 
 朝廷のある大和から
 伊都国との交流が大切なものとなるが、
 その経路上のほとんどの地域は
 東倭に所属しているのである。
 
 このままでは朝廷成立後の日本国の運営に
 大きな支障が出ることは
 誰の目にも明らかである。
 
 神武天皇としては、
 この状態は何とかしなければと
 考えたに違いない。
 
 どうすれば解決するのであろうか。
 
 一番よいのは
 瀬戸内海沿岸地方を
 東倭から譲り受けることである。
 
 そのために選ばれたのが
 広島県地域ではないのか。
 
 このように考えると
 神武天皇の行動は自然なものとなる。 
 
 この仮説を別方面から
 検討してみることにする。
 
 まず、
 後期中葉の広島県下の土器に変化が
 起こっている。
 
 後期初頭までは
 出雲系土器がまばらに出土していたが、
 後期中葉になると出雲系土器が消滅し、
 
 変わりに畿内系土器の出土が始まるのである。
 
 隣の岡山県や島根県地方には
 この傾向が見られないことから
 広島県地方のみの傾向である。
 
 これは、
 出雲から広島県地域が
 朝廷支配地域になったことを意味している。
 
 しかし、
 朝廷支配地域に出現する
 方形周溝墓が出現せず、
 また、
 出土する畿内系土器は祭祀系土器ではなく、
 日常生活用土器である。
 
 これは
 出雲から広島県地域を譲り受けるときに、
 祭祀をしないという条件があったものと
 考えれば説明がつく。
 
 出雲はスサノオ祭祀をしており、
 日本国はニギハヤヒ系祭祀であるから、
 出雲がそれに抵抗を示すことは
 当然考えられるのである。
 
 伝承では
 言代主は神武天皇からの使者の言葉に
 一度は怒り追い返しているのである。
 
 その後使者の言葉を受け入れている。
 
 もし、
 神武天皇が日本国におもむき、
 西倭との合併の挨拶だけであれば、
 神武天皇が
 日向を出発する前に
 話がついているのであるから
 言代主が怒るはずがない。
 
 広島県地域を譲れという
 思いがけない言葉に怒ったのである。
 
 市杵島姫による説得が功を奏して、
 言代主も納得し宝剣を渡したものと
 考えられる。 
 
 神武天皇が
 福山市周辺で長期間滞在したのも説明がつく。
 
 後期初頭までの出雲系土器がよく出土するのは
 北部地域と芦田川流域である。
 
 この地域をつなぐと、
 瀬戸内海沿岸地方と出雲との交易ルートが
 浮かび上がってくる。
 
 福山周辺の伝承でも、
 スサノオは出雲の斐伊川の川上から
 福山周辺にやってきたことが伝えられている。
 
 出雲と、
 瀬戸内海沿岸地方との交易ルートは
 この経路であることがわかる。
 
 神武天皇がこの地域に長期滞在をし、
 さらに巨石祭祀を行なっているのは
 この地域の人々の心をつかむのと、
 出雲との交渉のためと考えられる。 
 
 そこで、
 交渉の代表者として登場するのが
 市杵島姫となる。
 
 彼女はこの当時生存していた
 数少ないスサノオの娘である。
 
 さらに、
 出雲のサルタヒコは北九州にいたとき、
 この市杵島姫を妻にしていたのである。
 
 出雲の言代主にとって、
 頭の挙がらない人物の一人であろう。
 
 神武天皇もそれを計算して
 宇佐から彼女を同行させたと考えるのである。 
 
 このように考えると、
 神武天皇の長期滞在理由、
 土器の出土状況、
 市杵島姫の広島への移動すべてが
 説明できるのである。
 
 東倭から譲り受けた後の広島県地域は
 市杵島姫が統治していたものと考えられる。
 
 市杵島姫の伝承地が
 転々と移動しているのも地域を
 まとめるためと考えられ、
 大分系土器が出土するのも
 そのためと考えられる。 
 
 安芸国に滞在しているときに、
 出雲国との交渉によって、
 安芸・備後(現広島県)を
 東倭から譲り受けた後の経路については、
 神武天皇が大和で即位した後の
 北九州との航路を安定化するために
 要所となるところに寄港地を
 作るために方々に
 滞在していたのではあるまいか。
 
 磐田山の天津磐境は
 航海の安全を祈る祭祀施設かもしれない。
「後の滞在推定値」 
 
 福山市田尻町の高島宮址を出航した、
 神武天皇一行の
 その後の立ち寄り地を探ってみることにする。
 
 大阪湾岸に到達するまでに、
 以下のような伝承地が存在している。
 
 1.岡山県笠岡市高島 
 
 笠岡諸島のひとつの島である高島には
 高島神社がある。
 
 明治維新までは
 「神武天皇宮」
 「神武天皇社」
 と呼ばれて崇拝されていた。
 
 社は小さいが神武天皇が
 東征された際の仮宮である
 吉備高島宮の跡と言われている。
 近くの最長には高島遺跡が存在している。
 
 長期滞在には不向きと思われ、
 海が荒れたため立ち寄ったのではないだろうか。 
 
 2.児島湾に浮かぶ高島 
 
 児島半島はこの当時島であり、
 児島湾は東西に通じていた海峡であった。
 笠岡の高島を出航した神武天皇一行は
 この海峡に沿って東行し、
 旭川河口にある高島周辺で船を休めた。
 高島は大変小さい島で、
 児島湾上に浮かんでいる。
 
 この島及び児島半島の北岸に
 神武天皇が滞在したという伝承地がある。
 
 このような島に大人数が
 長期滞在するのは無理であるので、
 長期滞在地を探すために
 短期間滞在したのではないかと創造する。
 
 ここに滞在中、
 龍の口山の麓に長期滞在地を
 選定したものと考える。 
 
 3.岡山市賞田、龍の口山の南麓 
 
 岡山市市街地の北西部旭川のそばに
 龍の口山がある。
 
 その南麓に高島神社が存在し、
 神武天皇が滞在した址と伝えている。
 当時はこの近くまで海だったようで、
 児島湾の高島から
 この地に移ったと考えられる。
 
 大和へ向かう経路上より北へずれているため、
 長期滞在したのではないかと考えられる。
 この地より10kmほど南東に兄である
 五瀬命が滞在したと伝えられている
 安仁神社が存在している。
 昔はこの鶴山の麓まで海であったそうで、
 入江の奥の良港だった。
 
 後方の山には磐座や列石があり、
 古代の祭祀跡と見られるところに、
 神武東征の船の
 「ともづな」を掛けたといわれる
 「綱掛石神社」などがある。
 
 この安仁神社の地は
 神武天皇が龍の口山の高島宮に滞在中に
 五瀬命が滞在していたと推定する。 
 
 日本書紀から推定すると、
 ここを出発したのが
 AD81年7月下旬となる。
 
 4.兵庫県家島 
 
 神武天皇が東征の時、海があれ、
 嵐を避けるために家島に御寄港した。
 
 島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、
 まるで自分の家にいるようだったことから、
 「家島」と名づけられたと伝えられている。 
 
 家島は、
 古くは、国生みの島オノゴロ島、
 胞島(エジマ)と呼ばれていた。
 
 その後家島と呼び名を変え、
 瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、
 風待ちの非難港として栄えてきたとも
 いわれている。
  
 「播磨鑑」には
 次のような説話が伝えられている。
  
 「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、
  沖で釣をしていると、
  吉備水道を抜け出て来た船団が
  播磨灘に向かってやってきて、
  翁がこの海に関して詳しい事を知り、
  翁に道先案内を頼みました。 
 
  船団は、
  家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、
  食料の補充をして数年間がたちました。
  そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。
  難波について翁は手柄を褒められました。
 
  翁の亀は、忙しい主人をおいて、
  先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
 
 この話は
 神武天皇の東征時の説話といわれている。 
 
 神武天皇一行が高島を出航したのが
 戊午2月11日で、
 難波の白肩津に着いたのが3月10日なので、
 この間約15日(この頃の1ヶ月は15日と推定)。
 距離から考えて
 家島には五日ぐらい
 滞在したのではあるまいか
  M.K記

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