第5章 養蚕と絹(2)唐時代の「彌羅国の金蠶」
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日本創世紀
―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
(2)唐時代の「彌羅国の金蠶」
時代は大分後の唐代のことではあるが、
「社陽雑編巻上」作者:蘇鶚 唐
唐の時代の記述に次のようにある。
永泰元年東海彌羅國所貢。
云其國有桑、枝幹盤屈、覆地而生、
大者連延十數頃、小者蔭百畝。
其上有蠶、可長四寸、其色金、其絲碧、亦謂之金蠶絲。
...
永泰元年は8世紀の後半765年である。
「東海」は唐国からみて東シナ海から太平洋を指す。
「彌羅国」を考察すると、
2~4世紀頃の邪馬台国を想定した呼称で、
一般的に北九州を示していよう。
「彌羅」は「ミラ」で
サンスクリット語の meru の音写にして、
あの「スメル山〔仏教の須弥山〕」名である。
同記録は次いで
「その国に桑があって枝や幹は天に『盤屈覆地』」
とある。
それに続く記述は
その「桑樹」の大きいもの、小さいものの規模で、
その「高大さ」を表現している。
つまり、「桑樹」は jambu 樹の説明である。
続く記述は「其上有蠶、可長四寸」とある。
その桑樹には「蠶」がいて、その身長は4寸と説く。
つまり「養蚕」あるいは
「野蚕」の「絹虫」がいたというのである。
そしてその虫〔おかいこ〕の色が
「金」だといっている〔其色金〕。
さらに「其絲碧、亦謂之金蠶絲」とある。
「絲」とは「帛」つまり「絹糸」のことで、
その金蠶が出す「絹糸は碧色」で、
これを「金蠶絲」というとある。
「碧」は本来「青」であるが、
ここで推測されるのは「青紫色」であろう。
その背景も倭錦と係わるので後述する。
ともかく「彌羅國」は
邪馬台国由縁の「スメル」の地方から「絹」を
貢物として贈った〔所貢〕と記しているのである。
その絲:絹は極めて特徴のあるものだったのである。
M.K記
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第5章 養蚕と絹(1)倭人伝が記す倭の養蚕 [日本創世紀]
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日本創世紀
―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
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《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
(1)倭人伝が記す倭の養蚕
倭人伝は
「(倭人が)種禾稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」と記し、
倭においてその当時紀元2、3世紀において
養蚕が行われていたことを伝えている。
第2章で述べたとおり「蠶」は「蚕」の本当の用字で
「縑」は「絹の厚織り布」、
「緜」は「絹布あるいは絹糸」を表す。
また「正始4年(243)」に
八人の使節を魏へ派遣した際、
倭より「倭錦絳青縑緜衣帛布」を献上したとある。
「錦」は「絹織物」の呼称で、
それに「倭」を付して
「倭錦」としていることからすると、
「倭錦」とはシナ〔魏〕にはない
倭の特有な産品(絹織物)とみることができる。
続く「絳青の縑、緜衣、帛布」は
すべてこれも絹製品を表わす。
このように倭においては
単に養蚕が行われていたばかりでなく、
多様な製品を産んでいたのである。
それぞれには異なった加工技法が
用いられていたわけで
その程度もかなりの技術だったはずである。
特に「倭錦」には
当時の日本列島の国際性を
証す背景があるので後に述べる。