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邪馬台国の性格と卑弥呼(10)神武天皇勢力の東征経路3 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》
  (i) 太陽信仰は大倭経て東国へ
 
 『古事記』は
 「神八井耳命」の後裔として
 次のような族類を記載している。
 
 その名称の由来について
 確信のあるものには追記する。
 
  (1) 意富臣ー多氏<大和国十市郡飯富郷>
 
  (2) 小子部連
 
  (3) 坂合部連
 
  (4) 火君ー肥国<熊本県:肥後国>
 
  (5) 大分君ー<大分県>
 
  (6) 阿蘇君ー熊本県阿蘇郡
 
  (7) 筑紫三家連ー三毛郡・
     御木国<福岡県大牟田市>
 
  (8) 雀部臣
 
  (9) 雀部造
 
  (10) 小長谷造ー長野県長野市:長谷神社
 
  (11) 都祁直
 
  (12) 伊予國造ー伊予国<愛媛県>
 
  (13) 科野國造ー長野県
 
  (14) 道奥石城國造ー岩城<福島県>
 
  (15) 常道仲國造ーひたち那珂<茨城県>
 
  (16) 長狭國造ー長狭郡
 
  (17) 伊勢船木直ー三重県
 
  (18) 尾張丹羽臣ー丹羽郡<愛知県>
 
  (19) 島田臣ー海部郡島田<愛知県>
 
 このうち本書の
 「神武東征の経路」で述べた
 西日本域の関係は、
 
 (4) 火君、(5) 大分君、(6) 阿蘇君、
 (7) 筑紫三家連、(12) 伊予國造とある。
 
 しかし、
 その中で多いのは東国地域である。
 
 東山道を通って
 多神社奉祭の勢力はその勢力圏を伸張、
 あるいは移動した様子が
 これによって明白となっている。
 
 古代奈良時代
 8世紀前半まで東海道はなく、
 東国との交通は陸上の東山道が幹線であった。
 
 後裔のうち
 (13) 信野國造及び
 (10) 小長谷造に係わる
 太陽信仰について解いてみる。
 
 東山道が尾張国から神坂峠を越えて
 科野〔信濃〕へ入った所に
 「阿智」との地名がある。
 この「智」は「知恵」で
 サンスクリット語の一つ
 jināna が転訛して「シナノ」となった。
 
 この場合が「信濃」との表記になる。
 
 「信濃」との漢字表記は染色に使う
 「紫草の根子の産地」を示す。
 
 東山道は
 伊那谷から善知峠を越えて筑摩郡へ入った。
 
 その右側に東山と称した筑摩山地があり、
 現在の塩尻市から松本市へと
 街道は伸びていく。
 
 「筑摩」には太陽信仰に係わる
 地称が遺存されている。
 
 峠名
 「善知鳥」は鳥の名称ではあるが、
 その
 「ウトウ」は 
 utu〔太陽〕に依る。
 
 この峠から先
 太陽信仰の地だと知らせているのである。
 
 「筑摩」とは郡名であるが、
 やはり「筑摩山地:東山」がその起こりである。
 
 同名は
 「チクマ」と称するが、
 tigma〔熱ながら太陽〕の音写である。
 
 その取付けの麓は
 「片丘」という。
 
 「丘」は山地ながら
 「カタ:片」は 
 ketu〔光、光明〕で、
 筑摩山地が「光の丘」と示している。
 
 その光は隣の「広丘」名によって解釈される。
 
 「ヒローカ」は 
 viroka〔光輝、夜明けの光〕であり、
 東山に太陽が昇り日光が射し込む様子をいう。
 
 なにしろ
 その西隣り日本アルプスの山麓地域を
 「朝日」というのだから間違いない。
 
 「チクマ:筑摩」とは誠に
 「曙光」を指している。
 
 同語は大牟田市の
 「手鎌」の源語であると
 指摘した用語である。
 
 さらに「塩尻」名だが、
 「本塩尻」との地称が
 筑摩山地の南端諏訪盆地への峠近くにあり、
 本来その山地名に係わるとみられ、
 「シオジリ」は
 「ティティリ」で
 theothir〔女神〕を語義とし、
 太陽女神、
 つまり天照大御神を想定した名称である。
 
 同山地の北部は「美が原」高原だが、
 「美しい女」または
 「ウツシ-がはら」と
 utu-si〔太陽-輝く〕との
 太陽女神の形容によって始まったとみられる。
 
 松本市から東へ峠を越えて行くと
 千曲市(旧更殖市〔更級郡・殖科郡〕)へと至る。
 そこは「小長谷造」の地所で、
 「延喜式」神名帳信濃国更級郡に載る
 「長谷神社〔現長野市塩崎(村)長谷〕」に係わる。
 
 同社は「八聖神」という
 「神八井耳命」を祭神として奉祭している。
 
 その
 「オハセ」は
 obhasa〔光明、光輝〕で
 「ハセ:長谷」は
 bhasaで同義である。
 
 同神名帳更級郡には
 「日置神社」が記載されており、
 鹿児島県の日置郡と理由を同じくし、
 筑後国三毛郡日奉郷の祖地と
 同じくしていると覗われる。
 
 また
 「粟佐神社」ともあり、
 「アワサ」は
 abhasa〔光明、光輝〕の音写である。
 
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908  

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邪馬台国の性格と卑弥呼(10)神武天皇勢力の東征経路2 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (10)神武天皇勢力の東征経路
  (g) 加太・日前神社・国縣神社〔和歌山県〕
 
 淡路島の南部洲本市の由良からは
 和歌山県へ沖ノ島を過ぎればすぐである。
 
 その至近にある和歌山市の岬に
 「加太」はある。
 
 同地には
 「日野」「阿振」との地称がある。
 
 「アフリ」は 
 ahar〔日〕の音写で、
 「カタ」名も 
 ketu〔光、光明、光輝〕で
 太陽〔日〕神に因んでいる。
 
 和歌山市内の
 古社二社について考えてみる。
 
 「延喜式」神名帳
 紀伊国名草郡に記載されている
 日前神社と国縣神社の二社がそれで、
 前者の訓を付して〔高山寺本〕、
 「ヒノクマ」「ヒクマ」とあり、
 後者は「クニカカス」とある。
 
 両社とも名神大に列する優待社である。
 
 両社とも現在和歌山市秋月町に共に並んで
 鎮座しあっていて、
 合わせて「日前宮」と称している。
 
 ご祭神は
 「日前大神」「国縣大神」と称していて
 その実像がみえない。
 
 しかし、
 ご霊代(ご神体)として
 前者が「日像鏡」、
 後者が「日矛鏡」と
 「鏡」に係わっていることで理解される。
 
 和名類聚抄紀伊国名草郡には
 「国縣」の郷名がある。
 
 そこで両神社名を解釈すると、
 「日前」は「ニッサキ」で
 nih-sucyati〔輝く〕の意義で
 suci・sucyah が同類語である。
 
 「前」は「さき」で、
 大分県の国東半島名の
 
 「国サキ」呼称と同理由である。
 
 また
 「国縣:クニカカリ」の「国:クニ」は
 「国東」の「クニ」と同様「日光(太陽)」で、
 「カカリ」は 
 cakra〔円盤、輪〕の音写で
 「クニカカリ」は「日光(太陽)の円盤」で
 双方とも「鏡」を形像化した形容であり、
 「日輪」との称である。 
 
 『先代旧亊本紀』国造本記に
 「紀伊國造 橿原朝御世、
  神皇産靈命五世孫天道根命定賜國造」
 とある。
 
 「橿原朝御世」とは
 神武天皇の時代の意味で、
 同天皇が天道根命を
 紀伊国の国造に任命したとの説明で、
 天道根命が
 神武天皇勢力に
 親しい者であったことが知られる。
 
 その「道」名は興味深い。
 
 和名類聚抄筑後国三毛郡の郷名
 「十市」を
 サンスクリット語の 
 thi(r)tha〔聖地〕の音写と
 紹介したのと同時に、
 同語には「道、通」の
 語義があると紹介したが、
 この「道」が
 天道根命名となっていると解釈できる。
 
 つまり
 同命は邪馬台国に係わる一族で、
 太陽信仰者の仲間である。
 
 同地の伝承によると、
 鏡の製作に当り
 初めはあまり出来がよくなかったが、
 次に製作は鏡は良い品だったので
 天皇に献上して
 三種の神器の一つとなったという。
 
 その最初の出来のよくなかった鏡を
 保持奉祭しているのがここの神社だという。
 
 太陽信仰者たちは太陽の象徴として
 「円い鏡」〔日輪〕を
 製作しようとしたのであった。
 
 「紀伊国」はかって「木国」であった
 『古事記』孝元天皇記に
 「木国造祖宇豆比古」とある。
 
 天道根命の根幹が
 邪馬台国にあったのに対応する。
 「木国」は「御木国」にして
 jambu樹(木)の国を移転させた呼称である。
 
 「宇豆」はまた 
 ud〔太陽〕の意義で
 「ウズ比古」は「太陽信仰者」である。
 
 この「木氏」は後に「紀氏」となり、
 伏見稲荷大社〔京都市伏見〕の創始者となった。
 
 その稲荷大社の辺りには
 「紀伊郡」「宇治郡」が今に遺存されている。
 
  (h) 十市郡と多神社〔奈良県〕
 
 「延喜式」神名帳河内国高安郡に
 「天照大神高座神社二座、
 並大、元名春日戸神」とある。
 
 同社は
 現在大阪府八尾市枚興寺字弁天山の
 岩戸神社に比定されている。
 
 「高座」を訓んで「タカクラ」としている。
 この高座は、
 現状の神社名「岩戸」、あるいは
 同社の鎮座地が
 「弁天山」という丘陵にあることから、
 「岩倉」のことで、
 大牟田市八本町の岩倉が想定され、
 天照大神がそこに奉祭されていた傍証となる。
 
 付言にある「春日戸」は
 「カスカベ」で
 kasaku-abba〔太陽の光〕で「天照」に対応される。
 
 この「春日」名が奈良県磯城郡田原本町に鎮座する
 「多神社」の由来に重要な意義を持っている。
 
 同地は和名類聚抄大和国十市郡飯富郷の地である。
 
 前にも引用した平安時代末期の史料
 「和州五郡神社神名帳大略註解」によると、
 多神社の所在地は初め「春日県」といわれ、
 同社を「春日宮」といっていたとある。
 
 この春日は
 「カスカ」で明らかに
 kasaku〔太陽〕に依る呼称である。
 
 大略註解の中にある「多神宮註進帳」は
 「珍子聖津日靈神者春日郡
  宇豆御子神社同体異名」と
 その祭神が上記河内国高安郡の
 「天照大神高座神社」および
 「春日戸御子神社」と
 深い関係にあることを指している。
 
 この説明で、
 その祖地に「高座:岩倉」があり、
 太陽神が〔天照大神〕が
 そこに奉祭されていたことが指摘できる。
 
 「宇豆(御)子」「珍子」は
 すでに数回解釈したように
 utu-si・ud-si〔太陽・光る〕に依っている。
 
 邪馬台国(大牟田市八本町岩倉)に奉祭されていた
 「太陽神」が東遷してきて
 この奈良県の十市郡(旧称)に
 祭場を設けられたのである。
 
 八本町に伊勢神宮を遷座したとの解釈ではなく、
 大神宮との神社であって、
 そこから東方へ次第に太陽信仰を波及させて
 渡来したと解釈するのである。
 
 (現)橿原市十市町に
 「十市御県坐神社」がある通り、
 春日郡は後に「十市県」となった。
 
 その大牟田市内から奈良県へ遷されたのである。
 
 橿原市、田原本町などの一帯には
 「春日神社」が多く散在する。
 
 それらの本社は多神社であり、
 同社の威勢が古代において
 大いに盛んであった証しである。
 
 その威勢は『古事記』に
 第一代神武天皇から第八代孝元天皇に
 記述されるほどに及んで、
 その和名に「大倭」との用語が
 付されることになったのである。
 
 「大倭」は「オウワ」にして
 obhasa あるいは 
 ābha〔光、光明〕に依るもので
 「太陽の光」との表現である。
 
 天照大神は、
 天皇の奉祭する主祭神として
 「宮中」でも鎮座していたのである。
 
 しかし、
 第十代崇神天皇の奈良盆地に
 到来した事変により、
 "ガラ"と様相は変わり、
 天照大神は大国魂神ともども
 宮中から放りだされてしまった。
 
 さらに奈良時代になって
 天武天皇の伊勢に鎮座していた神宮への
 強い奉祭意識から
 皇室主導の重層な祭儀が成立され、
 邪馬台国を祖地とした太陽信仰など
 遠くへ追いやられてしまい、
 その来歴は表面舞台から
 摩擦状態となってしまったのである。
 
 ただ、
 天照大神が伊勢〔三重県〕に鎮座地を
 最終的に得られたのは、
 そこに多氏同様古くから
 天照大神の信仰集団のうちの
 族類がいたからである。
 
 その仲間とは
 宇治土公氏で
 「ウジドコー」は
 ud-du-ka〔日が昇る-迎える(呼ぶ)〕と
 「日が昇るのを迎える」の語義を支族とする、
 太陽の御来光〔迎〕を大事にした人々である。
 
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908  
 

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邪馬台国の性格と卑弥呼(10)神武天皇勢力の東征経路1 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (10)神武天皇勢力の東征経路
 
 
 『記・紀』が記す「神武天皇の東征」
 
 岡田宮、多祁宮理宮、高嶋宮と
 瀬戸内海の北岸に行宮を設けながら
 東征する経路は神武天皇勢力の事跡ではない。
 
 その文化遺存などから解釈すると全く
 別の勢力の行程である。
 
 その大要は本書第6章で解説する。
 
 神武天皇の族類の東漸は、
 そう急激な前進を目論んだものではなく、
 紀元1世紀頃から徐々にその仲間、
 つまりインド・アーリア系の人々が
 太陽信仰を主柱にして移って
 行ったのが本当だろう。
 
 そうでなければ
 その経路に色濃く彼等の文化を
 遺存させていくはずがない。
 
 この伝承には「天孫降臨」の関連づけも
 考慮しておかなければならない。
 
 まずその「天」との概念を
 邪馬台国の当該地に確認しておきたい。
 
  (a) 高天原:天界
 
 大牟田市南部に「諏訪」あるいは
 「天領」との地称があり、
 これらは jambu-dvipa のある
 svarna-bhumi に係わる名称と紹介した。
 
 その 
 svar または suvar は「天空」とともに
 「太陽、日光、光輝」を表わす。
 
 つまり「天界」である。
 
 「高天原」はアズミ族の言葉で 
 an-mah〔天-高い〕を漢字表記したもので
 「アマ〔天〕」のことである。
 
 『隋書』倭国伝、『唐書』に
 「倭王姓阿毎」とある「阿毎」で、
 天皇一族の氏姓と表記されている。
 
 その一族は 
 suvar/jamibu-dvipa に縁のある一族である。
 
 
  (b) 日置郡・姶良郡〔鹿児島県〕 
 
 『日本書紀』の神武東征段に
 「日向国の吾田邑の吾平媛を娶る」とある
 「吾田邑」は現在の鹿児島県日置郡金峰町に
 「阿多」とある同地を指す。
 
 郡名「日置」は前に述べた
 三毛郡郷名「日奉」と同義で
 「太陽(日)を立て祭る」との意義である。
 
 「吾田(阿多)」は ed〔日が昇る〕、
 サンスクリット語になった 
 aidha〔光輝、炎〕の音写である。
 
 また「吾平媛」の「アヒラ」 はこれまで
 「大孁女」の祖語として紹介した
 「日、昼」を語義とする ahar である。
 
 日置郡は
 鹿児島県薩摩半島の西側東シナ海沿いに
 かなり広い地域に亘っている。
 
 その日置郡の東側に接して
 鹿児島湾を囲むように姶良郡がある。
 
 「姶良」は「アイラ」あるいは
 「アヒラ」で「吾平」と祖語を同じくする。
 
 また鹿児島名の「カゴシマ」は 
 kug-za-ma〔輝く(照らす)-国土〕の音写で
 「国を照らす」である。
 
 鹿児島市の中央に
 「照国神社」が鎮座していて、
 その名称と意義が同一である。
 
 同社の背後の「城山」の「シロ」もやはり 
 sir〔光〕、
 また少々南方の高麗も 
 gaura〔光〕で同義である。
 
 この高麗との地称があちこちにあるが、
 ほとんどが
 高句麗や高麗という韓半島の国名とは関係ない。
 
 因みに
 「薩摩:サツマ」は 
 sa-dhama の音写で
 「煙に包まれた」との語義で、
 桜島、霧島など活火山の噴煙で覆われる
 環境を言ったものである。
 
 姶良郡の隼人町に
 鹿児島神宮、卑弥呼神社が並んで鎮座する。
 
 大牟田市の邪馬台国の「天界」を出た
 人々の意識に卑弥呼があったことの証明である。
 
 周囲には
 朝日、内、宇都山、日当山といった地称がある。
 
 「ウチ、ウツ」は utu、ud〔太陽〕に依る。
 
 また同地には大孁女神社があり、
 伝承には時代的ずれはあるが、
 「阿比良女」との古い物語に係わっている。
 
  (c) 日向・鵜戸神宮〔宮崎県〕 
 
 『日本書紀』にもあった
 「日向国」名の「ヒウガ」は
 本来 
 pa-ug〔呼ぶ-太陽〕で 
 「日を迎(向)える」の意義で、
 宮崎県の東岸で日の出を迎えるのに
 相応しい太陽信仰の名称である。
 
 pa が「ヒ」となったのは漢字に
 「日〔ひ〕」が採られたからだろう。
 
 その日向灘日南海岸〔宮崎市鵜戸山〕に
 「鵜戸神宮」が鎮座する。
 
 同社は太陽信仰の宮である。
 
 鵜戸の「ウド」は ud〔太陽〕で、
 周囲の山の総号を「吾平山」という。
 
 「吾平」は
 鹿児島県の(b)での同語で明らかである。
 
 さらに
 同宮の本殿などが深い赤色(丹)に塗られており、
 誠に彩りとしても太陽の装いを呈している。
 
  (d) 宇佐・宇佐神宮〔大分県〕
 
 『古事記』の「東征」段には
 「到豊国宇沙」とある。
 
 「豊国」は
 福岡県・大分県の
 瀬戸内海側の一帯の地称である。
 
 「宇沙」は現在「宇佐」と表記されている。
 
 宇沙においては神武天皇は
 「大御饗」を以って歓待される。
 
 その「ウサ」は
 サンスクリット語の 
 ush〔早朝〕にて「暁」を表わす。
 
 同類語 ushas も「朝、暁」ではあるが、
 「曙光の女神」である。
 
 このウシャス神は日の出前に
 二頭立ての馬車に乗ってやってくる。
 
 同地の「宇佐神宮」には
 本来このウシャス女神が
 まず奉祭されたはずである。
 
 なにしろ本殿はじめ社殿は
 朱色〔曙の色〕に塗られている。
 
 鵜戸神宮の習いと同じである。
 
 しかも
 同宮のご祭神は主神の中央を
 「比女大神」となして
 両側に二神が座している。
 
 この配神は明らかに
 中央がウシャス女神、
 両側をアシュビン双神
 〔二頭立ての馬車の馬〕で
 固めた構図である。
 
 「比女」は「姫」にして女神で、
 太陽の昇る前を先導する司である。
 
 同神宮に古い三像一組の木像が
 幾組か作られ遺されてるが、
 必ず女神像含まれ三神が一体である。
 
  宇佐神宮から東へ連なる国東半島の
 「クニサキ」は 
 gh(r)suci〔日光の輝き〕が語源である。
 
 「国東」との表記は
 和名類聚抄には「国前」とある。
 
 「国:クニ」が「日光」であるから
 「クニ東」は
 「太陽を奉祭する神宮の東方」との
 意義が含められている。
 
 また「国前」は「日光の前」で、
 宇佐神宮をの祭神
 「ウシャス神〔曙〕」を
 指すと解釈される。
 
 さて、
 『記・紀』が記す
 神武東征の経路のうち
 これを
 太陽信仰集団と解釈した場合、
 「宇佐」までの行程は
 『記・紀』に間違いがないが、
 その後の経路は
 『記・紀』の記載とは全く違う。
 
 またその移転の様子は、
 集団的威力を一時に集中して
 急激に侵攻して
 行くなどというものではなく、
 徐々にその影響を及ぼし、
 各地で受け入れられて
 信仰圏が定着拡大しつつ
 東漸したとみられる。
 
 その経路には太陽信仰が
 今でも色濃く遺存されている。
 
  (e) 伊予〔愛媛県〕
 
 さて、
 神武天皇勢力の東漸経路は
 『記・紀』の記述行程とは
 ここから違っている。
 
 つまり
 太陽信仰を主体とした勢力は
 豊与海峡を越えて
 四国へ遷っているのである。
 
 そこは伊予国〔愛媛県〕で、
 
 国東半島の東方に位置する。
 「伊予」名は
 佐田岬に「伊方町」とあるように
 本来「伊」だけで、
 その「伊」は「日が昇る」の 
 e の音写である。
 
 宇佐から「日が上がる:i」方向が
 「伊方」なのである。
 
 愛媛県大洲市内には
 宇佐神宮の神社とともに
 「宇都宮神社(大洲市五郎)」とある。
 
 同名は「太陽の宮」であり、
 「五郎」は 
 gaura〔光〕に依る。
 
 「大洲」名の「オウス」も
 「宇佐」と同根の
 ush〔暁〕あるいは 
 obhasa〔光明〕の転訛であろう。
 
 同地は和名類聚抄
 伊予国の喜多郡の地であった。
 
 喜多の「キタ」は 
 ketu〔光、光明〕で
 大洲市内に喜多山とある。
 
 その近くにある
 春日神社の「カスカ」は
 kasaka〔太陽〕の音写で、
 この地方にある同名社は
 ほとんどその理由に依ろう。
 
 喜多山の東隣りの町名になっている
 「内子」は現在「うちこ」だが、
 本来
 「ウツシ」で 
 utu-si〔太陽-光る〕で
 天照大神の項で述べた
 「珍子」と同根である。
 
  (f) 阿波国・吉野・美馬〔徳島県〕
 
 愛媛県から東方へ向かうと
 徳島県の西方の山間部へと至る。
 
 同県内にも太陽信仰の遺存がみられる。
 
 その阿波国名の
 「アワ」は
 abha〔光輝、光、美〕の音写である。
 阿波国を東流する大きな川の名を
 「吉野川」という。
 同表記は佐賀県の吉野ケ里遺跡同様
 「よしの」と称されている。
 
 しかし、
 これは本来「キーノ」で、
 ここでは
 gh(r)na〔日光、熱〕の音写である。  
 
 阿波は国名だけでなく郡名として
 和名類聚抄に載っている。
 
 現在の阿波市の西側に美馬市がある。
 
 「美馬郡」も和名類聚抄に記載されている。
 
 同名は現在「みま」と称されているが、
 始まりは 
 vana〔美しい女〕で「美しい女神」、
 つまり
 太陽神あるいは曙神をいったものだろう。
 
 阿波市内には
 「大俣」との地称もあり、
 大牟田市名として紹介した 
 aum(r)t〔女神〕 の音写で
 「美馬」に係わる。
 
 徳島県の鳴門市からは
 兵庫県の淡路島が極く近い。
 
 同地を和名類聚抄は
 紀伊国淡路郡と載せており、
 平安時代初めには
 紀伊国<和歌山県>に属していたようだ。
 
 その
 「アワジ」は 
 abha の同類語 
 abhasa〔光、光沢〕の音写で
 太陽信仰の進む「路:道」となす。
 
 というのも
 同地の南端から紀淡海峡を隔てて
 和歌山市の加太が目先にあり、
 その経路を指差している。
 
 M.K記
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邪馬台国の性格と卑弥呼 (9)神武天皇勢力の祖像 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (9)神武天皇勢力の祖像
 
  神武天皇出自の族類は多氏である。
 「多」の呼称「オホ」は 
 aha〔サンスクリット語、アズミ族の言葉 au日、昼 〕
 が祖語で太陽信仰の一族である。
 
 その祖地は邪馬台国、
 和名類聚抄の筑後国三毛郡の
 日奉郷・十市郷が祖地である。
 
 大牟田市の八本町〔岩倉〕周辺である。
 
 なにしろ
 「神武」の祖語を 
 jamubu-dvipa〔邪馬台国〕の
 jamubu と考えるので、
 その系譜はインドの「日種」と通称される
 太陽信仰を象徴としている。
 
 卑弥呼の一族の同族類ではあるが、
 しかし同じ頃には仲間が
 「東征」を初めていて
 大和盆地〔奈良県〕に
 到着していた可能性がある。
 
 ともかくその名称が『古事記』で
 神武天皇から始まる天皇の
 和名構成名称に多い「大倭」で、
 これを読むと「オホイ」で「オホワ」とも読め、
 「多:aha」と関連する用語 oubhas あるいは
 abh〔光輝、光、美〕と、太陽の光に係わる。
 
  M.K記
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