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邪馬台国の性格と卑弥呼(10)神武天皇勢力の東征経路2 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (10)神武天皇勢力の東征経路
  (g) 加太・日前神社・国縣神社〔和歌山県〕
 
 淡路島の南部洲本市の由良からは
 和歌山県へ沖ノ島を過ぎればすぐである。
 
 その至近にある和歌山市の岬に
 「加太」はある。
 
 同地には
 「日野」「阿振」との地称がある。
 
 「アフリ」は 
 ahar〔日〕の音写で、
 「カタ」名も 
 ketu〔光、光明、光輝〕で
 太陽〔日〕神に因んでいる。
 
 和歌山市内の
 古社二社について考えてみる。
 
 「延喜式」神名帳
 紀伊国名草郡に記載されている
 日前神社と国縣神社の二社がそれで、
 前者の訓を付して〔高山寺本〕、
 「ヒノクマ」「ヒクマ」とあり、
 後者は「クニカカス」とある。
 
 両社とも名神大に列する優待社である。
 
 両社とも現在和歌山市秋月町に共に並んで
 鎮座しあっていて、
 合わせて「日前宮」と称している。
 
 ご祭神は
 「日前大神」「国縣大神」と称していて
 その実像がみえない。
 
 しかし、
 ご霊代(ご神体)として
 前者が「日像鏡」、
 後者が「日矛鏡」と
 「鏡」に係わっていることで理解される。
 
 和名類聚抄紀伊国名草郡には
 「国縣」の郷名がある。
 
 そこで両神社名を解釈すると、
 「日前」は「ニッサキ」で
 nih-sucyati〔輝く〕の意義で
 suci・sucyah が同類語である。
 
 「前」は「さき」で、
 大分県の国東半島名の
 
 「国サキ」呼称と同理由である。
 
 また
 「国縣:クニカカリ」の「国:クニ」は
 「国東」の「クニ」と同様「日光(太陽)」で、
 「カカリ」は 
 cakra〔円盤、輪〕の音写で
 「クニカカリ」は「日光(太陽)の円盤」で
 双方とも「鏡」を形像化した形容であり、
 「日輪」との称である。 
 
 『先代旧亊本紀』国造本記に
 「紀伊國造 橿原朝御世、
  神皇産靈命五世孫天道根命定賜國造」
 とある。
 
 「橿原朝御世」とは
 神武天皇の時代の意味で、
 同天皇が天道根命を
 紀伊国の国造に任命したとの説明で、
 天道根命が
 神武天皇勢力に
 親しい者であったことが知られる。
 
 その「道」名は興味深い。
 
 和名類聚抄筑後国三毛郡の郷名
 「十市」を
 サンスクリット語の 
 thi(r)tha〔聖地〕の音写と
 紹介したのと同時に、
 同語には「道、通」の
 語義があると紹介したが、
 この「道」が
 天道根命名となっていると解釈できる。
 
 つまり
 同命は邪馬台国に係わる一族で、
 太陽信仰者の仲間である。
 
 同地の伝承によると、
 鏡の製作に当り
 初めはあまり出来がよくなかったが、
 次に製作は鏡は良い品だったので
 天皇に献上して
 三種の神器の一つとなったという。
 
 その最初の出来のよくなかった鏡を
 保持奉祭しているのがここの神社だという。
 
 太陽信仰者たちは太陽の象徴として
 「円い鏡」〔日輪〕を
 製作しようとしたのであった。
 
 「紀伊国」はかって「木国」であった
 『古事記』孝元天皇記に
 「木国造祖宇豆比古」とある。
 
 天道根命の根幹が
 邪馬台国にあったのに対応する。
 「木国」は「御木国」にして
 jambu樹(木)の国を移転させた呼称である。
 
 「宇豆」はまた 
 ud〔太陽〕の意義で
 「ウズ比古」は「太陽信仰者」である。
 
 この「木氏」は後に「紀氏」となり、
 伏見稲荷大社〔京都市伏見〕の創始者となった。
 
 その稲荷大社の辺りには
 「紀伊郡」「宇治郡」が今に遺存されている。
 
  (h) 十市郡と多神社〔奈良県〕
 
 「延喜式」神名帳河内国高安郡に
 「天照大神高座神社二座、
 並大、元名春日戸神」とある。
 
 同社は
 現在大阪府八尾市枚興寺字弁天山の
 岩戸神社に比定されている。
 
 「高座」を訓んで「タカクラ」としている。
 この高座は、
 現状の神社名「岩戸」、あるいは
 同社の鎮座地が
 「弁天山」という丘陵にあることから、
 「岩倉」のことで、
 大牟田市八本町の岩倉が想定され、
 天照大神がそこに奉祭されていた傍証となる。
 
 付言にある「春日戸」は
 「カスカベ」で
 kasaku-abba〔太陽の光〕で「天照」に対応される。
 
 この「春日」名が奈良県磯城郡田原本町に鎮座する
 「多神社」の由来に重要な意義を持っている。
 
 同地は和名類聚抄大和国十市郡飯富郷の地である。
 
 前にも引用した平安時代末期の史料
 「和州五郡神社神名帳大略註解」によると、
 多神社の所在地は初め「春日県」といわれ、
 同社を「春日宮」といっていたとある。
 
 この春日は
 「カスカ」で明らかに
 kasaku〔太陽〕に依る呼称である。
 
 大略註解の中にある「多神宮註進帳」は
 「珍子聖津日靈神者春日郡
  宇豆御子神社同体異名」と
 その祭神が上記河内国高安郡の
 「天照大神高座神社」および
 「春日戸御子神社」と
 深い関係にあることを指している。
 
 この説明で、
 その祖地に「高座:岩倉」があり、
 太陽神が〔天照大神〕が
 そこに奉祭されていたことが指摘できる。
 
 「宇豆(御)子」「珍子」は
 すでに数回解釈したように
 utu-si・ud-si〔太陽・光る〕に依っている。
 
 邪馬台国(大牟田市八本町岩倉)に奉祭されていた
 「太陽神」が東遷してきて
 この奈良県の十市郡(旧称)に
 祭場を設けられたのである。
 
 八本町に伊勢神宮を遷座したとの解釈ではなく、
 大神宮との神社であって、
 そこから東方へ次第に太陽信仰を波及させて
 渡来したと解釈するのである。
 
 (現)橿原市十市町に
 「十市御県坐神社」がある通り、
 春日郡は後に「十市県」となった。
 
 その大牟田市内から奈良県へ遷されたのである。
 
 橿原市、田原本町などの一帯には
 「春日神社」が多く散在する。
 
 それらの本社は多神社であり、
 同社の威勢が古代において
 大いに盛んであった証しである。
 
 その威勢は『古事記』に
 第一代神武天皇から第八代孝元天皇に
 記述されるほどに及んで、
 その和名に「大倭」との用語が
 付されることになったのである。
 
 「大倭」は「オウワ」にして
 obhasa あるいは 
 ābha〔光、光明〕に依るもので
 「太陽の光」との表現である。
 
 天照大神は、
 天皇の奉祭する主祭神として
 「宮中」でも鎮座していたのである。
 
 しかし、
 第十代崇神天皇の奈良盆地に
 到来した事変により、
 "ガラ"と様相は変わり、
 天照大神は大国魂神ともども
 宮中から放りだされてしまった。
 
 さらに奈良時代になって
 天武天皇の伊勢に鎮座していた神宮への
 強い奉祭意識から
 皇室主導の重層な祭儀が成立され、
 邪馬台国を祖地とした太陽信仰など
 遠くへ追いやられてしまい、
 その来歴は表面舞台から
 摩擦状態となってしまったのである。
 
 ただ、
 天照大神が伊勢〔三重県〕に鎮座地を
 最終的に得られたのは、
 そこに多氏同様古くから
 天照大神の信仰集団のうちの
 族類がいたからである。
 
 その仲間とは
 宇治土公氏で
 「ウジドコー」は
 ud-du-ka〔日が昇る-迎える(呼ぶ)〕と
 「日が昇るのを迎える」の語義を支族とする、
 太陽の御来光〔迎〕を大事にした人々である。
 
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908  
 

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