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邪馬台国の性格と卑弥呼(10)神武天皇勢力の東征経路1 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (10)神武天皇勢力の東征経路
 
 
 『記・紀』が記す「神武天皇の東征」
 
 岡田宮、多祁宮理宮、高嶋宮と
 瀬戸内海の北岸に行宮を設けながら
 東征する経路は神武天皇勢力の事跡ではない。
 
 その文化遺存などから解釈すると全く
 別の勢力の行程である。
 
 その大要は本書第6章で解説する。
 
 神武天皇の族類の東漸は、
 そう急激な前進を目論んだものではなく、
 紀元1世紀頃から徐々にその仲間、
 つまりインド・アーリア系の人々が
 太陽信仰を主柱にして移って
 行ったのが本当だろう。
 
 そうでなければ
 その経路に色濃く彼等の文化を
 遺存させていくはずがない。
 
 この伝承には「天孫降臨」の関連づけも
 考慮しておかなければならない。
 
 まずその「天」との概念を
 邪馬台国の当該地に確認しておきたい。
 
  (a) 高天原:天界
 
 大牟田市南部に「諏訪」あるいは
 「天領」との地称があり、
 これらは jambu-dvipa のある
 svarna-bhumi に係わる名称と紹介した。
 
 その 
 svar または suvar は「天空」とともに
 「太陽、日光、光輝」を表わす。
 
 つまり「天界」である。
 
 「高天原」はアズミ族の言葉で 
 an-mah〔天-高い〕を漢字表記したもので
 「アマ〔天〕」のことである。
 
 『隋書』倭国伝、『唐書』に
 「倭王姓阿毎」とある「阿毎」で、
 天皇一族の氏姓と表記されている。
 
 その一族は 
 suvar/jamibu-dvipa に縁のある一族である。
 
 
  (b) 日置郡・姶良郡〔鹿児島県〕 
 
 『日本書紀』の神武東征段に
 「日向国の吾田邑の吾平媛を娶る」とある
 「吾田邑」は現在の鹿児島県日置郡金峰町に
 「阿多」とある同地を指す。
 
 郡名「日置」は前に述べた
 三毛郡郷名「日奉」と同義で
 「太陽(日)を立て祭る」との意義である。
 
 「吾田(阿多)」は ed〔日が昇る〕、
 サンスクリット語になった 
 aidha〔光輝、炎〕の音写である。
 
 また「吾平媛」の「アヒラ」 はこれまで
 「大孁女」の祖語として紹介した
 「日、昼」を語義とする ahar である。
 
 日置郡は
 鹿児島県薩摩半島の西側東シナ海沿いに
 かなり広い地域に亘っている。
 
 その日置郡の東側に接して
 鹿児島湾を囲むように姶良郡がある。
 
 「姶良」は「アイラ」あるいは
 「アヒラ」で「吾平」と祖語を同じくする。
 
 また鹿児島名の「カゴシマ」は 
 kug-za-ma〔輝く(照らす)-国土〕の音写で
 「国を照らす」である。
 
 鹿児島市の中央に
 「照国神社」が鎮座していて、
 その名称と意義が同一である。
 
 同社の背後の「城山」の「シロ」もやはり 
 sir〔光〕、
 また少々南方の高麗も 
 gaura〔光〕で同義である。
 
 この高麗との地称があちこちにあるが、
 ほとんどが
 高句麗や高麗という韓半島の国名とは関係ない。
 
 因みに
 「薩摩:サツマ」は 
 sa-dhama の音写で
 「煙に包まれた」との語義で、
 桜島、霧島など活火山の噴煙で覆われる
 環境を言ったものである。
 
 姶良郡の隼人町に
 鹿児島神宮、卑弥呼神社が並んで鎮座する。
 
 大牟田市の邪馬台国の「天界」を出た
 人々の意識に卑弥呼があったことの証明である。
 
 周囲には
 朝日、内、宇都山、日当山といった地称がある。
 
 「ウチ、ウツ」は utu、ud〔太陽〕に依る。
 
 また同地には大孁女神社があり、
 伝承には時代的ずれはあるが、
 「阿比良女」との古い物語に係わっている。
 
  (c) 日向・鵜戸神宮〔宮崎県〕 
 
 『日本書紀』にもあった
 「日向国」名の「ヒウガ」は
 本来 
 pa-ug〔呼ぶ-太陽〕で 
 「日を迎(向)える」の意義で、
 宮崎県の東岸で日の出を迎えるのに
 相応しい太陽信仰の名称である。
 
 pa が「ヒ」となったのは漢字に
 「日〔ひ〕」が採られたからだろう。
 
 その日向灘日南海岸〔宮崎市鵜戸山〕に
 「鵜戸神宮」が鎮座する。
 
 同社は太陽信仰の宮である。
 
 鵜戸の「ウド」は ud〔太陽〕で、
 周囲の山の総号を「吾平山」という。
 
 「吾平」は
 鹿児島県の(b)での同語で明らかである。
 
 さらに
 同宮の本殿などが深い赤色(丹)に塗られており、
 誠に彩りとしても太陽の装いを呈している。
 
  (d) 宇佐・宇佐神宮〔大分県〕
 
 『古事記』の「東征」段には
 「到豊国宇沙」とある。
 
 「豊国」は
 福岡県・大分県の
 瀬戸内海側の一帯の地称である。
 
 「宇沙」は現在「宇佐」と表記されている。
 
 宇沙においては神武天皇は
 「大御饗」を以って歓待される。
 
 その「ウサ」は
 サンスクリット語の 
 ush〔早朝〕にて「暁」を表わす。
 
 同類語 ushas も「朝、暁」ではあるが、
 「曙光の女神」である。
 
 このウシャス神は日の出前に
 二頭立ての馬車に乗ってやってくる。
 
 同地の「宇佐神宮」には
 本来このウシャス女神が
 まず奉祭されたはずである。
 
 なにしろ本殿はじめ社殿は
 朱色〔曙の色〕に塗られている。
 
 鵜戸神宮の習いと同じである。
 
 しかも
 同宮のご祭神は主神の中央を
 「比女大神」となして
 両側に二神が座している。
 
 この配神は明らかに
 中央がウシャス女神、
 両側をアシュビン双神
 〔二頭立ての馬車の馬〕で
 固めた構図である。
 
 「比女」は「姫」にして女神で、
 太陽の昇る前を先導する司である。
 
 同神宮に古い三像一組の木像が
 幾組か作られ遺されてるが、
 必ず女神像含まれ三神が一体である。
 
  宇佐神宮から東へ連なる国東半島の
 「クニサキ」は 
 gh(r)suci〔日光の輝き〕が語源である。
 
 「国東」との表記は
 和名類聚抄には「国前」とある。
 
 「国:クニ」が「日光」であるから
 「クニ東」は
 「太陽を奉祭する神宮の東方」との
 意義が含められている。
 
 また「国前」は「日光の前」で、
 宇佐神宮をの祭神
 「ウシャス神〔曙〕」を
 指すと解釈される。
 
 さて、
 『記・紀』が記す
 神武東征の経路のうち
 これを
 太陽信仰集団と解釈した場合、
 「宇佐」までの行程は
 『記・紀』に間違いがないが、
 その後の経路は
 『記・紀』の記載とは全く違う。
 
 またその移転の様子は、
 集団的威力を一時に集中して
 急激に侵攻して
 行くなどというものではなく、
 徐々にその影響を及ぼし、
 各地で受け入れられて
 信仰圏が定着拡大しつつ
 東漸したとみられる。
 
 その経路には太陽信仰が
 今でも色濃く遺存されている。
 
  (e) 伊予〔愛媛県〕
 
 さて、
 神武天皇勢力の東漸経路は
 『記・紀』の記述行程とは
 ここから違っている。
 
 つまり
 太陽信仰を主体とした勢力は
 豊与海峡を越えて
 四国へ遷っているのである。
 
 そこは伊予国〔愛媛県〕で、
 
 国東半島の東方に位置する。
 「伊予」名は
 佐田岬に「伊方町」とあるように
 本来「伊」だけで、
 その「伊」は「日が昇る」の 
 e の音写である。
 
 宇佐から「日が上がる:i」方向が
 「伊方」なのである。
 
 愛媛県大洲市内には
 宇佐神宮の神社とともに
 「宇都宮神社(大洲市五郎)」とある。
 
 同名は「太陽の宮」であり、
 「五郎」は 
 gaura〔光〕に依る。
 
 「大洲」名の「オウス」も
 「宇佐」と同根の
 ush〔暁〕あるいは 
 obhasa〔光明〕の転訛であろう。
 
 同地は和名類聚抄
 伊予国の喜多郡の地であった。
 
 喜多の「キタ」は 
 ketu〔光、光明〕で
 大洲市内に喜多山とある。
 
 その近くにある
 春日神社の「カスカ」は
 kasaka〔太陽〕の音写で、
 この地方にある同名社は
 ほとんどその理由に依ろう。
 
 喜多山の東隣りの町名になっている
 「内子」は現在「うちこ」だが、
 本来
 「ウツシ」で 
 utu-si〔太陽-光る〕で
 天照大神の項で述べた
 「珍子」と同根である。
 
  (f) 阿波国・吉野・美馬〔徳島県〕
 
 愛媛県から東方へ向かうと
 徳島県の西方の山間部へと至る。
 
 同県内にも太陽信仰の遺存がみられる。
 
 その阿波国名の
 「アワ」は
 abha〔光輝、光、美〕の音写である。
 阿波国を東流する大きな川の名を
 「吉野川」という。
 同表記は佐賀県の吉野ケ里遺跡同様
 「よしの」と称されている。
 
 しかし、
 これは本来「キーノ」で、
 ここでは
 gh(r)na〔日光、熱〕の音写である。  
 
 阿波は国名だけでなく郡名として
 和名類聚抄に載っている。
 
 現在の阿波市の西側に美馬市がある。
 
 「美馬郡」も和名類聚抄に記載されている。
 
 同名は現在「みま」と称されているが、
 始まりは 
 vana〔美しい女〕で「美しい女神」、
 つまり
 太陽神あるいは曙神をいったものだろう。
 
 阿波市内には
 「大俣」との地称もあり、
 大牟田市名として紹介した 
 aum(r)t〔女神〕 の音写で
 「美馬」に係わる。
 
 徳島県の鳴門市からは
 兵庫県の淡路島が極く近い。
 
 同地を和名類聚抄は
 紀伊国淡路郡と載せており、
 平安時代初めには
 紀伊国<和歌山県>に属していたようだ。
 
 その
 「アワジ」は 
 abha の同類語 
 abhasa〔光、光沢〕の音写で
 太陽信仰の進む「路:道」となす。
 
 というのも
 同地の南端から紀淡海峡を隔てて
 和歌山市の加太が目先にあり、
 その経路を指差している。
 
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908 

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