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第7章 卑弥呼の「倭錦」(5)筑紫〔ツクシ〕の背景 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
  
《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(5)筑紫〔ツクシ〕の背景
 
  和名類聚抄において福岡県地域は
 「筑前国筑後国」となっているが、
 従来、全域を「筑紫」といってきた。
 
 「筑紫国風土記」逸文に
 その地名由来が書かれているが、
 あまり合理的とは思えないので、
 ここでは触れない。
 
 地理的に筑紫平野は
 有明海へ流れ込む
 筑後川の流域地帯である。
 
 つまり「筑紫」とは
 「貝紫の染料を採る」あるいは
 「筑(つく)る」との字義である。
 
 その呼称「ツクシ」は
 アズミ族の言葉で成っており、
 
 「ツク」は 
 tuk〔織物〕 ないし tug〔布〕、
 
 「シ」は 
 si(sir)〔光〕で「光る織物」となる。
 
 「光る、輝く」織布は「絹」を指す。
 
 ヘブライ語の「ニシキ」と同義である。
 
 「延喜式」神名帳の筑後国に
 「筑紫神社」が載る。
 
 同社は現在筑紫野市に鎮座するが、
 その伝承に依ると
 同社は元「城山」に置かれていたという。
 
 その
 「シロ:城」名は 
 sir〔si:光〕による。
 
 同地周辺で養蚕が盛んだったに違いない。
 
 「ツクシ国」とは
 養蚕で絹を生産していることを
 主張した呼称である。
 
 その生産役目を果たしたのは倭人で、
 加工を主導したのは
 ヘブライ人などの海洋商人たちであった。
 
 福岡県には
 その絹の重要性を奉祭した神社がある。
 もはやその由来が全く亡失されている
 「地祿神社」で、
 その鎮座区域は倭人伝がいう奴国の領域、
 アズミ族の言葉が厚く定着した所で、
 彼等も養蚕を行う
 倭人を奉って大事にしたのである。
 
 「地祿:チロク」の源語はその 
 zalag で
 
 語義は
 「きらめく」で
 「光る: si(sir)」と同義であり
 「ツクシ」名を補佐する神社名である。
 
 「全国神社名鑑」により
 
 その所在地と神社数を記載する。
 
  〇福岡市博多区  5社
  〇福岡市南区   4社
  〇福岡市西区   1社
  〇筑紫野市    2社
  〇大野城市    4社
  〇筑紫郡大宰府町 1社
  〇筑紫郡那珂川町 2社
 
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第7章 卑弥呼の「倭錦」(4)「倭錦」は貝染の織物 [日本創世紀]

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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(4)「倭錦」は貝染の織物
 
  「錦:ニシキ」名について解釈してみたい。
  
 「ニシキ」はヘブライ語の
 NTsKh〔輝き、光輝〕の音写で、
 絹が光沢を持つ理由により呼ばれたものである。
 
 「大漢和辞典」は「錦」を「あやおり」としている。
 
 その「アヤ(綾)」も
 ヘブライ語の IYN による呼称名で、
 本来は「目」であるが、
 「編み目」「色合い」である。
 
 「説文解字」及びその「通訓定声」は
 
 「紫絲織之」とある内容を前に紹介したが、
 絲(絹)をまず染色し、
 それを以って紋様を付けて織布したもの、
 編み目を以って装飾するものである。
 
 同書がいうには
 染色の色は「紫」と限っている。
 
 織布の後に染色するのではなく
 絲の段階で染色するものである。
 
 よって「倭錦」は
 
 「絲(絹)を紫色に染めたもので織りながら
  紋様を付けた絹織物」となる。
 
 その紫色は「貝紫」によって製作された、
 倭国独自の工芸によって算出されたものであった。
 
 「倭錦」を「貝紫」とする見解はすでに
 布目順郎氏はじめ
 吉野ヶ里遺跡発掘に係わった人々によって
 提出されている。
 
 紀元前2、1世紀から
 紀元後2、3世紀にかけて、
 
 九州方面は従来解釈されてきたような
 非文化的後進社会ではなく、
 西方の技芸まで浸透し先端技術を獲得して
 生活の用に備えた先進社会にして
 国際性豊かな社会だったのである。
 
 本書では解説しない
 ガラス工芸や青銅<錫合金>など
 極めて高い精度の製造品を生産していて、
 その工作の様子が解る遺品が
 同地方の遺跡から出土している。
 
 もちろん、
 その工業段階は手工芸であり、
 大規模工場などはない。
 
 その先進的工芸の一つが「倭錦」で、
 卑弥呼は
 その高技芸品を魏国へ贈ったのである。
 
 ために魏国側も朝貢貿易の轍に即して
 それ相応の上等品を答礼として
 使節に渡したのである。
 
 その状況から判断すると、
 倭〔邪馬台国〕は
 決して魏の属国でもなかったし、
 帯方郡の傘下の属領でもまかった。
 
 つまり、
 その冊封体制〔封建制〕の外にあったのである。
 
  M.K記
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第7章 卑弥呼の「倭錦」(3)倭錦の真相 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第7章 卑弥呼の「倭錦」
(3)倭錦の真相
 
 (a) 吉野ヶ里遺跡の染色絹
 
 繰り返しになるが、
 佐賀県教育委員会『弥生時代の吉野ケ里』の解説に
 
 「貝紫や日本茜で染められたものも確認され……」
 
 とあった。
 
 この報告は重大である。
 
 弥生時代の染色技法のうちに
 「貝染」があったとの指摘も重要であるし、
 また、
 「貝紫」が日本古来、
 つまり
 縄文時代に開発されていたと証明が
 あるとは全く聞かないことも認識すると、
 そこからの判断はまた重大である。
 
 つまり、
 その技術は海外から移入されたとしか
 考えられないとの結論になる。
 
 それも
 弥生時代前期紀元前後にである。
 「紫」色は
 シナにおいても古来宗義上貴重な色で、
 特に織布を紫色に染めて使った。
 
 漢語に「茈」とある植物が
 通称「紫草」で、
 東南アジアには広範に野生種としてある。
 
 その根を用いて染色したものが「紫」で
 表される織布で、特に絹を染めた。
 
 このように「茈」「紫」の伝統技法は
 東アジアにあったが、「貝紫」はなかった。
 
 (b) 貝染の倭への伝承
 
 「貝染」は技術を倭へ持ち込んだのは
 倭人伝がいう「伊都国」に定着した
 ヘブライ人の海洋貿易商人たちである。
 ヘブライの商人たちはローマ帝国へ
 絹製品を輸出した中継商人として活動し、
 ローマ人からは 
 MESHI と呼ばれるほどの絹商人で、
 東方から送られてきた絹を地中海東岸、
 ヘブライ人の祖地イスラエルで加工し直して
 ローマへ送り出していた。
 
 その加工技術のうちの染色は、
 イスラエルの北方を
 紀元前の古くから占めていた
 フェニキア人たちが
 地中海の貝から採取した染料で
 羊毛の毛織物を紫色に染める技法を創出し、
 その工芸で産業を栄えさせていたものである。
 
 フェニキアの祖族となったのはケルト人で、
 彼等はクレタ島、カルタゴ
 さらにはイベリア半島から
 ブリテン(イギリス)まで
 鉱物〔錫〕を求めて航海遠征し、
 それらの地に植民地を築いた有能な人々で、
 工芸面でも錫のほかにガラス工芸を発展させた。
 
 彼等はそいう技術集団で、
 「貝染」もその当時における
 先端技術で専門的であった。
 
 貝染の中心となったのが地中海東岸の都市、
 ティロス、シドンであった。
 
 しかし、
 ケルト人あるいはフェニキア人が勢力となって
 極東へ渡来し、
 その技法を定着させたのではない。
 
 隣の貿易、特に東方交易の協働者ヘブライ人が
 その役目を果たしたのである。
 
 両者の親密さはここで詳しく説明できないが、
 
 紀元前10世紀
 ヘブライ王ソロモンが主導した海洋貿易のための
 
 「タルシン船」は
 
 フェニキア人の協力によって
 成立し得たものであった。
 
 ヘブライ語「フェニキア」をいった用語 
 
 KVNKhYH は「巻貝」を表す。
 
 貝染の染料を持つ貝類は
 すべてその巻貝(累貝)に限られる。
 
 フェニキア人が染色したのは羊毛で、
 絹もまた動物性繊維である。
 
 そこに注意を向けた
 ヘブライ人の貿易商人も
 有能であったといえる。
 
 (c) 貝染技術と紫色
 
 繊維類に染色するには染料が要る。
 
 貝染の染料は巻貝(累貝)の内臓腺から採る。
 
 それを発見したのが
 地中海東岸のフェニキア人であった。
 
 巻貝の内腺から採れるエキスはわずかで
 多くの貝を殺さなければ」ならない。
 
 『水生無脊椎動物』〔世界大博物図鑑〕によると、
 
 地中海では
 ツロブリボラあるいは
 シリッブルボラという
 体長2㎝余りの小さな貝がそのため使われた。
 
 また
 日本から東南アジアに分布するチリメンボラが
 貝紫の原料となったと説明している。
 
 前記『弥生時代の吉野ケ里』は
 
 「貝紫の色素を抽出できる有明海生息の貝類」
 
 として
 
 アカニシ、レイシ、イボニシ名を挙げている。
 
 このうちアカニシは大牟田歴史資料館の
 1999年「展示図録」に
 縄文時代中期から後期の遺跡
 
 「毛無貝塚」から出土した実物と
 紹介しているので、
 有明海には古くから同貝がいたことを証している。
 
 ただしそれは
 食料として採られたもので、
 染料としては考えられない。
 
 貝染によって付けられる色は、
 「貝紫」と通称されるように紫色であるが、
 その範囲は広く、
 フェニキアを「赤い国」と
 称したように赤色、赤紫色、青紫色となり、
 総称して「茜色」といえる。
 
 その色彩は本来「晒」に依り、
 夕焼けの色が赤色から青色、碧、紫色と
 変色するのに合わせている。
 
 (d) 巻貝と有明海〔地名:鐘ヶ江と古賀〕
 
 上記の通り、有明海の巻貝を採取して
 染色を施していたことは明白である。
 
 福岡県〔筑後国〕・佐賀県・長崎県〔肥後国〕の
 有明海沿岸地域には、
 
 そこで巻貝を採集していたことを示す地称が
 今日まで数多く継承されている。
 
 言い方を代えれば、
 それらの地名が
 巻貝に由来しているということになる。
 
 まず大川市の筑後川沿いに
 「鐘ヶ江」との地称がある。
 
 この「カネカエ」は
 ヘブライ語でフェニキアを言うと紹介した
 KVNKhYH〔巻貝〕の移入である。
 
 また同市に「兼木」との字名もあり、
 その理由を同じくする。
 
 長崎県の諫早市に「船越」との地称があり、
 これも
 「フナコエ」と読めその語源が同とみられる。
 
 周辺には貝津町あるいは大染島といった貝染と
 係わる地称があるからである。
 
 さらに、
 下記に列記するように「コガ」との
 地称がここにはたくさんある。
 
 これはギリシャ語の「貝」を語義とする
 
 kogxe の音写による。
 
 なぜここに
 ギリシャ語が入り定着しているかというと、
 「先代旧事本紀」国造本記に載る
 「筑紫米多國造」に係わる。
 
 その「米多」は佐賀県の吉野ケ里遺跡の東方、
 和名類聚抄の三根郡米多郷にして現在、
 目達原と表記される地のことである。
 
 国造本記には
 
 「志賀高穴穂朝(成務)息長公同祖
  稚沼毛二俣命孫都紀女加定賜國造」とある。
 
 息長氏は、
 本書第6章(7)で詳説したように
 イリ〔ギリシャ〕族の仲間である。
 
 この経緯により、
 ここにギリシャ語が入った理由を説明できる。
 
 「コガ:古賀」などと訓める
 地称及び関連地称を挙げる。
 
  〇下古賀〔佐賀県小城郡芦刈町〕
  〇鹿ノ子・古賀〔佐賀市〕
  〇下古賀〔佐賀県佐賀郡東与賀町〕
  〇東古賀・西古賀・小久森〔佐賀県佐賀郡川副町〕
  〇鐘ヶ江、古古賀、北古賀、息古賀、古賀<兼木>、
   五家、紅粉屋〔福岡県大川市〕
  〇古賀、久々原、中古賀〔福岡県柳川市〕
  〇今古賀〔福岡県山門郡三橋町〕
  〇古開〔福岡県山門郡大和町〕
  〇岩古賀〔福岡県三潴郡三潴町〕
  〇古賀〔福岡県三潴郡大木町〕
 
 その他、北九州市小倉区に「紫川」との
 興味ある川名がある。
 
 同地は和名類聚抄豊前国などにいう
 「企救郡」の地で「キク郡」という。
 
 同名はギリシャ語の
 「紫貝からとった染料」との
 
 kikis の音写で、
 
 区名「小倉」の「コクラ」は
 
 同 koglos〔巻貝〕の音写である。
 
 また、吉野ヶ里遺跡出土の織物として
 「茜:アカネ」との解説があった「アカネ」も
 フェニキアを祖地としている。
 フェニキア人の祖族はケルト人と紹介したが、
 その始祖名をギリシャの伝承では 
 Aghnor といい、
 同語はそのうち 
 A-gh-no をとっていったものである。
 
 朝焼けをいう「アケボノ:曙」は同語の
 A-g-h-no に依る。
 
 曙も晒と同様の色彩を見せる。
 
 また漢字「貲」は「紫-貝」との構成であるが、
 これは日本語で「あがなふ」と読み、
 Aghnor に係わる。
 
 このように
 この地方の「巻貝」、「貝紫」に
 関係する用語には
 フェニキア及びギリシャ語が
 根深く浸透している。
 
 ただし、
 これらギリシャ語が同地に定着したのは、
 「国造」の制が始められた時期以後
 5世紀ないし6世紀のことで、
 邪馬台国時代2、3世紀のことではない。
 
  M.K記
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第7章 卑弥呼の「倭錦」(2)弥生時代の「絹」 [日本創世紀]

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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
(2)弥生時代の「絹」
 
 1989年7月
 吉野ヶ里遺跡から出土した甕棺の中から
 染色した絹の織物がみつかったと報じられた。
 
 朝日新聞は18日
 「日本最古の染色絹、見えた!弥生の色」と
 見出しを付けている。
 
 佐賀県教育委員会が
 京都工芸繊維大学の布目順郎名誉教授に
 鑑定してもらった結果を17日発表したもので、
 「約30種の織物中から透き目絹」を確認したとある。
 
 同委員会が編集した2008年3月発行の
 『弥生時代の吉野ケ里』に
 「朱が付着した透目の絹、弥生時代中期」とある。
 
 また「縫目の残る絹織物」も紹介されている。
 
 その解説には
 
 「吉野ヶ里遺跡からは弥生時代中期から
  後期の甕棺墓7基の棺内から出土した
  人骨や銅剣、貝殻製腕輪などに付着して
  多数の絹や大麻の布片が発見された。
 
  布目順郎氏の分析研究によって、
  絹は日本産の絹糸で数種類の織り方を
  もつことなどが判明した。
 
  また、
  絹布の中には貝紫や日本茜で
  染めたものも確認され、
  粗末な麻の布を身にまとっていただけという
  弥生人の印象からは程遠い高度な
  弥生の染織文化が証明されていた」
 
 とある。
 
 ここに「絹や大麻の布片」が出てきた事実は、
 倭人伝の
 「種禾稲紵麻蠶桑絹績」との記述に対応する。
 
 「紵麻」は「大麻」に、
 「蠶桑絹績」が絹に係わっていて、
 吉野ヶ里遺跡のこの時期が倭人伝の時代、
 つまり
 邪馬台国<弥奴国>の時代に相当しているといえよう。
 
 布目順郎氏はそれ以前に
 
 『繊維の考古学』
 『絹の東伝』との著述により、
 
 弥生時代前中後期の遺跡から絹が出土したのは
 北九州に限られていて、
 瀬戸内海以東、出雲や近畿方面の絹出土は
 古墳時代前期からと指摘している。
 
 つまり
 紀元2、3世紀〔卑弥呼の時代〕に
 おいて養蚕を行っていたのは九州方面のみで、
 卑弥呼が
 絹をかなりの量産出した地域にいたことを
 倭人伝の記述からすると、
 邪馬台国の所在がどこだったかは明白である。
 
  M.K記

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第7章 卑弥呼の「倭錦」(1)倭人伝が記す倭国の「絹」 [日本創世紀]

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《第7章 卑弥呼の「倭錦」
 
 (1)倭人伝が記す倭国の「絹」
  倭人伝においては
 倭国と魏とは朝貢貿易を行っていた。  
 
 その交易品のうち最も注目すべきは絹製品である。
 
 魏歴景初2年〔238〕12月の記録に
 魏国が倭からの使節に贈った品目のうちに
 
 「絳地交龍錦五匹」
 「紺地同文錦三匹」
 「白絹五十匹」
 
 とある。
 
 「錦」「絹」とあることから、
 それらが絹製品であることが明白である。
 
 同条にはまた「汝所獻上貢直」とあり、
 倭からの貢奉品と同価値に
 それらの贈呈品は相当すると述べ、
 「朝貢貿易」の様式であることを記している。
 
  正始4年(243)の記録には
 「倭王複遣~上獻~倭錦絳青縑緜衣帛~」とある。
 
 ここにおける
 「錦」「縑緜」「帛」も絹製品の称である。
 
 つまり倭国において養蚕が行われ絹を得て
 織物にした品を魏に献上したとある。
 
 本書第5章「(1)倭人伝が記す倭の養蚕」で、
 
 倭国では邪馬台国時代すでに養蚕が行われ、
 「縑緜」などという織物があったことを説明した。
 
 上記倭からの献上品のうち注目されるのは
 「倭錦」との記述である。
 
 「錦」は日本語では一般的に「ニシキ」というが、
 漢語では
 「脱文解字」〔紀元後1世紀、最古の辞典〕では、
 
 「染絲織之」とあり、
 
 まず糸を染色して次にこれを織ったものとの説明で、
 日本語では「あやおり」という。
 
 倭人伝があえて「倭錦」といっているからには、
 魏(支那)にはない
 倭国特有の染色によった
 糸を使って綾〔紋様〕織りにした織布と推測される。
  M.K記
 

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