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終章 (2)ギリシャ案内記 〔パウサニアス〕の「セリアの島] [日本創世紀]



(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪

 

 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
  (2)ギリシャ案内記 〔パウサニアス〕の「セリアの島]
 本書第6章で「琉球」名の由来説明のため
 ギリシャのパウサニアスの
 『ギリシャ案内記』の一部を紹介した。
 
 同書は紀元160年に世に出されたというので、
 記録されている情報は
 2世紀初めから中期のものである。
 
 ほとんどの内容は
 地中海域のギリシャ本土周辺に関係しているが、
 第6章26節6~9に極めて興味ある記述がある。
 
 そこには「絹」の産地の情報があり、
 
 「エリュトラー海の最奥にセリアの島がある」
 
 またその近くに 
 Abasa 及び Saxaia の
  二つの島があるといっている。
 後者の両島は記述のとおり説明済みである。
 
 ここでは「セリアの島」を解釈する。
 
 同用語はギリシャ語で Seria〔Shria〕 とある。
 
 「エリュトラー海」は紀元1世紀に
 エジプトの貿易商人が記録した
 『エリュトラー海案内記』の影響か、
 本来は「紅海」名であるが、
 アラビア海からインド洋
  さらに太平洋の極東方面を含めた総称として
 当時の関係者に認識されていたらしく、
 
 「エリュトラー海の最奥」とは
 極東太平洋の北部と解釈される。
 
 同語が記される前段「6~8」で
 
 seres〔shres〕 という
 「衣服作る糸」の産地を述べているので、
 「セリア」は
 その「虫」に係わるものと理解できる。
 
 パウサニアスも『ギリシャ案内記』の日本語への
 翻訳本は二つある。
 
 岩波文庫本には残念ながら
 当該部分は訳対象からはずされている。
 
 もう一つの龍渓書舎版は
 当該部分は翻訳されているものの
 「セリア」名を「セレス」としている。
 
 『エリュトラー海案内記』の翻訳者
 村井堅太郎氏がその解説部分で
 パウサニアスの「セリアの島」を取り上げ、
 その前段〔6-8〕を翻訳している。
 
 〔9〕の当該部の翻訳はない。
 
 M.H.Rocha-Pereira,Pausaniae Graeiae Descriptio,
 Bibbiotheca Teubneriana〔ギリシャ語版〕に依ると
 
 その用語は 
 Seria〔熙忍僞髭繊佑箸覆辰討い襦
 
 その seria の語義であるが、
 上記したように「虫」との呼称で 
 seres があるので
 同語の変形語と解釈しやすいがそうではない。
 
 同語のギリシャ語表記は 
 熙忍僞摘 で 熙忍僞髭繊魅札螢◆佑
 わずかながら発音に違いがある。
 
 そこで参考にすべきは「セリカ」名である。
 
 本書第5章の(5)で
 すでにその名称由来と語源は説明してある。
 
 「セリカ」の語源はサンスクリット語の
 sailika〔石〕と紹介した。
 
 「セリア」もその同類語の 
 sailā〔石よりなる、石の多、岩岡〕
 に依ると解釈する。
 
 それらはまた「繭」のことである。
 
 つまり「セリアの島」においても
 養蚕が行われていたとの説明になる。
 
 前項「(1)白木神社」で説いたように、
 養蚕が行われていた「九州」がその「島」である。
 
 セリアは〔九〕でいうとおり
 アサバとサカイアがその近くにある島である。
 
 「エリュトラー海の最奥」
 との地理説明にも合致する。
 
 〔九〕にはまた「セル」と呼ぶ川があって、
 その川がセリアを島にしていて、
 エジプトのナイル川が
 デルタ地帯をなしているのと同じだといっている。
 
 その説明は教義の発想で
 「邪馬台国」を想定させる。
 
 セリアは「繭」から離れた
 「岩岡」としてみれば明白で、
 大牟田市八本町の「岩倉」名に通じる。
 
 sailā には〔岩岡〕の概念もあった。
 
 同地は大牟田川と堂面川に挟まれた所で、
 古代においては今より幅の広い野放図な流れで
 あったはずでデルタ地といってもよい。
 
 「セル」川も堂面川沿いに
 「白川」との地称がある。
 
 「シラ:白」は
 熊本県の阿蘇山の南麓「白水村」を水源とし、
 熊本市へ下り有明海に入る「白川」名と同義で
 サンスクリット語の
 jala〔泉、井〕を祖語とするのと同じである。
 
 堂面川の上流にも「高泉」との地称があり、
 事情が同じと理解される。
 
 「セリアの島」とは
 
 「九州島」をいったものと解釈され、
 紀元2世紀に日本列島の情報が
 西方ギリシャまで伝えられていた証拠である。
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終章  (1)白木神社:繭は「石」と呼ばれた [日本創世紀]

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 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

  

《終章 卑弥呼の「倭錦」
  (1)白木神社:繭は「石」と呼ばれた
 紀元前後から邪馬台国時代〔2、3世紀〕に
 形成されていた「倭」の国際性について、
 養蚕をからめてさらに紹介する。
 
 糸島市(旧前原市)東南、福岡市西区との境界に
 「王丸」との地称がある。
 
 すぐ北隣りは「高祖」である。
 
 その漢字からすれば
 「伊都国」など歴史上にある国の「王」、
 つまり首領の館があったのかと推測したくなるが、
 同地は狭谷の坂をかなり上った所で、
 古代海が大分深入りしていたにしても
 伊都国の首領の居館に相応しいところではない。
 
 そのさらに登った左側の谷合に
 「白木神社」が鎮座している。
 
 鎮座地の字名が「小林」である。
 
 これらの呼称には一貫した事実が背景にはある。
 
 古代、
 この地は蚕を飼って繭を得ていた
 倭人の地であった。
 
 「王丸」は「オーマル」で
 「白い石」の語義で「繭」を表す。
 
 倭〔和〕語の「o-molu」の音写である。
 
 第5章で
 
 英語で「絹」を表す 
 silk がサンスクリット語の
 sailika〔石〕の転訛と紹介したが、
 繭玉が「石」との概念で理解されていた
 倭人たちの実感が実際この地方にある。
 
 「石」と指摘した
 「マル:丸:malu」は彝語資料で
 〔mu-lo:粒-石〕に依り、
 語義は「石粒」でもかまわない。
 
 同類語は
 
 「雲南彝族社会歴史調査」が〔la(lao・luo)-ma〕、
 「彝語簡志」が〔lo〕〔lo-mo〕、
 「哈尼語簡志」が〔lu〕〔lo〕〔lu-mo〕〔lumo〕、
 「納西語簡志」が〔lu〕とその発音を記録している。
 
 これらは
 1983年の中国出版社発行の資料である。
 
 また、それより100年前
 
 日本の民族学者鳥居龍蔵が
 貴州省・雲南省・四川省を調査した
 「中国の少数民族地帯をゆく」にも
 「石」の表音が採集されていて、
 彝族の別称である「ロロ族」に
 
 lump[白ロロ]、
 lom[白夷]、
 loo[ロロ]、
 
 また阿尼族に 
 lom とある。
 
 これらは19世紀の資料である。
 
 しかし、
 「王丸」で考察しているのは紀元前後のこと、
 今から2000年も前のことである。
 
 その間、
 和人の人々は四川省北部から南方へ移住させられ、
 しかも深い谷々に分散して生活するようになり、
 現在に至ったのである。
 
 祖語から〔各谷々〕で
 訛りが生じていても仕方のないことである。
 
 また、
 東方へ夷人・倭人として移住した人々のうちの
 日本列島へ渡った者たちが持って来た
 和〔倭〕語は
 日本の多くの地域にも定着し、
 今日まで及んでいる。
 
 「マル」は「石」で「ル・マ」は「粒石」である。
 
 これは繭一個一個を表現したものだ。
 
 「高祖」地区の西隣り「三雲」に
 「細石神社」があり、
 「粒石」を意図した呼称となっている。
 
 実際同社には「丸い粒石」が祭られている。
 
 古代繭をを採るための養蚕は端的にいうと
 「野蚕」が主であった。
 
 つまり「おカイコさん」という虫を
 桑の木などに直に放し飼いした。
 
 そのため
 虫を好む鳥などを追い払うのがたいへんで、
 
 「鳥追い」は年中行事ともなった
 
 当時の日常仕事だったはずである。
 
 おカイコさんは数回の「眠り」を経て
 脱皮しながら次第に大きくなり、
 桑葉をいっぱい食べる。
 
 そして遂には
 体の皮膚は白にもかかわらず緑っぽくなり。
 
 それが本書第5章で述べた「青龍」で
 「エリュトラー海案内記」がいう
 セレス seres の祖語である。
 
 また、
 繭を作るための繊維質を体内に溜め込み、
 桑葉を糞として放出した後は
 体色が蜂蜜の色となり、
 その伸びきった様子を
 古代シナでは「黄龍」と呼んだ。
 
 おカイコさんは黄龍となった後、
 その桑の枝々に、時には根元に落ちて繭を作る。
 
 それはその中で蛆となり孵化して蛾となるためで、
 繭の中で蛾となった後、繭を破って外に出て
 雌雄が交接して卵を大量に生むためである。
 
 これはすべて彼等の子孫を継いでいくためで、
 人間どもに繊維を使わせるためではない。
 
 因みに
 
 「爾雅義疏」釈蟲〔蛾羅蠶〕が引用する
 「孫炎正義」には「蛾卽是雄羅卽是雌」とある由。
 
 よって「蛾羅」は「蠶の雄雌の蛾」である。
 
 この「蛾羅」が「カラ」で
 唐国を日本で「カラの国」という理由である。
 
 また、「唐土」を「モロコシ」というのも
 mo-lo-ko-si〔石-白木〕が元で
 「白木の石」が本来日本にとって
 養蚕の祖地であることを物語っている。
 
 おカイコさんに緑葉を食べられて葉がなくなった
 桑木には繭がかなり付着して白くなる。
 
 それを「白木」という。
 
 その木は一本だけということはない。
 
 桑の叢は「白い林」となる。
 
 それが「小林」で、
 王丸の白木神社鎮座地称である。
 
 倭語で「白木」は
 〔ko-si〕あるいは
 〔ko-ze(se)〕でこのうちの一方が
 「コーソ:高祖」となっていて、
 
 高祖山
 〔高祖地区と福岡市西区境界の山〕周辺で
 その野蚕(養蚕)が行われていた証左である。
 
 王丸にも王丸山があり、
 同地の気候が養蚕に適していたといえる。
 
 伊都国の時代そこで採取された絹製品が
 「マエバル:前原:渡し場」から
 搬出されていったとみられる。
 
 高祖の地は
 和名類聚抄筑前国志麻郡に「託社郷」とあり、
 「タカシャ」はアズミ語 
 tuk-si〔織物-光〕の音写で「絹布」を称したもの。
 
 旧前原市域には「多久」など
 「タク:tuk」が祖語とみられる地称が多い。
 倭人はこのような養蚕とともに
 水耕稲作も渡来させたが、
 
 現在日本人が「米」を「コメ」というのはその
 〔ko-ma:白い粒〕に依っている。
 
 糸島市泊地区の北限に「石ヶ岳」との50㍍に
 及ばない小山がある。
 
 「岳」は「丘」あるいは「岡」である。
 
 「泊」字は確かに「舟泊り」とみられが、
 「トマル」は興味深い。
 
 これをアズミ族の言葉を加えて解釈すると、
 「ト:du」は「岡・丘」で、
 「マル」はこれまで説明してきた
 「王丸」の「丸」と同様で「石粒」、
 「トマル」は「岡-石粒」で、
 山名「石ヶ岳」と同義となる。
 
 この周辺でも野蚕が行われていたことを示す。
 
 石ヶ岳の東側は福岡市西区の「草場」地区で、
 同地区内にも白木神社が鎮座している。
 
 同社は現鎮座地とは違う
 柑子岳の山麓にあったという。
 
 その「柑子」は今も「コウシ」と呼ばれ、
 倭語の〔ko-si〕が祖語で、
 誠に神社名「白木」を表している。
 
 また地区名「草場:クサバ」は
 〔ko-se-ba〕の音写で「白い木の帛」となる。
 
 「帛」は
 「絹類の真緜」で木に付着した繭や
 絹の塊〔ゆえに石〕を表した用語である。
 
 草場の南隣りは「桑原」の地名で
 「桑畑」といえよう。
 
 そのまた南隣りには
 「元岡」あるいは「元浜」とある。
 
 「元」は「モト」でヘブライ語の「石」である
 BTの転訛で、「元岡」は「石丘」あるいは
 「石ヶ岳」の異称である。
 
 またその隣りに「太郎丸」とある
 「タロウ:太郎」はアズミ族の言葉で til、
 ヘブライ語で TL で双方とも同義の
 「丘、岡」「マル:丸」は前記通りの
 「粒石」にして繭を表す。
 
 よって「タロウマル」は
 「粒石<繭>の丘」で、
 繭を積み上げた様子をいったものと思われる、
 
 特にこの til、TL は人工の丘で「塚」と
 日本語では表し得て、やはりここに
 周辺から繭を集積したとの印象を与える。
 
 和名類聚抄筑前国志麻郡に韓良郷とある。
 
 これを倭語で解釈すれば
 〔ko-lo〕、〔白い石〕で繭を称したものである。
 
 和名類聚抄高山寺本の訓には「加良漢知」とある。
 
 「加良」はもちろん「漢良」であり、
 「漢知」は「ケチ」にして倭語において
 〔khu-dzi〕〔kun-zhi〕などと表音でいう
 「山・丘」の語義でそう高くない山や丘を表す。
 
 よって
 「カラケチ」は「白い石の丘」ということで
 「繭(白い石)を集積した山」である。
 
 因みに「山〔khu〕」の訓みには
 〔ku〕〔gut〕〔ke〕と
 「丘〔dzi〕〔zhi〕」の
 他に〔che〕〔ci〕〔zhu〕とある。
 
 このようにこの一帯では
 アズミ族の言葉、
 倭人の言葉、
 ヘブライ人の言葉が混在している。
 
 その意味とすることは、
 彼等が相伐、
 勢力範囲を拡げようと争ったのではなく、
 共存していたということである。
 
 倭人は
 稲作と養蚕の技法をもって渡来した。
 
 海洋を生活の場とした
 アズミ族は
 倭人から食糧(米など)を得、
 交易のための商品(絹類)を提供してもらった。
 
 そして、
 ヘブライ人の商船団もインドにおいて
 その貿易商人組合に加入して
 極東への航海について案内を得た。
 
 なにしろ彼等は中央アジアにいた時、
 「絹」の商品価値を和人から教えてもらい、
 その生産者である和人と
 親しく接触していたのであり、
 彼らが倭人やアズミ族を討伐するはずはない。
 
 倭人がいないと絹は入手できないのである。
 
 そのような「共生」こそが
 紀元前後から3世紀終末の
 北九州方面の社会情勢であった。
 
 よって当時の
 「倭」の国際関係は「共存関係」にあった。
 
 あえていえば、
 シナの漢や魏との間においても
 そういえるのである。
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