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第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼
 インドにおいては、
 一年のうちで
 全土的に重要な伝統的祭礼がもう一度ある。
 
 一月中旬の
 マカラ・サンクランティ 
 Makara samkranti である。
 
 太陽が黄道上の南から北へ入る日を
 吉祥の日として祝うのである。
 
 太陽暦の一月十五日、
 日本ではいう旧正月がその日に当たる。
 
 ヒンドウーの暦で
 太陽が星座にいうマカラ宮に
 移転 samkranbi する。
 
 つまりマカラ月が始まることから、
 この吉日は
 マカラ・サンクランティと呼ばれる。
 
 この日聖地においては沐浴すると
 罪、穢れが消えるという。
 
 さて、
 日本で一月十五日に古来行われてきた行事に、
 宮廷における左儀杖、
 また地方により呼称が異なるが、
 三九郎・どんど焼ある。
 
 左儀杖は三毬杖とも書かれ、
 禁中清涼殿の東庭で
 青竹を束ね立て毬打三個をゆわえつけ、
 吉書を添えて扇子、短冊ともどもに
 謡いはやしつつ
 火をつけ燃え上がらせたという行事で、
 市中の巷間で一般的に長い竹数本を立て
 正月の門松、注連(しめ)縄、
 書初めなどを地域ごとに寄せ集めて焚く。
 
 その火で餅を焼く風習があり、
 これを食べれば病気や災難などを
 除けられるという。
 
 三九郎・どんど焼は
 長野県で使われる名称である。
 
 この左儀杖と三九郎は
 実はサンスクリットに祖語を持ち、
 しかも同一語から転訛したものである。
 
 ここまで述べてきた
 インドの祭礼でいうところの
 サンクランティ 
 Samkranti/Sankranti がそれである。
 
 この用語はタイの三月中頃、
 ちょうどインドのホーリー祭の頃
 行われる水かけ祭 
 ソンクラン 
 Songkhla/Sankrandhi ともなっている。
 
 タイでは
 一週間国中どこへ行っても
 同様に色粉や水をかけ合う。
 
 最近は水ポンプで豪快にかけてくる。
 
 自動車のフロントガラスも
 赤粉で前が見えなくなる。
 
 それは、ともかく、
 左儀杖は、
 中世に左儀打とも書かれたが 
 (S)an(k)ran(t)I
 の三音を取ったもの、
 三九郎は、
 (S)(a)(n)(k)ranti の四音を
 取ったものである。
 
 どんど焼は左儀杖のサンスクリット語 
 danda の転訛したもので、
 杖のほか棒、竿、木を意味することは
 すでに述べたところである。
 
 この行事は
 ホーリー祭の主旨に同ずるもので、
 返ってホーリー祭の原点を
 補足説明をもしているのである。
 
 南インドでは、マカラ・サンクランティの日
 ポンガル Pongal という収穫祭が行われる。
 
 その主旨内容はホーリー祭に似ている。
 
 インド亜大陸の南端
 タミル・ナードゥ州がその中心であるが、
 スリランカのタミル人の間でも行われる。
 
 先に紹介したジャフナ市はその北端の都市で
 タミル・ナードゥ州と海峡を隔てて
 向かい合っている。
 
 牛小屋を焼いたのも
 実は一月十四日ポンガルの日のことであった。
 
 タミルと日本語との関係はもちろん、
 ポンガルと日本の民間風習
 との関連についても
 『日本語以前』に詳しいが、
 これら伝統的慣習の日本との対比は
 タミルに限られない。
 
 地域限定をはずしても貴重な報告である。
 
 信濃の三九郎について
 昭和三十二年(1957年)頃
 採集した記録の中から
 若干取り上げておきたい。
 
 三九郎を組み上げるための
 竹あるいは松の木は
 三・五・七の奇数本でなければいけない。
 
 この木は先にある枝葉だけは残して
 林から切り出される。
 
 正月の七日各民家で外された角松や注連縄を
 子供達が集めて小屋風の組立建てる。
 
 七日から十五日までの七日間、
 この小屋の中は
 子供達の寒さ除けの遊び場となる。
 
 どんど焼きの当日は、昼中の十二時、
 人々が各戸で正月の七日の日に
 米粉を練って丸め柳の枝にさし、
 家内の神棚などに掲げられていた
 繭玉という餅を持って集まって来る。
 
 火の点けられた三九郎は
 角松の油脂で炎がよく上がる。
 
 火炎が落着くと
 人々は繭玉を焼いて食べるのが楽しみである。
 
 信濃のポンガルについて、
 『日本語以前』は
 江戸時代の学者・菅江真澄が
 天明四年(1784年)に
 信州を旅した日記
 『すわのうみ』に
 ひろった鳥追いの歌詞を紹介している。
 
   今日は誰の鳥追、
   太郎殿の鳥追か、
   太郎殿の鳥追か、
   己(おら)もちと追ってやろ、
   ホンガラ、ホ
 
 昭和三十二年に長野県塩尻市で
 採集された歌詞を上げておく。
 
   今日は誰の鳥追いじゃ、
   太郎次郎の鳥追いじゃ、
   おれもちっと追ってやれ、
   ホンガラ、ホーイのホーイ
 
 子供達は歌いながら集落内の道路を
 東西南北歩き回るのである。
 
 集落境で隣り集落の子供達と
 ぶつかり合うと大変だ。
 
 追いやって来た災いの鳥たちが
 また舞い戻ってしまう。
 
 そこでゆずり合うわけにいかないので
 喧嘩となるのは止むをえない。
 
 しばらく騒いでさっと別れる。
 
 そうすると驚いた鳥たちは
 どこかへ行ってしまう。
 
 思金(兼)神の解説で
 信濃への
 サンスクリット語文化の流入を紹介したが、
 三九郎・どんど焼の原語も
 同様であったのである。
M.K記

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第一章 ホーリー祭 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 ホーリー祭

 ドゥルガー・プージャーが
 デーヴィー女神を賛美する
 豊穣祭であることが明らかになった。
 
 この祭礼は毎年九月下旬秋分の日
 (太陽暦九月二十三日頃)を
 はさんで行われる。
 
 また、
 この祭礼が大麦と関係が深いとみえてきた。
 
 実は、
 祭礼の終わった後、
 西インドでは
 大麦、小麦などの麦の耕作期を迎える。
 
 十月から十一月が播種期で
 翌年の三月・四月に収穫期がやってくる。
 
 その三月、
 春分の日(太陽暦三月二十一日頃)を
 はさんで行われるのが
 ホーリー Holi 祭である。
 
 インドのヒンドゥー暦(インド国定暦)での
 十二月大晦日と新年の一月一日が
 やってきて正月となる。
 
 インドのヒンドゥー暦の最終月は
 バーグン月というが、
 その満月の夜、つまり大晦日の夜に
 街や村の路地に枯木、古布、古い家具を
 積み上げ、
 魔女ホーリーになぞらえて
 火を燃え上がらせる。
 
 魔女ホーリーの名に依って
 ホーリー祭と呼ばれる。
 
 しかし、この魔女ホーリーの実像は
 いろいろの説があって実のところ解っていない。
 
 地方ごとに解釈が異なり、
 ドゥルガー女神のように
 地方によって名前が変わっても
 明らかに同女神であることが解るような
 共通性がみえていない。
 
 最もよく知られる伝承は、
 ある魔王が
 信心深い自分の息子をうとましく思い、
 自分の妹であり不死身だと知られた
 ホーリー(ホーリカー)が
 その息子を抱いている時
 火をかけ焼き殺させようとしたが、
 反対に妹が死んでしまい、
 息子は信心深さ故に
 助かったという神話である。
 悪いものを焼き滅し、
 信心深い者あるいは善いものの
 残り盛んになることを
 祈願する祭であると解釈されている。
 
 翌日が正月で、
 新しい月名は
 チャイトラ Caitra といい、
 月替わりのことを
 チャイトラ・サンクランティ 
 Caitra-Samkranti という。
 
 「チャイトラ月への移転」という味である。
 チャイトラは火神アグニと関係するので、
 この祭礼で魔女を殺すことと係りがある。
 
 さて、
 ホーリーはカナアン神話と
 関連がありそうである。
 
 カナアンとは、
 シリアの古代名で
 旧約聖書にいわれる地名である。
 
 ラス・シャムラで
 発掘された粘土板の神話のなかで
 冥界の神そして語られる
 ホロン Holon と関係すると思うのである。
 
 ラス・シャムラは、
 古代名ウガリットで、
 シュメール(シュメル)の時代から
 フルリ人の影響を受けたとみられる。
 
 特に彼等が支配者階層を占めたとみられる
 ミタンニ時代には商業市として
 経済を支えた地中海沿岸の港湾都市である。
 
 ジョン・グレイ『オリエント神話』によると、
 その粘土板には太陽の女神が
 大地から暗闇を取り去るように
 懇願されることによる詩句から始まる。
 
 次の詩句が出てくる。
 
 「大地の毒の力を
  有害な噛みつく獣の口から
  破壊的な大食漢の口から
  (暗闇を取り去って下さい)」
 
 さらに
 
 「我々が見出すところから判断して、
  そこには日照りへの言及があり、
  それは暗闇と一対になって
  太陽がぼんやりとかすんでしまうほど
  ひどい埃をもたらすシロッコ、
  すなわち砂漠の熱風を示している。
 
  我々はこの神話が植物を枯らしてしまう
  長期にわたるシロッコに対する
  特別の呪文としての
  蛇の「乳しぼり」との関連で
  用いられたと言いたい」
 
 と述べている。
 
 大地の毒の力とは砂漠の熱風
 すなわち
 旱魃を起こす自然の脅威を
 いっているのである。
 
 冥界の神ホロンは
 次に蛇の姿をした
 太陽女神の娘である女神に花嫁料、
 もしくは
 好意に対する報酬と思われるものを
 支配の約束をする。
 
 数段の物語の後、
 精力に満ちたホロンが
 女神のところへやってくるが、
 女神は家に鍵をかけて開けてくれない。
 
 彼女は彼に対し、呪文で家に鍵をかけ、
 彼女は彼に対し、家を閉じ、
 彼女は彼に対し、ブロンズ(のかんぬき)で
 鍵をかけた。
 
 ホロンはしきりに嘆願する。
 家を開けて下さい。
 宮殿を(を開け)、私を休ませて下さい。
 
 この後、女神はさらに要求する。
 蛇を幾匹か持って来て下さい。
 
 私の花嫁料として、
 爬虫類を持って来て下さい。
 
 私の愛の報酬として、蛇の血を……。
 
 ホロンはこれについても承諾する。
 
 グレイこれらの詩句を
 
 「長期にわたって吹き荒れる
  シロッコに対する呪文とみなしている。」
 
 と見解を付している。
 
 この後どうなったか解らない。
 
 粘土板が欠落しているからである。
 
 しかし、
 続く詩句の中でこの女神が
 家ごと鍵を掛けられて
 焼き殺されたと推測する。
 
 カナアンのホロンは冥界の男神である。
 ホーリーは魔女である。
 全くの異なりをみせている。
 
 プロトタイプのホロン神話があり、
 カナアンでは冥界の神に
 ホロンの名が与えられたが、
 インドに流入した神話では
 太陽女神の娘神が
 ホーリーとされたのであろう。
 
 枯木やボロ布を集めて
 魔女ホーリーに見立てて燃やすというのは
 カナアン神話でいう
 太陽女神の娘神に擬装しているのである。
 
 大野晋著『日本語以前』によると
 スリランカのジャフナ付近では
 祭りの日
 円屋根がつき木材で建詰めされた
 牛小屋を焼いてしまうという。
 
 ウガリットは後に地中海沿岸に建国された
 フェニキアに吸収されたが、
 ウガリット語を基礎にしたフェニキア文字は
 ギリシャに取り入れられ、
 
 現在我々が日常的に使っている
 アルファベットを誕み出した。
 
 このアルファベットの
 アルファはセム語の牡牛を意味する
 alp が
 ギリシャ語に取り入れられたものである。
 
 ギリシャ語の 
 αλψιτ は碾割(ひきわり)大麦を表し、
 碾臼で大麦をあらびきするのに
 牛が活躍した名跡と考えられる。
 
 さて、カナアンの冥界の神ホロンは
 ギリシャ語で 
 κορνη となり、
 棒、棍棒、杖の意味である。
 
 つまり、
 これは穀物を脱穀するのに使われ
 杵をもいうのであろう。
 
 インドの 
 Holi のサンスクリット類似語は
 khali で杵をいう。
 khali-stoka で杵臼を表す用例がある。
 khala は打穀場を時には穀物そのものを表す。
 
 その上興味ひくことに 
 khalā は悪婦をいう。
 
 ヨーロッパの言語に拾ってみると、
 ドイツ語では prügel で棍棒、むち打ちを
 英語では pole で棒、柱、竿の意である。
 
 さらに同意語を
 サンスクリット語に捜ってみると
 danda があり棒、杖、竿、木を表す。
 danda はインド神話の地界の、
 つまりホロンと同じように冥界の神
 ヤマ Yama 神の武器である。
 
 このようにみてくると
 ホーリー祭の実像がみえてくる。
 
 暑さを増しつつある三月のこの時季、
 旱魃をもたらす砂漠の熱風の代名である
 毒婦を火神アグニの神徳で追放し、
 収穫が近づいた大麦などの
 麦類の豊饒を願って、
 採入脱穀の象徴である杵を神格化して崇め、
 火神アグニに
 使い古しの杵や竿を火に投じて
 ささげたのである。
 
 アグニ神には人々に災苦をもたらす
 魔界の力を圧えつける力があるのである。
 
 悪魔を容赦なく絶滅させた物語は
 インドで最古の聖典
 『リグ・ヴェータ』から語られている。
 
 巷間に人気高い物語は
 『ラーマーヤナ』に
 ラーマ王子の宿敵として登場する
 暴虐の魔王ラーヴァナも
 アグニ神にはかなわない。
 
 コントロールされるのである。
 
 ホーリー祭の翌日はお正月である。
 
 新年を迎えたことを祝って人々は、
 午前中は色粉や色水を互いにかけあう。
 
 いわゆる水かけ祭である。
 
 午後になると着飾って
 親戚や教師、職場の上司など
 常日頃お世話になる人々に
 新年の挨拶をするため出かける。
M.K記

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第一章 淀姫と矢保佐神社 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第一章 淀姫と矢保佐神社》
 大麦は日本神話にも登場する。
 
 『古事記』の大気比売神の屍のうち
 陰部に麦が生じ、
 『日本書紀』の保食神の段にも陰部に
 大豆・小豆共に化生したことが
 述べられている。
 
 麦との表現だけでなく
 大麦なのか小麦など
 他種の麦なのか判明しないが、
 以下の考察によりやはり
 大麦が優先されると考えられる。
 
 保食神の祀られている神社として、
 長崎県松浦市御厨町郭公尾免の
 保食神社を上げたが、
 延喜式神名帳には
 記載されてはいない神社とはいえ、
 たいへん興味を引く神社である。
 
 保食神、ウケ・雄牛を
 食膳とする神であることは
 すでに述べてきたところである。
 
 この保食神社のある地名御厨町の
 「厨(くりや)」は
 サンスクリット語 
 kriyā の転訛である。
 
 本来は、製作、実行、仕事の意味であるが、
 祭式、供犠、儀式を意味し、
 調理をも内容とする。
 
 保食神の調理場が
 この地区の名称なのである。
 
 この地方に
 神社への御供所としての認識は
 古くからあったと知られている。
 
 御厨の地名は
 鎌倉期に宇野御厨荘としてみえ始める。
 
 延喜式には
 「肥前国堧野牧」が載っているが、
 この牧では牛が養育されていたと思われる。
 
 後の「国牛十国」には御厨牛の名があり、
 
 「肥前国宇野御厨が牛を貢めたので、
  これを御厨牛と称する。
  角が長く、骨は太く、皮突は厚く、
  えだ肉も太い。
  ほとんどの牛は(体躯)大きい。
  中世・古代の名牛は、
  多くの場合
  ここから産出されたものである」
 
 と紹介されている。
 
 御厨の地名は、
 史料的には鎌倉期からであるが、
 実際は
 それよりかなり古いものと推測できる。
 
 堧野牧もやはり
 「クリヤ牧」であったと考える。
 
 松浦市御厨町に僯して志佐町がある。
 
 その志佐町浦免に淀姫神社が鎮座している。
 
 淀姫とは、
 実にドゥルガー女神を呼んだものである。
 
 淀はサンスクリット語の 
 yodha または yudha の転訛で、
 軍兵、武士をまた戦闘、合戦を表す。
  
 ドゥルガー女神を戦闘の女神と解釈し、
 直訳寄名したのである。
 
 さらに、御厨町および調川町に
 矢保佐神社と称する神社が鎮座している。
 
 このこれまで正体の知られなかった神社も
 正にドゥルガー女神信仰に
 係わっていたのである。
 
 矢保佐は大麦のことである。
 
 サンスクリット語の
 大麦 yavasa で、
 その転訛が矢保佐なのである。
 
 この地方ではドゥルガー女神を信仰し、
 大麦を供え、その豊饒を祈願したのである。
 
 そして女神から、
 つまり神社から供物として、
 麦芽モルツが人々に配られたと考えられる。
 
 というもの、
 この地方名松浦郡は
 「魏志倭人伝=魏書倭人章」に登場する
 末廬に依拠し、
 末廬はマツーラ、
 麦芽モルツから作られた
 水飴あるいは麦芽糖のことで、
 
 サンスクリット語 
 madhuura の転訛した甘味、甜、蜜、
 石蜜奨を意味する。
 
 後世仏教の時代となって、
 お花祭り、
 つまりお釈迦さまの誕生を祝う祭りの日、
 寺院では訪れた信者に甘茶が
 ふるまわれたことにも共通する。
 
 この慣習は
 古代インドの神々の恵み
 甘露を礼拝者にふるまったことに由来する。
 
 松浦とは、
 そのように天の神の恵みの土地なのである。
 
 現在松浦郡は
 佐賀県と長崎県にまたがっているが、
 矢保佐神社は
 唐津市、西有田町、呼子町、松浦市、
 平戸市、佐世保市などに広がっている。
 
 また、
 淀姫神社も
 矢保佐神社の分布と重なるように
 佐賀県、長崎県に分布しているが、
 特に取り上げておきたいのは、
 佐賀県佐賀郡大和町の河上神社である。
 
 延喜式神名帳に肥前国四座のうち、
 佐嘉郡一座として記載されている
 與止日女神社の比定社である。
 
 祭神は與止日女命で、
 欽明天皇の時に創祀されたとの
 伝承を持つ古社である。
 
 大和町の北富士町無津呂も
 末廬(松浦)と語源を同じくとする。
 
 Madhura は、
 古代インドで都市名に取り入れられ
 現在にまで至っている。
 
 あの
 「本生図と踊子像のある石柱」が
 発掘された町
 マトゥラー Madhurā 市、
 英語でマッラ Matura と称せられる
 古代紀元前七・八世紀に
 十六国の一に数えられた
 マッヤ Matsuya 国の首都のことである。
 
 長崎県松浦郡の地名について補足すると、
 佐々(ささ)町は薬草、草、穀物を意味する 
 sasa 、
 佐世保(市)は若草あるいは発芽した
 穀物の芽、
 ここでは麦芽を意味する 
 śaspa の転訛である。
 
 マッーラは、
 ドゥルガー女神の供物ではあるが、
 古代には
 健康を保つために極めて重要なもので、
 ときには薬としても重宝がられたのである。
 
 松浦市の西に田平(たびら)町がある。
 
 田平はデーヴィー Devi の転訛で、
 町内に
 淀姫神社(上亀免)、
 矢保佐神社(山内免)が鎮座している。
 
 この田平あるいは歴史の経緯のなかで
 田之平称される在所は
 長崎県内にかなりある。
 
 (松浦市志佐田平免、
  南高来郡吾妻町田之平免、
  南串山町京都泊名の田平、
   北有馬町田平)
 
 また、
 このデーヴィーの転訛と判断できる地名に
 田原がある。
 
 (松浦市御厨町田原免、
  平戸市田原免、
  佐世保市田原町、
  北松浦郡佐々町本田原免、
  小佐々町田原免、
  吉井町田原免、
  北高来郡小長井町田原名)
 
 また、
 田平町田代免にある阿羅仁神社には、
 曙晄を表す 
 aruni を神社名としたもので、
 デーヴィー女神に係わる呼称である。
 
 田平町の南に鹿町町がある。
 
 鹿町カーマ 
 Carma で皮革、獣皮の意であり、
 同町内には五社、
 東隣りの江迎町内に五社、
 田平町内に四社鎮座の鎌倉神社と
 関係している。
 
 つまり、
 鎌倉は 
 Carmakārā/Cammakārā の転訛で
 皮革職人または皮製物品を表すからである。
 
 平戸市のある平戸島の平戸は
 和名抄で庇羅郡、
 『日本後紀』に値賀島と載ることを
 考慮すると、
 やはりサンスクリット語の
 智恵、知識を意味する
 veda の転訛であることを指摘しておきたい。
 
 最後に、
 淀姫神について肥前国風土記に載る
 景行天皇の妹君の名が
 淀姫(豊姫・世田姫)で、
 その姫を祭るとの由来伝承を
 どう評価するかであるが、
 『角川地名大辞典』がいう通り
 真偽の程は疑わしい。
 
 京都府伏見区淀本町に
 「與杼(よど)神社」がある。
 
 同社はまた
 佐賀県大和町の与止日女神社から
 平安時代の応和年間に招請されたので、
 淀姫神社とも呼ばれる。
 
 延喜式乙訓郡に記載された古社である。
 延喜式山城国に葛野郡に坐す
 「大酒神社元名大群神」があり、
 大群神はまたデーヴィー神を表す。
 
 「大酒」とされるのはドゥルガー神の別称
 麻多羅 madira を祭神としているからで、
 「酔わせるもの、酒精飲料」を意味している。
 
 兵庫県赤穂市坂越(さこし)に大避神社がある。
 
 祭神は大避大神で大酒大明神ともいう。
 
 同社の所在地坂越は古史料に
 尺師と記されているようにシャクシで、
 延喜式山城国乙訓郡に載る
 
 「白玉手祭耒酒解(さかとげ)神社名神大
  元山埼社」の社名と同様
 
 サンスクリット語 
 šakti の転訛であり、
 シヴァ神の神妃としての
 デーヴィー神を象徴する。
 
 「白玉手祭来」は
 現在の京都市右京区梅津フケノ川町の
 梅宮大社の地をかっては玉手といったためで
 「延喜式」葛野郡に
 「梅宮坐神田社並名神大」
 と記載されている
 同社より酒解神を招請し奉祭したという
 説明書きをつけているのである。
 
 梅宮のウメは
 ウマー Umā で、
 これもデーヴィー女神の別称である
 酒解神がデーヴィー女神であることが
 これでも解かる。
 
 社伝によると
 同社もまた
 現在の綴喜郡井手町付近の
 山城国相楽郡井手庄から
 平安初期に鎮座替えされたという。
 
 井手には現在玉川が流れ、
 玉水あるいは玉津の地名がある。
 
 ところで「井」は
 セキ、シャウと訓ずるので
 「井手」の音読はシャクティであり、
 デーヴィー女神を表している。
 
 京都から流れて大阪湾に入る淀川は
 この淀姫の名に依る物である。
 
 ただし、
 応和年代(961~964)は
 神名帳の編まれた
 延喜(901~923)より後なので、
 神名帳に記す同社の祭神については
 別の解釈をしなければならない。
M.K記

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第一章 ドゥルガー・プージャー [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]



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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第一章 ドゥルガー・プージャー》
 豊穣の女神として、
 現在でもインドの人々に
 日常的にいかに崇拝されているかは、
 彼女の図像が
 民家の台所やレストランの厨房に
 掲げられていることで明らかである。
 
 ドゥルガー女神信仰は
 東インドのベンガル地方と
 南インド地方に盛んといわれる。
 
 女神を祀った寺院は、
 ヒンドゥー教徒が
 沐浴の聖地として訪れることで
 有名なガンジス河岸、
 ウッタル・プラデーシュ州の
 通称ベナレス、ワーラーナシー市にある。
 
 猿が多くいることで有名な
 モンキーテンプル・ドゥルガー寺院や
 インド亜大陸中央部に広がるデカン高原の
 カルナータカ州北部
 バーダミ市郊外のアイホーレにある
 ドゥルガー寺院が名高く、
 多くの信者を集めている。
 
 しかし、
 注目すべきはドゥルガー・プージャーである。
 
 毎年九月秋分の日をはさんだ
 数日間行われる祭礼のことである。
 
 プージャー pujā とは礼拝供養を意味する。
 
 その祭神が女神であることにより
 女性の活躍する祭りとして
 各地において盛大に行われる。
 
 地方ごとに
 その祭事の様相に異なりをみせている。
 
 ベンガルのある地方では
 街角や路地に紅白の幔幕を張り廻らし、
 中に祭壇をしつらえ、
 ラクシュミー、サラスヴァティーの
 女神像と共に、
 ドゥルガー女神の図像が中央に掲げられる。
 
 祭礼の日には、
 香が焚かれて煙がたなびくなか、
 太鼓が鳴り、人々は盛装して参拝に訪れる。
 
 プージャーは礼拝であるので、
 供儀つまり動物を殺して
 献げるようなことはしない。
 
 しかし、
 供養として果物や穀類は献げられる。
 
 祭礼の主旨は、
 ドゥルガー女神が雄牛の姿をした
 悪魔マヒシャを退治してくれたことに感謝し、
 女神を讃えて礼拝するというものである。
 
 カルカッタ市のある地域では、
 地域の名家や共同体が寄付金を集めて、
 等身大あるいはそれ以上に大きい
 豪華な女神像を作り上げる。
 
 もちろん十の腕を備え、
 目を剥いた怒りの形相である。
 
 祭りの日多くの女性が集まる。
 
 祭司による礼拝儀式の後、
 女性たちは天界に帰るという
 女神の旅路のために食物を供える。
 
 食物を献げることが
 供養プージャーなのである。
 
 女神の祝福を受けた既婚の女性たちだけが
 相互の額に赤い粉をつけ合って
 平穏な生活が続くことを願うという。
 
 祭礼の日の夕暮れ、
 祭りの最後には
 男たちが女神像を担ぎ出して、
 ガンジス川の支流フグリ河畔に向け練り歩く。
 
 川岸に着いてから船に像を乗せ、
 河の中程まで運び流れに乗せる。
 
 女神はガンジス河に入り、
 巡り廻って天界に帰っていくというのである。
 
 ドゥルガー女神が
 豊穣の女神であることを
 うかがわせる報告が
 小西正捷の
 『インド民衆の文化誌』にみえる。
 
 バナナの若芽が女神の姿にされて
 祭壇に供えられること、
 ビルヴァ(ベール)の木や大麦が
 密接に関わっているとの報告である。
 
 特に
 
 「プージャーの第一日目に
  大麦の種が播かれ、
  十日目に引き抜かれて
  モヤシ状となったものを
  供物として信者に配る。
 
  米どころのベンガルで、
  なぜわざわざ大麦が
  重要視されるのかは
  この祭りの起源を
  示唆するものかもしれない」
 
 と書いている。
 
 そうなのである。
 
 大麦は、
 ドゥルガー・プージャーを考える上に
 大変重要な用件である。
 
 大麦は、現在のインド人を構成し、
 インド文化の基礎を築いた
 アーリア人の原初的な
 主食作物であったのである。
 
 しかも彼らは牛の遊牧が
 得意であったらしい。
 
 大麦は紀元前九千年以前から始まった
 農耕文化の中で
 重要な役目を持っていた。
 
 ヨーロッパから
 中近東、エジプト、ペルシャ、
 インダス河流域まで、
 その耕作地域は広い。
 
 メソポタミアでは、主要食料であり、
 経済の主人公でもあった。
 
 日本の江戸時代における
 米の役目を果たしていたのである。
 
 税として徴収され、
 都市の中には俸給として
 役人などに配給されたり、
 労務者の俸給として支給した例もある。
 
 インダス文明の
 モヘンジョダロやハラッパの遺跡では
 遺物の中に大麦が発見されている。
 
 この大麦、豊饒を願う犠牲祭において、
 供儀される動物の頭にふりかけられるのが
 儀式の慣例であった形跡がある。
 
 ギリシャ語と残る 
 ολαι 、ολων は
 その大麦の粒のことで、
 屠殺の前に犠牲獣の頭にふりかけた。 
 
 この慣習は、
 中国雲南省の少数民族の殺牛儀礼にも、
 大麦が穀物特に米の粥に交替しているが、
 踏襲され反映している。
 
 大麦の「モヤシ状なるもの」は
 明らかに麦芽である。
 
 麦芽が礼拝者に配られることは、
 ドゥルガー女神が
 豊穣の女神であることの
 明白な証左であろう。
 
 麦芽は、
 ビールの原料つまりモルツであり、
 水飴を作ったり、
 麦芽糖の原料にされた。
 
 ビールは
 メソポタミアのシュメル時代に
 すでに醸造され、
 祭礼にも用いられた。
 
 モルツは、
 ドイツ語で Malz 、
 英語で malt 、
 サンスクリット語では valśa 、
 芽あるいは枝の意にはなっている。
 
 大麦を表すサンスクリット語は、
 穀類穀粒をも意味する 
 yava ないし yavasa である。 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第一章 デーヴィー・マハートミヤ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 デーヴィー・マハートミヤ》
 ここに造形されたモティーフは
 ドゥルガーの英雄譚
 「デーヴィー・マハートミヤ 
  Devi-mahatmya 」に依拠している。
 
 デーヴィーは前に述べたように
 ドゥルガーの本称、
 マハートミヤは大勝利、大業の意で
 「デーヴィーの大威徳伝」
 というのが名称である。
 
 シヴァ神の女性的力( śakti )の
 象徴であるデーヴィーには二面がある。
 
 猛々しい一面とやさしい一面である。
 
 前者の代表はウマーで
 ヒマラヤ山の生まれで黄金の神である。
 
 ドゥルガーは後者の猛々しい姿を表す。
 
 この神名は本来
 水牛の悪魔の名前であって、
 彼女が、このドゥルガーと呼ばれた
 マヒシャースラを殺したことにより
 その名を与えられたのである。
 
 英雄譚には悪魔との戦いの原因、経緯、
 最後に悪魔を死に至らしめた
 戦いの情景が描かれている。
 
 ヴェロニカ・イオンズの
 「インドの神話」に
 その戦いの有様を紹介してもらう。
 
 この神話は、
 悪魔ドゥルガーが三界を征服し、
 神々を天国から追い出し森へ入って
 暮すよう強制したことに始まる。
 
 神々はシヴァ神に助けを求めたが、
 彼は妻であるデーヴィーに
 相談してほしいといい、
 デーヴィーは助力を承諾した。
 
 神妃デーヴィーは
 特別に創りだした闇夜を送ったが、
 悪魔たちには勝てなかった。
 
 そこでデーヴィーは
 自ら戦いに加わることを決意し、
 カイラーサ山を出発した。
 
 戦いに臨む彼女は
 猛々しく威嚇的な表情になり、
 十本の腕を持ち、虎に乗っている。
 
 神々は悪魔退治に向かう彼女に
 それぞれに象徴される武器を
 十本の腕に携えるよう与えた。
  
 ヴィシュヌ神の円盤、
 水の神ヴァルナの巻貝、
 火の神アグニの燃える投槍、
 風の神ヴァーユの弓、
 太陽神スーリヤの箙と矢、
 地界の神ヤマの鉄棒、
 インドラ神の稲妻、
 財宝神のクベーラの棒、
 龍神シェシェの蛇の花輪、
 山岳神ヒマラヤの攻撃用の虎
 
 がデーヴィーの武器となったのである。
 
 デーヴィーがマヒシャの領土に近づくと、
 悪魔は彼女を捕らえようとした。
 
  マヒシャの軍勢、
  一億台の戦車、
  一千二百億の像、
  一千万頭の馬と
  無数の兵が待ち構えていた。
 
 デーヴィーも援軍として
 さまざまな被造物を集め整えた。
 
 戦いが始まる。
 
 デーヴィーは
 矢の嵐と木と岩の洪水に攻撃された。
 
 しかし、
 一千本の腕を生やしたデーヴィーは
 ドゥルガーに武器を投げつけた。
 
 武器は彼の軍勢の多くを死滅させた。
 
 ドゥルガーは二本の燃える投槍で
 これにこたえたが、
 デーヴィーは一千本の腕でこれをかわした。
 
 別の一本の矢、一本の棒、一本の大釘も
 女神によってかわされた。
 
 そして、
 女神は悪魔を捕らえ、その上に足をにせた。
 
 彼はもがいて逃れ、戦いは再開した。
 
 今やデーヴィーは
 おのれ自身の身体から
 九百万の被造物を創出し、
 
 これらが悪魔の全軍を打ち滅ぼした。
 
 彼女はまた武器サショヌを持ち出した。
 
 これはドゥルガーの作り出した
 霰(あられ)を伴った嵐から彼女を守った。
 
 それから、
 悪魔は彼女めがけて山を投げた。
 
 彼女はそれを七つに切断し、
 矢を打ち込み、無害なものにした。
 
 今や、
 ドゥルガーは山のように
 大きい象に化けたが、
 デーヴィーの偃月刀のような
 瓜によって切られ、断片となった。
 
 すると彼は、巨大な水牛となり、
 その鼻息によって木々をちぎり、
 これを石や山と一緒に
 女神めがけて投げつけた。
 
 しかし、
 デーヴィーは三叉槍で彼を突き刺し、
 その正常な姿
 ―千本の腕をもち、
 その―本―本に武器を携えている悪魔
 を取り戻すよう強制した。
 
 女神はその千本の手で彼の腕をつかみ、
 引きずりおろした。
 
 それから、
 彼女は―本の矢で彼の胸を貫いた。
 
 彼は死んだ。
 
 血がその口から流れ出た。
 
 勝利のあと、
 デーヴィーは自分の名をドゥルガーとした。
 
 こうして
 デーヴィーとマヒシャとの戦いは収束したが、
 水牛ないし牡牛を殺戮する場面が、
 エローラ石窟第一四号窟に
 浮彫された情景なのである。
 
 デーヴィー・マハートミヤには、
 デーヴィーの英雄譚として
 さらに別の物語を載せている。
 
 一万一千年に及ぶ苦行の功徳によって
 シヴァ神からいかなる神の攻撃を
 受けないと保証を得ていた
 スンバとニスンバという
 兄弟の悪魔との戦いの物語である。
 
 さまざまな軍勢との戦い後、
 デーヴィーは
 スンバとニスンバと一騎打ちで戦い、
 双方を殺し勝利を収める。
 
 このようにして、
 デーヴィーは神々を代表し悪魔と戦い、
 勝利を得て戦いの女神として
 象徴化されたのである。
 
 だが、
 戦いの相手となったドゥルガーは
 単に水牛の化物で
 悪事を働いたからというだけなのだろうか。
 
 そうではない。
 ドゥルガーは、
 自然の脅威、旱魃を象徴しているのである。
 
 ドゥルガー女神の神名が 
 durga 、
 つまり困難を冠したものであることを述べた。
 
 この語には困難のほか、
 近づき難きもの、近づき難き処、
 険阻な処の意味がある。
 
 しかし、
 これでは抽象的すぎる。
 
 そこで同語義で語音の近い用語を
 インド・ヨーロッパ語に捜ってみると、
 
 英語に drought が出てくる。
 
 dry に由来した旱魃を意味する用語である。 
 
 ドイツ語の同義語は dürre 、
 ギリシャ語では 
 δηλησνζ 破壊 
 δηλητηρ 破壊者と変化する。
 
 デーヴィーの戦いの端緒は
 「ドゥルガーが、神々を天国から追い出し、
  森へ入って暮すよう強制したこと」
 であった。
 
 多分人々は旱魃のために
 耕地が破壊や疲弊し、
 作物の収穫が上がらず、
 止むを得ず森林の産物、
 バナナなどの果物や果実に頼って
 生活しなければならなくなった経験があり、
 古代のインドの人々にとって
 旱魃といかに対処するかが
 重大な仕事であったかを
 教えてくれる神話なのである。
 
 旱魃がいかに過酷で過重な苦闘が
 繰り返されたかを物語りにしたのが、
 デーヴィーの水牛あるいは牡牛の魔物
 マヒシャまたの名ドゥルガーとの
 戦いなのであった。
 
 そして、
 悪魔との戦いに勝利する。
 
 つまり自然の脅威や災害に打ち勝って後
 もたらされるのは豊饒の喜びである。
 
 ドゥルガー女神はまた豊穣の女神、
 安穏を与えてくれる女神なのである。
 食料を豊富に確保し食膳の喜びを
 与えてくれる女神なのである。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第一章 ドゥルガー [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 ドゥルガー》
 天鈿女命が神懸りして神に舞踊を奉納する
 巫女であることは明らかである。
 
 しかし、
 三叉の矛を持って牛を伏す
 荒々しい姿はまだみえてこない。
 
 全ページの
 「踊り子像のある石柱」に
 そのヒントはある。
 
 踊り子の足下に
 「蹲る獅子」が彫られていることで、
 この踊り子は
 獅子の上に立つ巫女と考えられるのである。
 
 そのような姿を持った物語伝承が
 インドにはあるのだろうか。
 
 全く驚きであるが、
 怖ろしい虎(獅子)を乗物として支配し、
 戦う神として
 
 「(獅子に乗り)三叉の矛で
  水牛あるいは牡牛を刺し殺す女神」
 
 がいるのである。
 
 その女神の神名が
 ドゥルガー Drugā である。
 
 艱難(druga)を冠されたこの女神は
 バラモン教の最高神の
 シヴァ Siva 神の神妃で、
 インドの神々が
 一般にかなり多くの別称を
 持っているのにならい。
 
 デーヴィ、サティ、ウマー、
 パールヴァティ、カーリー、ガウリ
 とも呼ばれる。
 
 それらの神名は
 それぞれに特有の神話に彩られている。
 
 ドゥルガー神に与えられた尊称は、
 この女神の神話、崇拝の謂れを教えてくれる。
 「マヒシャー・マルディニー 
  Mahiśa-mardini 」はその尊称である。
 
 mahiśa は
 水牛ないし牡牛を意味する魔物の名、
 mardini は殺す者、
 英語の murderei で
 「悪魔水牛を退治するもの」となる。
 
 またの尊称 
 Mahiśâsura-sudini は
 「水牛の魔神を圧しつぶすもの」の意である。
 
 三叉の矛を逆手に取って
 水牛または牡牛に突き立てている
 女神がドゥルガーの造形を
 捜し出すのは容易い。
 
 なぜならば、
 現在においても一般に親しみのある
 モティーフであるからである。
 
 ヒンズー教の神として印刷された図像は
 インドの人々の日常生活に入り込んでいる。
 
 各家庭の台所やレストランの調理場に
 張られているし、
 名刺大のカードに印刷された女神は
 人々の懐に入れられ持ち歩かれている。
 
 食膳の神として
 豊穣の神として
 尊崇されているのである。
 
 西インド、ヴィンダヤ山脈の南方
 アウランガーバード
 北西に名高いエローラの石窟がある。
 
 仏教、ヒンズー教などの石窟が七十余あり、
 その地域は約2キロメートルに亘っている。
 
 その中の第一四窟に
 ドゥルガー像が浮彫りされている。
 
 憤怒の形相の女神は
 左手で牛の口先を圧さえ、
 右足でその臀部を踏みつけ、
 右手を逆手に矛を持って
 水牛の背に突き立てている。
 
 この戦いに臨んだ
 女神は十本の手に
 十の武器を手草んでいるのだが、
 ここでは四本の手に武器を持たせている。
 
 この姿こそ
 『古事記』にいう
 
 「小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて
  天の石屋戸に汗気伏せて蹈み登杼呂許志」
 
 の実像と考える。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第一章 インドの踊子と天鈿女命 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 インドの踊子と天鈿女命》
 天鈿女命が御巫であり、
 石屋戸前の神集いで御巫舞を踊ったことは
 すでに理解できただろう。
 
 古代インドの舞踊とは
 どんなものであったのだろう。
 
 まず写真を参照する。
 
 これは1984年3月から7月にかけて
 東京と京都で開かれた
 インド古代彫刻展に出展された
 「本生図と踊子像のある石柱」の
 正面写真である。
 

 前2世紀から1世紀の
 シュンガ朝時代に製作されたもので、
 ニューデリから南方へ
 タージ・マハルで有名なアグラへ行く途中
 中程のマトゥラー市で出土した石柱である。
 
 石柱の高さは202センチメートルある。
 
 カタログ説明をそのまま記載する。
 
 「玉垣の石柱に浮彫りヤクシー像が
  大きく表現されている。
  正面向きで、しなやかな服を交叉し、
  両手で条帯をもって舞踊する姿である。
 
  豪華な結髪や髪飾り、蘡珞、腕釧、
  緩帯、足環にいたるまで
  細密克明に表現し、
  当時の宮廷の踊り子の姿を追感される。
 
  上部のメダイオンは仏陀の前世の物語が、
  下には踊る獅子が彫られている。
 
  豊満な乳房や陰部の大らかな造形は、
  この女神が豊穣吉祥を象徴している
  インド的な
  造形の一つであることを示している。」
 
 正に踊り手である天鈿女命を髣髴させる。
 
 「胸乳を掛き出で、
  裳緒を番登(ほと)に忍し垂れき」
 
 と表現されてる舞衣裳そのままである。
 
 裳緒は衣裳のひもで、
 これを持って
 番登を隠したり見せたりしたというのである。
 
 「垂れき」は単に下げたという意味ではない。
 
 本地垂迹説と使われているように
 「垂」は顕現、顕れるの意である。
 
 また
 福岡県久留米市御井町の
 高良玉垂命神社の祭神名に入っている。
 
 祭神高良玉垂命については諸説あるが、
 鏡を神格化したものといえる。
 
 サンスクリット語の鏡を意味する 
 atam-darsu は、
 自己を見る、我見 
 ātam-darsin から派生した用語で、
 
 drsa は眺め、 
 darsiká は顕(うつし)、
 drsi は観ること、視、試みること、
 その動詞は 
 drs は見る、発見するの語義である。
 
 日本語のうちにも
 「顕」を意味する「垂」の用法例はある。
 
 「みたらしだんご」がそれで、
 その実状をよく教えてくれる。
 
 透明の掛け汁によって
 内の身団子が見えるように調えられている。
 
 これが
 あんこや海苔で巻かれたものは
 「みたらし」ではない。
 
 ごまだれ、醤油だれ、蒲焼のたれなど
 透明性があって
 中身の姿形を隠さない調味料をいう。
 
 最近家庭の食卓に乗るようになった
 ドレッシング dressing は
 英語名のたれである。
 
 これは dress 
 古語で drest に由来する。
 
 最近は
 服を着る、着飾る、正装するなどの意味で
 使われているが、
 本来は観せる、顕わすにある。
 
 Dress は観せるための衣裳を着ることで、
 肉体を透かせても隠さず
 露わに観せる衣裳をいう。
 
  Dressing-table は鏡台、
 単なる dressing は鏡つきタンスをいう。
 
 ドイツ語では 
 tracht (衣裳、流行)、
 動詞 trachen は
 試みる、志す、見出そうとするである。
 
 「垂」は
 インド・ヨーロッパ語圏の用語である。
 
 石柱の踊り子も腰から二股にかけて
 薄手の衣裳紋様が刻まれ、
 後にも下っているので
 透けた衣裳を着けていたとも考えられる。
 
 股の交叉は
 この女神が踊っているいることを示す。
 
 サンスクリット語で舞踊のことを 
 thandava という。
 
 ドイツ語でtanz 、
 英語で dance であるが
 タンダ(田手)は古代日本へも入った。
 
 次に、
 「蹈み登杼呂許志」
 「足を踏みならし」
 である。
 
 足を踏み鳴らして踊るダンスの代表に
 スペインのフラメンコがある。
 
 この舞踊は
 スペイン固有の伝統芸能ではない。
 
 伝承によると
 インドから流れ流れやって来た
 流浪の民によって始められたという。
 
 あの激しい足踏みとリズムは
 見聞する者を次第に陶酔させ
 恍惚した気分に吸い込んでいく。
 
 踊り手は次第にいわゆる
 「神懸り」し
 聴衆をその境地に曳き込んでいくのである。
 
 インドの伝統舞踊の中に 
 katak がある。
 
 かっては
 吟遊詩人が演じていた舞踊である。 
 
 日本でも靴音を
 「カタカタ」と表現するが、
 インドでも 
 katakata という。
 
 Katak は
 この足踏みから取られた名称らしい。
 
 現在インドの宗教は
 ヒンドゥー教が大勢であるが、
 その hindu の語幹 hind には遍歴、
 つまりさまよい行くの意味があり、
 吟遊詩人が各地を道遙しながら
 神譯を歌い上げ神々を賛美したのである。
 
 そのような吟遊詩人たちによって
 演舞された 
 katak は宗教的雰囲気の強いもので
 「神懸り」的ダンスと理解できる。
 
 阿知女作法で伴奏として
 和琴のみが奏されると紹介したが、
 フラメンコの場合もギターのみが伴奏し、
 歌と踊りから構成されている。
 
 ダンサーは男女双方にいる。
 
 katak も同様
 男女両方が舞うことが許されていた。
 
 この舞踊は16世紀になって成立した
 ムガール帝国の宮廷舞踊に取り入れられ、
 形式化されたのである。
 
 また 
 katākali という伝統舞踊があり、
 こちらは男性のみが舞い手になれた。
 
 大きな冠をかむり、
 スカート状の衣裳を着けて
 日本の歌舞伎のような劇中で舞われた。
 
 男性が女性の姿となって演舞した。
 
 インドの伝統舞踊のうち最も古いと
 考えているのが 
 Bharata-nātga で、
 バラータは
 日本を「やまと」と呼ぶのと同じ
 インドの古名、
 ナークは舞踊を意味するが、
 使われ始めたのは比較的新しく
 西暦4、5世紀らしい。
 
 しかし、
 この舞踊は巫女が寺院で
 神に奉納した舞踊に起源があるといわれ、
 インダス文明にまで遡及する
 と解説されている。
 
 「本生図と踊子像のある石柱」に
 造形された女神は
 「豊穣吉祥」を祈願する舞姿であり、
 天鈿女命の舞姿であると理解できる。
 
 巫女たちは少女のうちに、
 つまり月経が始まらないうちに
 寺院に献げられ
 激しい特別の訓練を受けるという。
 
 《参考》
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、
 マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に
  描かれている) 
 本生図と踊子像のある石柱
M.K記

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第一章 豊宇気毘売神(登由宇気神) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第一章 豊宇気毘売神(登由宇気神)》
 ウケは牡牛の意味であり、
 また
 「食物、食膳、饌」の意に
 用いられることが明らかになった。
 
 ここに至って
 豊宇気毘売神に触れない訳にはいかない。
 
 いうまでもなく、
 伊勢神宮、天照皇大神宮の
 御饌都(みけつ)神として
 外宮に祀られている
 豊受大神にことである。
 
 御饌都神は
 「ミケツ神」と称されてきたが、
 大気都比売と同様に
 「オケツ神」と読み替えるべきだろう。
 
 豊宇気毘売神のトヨ(豊)は
 「多く富んだ」であるが、
 別称の「登由」から判断すると
 
 サンスクリット語の 
 dgu (天上の、天界の、神の)の音写で、
 
 登由宇気は神の食膳
 「神饌(しんせん)」と理解される。
M.K記
 

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