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第二章 高床式建物と神殿 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 高床式建物と神殿

 

アルパチャの碗形土器に描かれた

高床式建物

ARPACHIYAH1976.jpg

 

 再三アルパチャ遺跡の碗形土器に

 戻ることになるが、

 容器の底円形の中に描かれた図柄は、

 日本人の想像力には

 瞬間的に反応できるものである。

 

 神社の高床式神殿を

 簡単に連想できるからだが、

 ヨーロッパの人々にはそうはいかないだろう。

 

 階段を備えつけた神殿は

 日本の神社の本殿そのものの構造をもつ。

 

 この高床式建物に表された想念は、

 これまでの牛頭信仰の基礎にあった

 埋葬儀礼を抜け出しており

 葬送と関係はなくなっていると思われる。

 

 「牛頭」を崇拝の対象とした信仰へと

 発揚していると思われる。

 

 まずどのような理由により

 高床式建物は造られたのであろうか。

 

 推測の範囲に過ぎないが、

 農耕が進歩し耕作面積が

 拡大したことにより、

 麦類が主な穀類であることは

 明らかだが、

 その収穫量が増え、

 重要な種になる穀粒を

 安全に保管する必要が

 生じたのではないだろうか。

 

 河川の洪水で野生獣の群れの襲撃を

 避けるためには高い所に

 貯蔵しておくことが有利であったからと

 考えられる。

 

 ハラフ期のその当時の草原地帯は

 害を及ぼす野生獣を

 完全に排除できるような状況では

 まだなかったのではないか。

 

 また、家畜化したとはいえ

 羊、山羊などは放し飼い状態であっただろう。

 

 シュメルの絵文字など

 柵に囲われた様子を礎にした

 羊の表記(○のなかに+⊕)がみられるが、

 その時代より三千年も古い時代の状況である。

 

 動物を柵内に囲って飼育し始めたのは

 何時の頃だろうか。

 

 大ザブ川沿いの

 ザウィ・チェミ遺跡の羊の家畜化が

 始まった頃は

 その必要も全くなかっただろう。

 

 柵が必要になったのは

 牛や馬の大型獣の家畜化を

 始めた時期以降だろう。

 

 野生の馬や牛が絶滅に近くになり、

 その確保の必要に迫られてからと考える。

 

 必要量の不足が予想されて捕獲して保持する

 あるいは繁殖させる知恵が働いたのである。

 

 後世十五世紀末に始まった

 イングランドの囲い込み運動、

 さらに

 日本の海岸で1970年代から始められた

 ハマチ養殖業はその例である。

 

 アルパチャの碗形土器に描かれた

 この高床式建物の時代は、

 まだ野生獣類は草原地帯に大量に棲息し、

 人間を脅かす存在であった。

 

 特に牡牛は獰猛でその威力に対する恐れが

 神格化され祀られたとの見解もある。

 

 野生獣から収穫した麦などの穀類、

 特に種とする穀粒を守り、

 神の加護を祈願したと理解したいのである。

 

 神は「高み」に座す。

 

 神の座所に至るためには、

 はしごあるいは階段が必要になる。

 

 高床式神殿には必ずはしごか階段が

 ついていなければならないのである。

  《参考》

 ※Tell Arpachiyah (Iraq)


 

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、

 マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に

  描かれている) 



 

 ※高床式神殿


 


M.K記



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第二章 地名「アルパチヤ」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 地名「アルパチヤ」




  これまで説明の対象にしてきた

 碗形土器を出土した

 アルパチャ遺跡からは、

 その他にも牛頭意匠をあしらった

 鉢形土器などの彩色土器類が

 発見されていることは先に説明した。

 

 これらの土器類は

 外から輸入されたものでなく、

 この域内で焼成されたものであることは

 イスマイル・ヒジャラなど

 イラクの専門家の発掘調査により

 明らかになっている。

 

 ここに

 「牛頭信仰」の拠点があったことを知らせる

 土器類の遺留状況である。

 

 アルパチャ・Arpachiya遺跡は

 ニネヴェの東側でそう遠くない地点に

 位置している。

 

 ニネヴェは

 アッシリア帝国の中心都市であった。

 

 紀元前1800年頃に

 北メソポタミアに君臨し始めた

 古アッシリアは首都を南下させ、

 新アッシリアの紀元前9~7世紀になると

 ニネヴェを中心とする地域に

 首都を置くようになる。

 

 アッシリア語の牛頭を表す用語は

 アルプ alpu である。

 

 この言葉は北メソポタミア起源でもないし、

 シュメル語でもない。

 

 紀元前1600年を少々遡る頃

 地中海沿岸のカナアン地方で

 発明された原カナアン文字の系統に

 連なる言葉である。

 

 この文字は、

 楔形文字の表意文字に対し、

 表音文字の始源となり、

 フェニキア語(ウガリト文字)、アラム語、

 後のヘブライ語、アラビア語の

 基礎となったばかりでなく、

 その波及はフェニキア文字を取り入れた

 ギリシャ文字やラテン文字へと広がり、

 現在使われている

 アルファベットの根源でもある。

 

 アッシリア語 alpu は

 この原カナアン語 alp を

 移入した呼称である。

 

 因みに alp は

 フェニキア文字などで変化し、

 現在の「A」になっており、

 この文字体系を alphabet というのである。

 

 アルパチャの地名はこの alpu に起源をもつ。

 

 ハラフ期からカルト 

 khald と称されていた「牛頭」は、

 多分中期アッシリア時代からか

 アルプに変名したのである。

 

 その後「土地」ないし「境界」を意味する 

 tô^ をつけ、

 地名として Arpachiya が成立し、

 現在に至っていると考えられる。

 

 この地方に「牛頭信仰」の拠点としての

 神殿があったことを

 示しているといえるだろう。

 

 ※旧約聖書創世記第10章22に出てくる

  セムの子孫名

  アルパクサデ・Alpaxadは

  このアルパチャの地に係わる

  名称であることを付記しておきたい。

 

 ※イラクの考古学者イスマイル・ヒジャラ 

   (ISMAIL HIJARA)が1976年に報告した:


  IRAQ VOLUME XLII PART2 AUTUMN 1980       ARPACHIYAH 1976

  by ISMAIL HIJARA AND OTHERS

  ARPACHIYAH1976

 

 ※ARPACHIYAH 1976 ISMAIL HIJARA AND OTHERS


 

 『参考』Tell Arpachiyah (Iraq)


 



M.K記

 

 

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第二章 牛頭崇拝と角 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 牛頭崇拝と角


   牡牛を表すシュメル語で多用されているのは、
 「グ gu、 グドゥ gudu 、グドゥル gudr 」で、
 この語はサンスクリット語にも入り、
 gu あるいは go として使われている。
 
 「ウケ」あるいは「オックス」は
 インド・ヨーロッパ語圏の用語で
 シュメル語にはみえない。
 
 シュメル語で角を意味する用語は
 「シ si 」であることは
 エリドゥの遺物を分析した際、紹介した。
 
 この単語は「目」をも意味する。
 
 また、
 「ア a 」という腕、力を表す単語が
 「ア・アム a-am 」と熟語になって
 角の意になる。
 
 「アム am 」は野牛の意味で、
  a-am は「野牛の角」となる。
 
 この語も慣用句化されているようである。
 
 ギリシャ語の角を表す言葉は 
 kepatos あるいは kepos 、
 ラテン語では cornu 、
 ドイツ語で horn 、
 英語で horn あるいは geweih である。
 
 このうち cornu 系統は
 エーゲ海のクレタ島のミノス文化より
 始まった比較的新しい、
 といっても
 紀元前1450年から1375年頃とされる
 線文字Bに表われる用語である。
 
 それに対し
 「ケラトス keratos 」はかなり古くから
 北メソポタミアで生まれた用語であると
 判断できる。
 
 その理由を説明するのは
 帰納法的展開を要するのでややこしくなる。
 
 ハラフ期からのこの地方における角の呼称は、
 現代の表現でも実在する 
 khard あるいは chald であったと考える。
 
 このカルトないしケルトの崇拝者たちは
 自称をカルトリ khardli ないし
 カルダエ chalda と称して、
 現在においても北イラクに居住しているほか、
 トルコでは東部アナトリア地方などに
 二千万人にのぼる人々がいる。
 
 この人々の文化が
 紀元前五千年期から三千年期にかけて
 盛大であったことを
 これまであまり評価されてこなかった面があり
 再評価すべきと考えている。
 
 また、
 歴史時代への過渡期に当たって彼等の文化は
 南・中央ヨーロッパの全域に
 影響を与えたと考えられる。
 
 ハルシュタット文化を興したのを初め、
 広域に分布した
 ケルト Celt・Kelt 文化は
 その影響の波及したものであろう。
 
 ここでは多くは述べられないので
 後述することとしたい。
 
 ハラフ式土器の広がりは、
 ハッスーナ期やサマッラ期に比べて
 格段に拡大している。
 
 専門家が推測しているとおり、
 その新しいファッションの土器類を
 使用したのは一種族だけではないであろう。
 
 ハフリ地名のある地域も広大である。
 そのような環境のなか、
 北メソポタミアに
 カルト(牛角)信仰の連帯感が広がり、
 カルト人としての集団意識が
 芽生えたのではないだろうか。
 
 そして、
  人々はハフリたちによって
 統率行動を取っていたと考えられる。
 
 また、
 このカルト信仰を行なっている土地を
 ハブールと称したといってよいだろう。
 
 シュメル語に「イ I 」という語がある。
 
 「高める・上げる」を意味する。
 
 ドイツ語の同意語は heben で、
 「持ち上げる、起こす、引き上げる、掲げる」
 と内容が広がる。
 
 この heben に対応する
 英語が heave である。
 
 独英の単語が
 古代の北メソポタミアと
 どのような経緯で関係あるのか
 具体的に証することはできないが、
 「牛頭を掲げる」の「掲げる」の表現に
 係わりがあると思われる。
 
 つまり、
 現在に継承されている 
 iberi 、 eberi の同義語と考えるからである。
 
 「牛頭を掲げる者」は固有名詞となり、
 牛頭の「信奉者」ないし「崇拝者」をも
 内包して使用されるようになったと
 思えるのである。
 
 Khald-iberi 、 Celtiber は
 ギリシャ語やラテン語にもみえる
 ギリシャ・ローマ時代の呼称である。
 
 シュメル語の中に
 「 i-ab-ri 供儀の牛を献げる」
 という表現があり、
 
 その文法上の慣習から母音短縮が起こり
 ibri ないし ebri の
 用語が生まれた可能性もある。
 
 ともあれ古代において
 カルトイベリが存在したことは
 史料の上でも確かな事実である。
 
 牛角信仰を持った人々の名称が
 カルト人ばかりでなく、
 「牛角を掲げる人々」としての
 カルトイベリ人でもあったことを
 確認しておきたいのである。

M.K記

 

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第二章 牛頭崇拝とハフリ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 牛頭崇拝とハフリ


     シュメル語に

 「アブレ ab-re」という言葉がある。

 

 直訳した意味は「踏みつける牛」である。

 

 飯島紀の

 『シュメール人の言語・文化・生活』に

 紹介されている。

 

 ルーブル博物館所蔵のグデア像Bに刻まれた

 楔形文字碑文の一説である。

 

 グデアは王名で、

 紀元前二千年百年頃ラガシュ市を治めていた。

 

 ラガシュ市は、

 その当時のペルシャ湾の西北海岸沿いにあり、

 シュメル人によって設立された都市と

 みられている。

 

 「ab-re」の一節は神殿建設に関する

 グデア王の業績について

 述べられている一段に記されたもので、

 「ab」は牛を表し、

 せまい意味では雌牛となり、

 「e」は「踏みつける」の意味で、

 文法的には「踏みつける牛」となる。

 

 「牛を踏みつける」行為は、

 ここまで紹介した緒資料に登場した

 牛を屠殺する者の重要な行動要素である。

 

 よって、

 「ab-re」は「犠牲に供される牛」

 と解釈されるだろう。

 

 ここで留意したいのは、

 この表現が

 慣用句化される固有名詞となっていると

 思われることである。

 

 紀元前二千百年頃に神殿において

 牛を供犠する祝祭が行われていたことを

 記録する一条であり、

 

 その牛を指して

 「アブリ」と称していた事実である。

 

 ハラフ期のアルパチヤ遺跡の時代からは

 約四千年の隔たりがあるが、

 慣用句化されている様子からすると、

 その語の起源はかなり遡るだろう。

 

 「ファファリ phahare 」と

 読める楔形文字がある。

 

 司祭あるいは聖職者を表す用語である。

 

 楔形文字「ファ」だけでは

 枝・翼を意味するが、

 また、

 「シャ」とも読まれるので「ファファリ」は

 「シャブラ Śabra」とも表記され、

 同じく司祭・聖職者の意味である。

 

 シュメル語で表現された

 「ファファリ」を構成する

 楔形文字と意義との間に

 相関関係を理屈づけるのは難しいので、

 この用語は移入されたものと思われる。

 

 そこで語源として想起する用語は

 「ハフリ habre 」である。

 

 ハフリは明らかに

 司祭、祝祭の主催者の役目を持っている。

 

 ハフリは「ファファリ」と

 同根語であると考えられるのである。

 

  Abre と  habre とも

 当然関連があると判断でいるが、

 シュメル語の楔形文字の上で

 関係づけるのは難しい。

 

 しかし、

 ハフリが牛の屠殺に担わる者であっても、

 牛に対する崇拝者であったと判断できる。

 

 そして、

 牛信仰の故郷が北メソポタミアであることは

 牛頭を掲げた住居跡が多く出土するなどの

 事情から明らかである。

 

 北メソポタミアにおける

 「ハフリ」に関係する地名を

 現在の地名などがから拾ってみる。

 

 まず第一に

 これまで何回か取り上げた

 トルコからシリアの東端を流れる

 ハブール( Khabūr )川、

 チグリス川がトルコの西方から来て

 イラクへ入る直前に

 東方からの流れを吸収して南流を始めるが、

 その合流点にある町が

 ハブル( Habur )、

 それより西方 Midiya との間に

 イディル Idil とともにあるのが

 ハベルリ Haberli で

 アッシリア時代の碑文で

 確認されている町である。

 

 また、

 チグリス川がイラクへ流れ入る地点で

 東方より合流するトルコに水源を持ち

 イラクの北端を流れる川が

 ハブール( Khabūr )川の町である。

 

 さらに、これまで注目を繰り返してきた

 大ザブ川は「ハブールの大ザブ川」と

 イラクでは呼ばれている。

 

 トルコ領を流れる大ザブ川沿いに

 ハッカリ(Hakkari)の町がある。

 

 これは「ハフリ」の

 トルコ語転訛と考えられる地名である。

 

 その東南方にシャムダールの山峡がる。

 

 その大ザブ川がイラクに入り

 北方から西方へ流れを変えるあたりから

 下流一帯をハブリウリ(Habūri-uri)と

 アッシリア時代には呼んだ。

 

 そこからかなり南方の地域になるが、

 バクダッドの東方イラン領に

 ハボール(Habor)山脈がる。

 

 ハボールから東方のザグロス山脈を越えた

 テヘランの南方に広がる砂漠が

 カビール(Kavir)砂漠と呼ばれる。

 

 因みにシリアのハブール川に

 ハッサカ付近で

 西方のトルコから流れきて合流する川を

 シャブール(Shabūr)川という。

 

 以上の紹介で解るように

 ハフリの地名のある地域は

 新石器時代に大量の野牛が

 狩猟された地域である。

 

 特に集中している地点が、

 北イラクのシンジャール山脈の北方、

 トルコとの国境に広がる

 山岳地帯と草原地帯との

 分れ目一帯であることが

 改めて確認できた。

 

 一般に

 この草原地帯をハブール高原と呼んでいる。

 

 ここに列挙して地名の中に

 

  Khabūr あるいは Kavir 

 と表記される所もあるが、

 これは飯島紀の「前掲書」によると

 奉献をを意味する熟語として

 gaba-ri-a という語があるので、

 この語との関連があるかもしれない。

 

 どちらにしても神への奉献は供犠であり、

 本来的に同類語と考えられる。

 

 グデア像

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

 

 ※参考

 ⦅ハラフ期の土器について⦆   


 

 ⦅ハブール川⦆


 

 ハブール川

 (ハブル川、カブル川、Khabur、Habor、

            Habur、Chabur、

  アラム語:ܚܒܘܪ, 

  クルド語:Çemê Xabûr, 

  アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur

 

 ⦅ARPACHIYAH 1976⦆






M.K記


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第二章 野牛狩と殺牛技法 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第二章 埋葬儀礼と牛頭




    チャタル・フユク遺跡の一祠堂の壁には、

 狩猟の情景が描かれていた。

 

 その壁画が復元されている。

 

 壁の中央には

 長さ二メートルに及ぶ太った雄牛が描かれ、

 その周囲を腰巻あるいは

 褌として獣皮を巻いた人々が

 弓や槍を持って野生動物を追い回している。

 

 人に比べて雄牛は巨大である。

 

 人がつけている腰巻は

 祭儀の装束ともみられている。

 

 アルパチャ遺跡出土の碗形土器にも

 野生牛二頭と狩人一人の狩猟意匠が

 描かれている。

 

 狩人が弓を引いて背には

 三叉の矛らしきものが

 負わされていることはすでに紹介した。

 

 三叉の矛はデーヴィー女神が水

 牛の魔物マヒシャ・ドゥルガーを

 圧倒する時に携えられ、

 水牛ないし雄牛の背に

 突き立てられた武器である。

 

 紀元前六千年紀のハラフ期に

 すでに野生牛を仕留める技法が

 確立していたのではなかろうか。

 

 その技法は、

 スペインなどで盛んに開催されている

 闘牛ショウの過程が参考になる。

 

 闘牛の規則と作法によると

 1チーム7人で殺牛に当たる。

 

 1人が馬上から

 牛の首根を刺すことから始まる。

 

 牛の力を削ぎ、弱らせるためである。

 

 古代の野牛狩の場合は

 弓矢を打ち込み牛の弱まるのを待ったであろう。

 

 闘牛ショウの場合は

 赤い布を駆使した見せ場が展開され、

 最後牛の命を絶つために

 剣士(マタドール)が

 剣で頚椎の間をねらって突きこむ。

 

 心臓につながる筋肉と神経を

 切断するためである。

 

 牛を瞬時にして絶命させるには

 剣を突く角度が重要であるという。

 

 マタドールの行為は、牛の咽喉を切る、

 つまり、屠殺を意味する。

 

 三叉の矛は牛を弱らせるために使われた

 槍の役目を果たしたと思われる。

 

 日本の

 『古事記・日本書紀』に記述された

 天石窟前おける

 天鈿女命の舞踏に隠された伝承を辿ると

 紀元前六千年期の

 北メソポタミアに起源があることとなる。

 

 シュメル人が

 南メソポタミアに現れる時期よりも

 アルパチヤ遺跡の時代は三千年も古い。

 

 その当時、

 牛や雄牛などを何と呼んでいたかを明かす

 言語的史料は全くない。

 

 言葉を書くという技術を

 まだ思いついていなかったのである。

 

 その事実を確認した上で、

 推測を展開してみたい。

 

 チャタル・ヒュユク


M.K記


 

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第二章 埋葬儀礼と牛頭 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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《第二章 埋葬儀礼と牛頭


   ケルメズ・テレ遺跡が属する原新石器時代

 (紀元前九千三百年~八千五百年頃まで)
 と同時代の遺跡が北シリアにある。
 
 アレッポの東方、ユーフラテス川のトルコから
 流れ出し大きく曲がって東流を開始する地点に
 現在アサド湖と呼ばれる人造湖が
 造成されているが、
 その東近くにあるムレイビト遺跡がそれである。
 
 ここでも円形ないし楕円形の住居が
 原新石器時代の古い時期から
 永きにわたって使用された遺構として、
 残されている。
 
 遺物の中から動物の骨が発掘され、
 野生のロバ、鹿、野牛を
 狩猟していたことが解る。
 
 しかし、注目すべきは、
 動物の頭骨が
 建物の壁に掛けられていたことを
 示す発掘があったことである。
 そのような住居の慰留は今までのところ
 ムレイビト遺跡を以って最古とする。
 
 馬、牛、鹿(ガゼル)などの大型有蹄獣の狩猟は
 次の無土器新石器時代
 (紀元前八千五百年から七千年頃まで)
 に入ると盛んに行われるようになる。
 
 アナトリアのタウロス山脈の西側にある
 ハジラル遺跡では二万五千体に及ぶ
 牛の遺骨が堆積していた。
 
 また、イランのテヘランの北側、 
 カスピ海の南岸に広がるエルブス山脈にある
 タペ・サンギチャハマック遺跡からは
 約六千体の牛の遺骨が
 確認されたとの報告がある。
 
 同遺跡からは
 馬の遺骨四千一百体も確認されている。
 
 ケルメズ・テレ遺跡の埋葬住居のなかには
 人間の頭骨だけで動物の頭骨はなかった。
 
 ムレイビト遺跡では、ケルメズ・テレのような
 埋葬儀礼に新しい想念が添加されて
 動物の頭骨が壁に掛けられるようになったと
 解釈できるだろう。
 
 ザウィ・チェミ遺跡の時代から
 その永いメソポタミアの
 永い古代史の中で人間の頭骨が
 壁に揚げられていたとの報告は聞かない。
 
 ただし、タウロス山脈の北方にある
 チャタル・フユク遺跡では部屋の中の祭壇上に
 四つの頭骨が並べられていた例はある。
 
 埋葬住居の床面か床下に埋葬されているのが
 普通である。
 
 ムレイビト遺跡の場合、
 どのような理由によって
 動物の頭骨を壁に掲げるようになったのか
 まだ過分の推測は許されないだろう。
 
 しかし、
 無土器新石器時代の遺跡からは
 その推測が許されるような遺構が表れる。
 
 動物の頭骨、
 特に牛頭が壁に掛けられた遺跡が増え、
 ザクロス山脈のケルマンシャーの東方にある
 ガンジ・ダレ遺跡、
 北イラクのモスールの北方にあるネムリス遺跡、
 トルコのダイヤルバキル北方のチュユヌ遺跡、
 そして無土器時代から、
 次の粘土で容器などを作るようになる
 土器新石器時代への過渡期に当る 
 チャタル・フユク遺跡である。
 
 チュユヌ遺跡でも一つ住居内に雄牛の頭骨が
 人間の頭骨と混在してみつかった。
 
 その上、
 犠牲用に使われたと推測される建物と
 儀礼に使われたらしい建物との
 三つの建物跡があり、
 埋葬儀礼の拡大した構成と考えられている。
 
 北イラクの紀元前七千五百年頃の
 ネムリス遺跡でも
 牛頭が壁に掲げられた跡が出土した。
 
 この遺跡は
 ケルメズ・テレ遺跡とチグリス川を挟んだ
 そう遠くない位置にある。
 
 同遺跡からは鳥形石偶も発掘され、
 その抽象的な形作りは力強い。
 
 チャタル・フユク遺跡の発掘は、
 動物の頭骨の掲示、
 動物のに似せ泥で作った像、
 壁に描いた動物像など
 多くの儀礼的遺物を明らかにした。
 
 同遺跡には十四層にわたる生活面が
 堆積しており、
 最下層は
 紀元前六千八百五十年から六千三百年頃
 までとされている。
 
 注目すべきは祠堂の多さで、
 各民家に必ず
 聖所が備えつけられているといってもよく、
 
 1961年から1963年までの間に
 ジェームス・メラートが発掘した
 住宅区街からは
 広さが大小の祠堂十六箇所が確認された。
 
 これらは神殿ではない。
 
 彼がいうとおり祠堂である。
 
 チャタル・フユク遺跡において
 壁に掲げられた動物の頭骨の特徴は、
 その多くが土製であることであるが、
 本物の頭骨や角を芯に
 使っているものもみられる。
 
 最も多い動物の頭像は
 雄牛、雄羊、雄鹿の頭像も作られた。
 
 これらの頭像は祠堂の中に一体だけではなく、
 三個、五個、七個と奇数に合わせて
 壁に掲げられるか、台座に置かれていた。
 
 人間の頭骨が床に置かれるのは
 これまでの慣習と変わっていない。
 
 このような状況から推測すると、
 埋葬儀礼に係わる牛頭への崇拝が
 すでに成熟していただろうということが解かる。
 
 本物の牛頭骨は少なく、
 塑像が多くなった状況は、
 形式化が始まっていたと判断してもよい。
 
 また、
 民家の祠堂で燔祭(はんさい)が
 行われたとは考えられず、
 儀式のみが祠堂内で行われたと思われる。
 
 そうすると
 燔祭はすでに行われなかったのだろうか。
 
 前世代のチュユヌ遺跡の例でみられたように、
 犠牲祭は
 集落内の別の聖所で行ったとおもわれる。
 
 それが神殿である。
 
 民家の祠堂は納骨堂と考えてよいであろう。
 
 チャタル・フユク遺跡での神殿の姿を
 まだみることができないのは残念である。
 
 人々が住宅に入るのは屋根からであった。
 
 民家の屋根と屋根との間には
 梯子(はしご)が掛けられ、
 屋根を伝って行き来した造りになっている。
 
 地面には中庭はあるものの路地はなく、
 特異な空間である。
 
 建物内には祠堂だけでなく、
 生活のための部屋もあり、
 人々が住んでいたのも確かである。
 
 この区域が
 周宗教的特別区でないのであれば、
 人々の死霊に対する想念を
 表しているのではなかろうか。
 
 その信仰の想念を
 明らかにすることは難しいが、
 確かな事実は牛頭に対する信仰が
 盛んであったということである。
 
 チャタル・フユク遺跡のある地域は、
 トルコの地中海に岸に迫る
 タロス山脈の北側に位置する。
 
 その山脈中にあるハジラル遺跡から
 大量の牛骨が発見されたことを述べたが、
 タロスとはギリシャ語の牛を意味する 
 ταυρς に依っており、
 多くの野牛が棲息していたことを
 伝える呼称である。
 
 チャタル・フユク遺跡の文化について、
 マックス・マロワンは、
 北メソポタミアからの影響があって
 成り立ったと述べていることを
 補足しておきたい。
 
 同遺跡の後期の時代は、
 土器新石器時代が始まった
 ハッスーナ式土器、
 サマッラ式土器の時期に当たる。
 
 彩色土器の紋様の中に
 幾何学紋様、植物紋様と共に
 動物意匠が描かれ始めた時代である。
 
 そして、
 ハラフ期になると、チャタル・フユクのような
 聖所に牛の頭骨を
 大掛りに掲げる遺構は消えていく。
 
 その代わりに
 彩色土器の中に宗教的意匠が増える。
 
 彩色土器の牛頭意匠が宗教的想念を
 表したもであることは、
 アルパチア出土の碗形土器ですでに確認した。
 
 同遺跡は、チグリス川で沿いで、
 ケルメズ・デレ遺跡、ネルリク遺跡から
 少々南下したところに位置する。
 
 この遺跡の彩文土器の特徴は、
 これまで言及してきた碗形土器ばかりでなく、
 その他の鉢形土器に表された
 牛頭意匠やマルタ十字紋で、
 極めて宗教的色彩が強い。
 
 そのような彩色土器は
 犠牲や儀礼に使用されたと考えられよう。
 
 同遺跡の下層には方形の家屋、
 上層になると円形の建物が築かれていた。
 シンジャール山脈の南側に位置する
 ヤリム・テペでも
 
  サマッラ期(Ⅰ)
  ハラフ期(Ⅱ)
  ウバイド期
 
 に及ぶ遺構のうち
 Ⅱ期の遺跡から方形家屋と共存して
 円形建物が発掘されている。 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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第二章 埋葬儀礼 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 埋葬儀礼


    ザウィ・チェミおよびシャニダールの

 両遺跡では埋葬儀礼が

 すでに始まっていたことを指摘できる。

 

 シャニダール洞窟の墓地では、

 遺骨と共に小さな箱状に形作られた台座と

 思われる石が並べられていた。

 

 また、ザウィ・チェミの遺跡では

 円形の家やシャニダール洞窟で

 並列されていたのと

 同じ方形の石を配列した石囲いがもられた。

 

 これらの石の配列は

 葬送儀礼との関係を示唆している。

 

 何らか式典のような作業があったに違いない。

 

 埋葬儀礼の様子は

 次の原新石器時代の遺跡とされる

 モスールに近い

 ケルメズ・デレ遺跡ではより

 具体的にみえてくる。

 

 最も古い建物跡は、

 日本古代の竪穴住居のように

 地面を掘り込んで

 外淵を地面より高く土で盛り上げて

 壁を作った円形住居であったが

 その内部に石と漆喰でできた

 矩形の柱石状構造物と

 石の環状配列が残されていた。

 

 また、

 胴体をはずされた人間の頭骨が

 六体発見されたので、

 単なる住居でなく埋葬に係わる儀礼の場で

 あったことをうかがわせる。

 

 環状の石の配列は炉と考えられており、

 葬送に当り燔祭を行ったことを推測される。

 

 エリドゥの神殿の供物台の上で

 供物が焼かれたり、

 湯沸かし器で魚が煮られたことを思い出せば、

 この無土器の新石器時代においては、

 供物を焼くことが調理することであり、

 炉が調理の場であった。

 

 供物台の元祖であると

 考えてよいのではないだろうか。

 

 そうすれば、

 エリドゥの最古と思われる最下層から

 第四層の神殿建物の外に作られた

 円形の構造物をは

 火を焚いた炉または

 窯であったことが推測される。

 

 一辺三メートルに足らない建物の中で

 供物を調理することはできなかったのである。

 

 それに続く時代には神殿建物自体が拡大され、

 内部で火を使っても危険が無くなり、

 供物台上で焼いた痕跡が

 残されることとなったのである。

 

 柱石状の立体物は

 祭壇になる以前の神の依代であることが

 判ってくる。

 

 あるいは葬送の式礼の中で

 死んだ者の頭骨を

 その柱(台座)に置いて

 儀礼を行ったとも考えられる。

 

 頭骨を胴体から離し、別のところに

 しかも集落の一定箇所に埋葬するのは

 西アジアでの死者を葬送する方法として

 よく行われた慣習である。

 

 パレスティナ、レヴァント、

 そしてアナトリア高原の遺跡で

 一般化していた方法である。

 

 頭骨に塗装したり、

 飾り付けしたものさえ発見されている。

 

 このような儀礼については、

 一種の祖先信仰を表しており、

 祖先が死後も残されたものに対して

 強い影響を及ぼすため、

 祈りや犠牲を捧げることによって、

 鎮めねばならないと信じられていたというのが

 専門家による理解である。


M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第二章 角の崇拝 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 角の崇拝

 

  エリドゥ市のウバイド期の神殿建物の中から
 奇妙に曲がった釘状のものが発見された。
 
 先のラッパ状の飲み口のついた
 「魚湯わかし器」と同じ時期である。
 
 この遺物は頭の部分が先の方で曲げられ、 
 先端が尖っている。
 
 粘土製で焼成されているが、
 塗装されたものと素焼きのものとがある。
 
 発掘時の調査では
 壁に打ちつけられた様子は全くないので、
 その目的があったことは否定されている。
 
 その多くが 
 魚の骨などと共に
 神殿裏の土中に埋められていたので、
 やはり信仰に係わる役目を果たしたと
 専門家は推測している。
 
 彼等はこれを「角」と呼んでいるが、
 多分それが正しいと思われる。
 
 シュメル語は角のことを
 シ ši というが、
 基になっている絵文字によく似ている。
 
 この形象は羊の角を表すとみられる。
 
 メソポタミアを取り囲む山岳地帯で
 現在も飼われている雄羊の角は、
 牛や鹿のように起立することなく、
 頭の側面に従って下がって生える。
 
 しかも巻くこともなく先の方で
 顔面の方へカーブを取るのが大半である。
 
 よって、
 釘状の遺物は
 「雄羊の角」を象徴したものと考える。
 
 エリドゥの神殿への供犠は
 絶対的に魚であった。
 
 しかし、魚には角がない。
 
 人々はかって信仰の依代として
 崇めてきた動物のシンボルであり、
 
 崇拝の依代の代表であった角を
 粘土製の角で代用したと推測できる。
 
 海岸地帯でしかも湿地帯であった地域は、
 灌漑によって農地化し
 小麦などの穀物は生産できても、
 多量の牧草を要する家畜の飼育は難しく、
 頻繁に供犠するほど
 獲保できなかったのであろう。
 
 彼等の信仰には角が重要であったのだ。
 
 彼等の宗教的祖地は
 牧畜が行われていた地域に
 あったと考えられよう。
 
 シュメル語で羊飼いをシパ sipa と呼ぶ。
 
 この言葉は
 
 ヘブライ語で seber 、
 ドイツ語で Schäfer 、
 英語で sheperd となり、
 
 西アジアからヨーロッパにかけて
 広く使われている呼称である。
 
 羊は人間によって
 最初に家畜化された動物ともいう。
 
 紀元前九千年頃に羊は家畜化された。
 
 その痕跡を残すのが、先に触れたが、
 ニネヴェの南で
 チグリス川へ東方から合流する
 大ザブ川の上流、
 シャニダール川との合流点に近い
 ザウィ・チェミ 
 Zawi Chemi 遺跡である。
 
 ここの集落跡の最深層から、
 つまり、
 この集落の頭初の遺物の堆積から
 大量の骨類が出土したが、
 その大部分は赤鹿のものであった。
 
 野生の羊の骨も混じっていたが
 家畜化した動物の骨はまだ無かった。
 
 しかし、
 その上層の遺物から
 家畜された羊の骨が発見されたのである。
 
 山羊はまだ野生であった。
 
 この集落ではまた
 作物の栽培のための用具が発見されている。
 
 しかし、
 突然に表われたという様子で、
 この集落の人々が
 耕作を思いついたかどうかは解らないし、
 農耕集落の形とはえない段階にある。
 
 にもかかわらず、
 マックス・マロワンは、
 羊の家畜化と野菜の栽培の発生は
 大きな経済的革命を
 予告するものだと評している。
 
 ザウィ・チェミ遺跡のある
 北限イラクの東側の地域は
 前歴史時代の動物家畜化に係わる歴史に
 重要な役割を果たしたことが理解できた。
 
 そして、
 その後の歴史時代においても
 この地方の人々が時代のまにまに
 活発な活動をしたと考えられる。
 
 現在の地名にその文化遺産を残している。
 
 第一に遺跡で登場した Zawi は
 大ザブ川の Zab と同じく
 シュメル語の羊飼いと同根であると考える。
 
 大ザブ川沿いにある町ゼバル Zebar 
 は羊飼いの町であり、 
 ハリル山系の東端の延長の山々
  Spilik 山地の名称も羊飼いと関係があろう。
 
 ゼバルから南方のイランとの国境方面の町
  Ramandiz は牡牛(英語 ram )。
 さらに南方の Arbil は赤鹿、
 この赤鹿の名はザクロス山脈の南方になるが、
 スーサを中心としたエラム Elam 、
 そしてその地方名
 ルリスタン Luristan に反映している。
 
 町 Gawra は鹿の角の意である。
 Gawra は
 
 ギリシャ語の κερος
 ドイツ語の Gehörn
 英語の Corn と同根語である。
 
 『旧約聖書』創世記に記される
 エデンを流れ出た川が
 四っに分流したうちの一つである
 ギホン Gihon 川は
 このガウラを流れる
 大ザブ川の別称であると考えられる。
 
 大ザブ川沿いの町ゼバルから
 上流へ遡及してしばらくすると
 北方のトルコから国境を越えて
 英語名シャニダール川、
 現地名ではシャムディルナ川 
 Shamdrna (シャムディの川)が合流する。
 
 その川の上流国境を越えたトルコ領内には    Shamdr 山があり、
 山の東方に Samdinli の村がある。
 
 この深い峡谷のイラク領の一角に
 シャンデル洞窟があり、
 ザウィ・チェミ遺跡と
 同時期の遺物が発見されている。
 
 ザウィ・チェミ遺跡あたりの人々が
 冬の寒い季節に登って来て
 この洞窟を住居としたのではないかとの
 見解が出されている。
 
 洞窟内から二十六体の人骨が
 発見されたために有名になったが、
 この洞窟は墓地として使われたのである。
 
 ところで、
 Shamdr の語幹となる語は
 シュメルの šum と同根であると考える。
 
 絵文字に表される 
 Sam の意味は「咽を切る」で、
 「虐殺する」あるいは「屠殺する」である。
 
 さらに「供与する」の意味まで含まれる。
 
 語尾 dr は「~する人」あるいは
 「~する者」の意である。
 
 Shamdr はサンスクリットは取り込まれて、
 祝祭における屠殺者 šamitr となっている。
 
 犠牲獣を屠殺し解体して調理するのが
 その役目である。
 
 以上のように山狭の一角に
 羊を家畜化した最古の地に関係ある地名が
 集中してみられるのである。
 
 羊の家畜化を始めた人々が、
 その羊を屠殺することに
 特別の想念を興しただろうことは
 容易に想像できるが、
 当地域付近から羊に対する崇拝や
 祝祭に関連ありそうな遺構や遺物は
 いまのところみつかっていない。
 
 また、
 ザウィ・チェミ、シャニダール洞窟の文化が、
 地域において後世へ継承されたかについて
 専門家は考古学的確証を得ていないので
 否定的である。
 
 さらに、
 この山狭で屠殺に関連した宗教的儀式が
 成立したとはいえない状況である。
 
 しかし、
 この地域の羊飼いたちは
 流動性を持った生活者であった。
 
 トルコのヴァン湖周辺の黒曜石や
 現在の地名でも「銅の町」意味する
 ダイヤルバギル市の北にある
 エルガニ・マデンから粗銅を
 また、
 イラクのアルビルよりさらに南へ離れた
 キルクークから
 アスファルト用の瀝青を手に入れている。
 
 彼等は文化を伝播させる行動力を
 十分備えていたと判断してもよいだろう。
 
 シュメル語で売買する意味の用語は 
 šam である。
 
 発音が šum に近似している。
 
 貨幣にによる交換はなく、
 物々交換による
 交易であったに違いない時代、
 羊飼い達は羊を追いながら遠出を行い、
 物々交換が成立すると羊を屠殺して
 手渡しを行ったのかもしれない。
 
 屠殺者は売買人なのである。
 
 羊飼い達は、
 彼等の流動性を生かして
 次第に商人としての性格を
 確保していったと十分考えられる。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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