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第二章 埋葬儀礼と牛頭 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第二章 埋葬儀礼と牛頭


   ケルメズ・テレ遺跡が属する原新石器時代

 (紀元前九千三百年~八千五百年頃まで)
 と同時代の遺跡が北シリアにある。
 
 アレッポの東方、ユーフラテス川のトルコから
 流れ出し大きく曲がって東流を開始する地点に
 現在アサド湖と呼ばれる人造湖が
 造成されているが、
 その東近くにあるムレイビト遺跡がそれである。
 
 ここでも円形ないし楕円形の住居が
 原新石器時代の古い時期から
 永きにわたって使用された遺構として、
 残されている。
 
 遺物の中から動物の骨が発掘され、
 野生のロバ、鹿、野牛を
 狩猟していたことが解る。
 
 しかし、注目すべきは、
 動物の頭骨が
 建物の壁に掛けられていたことを
 示す発掘があったことである。
 そのような住居の慰留は今までのところ
 ムレイビト遺跡を以って最古とする。
 
 馬、牛、鹿(ガゼル)などの大型有蹄獣の狩猟は
 次の無土器新石器時代
 (紀元前八千五百年から七千年頃まで)
 に入ると盛んに行われるようになる。
 
 アナトリアのタウロス山脈の西側にある
 ハジラル遺跡では二万五千体に及ぶ
 牛の遺骨が堆積していた。
 
 また、イランのテヘランの北側、 
 カスピ海の南岸に広がるエルブス山脈にある
 タペ・サンギチャハマック遺跡からは
 約六千体の牛の遺骨が
 確認されたとの報告がある。
 
 同遺跡からは
 馬の遺骨四千一百体も確認されている。
 
 ケルメズ・テレ遺跡の埋葬住居のなかには
 人間の頭骨だけで動物の頭骨はなかった。
 
 ムレイビト遺跡では、ケルメズ・テレのような
 埋葬儀礼に新しい想念が添加されて
 動物の頭骨が壁に掛けられるようになったと
 解釈できるだろう。
 
 ザウィ・チェミ遺跡の時代から
 その永いメソポタミアの
 永い古代史の中で人間の頭骨が
 壁に揚げられていたとの報告は聞かない。
 
 ただし、タウロス山脈の北方にある
 チャタル・フユク遺跡では部屋の中の祭壇上に
 四つの頭骨が並べられていた例はある。
 
 埋葬住居の床面か床下に埋葬されているのが
 普通である。
 
 ムレイビト遺跡の場合、
 どのような理由によって
 動物の頭骨を壁に掲げるようになったのか
 まだ過分の推測は許されないだろう。
 
 しかし、
 無土器新石器時代の遺跡からは
 その推測が許されるような遺構が表れる。
 
 動物の頭骨、
 特に牛頭が壁に掛けられた遺跡が増え、
 ザクロス山脈のケルマンシャーの東方にある
 ガンジ・ダレ遺跡、
 北イラクのモスールの北方にあるネムリス遺跡、
 トルコのダイヤルバキル北方のチュユヌ遺跡、
 そして無土器時代から、
 次の粘土で容器などを作るようになる
 土器新石器時代への過渡期に当る 
 チャタル・フユク遺跡である。
 
 チュユヌ遺跡でも一つ住居内に雄牛の頭骨が
 人間の頭骨と混在してみつかった。
 
 その上、
 犠牲用に使われたと推測される建物と
 儀礼に使われたらしい建物との
 三つの建物跡があり、
 埋葬儀礼の拡大した構成と考えられている。
 
 北イラクの紀元前七千五百年頃の
 ネムリス遺跡でも
 牛頭が壁に掲げられた跡が出土した。
 
 この遺跡は
 ケルメズ・テレ遺跡とチグリス川を挟んだ
 そう遠くない位置にある。
 
 同遺跡からは鳥形石偶も発掘され、
 その抽象的な形作りは力強い。
 
 チャタル・フユク遺跡の発掘は、
 動物の頭骨の掲示、
 動物のに似せ泥で作った像、
 壁に描いた動物像など
 多くの儀礼的遺物を明らかにした。
 
 同遺跡には十四層にわたる生活面が
 堆積しており、
 最下層は
 紀元前六千八百五十年から六千三百年頃
 までとされている。
 
 注目すべきは祠堂の多さで、
 各民家に必ず
 聖所が備えつけられているといってもよく、
 
 1961年から1963年までの間に
 ジェームス・メラートが発掘した
 住宅区街からは
 広さが大小の祠堂十六箇所が確認された。
 
 これらは神殿ではない。
 
 彼がいうとおり祠堂である。
 
 チャタル・フユク遺跡において
 壁に掲げられた動物の頭骨の特徴は、
 その多くが土製であることであるが、
 本物の頭骨や角を芯に
 使っているものもみられる。
 
 最も多い動物の頭像は
 雄牛、雄羊、雄鹿の頭像も作られた。
 
 これらの頭像は祠堂の中に一体だけではなく、
 三個、五個、七個と奇数に合わせて
 壁に掲げられるか、台座に置かれていた。
 
 人間の頭骨が床に置かれるのは
 これまでの慣習と変わっていない。
 
 このような状況から推測すると、
 埋葬儀礼に係わる牛頭への崇拝が
 すでに成熟していただろうということが解かる。
 
 本物の牛頭骨は少なく、
 塑像が多くなった状況は、
 形式化が始まっていたと判断してもよい。
 
 また、
 民家の祠堂で燔祭(はんさい)が
 行われたとは考えられず、
 儀式のみが祠堂内で行われたと思われる。
 
 そうすると
 燔祭はすでに行われなかったのだろうか。
 
 前世代のチュユヌ遺跡の例でみられたように、
 犠牲祭は
 集落内の別の聖所で行ったとおもわれる。
 
 それが神殿である。
 
 民家の祠堂は納骨堂と考えてよいであろう。
 
 チャタル・フユク遺跡での神殿の姿を
 まだみることができないのは残念である。
 
 人々が住宅に入るのは屋根からであった。
 
 民家の屋根と屋根との間には
 梯子(はしご)が掛けられ、
 屋根を伝って行き来した造りになっている。
 
 地面には中庭はあるものの路地はなく、
 特異な空間である。
 
 建物内には祠堂だけでなく、
 生活のための部屋もあり、
 人々が住んでいたのも確かである。
 
 この区域が
 周宗教的特別区でないのであれば、
 人々の死霊に対する想念を
 表しているのではなかろうか。
 
 その信仰の想念を
 明らかにすることは難しいが、
 確かな事実は牛頭に対する信仰が
 盛んであったということである。
 
 チャタル・フユク遺跡のある地域は、
 トルコの地中海に岸に迫る
 タロス山脈の北側に位置する。
 
 その山脈中にあるハジラル遺跡から
 大量の牛骨が発見されたことを述べたが、
 タロスとはギリシャ語の牛を意味する 
 ταυρς に依っており、
 多くの野牛が棲息していたことを
 伝える呼称である。
 
 チャタル・フユク遺跡の文化について、
 マックス・マロワンは、
 北メソポタミアからの影響があって
 成り立ったと述べていることを
 補足しておきたい。
 
 同遺跡の後期の時代は、
 土器新石器時代が始まった
 ハッスーナ式土器、
 サマッラ式土器の時期に当たる。
 
 彩色土器の紋様の中に
 幾何学紋様、植物紋様と共に
 動物意匠が描かれ始めた時代である。
 
 そして、
 ハラフ期になると、チャタル・フユクのような
 聖所に牛の頭骨を
 大掛りに掲げる遺構は消えていく。
 
 その代わりに
 彩色土器の中に宗教的意匠が増える。
 
 彩色土器の牛頭意匠が宗教的想念を
 表したもであることは、
 アルパチア出土の碗形土器ですでに確認した。
 
 同遺跡は、チグリス川で沿いで、
 ケルメズ・デレ遺跡、ネルリク遺跡から
 少々南下したところに位置する。
 
 この遺跡の彩文土器の特徴は、
 これまで言及してきた碗形土器ばかりでなく、
 その他の鉢形土器に表された
 牛頭意匠やマルタ十字紋で、
 極めて宗教的色彩が強い。
 
 そのような彩色土器は
 犠牲や儀礼に使用されたと考えられよう。
 
 同遺跡の下層には方形の家屋、
 上層になると円形の建物が築かれていた。
 シンジャール山脈の南側に位置する
 ヤリム・テペでも
 
  サマッラ期(Ⅰ)
  ハラフ期(Ⅱ)
  ウバイド期
 
 に及ぶ遺構のうち
 Ⅱ期の遺跡から方形家屋と共存して
 円形建物が発掘されている。 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
 

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