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第7章 卑弥呼の「倭錦」(3)倭錦の真相 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第7章 卑弥呼の「倭錦」
(3)倭錦の真相
 
 (a) 吉野ヶ里遺跡の染色絹
 
 繰り返しになるが、
 佐賀県教育委員会『弥生時代の吉野ケ里』の解説に
 
 「貝紫や日本茜で染められたものも確認され……」
 
 とあった。
 
 この報告は重大である。
 
 弥生時代の染色技法のうちに
 「貝染」があったとの指摘も重要であるし、
 また、
 「貝紫」が日本古来、
 つまり
 縄文時代に開発されていたと証明が
 あるとは全く聞かないことも認識すると、
 そこからの判断はまた重大である。
 
 つまり、
 その技術は海外から移入されたとしか
 考えられないとの結論になる。
 
 それも
 弥生時代前期紀元前後にである。
 「紫」色は
 シナにおいても古来宗義上貴重な色で、
 特に織布を紫色に染めて使った。
 
 漢語に「茈」とある植物が
 通称「紫草」で、
 東南アジアには広範に野生種としてある。
 
 その根を用いて染色したものが「紫」で
 表される織布で、特に絹を染めた。
 
 このように「茈」「紫」の伝統技法は
 東アジアにあったが、「貝紫」はなかった。
 
 (b) 貝染の倭への伝承
 
 「貝染」は技術を倭へ持ち込んだのは
 倭人伝がいう「伊都国」に定着した
 ヘブライ人の海洋貿易商人たちである。
 ヘブライの商人たちはローマ帝国へ
 絹製品を輸出した中継商人として活動し、
 ローマ人からは 
 MESHI と呼ばれるほどの絹商人で、
 東方から送られてきた絹を地中海東岸、
 ヘブライ人の祖地イスラエルで加工し直して
 ローマへ送り出していた。
 
 その加工技術のうちの染色は、
 イスラエルの北方を
 紀元前の古くから占めていた
 フェニキア人たちが
 地中海の貝から採取した染料で
 羊毛の毛織物を紫色に染める技法を創出し、
 その工芸で産業を栄えさせていたものである。
 
 フェニキアの祖族となったのはケルト人で、
 彼等はクレタ島、カルタゴ
 さらにはイベリア半島から
 ブリテン(イギリス)まで
 鉱物〔錫〕を求めて航海遠征し、
 それらの地に植民地を築いた有能な人々で、
 工芸面でも錫のほかにガラス工芸を発展させた。
 
 彼等はそいう技術集団で、
 「貝染」もその当時における
 先端技術で専門的であった。
 
 貝染の中心となったのが地中海東岸の都市、
 ティロス、シドンであった。
 
 しかし、
 ケルト人あるいはフェニキア人が勢力となって
 極東へ渡来し、
 その技法を定着させたのではない。
 
 隣の貿易、特に東方交易の協働者ヘブライ人が
 その役目を果たしたのである。
 
 両者の親密さはここで詳しく説明できないが、
 
 紀元前10世紀
 ヘブライ王ソロモンが主導した海洋貿易のための
 
 「タルシン船」は
 
 フェニキア人の協力によって
 成立し得たものであった。
 
 ヘブライ語「フェニキア」をいった用語 
 
 KVNKhYH は「巻貝」を表す。
 
 貝染の染料を持つ貝類は
 すべてその巻貝(累貝)に限られる。
 
 フェニキア人が染色したのは羊毛で、
 絹もまた動物性繊維である。
 
 そこに注意を向けた
 ヘブライ人の貿易商人も
 有能であったといえる。
 
 (c) 貝染技術と紫色
 
 繊維類に染色するには染料が要る。
 
 貝染の染料は巻貝(累貝)の内臓腺から採る。
 
 それを発見したのが
 地中海東岸のフェニキア人であった。
 
 巻貝の内腺から採れるエキスはわずかで
 多くの貝を殺さなければ」ならない。
 
 『水生無脊椎動物』〔世界大博物図鑑〕によると、
 
 地中海では
 ツロブリボラあるいは
 シリッブルボラという
 体長2㎝余りの小さな貝がそのため使われた。
 
 また
 日本から東南アジアに分布するチリメンボラが
 貝紫の原料となったと説明している。
 
 前記『弥生時代の吉野ケ里』は
 
 「貝紫の色素を抽出できる有明海生息の貝類」
 
 として
 
 アカニシ、レイシ、イボニシ名を挙げている。
 
 このうちアカニシは大牟田歴史資料館の
 1999年「展示図録」に
 縄文時代中期から後期の遺跡
 
 「毛無貝塚」から出土した実物と
 紹介しているので、
 有明海には古くから同貝がいたことを証している。
 
 ただしそれは
 食料として採られたもので、
 染料としては考えられない。
 
 貝染によって付けられる色は、
 「貝紫」と通称されるように紫色であるが、
 その範囲は広く、
 フェニキアを「赤い国」と
 称したように赤色、赤紫色、青紫色となり、
 総称して「茜色」といえる。
 
 その色彩は本来「晒」に依り、
 夕焼けの色が赤色から青色、碧、紫色と
 変色するのに合わせている。
 
 (d) 巻貝と有明海〔地名:鐘ヶ江と古賀〕
 
 上記の通り、有明海の巻貝を採取して
 染色を施していたことは明白である。
 
 福岡県〔筑後国〕・佐賀県・長崎県〔肥後国〕の
 有明海沿岸地域には、
 
 そこで巻貝を採集していたことを示す地称が
 今日まで数多く継承されている。
 
 言い方を代えれば、
 それらの地名が
 巻貝に由来しているということになる。
 
 まず大川市の筑後川沿いに
 「鐘ヶ江」との地称がある。
 
 この「カネカエ」は
 ヘブライ語でフェニキアを言うと紹介した
 KVNKhYH〔巻貝〕の移入である。
 
 また同市に「兼木」との字名もあり、
 その理由を同じくする。
 
 長崎県の諫早市に「船越」との地称があり、
 これも
 「フナコエ」と読めその語源が同とみられる。
 
 周辺には貝津町あるいは大染島といった貝染と
 係わる地称があるからである。
 
 さらに、
 下記に列記するように「コガ」との
 地称がここにはたくさんある。
 
 これはギリシャ語の「貝」を語義とする
 
 kogxe の音写による。
 
 なぜここに
 ギリシャ語が入り定着しているかというと、
 「先代旧事本紀」国造本記に載る
 「筑紫米多國造」に係わる。
 
 その「米多」は佐賀県の吉野ケ里遺跡の東方、
 和名類聚抄の三根郡米多郷にして現在、
 目達原と表記される地のことである。
 
 国造本記には
 
 「志賀高穴穂朝(成務)息長公同祖
  稚沼毛二俣命孫都紀女加定賜國造」とある。
 
 息長氏は、
 本書第6章(7)で詳説したように
 イリ〔ギリシャ〕族の仲間である。
 
 この経緯により、
 ここにギリシャ語が入った理由を説明できる。
 
 「コガ:古賀」などと訓める
 地称及び関連地称を挙げる。
 
  〇下古賀〔佐賀県小城郡芦刈町〕
  〇鹿ノ子・古賀〔佐賀市〕
  〇下古賀〔佐賀県佐賀郡東与賀町〕
  〇東古賀・西古賀・小久森〔佐賀県佐賀郡川副町〕
  〇鐘ヶ江、古古賀、北古賀、息古賀、古賀<兼木>、
   五家、紅粉屋〔福岡県大川市〕
  〇古賀、久々原、中古賀〔福岡県柳川市〕
  〇今古賀〔福岡県山門郡三橋町〕
  〇古開〔福岡県山門郡大和町〕
  〇岩古賀〔福岡県三潴郡三潴町〕
  〇古賀〔福岡県三潴郡大木町〕
 
 その他、北九州市小倉区に「紫川」との
 興味ある川名がある。
 
 同地は和名類聚抄豊前国などにいう
 「企救郡」の地で「キク郡」という。
 
 同名はギリシャ語の
 「紫貝からとった染料」との
 
 kikis の音写で、
 
 区名「小倉」の「コクラ」は
 
 同 koglos〔巻貝〕の音写である。
 
 また、吉野ヶ里遺跡出土の織物として
 「茜:アカネ」との解説があった「アカネ」も
 フェニキアを祖地としている。
 フェニキア人の祖族はケルト人と紹介したが、
 その始祖名をギリシャの伝承では 
 Aghnor といい、
 同語はそのうち 
 A-gh-no をとっていったものである。
 
 朝焼けをいう「アケボノ:曙」は同語の
 A-g-h-no に依る。
 
 曙も晒と同様の色彩を見せる。
 
 また漢字「貲」は「紫-貝」との構成であるが、
 これは日本語で「あがなふ」と読み、
 Aghnor に係わる。
 
 このように
 この地方の「巻貝」、「貝紫」に
 関係する用語には
 フェニキア及びギリシャ語が
 根深く浸透している。
 
 ただし、
 これらギリシャ語が同地に定着したのは、
 「国造」の制が始められた時期以後
 5世紀ないし6世紀のことで、
 邪馬台国時代2、3世紀のことではない。
 
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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