SSブログ

第5章 養蚕と絹(3)漢書の海洋交易網 [日本創世紀]

『歴史徒然』History Tsuredure https://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara
『歴史創世』Rekishi Sousei https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/
『歴史徒然』Rekishi Tsuredure http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/
『歴史再考』Rekishi Saikou https://momo-momo-matmkanehara-momo.blogspot.com/
『稲作養蚕』Inasaku Yousan)https://matmkanehara.hatenablog.com/
『猶本光サポーターズサイト』http://hikaru-naomoto.net/
『浦和レッズレディース』http://www.urawa-reds.co.jp/ladies/
『日本創世紀』の目次へ戻るhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-12-1 
「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4




(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

 (3)漢書の海洋交易網
 すでに第2章で述べたとおり、
 山海経は朝鮮の近くに
 インド〔天毒〕のような国
 あるいはインド人の国があるといっている。
 
 とすると、
 インド亜大陸と朝鮮のある東アジアとの行き来が
 紀元前後には実際あったとの推測が出てくる。
 
 まず漢の史料にその海路についての
 当時の情報が記載されているので紹介する。
 
 『漢書地理志』がその史料で
 「粤(おつ)国」に続いて延べられている。
 
 粤は越と同義で
 漢の時代には南シナ海に面する地域で、
 前漢時代の紀元前111年には
 現在のベトナムのホイアンに
 日南郡を置くなど漢は勢力を伸ばした。
 
 『漢書地理志』は
 紀元2世紀の著述とされている。
 
 その海路の解説部分を
 
 東洋文庫の
 
 「漢書食貨・地理・溝洫志」から転載するが、
 合浦及び徐聞は広東省の雪洲半島の境で
 儋耳(たんじ)と珠厓(しゅがい)は
 海南島の港町(郡名)である。
 
 海南島も紀元前111年に漢によって属州とされた。
 
 合浦や徐聞から南に海に出ると大きな州に出会う。
 
 東西南北一辺が千里もあり、
 武帝の元封元年、攻略して儋耳・珠厓両郡とした。
 
 住民は大風呂敷のような一枚の布を身につけ、
 真中に穴をあけてそこから頭を出す。
 
 男子は農耕を行い、禾稲や紵麻を種え、
 女は蚕を飼って機を織る。
 
 (中略)
 
 元帝の時代とうとうここを放棄した。
 
 日南郡の陣塞や徐聞、合浦から
 五ヶ月ばかり行くと都元国がある。
 
 また舟で四ヶ月ほどで
 邑盧没国(ゆうろぼっこく)があり、
 さらに二十日あまりで諶離(しんり)国がある。
 
 そこから陸路十日あまりで夫甘都盧国に達する。
 
 夫甘都盧国から舟で二ヶ月以上行くと黄支国で、
 住民の習俗は珠厓とほぼ似通っている。
 
 その州は広大で人々も多く珍しい物が多い。
 
 武帝時代より、いずれも貢物を携えて来見した。
 
 訳長がいて黄門に属し、
 募集に応じた者とともに船出して
 明琭、辟流璃(へきるり)、宝石や
 珍奇な品物を購わんと、
 黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた。
 
 行く先々の国々では、食事に女性がはべり、
 蛮夷の商船がリレー式に運んでくれる。
 
 だが、
 取引の利益をめぐって、剽掠(かすめ)られたり、
 殺されることもあり、
 風波に悩まされて溺死したりする。
 
 さもなくば数年たって帰国し、
 周囲二寸もある珠玉をもちきたる。
 
 平帝の元始年間、王莾(おうもう)が政権をにぎり、
 その威徳を輝かそうと黄支国に莫大な贈物をもたせ、
 生きた犀を献上するよう使者を遣わした。
 
 黄支から舟で八ヶ月ほどで皮宗に到着し、
 さらに海路二ヶ月で
 日南、象林地方に到着するといわれる。
 
 黄支の南に已程不国があるが、
 漢の訳使はそこで引き返す。
 
 ➀都元国 
  (日南郡、徐聞、合浦から海路五ヶ月ばかり)
   シンハラ国(現スリランカ)の港
   Dehiwala と考えられる。
 
   サンスクリット語で名の Tamaraparna 
   ギリシャ語名で Taprobanes として知られた。
 
 ②邑盧没国:ゆうろぼっこく
  (都元国から船で四ヶ月ほど)
   インド亜大陸西海岸、
   古代名 suroarka (港町)に比定される。
 
   Sur は美称で、パラカに対応するが、
   現在のムンバイ、
   かってボンベイといわれた市近くの港 
   Alibog がその遺称とみられる。
 
 ③諶離国:しんりこく
  (邑盧没国より船で二十日あまり)
   surat のことで、
   紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。
 
   諶離は shila の音写と考える。
 
 ④夫甘都盧国
  (諶離国から陸路十日あまり)
   当時ペルシャを支配していた
   ぺルチア王国の首都 
   Hecatonpylos のことである。
   同市は内陸カスピ海の南東に位置する。
 
   インドの sura-shila から
   陸路で十日では到達できない。
 
   その表記に「十日」あるいは
   「何十日」などの
   誤写か欠字があるとみられる。
 
 ⑤黄支国
  (夫甘都盧国から船で二ヶ月以上)
   船で二ヶ月以上行くとは、
   ヘカトンピロスから
   カスピ海の東岸から船出して西岸にいたる
   旅程を含むものである。
 
   現在の Bandar-shah から 
   Bandare-Pahlavi 方面の水上交通は
   現在においても重要な航路である。
 
   黄支は
   紀元2世紀当時ローマ帝国の支配下にあった
   Antiochiya のことで、
   現在の Antakaya を指すとみられる。
 
   黄支は ochi の音写である。
   漢書大宛て列伝では「条枝」と表記された。
 
   これはアンチオキアに主都を置いていた
   セレウコス Seleuucos 朝名の転訛である。
 
   同市はローマの東方支配の拠点都市であった。
 
   ヘカトンピロスから
   カスピ海の水路と陸路を合わせての
   行程と解釈される。
 
 ⑥已程不国(黄支の南)
   已程不(いてふ)と解釈すれば 
   Egypt の音写と考えられる。
 
   已程不(きていふ)ないし
   巳程不(していふ)と読めば
   Kithem(旧約聖書創世記に出る)
   Sidon に対応し、
   地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。
 
 ⑦皮宗(黄支から船で八か月ほど)
   アンチオキアから陸路で
   紅海あるいはペルシャ湾に出て、
   海路船で東方へ向かう行程と考えられる。
 
   紀元2世紀頃の主要海路は紅海を経て
   ローマとインド西海岸を結ぶものであった。
 
   皮宗は当時のインド亜東岸の港町 
   Pitha-puran である。
 
  紀元2世紀は後漢の時代である。
 
 大秦王安敦
 (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、
  その献貢物品の内容から疑問も出されている)
 の使節がやって来たのは166年のことで、
 東西の海路による交流が盛んになった時代である。
 
 漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて
 航海に出たとの記述は重要である。
 
 この地理志の西方に関する情報は、
 後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が
 かなり入ってきていたことを示すものである。
  
 M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

nice!の受付は締め切りました

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。