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第5章 養蚕と絹(5)ギリシャ語資料にみる東方の絹の産地 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
    
(5)ギリシャ語資料にみる東方の絹の産地
 古代に絹が東方から内陸中央アジアを越えて
 西方のギリシャ・ローマへ
 知られるようになったのは
 紀元前1世紀頃からである。
 
 そしてギリシャ語資料に
 「セリカ」「セレス」といった
 絹やその産地を指すおぼろげながら 
 知られるようになった。
 
 「セリカ」名がギリシャ資料に出始めたのは、
 ギリシャ人地理学者プトレマイオスかららしい。
 
 さらに紀元後1世紀になると
 今度は東方から海路インドを経て
 大量の絹製品がローマ帝国へ輸入され始めた。
 
 当時の高位政治家や豪商が愛好するところとなり、
 あげくにはローマ金貨が代替としてインドへ
 多量移送され、
 2世紀に入るとローマ帝国の経済を
 圧迫するほどになった。
 
 その紀元1世紀にエジプトに居た
 東方海洋貿易商人がギリシャ語で
 紅海、アラビア海、インド大陸の海洋貿易港、
 そしてさらなる東方の交易網をまとめて紹介した。
 
 それを村井堅太郎氏が
 「エリュトラー海案内記」〔中公文庫〕として
 翻訳出版している。
 (a)絹の産地セリカ
 これは伝説である。
 
 史記「封禅書」に次のような記載がある。
 
 明治書院漢文新釈大系から取る。
 
  〔三神山〕(斉の)威王・宣王、燕の照王から、
  人をやって海に入り、
  蓬莱・方丈・瀛州(という三つの神仙)を
  さがさせるということがはじまった。
 
  この三神仙は、言い伝えによれば、
  渤海のなかにあって、
  さほど遠いところではない。
 
  ただ、今にも行き着くかと思うと時に、
  船が風に引かれるままに、離れてしまうのが、
  いかにも残念なのである。
 
  つまり、
  昔には行きつけていたものがいたようで、
  そこにはもろもろの仙人達もおれば、
  不死の薬もあって、
  そこにあるもの鳥、獣まで白一色で、
  黄金と白銀とで宮殿をつくっている。
 
  そこまで行かぬうちに
  遠く望めば雲のようであり、
  そこまで行ってみると
  三神山はかえって水の下にあり、
  それを 覗き込むと、
  決まって風が船を引いて離してしまい、
  結局、誰も行き着くことができなかった。
 
  という。 
 
 このような情景は、現代の知識で解釈すると、
 蜃気楼を反映させたものであることが
 容易に推察できる。
 
 斉国は「禹貢」にいう青洲、
 山東半島地域に周の時代
 紀元前7世紀から3世紀まで、
 秦が九州を統一するまで続いた侯国で、
 渤海湾に面している。
 
 そのためシナ海方面の情報を得ていたものである。
 
 三神山名について、
 現在どの地を指しているのか明らかでない。
 
 蜃気楼との解釈を含めて、
 あくまで伝説といわざるを得ない。
 
 三神山については、
 史記「秦始皇帝本紀」にも
 
 「海中の三神山有り、
  名づけて蓬莱、方丈、瀛州といふ。
  僊人之に居る」とある。
 
 僊人は仙人であろう。
 
 史記が成立したのは紀元前1世紀のことで、
 これらの情報はそれ以前のものといえる。
 
 ここで注目したいのは
 
 「黄金と白銀とで宮殿を造っている」
 
 という一節である。
 
 白銀の「白」は
 清時代の解釈により入れられたもので、
 本来は「銀」であったらしい。
 
 この伝説が漢の時代になって渡来するようになった
 インドの商人たちに伝えられた痕跡がある。
 
 それが、
 また西方のローマへ伝えられることとなった。
 
 古代ローマの
 ポンピニウス・メラガクラウディウヌ帝
 (紀元41-54年)に
 東方の絹の産地について書いたものの中に、
 セリカの南のインドの辺りに
 二つの新しい島があって、
 その名前がクリゼ島とアルジレ島である、
 という。
 
 そして
 
 「名前が事実からか、
  いい伝えが名前からか、
  どちらにしても、
  その土地の一方が金で出来ていて、
  もう一方は銀で出来ている」
 
 と述べている。
 
 クリゼ島名はギリシャ語の 
 χρυσός krisos(金)、
 
 アルジレ島名は 
  ασήμιargiros(銀)に依拠する。
 
 また、サンスクリット語の 
  krśana(黄金、宝石) 、
 arjuna(銀、銀の、白い) に対応する。
 
 これらは伝説に始まったことであり、
 比定地を想定することは無意味である。
 
 だが、
 情報の伝播を推測させる話である。
 
 しかし、
 セリカは確かな地域名として想定されていた。
 
 セリカ名は、
 ローマ時代の地理学者が絹に係わるインドより
 東方(オリエント)の用語として記述している。
 
 ラテン語 sērica は「絹地、絹織物」を表わす。
 英語の silk の原語で
 日本語にシルクとして知られる。
 
 また同類の 
 Sēr、Seris、Sēres も絹の産地に
 係わる用語として知られる。
 
 紀元140年頃作成され
 プトレマイオスの世界地図は
 インド亜大陸、セイロン島(Taprobana)、
 ビルマ地域、マレー半島、
 インドシナ半島からトンキン湾辺りまでから
 推察されるような構図となっている。
 
 トンキン湾の北方シナイ(Sinae)名、
 そしてその上方(北方)に
 セリカ serica 名がつけられている。
 
 シナイはティナイ Thinae を都としていると
 伝えられている。
 
 この地名は前漢の時代雲南省にあった
 滇国(Dian)名に由来すると見られる。
 
 倭語である日本語での読みは「シン」である。
 
 また、
 セリカは書経「禹貢」などで見た東シナ海に面した
 兗州から揚州までの絹の産地を
 いったものと考えられる。
 
 しかし、紀元2世紀の前半においては、
 東方の地理について詳しい情報は
 西方へ伝わっておらず、
 その陸地の様子が不明であったことを
 プトレマイオスの世界地図は示している。
 
 この時期紀元1、2世紀には、
 海路を通じて大量の絹製品が
 東方からインドを経由して
 西方ローマへ運搬されていた。
 
 東方での担い手はインドの商人が中心であり、
 漢の商人も一部参加していたことが
 漢書「地理志」に依って窺われる。
 
 そして、
 絹の主な取引地域が
 東シナ海沿岸であったかもしれないが、
 彼等の交易網が韓半島、
 九州にも広がっていたと考えられるのが
 「三国志魏書倭人伝」などの史書で確認される
 絹の産地の広がりである。
 
 そればかりではない。
 
 沖縄などの島々は
 商船の停泊地としての役目を
 果たしていたと見られるのである。
 
 (b)セリカ名の由来と遺称
 
 ラテン語 sērika(ca) は
 絹製品の総称と考えられるが、
 絹をなぜセリカというのだろうか。
 
 その産地であるシナでは
 「絹」は juán 、
 絲綢 si-chóu など
 絹糸を表わす絲は si で
 その語源を漢語に求めても無く、
 最近は中国語は求めることを止め、
 朝鮮語の sir やモンゴル語に求めた
 見解などが出ている。
 
 モンゴル語に求めるのは
 時代の隔たりから無理であり、
 朝鮮語とするのは後述するように移入であり、
 祖語となるものではない。
 
 本当のところ、
 セリカは
 サンスクリット語の 
 śailika の音写である。
 
 その意味は「石」で 
 śaila (石、石よりなる) と同義である。
 
 Śailika は
 繭を「石」と比喩的に形容した名称であり、
 インド商人が通称とし、
 その用語を使い始めたものと考える。
 
 ただし、上質の繭は固く、
 手で潰そうとしてもなかなかへこまない。
 
 石のような感覚がし、しかも重い。
 
 沖縄県浦添市に「勢理客」という地名が
 安謝川の河口一帯にある。
 
 沖縄の呼称ではジッチャクというが、
 本来「セリカ」と考える。
 ここは交易商船の寄港地であったと見られる。
 
 「勢理客」名は国頭郡本部半島今帰仁村の
 勢理客(セリームキャク)、
 伊是名島の同名地区があるほか
 名護市の世良慶、恩那村の瀬良垣とある。
 
 また
 鹿児島県大島郡沖氷良部島の
 瀬利覚も同様である。
 
 さらに
 宮古列島の石垣島も祖語を同じくすると考える。
 
 このように
 西南諸島にセリカの遺称が多く残ることは、
 ここが絹取扱い商船の寄港地として
 重要であったとことを物語っている。
 
 まるで、
 セリカの南にあるという伝説の島、
 グルビ島とアルジレ島のようである。
 
 この勢理客が絹と係わることは
 次のような状況からも判断できる。
 
 浦添市の勢理客と那覇市の境を流れる川を
 安謝川といい、安謝の地名もある。
 
 この地名は
 サンスクリット語の「光、光明」を表わす
 amśu の転訛である。
 
 A(m)śu を語幹とした a(m)śuka は
 「布、衣服」を意味し、
 漢訳では「絹、絹羅」とされている。
 
 これは 
 a(m)śu-paṭṭa が市を表わすことによる。
 
 国頭郡今帰仁村の勢理客の南側には
 天底地区があるが、
 これは a(m)śuka の音写であり、
 北側の越地は繭を表わす kośa を祖語とする。
 
 このように勢理客は絹に係わる地名である。
 
 鹿児島湾の別称は錦江湾である。
 
 「錦」は絹織物の一種、
 布を織る工程で絵柄を織り込んだものをいう。
 
 湾岸に絹の産地があったことになる。
 
 石垣(セリカ)名は揖宿郡頴娃町にある。
 
 まず、注目するのは
 姶良郡加治木町に代表される一帯である。
 
 「カジキ」は
 サンスクリット語の「絹、絹布(帛)」を表わす
 kauśīka の音写である。
 
 町内の反土(たんど)は反物などに係わる
 tantu(糸)、tan(織物を擴(す)く)を祖語とする。
 
 また反土の西側に位置する木田は「キタ」で
 kita(蚕)の音写で、
 地区内にある隅姫神社の「クマ」は
 krmi の転訛で蚕を表わす。
 
 反土には小鳥神社が鎮座し、
 その北方に薬草を意味する
 ośadhi である小山田地区があり、
 インドの医薬・健康に対する
 信仰文化が浸透したことを示している。
 
 この一帯は明治29年までは
 「和名類聚抄」にもある「桑原郡」であった。
 
 つまり養蚕の地であったのである。
 
 (c)セレスと青龍
 
 セリカ sērika(ca) とともに
 ラテン語で ser、seris、
 ギリシャ語で Σηρ、Σηρος 
 と表現される用語について
 触れておかなければならない。
 
 これらは、
 そこから絹を入手したアジアの種族名で、
 シナ人の呼称とされている呼称である。
 
 この用語の語源についての追求もされてきたが、
 確定されるまでに至っていない。
 
 これもセリカ同様、
 漢語の絹商品に係わる用語に
 語源を求めることはすでに止められ、
 朝鮮語やモンゴル語に求める
 見解があることを既述したが、
 モンゴル語に設定するのは理屈が通らない。
 
 朝鮮語の絹は絹を表わす 
 sir は
 斯盧、新盧、新羅と表記された。
 
 サンスクリット語
 sila〔石〕が祖語である。
 
 しかし、
 斯盧が韓半島の南部に表れるのは
 紀元後のことで、
 セレスが史料に表れるのが
 紀元前2世紀であることを考慮すると、
 これに由来するとするのは難しい。
 
 海路を経て西アジアへ伝えられた
 「絹」名はセリカである。
 
 これに対し、
 セレスは内陸、中央アジアを経て
 西アジアへ伝えられた
 絹を生産する人々の名称である。
 
 ジャン・ノエル・ロベールは
 「ローマから中国へ」の中で、
 ローマの地理学者ストラボーンが
 バクトリアの王(メナンドロス)が
 
 「彼の支配をセレス人にまで及ぼした」
 
 と記述し、
 それは
 別の地理学者アポロドロスに
 依ることを述べているので、
 アポロドロスは紀元前1世紀の初めに
 セレス人について言及していたと述べている。
 
 メナンドロスは紀元前180年頃バクトリアに君臨し、
 163年頃には
 パンジャブ地方〔インド西部〕へも勢力を伸長した
 ギリシャ人の王の中で最も強盛な王で
 「ミリンダ王」である。
 
 紀元前1世紀の初めに
 ローマの地理学者
 セレスの存在を知ったことになる。
 
 そこで想起されるのは月氏の西遷である。
 
 彼等は紀元前176年に
 甘粛省の安定から匈奴に追われ西遷を始め、
 紀元前138年には
 バクトリアに到着し定着を始めたとされる。
 
 紀元前2世紀の後半に移動したのである。
 
 第六章 月氏と秦氏でみたように彼等こそ
 絹貿易の仕掛人と考えられるのである。
 
 月氏は安定(地名)辺りで和氏
 〔第1章の(5「和氏」及び「羲氏」)〕と
 接触していたに違いない。
 
 和氏は絹の技術知識を持って
 安定(地名)の地、
 三危山の麓へ移っていたのである。
 
 嫘祖伝承により「和夷」である阿泥族の故郷
 四川省西方の高原が
 「蠶」の発祥地であることはすでに述べた。
 
 川西高原を流れる現在の大渡河は明の時代まで
 峨水あるいは和水と表記された
 和族(氏)の居住地であった。
 
 「禹貢」の「和夷」を
 この和水の流域に住む夷族と解釈するのが
 シナの古典的理解であった。
 
 しかし、
 現代になって少数民族の研究が進み「和夷」を
 阿泥族とするのが一般的理解となっている。
 
 涼山彝族自治省を流れる川に安寧河があるが、
 この河はかって阿泥河であった。
 
 安寧は阿泥の転換であることが解かる。
 
 大渡河の上流大金川沿いに「安寧」の地名がある。
 阿泥(和)族の遺称地である。
 
 山海経「海内経」には次のようにある。
 
  西海の内、流沙の中に国あり、名は壑市(かくし)
  …中略…
  流沙の東、黒水の西に朝雲の国、
  司彘(してい)の国あり、
  黄帝の妻、雷祖は昌意を生む。
 
 雷祖とは嫘祖のことである。
 
 国水はアハチベット族自治省を流れ
 岷江に合流する黒水河のことで、
 その西とは大渡河(和水)の上流大金川流域である。
 
 つまり嫘祖は和族(氏)の出であることを
 ここでも解いているのである。
 
 このような考察及び韓半島、
 日本の倭族の養蚕に対する記録によると、
 安定(地名)へ移された「和氏」は
 十分に絹の知識を持っていたことが解る。
 
 和氏と同居した月氏は、
 和氏から紀元前2世紀のうちにその情報を獲得し、
 牧畜民〔温帯地帯型羊飼い〕から
 絹商人へと転換したのである。
 
 彼等の運んだ絹商品が
 パルチアを経由してローマに到達し、
 ローマの貴重品となったのである。
 
 セレスとは絹を扱う商人達ではあるが、
 その生産地の人々をいうものと
 ラテン語、ギリシャ語では理解されているので、
 四川盆地辺りの人々ということになる。
 
 紀元前2世紀頃の
 蜀の主要民族は「和夷」であった。
 
 そして彼等の「蠶」の神として崇拝されたのは
 「天叢氏」の青衣神、
 西王母の乗物となる「青龍」であった。
 
 特に蜀が「青龍」の地となっていたことは、
 「青龍」の地名龍門山、龍泉山の山名などにより
 理解ができる。
 
 つまり、
 セレス seris は、
 「青龍」sha〔tshie、tsie:緑〕-lu〔龍〕の
 転訛と考えられるのである。
 
 和人〔倭人〕の後裔である日本語訓(よ)みでは、
 これを sei-ryu といい、より seris に近い。
 ストラボンはセレスは紅毛で碧眼であったと
 記述しているところみると、
 絹を商品として取り扱っていたのは、
 単に和族だけでなかったことが窺われる。
 
 月氏は紅毛碧眼の民といえないだろうが、
 流通に他の複数の種族(ソクディア人)が
 係わっていた表われであろう。
 
 紀元前2世紀になっても
 東方の絹の生産地について
 ローマでは詳しいことを解っていなかった。
 
 当時マケドニアの商人
 マエスが陸路「絹の国」へ至ったという。
 
 彼はそこをセリカといったが、 
 そこに15の町があり、
 首都をセラ Sera といったという。
 
 この sera も青龍を原語とするとみられる。
 
 セレスは青龍の転訛と考えられるのである。
 
 そのほとんどは紀元後の史料となるが、
 タクラマカン砂漠の周辺から
 ソグディアナ〔中央アジア〕の一帯で
 養蚕が行われた記録と
 実際の絹製品が遺物として残されている。
 
 その大生産地が
 現在ホータン(和田)という
 タクラマカン砂漠の西南の町である。
 
 そこはクシャン王朝の王家の発祥地でもある。
 
 クシャン(貴霜)名の語幹について
 繭を表わす kosa があることが指摘される。
 
 そのギリシャ語市名 
 Kustana、Kothan などの
 祖語も kosa(繭) にあるといってよいと考えられる。
 
 漢の時代の「蚕種西遷」伝承や
 現在においても絹の生産が盛んであることをみると、
 桑の生育に適した環境といえよう。
 
 中央アジアからトルコにかけて繭、絹は現在でも
 kosa と呼び慣らされている。
 
 西王母の故郷として
 カシミールまで考えられているのは、
 青龍である蚕が西方にも
 広く飼われるようになったことにもよる。
 
 古代ローマでは、
 シナのことを
 「セリカ(絹の国)」とよんだように、
 シナの絹織物は、
 古くから陸路を経て遠く運ばれた。
 
 シリアのパルミラから出土した
 漢代の錦・綾・綺(にしき あや あやぎぬ)など、
 交易路の各地点より出土した
 漢代から唐代にかけての多量の絹織物は、
 それを伝えている。
 
 しかし、
 シナは製品の絹織物を輸出しても、
 蚕種(さんしゅ)(蚕の卵)の
 国外への持ち出しは
 かたく禁じていた。
 
 そのため、こうした地域には、
 蚕種の西方への伝播にまつわる
 いくつかの伝説が残されている。
 
 タリム盆地のホータンにある
 この地に嫁ぐ王女が蚕種を
 帽子の中に隠して伝えたという
 蚕種西遷説話が描かれている。
   M.K記

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