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箒(ははき)木は智恵の木 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《箒(ははき)木は智恵の木:はじめに》

《はじめに》
 「件木(くだんのき)は美濃信濃両国界、
  その原ふや世やと云所にある木なり。
  とほくてみれば、
  ははきをたてたるやうにたてり。
  ちかくてみれば、それに似たる木もなし、
  然れば、
  ありとはみれどあはぬ物たとへ侍り」
 八世紀の前半、奈良時代に編まれた
 「風土記」信濃国逸文
 「ははき木」の一説である。
 遠くから見ると
 箒(ほおき)立てたような
 形のような木があるが、
 近づいて見ると、
 そのような木は見えない。
 それ故に、
 あると見えているが、
 会うことができない物に
 例えられているという。
 紫式部「源氏物語」の「箒木」巻は
 この逸文に依って名づけられたものである。
 さて、この箒木を概念的に解釈すれば、
 「有りて無きもの、無きて有るもの」
 ということになる。
 まさに、
 「色即是空、空即是色」で
 般若心経の真髄を表わしている。
 般若心経は
 「大唐西域記」で知られる
 唐の僧玄奘(げんじょう)が
 西暦629年から645年にかけて
 現在の中央アジア・インドを
 旅行した後に漢訳した
 「般若波羅蜜多心経」のことで、
 般若は
 サンスクリット語 prajna を音写した
 「智恵」を意味する用語である。
 箒木が
 この「智恵」の表徴であることが
 理解できるであろう。
 美濃国は信濃国の境(界)
 「その原ふせやしとは
  どこだろうだろうか。」
 現在の長野県下伊那郡阿智村園原、
 智里伏谷のことである。
 古代東山道の美濃、
 現在の中津川市神坂から
 県境の神坂峠を越えて
 信濃へ入ったばかりの
 山岳地に位置している。
 現在この村は
 中央自動車道が貫通しており、
 トンネルに関する掘削から
 道路管理まで日本の最新知識と技術が
 結集されて建造された
 恵那山トンネルと網掛トンネルが
 道路距離の半分を占めている。
 だが、古代においては、
 東山道の東国へ旅する
 第一の険阻な関門であった。
 そして
 神坂峠は信濃国への入り口でもあった。
 
 阿智村智里こそは
 長野県の呼称信濃あるいは
 科野<シナノ>という
 名称の起こる大元と考えられるのである。
 智里はかって智里村といっていたが、
 その鎮守として
 昼神地区に阿智神社が
 前宮奥宮に分かれ祀られている。
 
 平安時代十世紀の
 延喜式神名帳に記載されている古い神社で、
 祭神は
 八意思兼(やごころのおもいかね)命、
 天表春(あまのおもはる)命が
 主神として祀られている。
 思兼神は、
 『日本書紀』の天石窟戸(あまのいわやど)、
 邇邇芸命(ににぎのみこと)の
 天孫降臨の段に登場する
 八百萬神(やおよろずのかみ)中
 第一の智恵神である。
 『古事記』においては
 邇邇芸命の天孫降臨の段の
 常世思金(とこよおもいかね)神と称され、
 高木神からは
 「思金は前(さき)の事取り持ちて、
  政(まつりごと)を為(せ)よ」と託され、
 また、
 「高御産巣日の子、思金神命」
 と表されている神である。
 高木神と高御産巣日神は
 同神として知られる。
 風土記逸文にみえる
 「その原」は園原で
 智里から神坂峠へ向かった
 その半場に位置するが、
 そこからさらに横川川を
 遡った山峡横川地籍に
 安布知神社が鎮座する。
 祭神は阿智神社と変わらない。
 「安布智」は「大智」と解釈できる。
 また、
 「大智」いえば大智度論が想起されるが、
 これは
 インドの大乗仏教僧で
 漢名「龍樹」と呼ばれた
 ナーガルジュナが著し、
 中央アジア地方から
 唐の長安に来たといわれる
 鳩摩羅汁(くまらじゅう)が
 漢訳した大品般若経の注釈書である。
 ここで問題は
 阿智神社が仏教寺院ではないことである。
 古来日本固有の宗教とされる
 神道の神社に智恵の神、
 仏教の般若の神が祀られていることが
 問題である。
 祭神名思兼と思金は異字同声である。
 両神名を音読みしてみると
 思兼 shiken 、
 思金は shikin で語幹は同じ、
 語尾が ken 、 kin と異なるといえ、
 これもほとんど同声である。
 このように
 日本固有の神道の神々の呼称を
 音訓化するなど
 異称から考察することが
 意義あることか検討してみる必要がある。 
 この今までなされてこなかった手法で
 『記・紀』神話を初めとする
 古代史に挑戦してみたのが本書である。
 特に西暦でいう一、二、三世紀の歴史は
 実に「箒木」で、
 時間的に過去のできごという
 絶対的条件もあり、
 「有りて無きもの、無きて有るもの」
 である。
 さて、
 この shiken / shikin の原語を
 追求したところ、
 インドの古代言語
 サンスクリット語 sikhin に
 由来するのが結論で、
 その意味は「智恵」である。
 また
 「智度」は
 同じく
 サンスクリット語のcitta の音写で
 智恵を表す。
 さらに智恵、
 智識を表す用語として jñana があり、
 これこそ「シナノ」へ転訛した言語で、
 科濃の呼称の大元が
 阿智村智里であると述べた理由である。
 阿智神社の東を流れる川の名が
 梨子野川で、
 北方に梨子野山がある。
 また、
 阿智村の北に清内路村がある。
 この二つの地名は jñana の転訛であり、
 「シナノ」名を補足するものである。
 ところで、
 サンスクリット語を祖語とする用語が
 神名に付されているのは、
 仏教が渡来し、
 本地垂迹説が広がり
 影響した後の名称ではないかとの
 疑問が起こってくる。
 その妥当ではないことは、
 『記・紀』の成立年代を考慮すれば
 明白になる。
 『古事記』は712年、
 『日本書紀』は720年に
 本地垂迹説が広がり始めるより
 100年余り前のことである。
 日本の古代史とはいえ、
 その考察には『記・紀』、『風土記』
 を始めとする日本の古代史料は元より、
 諸外国の歴史資料をも
 参考にしなければならない。
 『三国史記』、『三国遺事』など
 韓半島の史料、
 『書経詩経』、『史記』、『漢書』、
 『魏書』などの歴記、
 ベトナムの大越史記全書、
 インドの古代史料である
 リグ・ヴェーダなどの聖典から
 「ミリンダ王の問い」に至る
 仏教経典とその伝承、
 さらに
 メソポタミア、ユダヤ、ギリシャの資料まで
 考察の対象を広げなければならない。
 当然、
 これらの資料を成立させている言語は
 重要なデータの母体である。
 さらに重要な資料は地名である。
 地名や神社名は
 有言の歴史的事件の語り手である。
 例えば、
 日本の古代王権の中心地と見なされている
 奈良県は大和(やまと)国と呼ばれたが、
 このヤマトやナラでさえ、
 何故ヤマトとナラと呼ばれたのか
 解明されていない。
 これが解明されれば、
 日本の古代史はより実際的となる。
 どう発音してもヤマトと読めない。
 「大和」が当てられているのも
 不可解なことである。
 この点についてもまた箒木状態である。
 地名をどのように読み込んでいくかは、
 その「有るもの」に迫る
 効果的な手法であると考える。
 これが解明されれば
 日本の古代史はより実際的となる。
 安布知神社は、
 阿智村の横川地籍に鎮座しており、
 その地名に因んだ河
 が横川川と先に触れたが、
 この地名横川は長野県にはよくみられる。
 同じ伊那のうち上伊那郡辰野町、
 中央線が飯田線と分かれる辰野駅から
 松本方面に向かってしばらく行った
 川島駅付近で、
 西方から横川川が天竜川に流れ込み
 小野川と合流している。
 横川の地名も川上にある。
 また一山越えた南に
 小横川川が小野川に流れ込む。
 駅のある川島地区に智子神社があり、
 これも
 サンスクリット語の sikin の
 転訛とみられる。
 天竜川の水源諏訪湖の北岡谷市には
 横川地区があり、
 横河川が北から南の諏訪湖に向かって
 貫流している。
 この横河川は筑摩山地鉢伏山が水源だが、
 その南に通称高ボッチ山という
 奇妙な名の山があり、別称が横山である。
 山といえば、
 長野県と山梨県の県境に聳える
 八ヶ岳のうちに横岳がある。
 さらに群馬県となるが、
 軽井沢町碓氷峠の東松井田町に横川がある。
 信越本線の横川駅のあった地区である。
 これらの横川ないし横には
 相互に関係があるのだろうか。
 このような研究の探求の方法、
 つまり資料分析で
 「有ったもの」迫るものである。
 資料分析の発想は、
 製造工業などにおける
 生産経営と生産管理技法のうち
 品質管理手法に学んでいる。
 商品となる製造品と歴史資料とは
 分析対象として
 全く違う性格を持っているが、
 まずはデータ収集が
 大切であることには変わりがない。
 そして、
 いうところの散布図により
 同質性によるカテゴリー分類、
 特性要因によりその正当性を検討し、
 不良品を排除、
 認可範囲(管理用)に入るもののみ以って
 標準品として出荷するのである。
 真実であったとの推測を提起し、
 相関図を想定し、
 物語化するというものである。
 ここに述べた品質管理活動、
 つまり科学的品質管理手法とは、
 アメリカの統計学を生産現場に取り入れ、
 デミングの手法を日本に移植し、
 一般従業員の経営参加観念の方法として
 全社的品質管理の名の下に
 従業員間に品質管理グループ
 (QCサークルという)を結成させ、
 品質改善、
 コストダウン・生産工程改善などで
 現場にいる彼等に改善案を提案させ、
 生産性を向上させるというものである。
 1945年の第二次世界大戦の終結後、
 民主主義の潮流の中で構想され
 発足したこの活動は、
 日本経済の高度成長に
 生産性向上の面から多大の貢献をした。
 この活動の提唱者は
 東京大学教授であった石川馨であった。
 なぜ、
 この品質管理活動について
 概説したかというと、
 江上波夫が
 「騎馬民族国家」などの著作で
 日本に韓半島を経て騎馬民族がやって来て
 国を創建したという理論を展開したことと、
 その精神的風土が類似していると
 考えたからである。
 両博士が認識を共通していたかどうかは
 別として、
 その底にあるのは
 第二次世界大戦前にあった
 上(国家)から与えられて行動することへの
 反感だっただろうと考える。
 石川馨の場合は、
 底辺と決めつけられやすい
 従業員の発言を重要視し、
 上層からの圧迫に対する自我を発揚させた。
 江上波夫の騎馬民族国家論は、
 皇国史観への
 アンチ・テーゼ(反対主張)と
 解釈できるのである。
 この理論は比較文化論を発揚させ、
 神話学、考古学面で多くの研究がなされ、
 現在に至っては多くの資料を
 参照できるようにしたいう
 大きな功績があったいえよう。
 だが、
 未だ決定的な考古学的史料と思われる
 古墳などが
 参照できないでいるいう事情は
 あるにしても、
 今日までどのような民族が渡来し、
 その国家とは
 どのような政朝であるかなどの
 結論はでておらず、
 歴史として確立するまでに至っていない。
 歴史観としては、
 東アジア各国歴史研究家に刺激を与え、
 江上理論を基にした
 解釈を展開している者も
 かなりいるようである。
 以上述べた歴史研究観からすれば、
 本書に展開する提起は弁証法的にいえば、
 騎馬国家民族論へのアンチ・テーゼである。
 勿論、
 当然のことながら
 皇国史観に立ったものでは全くない、
 新しい主張(テーゼ)と
 解釈していただきたいと思う。
 
 新しい世紀(21世紀)における、
 東アジア古代史研究の方向としての
 問題提起と
 考えていただきたいと思っている。
 特に遺物を以って
 実証とする研究をしている方々には、
 インドのように火葬にして
 その灰を聖なる川に流してしまい、
 墳墓を作らない文化もあることを
 認識してほしい。
 その葬むられた人々の骨格も成分も
 今や把握されないのである。
 また、
 その伝承を文字に残すのではなく、
 口承により伝承された文化もあるのである。
 「箒木」は今にいう[ほうき]、
 現代生活では電気掃除機に
 その主役を譲ってしまったが、
 無用となり、
 忘れさられているものではない。
 箒木は安産の神との伝承もあり、
 大事にされているところもある。
 栃木県那須郡の塩原町から
 矢板市、大田原市を箒川が流れ、
 小川町の東の端で那珂川に合流している。
 塩谷町玉生には伯耆根神社、
 矢板市内には
 箒根神社が現在少なくとも
 5社が鎮座している。
 箒木は、
 『古事記』の天石窟戸の場面に出てくる
 「天波波迦」とも関係するだろうし、
 「ハハ」は「妣」と関係する。
 『古事記』によると
 須佐之男命が母神とされる
 伊邪那岐命に向かって
 「僕は妣の国根の堅洲国に
  羅(まから)むと欲(おも)ふ。
  故、哭(な)くなり。」といって
 涕(な)泣き叫ぶ物語の
 「妣の国」のことである。
「羽賀ヒカル 神社チャンネル」
「般若波羅蜜多心経」
M.K記
 

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