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第四章 フルリ人とミタンニ国 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 フルリ人とミタンニ国


  岩波講座「世界の歴史」は述べる。
 
 「いわゆる古代人によって
  スバルトゥと呼ばれた
  この地方の原住民の名であり、
  フルリ人と呼ばれたものの名である。」
 
 第三章のスバルトゥに係わる節で取り上げた
 アッシリアの初代から第三十代までの
 王名についての記述である。
 
 イラクの北端、大ザブ川がトルコ領から国境を超えて
 イラクに入り南東へ行く流れの南側の山地は
 ハリル Harir 山脈と呼ばれる。
 
 山脈の東端、大ザブ河畔に
  ゼバル Zebar の町があり、
 その付近に
 東方からシャムダール川が大ザブ川へ流れ入る。
 
 この地域はハブール地帯の一部であり、
 いわゆるフルリ Huluri 人の発生の地と推測される。
 
 フルリ人は、
 紀元前二千年後のスバルトゥの別称として
 考えられてきた。
 
 彼等の出身地については不明であるとされてきたが、
 上記の地名を考慮すれば
 スバル人(よってカルト崇拝の仲間である)のうちの
 ハブール地方の東北部を拠点とした
 集団であったと考えられる。
 
 この地方は針葉樹林帯内にあり、杉林が広がり、
 
 平原には牧草が繁茂していたとみられ、
 ゼバールの町名が示す通り
 羊などの牧畜が主な業柄であったと思われる。
 
 紀元前二千年頃のアッカドの粘土板に書かれた
 スバルトゥに関する記載のなかで
 フルリ huluri の字義については
 セム語のなかに huluri に音声の近似した 
  pillurtu という「交差」を表す用語があり、
 シュメル語「十字」のアッカド語読みと考えると、
 フルリ人がスバル人であることが納得できる。
 
 Pillurtu の語幹と係わる動詞形(交差する)は 
 eberu で、
 シュメル語の bal の同祖語であり、
 その語義には「追い越す、更に延ばす」の
   内容を含む。
 
 だが、フルリが彼等の集団の特性を
 表しているとするならば、
 アッカド語の 
 huru(掘る) 、
 haru(掘り出す)、 
 haruru(掘る)に関連しよう。
 
 その字義はすべて山を表す
 シュメル語の hur にも係わると思われるが、
 フルリ人とは金属鉱山で
 金属を掘り出す鉱夫を想起させるのである。
 
 アッカド語の山表す用語に 
 hursu があり、
 hurusa は「金、黄金」の意である。
 
 いわゆる山岳を表記するアッカド語は šadu であり、
 hurusu は鉱山の意味であると思われる。
 
 フルリ人は、
 スバル人のうちで鉱業あるいは金属加工を業とする
 thveli(金属工) の技術集団であった可能性がある。
 
 スバル人商業集団の一部であったのである。 
 
 紀元前二千年前を越え、青銅器文化が隆盛になると
 フルリ人特有の文化が醸成された
 北メソポタミア一帯にその活動の場が広がった。
 
 それ以前においてもその足跡は認められ、
 ウル第三王朝時代、
 北メソポタミアの現在のシリアの東北地方の
 ウルキシュやナワルの都市を
 フルリ人が支配していたほか、
 彼等の本拠とみられる
 チグリス川東部の王名ならびに
 フルリ名が顕著であった。
 
 紀元前二千年期にはザグロス山脈方面にも及んだ。
 
 すでにみたように牛頭崇拝の広がりをみせた地域で、
 遠くはカスピ海南方へテヘランに近い 
 トゥクリシュから
 シャッラ、シムッルムのメソポタミア平野に
 近い町まで広がる。
 
 続く時代には、
 アッシュール近郊のエカッラトゥム、
 子ザブ川東方のヌジ、
 ニネヴェの西方ジンジャール山脈の南のカタラ、
 ハブール平原と推定されるアシュナックム、
 さらに西方のオロンテス川沿いのアララクにも
 フルリ系の君主名が残されている。
 
 この地方へのフルリ人の進出は激しく、
 紀元前千四百年頃のアララクの史料には
 全人口の過半数をフルリ人が占めるようになる。
 
 地中海沿岸の町ウガリットにも
 八分の一から七分の一のフルリ系の人名が
 前十四世紀から前十二世紀にわたる
 ウガリット文書の中にみられる。
 
 また、
 エジプトの紀元前十五世紀の文書にみられる
 カナンの地のフルもフルリ人と
 関係がありそうである。
 
 紀元前十六世紀の北メソポタミアに
 ミタンニ王国が建設された。
 
 フルリ人の経済的基盤の上に立脚した王国であった。
 
 アッシリア人はミタンニをアッカド語で
 ハニカルバドと呼んだが、
 これは多分「商品を交換する国」の意であろう。
 
 ミタンニ Mitanni は
 マタンニ Matanni とも呼ばれたが、
 グルジア語で mdha というので、
 「山の国」が本義であったと考えられる。
 
 その首都ワシュガンニの所在地は
 未だ不確定であるが、
 これもグルジア語による解釈によると
 「谷を出た所」の意であり、
 ハブール高原のどこかであったことは
 間違いないだろう。
 
 ミタンニ王国の最盛期には、
 その領土が東方のヌジのあるザクロス山脈の
 西麓からアッシリア地方、
 北方はヴァン湖の南岸から
 チグリス川の水源ハザ湖周辺を含む
 アルシュ、イシュワ地方、西方はタロス山脈の東部、
 地中海北岸ウガリットはもちろん
 オロンテス川上流カデシュまで達し支配した。
 
 北方のアナトリアの帝国ヒッタイトと
 クズル・ウルマク川付近で、
 南方のエジプトとカナンのビブロスあたりで
 常に拮抗していた。
 
 ミタンニ国は両国の圧力により滅亡し消滅するが、
 フルリ人が抹殺されたわけではない。
 
 彼等は続くアッシリア、カッシートなどの
 バビロンの覇権の下にも存続し、
 紀元前九世紀頃アッシリアの北辺に
 ヴァン湖を取り巻いて
 ウラルトゥ国を建設することになる。
 
 本来アッシリアも
 スバル人の一部の民族の建設した
  商業国家であったが、
 新アッシリアは軍国主義国家の性格が強く、
 古アッシリアの重商主義的国家組成の条件が
 変わってしまった。
 
 新アッシリア治下の紀元前九世紀頃、
 スバル人たちはシンジャール山脈の北側
 ハブール高原から次第に北方アナトリアの
  山岳地帯へと
 その居住地域を移転し始めたと考えられる。
 
 ハブール平原のスバルトゥの地から
 一山脈を超えたチグリス川流域へ、
 そこは鉱物の豊富な谷合であるが、
 彼等の拠点が移され、
 シュブリア「スバル人の土地」
 と称するようになったものと思われる。
 
 また、
 大ザブ川のハブリウリから上流にも
 スバル人は根強く勢力を張っていたが、
 彼等も次第にウルミア湖ヴァン湖方面に
 移動を続けたとみられる。
 
 移動理由には、
 アッシリアの軍事的圧迫があったことは
 容易に推測できるが、
 
 すでに始まっていたことは
 鉄器時代の進展にともない、
 鉄鉱石の産地がシュブリア地方、また
 ハブウリからウルミア湖に至る地方に
 分布していたことにもよると考えられる。
 
 彼等は青銅器文化の必要な担い手であったが
 鉄器文化への転換も始まったものと推測できる。
 
 スバル人と呼ばれ、フルリ人と呼ばれた
 カルト人の根幹勢力は
 祖地を離れて北方のコーカサスに向けて
 次第に移動を開始したのである。
 
 フルリ人の天候神テシュブ神は
 牡牛に乗る男神である。
 
 また、
 女神ヘポトは牝獅子に乗る神である。
 
 この関係は
 インドのシヴァ神の乗物(牡牛)と
 ドゥルガーの乗物(虎)に対応する。
 
 獅子はライオンで虎ではない。
 
 カナン神話におけるバアル神の乗物が
 牡牛であるのに対する
 イシュタル女神の乗物がライオンで
 あることにも対応する。
 
 フルリ人の故郷が北メソポタミアのハブール地方で、
 チグリス(虎)川が流れることを考えると
 本来虎であったとみられる。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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