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第四章 ウラルトゥ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 ウラルトゥ

  ウラルトゥの建国の時期は
 紀元前九世紀頃といわれる。
 
 その支配的民族はハルディアとは、
 カルディア人として知られている。
 
 ハルディア人とは、カルディア Khardia 人である。
 
 紀元前四世紀のギリシャの歴史家
 クセノフオンが「アナバシス」の中で
 アルメニアとアッシリアの間の山岳地帯に住む
 カルディア (Kardachoi) 人に触れているが、
 この人々であろう。
 
 クセノフオンはソクラテスの弟子で、
 紀元前四〇〇年頃
 ギリシャ軍に兵士として加わり、
 小アジアからメソポタミアの
 バビロン、アッシリア、アルメニア、
 黒海沿岸まで遠征した記録である。
 
 彼はさらにアルメニアに居住する
 カルダイオイ Chaldaioi 人と
 呼ばれる人々についても触れている。
 
 この部族とバビロニアのカルディア人とが
 同族であるとの主張をする見解は
 すでに現われている。
 
 大ザブ川はハリル山脈を巻くように東南へ流れ、
 その山脈が尽きると急に西南へ
 曲線を描いて流れ下る。
 
 この東方に張り出した一帯ををハブリウリと呼び、
 「ハブールのウリ」の意味で、
 シュメルの都市ウルに対応する。
 
 ハブリウリの東部にウラルトゥ人自身が
 アルディーニと呼ぶ
 アッシリア名ムサシルの町があった。
 
 そこの神殿にはハルディ神が祀られており、
 新しく王位に就く者はこの神殿で就任式を行った。
 
 ハルディ神がウラルトゥの神々の最高神であることを
 示唆している史実である。
 
 同神は Khardi (カルト)神で、
 牛頭を象徴している用語の踏襲と考えられる。
 
 ムサシルの主神殿の他にも多くの神殿が建てられた。
 
 ウラルトゥでの神殿の特徴は、
 塔を備えていることで、
 少なくとも六ヶ所のそうした神殿が発見されている。
 
 塔のある神殿といえば、どうしても
 アルパチヤ遺跡出土の碗方土器を
 思い出さざるを得ない。
 
 あの高床式神殿を描いた土器の時代から
 約五千年を経ているが、
 主祭神がハルディ(カルト)神であることを含めて、
 その相互の共通関係を否定することはできない。
 
 アッシリアの楔形文字を利用して
 ウラルトゥ語の文書がたくさん残されているなかで、
 多くの宗教的建物がハルディ神に
 献げられたとうたっている。
 
 その神々のうち、強力な神にティシェバ神がいる。
 
 フルリ人の天候神テシュブ神と関連づけられている
 神であるが、
 同神と思われる牛の上に立っている神像が
 浮彫りされた青銅製の円盤が発見されている。
 
 この円盤には、
 神像の周囲を二重に翼をつけた
 数多くの牡牛が装飾されている。
 
 また、
 エーゲ海のクレタ島の神話に登場する
 上半身が人間で下半身が牛の、
 いわゆるケンタロウスの像に酷似した
 デザインの青銅像がある。
 
 ヴァン湖近くのルサヒニリより
 1870年に発見されたと伝えられている像で、
 金メッキされた王座の一部であったと
 考えられている。
 
 ケンタロウスと違うところは
 青銅製円盤と同様翼を付けていることである。
 
 さらに発見地がトルコ東部と伝えられる
 三頭の牛頭をあしらった大がまと
 三本の牛足をつけた三脚台のセット、
 また四牛頭と四牛足の同型の大がまもある。
 
 セヴァン湖方面のテイヘバイニからは
 尖った頂を持ち、
 三本ずつの角を左右にあしらった兵士用の兜が
 二十個見つかっている。
 
 このようにウラルトゥの文化的基盤には
 牛、角に対する想念が脈々と息づいているのである。
 
 工芸文化の特徴は青銅による器物及び諸像などの
 製作にある。
 
 その精巧な作りは鋳造技術の高かったことを示し、
 優れた技術的集団の存在をうかがわせている。
 
 クセノポンの『アナバシス』にも、
 ギリシャ軍の占領した
 カルドゥコイ人の村の家々には青銅製の
 什器が多数具えてあったが、
 ギリシャ軍は一切手をつけなかったと記されており、
 青銅製物品が一般的に幅広く
 使用されていたことを伝えている。
 
 ウラルトゥ語は
 フルリ人の言語と直接的係わりがあるが、
 フルリ集団が鉱夫であり、
 青銅を加工する技術集団であったこととの
 結びつきを如実に語っている。
 
 紀元前八百年頃のメヌア王の碑文には
 青銅ばかりでなく、
 鉄工技術についても触れられており、
 この時代すでに鉄を巧みに利用していたことを
 示している。
 地元に産出する鉄鉱石を
 大いに利用した結果でもあろう。
 
 同王の碑文は七〇点以上見つかっているが、
 その内容は金属加工のほか
 宮殿、灌漑用水路、倉庫、神殿などの
 建築計画について記述されている。
 
 ウラルトゥ Urartu の名称は新アッシリアの
 サルマナッサル三世の宮殿跡を
 「バラクトの丘」で発掘した際
 見つかった粘土板の楔形文字史料のなかで、
 「アッシリアに敵対する国」として
 言及されたのを初出とする。
 
 因ってその呼称はアッシリア名であることが知られる。
 
 彼等自身は、
 その地方をウラルトゥ語でビィアイニリと呼んでいた。
 
 Urartu の語義については諸説あるが、
 ハブールのウリに
 ハルディ神の主神殿があったことと、
 その所をアルディニと呼んだことを考慮すると
 「ウル Ur の artu」と解釈することができる。
 
 Artu と ardi(-ni) は同根語と考えられるし、
 南メソポタミアの都市名
 エリドゥ Eridu と近似している。
 
 エリドゥ市名の検討に当たってサンスクリット語の
 「登ること」の ā-rudhi などを参照したが、
 塔を備えた神殿が
 多く建造されたことを考え合わせると、
 高床式神殿の「高み」と係わりがある。
 
 独英語で祭壇を表す Altar とも訓音は近い。
 
 碑文書には神殿の呼称として 
 「ハルディの門」が一般的に使われており、
 門は『旧約聖書の』
 創世記第二八章のヤコブの旅の段に語られる
 「神の家」「天の門」の概念とも一致する。
 
 また、スシとも称されたが、
 これはグルジア語の 
 shesavali(入口)  
 zis-kari(天-門)と関連があろう。
 
 このように考えると、
 Urartu は
 「ウルの祭壇」で「ウルの神殿」と
 解釈することができる。
 
 ウラルトゥ国はアッシリアの侵略を受けたが、
 そのセンターが山塊に位置し、
 冬の寒冷及び降雪に助けられ
 国体が何とか保たれていた。
 
 スキタイ人の一派とされる
 キンメリア人が北方より侵入してきてからは
 国威が衰え、
 彼らによって
 セヴァン湖方面のティシェバイニ市が
 陥されると崩壊の一途を辿った。
 
 紀元前612年に
 さすがに強盛を誉ったアッシリアも
 南方バビロニアのカルディア人の圧力や
 東方ザクロス山脈のメディアの支配すると、
 ウラルトゥの地はメディアの支配するところとなった。
 
 チグリス川を挟んだ峡谷の地シュブリアも
 いつしかその名称が消えていってしまった。
 
 その後には
 インド・ヨーロッパ系のアルメリア人が
 国を誕生させることとなる。
 
 カルト人は、
 また北方へ向かって移動を進めたと思われる。
 
 ハルディ語ともいわれたウラルトゥが
 フルリ人の言語を母体にしていたことを述べたが、
 現在のグルジア語と関連があり、
 双方とも膠着語の特質を持っている。
 
 先に述べたが、
 ハルディは khardi であることを再確認しておきたい。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
岩波講座「世界の歴史」は述べる。

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