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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(7)ベルベル人 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(7)ベルベル人




  ギリシャ神話で、クレタ島の神母エウロペーの父
 シリア・チュロスの王アゲーノールは
 リビュエーとポセイドンとの間に
 生まれた双生児の兄で、
 弟の名前はベーロス 
 Βεμοσ, Bēlos であった。
 
 ベーロスはカルタゴの女王となった
 ディードー Dido の父で
 また、
 アッシリアやペルシャの王として知られる。
 
 ベーロスは
 ウガリット神話に支配的王として登場する
  Baal バール神の転訛名と考えてられている。
 
 神話上とはいえ、
 カルタゴの開祖がカナンばかりか
 アッシリア、ペルシャと結びつけられている
 伝承は重要である。
 
 フェニキア人の都市チュロスから
 アッシリアの圧迫に追われてカルタゴへ行き、
 同市が建設されたというのが
 これまでの一般的理解であった。
 
 だが、
 同市の開闢は紀元前七世紀というような
 遅い時期ではなくかなり遡ぼるだろう。
 
 現在のリビアの地中海にあるシルテ Sirte 湾は
 古代にはケルト Kert 湾であった。
 
 首都トリポリの西方にある 
 Zuwarah は古代都市 sabrata の近くの町で、
 その名称の裏にスバルがある。
 
 リビアの西方、カルタゴのある国
 チュニジア及び首都チュニスは
 フェニキアのチュルスを移した地名である。
 
 チュニスからまた西方へ海岸を辿って行くと
 現在のアルジェリア国内になるが、 
 古代においてキルタ Cirta という町があった。
 
 ケルト湾、サブラタ、カルタゴ、チュニス、キルタは
 ケルト人に係わる固有名である。
 
 Carthago の名称についても「新しい都」を意味する
 Qart-hadasht を
 ローマ人が訛って呼んだものとの見解も 
 出されているが妥当性は低いと思う。
 
 語幹はケルトで、
 語尾 -ago ないし -hago は
 クレタ島を称した Agia ないし Hagia に対応し、
 ギリシャのアルゴーナウティカ神話に登場する
 パイアーキアと関係すると考えられる。
 
 カルタゴの地域が数千年間にわたり繁栄した理由は、
 この地域に鉛が採れたからである。
 
 北アフリカ地中海海岸一帯にも
 池中海系人種は分布していた。
 
 彼等は白人系人種で
 ベルベル人 Beriber 人と呼ばれた。
 
 ギリシャ語では非ギリシャ人の総称で
 野蛮人の代表であったが、
 ギリシャ人にもエジプト人、リビア人とならんで
 ベルベル人が知られていた証左とはなる。
 
 紀元前千九百年頃、
 牛に車を引かせる画を岸壁に描いた
 牛飼の集団はベルベル人であった。
 
 ベルベルの名称は
 シュメル語で「輝く、白い」を意味する
 barbar を礎にしたもので、
 メソポタミアの金属工たちが
 その祖であったとも推測できる。
 
 カルタゴの鉛鉱山は
 彼等の活動の中心であっただろう。
 
 因みにシュメル語の 
 ku-barbar は「白い金属」ではあるが、
 銀を表すとされている。
 
 ギリシャの繁栄時代、クレタ島の南方対岸の
 キレネ、アポロニアがある地方は
 穀物などの食料産地で
 ギリシャへの供給地であった。
 
 北アフリカは豊穣の血であったのである。
 
 イベリア半島へ紀元前三千年頃
 農耕技術と家畜飼育の技術を導入したのは
 アフリカの民族であるとの
 ビセンス・ビーベスの見解があるが、
 その担い手はベルベル人の仲間しかないであろう。
 
 なぜならば
 金属鋳造の技術も伝播されたと
  述べているからである。
 
 紀元前三千年頃のアフリカの民族は金属鋳造、
 つまり鋳造銅の技術を知っていたことになる。
 
 スペイン語の中にはアフリカ北部地方を
 古くは Berberia と名づけていたとの名残りがある
M.K記
 
 

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(6)ラチウム(ローマ) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(6)ラチウム(ローマ)




  ローマ人がやってくる前に
 そこにはすでに人が住んでいたというのが
 ローマ人自身による伝承である。
 
 紀元前二千年紀前半の新石器時代の終わりから
 金石併用器始めにかけてとみられる
 ローマ市の遺跡から
 銅剣が出土したことを初め、
 青銅器時代を通しての居住が確認されている。
 
 青銅製の斧が二丁見つかっていて、
 ここに青銅器文化が波及したことを示唆している。
 
 この時代の居住者は
 インド・ヨーロッパ語系の人々でないことは
 言語的に確実で、
 彼等は一般に地中海系人種と称されている。
 
 この地中海系人種とされる人々が
 残した地名が
 ラチウム Latium で、
 ローマの祖地の名称であり、
 Latin ラテンの祖語である。
 
 ラチウムの語幹 
 Lat- は、
 その北方の地域エトルリアの言葉にも、
 ましてや後にやってくる
 ローマ人の語彙にも含まれない用語とされる。
 
 そのため
 この土地で独自に成立した名称であるとの
 見解もあるが、
 そうともいえない。
 
 クレタ島の北岸に現在 
 Rethymnon という町がある。
 
 古代に 
 Ρέθυμνο と呼ばれた町で、
 その名は 
 Layium と酷似しており、
 こちらもギリシャ語の語彙に
 含まれていない用語で、
 二つの用語は同語と考えられる。
 
 クレタ島とラチウムが深い関係にあると
 述べたのはこの一件に始まる。
 
 Lati の語義を探ると、
 マルタ語にその手がかりがある。
 
 その用語は 
 lazz で「綱、紐、ロープ」を意味する。
 
 クレタ島のラチウムナの近くに 
 lappa という古代の町があるが、
 この地名はギリシャ語の「棒、棹、鞭」など
 「打つもの」を意味する 
 ραπις と対応する。
 
 また、
 アテネの郊外で革なめしが行われていた場所を 
 leproi といったが、
 lepis,lepyron は外皮のことであるので、
 この地名「革」に係わる用語で 
 luper の同類後である。
 Lappa は
 ラチウムの人々にとっての元祖に係わる祭儀
 ルペルカーリア祭 
 Lupercalia の Luper と係わる。
 
 同祭は 
 Lupercal と呼ばれる
 洞窟に集まって行われる祭儀である。
 
 エイナル・イェシュタードの報告で
 その祭儀の概略を紹介する。
 
 Luperci 儀式の祭司が 
 Lupercal という洞窟に集まった。
 
 第一に山羊及び犬の供犠を行った。
 
 ルペルキーのうち身分の高い二人の若者が
 前に引き出され、
 額に犠牲にされた山羊の血が塗られ、
 ついでにミルクに浸した羊毛で
 その血は拭き取られた。
 
 若者は笑わなければならない。
 
 すべてのルペルキーは
 犠牲にされた山羊の毛皮を腰に巻き、
 餐を共にした。
 
 それが終わるとなお、毛皮をまとったままか、
 あるいは裸で
 ルペルカールの外側をかなりの距離走り回った。
 
 走行中かれらは遇った人々、
 とりわけ女性を山羊の毛皮から
 切り取られた細紐で打った。
 
 この細紐は浄祓の道具 
 februa と呼ばれ、
 これからルペルカーリアの祭礼が行われる月 
 February の名前が生まれた。
 
 ※ファウヌス - Wikipedia
  ファウヌス(Faunus)は、古代イタリアの神格。
  ギリシア神話のパーンに相当し、
  ローマ神話の農耕神・ルべルクスとも同一視される。
  彼自身を象徴する彼の持ち物は
  狼の毛皮、花や草で作った冠、酒杯(ゴブレット)。
  家畜と田野や森を守る神である。
  この他、多産も司る。
  名は「いるもの」を意味する。
  これは予言の力があるからとも言い、
  また森の中で不意に不思議な音のするのは
  この神の仕業であるとも言う。
  伝説ではファウヌスはラティウムの古王とされ、
  古代イタリアの農業神
  ピークスの息子だったといわれる。
  ローマ人に神託を与え、
  ローマとエトルリアの戦争の際には
  ローマ人たちへ
  ローマ側が有利である事を伝え、
  勝利に導いたとされる。
  ファウヌスはローマの古くからある
  祭式ルペルカーリア(Lupercalia)と
  結びついている。
  この行事は、
  腰にわずかにヤギの皮の帯をつけただけの
  裸体の神事青年たち
  (ルペルキー Luperci)が走って
  村を一回りするもので、
  走りながらヤギの皮の紐で女を打つ。
  フレイザーも言う様に、
  古代では女の不毛または
  多産と地のそれとは密接な関連にある。
  この儀式は2月15日に行われた。
  ファウヌスの女性形が
  ファウナ(Fauna)である。
  ファウナはまた、
  ローマで女人だけの祭る不思議な
  女神ボナ・デア(Bona Dea 善女真)の
  名前とされた。
  中世以降はパーンや
  サテュロスのイメージと混同され、
  財宝の守護者とも夢魔ともいわれた。 
 
 Luper はラテン語では狼であるが、
 この祭儀の Luper とは 
 「山羊の毛皮から切り取られた細紐」であることが
 理解できる。
 
 その同義語にはマルタ語の他にギリシャ語の 
 ruta 手綱、鞭、
 英語の lash 鞭紐などが挙げられる。
 また、紐は fever と称されるというが、
 この語はマルタ語の habel 網に対応する。
 
 マルタ語に 
 ghal アール という「洞窟」を表す用語がある。
 
 これは Lupercal の cal に対応する。
 
 よって、この祭儀の名は
 「山羊の毛皮鞭の洞窟際」ということになる。
 
 祭司達は「山羊の毛皮を腰に巻く」が、
 これは
 アナトリアのチャタル・フユクの遺跡の
 牡牛を大書した壁画で
 猟人や祭司達が毛皮を腰に巻いて
 走り回っている風景や
 アルパチヤ遺跡の碗形土器に描かれた
 猟人の姿を思い出させる。
 
 若者の額に犠牲のされた山羊の血が塗られが、
 これは血をぬることにより
 「山羊の権化」あるいは
 「神人」になるための儀式である。
 
 この神人は 
 Cali ないし Caro-dei と呼ばれるが、
 Caro は肉のことで屠殺をも意味する。
 
 洞窟で聖餐が行われるのであるから、
 この祭りは明らかに祝祭で、
 キリスト教が布教された後の
 ローマでは謝肉祭となり、
 カトッリク教の重要な儀式となり、
 現在カーニバルとして
 世界各地にその名称のお祭りが行われている。
 
 山羊はクレタ島との係わりを示唆する犠牲獣である。
 
 イダー山はゼウスが山羊によって育てられたとの
 伝承を持つ「山羊山」である。
 
 クレタ島の両岸にある
 フェストスから出土した彩紋をほどこした壺には
 渦巻と大麦の穂を対角に交差させた
 十字紋が描かれているが、
 これは北メソポタミアの
 サマッラ期土器の意匠に類似しており、
 渦巻は山羊の角を象徴しているように思える。
 
 山羊に対する想念を土器の意匠に
 たくさん描いたのはシュメル地方の東、
 スーサである。
 
 スーサは「大麦の種」の意味であるが、
 ヒゲと大きな日本の角を付けた
 山羊の横からの姿が
 紀元前四千年前の広口深鉢に四面描かれ、
 大書きされた角の円形の中に
 大麦の穂は対になって一つの想念を表している。
 
 その構成を持つ彩文土器が
 スーサから遠く離れた北方のテヘランに近い
 テーペ・ヒサールからも見つかっている。
 
 イランの高原とクレタ島との関係を
 論ずることは困難であるが、
 スーサ出土の広口深鉢には
 山羊の意匠とともに走り回る犬の姿も描かれており、
 ルペルカーリアにおいて
 山羊と犬が供犠される事実と関係がありそうである。
 
 ラチウムを流れる川はチベリス川 Tiberis で、
 現在の Tivoli の町は古代に Tibur と呼ばれた。
 
 この川はルーモ Rumo 川とも呼ばれたが、
 これは地中海系人種の後にやって来た
 人々によって同地域が
 ローマといわれるようになってからであろう。
 
 ローマは明らかに
 インド・インド・ヨーロッパ語系用語である。
 
 ドイツ語の革紐はRiemen で、
 サンスクリット語のroma ないし roman は
 「毛、体毛」を意味し、
 ラテン語の ruma,rumina に対応する。
 
 後からやって来たかれ等が
 先住民の祭儀ルペルカーリアに接し、
 
 「山羊の毛皮」の祭りの場として
 自分達の言葉でローマと呼んだのである。
 
 チベリス川の名称はケルト人の 
 thveli 金属工がこの土地にやって来て
 青銅器の製作加工に係わったからだろうと思われる。
 
 ローマにおいては渦巻紋様が宗教的崇拝の象徴であった。
 
 ラテン語で「回転、渦巻」を表す用語が volvo で、
 建築などの装飾としての渦巻は volta と呼ばれた。
 古代の Voltar という町は現在 Velletr となり、
 マルタの首都名と同じで、
 渦巻十字紋を基礎にしていることを物語っている。
 
 渦巻がクレタ島のフェストスから
 出土した壺にみられるように
 山羊の角の抽象であることを確認しておきたい。
 
 ラテン語で白色を表す 
 alba がラチウムの別名として使われ、
 チベリス川の別名であったり、
 都市名であったりした。
 アルプス山脈と絡めて 
 alba と山と解釈する向きもあるが、
 牛頭である alpu の転訛とも考えられる。
 
 クレタ島の王ミノスの母はエウロペーで、
 同島の神母であるが、
 その呼称が alpu 牛頭の転訛と理解すれば、
 クレタ島の影響を受けたラチウムの別称 
 alba が alpu の
 転訛と判断してもおかしくはない。
 
 しかし、
 ラチウムには牛頭に係わる史料が他に見つからない。
 先住民の地中海系人は
 山羊信仰の人々であったのである。
 
 彼等は、
 クレタ島(Camares)や
 マルタ島の洞窟文化と共通する。
 
 さらにシャニダールの洞窟遺跡、
 サヴィ・チェミ遺跡を思い起させるが、
 祝祭による信仰心を持って
 ルペカールへやってきたのである。
 
 後からやって来て
 ローマの祖となったと神話上で語られる
 トロイの王アイネイアース、
 アスカニウス親子一族も
 クレタ島からトロイへ進出した
 地中海系人種(ケルト人)の一族であったかもしれない。
 
 神話によると、………………………………
 ラチーヌス王の父はファウヌスといい牧羊神である。
 
 アスカニウスの系譜から
 狼に育てられたという伝説を持つ
 ロームルスが生まれ、ローマの祖になったという。
 
 牧羊神ファウヌスはパーンとも呼ばれ、
 森の神で人間、家畜、農産物の多産・豊饒を司る。
 
 その姿は上半身が人間、
 しかし下半身には山羊の脚を持つ。
 
 人間と山羊を合体させた観念は
 クレタ島で人間と牡牛を合わせて
 ミーノータウロスを想像した発想と同じで、
 ラチウムの信仰が牡牛ではなく
 山羊であることを確証する伝説である。
 
 ラテン語で角を表す用語は cornu であるが、
 ローマ共和国時代紀元前二〇二年にザマの戦いで
 カルタゴのハンニバルを破ったスキピオを生んだ名族
 Cornellius 一族は「角崇拝」と
 関係があったのであろう。
 同族からはスキピオのほかスラ、グラッチィなど
 多くの有名な人々が輩出した。
 
 以上のようにみてくると、
 エジプトの史料に
 紀元前十五世紀以前、地中海東岸の南方地域を
 フル Hwrw ばかりでなく、
 レテヌ Rtnw とも呼び、
 Raphia という町があったことが知られているが、
 このフル(フルリ)人が住む地域を
 レテヌといったと解釈すれば、
 フルリはケルト人の呼称であるので、
 このレテヌの人々がラチウムへ移住し
 ラテン人 Latin となったとも考えられる。
 ラティアは luper と同類の用語であろう。
 
 また、 
 Rtnw は Rhethymna 、
 Raphia は lappa と
 
 クレタ島の地名にも対応する。
 
M.K記

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(5)マルタ島 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(5)マルタ島




  マルタ語については、
 これまでに何回となく引用してきた。
 
 同語はセム語系とされている。
 今から千百年ほど前に
 アラビア語が入ってきたからとの理由による。
 
 ローマ系の言葉も多く混入している。
 
 マルタ人は独自の国語を守って
 言語的独立を保ってきた。
 
 マルタの字義についてはすでに紹介した。
 
 マルタ十字紋の歴史は
 アラビアやローマに求められるものでなく、
 
 紀元前二千年以前に
 地中海に広がったケルト人たちの象徴である。
 
 マルタ島の地理的配偶は、
 地中海の東方クレタ島方面から航海するものが
 イタリア半島の先を通って西地中海へ出る際には
 通過しなければならない緊要な地にあり、
 商船などの寄港地であったと考えられる。
 
 ローマ時代は Melita と呼ばれた。
 
M.K記
 

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