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第四章 ゲルマン [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 ゲルマン


  ゲルマン German が

 シュメル語の階段を表す galm を語幹とする 
  galm-an が祖語で
 「野牛の階段」 「野牛の角」 を意味しているとは
 既に述べた。
 
 「ガリア戦記」はベルガエ人の北にはレーヌス河、
 現在のドイツ名ライン河の北方に
 ゲルマニー Germani 人がいることを記す。
 
 そのなかにあって主要で強力な部族は
 スエービー Suebi と称する。
 
 エルベ河からヴィンシュトラ河の広大な地域を
 支配していた一族であった。
 
 北海に流れ入るエルベ河の下流地域に
 ニーデル・ザクセン地方はかって
 サクソニア、ゲルマン神話に
 サクスランドとして登場する。
 
 また北方デンマーク領内フュン島及びその島内の町
 オーデンセ Odense もゲルマン神話に登場する。
 
 谷口幸男の「エッダとサガ」に紹介されている
 「ヘイムスクリンガラ」は
 ゲルマンの開闢神話であるが、
 その第二章の一部を転載する。
   
  タナクヴィースルの東のアシーアーの地は
  アーサランドまたはアーサヘイムと呼ばれた。
 
  城にはオーディンと呼ばれる支配者がいて、
  そこには大きな供犠所があった。
 
  そこで十二名の神殿付司祭が
  最高のコジ(首長)となる習慣だった。
 
  彼等は供犠を主宰し、
  人々の間で判決を下さねばならなかった。
 
  彼等はディーアルまたドウロートナルと呼ばれ、
  全ての民衆は彼等に仕え尊敬を
  表わさなければならなかった。
 
  オーディンは偉大な戦士で、広く各地をめぐり、
  多くの国々を所有していた。
 
  (中略)
 
  オーディンはしばしば何年も旅に出ているほど
  長い間出かけていることが多かった。
 
 谷口幸男の「エッダとサガ」に紹介されている
 「ヘイムスクリンガラ」は
 ゲルマンの開闢神話であるが、
 その第五章の一部を転載する。
 
  その山脈の南のチュルクランドから遠くない。
 
  そこにオーディンは大きな領地を持っていた。
 
  当時ローマの王将らは世界に兵を進めて、
  全ての民を支配下においていた。
 
  それで多くの王達は戦乱を逃れて
  その領地を去った。
 
  だが、
  オーディンは未来がわかり、
  魔法に通じていたので、
  自分の子孫が世界の北の地方に
  住むだろうということがわかった。
 
  兄弟のヴェールとヴィリをアースガルズに残し、
  全てのディーアルと民衆をつれて国を去った。
 
  彼は先ずガルザリーキに行き、
  それからサクスランドに行った。
 
  彼は沢山の息子を持っていた。
 
  サクスランドであまねく、
  多くの国々を手中に治め、
  国の守りに息子達を配した。
 
  それから彼は北進して海に至り、
  ある島で住居を定めた。
 
  そこは今日オーデンセと呼ばれフュン島にある。
 
  タナクヴィースルは
  黒海の北アゾフ海に流れ込むタナイス河、
  現在のヴォルガ河の支流の名称で、
  それより東方をアーシアー、
  つまりアジアであるが、
  アーサランドまたはアーサヘイムと
  呼んだといっている。
 
 このアーサは中国の紀元前二世紀の漢の時代の
 『史記』大宛列伝に表れる
 「奄蔡(えんさい)」(アーサ)のことである。
 
 史記の記述によると、
 現在のキルギスにいた康居(こうきょ)国の
 西北二千里ばかりのところにある国で
 弓を引く兵が十余万人で、
 はてしない大沢に臨んでいるが、
 それは多分北海だろうといっている。
 
 しかし、
 この北海が大西洋に連なる
 イギリスとヨーロッパ大陸の間の
 北海であるかどうかは不明である。
 
 彼等は紀元前二世紀頃、
 第五章にいうチュルクランド、
 現在のトルキスタン地方から
 カスピ海の北方、
 そして黒海の北方からコーカサス山脈の北まで、
 その騎馬を駆使して活動していたと思われる。
 
 外コーカサス山脈に挟んで現在も居住する
 オセット人はこのアース Ās と同族である。
 
 紀元前後になるとギリシャ、
 ローマの文献にアラーン Alān 族として表れる。
 
 中国の史書『魏略』にも阿蘭と記述されている。
 
 オーディンは
 ゲルマン人の父祖とされる最高神である。
 
 同神はゲルマン人の母体であったアーサ国、
 よってアラーン族の首都とみられる
 アーサガルズに城を構え
 支配者として君臨していたが、いつも旅に出ていた、
 つまり、遊牧生活をしていたのである。
 
 そして、
 アーサガルズに大きな供犠所があって
 十二名の司祭がおり、
 その中から首長(コジ)が出ていたという。
 
 アーサガルズはどこにあったのだろうか。
 
 ローマの軍事力に圧迫された地域であったはずだが、
 歴史的にはローマの影響を受けなかっただろう
 トルキスタンから遠くないところといっている。
 
 若干の矛盾がそこにはみられる。
 
 ローマの圧迫を受けたオーディンを主祭神とする
 アーサ族(奄蔡/阿蘭)の部族は
 祭司を初めとする一族を率いていて
 ガルザリーキを経てサクスランド、
 つまりニーデルザクセン地方に至り、
 その後、
 フュン島に渡って住居を定めたという。
 
 その神話によると
 アーサ神族は移動先の神族とみられる
 ヴァン族と戦いを構えるが、
 終局的には平和的に結合し、
 親しい種族として成立することとなる。
 
 紀元後三、四世紀の
 ゲルマン族の大移動時代アラーン人は
 ヨーロッパ大陸中央に進出し、
 その後
 イベリア半島(ポルトガル)の南部にまで移動し、
 Alen-tejo の地名、また
 リスボンの西の半島の先端に
 Casvals 名を残している。
 
 しかし、
 この移動部族は
 オーディンの率いた者達ではない。
 
 彼の率いた部族は、
 その定着地を考慮すると
 ゲルマン人の大族スエヴィ族である。
 
 彼等は東方からの侵入部族と
 土着の種族との血縁的混合を
 行った人々と考えられる。
 
 スエヴィ族が後に作った国の人たち、
 シュワーベン人は
 「頭の黒い人」と呼ばれた。
 
 土着的ヴァン神族は北方人種で
 金髪、皮膚の白い長身の種族である。
 
 アーサ神族が黒い頭髪の人々であったであろう。
 
 彼等は大きな供犠所の祭司を伴ってきた。
 
 その宗教とは
 牛頭崇拝(ゲルマン=大きな階段)であって、
 オーディンの尊称「偉大な戦士」とは
 
 シュメル語の gu-ud であり、
 ドイツ語の神を表す Gott 、
 英語の God は
 この語に由来すると考えられる。
 
 アーサ Ās は鍛冶を意味する。
 
 ドイツの西方ボン市の北方に Essen 市がある。
 
 ここは鉄鉱石の産地で鉄鋼業が盛んであるが、
 その基語 Esse は
 鍛冶場ないし鍛冶用の炉の意味である。
 
 エッセン市は Ass とも表記される。
 
 因みにドイツ語の鉄は Eisen である。
 
 突然であるが、
 奈良県天理市奄治町は
 周囲に鏡作りに係わる神社のある地域で
 『新撰姓氏録』大和国神別に
 奄知造が載るように
 倭鍛冶に係わった地区であったが、
 奄治は奄蔡と同音である。
 
 北コーカサス及びグルジア国内に居住する
 オセット人には
 「ナルト叙事詩」という伝承が残されているが、
 
 日本の神話
 (三種の神器と天孫降臨、海幸彦、山幸彦と
  ウガヤフキアエズノミコトの誕生物語)
 
 と酷似する物語が含まれており、
 アラーン人と日本の古族との間に
 全く無関係とはいうわけではないのである。
 
 アーサ神族が遊牧の民であったにしても、
 彼等が金属加工の技術を獲得していたことが
 うかがわれるところである。
 
 アーサガルズ Assigardz
  (あーさ族の首都)の比定地は定かでない。
 
 しかし、
 この名称には「エデンの園」の概念が
 投影しているように思える。
 
 ドイツ語で東を表す用語は Ost で、
 コーカサスのオセット 
 Osset 東方の意味とみられる。
 
 ガルズ gardz は
 ドイツ語の Garten 、
 英語の garden 、
 ウェールズ語の gard 
 と同類の「庭」を表す用語と考えられる。
 
 アーサガルズは「東方の園」の意義であり、
 
 『旧約聖書』「創世記」に
 
 「主なる神は東のかた、
  エデンに一つの園を設けて」 
 
 と語られる「東のかた」に対応する。
 
 コーカサスのオセット人の領域は
 現在グルジア国とロシアに二分されているが、
 そのロシア領内にオードン Ardon の町と
 そこを流れるオードン川があり、
 その名は Ordhon とも表記され、
 神話のオーデンと縁があろう。
 
 しかし、
 このコーカサスの山中が
 ゲルマン人の祖地とは考えられない。
 
 イランのカビル砂漠の西南ザクロス山脈と
 砂漠との間にカーシャーン Kāshān 地方があるが、
 
 この地方こそ
 ゲルマン人の母体であるアラーン人の祖地である。
 
 そこにエスファンの町がある。
 
 古くはイスパハンと呼ばれ、
 十三世紀にはマルコポールが元への旅の途次
 行帰りとも通った交通の要路に当たるが、
 その北に
 アルデスタン Ardestan という小さな町があり、
 オセットの Andon はこの arde- と同じ語幹である。
 
 Anle- は altar で祭壇を表すので、
 アルデスタンは「祭壇の地」である。
 
 また、
 アルデスタンのさらに北方に地方名と同じ 
 Kāshān の町があり、
 その東側にアーラーン Ārān の町がある。
 
 アラーン人そのものの地名といってよいであろう。
 
 ここは彼等の故郷とするに十分な環境にある。
 
 さらに重要な地方名及び町名 Kāshān である。
 
 この名称はドイツ語の hashieren に対応する。
 
 ドイツ語の意味は「肉を刻む」であるが、
 これはまた kasher (英独語) と 関係する。
 
 同語はヘブライ語の「清浄な」の意味で、
 宗教的にはユダヤ教の典範に適っていることを
 基礎とする形容である。
 
 特に食物についての規則によって
 殺された肉類をいい、
 その点でドイツ語の hashieren と通ずる。
 
 『旧約聖書』「レビ記」に書かれる
 
 「燔蔡の獣の皮を剥ぎ、
  節々に切り分かたなければならない」
 
 に相当する。
 
 Koshei は
 インド・アーリア人の国名
 コーサラ Kosala としても表れる用語で、
 Kāshān は
 祝祭の際に犠牲獣を処理することを意味し、
 祝祭の場であることを意味し、
 祝祭の場であることを地方名・町名にしたのである。
 
 オーデンの故郷には
 大きな供犠所があったとの記述を
 アルデスタンの町名と共に説明するものである。
 
 なお、
 第八章の中の
 「アーリア人の侵入」においても詳説する。
 
 バビロニアにカッシート王朝を築いた人々には
 ザクロス山脈にいた種族ではなく、
 さらに北方から次第にのろのろと
 移動を続けた人々との事実が明らかになっている。
 
 それより古くから定住していた
 アラーン人の祖族は
 
 紀元前19世紀頃からカッシート人に圧迫されて
 ザクロス山脈の東側を北上し、
 北メソポタミアへ侵入し
 ミタンニ国を建てる原動力となり、
 東方の草原に出た部族はアリアナに辿り着き、
 そこに残留した人々はイラン人となり、
 さらに
 東方へとヒンズークシ山脈の南を
 パンジャブ地方へ出た人々が
 アーリア人となったのである。
 
 サンスクリット語のアーリアは
 「高貴な、高徳な」を表す。
 
 本来 Āŗān と関係する用語ではあるがまた
 「高み」の意味があり、
 「高み」である altar (祭壇)、
 アルデスタンとも通じる。 
 
 北方移動したアラーン人は
 カスピ海の西岸イランと
 アゼルバイジャン辺りに長期滞留し、
 アルダビ Ardabi を中心にしてその一部は
 
 紀元前15世紀に
 北メソポタミアにフルリ人を統括して
 ミタンニ国を支配したと推測される。
 
 同地方からは銅や鉛が産出する。
 
 この辺りには青銅器の遺跡が散在する。
 
 アラーン人はこの地で鉄の加工技術を修得し、
 鉄鍛冶を名称とする
 「アース族」の名を得たのかもしれない。
 
 ミタンニ国のフルリ人は金属加工の技術集団である。
 
 鉄についても、
 ギリシャ神話「アルゴー丸の英雄たち」に
 伝承される鋼鉄をつくる
 カリュベス人の国もフルリ人とみられる。
 
 ハッティ(ヒッタイト人に鉄を教えた)人に
 鉄の技術を伝授したのもフルリ人の可能性があり、
 フルリ人が居住する
 北メソポタミアの東に隣接したことにより
 アース族はその技法を習得したのである。
 
 以後彼等の勢力はカスピ海の北方へあるいは
 イラン高原へと拡張することとなる。
 
 森浩一編『鉄』古代東方の鉄鍛冶金には
 村上英之助の報告として
 
 「紀元前七・六世紀と推定される
  イラン出土の刀子(とうす) の構造を
  研究したフランスのラノ(A.F.Lanora) は
  鋼と矛鉄を交互に重ねて
  鍛打したことを明らかにし、
  その製作地をカスピ海南西の
  グルジスタンと推定している」
 
 との一文を紹介している。
 
 グルジスタンは
 現代名のイラン西北部、イラクの東北、
 トルコの南東端を含める地域で、
 アルダビルのある地方をいっているとしてよいだろう。
 
 ここに、
 アルダビルをアース族の祖地としたらどうかとの
 疑念が湧くが、それには条件が十分でない。
 
 牛頭崇拝などの信仰が涵養された
 古くからの史跡がみられないからで、
 主な遺跡は青銅器時代に入ってからであり、
 アース族によってもたらされた
 「ゲルマン」の名称は
 南メソポタミアとケルマンシャーなど
 イランの西南地方を中心とする
 信仰の象徴であることによる。
 
 紀元前2世紀になると
 中国の史料にカスピ海の北辺に活躍する
 「奄蔡」が記録されるようになる。
 
 アルダビル周辺にいた人々は神話の語る通り
 ローマ帝国の脅威を感じて
 さらに北方へと移動して行ったのである。
 
 ゲルマンの大族スエヴィ
 ( Suebi ないし Sueves )は
 「ガリア戦記」に載る
 ローマ人の表記によるものであるが、
 彼等のアルプス山脈の北側に移動した集団は、
 そこにスワビアないしシュワーベン地方を形成する。
 
 中世(13世紀)になると、
 北方のサクソニア地方にハンザ同盟、
 南方にはスワビア同盟という都市同盟を組み、
 神聖ローマ帝国より商業的独立を確保した。
 
 そして、
 スワビアの南に1315年
 スイスのシュヴィッツを中心とする
 三州のスイス自由連邦が成立した。
 
 スイスの国旗にみられるように、
 その象徴「赤十字」である。
 
 このようにスエヴィ族には自主独立の風が強い。
 
 20世紀のフランスの実存主義の哲学者サルトルは
 その血縁にドイツの音楽家にして医者で
 アフリカの聖人シュバイツァ博士がいるように
 スエヴィ族の後裔であるが、
 彼の展開した「主体性」は
 彼の祖先である民族的文化に潜む
 独立・自主の想念 sva を
 集団としての民族から
 「個人」に転換して主張したものである。
 
 このようなスエヴィ族の正確を考慮すると、
 Suebi の祖語は 
 Suva-iberi(十字崇拝者)であった可能性がある。
 
 北メソポタミアの「ケルト人」の
 文化の影響を受けたものである。
 
 
 ※ゲルマン族の大移動時代
 
 
M.K記

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第四章 大陸ケルト人 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 大陸ケルト人




  コーカサスの山塊に 北メソポタミアに成立した
 アッシリア初期の支配的階層が
 スバル人達であったことは確かなことである。
 
 そして、
 シャムシアダト一世が首都を置いた
 シュバト・エンリルは、
 その名の示すとおり
 スバルトゥ(シュバト)の地であった。
 
 スバル人が北方山岳の野蛮な民であったならば、
 
 なぜにそのような不便で危険な高原に
 南方の平野からやって来た
 セム系人が自分達の本拠地を築くだろうか。
 
 すでに見解を述べてきたように、
 この地方は商業的な交易の重要地点で
 魅力があったから首都を置いたのである。
 
 セム人が押し寄せる以前からスバル人たちは
 北メソポタミアからアナトリアへかけて
 商業的ネットワークを
 有効的に展開していたのである。
 
 紀元前二千年を過ぎた頃、
 私的組織が外国貿易に忙しく
 従事していたことが記録に報告されている。
 
 古アッシリアの王権に支配された商人達が
 アナトリアへ進出できたのは
 彼等がアッシリアの王権下に入った
 スバル人の一部で
 あったからと考えられるのであり、
 スバル人の商業的ネットワークに便乗したのである。
 
 その頃には、
 スバル人であるケルト人は
 アナトリアの西端エーゲ海沿岸まで
 到達していただろうと思われる。
 
 また、
 アッシリア、ヒッタイトの興隆ににより
 北メソポタミアとの連絡を
 断たれたケルト人の集団が
 ダーダネルス海峡あるいはポスポラス海峡を渡って
 ヨーロッパ大陸へと入った形跡がある。
 
 トラキアのエーゲ海へ流れ込む川に
 エブロス Ebros 川があるが、
 この名称は Iberi に係わる。
 
 トラキアの古民族にサトライ人がいた。
 
 ラテン語の Satrae は雑煮料理を意味する。
 
 サトライはユダヤの過越の祭の名称でもあり、
 この民族は祝祭を行う人々である。
 
 過越の祭の慣習に従うと、
 旧約聖書・出エジプト記第十二章に詳しいが、
 この日、
 子羊犠牲を捧げ、血を天幕に塗り、
 災いの降りかからないことを祈願する。
 
 トラキアの地に
 祝祭を行う民族がいたことは重要である。
 
 ところで、
 「肉入りスープ」のことをギリシャ語で、
 zoomos というが、
 この用語は日本にやって来て「雑煮」と転訛した。
 
 お正月の元旦の朝に家族皆で食べる
 「もち入り汁」のことである。
 
 平安時代に祝祭が禁止された後に餅に替わったが、
 それ以前は「肉入り汁」であったと思われる。
 
 西アジアの習慣が
 どうして日本へ入ってきたのだろうか。
 
 祝祭が日本の古代において
 盛んに行われていたことは既述の通りである。
 
 黒海の西海岸に
 ルーマニアとブルガリアの
 国境を流れるドナウ川がある。
 
 この川は古代にイシュタル川と呼ばれた。
 
 イシュタルはアッシリアでアシュタルと呼ばれ、
 カナアンでイシュタルとなった女神の神名である。
 
 トラキアからエブロス川を遡及し、
 ドナウ川沿いに影響した
 スバル人の青銅器技術は
 さらに大陸の内奥へと伝播されたと考えられる。
 
 スバル人自身が
 進出していったかどうかは定かでない。
 
 黒海沿岸地帯で吸収された
 金属(青銅器)加工技術と
 祝祭ないし牛角崇拝の信仰文化が、
 この地方の民族に依って運ばれたとも考えられる。
 
 彼等はケルトの名称を技術・文化の総称として
 北メソポタミアのカルトイベリ人から
 受け継いだのである。
 
 彼等がドナウ川の上流で
 西アジアとは違う彼等の個性に合った
 ハルシュタット文化を展開し、
 大量の青銅器を製造したのは
 紀元前十世紀頃からである。
 
 ハルシュタット地方からは銅が産出した。
 
 金属を手に入れたケルト人達は勢力を拡大し、
 紀元前六世紀を過ぎると
 イベリア半島にも至り、移植するようになる。
 
 また、
 ドーバー海峡を渡ってブリタニアから
 アイルランドへと植民者を拡散させた。
 
 また、
 紀元前三世紀にはその一派が
 ポルポルネス海峡を渡ってアナトリアへ入り、
 紀元前二〇〇年頃に
 アナトリアの中央にガラチアの中央に
 ガラチア国を成立させた。
 
 特殊な金属で Britnnia metal  がある。
 
 ブリタニアの特産の錫と銅、
 アンチモニー及び亜鉛を
 加えた合金で銀に似ているという。
 
 また
 フランス語で étainblac「錫」であるので
 意味がまさに「白」であったと考えられる。
 
 ここでローマ時代ブリタニアとよばれた 
 Briton の地名について述べておきたい。
 
 Briton はフランスの Bretagne と祖語を同じくする。
 
 それにまた
 シュメル語の zabar 、
 カナン語の bazel も同祖である。
 
 その意味は「青銅」である。
 
 カナン語と同様であるが、 
 za-bar が bar-za となったものである。
 
 修飾語が後に付くか、
 前になるのかの文法的法則の違いによって
 表記が変わったものである。
 
 ヨーロッパ語は修飾語が先となる。
 
 シュメル語は後である。
 
 Bar はシュメル語において 
 barbar(babbar) の同類語で
 「白い、輝く」に同義である。
 
 Za は「金属」あるいは「鉱石」を意味する。
 
 古代においてブルターニュ、ブリテンは
 錫の重要な産地であった。
 
 Za は
 ドイツ語の zinn 、
 フランス語の étain 、
 英語の tin で「錫」である。
 
 Zabar、barzel、Briton、bretogne は
 「輝く金属」の字義となる。
 
 グルジア語に verzhx(銀) となっている用語である。
 
 これらの地方名は
 古代の青銅器時代にスバル(ケルト)人が錫を求めて
 渡来したことに始まる地名であろう。
 
 ブルターニュ地方、
 ブリテンのコーン・ウォール地方は
 現代においてもケルト人の多く住む地域である。
 
 スバル(ケルト)人と大陸ケルト人との
 関係については確定的な判断ができない。
 
 一九世紀以降の人類学者の研究で
 大陸ケルト人が
 鼻高で金髪のゲルマン人と似た
 人々との判断が覆されつつある。
 
 その様子を
 寺田和夫「人種とは何か」から転載して紹介する。
 
 「フランスの著名な人類学者
  ピエール・ポール・ブローカは
  フランスの身性の研究に基づいて、
  ヨーロッパ大陸でケルト語をしゃべる
  唯一の地方であるブルターニュには
  背の低い褐色の毛髪をもった
  人々のいることを指摘した。
  同じ頃(1865年) イギリスでも、
  ケルト語族とくにウェルシュ人は
  小さくて皮膚も濃色であることが
  明らかになった。
  古典に記されている
  ケルトは背が高く色白であるという
  身体特徴とは矛盾する結果である。
  1870年代には
  ドイツの学者達が
  シュヴァルツヴァルトやアルプスの辺鄙な土地で
  テュートン的でない短頭の人々を見つけ、
  これもケルト族であると考えた。
  ケルト系の地がその地方に多いのも傍証とされた。
  十九世紀の終わり頃は、ケルト族とは、
  歴史上の既述とは逆に、
  濃色、短頭の人種と考えるのが
  人類学者の一致した意見になったと、
  英国のリプレーが記している。」
 
 ケルト人の宗教的権威者はドルイド僧である。
 
 その存在は大陸はもちろん、
 アイルランドまで広く知られている。
 
 特にアイルランドのダブリン地方は
 ドルイド教の大本山があった。
 
 ドルイド 
 Druid(英語)、
 Druide(ドイツ語)、
 δρουιδαι(ギリシャ語)と
 
 表記されるが、
 その語義については未だ確定されていない。
 
 彼等は動物犠牲祭の主宰者で常に槍を保持していた。
 
 その点においてその職席は「ハフリ」である。
 
 ケルト人の宗教は
 このドルイドの名に負ってドルイド教と称される。
 
 ギリシャ語に「槍持」を表す用語 
 δορυ-ψοροζ(槍-持つ) があり、
 doru は槍ではあるが槍の柄を指し、
 「木で作ったもの」の意で、
 本来の意味は「棒材」で「木材」を表す。
 
 アイルランドのゲール語においても 
 cill-dara(樫の木) のように
 dara は「樹木」で、英語の tree と同類である。
 
 Drui- はこの「樹木」の同類と考えられる。
 
 英語に「神にする、祭る」を表す deity を基にした
 deity(神、神性)、
 deism(自然神教)、
 deist(自然神教者) 、
 
 また、
 ラテン語には「神、神人」を表す dei があり、
 アイルランド語 diar は
 ギリシャ語の zeus の同類語 deus/di 
 と同じく神を表す。 
 
 deye は権威となる。
 
 また、
 ユダヤ人を称するヘブライ語 Judea は、
 シュメル語で
 月を表す zu から転訛した 
 Ju 月を信奉する者(月信奉者)の意味である。
 
 よって Drid は 
 tree-deist 樹木神教徒を表すと考えられる。
 
 その宗教的観念における聖木の役割はまさに
 『階段』(シュメル語の gala )である。
 
 ドイツ語の Tritt は「足踏み」ではあるが、
 「高壇」や「はしご(小さい)」の意味を持つし、
 英語の tread は同様に「踏む」ことであるが、
 階段の「踏み段」「はしごの段、横木」 を表し。
 
 階段の機能と係わる。
 
 両語とも druid と訓音が近似しており、
 ドルイドから派生した用語と思われる。
 
 アイルランドの前出
 「樫の木 cill-dara 」は教会名である。
 
 同国の首都ダブリンに近い地方名 
 Kildare はこの樫の木に由来し、
 隣接の Ofaly は
 英語のoffer つまり、供犠の意に依るものであり、
 その首都名 Dabrin 
 シュメル語の司祭を表す Śabra の同祖語である。
 
 イランのウルミエ湖の東にある町 
 Tabriz と同様である。
 
 同市の北に Savaran 山があり、
 その都市名の由来を物語っている。
 
 ドルイド教の祭司たちの本部があった
 史実に対応する地名である。
 
 樹木を表す dara も
 シュメル語の「成長、新緑の」を意味する 
 śar とは同祖と思える。
 
 アイルランドには
 「ケルトの十字架」と呼ばれる
 特異な十字造型がある。
 
 これは本来大陸ケルト人、
 つまり、
 インド・ヨーロッパ系ケルト人の
 文化によるものではない。
 
 紀元前五・六世紀
 彼等がこの島国に侵入する以前に
 イベリア半島のケルト・イベリア人が
 
 マルタ十字紋、渦巻紋、組紐、ジクザク紋を
 持って来たのである。
 
 鉱物を探究し続けた彼等は
 フランスのアルモリカと呼ばれた
 ブルターニュ地方、
 また、
 イングランドの西南の端れ
 デーボン辺りで錫を
 入手することができたのである。
 
 デーボンに近い Śonerset は
 金属を溶解する Sohmelze あるいは
 鍛冶工 Smith と係わる。 
 
 ローマ時代アイルランドは 
 Hibernia と呼ばれたが、
 イベリア半島のその名と関係し、
 「崇拝者」の意であり、
 国名 Eire も
 シュメル語 ār(神を賛美する)の同祖語と考えられる。
 
 スペインの感嘆詞「オーレ」にも関係する。
 ドルイド教の祭司たちの
 本拠地であったことを考慮すれば
 理解できるところである。
 
 後から渡来した大陸ケルト人達は
 先住ケルト・イベリア人の造形的工芸文化を
 破壊せずに踏襲し、発展させたのである。
 
 イングランドの錫の産地デボンよりさらに
 南端のコーンウォールにある
 「ケルト十字架」の石造物にみられる
 十字は正確にマルタ十字形であり、
 原初期に属するものとみられる。
 
 後のものにみられる装飾の全く無い、
 石柱の頭部に円形を刻み、
 その中にマルタ十字を彫ってあるに過ぎない。
 
 未だキリスト教の影響を受けていない
 素朴な十字である。
 
 このコーンウォール Cornwall と
 ウェールズ Wales は本来同語で
 「角形のウェールズ」と理解されている。
 
 Wale は地中海の島マルタ島の首都 
 Valletta の語幹 val である。
 
 つまりシュメル語 bar(交差する)と
 同じ「十字」を意味するのである。
 
 また、
 corn は
 ギリシャ語の κορνη (棒、杖) 、
 カナアン神話の神名ホロン Horon 、
 ひいてはインドの祭
 ホーリー祭の holi と関係する。
 
 Cornwal は棒、
 ここでは柱と理解してよいと思うが、
 「柱(棒)の上の十字」の意義である。
 
 「ケルト十字架」に戸外においては石柱の頂に
 マルタ十字を乗せているのが普通である。
 
 大陸ケルト人達が先住の民の文化を
 抹殺しなかったのは、
 彼等自身もメソポタミアの
 ケルト(スバル)人の文化の影響を強く受けて
 成立してきた共通の土壌にあったからである。
 
 ハルスタット文化にみられる
 渦巻装飾などはその典型である。
 
 ローマ時代カエザル、
 つまり、ジュリアス・シーザーが著した
 「ガリア戦記」の第一巻(紀元前五八年)の最初は
 
  「ガリアは全部で三つに分れ、
   その一にはベルガエ人、
   その二にはアクィーターニー人、
   その三にはその仲間の言葉でケルタエ人、
   ローマでガリー人と呼んでいるものが住む」
 
 から始まる。
 
 ベルガエ人は現在のベルギー辺りで、
 その国名の祖語である。
 
 アクィーターニー人 Aquitania は
 現在のガスコーニュ地方で、
 語幹 aqui- は
 グルジア語の ochar ないし achar に関係し、
 金属の「金」に因む名称で、
 ガスコーニュの同義異名と思われる。
 
 ケルタエ人はケルト人のことであるが、
 ローマ人が Galli と呼び、
 ケルトの地を Gallia と
 呼んだというのがその意味である。
 
 この名称は
 カナアンの紀元前後の名称 
 Galilaea の同祖語である。
 
 大陸ケルト人は
 金属商人たるスバル人の影響の下に青銅を取り扱い、
 この頃には鉄器技術にも精通して
 勢力を拡大した人々である。
 
 「ガリア戦記」は
 
  「ガリー人はガルンナ河で
   アクィーターニー人から、
   マトロナ河とセクアナ河で
     ベルガニ人から分かれる」
 
 と続け、
 その勢力地域が現在も
 フランスの南部ランゴバルト地方から
 北西に向かって流れるガルシナ河以北、
 パリを流れる現代名セーヌ河以南といっている。
M.K記

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第四章 グルジア [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 ウラルトゥ



  コーカサスの山塊に
 グルジア(現)ジョージアの国名による国が
 統一されたのは
 紀元後十世紀後半のことである。
 
 それ以前には長い間イベリア国が存続した。
 
 建国は紀元前六-四世紀のことと伝えられる。
 
 イベリア Iberia は
 ギリシャ語に始まり
 ラテン語(ローマ時代)に
 引継がれた呼称である。
 
 現在のグルジア Gruzia 国では
 自分たちの国名を
 サカルトベロ Sakhardhvelo と称する。
 
 Sa- は「~の」を表す接頭語で、
 Khardhveli がグルジア国人を意味する。
 
 グルジア国民を構成する民族は六民族であるが、
 主体的な民族は
 カルト人、ミングレル人、スヴァン人で、
 彼等を総じて一般にはカルトベリ人と呼ぶ。
 
 イベリアはこの -hveli に基づく呼称である。
 
 グルジア国 Gruzia (英語名 Georgia)は
 コーカサスの外・内両山脈間の
 山塊地から黒海沿岸にわたる国であるが、
 歴史的には
 現在のトルコ領の東北地方を領していたことがあり、
 エルジカン市の西方に
 サカルタン峠の地名が残っているので、
 その辺まで領土が伸びていた。
 
 現在もその地域には
 カルトベリ人が居住しているのである。 
 
 この地域は鉱物資源の宝庫である。
 
 金銀銅が産出するほか、
 特に鉄によく似た金属マンガン鉱が
 チアツラ市近郊から産出する。
 
 マンガンは鉄より軟らかく、
 鉄、銅などの合金として使用され、
 現在においては
 高度マンガン鋼は硬度が高く特殊レールなど
 耐磨耗部品に使われている。
 
 ただし、
 この地方のマンガン鉱が
 古代において
 どのくらい利用されたかについては史料がまだない。
 
 西部グルジアには紀元前にグルジア語で
 エグリシ Egrisi と呼ぶコルキス国があった。
 
 ギリシャのアルゴナウティズ
 (アルゴ丸の船乗りたち)神話に名高い
 金羊皮を守っていた国である。
 
 Egri- はギリシャ語表記の 
 αιγλι で山羊のことである。
 
 エーゲ海文化(クレタ文化)の
 古層に係わる名称である。
 
 コルキス Χολχιζ はギリシャ用語で、
 その祖語は青銅を直接的には意味するが、
 
 銅あるいは一般的な金属品をも意味する 
 Χαλκοζ と考えられる。
 
 黒海に近い地区名アチャーラや
 隣接するアハルチヘは
 グルジア語の金を意味する 
 ocher と係わる地名で、
 金の産地に由来するところであり、
 金羊皮(黄金の毛をした牡羊)伝説の礎になったと
 考えられる。
 
 この一帯はいわゆる金地国といってもよい。
 
 「アルゴ丸の船乗りたち」の物語には、
 コルキスに至りつく前、
 敢えてその場所を推測すると
 黒海の南岸ポントス付近に
 鉄の製錬が上手で鋼鉄を発明したといわれる
 カリュベス Χαλνψ と呼ばれる種族もいた。
 
 その神話のなかで彼等の生活について
 
 「カリュベス人は土地を耕すことなく、
  果樹を植えることも、
  露にぬれた草地に家畜を飼うこともしなかった。
  荒地から鋼や鉄を掘出しては、
   それを食料と交換するのである。
  そして、
   暗闇と濃い煙のなかで激しい労働のうちに
   その日を過ごしていた」
 
 と述べている。
 
 正に「カインの末裔」ともいうべき
 フルリ人金属工たちの
 生活の実態であったかもしれない。
 
 さて、khardhveli の名称は
 これまで確認を繰り返してきたとおり
 「牛角崇拝者」を意味する。
 
 彼等の人種的性格は地中海人種に属する。
 
 彼等は、
 このコーカサスの山塊地方に
 太古から居住していたのではなく、
 南方から紀元前の遅い時期に
 北メソポタミア、ハブール地方から
 ユーフラテス川の上流である
 ムラット川を越えてアチャーラ方面へ、
 また、
 ウラルトゥのハブリウリから大ザブ川を遡し、
 ヴァン湖、セヴァン湖方面から
 首都トビリシ方面へと移動した
 スバル(カルト)人達なのである。
 
 三つの主要民族名のうち
 カルト人はウラルトゥで
 ハルディア人と呼ばれた者達でもあり、
 フルリ人の後裔といってよいであろう。
 
 シングレル人は
 別称イメレディ ymerdhi であるが、
 この語は神を意味するばかりでなく
 「像」の意味を持っている。
 
 スラブ語に入って
 「偶像」を表す komhr となるが、
 彼等こそ
 紀元前三千年頃
 北シリアのハブール川沿いの遺跡
 テル・ブラク で「眼の神殿」を建設し、
 「メ」を神として崇め
 眼の偶像を奉納した人々の後裔と考えられる。
 
 また、
 第三のスヴァン人は
 ヴァン湖、セヴァン湖方面にいた人々である。
 
 グルジア語で svam は「飲み込む」であるが、
 sevan 湖はその用語に従ったもので、
 van 湖はその北に sevan 山があるとおり 
 svam に係わる名称である。
 
 これはウルミア湖も同じであるが、
 両湖とも湖から流れ出す川はなく、
 湛えられた水はすべて地下に吸い込まれてしまう。
 
 以上の三民族の名称においても
 彼等が南方から移動して来たことを理解させる。
 
 トルコ領のアルダハン Ardahan 中心に
 イスラム教化したカルトイベリ人が住んでいるが、
 この町の名はウラルトゥ時代のハブリウリの町
 ムサシルのウラルトゥ語名アルダーニと同じであり、
 その両方には、その転訛 Artin 名の町もある。
 
 グルジア人の氏名の大きな特徴は
 
 「シュワル(十字)」
 「シュヴェリ(息子)」
 「シュビリ・アシュリ(娘)」
 「シュヴィリ(子供)」
 
 が付されていることで、
 スバルやその別称とされた
 シュバリと極めて親密である。
 
 二十世紀のソ連の政治家
 スターリンは同国ゴリ市の出身で、
 グルジア名をシュガシュヴェリといった。
 
 ゴルバチョフ首相の下で
 欧米諸国との間の冷戦を終局させた
 外相シュワルナーゼもグルジアの出身で、
 ソ連解体後帰国して大統領の職席に就いた。
 
 首都トビリシ市内には
 ゲオルゲシェヴェリ通りがある。
 
 ゲオルゲはギリシャ語で農夫を意味するが、
 Gruzia は
 このギリシャ語 γρογγε に由来する。
 
 紀元後三世紀に
 カッパドキアのリッダ Lydda の
 領主の息子に生まれ、
 ローマの将校となっていた
 ゲオルゲが密かにキリスト教を信奉していたが、
 ローマ皇帝の迫害に抵抗したため捕らえられ、
 紀元前三〇三年頃
 パレスチナのベイルートに引かれていき
 斬首されたという。
 
 その行動は
 軍人の鑑と尊崇され、軍人の保護聖人とされた。
 
 その後
 キプロス島、イェサレム、エジプト、ビザンチン帝国に
 多くのゲオルグ教会が作られた。
 
 この聖人の出身の部族は
 アナトリアにいた
 イベリア人/カルト人の仲間であったかもしれない。
 
 イベリア国は逸早く
 紀元前四世紀にはキリスト教へと改宗した。
 
 ここに古来からの
 牛頭崇拝の慣習は停止されることとなった。
 
 だが、
 彼等の民族としての呼称は
 現在に至るまで引継がれているのである。
 
 聖ゲオルグ信仰はローマ時代を通じ西方にも広がり、
 「イベリア半島」でみた San Jorge 、
 ウェールズとアイルランドの間の海峡名 
 Saint Georgia 、
 また
 英国のキリスト教聖人となり
 国王の名称ジョージともなり、
 アメリカのアトランタのあるジョージ州の名となった。
 
 一方、
 ロシアのキリスト教ではユーリー教会など
 その威徳がが尊崇され続けている。
 
 ユーリーはゲオルグのロシア名である。
 
 グルジア語はカルトイベリ諸語の一つといわれるが、
 先にみたように
 ウラルトゥ語との関連、シュメル語との関連、
 さらにイベリア半島のバスク語との
 共通性が追求されている。
 
 また、南インドのドラヴィダ諸語、
 つまりタミール語との共通点について
 シュメル語を介して論議されている。
 
 大野晋が「日本語とタミール語」などで、
 このタミール語と日本語の共通性を論じたり、
 文法的に日本語とグルジア語、
 つまり、
 カルト人の言語が
 全く関係ないとはいえないことになる。
 
 突き詰めるところ、
 高床式神殿の呼称を
 
 『sinjer』と推測したが、
 
 それが祖語となり、諸言語を通って
 
 『じんじゃ(神社)』=『高床式神殿』
 
 となったことを全く否定しさることはできない。
 
 サンスクリット語の 
 srnga (角) がその仲介語であろう。
 
 北シュメル・アルパチア遺跡の
 碗形土器に描かれた高床式建物は
 日本神道と関連していることとなる。
 
 ついでに述べておくが、
 ユダヤ教の聖堂シナゴーグ 
 Sinagog も『sinjer』を祖語とするものと考える。
 
 今日まで、
 カルトイベリ諸語との関連を論議するに当たって
 現在のグルジアのある地籍コーカサスを当該地とする
 コーカサス諸語との呼称による
 捉え方が通例であったが、
 カルトイベリ人の中枢が
 紀元前五世紀頃までは
 北メソポタミアにあったこととを是認すれば、
 交流経緯を組み替えなければならないのである。
 
 本書はメソポタミアを含む
 西アジアの古代を考察するために
 既に多くのグルジア語の単語を参照にしてきた。
 
 また、
 北メソポタミアの牛頭あるいは牛角を
 崇拝する民族名を
 「カルトイベリ人」と延べ、
 その証明のための論証をここまで展開してきた。
 
 多くの歴史的資料を観てきた、
 この段階において、
 紀元前三千年以前における
 「カルトイベリ人」の存在を
 納得できるであろうか。
 
 彼等が古代文明の開拓者であったことを
 否定できるだろうか。
 
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第四章 ウラルトゥ [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 ウラルトゥ

  ウラルトゥの建国の時期は
 紀元前九世紀頃といわれる。
 
 その支配的民族はハルディアとは、
 カルディア人として知られている。
 
 ハルディア人とは、カルディア Khardia 人である。
 
 紀元前四世紀のギリシャの歴史家
 クセノフオンが「アナバシス」の中で
 アルメニアとアッシリアの間の山岳地帯に住む
 カルディア (Kardachoi) 人に触れているが、
 この人々であろう。
 
 クセノフオンはソクラテスの弟子で、
 紀元前四〇〇年頃
 ギリシャ軍に兵士として加わり、
 小アジアからメソポタミアの
 バビロン、アッシリア、アルメニア、
 黒海沿岸まで遠征した記録である。
 
 彼はさらにアルメニアに居住する
 カルダイオイ Chaldaioi 人と
 呼ばれる人々についても触れている。
 
 この部族とバビロニアのカルディア人とが
 同族であるとの主張をする見解は
 すでに現われている。
 
 大ザブ川はハリル山脈を巻くように東南へ流れ、
 その山脈が尽きると急に西南へ
 曲線を描いて流れ下る。
 
 この東方に張り出した一帯ををハブリウリと呼び、
 「ハブールのウリ」の意味で、
 シュメルの都市ウルに対応する。
 
 ハブリウリの東部にウラルトゥ人自身が
 アルディーニと呼ぶ
 アッシリア名ムサシルの町があった。
 
 そこの神殿にはハルディ神が祀られており、
 新しく王位に就く者はこの神殿で就任式を行った。
 
 ハルディ神がウラルトゥの神々の最高神であることを
 示唆している史実である。
 
 同神は Khardi (カルト)神で、
 牛頭を象徴している用語の踏襲と考えられる。
 
 ムサシルの主神殿の他にも多くの神殿が建てられた。
 
 ウラルトゥでの神殿の特徴は、
 塔を備えていることで、
 少なくとも六ヶ所のそうした神殿が発見されている。
 
 塔のある神殿といえば、どうしても
 アルパチヤ遺跡出土の碗方土器を
 思い出さざるを得ない。
 
 あの高床式神殿を描いた土器の時代から
 約五千年を経ているが、
 主祭神がハルディ(カルト)神であることを含めて、
 その相互の共通関係を否定することはできない。
 
 アッシリアの楔形文字を利用して
 ウラルトゥ語の文書がたくさん残されているなかで、
 多くの宗教的建物がハルディ神に
 献げられたとうたっている。
 
 その神々のうち、強力な神にティシェバ神がいる。
 
 フルリ人の天候神テシュブ神と関連づけられている
 神であるが、
 同神と思われる牛の上に立っている神像が
 浮彫りされた青銅製の円盤が発見されている。
 
 この円盤には、
 神像の周囲を二重に翼をつけた
 数多くの牡牛が装飾されている。
 
 また、
 エーゲ海のクレタ島の神話に登場する
 上半身が人間で下半身が牛の、
 いわゆるケンタロウスの像に酷似した
 デザインの青銅像がある。
 
 ヴァン湖近くのルサヒニリより
 1870年に発見されたと伝えられている像で、
 金メッキされた王座の一部であったと
 考えられている。
 
 ケンタロウスと違うところは
 青銅製円盤と同様翼を付けていることである。
 
 さらに発見地がトルコ東部と伝えられる
 三頭の牛頭をあしらった大がまと
 三本の牛足をつけた三脚台のセット、
 また四牛頭と四牛足の同型の大がまもある。
 
 セヴァン湖方面のテイヘバイニからは
 尖った頂を持ち、
 三本ずつの角を左右にあしらった兵士用の兜が
 二十個見つかっている。
 
 このようにウラルトゥの文化的基盤には
 牛、角に対する想念が脈々と息づいているのである。
 
 工芸文化の特徴は青銅による器物及び諸像などの
 製作にある。
 
 その精巧な作りは鋳造技術の高かったことを示し、
 優れた技術的集団の存在をうかがわせている。
 
 クセノポンの『アナバシス』にも、
 ギリシャ軍の占領した
 カルドゥコイ人の村の家々には青銅製の
 什器が多数具えてあったが、
 ギリシャ軍は一切手をつけなかったと記されており、
 青銅製物品が一般的に幅広く
 使用されていたことを伝えている。
 
 ウラルトゥ語は
 フルリ人の言語と直接的係わりがあるが、
 フルリ集団が鉱夫であり、
 青銅を加工する技術集団であったこととの
 結びつきを如実に語っている。
 
 紀元前八百年頃のメヌア王の碑文には
 青銅ばかりでなく、
 鉄工技術についても触れられており、
 この時代すでに鉄を巧みに利用していたことを
 示している。
 地元に産出する鉄鉱石を
 大いに利用した結果でもあろう。
 
 同王の碑文は七〇点以上見つかっているが、
 その内容は金属加工のほか
 宮殿、灌漑用水路、倉庫、神殿などの
 建築計画について記述されている。
 
 ウラルトゥ Urartu の名称は新アッシリアの
 サルマナッサル三世の宮殿跡を
 「バラクトの丘」で発掘した際
 見つかった粘土板の楔形文字史料のなかで、
 「アッシリアに敵対する国」として
 言及されたのを初出とする。
 
 因ってその呼称はアッシリア名であることが知られる。
 
 彼等自身は、
 その地方をウラルトゥ語でビィアイニリと呼んでいた。
 
 Urartu の語義については諸説あるが、
 ハブールのウリに
 ハルディ神の主神殿があったことと、
 その所をアルディニと呼んだことを考慮すると
 「ウル Ur の artu」と解釈することができる。
 
 Artu と ardi(-ni) は同根語と考えられるし、
 南メソポタミアの都市名
 エリドゥ Eridu と近似している。
 
 エリドゥ市名の検討に当たってサンスクリット語の
 「登ること」の ā-rudhi などを参照したが、
 塔を備えた神殿が
 多く建造されたことを考え合わせると、
 高床式神殿の「高み」と係わりがある。
 
 独英語で祭壇を表す Altar とも訓音は近い。
 
 碑文書には神殿の呼称として 
 「ハルディの門」が一般的に使われており、
 門は『旧約聖書の』
 創世記第二八章のヤコブの旅の段に語られる
 「神の家」「天の門」の概念とも一致する。
 
 また、スシとも称されたが、
 これはグルジア語の 
 shesavali(入口)  
 zis-kari(天-門)と関連があろう。
 
 このように考えると、
 Urartu は
 「ウルの祭壇」で「ウルの神殿」と
 解釈することができる。
 
 ウラルトゥ国はアッシリアの侵略を受けたが、
 そのセンターが山塊に位置し、
 冬の寒冷及び降雪に助けられ
 国体が何とか保たれていた。
 
 スキタイ人の一派とされる
 キンメリア人が北方より侵入してきてからは
 国威が衰え、
 彼らによって
 セヴァン湖方面のティシェバイニ市が
 陥されると崩壊の一途を辿った。
 
 紀元前612年に
 さすがに強盛を誉ったアッシリアも
 南方バビロニアのカルディア人の圧力や
 東方ザクロス山脈のメディアの支配すると、
 ウラルトゥの地はメディアの支配するところとなった。
 
 チグリス川を挟んだ峡谷の地シュブリアも
 いつしかその名称が消えていってしまった。
 
 その後には
 インド・ヨーロッパ系のアルメリア人が
 国を誕生させることとなる。
 
 カルト人は、
 また北方へ向かって移動を進めたと思われる。
 
 ハルディ語ともいわれたウラルトゥが
 フルリ人の言語を母体にしていたことを述べたが、
 現在のグルジア語と関連があり、
 双方とも膠着語の特質を持っている。
 
 先に述べたが、
 ハルディは khardi であることを再確認しておきたい。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 
岩波講座「世界の歴史」は述べる。

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第四章 フルリ人とミタンニ国 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 フルリ人とミタンニ国


  岩波講座「世界の歴史」は述べる。
 
 「いわゆる古代人によって
  スバルトゥと呼ばれた
  この地方の原住民の名であり、
  フルリ人と呼ばれたものの名である。」
 
 第三章のスバルトゥに係わる節で取り上げた
 アッシリアの初代から第三十代までの
 王名についての記述である。
 
 イラクの北端、大ザブ川がトルコ領から国境を超えて
 イラクに入り南東へ行く流れの南側の山地は
 ハリル Harir 山脈と呼ばれる。
 
 山脈の東端、大ザブ河畔に
  ゼバル Zebar の町があり、
 その付近に
 東方からシャムダール川が大ザブ川へ流れ入る。
 
 この地域はハブール地帯の一部であり、
 いわゆるフルリ Huluri 人の発生の地と推測される。
 
 フルリ人は、
 紀元前二千年後のスバルトゥの別称として
 考えられてきた。
 
 彼等の出身地については不明であるとされてきたが、
 上記の地名を考慮すれば
 スバル人(よってカルト崇拝の仲間である)のうちの
 ハブール地方の東北部を拠点とした
 集団であったと考えられる。
 
 この地方は針葉樹林帯内にあり、杉林が広がり、
 
 平原には牧草が繁茂していたとみられ、
 ゼバールの町名が示す通り
 羊などの牧畜が主な業柄であったと思われる。
 
 紀元前二千年頃のアッカドの粘土板に書かれた
 スバルトゥに関する記載のなかで
 フルリ huluri の字義については
 セム語のなかに huluri に音声の近似した 
  pillurtu という「交差」を表す用語があり、
 シュメル語「十字」のアッカド語読みと考えると、
 フルリ人がスバル人であることが納得できる。
 
 Pillurtu の語幹と係わる動詞形(交差する)は 
 eberu で、
 シュメル語の bal の同祖語であり、
 その語義には「追い越す、更に延ばす」の
   内容を含む。
 
 だが、フルリが彼等の集団の特性を
 表しているとするならば、
 アッカド語の 
 huru(掘る) 、
 haru(掘り出す)、 
 haruru(掘る)に関連しよう。
 
 その字義はすべて山を表す
 シュメル語の hur にも係わると思われるが、
 フルリ人とは金属鉱山で
 金属を掘り出す鉱夫を想起させるのである。
 
 アッカド語の山表す用語に 
 hursu があり、
 hurusa は「金、黄金」の意である。
 
 いわゆる山岳を表記するアッカド語は šadu であり、
 hurusu は鉱山の意味であると思われる。
 
 フルリ人は、
 スバル人のうちで鉱業あるいは金属加工を業とする
 thveli(金属工) の技術集団であった可能性がある。
 
 スバル人商業集団の一部であったのである。 
 
 紀元前二千年前を越え、青銅器文化が隆盛になると
 フルリ人特有の文化が醸成された
 北メソポタミア一帯にその活動の場が広がった。
 
 それ以前においてもその足跡は認められ、
 ウル第三王朝時代、
 北メソポタミアの現在のシリアの東北地方の
 ウルキシュやナワルの都市を
 フルリ人が支配していたほか、
 彼等の本拠とみられる
 チグリス川東部の王名ならびに
 フルリ名が顕著であった。
 
 紀元前二千年期にはザグロス山脈方面にも及んだ。
 
 すでにみたように牛頭崇拝の広がりをみせた地域で、
 遠くはカスピ海南方へテヘランに近い 
 トゥクリシュから
 シャッラ、シムッルムのメソポタミア平野に
 近い町まで広がる。
 
 続く時代には、
 アッシュール近郊のエカッラトゥム、
 子ザブ川東方のヌジ、
 ニネヴェの西方ジンジャール山脈の南のカタラ、
 ハブール平原と推定されるアシュナックム、
 さらに西方のオロンテス川沿いのアララクにも
 フルリ系の君主名が残されている。
 
 この地方へのフルリ人の進出は激しく、
 紀元前千四百年頃のアララクの史料には
 全人口の過半数をフルリ人が占めるようになる。
 
 地中海沿岸の町ウガリットにも
 八分の一から七分の一のフルリ系の人名が
 前十四世紀から前十二世紀にわたる
 ウガリット文書の中にみられる。
 
 また、
 エジプトの紀元前十五世紀の文書にみられる
 カナンの地のフルもフルリ人と
 関係がありそうである。
 
 紀元前十六世紀の北メソポタミアに
 ミタンニ王国が建設された。
 
 フルリ人の経済的基盤の上に立脚した王国であった。
 
 アッシリア人はミタンニをアッカド語で
 ハニカルバドと呼んだが、
 これは多分「商品を交換する国」の意であろう。
 
 ミタンニ Mitanni は
 マタンニ Matanni とも呼ばれたが、
 グルジア語で mdha というので、
 「山の国」が本義であったと考えられる。
 
 その首都ワシュガンニの所在地は
 未だ不確定であるが、
 これもグルジア語による解釈によると
 「谷を出た所」の意であり、
 ハブール高原のどこかであったことは
 間違いないだろう。
 
 ミタンニ王国の最盛期には、
 その領土が東方のヌジのあるザクロス山脈の
 西麓からアッシリア地方、
 北方はヴァン湖の南岸から
 チグリス川の水源ハザ湖周辺を含む
 アルシュ、イシュワ地方、西方はタロス山脈の東部、
 地中海北岸ウガリットはもちろん
 オロンテス川上流カデシュまで達し支配した。
 
 北方のアナトリアの帝国ヒッタイトと
 クズル・ウルマク川付近で、
 南方のエジプトとカナンのビブロスあたりで
 常に拮抗していた。
 
 ミタンニ国は両国の圧力により滅亡し消滅するが、
 フルリ人が抹殺されたわけではない。
 
 彼等は続くアッシリア、カッシートなどの
 バビロンの覇権の下にも存続し、
 紀元前九世紀頃アッシリアの北辺に
 ヴァン湖を取り巻いて
 ウラルトゥ国を建設することになる。
 
 本来アッシリアも
 スバル人の一部の民族の建設した
  商業国家であったが、
 新アッシリアは軍国主義国家の性格が強く、
 古アッシリアの重商主義的国家組成の条件が
 変わってしまった。
 
 新アッシリア治下の紀元前九世紀頃、
 スバル人たちはシンジャール山脈の北側
 ハブール高原から次第に北方アナトリアの
  山岳地帯へと
 その居住地域を移転し始めたと考えられる。
 
 ハブール平原のスバルトゥの地から
 一山脈を超えたチグリス川流域へ、
 そこは鉱物の豊富な谷合であるが、
 彼等の拠点が移され、
 シュブリア「スバル人の土地」
 と称するようになったものと思われる。
 
 また、
 大ザブ川のハブリウリから上流にも
 スバル人は根強く勢力を張っていたが、
 彼等も次第にウルミア湖ヴァン湖方面に
 移動を続けたとみられる。
 
 移動理由には、
 アッシリアの軍事的圧迫があったことは
 容易に推測できるが、
 
 すでに始まっていたことは
 鉄器時代の進展にともない、
 鉄鉱石の産地がシュブリア地方、また
 ハブウリからウルミア湖に至る地方に
 分布していたことにもよると考えられる。
 
 彼等は青銅器文化の必要な担い手であったが
 鉄器文化への転換も始まったものと推測できる。
 
 スバル人と呼ばれ、フルリ人と呼ばれた
 カルト人の根幹勢力は
 祖地を離れて北方のコーカサスに向けて
 次第に移動を開始したのである。
 
 フルリ人の天候神テシュブ神は
 牡牛に乗る男神である。
 
 また、
 女神ヘポトは牝獅子に乗る神である。
 
 この関係は
 インドのシヴァ神の乗物(牡牛)と
 ドゥルガーの乗物(虎)に対応する。
 
 獅子はライオンで虎ではない。
 
 カナン神話におけるバアル神の乗物が
 牡牛であるのに対する
 イシュタル女神の乗物がライオンで
 あることにも対応する。
 
 フルリ人の故郷が北メソポタミアのハブール地方で、
 チグリス(虎)川が流れることを考えると
 本来虎であったとみられる。
M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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第三章 地中海人種 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 地中海人種




  イベリア半島のスペインから西アジアの
 非常に広い地域に
 居住していた古代の人々も総称していう。
 
 その範囲はバルカン半島、アフリカ北部を含む。
 
 古代の文明を開いたローマ、ギリシャ、エジプト、
 そして西アジアの人種はこの範疇に入る。
 
 現在においては
 地方的変異もみられるようになっている。
 
 その系統は地中海地方ばかりでなく、
 
 コーカサス地方、アジアのインド亜大陸にも
 広がっている。
 
 スペインのバレアレス諸島の調査報告によると、
 そこの人々は、
 身長が一六四センチメートル程度と低く、
 長頭で顔は長く卵型、鼻筋が通り、唇が厚い。
 
 皮膚の色合いは比較的濃く、
 日焼けした症状は
 ヨーロッパ大陸の北方人種ように
 斑点になるのではなく濃褐色になる。
 
 これらの特徴に整合する人々は
 イベリア半島、フランスの一部、
 イタリア付近の島々と、
 地中海の西部中部地方に分布している。
 
 以上にみた地中海人種の特性は、
 メソポタミアの古代紀元前七千から六千年の間の
 サマッラ式土器期のイラク中部にある
 チョガ・マミ遺跡から
 出土した彩文女性頭部土偶に酷似している。
 
 長い髪を巻き上げて頭上で纏めていることを
 考慮しても長頭で、
 顔は卵型、鼻がよく伸び、唇が厚く張っている。
 
 目が大きく造られているのは
 シュメルの彫像にもみられるように
 メソポタミアにおける全般的特性である。
 
 同じくイラクの中部にある
 テル・アル・ソワン遺跡の
 サマッラ期の墓地から出土した
 アラバスター製人物像は、
 長頭で鼻がよく通っている。
 
 さらに紀元前三千一百年頃の
 北メソポタミアのテル・ブラク
 「眼の神殿」から見つかった石製頭像は、
 鼻が高く取られ、唇も厚めに彫られ、目も大きく、
 チョガ・マミ遺跡の人頭土偶の特徴を踏襲している。
 
 また、
 紀元前三千年頃の古代都市トゥトゥヴの
 テル・ハファージェ遺跡の長円形神殿から
 出土した銅製
 「箱を頭に乗せた人物立像」の頭部の特徴も全く
 「女性頭部土偶」と同じで、複製ともいえる。
 
 このように
 メソポタミアの新石器時代から
 青銅器時代に渡る人物造型に、
 地中海人種の特性が強く表現されていることは
 重要である。
 
 北メソポタミアの文化的影響は、
 紀元前六千年から五千四百年に至る
 ハラフ式土器期に地中海沿岸に
 定着した様子がみられる。
 
 オロンテス川の北端地域にアラアク遺跡などの
 ムキシュ地区に
 その遺跡が集中している。
 
 紀元前三千年期に特徴づけられる
 斜めの口縁を持つ鉢は
 南メソポタミアの生活用容器であるが、
 同型の鉢の出土分布が
 北メソポタミアからオロンテス川流域にまでみられ、
 南メソポタミア文化が地中海北部と
 連結していたことを示している。
 
 地中海人種と北メソポタミアの人々とには
 深い人種的関係が認められるのである。
M.K記

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第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島


  古代のイベリア半島で重要な条件は、
 銅、鉛、銀、錫が、
 そして金が産出されたことであった。
 
 スペインの南東の端アルメリア近郊は銅、
 鉛のほか銀の鉱脈が露面近くにあって
 半島有数の鉱山があった。
 
 セルヴィアからポルトガルの南端にかけては
 銅、銀及び錫が産出した。
 
 また、
 北西のガリシア地方からは金、銀、鉛、錫が産出し、
 スペインとフランスの国境のピレネー山脈が
 大西洋のビスケー湾に向かっていく地帯からは金が、
 スペイン側の湾岸地方からは鉄も産出された。
 
 地中海地帯で錫が産出する所は
 アドリア海の東岸ダルマチア地方と
 イベリア半島のジプラルタル海峡を
 大西洋へ出た半島の西南端地方しかない。
 
 青銅器時代においてイベリア半島が
 重要であった理由はここにある。
 
 ギリシャ人、ラテン人が野蛮と称した 
 barbar を
 「自分自身」 berbera の意味に用いている民族がある。
 
 スペイン語で Vasco と表記され、
 Basque ないし Euskal と自称する民族である。
 
 彼等は大西洋岸ビスケー湾の底に当たる
 スペインとフランスの国境を挟んでというより
  両国に分けられて居住している。
 
 バスク人の伝説で、彼等の祖とされる人物の名は 
  Tubel トゥベルという。
 
 この名称は
  カナン・ガリレアの町チベリアス Tiberias 、
  と同様
 メソポタミアの金属工 Thveli の同祖語とみられる。
 
 十六世紀のスペインの歴史家
  エステ・バン・カリバイは、
 バベルの塔の後、トゥベルという男が
 バビロンからバスク語を
  スペインへもたらしたと述べている。
 
 また、バスクの伝承には大洪水を逃れた
  Aitor はバスク人のもう一人の祖とされている。
 
 バスク語の aita は「父」を表すので、
  アイターは父祖の意であろう。
 
 また神話上の用語として「神の国」である
 jainkoaren-begi があるが、
 これはシュメル語の dingir-igi ni 対応するだろう。
 
 Euskal はフランス語では Gascogne と表記されるが、
 これはシュメル語の guskin の同祖語と考えられる。
 
 グスキンは金・金鉱の意味であるが、
  この地方からは金が掘り出された。
 
 バスク人とは、
  金鉱山に係わる金属工であったと推測できるのである。
 
 例として挙げるのであるが、バスク語で鹿を意味する
  orein はコーカサスのグルジア語での 
  iremi の同義同根語である。
 
 文法上でも能格を持ち主格と区別されるなど
 バスク語とコーカサスの諸言語との共通性を是認し、
 バスク人はコーカサスからやって来たと
  主張した学者がいた。
 
 ここで対象にされているコーカサスの諸民族とは
 グルジアに居住する諸族のことである。
 
 バスクがコーカサスと結びつけられたのは、
 グルジアの地にイベリア国がローマ時代まであって、
 その名称がイベリア半島の
  イベリア人の呼称であることにもよる。
 
 イベリア人とバスク人の関係については
  語学上原初イベリア語はバスク語であったとの
  見解を述べる学者が以前にはいたけれど、
 
 現在では原初のイベリア族は単一民族でなく、
 その言語も単一の言語でなかったと考えられる。
 
 バスク語もイベリア族の複数言語のうち一つであったとの 見解が一般的に承認されている。
 
 イベリア族も土着の民族とは考えておらず、
 外来の民族で起源をコーカサスに求められているのは
 上記の通りである。
 
 論争の争点は
 コーカサスからの移動行程についてである。
 
 その一は、コーカサスを発ち大陸を横断し、
 ピレネー山脈の北方から入ってきたというもの。
 
 その二は、アナトリアを経てアフリカ大陸に入り、
 南方から上陸して来たというものである。
 
 グルジアのイベリア半島でも
 スペインの中央から東方の地方は
 古くにはセルティベリアと呼ばれ、
 そこに住む人々をセルティベロ族 Celthbero 
 と称したが、
 この民族名について
 一般的にイベリア人とケルト人が混血して
 形成された民族であるというのが定説である。
 
 その学説によると
 紀元前九〇〇年頃から六〇〇年頃にかけて
 インド・ヨーロッパ語族が波状的に
 ピレネー山脈を越えて侵入して来たが、
 その中でもケルト人の侵入が顕著で、
 往古からの居住者イベリア人との混血が進み、
 その結果ケルトイベリ族 
 Celtbero が形成されたという。
 
 スペインの北東ピレネー山脈の南方を
 カタルナ Cataluna というが、
 そこを地中海へ向かってバスク地方を水源とする
 エブロ Ebro 川が流れる。
 
 ローマ時代にはイベリス Iberis 川と呼ばれた。
 
 河口近くに Tortosa 、Cherta の町があるが、
 トルトーサの語幹 toro- は牡牛を意味し、
 チェルタは角 khard/celt の転訛であるので、
 エブロ川は「牡牛の角崇拝者の川」
 であったかもしれない。
 
 カタルナは、
 シュメル語の kuršada (牧畜業者)、
 ドイツ語の Kuhhirte(牛飼)、
 英語の cattle(家畜:アメリカでは畜牛) 
 の同義語である。
 
 トルトーナ市は闘牛の盛んな土地である。
 
 エブロ川の河口近くに
 サン・ホルヘ San Jorge 湾があるが、
 これは英語名で sant George と称し、
 ウェールズとアイルランドの間の
 海峡名ともなっている。
 
 この聖者名は、
 第二世紀のローマ時代の
 コーカサスのイベリア人出身の
 キリスト教聖者の名である。
 
 また近郊のタラゴナ 
 Tarragona はギリシャの東北方に当たる
 トウキアの地名と対応する。 
 
 そこにもエーゲ海に流れ入る
 エブロス Evros 川が流れている。
 
 Thraki/Tarraga-na は「崇拝者」を意味し、 
 Iben と同義である。
 
 エブロ川を遡ると
 バスク地方のナバル Navarra に至る。
 
 ナバ nava は
 バスク語で「山間の平原」を意味するが、
 その東部に現在 Lumbier の町がある。
 
 この町はかって Habier と称し、
 十六世紀に
 日本へキリスト教の布教のために渡来した
 イエスズ会所属の
 宣教師フランシスコ・ザビエル  
 Francisio de Xavier の出身地である。
 
 Xavier は英語名で、
 スペイン語では Javier で Habier のことであり、
 
 彼の名は
 「ハビエル出身のフランシスコ」の意である。
 
 ハビエルは、キリスト教の場合修道士であるが、
 シュメル語においては祭司である。
 
 シュメル語において、 
 Sabur,haber は祭司を表すことはすでにみた通りで、
 バスク語とイベリア語の間で発音の転換がみられる。
 
 Iberi を Javier の転訛と考えても
 祭司である崇拝者を表すことになる。
 
 イベリア半島の「牡牛崇拝者」達は
 遠い祖先の縁故関係にある
 カルトイベリア人出身のキリスト教聖者が
 ゲオルゲ George を信奉することにより
 祖先伝来の「牡牛崇拝」を
 キリスト教へと宗旨替えしたのである。
 
 だが、
 その伝統のすべてを捨てたわけではなかった。
 
 闘牛はナバラ地方から興ったとされるが、
 ハビエルは祭司、つまりハフリ(祝)で、
 牛の屠殺者の町だったのである。
 
 メソポタミアの殺牛技術法の検討のために、
 闘牛の最終場面、
 闘牛士が牡牛に止めを刺す技法を紹介したが、
 このショウは牡牛屠殺の祝祭であることを前提とし、
 その祭儀がメソポタミアから
 取り入れられたと考えていたからである。
 
 スペインにおいては闘牛だけでなく、
 掛け声「オーレ」が激励のため叫ばれる。
 
 この掛け声はシュメル語の
 ār 「神を賛美する、誉める」が 
 olè に転訛したもので、
 本来祝祭におけるものである。
 
 バビロンの新年祭に吟唱が行われたが、
 マルドゥク神が牡牛を伏せて矛を立てたシーンに
 群集が上げる叫び、
 中国の雲南省の少数民族の村で
 殺牛祭の祭司が牛を刺殺した瞬間
 「オー」と参集者達が一斉に叫びを上げ、
 さらに
 日本の神社で神官が祈願の祝詞(ノリト)を
 上げる前に大きな声で
 「オー」と発声するが、
 これも
 「神を誉め祭る」
 と申し上げているのである。
 
 闘牛のショウは本来の祝祭を離れてはいるものの、
 年間の定められた日の祭事として
 開催されている古来からの
 牛飼達の伝統行事なのである。
 
 スペインでは、
 サン・フェルミンの牛追祭など
 牛に係わる行事が盛んである。
 
 学者の中にも牛をトーテムとした原住民がおり、
 牡牛への信仰が闘牛の始まりとなったと
 主張する学者もあったが、
 牛の崇拝者はクロマョン人のような
 石器時代の原住民ではなく、
 イベリア人(正確にはケルト・イベリ人)自身が
 北メソポタミアの信仰を持ち込んだものと
 考えられるのである。
 
 紀元前二千五百年頃までには
 青銅器文化と牡牛崇拝の商業的金属工達が
 半島の地中海側南方から上陸して来た。
 
 彼等の総称がとけると・
 イベリ人であったと考えるのである。
 
 紀元前九世紀以降ケルト人を初め
 多くのインド・ヨーロッパ語の諸族が
 渡来したことは確かであるが、
 
 「背が高くて肌は白く碧眼紅毛」
 
 のケルト人の遺跡は
 半島の西北部に集中しており、
 スペイン全土に分布しているというわけではない。
 
 それに比べてイベリア半島の青銅器文化は
 その原料鉱の産地の故に強盛であった。
 
 鐘形土器はその時代の象徴であったが、 
 その分布はハンガリーやザクセンあたりまでも
 もたらされていた。
 
 銅、特に錫をその手に治めた人々は
 それだけ強盛であったのである。
 
 ガリシア地方にサンチャゴ・デ・コンポステラ
 santiago de Compostela という都市がある。
 
 サンチャゴは
 「十字を切る」ことで「十字」に係わり、
 コンポステラは「組成、組合せ」であり、
 町の名称は「組合せの十字」の意味になる。
 
 これはガリシアと隣接する地方 
 Coruna(角) があること、
 
 聖ヤコブの墓であるとの伝承を持つ
 教会のシンボルを考慮すると
 「角を組合せた十字」であることが解ってくる。
 
 santi-ago の語幹はマルタ語の「しるし」を表す 
 sinjal に関係し、
 北イラクの sinjar 、
 そしてインドの Sindu の同類語である。
 
 聖ヤコブの墓があると伝えられる中世に
 巡礼の大移動を巻き起した
 教会のシンボル「赤い十字」は、
 形象がマルタ十字でキリスト教の
 布教後にこの地に入ってきたのではなく、
 それ以前に入っていたものと思われる。
 
 ガリシアは鉱物特に錫の産地であった。
 角や十字紋に対する信仰を持った
 ケルト・イベリ人が居住した土地と考えられる。
 
 鉱物の産地といえば半島の南方
 アンダルシア地方もその宝庫である。
 
 フェニキアの植民者たちが
  Cadrz 、 Malaga 、Cartagena などの
 商業都市を建設したことは
 よく知られているところだが、
 それより二千年も前に青銅器文化が
 この南部地方に入ってきたと
 史学者、J・ビセンス・ビーベスは
 説明しているのである。
 
 アルメリアは青銅器文化のセンターであった。
 セヴィラ Sevila は
 シュメル語の zabar(青銅)の
 同祖語の転訛とも考えられる。
 
M.K記

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