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第四章 ゲルマン [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第四章 ゲルマン


  ゲルマン German が

 シュメル語の階段を表す galm を語幹とする 
  galm-an が祖語で
 「野牛の階段」 「野牛の角」 を意味しているとは
 既に述べた。
 
 「ガリア戦記」はベルガエ人の北にはレーヌス河、
 現在のドイツ名ライン河の北方に
 ゲルマニー Germani 人がいることを記す。
 
 そのなかにあって主要で強力な部族は
 スエービー Suebi と称する。
 
 エルベ河からヴィンシュトラ河の広大な地域を
 支配していた一族であった。
 
 北海に流れ入るエルベ河の下流地域に
 ニーデル・ザクセン地方はかって
 サクソニア、ゲルマン神話に
 サクスランドとして登場する。
 
 また北方デンマーク領内フュン島及びその島内の町
 オーデンセ Odense もゲルマン神話に登場する。
 
 谷口幸男の「エッダとサガ」に紹介されている
 「ヘイムスクリンガラ」は
 ゲルマンの開闢神話であるが、
 その第二章の一部を転載する。
   
  タナクヴィースルの東のアシーアーの地は
  アーサランドまたはアーサヘイムと呼ばれた。
 
  城にはオーディンと呼ばれる支配者がいて、
  そこには大きな供犠所があった。
 
  そこで十二名の神殿付司祭が
  最高のコジ(首長)となる習慣だった。
 
  彼等は供犠を主宰し、
  人々の間で判決を下さねばならなかった。
 
  彼等はディーアルまたドウロートナルと呼ばれ、
  全ての民衆は彼等に仕え尊敬を
  表わさなければならなかった。
 
  オーディンは偉大な戦士で、広く各地をめぐり、
  多くの国々を所有していた。
 
  (中略)
 
  オーディンはしばしば何年も旅に出ているほど
  長い間出かけていることが多かった。
 
 谷口幸男の「エッダとサガ」に紹介されている
 「ヘイムスクリンガラ」は
 ゲルマンの開闢神話であるが、
 その第五章の一部を転載する。
 
  その山脈の南のチュルクランドから遠くない。
 
  そこにオーディンは大きな領地を持っていた。
 
  当時ローマの王将らは世界に兵を進めて、
  全ての民を支配下においていた。
 
  それで多くの王達は戦乱を逃れて
  その領地を去った。
 
  だが、
  オーディンは未来がわかり、
  魔法に通じていたので、
  自分の子孫が世界の北の地方に
  住むだろうということがわかった。
 
  兄弟のヴェールとヴィリをアースガルズに残し、
  全てのディーアルと民衆をつれて国を去った。
 
  彼は先ずガルザリーキに行き、
  それからサクスランドに行った。
 
  彼は沢山の息子を持っていた。
 
  サクスランドであまねく、
  多くの国々を手中に治め、
  国の守りに息子達を配した。
 
  それから彼は北進して海に至り、
  ある島で住居を定めた。
 
  そこは今日オーデンセと呼ばれフュン島にある。
 
  タナクヴィースルは
  黒海の北アゾフ海に流れ込むタナイス河、
  現在のヴォルガ河の支流の名称で、
  それより東方をアーシアー、
  つまりアジアであるが、
  アーサランドまたはアーサヘイムと
  呼んだといっている。
 
 このアーサは中国の紀元前二世紀の漢の時代の
 『史記』大宛列伝に表れる
 「奄蔡(えんさい)」(アーサ)のことである。
 
 史記の記述によると、
 現在のキルギスにいた康居(こうきょ)国の
 西北二千里ばかりのところにある国で
 弓を引く兵が十余万人で、
 はてしない大沢に臨んでいるが、
 それは多分北海だろうといっている。
 
 しかし、
 この北海が大西洋に連なる
 イギリスとヨーロッパ大陸の間の
 北海であるかどうかは不明である。
 
 彼等は紀元前二世紀頃、
 第五章にいうチュルクランド、
 現在のトルキスタン地方から
 カスピ海の北方、
 そして黒海の北方からコーカサス山脈の北まで、
 その騎馬を駆使して活動していたと思われる。
 
 外コーカサス山脈に挟んで現在も居住する
 オセット人はこのアース Ās と同族である。
 
 紀元前後になるとギリシャ、
 ローマの文献にアラーン Alān 族として表れる。
 
 中国の史書『魏略』にも阿蘭と記述されている。
 
 オーディンは
 ゲルマン人の父祖とされる最高神である。
 
 同神はゲルマン人の母体であったアーサ国、
 よってアラーン族の首都とみられる
 アーサガルズに城を構え
 支配者として君臨していたが、いつも旅に出ていた、
 つまり、遊牧生活をしていたのである。
 
 そして、
 アーサガルズに大きな供犠所があって
 十二名の司祭がおり、
 その中から首長(コジ)が出ていたという。
 
 アーサガルズはどこにあったのだろうか。
 
 ローマの軍事力に圧迫された地域であったはずだが、
 歴史的にはローマの影響を受けなかっただろう
 トルキスタンから遠くないところといっている。
 
 若干の矛盾がそこにはみられる。
 
 ローマの圧迫を受けたオーディンを主祭神とする
 アーサ族(奄蔡/阿蘭)の部族は
 祭司を初めとする一族を率いていて
 ガルザリーキを経てサクスランド、
 つまりニーデルザクセン地方に至り、
 その後、
 フュン島に渡って住居を定めたという。
 
 その神話によると
 アーサ神族は移動先の神族とみられる
 ヴァン族と戦いを構えるが、
 終局的には平和的に結合し、
 親しい種族として成立することとなる。
 
 紀元後三、四世紀の
 ゲルマン族の大移動時代アラーン人は
 ヨーロッパ大陸中央に進出し、
 その後
 イベリア半島(ポルトガル)の南部にまで移動し、
 Alen-tejo の地名、また
 リスボンの西の半島の先端に
 Casvals 名を残している。
 
 しかし、
 この移動部族は
 オーディンの率いた者達ではない。
 
 彼の率いた部族は、
 その定着地を考慮すると
 ゲルマン人の大族スエヴィ族である。
 
 彼等は東方からの侵入部族と
 土着の種族との血縁的混合を
 行った人々と考えられる。
 
 スエヴィ族が後に作った国の人たち、
 シュワーベン人は
 「頭の黒い人」と呼ばれた。
 
 土着的ヴァン神族は北方人種で
 金髪、皮膚の白い長身の種族である。
 
 アーサ神族が黒い頭髪の人々であったであろう。
 
 彼等は大きな供犠所の祭司を伴ってきた。
 
 その宗教とは
 牛頭崇拝(ゲルマン=大きな階段)であって、
 オーディンの尊称「偉大な戦士」とは
 
 シュメル語の gu-ud であり、
 ドイツ語の神を表す Gott 、
 英語の God は
 この語に由来すると考えられる。
 
 アーサ Ās は鍛冶を意味する。
 
 ドイツの西方ボン市の北方に Essen 市がある。
 
 ここは鉄鉱石の産地で鉄鋼業が盛んであるが、
 その基語 Esse は
 鍛冶場ないし鍛冶用の炉の意味である。
 
 エッセン市は Ass とも表記される。
 
 因みにドイツ語の鉄は Eisen である。
 
 突然であるが、
 奈良県天理市奄治町は
 周囲に鏡作りに係わる神社のある地域で
 『新撰姓氏録』大和国神別に
 奄知造が載るように
 倭鍛冶に係わった地区であったが、
 奄治は奄蔡と同音である。
 
 北コーカサス及びグルジア国内に居住する
 オセット人には
 「ナルト叙事詩」という伝承が残されているが、
 
 日本の神話
 (三種の神器と天孫降臨、海幸彦、山幸彦と
  ウガヤフキアエズノミコトの誕生物語)
 
 と酷似する物語が含まれており、
 アラーン人と日本の古族との間に
 全く無関係とはいうわけではないのである。
 
 アーサ神族が遊牧の民であったにしても、
 彼等が金属加工の技術を獲得していたことが
 うかがわれるところである。
 
 アーサガルズ Assigardz
  (あーさ族の首都)の比定地は定かでない。
 
 しかし、
 この名称には「エデンの園」の概念が
 投影しているように思える。
 
 ドイツ語で東を表す用語は Ost で、
 コーカサスのオセット 
 Osset 東方の意味とみられる。
 
 ガルズ gardz は
 ドイツ語の Garten 、
 英語の garden 、
 ウェールズ語の gard 
 と同類の「庭」を表す用語と考えられる。
 
 アーサガルズは「東方の園」の意義であり、
 
 『旧約聖書』「創世記」に
 
 「主なる神は東のかた、
  エデンに一つの園を設けて」 
 
 と語られる「東のかた」に対応する。
 
 コーカサスのオセット人の領域は
 現在グルジア国とロシアに二分されているが、
 そのロシア領内にオードン Ardon の町と
 そこを流れるオードン川があり、
 その名は Ordhon とも表記され、
 神話のオーデンと縁があろう。
 
 しかし、
 このコーカサスの山中が
 ゲルマン人の祖地とは考えられない。
 
 イランのカビル砂漠の西南ザクロス山脈と
 砂漠との間にカーシャーン Kāshān 地方があるが、
 
 この地方こそ
 ゲルマン人の母体であるアラーン人の祖地である。
 
 そこにエスファンの町がある。
 
 古くはイスパハンと呼ばれ、
 十三世紀にはマルコポールが元への旅の途次
 行帰りとも通った交通の要路に当たるが、
 その北に
 アルデスタン Ardestan という小さな町があり、
 オセットの Andon はこの arde- と同じ語幹である。
 
 Anle- は altar で祭壇を表すので、
 アルデスタンは「祭壇の地」である。
 
 また、
 アルデスタンのさらに北方に地方名と同じ 
 Kāshān の町があり、
 その東側にアーラーン Ārān の町がある。
 
 アラーン人そのものの地名といってよいであろう。
 
 ここは彼等の故郷とするに十分な環境にある。
 
 さらに重要な地方名及び町名 Kāshān である。
 
 この名称はドイツ語の hashieren に対応する。
 
 ドイツ語の意味は「肉を刻む」であるが、
 これはまた kasher (英独語) と 関係する。
 
 同語はヘブライ語の「清浄な」の意味で、
 宗教的にはユダヤ教の典範に適っていることを
 基礎とする形容である。
 
 特に食物についての規則によって
 殺された肉類をいい、
 その点でドイツ語の hashieren と通ずる。
 
 『旧約聖書』「レビ記」に書かれる
 
 「燔蔡の獣の皮を剥ぎ、
  節々に切り分かたなければならない」
 
 に相当する。
 
 Koshei は
 インド・アーリア人の国名
 コーサラ Kosala としても表れる用語で、
 Kāshān は
 祝祭の際に犠牲獣を処理することを意味し、
 祝祭の場であることを意味し、
 祝祭の場であることを地方名・町名にしたのである。
 
 オーデンの故郷には
 大きな供犠所があったとの記述を
 アルデスタンの町名と共に説明するものである。
 
 なお、
 第八章の中の
 「アーリア人の侵入」においても詳説する。
 
 バビロニアにカッシート王朝を築いた人々には
 ザクロス山脈にいた種族ではなく、
 さらに北方から次第にのろのろと
 移動を続けた人々との事実が明らかになっている。
 
 それより古くから定住していた
 アラーン人の祖族は
 
 紀元前19世紀頃からカッシート人に圧迫されて
 ザクロス山脈の東側を北上し、
 北メソポタミアへ侵入し
 ミタンニ国を建てる原動力となり、
 東方の草原に出た部族はアリアナに辿り着き、
 そこに残留した人々はイラン人となり、
 さらに
 東方へとヒンズークシ山脈の南を
 パンジャブ地方へ出た人々が
 アーリア人となったのである。
 
 サンスクリット語のアーリアは
 「高貴な、高徳な」を表す。
 
 本来 Āŗān と関係する用語ではあるがまた
 「高み」の意味があり、
 「高み」である altar (祭壇)、
 アルデスタンとも通じる。 
 
 北方移動したアラーン人は
 カスピ海の西岸イランと
 アゼルバイジャン辺りに長期滞留し、
 アルダビ Ardabi を中心にしてその一部は
 
 紀元前15世紀に
 北メソポタミアにフルリ人を統括して
 ミタンニ国を支配したと推測される。
 
 同地方からは銅や鉛が産出する。
 
 この辺りには青銅器の遺跡が散在する。
 
 アラーン人はこの地で鉄の加工技術を修得し、
 鉄鍛冶を名称とする
 「アース族」の名を得たのかもしれない。
 
 ミタンニ国のフルリ人は金属加工の技術集団である。
 
 鉄についても、
 ギリシャ神話「アルゴー丸の英雄たち」に
 伝承される鋼鉄をつくる
 カリュベス人の国もフルリ人とみられる。
 
 ハッティ(ヒッタイト人に鉄を教えた)人に
 鉄の技術を伝授したのもフルリ人の可能性があり、
 フルリ人が居住する
 北メソポタミアの東に隣接したことにより
 アース族はその技法を習得したのである。
 
 以後彼等の勢力はカスピ海の北方へあるいは
 イラン高原へと拡張することとなる。
 
 森浩一編『鉄』古代東方の鉄鍛冶金には
 村上英之助の報告として
 
 「紀元前七・六世紀と推定される
  イラン出土の刀子(とうす) の構造を
  研究したフランスのラノ(A.F.Lanora) は
  鋼と矛鉄を交互に重ねて
  鍛打したことを明らかにし、
  その製作地をカスピ海南西の
  グルジスタンと推定している」
 
 との一文を紹介している。
 
 グルジスタンは
 現代名のイラン西北部、イラクの東北、
 トルコの南東端を含める地域で、
 アルダビルのある地方をいっているとしてよいだろう。
 
 ここに、
 アルダビルをアース族の祖地としたらどうかとの
 疑念が湧くが、それには条件が十分でない。
 
 牛頭崇拝などの信仰が涵養された
 古くからの史跡がみられないからで、
 主な遺跡は青銅器時代に入ってからであり、
 アース族によってもたらされた
 「ゲルマン」の名称は
 南メソポタミアとケルマンシャーなど
 イランの西南地方を中心とする
 信仰の象徴であることによる。
 
 紀元前2世紀になると
 中国の史料にカスピ海の北辺に活躍する
 「奄蔡」が記録されるようになる。
 
 アルダビル周辺にいた人々は神話の語る通り
 ローマ帝国の脅威を感じて
 さらに北方へと移動して行ったのである。
 
 ゲルマンの大族スエヴィ
 ( Suebi ないし Sueves )は
 「ガリア戦記」に載る
 ローマ人の表記によるものであるが、
 彼等のアルプス山脈の北側に移動した集団は、
 そこにスワビアないしシュワーベン地方を形成する。
 
 中世(13世紀)になると、
 北方のサクソニア地方にハンザ同盟、
 南方にはスワビア同盟という都市同盟を組み、
 神聖ローマ帝国より商業的独立を確保した。
 
 そして、
 スワビアの南に1315年
 スイスのシュヴィッツを中心とする
 三州のスイス自由連邦が成立した。
 
 スイスの国旗にみられるように、
 その象徴「赤十字」である。
 
 このようにスエヴィ族には自主独立の風が強い。
 
 20世紀のフランスの実存主義の哲学者サルトルは
 その血縁にドイツの音楽家にして医者で
 アフリカの聖人シュバイツァ博士がいるように
 スエヴィ族の後裔であるが、
 彼の展開した「主体性」は
 彼の祖先である民族的文化に潜む
 独立・自主の想念 sva を
 集団としての民族から
 「個人」に転換して主張したものである。
 
 このようなスエヴィ族の正確を考慮すると、
 Suebi の祖語は 
 Suva-iberi(十字崇拝者)であった可能性がある。
 
 北メソポタミアの「ケルト人」の
 文化の影響を受けたものである。
 
 
 ※ゲルマン族の大移動時代
 
 
M.K記

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