SSブログ

第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)カナアン(カナン) [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4
[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(4)カナアン(カナン)


 紀元前一八世紀、
 ユーフラテス河の流れる
 シリアとイラクとの国境近くに栄えた都市
 マリの王国文庫から発見された楔形文字の粘土板
 「マリ文書」にカナン人の名称 
 Kinahnu が出てくる。
 
 エジプト人は
 紀元前十五世紀の中頃から
 「アジア」の土地フルを
 カナン knnw と呼ぶようになり、
 紀元前一四三〇年頃に
 ミタンニ時代の記録に
 カナンの地 māt Kinaning があり、
 紀元前一四世紀初めの
 エジプトの史料
 「アマルナ文書」には
 アッカド語による呼称を取り入れた
 カナン権 pihati kinahi がのっている。
 
 現在のシリアの地名で、その南端で
 ドルシェ Druze 山があり、
 山の西に Busra の町がある。
 
 紀元前一世紀のローマ時代に
 Basan 地方と呼ばれるた地域内であるが、
 その意味は農耕である。
 
 ドルシェ山の周辺には 
 Qanawat 、Qanaytra の町がある。
 
 領地名ともカナンの派生語である。
 
 カナンの祖語はグルジア語にある 
 Basan と同義「耕す」を意味する 
 Xnav と同根とみられる。
 
 東方北メソポタミアからやってきた
 ケルト人たちが、
 地中海沿岸の恵まれた気候のもと
 麦類などの耕作をしていた
 農耕民およびその土地を
  kanaan と呼ぶようになったのである。
 
 カナンの沿岸地帯には
 交易都市が続々育っていくこととなる。
 
 現代の都市名ベイルートは
 シュメル語において「輝く」の意味から
 金属に敷衍(ふえん)されて
 使われる bar から派生した 
 Berybos が古代の都市名であった。
 
 シュメル語の鍛冶工 
 de の同類語 Dor 名の都市が
 カルメール山の南にあった。
 
 この dor を基礎としたと思われる都市が 
 Zor で、別称 Tyrus である。
 
 この都市名には、
 ドイツ語で Zinn 、
 英語で tin となる錫のおもかげが隠されている。
 
 都市名ゲバル Gebal は
 シュメル語の青銅を表す 
 zabar ないし kabar の同類語による。
 
 このように金属特に青銅と関係した地名が多い。
 
 その背景には
 同地域に銅産地をかかえていたことによるだろう。
 
 レバノン山脈で銅が産出したばかりでなく、
 至近のキプロスから多量に入手できたのである。
 
 チルス市の勢力が建設したのが、
 アフリカ北岸の植民地都市カルタゴであるが、
 現在そこはチュニジアで、
 その首都名をチュニス Tunis という。
 
 チュニスはチルス市名に由来する。
 
 このあたりは紀元後四世紀に
 「ゲルマン民族の大移動」に乗って
 イベリア半島からモロッコに渡った
 ヴァンダル民族が本拠を置いた地方である。
 
 ローマ時代、ヴァンダル時代を経て 
 Tunis と呼ばれるようになったわけで、
 
 Tyrus の原語が
 錫を意味していたことを示唆している。
 
 また
 ベリトス Berytos の地名はギリシャ神話において、
 チルス市から出てカルタゴの女王となった
 ディードー Dido の父である
 ベロース Belos と関連する。
 
 ベロースはバール神の転訛名である。
 
 同市は新アッシリア時代になると
 ハルデとも呼ばれるようになった。
 
 これは
 カルト khard を市名にしたものとみられる。
 
 ※1969(昭和44)年6月12日読売新聞に、
  天竜川中流域の静岡県水窪町で、
  紀元前600年頃と推定される、
  文字が刻まれた石(水窪石)が
  発見されたと報じられた。
 
  解読の結果
  「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と
  書かれていることがわかった。
 
  バルーツとは、
  フェニキア民族の根拠地・
  シリア地方の自然神バールの女性形同一神である。
  フェニキアという名は民族の守護神・
  フェニックス(不死鳥)に由来するのだが、
  ガシアンは鳥=主神という意味である。
 
  同様の文字は、
  アケメネス朝ペルシャの円筒印章や
  パキスタン岩絵、
  インド洞窟画、中国岳神図、朝鮮石壁文字、
  さらには北米東海岸・
  ニューハンプシャー州ミステリーヒル碑文からも
  発見されていて、
  当時のフェニキア人の足跡が偲ばれる。
  フェニキア人はBC1500年頃、
  アルファベットを実用化した事で知られている。
 
  ユダヤ人や有色アジア人種と同じセム族で、
  自らはカナン人と称していた。
 
  カナンとは、
  東地中海のシリア・レバノン・イスラエル
  北部の海岸地帯を指す。
 
  彼らは海の遊牧民と言われる海洋交易民族で、
  トルコのビザンチオン(イスタンブール)、
  ロードス島、キプロス島、シチリア島、
  クレタ島、ギリシャのアテネやスパルタ、
  北アフリカ・カルタゴなど、
 
  地中海全域に根拠地を建設し、
  スーダンの金やレバノン杉などを交易していた。
 
  外洋航海の技術や知識は、クレタ流と言われる。
 
  BC2000~1700年頃に栄えた
  クレタ文明のミノア人も、優れた海洋民族だった。
 
  ギリシャの歴史家・ヘロドトスは、
  フェニキア人が紅海を発して南の海を航行し、
  3年目にヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を
  回って再びエジプトに帰ってきたと、
  アフリカ大陸周航の事実を記している。
 
  また
  フェニキア人は、
  当時スペインやフランスに居住していた
  ケルト人と、
  鉱山開発や貿易を通じて協力関係にあった。
 
  ケルト人は、
  ドナウ・ライン・セーヌ・ロワール川などの
  河川を利用した交易集団でもあった。
 
  フェニキア船団は、ケルト人やユダヤ人、
  エジプト人やギリシャ人などが
  混在する多民族混成旅団だった。
 
  しかし彼らには共通の信仰があった。
 
  セム語で「主」を意味する牛の神バールである。
 
  クレタのミノッソス、エジプトのイシスも
  牡牛に象徴される。
 
  ユダヤ王ソロモンの玉座には、
  黄金の仔牛アモンが刻まれ、
  ゾロアスター教のミトラ神の原型も
  バール神である。
 
  何故牡牛なのかはよくわからないが、
  源流は伝説のアトランティス文明に
  あるとも言われている。
 
  さて、こうした事をふまえた上で、
  再びBC600年頃の静岡県水窪町に話を戻そう。
 
  当時は大和朝廷初代・神武天皇が
  即位したとされる頃で、
  出雲・丹後・大和の王朝が
  ゆるやかに連合していた、弥生時代中期である。
 
  水窪という地は、
  縄文の頃から黒曜石の産地として知られていた。
 
  おそらくフェニキア船団員は、
  現在「糸魚川・静岡構造線」として知られている
  断層線に沿って、
  金銀銅鉄などの鉱脈を探していたのだろう。
 
  鉱山師は川筋の鉱物を見てあたりをつけ、
  鉱脈を探すという。
 
  水窪石は、その為の願かけだったのかもしれない。
 
  水窪から天竜川を源流まで遡ると、
  信濃国諏訪湖がある。
 
  この周辺は良質な粉鉄こがね(砂鉄)の産地だった。
 
  出雲神話で大国主命の国譲りに反対した
  息子の建(たけ)御名(みな)方神(かたのかみ)は、
  建(たけ)御雷之(みかず゜ちの)男神(おかみ)  との相撲に負けて
  諏訪へ逃げるわけだが、
  当時から出雲国の重要拠点だったのだろう。
 
  鉄が日本史に登場するのは
  2~3世紀の古墳時代だが、
  紀元前1800年頃から
  トルコのヒッタイトで使用されていたわけだから、
 
  フェニキア人たちが知らないはずはない。
 
  アムートゥという鉄は、
  エジプトとの間で
  金の5倍、銀の40倍の価格で取引されていた。
 
  お宝を探し当てたフェニキア人たちが、
  諏訪に住みついたと想像してみたくなる。
 
  諏訪大社南方に守屋山という名の山があるが、
  創世記22章の
  「アブラハムがモリヤ山で息子イサクを
   生け贄として神に捧げた」という、
  ユダヤ的なエピソードを連想させる名前である。
 
  出雲王朝は、BC1046年に牧野の戦いで
    周に滅ぼされた
  殷王朝亡命難民が主要な構成員であり、
  日本に弥生時代の稲作文化や
  銅剣・銅鐸文化を招来したと思われる。
 
  殷はシュメル古拙(こせつ)楔形(せっけい)文字
  に似た甲骨文字を創始し、亀甲占いを行う。
  なるほど出雲地方には亀甲神紋が多く、
  亀甲占いは皇室の秘事と聞く。
 
  殷はBC2070年に成立した、
  南方系龍蛇(ナーガ)信仰の「夏」を滅ぼし、
  BC1600年に成立した国だが、
  道教神話では夏以前の神話時代、
  石の巨人・磐(ばん)古(こ)、
  蛇身の女神・女媧(にょか)、
  牛の角を持つ炎帝神農の
  元始三皇に始まるとされる。
 
  この炎帝神農こそバール神であり、
  古韓国語ではスサという。
 
  牛頭ごず天王てんのうの別名を持つ
  「スサノオ」である。
 
  なぜ殷王朝に
  オリエント・地中海世界のバール神なのか。
 
  殷族とは本来、アーリア系イン族とされる。
  加えてシュメルのウル第3王朝が
  BC2024年に滅亡した事と、
  かなりの関係があるように思われる。
 
  神話では易経と文字の発明は
  伏羲(ふくき)の役になっているが、
  崑崙山を越えて来た
  シュメル文明の末裔たちが
  創始したのではないかと。
 
  殷は天地自然の神々を信仰し、
  王を支える武士団が存在し、
  殉死の風習があった。
  周に殉死はない。
  一族の旗印は白。
  周は赤。
  民族の守護神は、
  フェニキア人同様に鳥(鳳凰)だった。
 
 現在のレバノンとイスラエルとの国境地帯が
 ガリレア galilaea のメイロン山付近に
 zafat、Kefar-nahum の町があるが、
 シュメル語の zabar 、kabar による遺称であり、
 galila も
 シュメル語の gar-ra (金属加工する) と関係する。
 
 地域内にある都市 Tiberias (ローマ時代)は
 thveli を付名したもので、
 ここで鍛冶工業が行われたからであろう。
 
 ウガリット市は
 「海の民」の攻勢により陥落し没落の憂目にあう。
 
 しかし、
 その後においてフェニキアとして
 集合された諸都市は、
 ウガリットと同じく海洋交易の利権を確保し、
 地中海の西方に向けて
 力を伸張していくことになるが、
 やはりウガリットが敷いた海洋ネットワークを
 再構成したものであろうと考えられる。
 
 紀元前3000年前後:レバノンへのセム系民族の移動
          ↓
 紀元前2000年前後:アモリ人の流入
          ↓
 カナン人の形成「海の民」による航海技術
          ↓        
 紀元前1200年前後:フェニキア人と呼ばれるようになる。





M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(3)アジア [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4
[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(3)アジア




 Philister / Peleset は、

 現在のアナトリア西南部の古い地名

 Phrygia あるいは pamphylia 

 が祖地であったと考える。

 

 この地域から「海の民」として離陸し、

 一時エジプトの海岸地帯に停留した後

 現在のパレスチナ地方へ上陸したものであろう。

 

 フィルギア地域内にある都市 

 Burdur はかって Askanih とよばれた。

 

 アシュ湖がその近郊にあるが、

 このアシュを冠した都市名 

 Ashdodo と Askalon は

 フィリステルの都市名であり、

 彼等の一部が建設したと思われる

 死海の東北の町

 フィラデルフィア名の町が

 同地域に内にセルジュクトルコ時代に表れる。

 

 またカフトリは

 リキアの南端ギリシャ領の小さな島

 kastellohzon に

 その遺称を留めているものと考える。

 

 同地域は紀元前千五百年頃に

 アッヒヤワと呼ばれていたらしい。

 

 この名称はギリシャ人の一派

 アカイア人との関係も論じられてきたが、

 彼等が現われのは紀元前八・九世紀である。

 

 アッヒヤワの時代は

 それより五百年前のことで、

 ミタンニ国の当時のスバル人の地方名

 イシュワ Isva と係わりがあるそうだ。

 

 イシュワ(スバル)の商人たちが

 古くから到着して

 商業活動を展開していたとみられる。

 

 アッヒヤワ Ahhiyawa は

 ヒッタイト帝国の首都ハットゥサスの遺跡から

 出土したボアズ・キョイ文書から

 出始めた国名である。

 

 その比定地については

 いろいろと論議があり確定していない。

 

 フィリギアの真中、

 ブルドール市の北方にある

 アフィヨン Afyon 地方

 をその比定地と考えたい。

 

 同地域には、

 Sahut、sandiki、Eder(湖)と

 メソポタミアと関係する地名が散在する。 

 

 アフィヨン市はアナトリアの東方から

 エーゲ海の貿易港スミルナへの街道筋にあり、

 南北に走る街道の交差点でもある。

 

 ローマ時代にプリネッソスと呼ばれた町で、

 アピシディ地方と呼ばれた。

 

 シュメル語で階段を意味する 

 galam に由来する

 Karamanli の町がブルドール市の南方にある。

 

 ギリシャ人たちは「アシア」の呼称を

 最初この西アナトリアの地方に対して使ったが、

 彼等は「商人」の意味で

 「アシア」を使っていた形跡がある。

 

 ギリシャ語の用語の中に

 「商業、商人」を表す swa があり、 

 swene は「商業の町」である。

 

 アシアの名の由来について、

 ギリシャ神話の海神オーケアノスと

 テーテュースの娘アシアーによる、

 あるいは

 フェニキア人が東方の意味で呼び始めたなどの

 見解が通説となっているが、

 本実は 

 Isva が Asia に転訛したものと考えられる。

 

 語尾変化 va:ia 関係は

 トロイの都市名 Trowa が

 ギリシャ名で troia になった

 ケースと同様である。

 

 その商業の担い手が

 スバル人でなかったにしても、

 スバルという商人の総称を冠された人々が

 ネットワークを張っていたことは

 間違いないであろう。

 

 紀元前十五世紀以前に

 エジプト人が地中海東岸南方に住む人々を

 「アジア人」と呼んだとの史料があるが、

 同時にその地方をフル hwrw とも呼んでいた。

 

 フルはフルリ人のことで 

 スバル人の別称とされる呼称であり、

 

 それ以前に進出していたことがうかがわれる。


M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(2)フィリステル [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

『バグダッド下水音頭』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049176.html
『創世紀』の目次へ戻る https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09
「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4
[サッカー](かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪[サッカー]

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年

《第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(2)フィリステル




 『旧約聖書』ゼパニヤ書第二章も

 ケレテが登場する。

 

  ともあれ、ガザは捨てられ、

  アシュケロンは荒れはて、

  アンドドは真昼に追い払われ、

  エクロンは抜き去られる。

 

  わざわいなるかな、

  海べに住む者、ケレテの国民。

 

  ペリンテだとの地、カナンよ、

  主の言葉があなたがたに臨む。

 

 前後の地名から判断すると、

 聖書においてペリンテといわれる

 ギリシャ名フィリステルは

 現在のパレスティナであるが、

 この海岸地帯に住む人々を

 「ケレテの国民」といっている。

 

 カナンは「ペリシテびとの土地」であり、

 「ペリシテびと」は「

 ケレテの国民」であるとの内容になる。

 

 また、サムエル書下の第八章には

 

 「エホヤダの子ベナヤはケレテ人と

  ぺレテ人との長、

  ダビデの子たちは祭司であった(18)」

 

 との節句がる。

 

 この「ケレテびととぺレテびと」を

 

 ヘブライ語で 

 Cherethites・Pelethites とも、

 

 ドイツ語聖書では 

 Krethi・Prethi と表記されている。

 

 彼等は

 ダビデ王の親衛隊を構成していた人々である。

 

 Prethi については

 ペリシテ人 Philister 

 と解釈されている場合もあるが、

 

 同じ第八章一二に Philistines の表記があり、

 同義とすることは難しく、

 正確のところは不明である。

 

 ゼパニヤ書のいうように

 フィリステルの紀元前十世紀

 ヘブライの王ダビデの時代に、

 ウガリットの祖先の王家名と

 同じケレト人が

 活動していたとの記録は重要である。

 

 また、カナン語で 

 keret と発音された用語が

 ヨーロッパ語圏のドイツ語において

 Krethi と発音されたことも

 留意すべき事項である。

 

 Philister については、

 紀元前1230年頃から

 エジプトの海岸に現れた

 「海の民」と呼ばれる地中海東部に起った

 海の流浪民のうち、

 武装集団パラサティ Peleset が

 チェケル Tiekkel とともに

 当該地域に上陸して

 都市を形成したことによるとの

 見解が是認されている。

 

  Pelesat は

 ダニエル書第五章に語られる 

 tekel、u-pharsin(25)と

 関連しているようにみられる。

 

 Tekel は Tjekkel を、

 Phărsin は  Peleset に対応し、

 

 続く条句で

 

 「テケルはあなたが秤で量られて、

  その量の足りないことが

  あらわれたことをいうのです(27)。

  ペレスはあなたの国が分かれて(28)」

 

 と説明される。

 

 Phărsin/peres は創世記第一〇章に

 セムの子孫ペレク peleg を

 

 「これは彼の代に

  地の民が分かれたからである(35)」

 

 と説明している「分化」と

 字義とする同類語である。

 

 Tjekkel 及び Peleset は

 エジプトの史料にのる

 「海の民」九武装集団に含まれる

 集団名であるが、

 ケレテはその九っの集団名に含まれていない。

 

 つまり、

 ケレテ人は

 「海の民」の属さない人々であったと

 考えた方がよいと思われるのである。

 

 Chevethites について、

 彼等の祖地がクレタ島( Cret )とする見解が

 西欧の専門家によって採られてきた。

 

 例えばアメリカの

 『 Evangelical Commentary on the Bible 』

 は記す。

 

 Kerethite is a reference to the Cretan origin

 of philistines.

 

 確かにアシュケロンには

 同市で最古の神殿とされる

 「ミノス神殿」があることが

 知られているほか、

 ガザ市はローマ時代に

 「ミノスの後裔」と喧伝されたが、

 牛角崇拝の神殿信仰が

 クレタ島から来たとは限らない。

 

 カナン神話の主神バアルは

 牡牛の上に立つ神であり、

 「ケレト」自身が

 牛角であることは言うまでもない。

 

 ガザ gaza の地名は

 アッシリアを Gadatas と称すが、

 この Gada- が転訛したものであろう。

 

 この語はシュメル語の 

 Gud の同類語と考えられるので、

 牡牛を市名に冠したものである。

 

 『旧約聖書』創世記第一の章は

 「カフトリ族からペリシテ族が出た(14)」、

 ケレテとはいっていない。

 

 このカフトリは、また西欧において

 クレタ島との定説があるが疑問である。

 

 カフトリ族は

 ミツライム(エジプト)から出た種族(13)

 と説明している。

 

 確かにクレタ島には

 ギリシャ神話の海神ポセイドンの馬に

 まつわる影が投影されており、

 

 その祖地がリビア、

 つまり『旧約聖書』にいう

 「プト」であるとの見解もあるので、

 クレタをカフトリとすることを

 全く否定する訳にはいかないが

 妥当性は低いと考える。

 

 アメリカ聖書協会版聖書の扇ページに

 付けられた西アジア周辺地図には

 クレタ島を Caphtor としながらも

 ?をやくやく添えていて

 疑いを示唆している。


M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。