SSブログ

終章 (8)倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」② [日本創世紀]




日本創世紀


 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―


著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《終章 卑弥呼の「倭錦」
 (8)倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」②
  彼は述べる。
 
  神の世界にみられる集会は
  広い民主的基礎に依拠している。
  アダト神の神話を参照すると
  「全神の集会」で、
  参加には性別の制限はなく
  女神たちも男神たちと同様に
  その討議で積極的な活躍ができた。
 
  メソポタミアの最高の権威は
  この神々の集会にあった。
 
  そこに述べられている男神女神の区別はなく
  全員が参加するとの仕方は、
  倭人伝「男女無別」と記すのに合致する。
 
 ジェイコプセンは
 詩歌をかなりたくさん紹介しているが、
 その中に次のような詩句がある。
 初めの部分はその解説である。
 
 集会は常に ubshu-ukkin と呼ばれる
 大きな所で開催される。
 
 神々が到着すれば
 同様に参会のため遠くからやってきた友人や
 縁故者と会い抱擁し合う。
 
 その守護された場所で
 神々は高価な料理を囲んで座る。
 
 ワインや強い酒がすぐに彼等を
 幸福な気遣いのいらない雰囲気にする。
 
 畏れも心配も消え失せる。
 
 こうして会合はより重大な事項に
 取組む用意ができる。
 
  彼等は発言を決めて宴会の場に坐す
 
  彼等はパンを食べ飲酒する
 
  甘い酒は彼等の恐れを追払う
 
  彼等は強い酒を飲むに従い喜びを歌う
 
  彼等は極まって陽気となり心は高揚する
 
  こうして彼等の闘士マルドックに向って
 
  彼等の厳粛な決定を布告する
 
 この様子は倭人伝の「会同」記述の終わりに
 
 「人性嗜酒(倭人は酒をたしなむ)」
 
 とあるのに整合しており、
 その「嗜酒」は
 単に飲酒が好きだというのではなく、
 集会においては飲酒しながら
 相談を進めるとの趣旨で、
 メソポタミアの仕様が踏襲されたものである。
 
 この集会は ubshu-ukkina と呼ばれる
 大きな定められた場所で開催されるという。
 
 その ukkin(a) こそ
 シュメル語の「集会」「会議」名である。
 
 『古事記』の天石屋戸の条に
 
 「是を以ちて八百萬の神、於天安之河原、
  神集て、訓集云都度比」
 
 とある。
 
 『日本書紀』には
 天照大神と素盞鳴尊の誓約の場で
 
 「一書曰はく、
  日神素盞鳴尊と天安河を隔てて、
  相對ひて乃ち立ちて誓ひて曰はく……」
 
 とある。
 
 「神道大辞典」には
 
 「アマノヤシカワ天安河、高天原所在の河、
  天八湍、天八十河とも書く、
  群神の集会は多く此の河畔で行われた」
 
 とある。
 
 これらの用語を「神々の集会」の祖地
 シュメルの用語として解釈すると、
 
 まず「安河」は音読で
 「アンカ」で明らかに 
 unken の音写である。
 
 「アマ:天」は 
 an-mah〔天・高い〕で
 「高天原」表記に対応する。
 
 「都度比:ツドイ」は 
 za-dug〔人-たくさん〕で
 「たくさんの人」 が基である。
 
 「安之河原」の「カワラ:河原」は
  ka-bal〔口-交換する〕で「会話する」、
 「安:ヤス」は 
 is〔地〕で「(会話する)場所」
 とすることができる。
 
 このように
 「神々の集会:神集い」は
 メソポタミアが祖地である。
 
 「神無月」「神有月」と
 年に一度神々が集会を開くとの伝承がある
 出雲〔島根県〕にも、
 出雲大社の所在地に「宇迦」との山名地称があり、
 ukkin〔集会〕名が与えられており、
 大社の所在地は
 本来神々の集会の場だったのである。
 
 アズミ族の領域奴国にも集会場はある。
 
 「宇賀神社」〔福岡市中央区大宮〕で
 「宇賀」が ukkin に依る。
 
 なぜそう解釈できるかの理由は
 同社を「高宮」といい、
 周辺に「多賀」との地称が連なるからである。
 
 その「タカ」は
 倭名抄筑前国那珂郡田来郡名を継承するもので、
 dug〔壺〕の音写に依る。
 
 前述した集会の際神々は酒を飲む。
 
 倭人伝の「性嗜酒」とある飲む酒を
 入れておく容器名で、
 この壺は単なる土器製の容器ではなく、
 特別なシュメルでは sakir と呼ばれた。
 
 現糸島市の元岡遺跡から発掘され、
 現在同市の伊都国歴史博物館に所蔵されている
 
 「ひょうたん型土器」 といわれている
 
 瓢を立てた頭部には穴(口)はなく、
 太く脹らんだ胴部に
 大きな穴(口)が開けられている壺である。
 
 この壺は高さが31、
 胴幅22センチメートルの大きさで、
 完全なまま出土したのはここだけで
 その外
 福岡市内の那珂遺跡や
 壱岐のカラカミ遺跡から
 破壊されたものが出土している。
 
 また、
 遠く離れた奈良県桜井市
 三諸山の山の辺遺跡から
 小型ながら概念を同じくする胴に
 大きめの穴が開けられた壺が出土している。
 
 集会の際にはこの器に
 お酒「御神酒」を入れ、
 細い筒〔ストロウ〕を
 穴に差して回し飲みにした。
 
 そうすれば、共同意識が高揚する。
 
 この壺〔タカdug〕が集会に用いられる 
 sakir である。
 
 『古事記』に「安之河原」との表記があった。
 
 「安:ヤス」を「場」との解釈を示したが、
 漢字表記の「安」には興味ある事件がみえてくる。
 
 「安」は第2章(9)の(c)斯馬国」で述べた
 「安野」〔福岡県朝倉郡夜須町〕名と
 「夜須」と同称視される。
 
 実際、
 その周辺に「安川(河)」はある。
 
 現在、
 甘木市内を流れる小石原川は
 「安川」であったらしい。
 
 市名「甘木」にしても前述の通り 
 an-mah 〔天・高い〕で
 「アマハ(き)」である。
 
 その中心市内の甘木地区に
 「須賀神社」が鎮座しており、
 
 同名も集会のための酒器名 
 sakir と判断でき、
 ここで何らかの集会が行われたと教えられる。
 
 どいいう集会かは須賀神社近くに
 「屋須多神社」が鎮座していることで明白である。
 
 同名社は大牟田市八本町付近特有の神社である。
 
 つまり
 邪馬臺国の卑弥呼を傍国の国々の首領が
 参集して相談の上、
 統合の巫女とすることを決めた
 集会の場がここである。
 
 集会での決議後それを記念してか
 卑弥呼の祭場名の聖所を
 ここに奉祭したと判断される。
 
 安川(小石原川)も
 古代には今よりかなり野放図な流れで幅も広く
 須賀神社の鎮座地辺りまで
 「河原」であったのだろう。
 
 邪馬臺国の卑弥呼を〔共和国〕共通の「巫女」と
 決定した首領の一人として、
 夜須町(斯馬国)の長者〔大人〕の様子を
 第2章で紹介したが、
 もう一国の参同者を紹介する。
 
 傍国の斯馬国に
 次いで二番目に記されている国
 「巳百支国」で、
 同国の当該地は
 現嘉穂郡穂波町の「椿」名の地である。
 
 平安時代には今の地名区域に限らない広域が
 「椿荘」との荘園であった。
 
 「巳百支」は漢音で si-pai(po)-gi で
 「ツバキ」はその遺存名といえる。
 
 隣りの桂川町内に「寿命」との町名がある。
 
 これは 
 za-maha〔人・大きい(上位の)〕の音写で、
 「斯馬」 名と同根である。
 
 倭人伝に「大人」とある語義で、
 そこに「首領、長者」がいたと示唆している。
 
 その隣りの地称「中屋」は
 夜須町の「中屋:ナカツヤ」と同じく
 na-gadu-e 〔神殿の神職を指名する〕により、
 「巳百支」国の首領も斯馬国の首領と共に
 「安之河原」の集会に参加し、
 卑弥呼の推薦で活躍したのである。
 
 そして、
 そ の意向が是認されたので、
 その由縁をもって同地に
 「天道」〔寿命の東隣の地称〕と
 邪馬臺国の太陽信仰を
 招来させたと推測されるのである。
  M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

nice!の受付は締め切りました

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。