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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(2)岡田宮・多祁理宮・高嶋宮 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
 
(2)岡田宮・多祁理宮・高嶋宮
 太安麿が纏めた『古事記』の神武東征伝承には
 三ヵ所の行宮が上げられている。
 
 『古事記』はいう。
 
  竺柴の岡田宮に一年坐しき。
  亦其の國より上り幸できまして、
  阿岐國の多祁理宮に七年坐しき。
  亦其の國より遷り上り幸できまして、
  吉備の高嶋宮に八年坐しき。
 
 (a)岡田宮
 
 『日本書紀』には
 
 「天皇、筑紫國の岡水門に至りたまふ」とある。
 
 「岡水門」は
 現福岡県遠賀郡芦屋町芦屋の遠賀川の河口近い
 左岸に「岡湊神社」が鎮座しているので
 その付近を指す。
 
 「岡田宮」も同所近辺にあったことに間違いない。
 
 「岡田」との地称は
 芦屋の対岸浅川地内に字名としてあり、
 この台地がその行宮の地であったはず。
 
 川名も「遠賀」も「岡」と同様
 源語は「オカ」であっただろう。
 
 ギリシャ語の oxos で
 「乗物」ながらここでは「船」である。
 
 よって「岡湊」は「船の停泊地」となる。
 
 但し「岡田宮」名の「オカタ」は
 oxthe で「高み」「川岸」、
 oxthos はまた「川岸」「丘」の語義で、
 浅川の台地に妥当な呼称である。
 
 岡湊神社の上流に「島津」との地名がある。
 
 同称は平安時代の延喜式に
 駅名として載る「島門」の地であるが、
 「シマヅ」は thymazō の音写で
 「尊崇する、崇拝する」で、
 「シマト」はその名詞形の 
 thymaths で「尊崇者、崇拝者」となる。
 
 そして町名芦屋の「アシヤ」は
 osia〔神の掟〕に係わる
 osios〔敬神の、信心深い〕となる。
 
 これらの語義とこれらの語群は
 「東征」 勢力及びその次に続く
 行宮などに極めて重い意義を持つ。
 
 (b)多祁理宮
 
 『日本書紀』に
 
 「安藝國に至りまして埃宮に居します」とある。
 
 安藝國〔『古事記』では阿岐国〕は、
 広島市から西方の広島県域をいう呼称である。
 
 「埃宮」名の「埃」は「ほこり」の字義で、
 これは「エ」ないし「アイ」音の音写で、
 語義から
 この行宮の意義を考え出すには無理がある。
 
 「アイ」はこの東征勢力の言葉
 ギリシャ語に 
 ayo 〔叫ぶ、大声で呼ぶ〕があり、
 同語の音写である。
 
 なぜならば、
 『古事記』が記す「多祁理:タケリ」とは
 同義であるからである。
 
 同義を一字で表わせば「哮:たけり」であり、
 「たける」は「大声でさけぶ」である。
 
 同音もギリシャ語 
 theo-klytos,theo-kyteo の転訛で
 「神に叫びかける」
 「神に呼びかける、祈りを求める」となる。
 
 同類語 kaleo は「呼ぶ」ながら
 「神の名を呼ぶ、呼びかける」である。
 
 これらの用語は「神を崇拝する者」の行為で、
 岡田宮で説明した
 「島津」名の源語と同質である。
 
 安芸国地域内に「アイ」「エ」と訓める地称がある。
 
 広島市の西側廿日市市の「可愛」で
 地名および川名となっていて、
 伝統的には「かあい」ながら「エ」とも称した。
 
 多祁理[埃]宮は
 この海に接した区域にあったと限られる。
 
 「可愛」川の流域に現在「平良」との地区がある。
 
 その呼称は「ヘラ」で和名類聚抄には
 「種箆郷」とあるのに当たる。
 
 「タネヘラ」はギリシャ語
 tana-hrees〔長い橈の船〕に依る。
 
 Tana〔長い、延びた〕と 
 hrees、hris〔橈・櫂〕の合成語で、
 「(かあい)かい」と読んでいるのも、
 日本語に「カイ」「カヒ」と称する源語
 koppi〔橈・櫂〕と同義であるからである。
 
 「カイ」は「カヒ」である。
 
 〔長い橈の船〕とは
 戦さのための船で「軍船」を表わす。
 
 古代ギリシャなどの「戦さ船」は
 速度を速くするため橈で搬ぐ必要から
 多くの橈を備えた。
 
 それを二段橈船、三段橈船といい
 上下に搬手〔ほとんどが奴隷〕を
 段上に並ばせていた。
 
 しかもその橈は比較的長く、
 上段になれば
 海面に届かせるためさらに長かった。
 
 船形も長く細い垂型であった。
 
 これに対し
 商船は円く腹が孕んだ円形で
 風を利用した帆船である。
 
 その軍船のうちの最も大きなものは
 三段式橈である。
 
 廿日市市内に「安品:阿品」との地称がある。
 「アジナ」というが、
 これはギリシャの戦いの女神 
 Athina〔アテネ神〕名で、
 この勢力は「戦い」ながら移動する、
 つまり
 「征服を行いながら東へ征して行く」
 戦闘軍事勢力だったのである。
 
 安品:阿品地区の東方に「佐方」地域がある。
 この「サガタ」は 
 thagatir の音写で「娘」が語義である。
 
 英語の daughter と同じである。
 「娘」とは「処女」で、
 アテネ神が「処女神」として知られるのに
 相応している。
 
 (c)高嶋宮
 
 『日本書紀』に
 
  「吉備國に徒りて入りましき。
   行館を起りて居ます。
   これを高嶋宮と曰ふ。
   三年積る間に舟檝を脩へ、
   兵舎を蓄えて将に天下を平けむと欲す」
 
 とある。
 
 吉備国は
 広島県の東部と岡山県の岡山市辺りから
 西部の地域である。
 
 「東征」の勢力集団は
 「(b)多祁理宮」で解釈したように
 軍船〔多分複数〕を備えた軍団で、
 その軍船によって瀬戸内海の北側を
 徐々に征圧を繰り返して移動したのである。
 
 高嶋宮のあったところはどこかであるが、
 そこは
 岡山県邑久郡宮村藤井の
 「宮城山」と解釈される。
 
 「宮城」名自体、
 天皇が居られる居館〔行宮〕の呼称で、
 そこに鎮座する「安仁神社」は延喜式神名帳の
 備前国邑久郡に載る「名神大」社で、
 その訓に「アニ」とあり、
 ギリシャ語 
 ana 〔王、支配者、領主、指揮者〕であると
 解釈されるからである。
 
 「アニ」は"天皇"を指称するのに十分な理由となる。
 
 同神社近くに「大王寺」が建てられ、
 現在地名となって遺されている。
 
 宮城山は別称を「鶴山」という。
 
 その「ツル」は 
 thura、thuri〔宮城、宮殿〕の音写で、
 「宮城山」と合致する。
 
 安仁神社は「大王の宮城」を継承するものである。
 
 同神社の西方に「片岡」との地称があるが、
 その地区、水門湾の奥に
 水門町となっている地域は
 元「幸島」と呼ばれる島であった。
 
 付近に
 幸崎(こうざき)、
 幸田(こうだ)、
 神崎町(こうざき)との
 地名呼称があることから
 「幸島」も「コウシマ」と呼ばれたに違いなく、
 「高嶋」も「こうしま」にして「幸島」の異字であり、
 「高嶋宮」は「コウシマ宮」と称すべきである。
 
 「水門」は
 「(a)岡田宮」で紹介した「岡水門」にも関係し、
 そこが彼等の船団の停泊地であった。
 
 その当時の古代では、
 幸島が海中の島であったように、
 海が深く安仁神社の宮城山まで切り込んだ地形で、
 穏やかにして安全に船の停泊できる入江であった。
 
 安仁神社は通称として
 「久方(ひさかた)宮」と呼ばれてきた。
 
 この久は「クス」で「アニ(安仁)」と合成すると
 anaks となる ana と同義の「王、支配者」 である。
 
 また同社近く(西大寺一宮)に鎮座する
 滝神社の「タキ」は 
 tagi の音写でまた同義〔支配者〕で
 また「命令を下す者」「戦列、前線」で、
 この戦闘集団は高嶋宮で戦線の準備をしたのである。
 
 『日本書紀』が記す通り
 
 ここで軍備や兵糧を整えたのである。
 
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」
  ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①-1」
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」
 ※岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①-1」

 
  M.K記



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第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力(1)「神武東征」は「崇神東征」 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力
ー崇神天皇と「イリ:人」の勢力ー
(1)「神武東征」は「崇神東征」
 倭人伝の記述の様子によると、
 「倭王」が再び使節を送ったとの記述のある
 魏暦正始4年(243)から
 次の記述の正始8年(247)の4年のうちに
 卑弥呼は死亡したことになる。
 
 卑弥呼の死後男王を立てたが
 国中が服従しなかったので、
 また卑弥呼の一族の壹與(台与)という
 13歳の女子を王に立てたという。
 
 文章の流れからすると、
 その壹與(台与)が魏に使節を送ったのが
 正始8年(247)ということらしい。
 
 よってより正確な推測をすると、
 卑弥呼の死亡は
 紀元245年の前後合わせて3年の間だろう。
 
 「台与」はサンスクリット語の 
 duyo 〔第二の〕音写で、
 彼女を「第二代」の巫女として、
 連合国家が再構築されたものとみられる。
 
 しかし、この連合も3世紀の後半
 〔多分紀元270年頃〕から
 4世紀初めにかけての間に海外から
 武力侵攻して来た勢力によって壊滅させられ、
 邪馬臺国(邪馬台国)はじめ
 傍国諸国の独立も存続が
 あやうくなったものとみられる。
 
 吉野ヶ里遺跡の発掘・再現によって
 明らかになっている長大な「柵」は、
 その外圧から村落を守護するための
 大掛かりな構造物で、
 実際その外圧勢力と戦争を行ったのである。
 
 遺跡内に埋葬された長躯の遺体は
 その敵の犠牲となった者の死体である。
 
 その海外から侵攻し来た勢力とは
 「崇神天皇」及びその和名「御真来入日子印恵」、
 垂仁天皇の「伊久米伊理毘古伊佐知」に
 込められている
 「イリ:入・伊理」人の勢力である。
 
 「イリ」は Ellas 〔ギリシャ〕あるいは
   Ellan 〔ギリシャ人〕の音写で、
 この勢力の祖地が
 古代にエーゲ海を挟んだ東西の地方
 ギリシャにあったことを示している。
  M.K記

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第5章 養蚕と絹(7)伊都国の背景伊都国の背景〔「イト」の語義と由来 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
 (7)伊都国の背景伊都国の背景〔「イト」の語義と由来
 「伊都国」とは魏志倭人伝に記載された国名である。
 
 本書第2章「(5)伊都国」で述べた国である。
 
 前節「(6)」旧約聖書イザヤ書の地の果ての島々」に
 ヘブライ人が作った居留地〔国〕である。
 
 「伊都名」は『日本書紀』仲哀天皇8年に
 「伊覩」と表記されて登場している。
 
 「筑紫の伊覩県主の祖である五十迹手(いそとて)」 
 「~そこで五十迹手をお褒めになられて
   『伊蘇志』と仰せられた。
   そこで時の人は
   五十迹手の本土を名付けて伊蘇国といった。
   いま伊覩というのは訛ったものである。」
 
 この「五十迹手」とある
 「イソトテ」は IShT-YT〔差し出す・手〕で
 「(救いの)手を差し延べる」「~を援助する」。
 
 次の「伊蘇志」は「イソシ」で 
 IZZ の音写で「勇敢、力」ながら、
 ここでは
 「栄光、誉れ」の語義で「栄誉なことだ」となる。
 また「伊蘇」だけみると YShV (動詞形)は
 「入植地を作る」「開拓する」「定住させる」で、
 YShV (名詞形)は「入植地、定住地」となる。
 
 このように解釈してくると
 「伊覩・伊都」の「イト」は、
 離散したヘブライ人が各地に形成した
 「共同体」を表す IDH の音写と判断できる。
 
 しかし、
 その背景にはヘブライ人たちの重要な民族の由来を
 保証するための祈りがある。
 
 つまり IDH と表音が近似する YD があり、
 それは「記念物、記念碑」にして
 「証拠」「証左」が語義であることに係わる。
 
 その経緯を物語っているのが「ヨシュア記」で、
 その物語はかなり込み入っているので略記する。
 
 この「記念物」は
 ヘブライ人の人々がエジプトを脱出し
 カナアン地方などへ入植した後、
 その12支族のうち
 ガド族、マナセ族、ルベン族が
 エルサレムの祭壇とは別に祭壇〔石塚〕を造り、
 他の支族等と争いになりそうになったが、
 最終的にはヨシュアを中心とする他の支族が
 誤解を解いて納得した。
 
 ヨシュアはガド族などに
 「律法と戒め」の記念物を与えたと解釈され、
 ガド族等は
 それは紀元前8世紀のアッシリアへの捕囚や
 その後の放浪の間も彼らの象徴として保持しつづけ、
 「地の果て」にまでもたらし、
 時として石塚〔岩倉・岩山〕を造営したのである。
 
 その記念は彼等の最高に貴重な、
 しかし隠し通さなければならないものであった。
 
  ヨシュア記
  
  第22章10 
   ルベンとガドの人々および
   マナセの半部族は
   カナンの土地にヨルダン川の
   ゲリロトに着いたとき、
   そこに一つの祭壇を築いた。
 
   それは目立って大きい祭壇であった。
 
  第22章34 
   それでルベン族とガド族はその祭壇を
   「まことにこれは私たちの間で主が神で
    あるという証拠だ」と呼んだ。
    (日本聖書協会)
 
 この「証拠」あるいはミルトス社版が
 「証人」としているヘブライ語が ID である。
 
 この ID:証拠〔YDは証人〕こそ
 「伊都〔伊覩〕」の祖語であり、
 特にヘブライの12族のうちの
 ルベン族、ガド族 、マナセ族にとっては
 彼等がヘブライ〔イスラエル〕人の
 仲間であるとの証拠にして象徴なのである。
 
 「祭壇」人が
 ノミを入れた彫み石で組まれたものでない。
 
 自然の石を積み上げた石塚であった。
 
 倭人伝の伊都国の当該地が
 現福岡県の糸島市だとはすでに述べた。
 
 その市内西方「神在」の宮地嶽頂上に
 宮地嶽神社が鎮座しているが、
 その神殿の基壇は石組されたもので
 「石塚」を踏襲しているといってよい。
 
 因みに「宮地」の「ミヤチ」の祖語は MYTV で
 「最高のもの」「最良のもの」を表し、
 「証拠」に係るものが
 その昔奉祭されていたと解釈できる。
 
 これらが証明するところは
 「伊都国」が
 ヘブライ人たちの「居留地」
 だったということである。
 
 前市名であった
 「マエバル:前原」は MIBRA の音写で
 「渡し場」つまり「港」を表し、
 ヘブライ系海洋貿易商船が
 船付けした所となる。
 
 古代紀元前後の頃は玄界灘からの加布里湾が
 今よりずっと内陸まで入り込んでいて、
 「浦志」とか「泊」辺りまで海で、
 湾内は波も静かで船溜りとして
 適しい状況であった。
 
 和歌山県の(現)橋本市辺りは
 紀伊国の「伊都郡」であるが、
 郡内にある町名「九度山」は
 そのような山(岳)名もないことからしても
 「クドヤマ」はヘブライ語の KDYM の音写で
 「東の、東方の」の語義である。
 つまり当地が「東の伊都」との表れで、
 九州の伊都の勢力が
 東方へ伸張してきたことを示している。
 M.K記

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共通テーマ:学問

第5章 養蚕と絹(6)旧約聖書「イザヤ書」の「地の果ての島々」 [日本創世紀]

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《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
 (6)旧約聖書「イザヤ書」の「地の果ての島々」
 「イザヤ書」とは
 旧約聖書のうち預言書と称されるものの
 第5番目の書である。
 
 その内容は3部に分割することができ、
 これまで第1のイザヤ書
 〔第1章から39章まで〕は
 紀元前8世紀に著されたといい、
 
 第2のイザヤ書と称される
 第40章から55章までは
 紀元前550年頃の成立、
 
 第3のイザヤ書と称される
 第56章から66章は
 同じく紀元前515年頃の成立とされる。
 
 ここでは
 特に第2のイザヤ書と称されるもののうちの
 40章から49章までに注目する。
 
 この書は一般に預言書といわれ、
 神の啓示の記述となっている。
 
 しかし、
 その内容にバビロン捕囚事件や
 ペルシャのキロス王名など、
 記述年より後の事件の具体的な
 固有名詞が載っていることから、
 当該書が宗教書としても、
 諸事項(件)発生後に記録として
 留められたとする方が妥当性がある。
 
 これまでのヘブライ学者は
 「預言」との通称にとらわれ、
 それぞれ事件以前の成立とすることに
 こだわってきたのではないかと推測される。
 
 歴史研究家的視点からすると、
 そういう第2イザヤ書は
 紀元前2世紀の終末期から
 同1世紀に記録されたものと、
 少なくとも加筆されたものと考える。
 
 なぜならば、
 その頃西方〔ローマ帝国、地中海東岸〕と
 極東との交易網が
 西方諸国の人々にやっと認知され始めた
 証左がその内容に含まれているからである。
 
 その状況は前章で説明した。
 この第2イザヤ書に興味深い事項がある
 「島々」「地の果て」などがそれである。
 
 以下に注目すべき箇所を
 ミルトス社ヘブライ語聖書対訳シリーズの
 イザヤ書から日本語部分を転載する。
 
  第40章
    15 見よ、
      主は島々を細かいちりのように取り上げる
   28 主は、永遠の神、
      地の果てまで創造された方
 
  第41章
    1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。
      国々の民よ、力を新たにせよ。
    5 島々は畏れをもって仰ぎ、
      地の果てはおののき、
      共に近づいて来る。
    9 わたしはあなたを固くとらえ、
      地の果て、
      その隅々から呼び出して言った
 
  第42章
    4 島々は彼の教えを待ち望む
   10 新しい歌を主に向かって歌え、
      地の果てから主の栄誉を歌え、
      海に漕ぎ出す者、海に満ちる者、
      島々とそこに住む者よ
   12 主に栄光を帰し、
      主の栄誉を島々に告げ知らせよ
 
  第43章
    6 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う
 
  第45章
   22 地の果てのすべての人々よ
 
  第48章
   20 バビロンを出よ、
      カルデアを逃げ去るがよい。
      喜びの声をもって告げ知らせ、
      地の果てまで響かせ、届かせよ
 
  第49章
    1 島々よ、わたしに聞け、
      遠い国々よ、耳を傾けよ
    6 だがそれにもまして、
      わたしはあなたを国々の光とし、
      わたしの救いを
      地の果てまでもたらす者とする
 
  まず、この「島々」を日本聖書協会の
 「旧約聖書」は
 「海沿いの国々」と記している。
 「オックスフォード・ケンブリッジ版」は
  coasts and islands と記している。
 
 それに影響されたのだろう。
 それよりも古い King James Version は
 islands〔「島」の複数形〕とし、
 「島々」と同義である。
 
 ギリシャ語版を載せる
  The Septuagint with Apocryha においても
 νησοι〔nhsoi〕としνησος〔nhsos:島〕の
 複数形である。
 
 やはりヘブライ語版にあるAYYM「島々」というのが
 本来の表記であろう。
 
 また「地の果て」について各英語版とも
 end of earth とし共通している。
 
 この用語のうち「地」は
 ヘブライ語で ARTs で
 英語〔earth〕と近似している。
 
 「果て」はイザヤ書の各表記が
  KTsHT あるいは KTsHT で前者が原型である。
 
 「地の果て」表現は
 ユーラシア大陸の東端〔日本列島〕を想起させる。
 
 紀元前数世紀から西方の関心は、
 東方特に極東への関心が高くなった。
 
 紀元前4世紀の
 アレキサンダー大王の東征の目的は
 アジア〔ユーラシア〕の東端に
 辿り着くことであった。
 
  実際は中央アジアまでで終わってしまった。
 
 イザヤ書のいう「地の果て」は
 明らかにその「極東」をいったものと考える。
 
 そして「島々」とは
 日本列島の西部地域とすることができる。
 
 「果て」である KTsH には
 「端」のほか「はずれ」の概念もある。
 
 大陸から少々はなれていてもかまわないのであり
 「島々」とはその「地の果て」の「はずれ」に
 あるものとすることができる。
 
 イザヤ書はそこに国々があると知らせている。
 
 KTsH の発音は「クェツェエ」であったと考えられ、
 これは「クシュウ:九州」の祖語とみられる。
 
 「州」とは「国」である。
 
 「島々」とは
 日本の九州を中心とする
 諸島々を想定して言われたことになる。
 
 このヘブライ語の「果て」を原語とする地称が
 九州のシナ海〔日本海〕方面にはある。
 
 例えば鹿児島県加世田市名は
 KTsHT の音写であるし、
 串木野市名も KTsH-KNP〔果て-果て〕で
 「果ての果て」となり、
 いかにも「極地」らしい。
 
 長崎県の「口之津」も「クチノ」 KTsNI の音写で
 語義を同じくする。
 
 この「島々」の情報は
 イザヤ書第42章10に登場する
 「海に漕ぎ出す者」あるいは
 「海に満ちる者」と
 海洋航海に生きる交易商人たちが
 海路を経てもたらしたものとみられる。
 
 つまり、それらの記述は、
 その頃ヘブライ人の海洋商人たちが
 「地の果て:極東」へ
 達していたことを明白たらしめているのである。
 
 その続きに「島々とそこに住む者よ」と
 すでにそこに
 ヘブライ人が居住しているといっている。
 
 さらにそればかりでなく、
 第43章6の「地の果てから連れ帰れ」
 と述べていることからも同様に、
 「地の果て」には
 ヘブライ人がすでに居住していたといえる。
 
 それが「国々」である。
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(5)ギリシャ語資料にみる東方の絹の産地 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー
    
(5)ギリシャ語資料にみる東方の絹の産地
 古代に絹が東方から内陸中央アジアを越えて
 西方のギリシャ・ローマへ
 知られるようになったのは
 紀元前1世紀頃からである。
 
 そしてギリシャ語資料に
 「セリカ」「セレス」といった
 絹やその産地を指すおぼろげながら 
 知られるようになった。
 
 「セリカ」名がギリシャ資料に出始めたのは、
 ギリシャ人地理学者プトレマイオスかららしい。
 
 さらに紀元後1世紀になると
 今度は東方から海路インドを経て
 大量の絹製品がローマ帝国へ輸入され始めた。
 
 当時の高位政治家や豪商が愛好するところとなり、
 あげくにはローマ金貨が代替としてインドへ
 多量移送され、
 2世紀に入るとローマ帝国の経済を
 圧迫するほどになった。
 
 その紀元1世紀にエジプトに居た
 東方海洋貿易商人がギリシャ語で
 紅海、アラビア海、インド大陸の海洋貿易港、
 そしてさらなる東方の交易網をまとめて紹介した。
 
 それを村井堅太郎氏が
 「エリュトラー海案内記」〔中公文庫〕として
 翻訳出版している。
 (a)絹の産地セリカ
 これは伝説である。
 
 史記「封禅書」に次のような記載がある。
 
 明治書院漢文新釈大系から取る。
 
  〔三神山〕(斉の)威王・宣王、燕の照王から、
  人をやって海に入り、
  蓬莱・方丈・瀛州(という三つの神仙)を
  さがさせるということがはじまった。
 
  この三神仙は、言い伝えによれば、
  渤海のなかにあって、
  さほど遠いところではない。
 
  ただ、今にも行き着くかと思うと時に、
  船が風に引かれるままに、離れてしまうのが、
  いかにも残念なのである。
 
  つまり、
  昔には行きつけていたものがいたようで、
  そこにはもろもろの仙人達もおれば、
  不死の薬もあって、
  そこにあるもの鳥、獣まで白一色で、
  黄金と白銀とで宮殿をつくっている。
 
  そこまで行かぬうちに
  遠く望めば雲のようであり、
  そこまで行ってみると
  三神山はかえって水の下にあり、
  それを 覗き込むと、
  決まって風が船を引いて離してしまい、
  結局、誰も行き着くことができなかった。
 
  という。 
 
 このような情景は、現代の知識で解釈すると、
 蜃気楼を反映させたものであることが
 容易に推察できる。
 
 斉国は「禹貢」にいう青洲、
 山東半島地域に周の時代
 紀元前7世紀から3世紀まで、
 秦が九州を統一するまで続いた侯国で、
 渤海湾に面している。
 
 そのためシナ海方面の情報を得ていたものである。
 
 三神山名について、
 現在どの地を指しているのか明らかでない。
 
 蜃気楼との解釈を含めて、
 あくまで伝説といわざるを得ない。
 
 三神山については、
 史記「秦始皇帝本紀」にも
 
 「海中の三神山有り、
  名づけて蓬莱、方丈、瀛州といふ。
  僊人之に居る」とある。
 
 僊人は仙人であろう。
 
 史記が成立したのは紀元前1世紀のことで、
 これらの情報はそれ以前のものといえる。
 
 ここで注目したいのは
 
 「黄金と白銀とで宮殿を造っている」
 
 という一節である。
 
 白銀の「白」は
 清時代の解釈により入れられたもので、
 本来は「銀」であったらしい。
 
 この伝説が漢の時代になって渡来するようになった
 インドの商人たちに伝えられた痕跡がある。
 
 それが、
 また西方のローマへ伝えられることとなった。
 
 古代ローマの
 ポンピニウス・メラガクラウディウヌ帝
 (紀元41-54年)に
 東方の絹の産地について書いたものの中に、
 セリカの南のインドの辺りに
 二つの新しい島があって、
 その名前がクリゼ島とアルジレ島である、
 という。
 
 そして
 
 「名前が事実からか、
  いい伝えが名前からか、
  どちらにしても、
  その土地の一方が金で出来ていて、
  もう一方は銀で出来ている」
 
 と述べている。
 
 クリゼ島名はギリシャ語の 
 χρυσός krisos(金)、
 
 アルジレ島名は 
  ασήμιargiros(銀)に依拠する。
 
 また、サンスクリット語の 
  krśana(黄金、宝石) 、
 arjuna(銀、銀の、白い) に対応する。
 
 これらは伝説に始まったことであり、
 比定地を想定することは無意味である。
 
 だが、
 情報の伝播を推測させる話である。
 
 しかし、
 セリカは確かな地域名として想定されていた。
 
 セリカ名は、
 ローマ時代の地理学者が絹に係わるインドより
 東方(オリエント)の用語として記述している。
 
 ラテン語 sērica は「絹地、絹織物」を表わす。
 英語の silk の原語で
 日本語にシルクとして知られる。
 
 また同類の 
 Sēr、Seris、Sēres も絹の産地に
 係わる用語として知られる。
 
 紀元140年頃作成され
 プトレマイオスの世界地図は
 インド亜大陸、セイロン島(Taprobana)、
 ビルマ地域、マレー半島、
 インドシナ半島からトンキン湾辺りまでから
 推察されるような構図となっている。
 
 トンキン湾の北方シナイ(Sinae)名、
 そしてその上方(北方)に
 セリカ serica 名がつけられている。
 
 シナイはティナイ Thinae を都としていると
 伝えられている。
 
 この地名は前漢の時代雲南省にあった
 滇国(Dian)名に由来すると見られる。
 
 倭語である日本語での読みは「シン」である。
 
 また、
 セリカは書経「禹貢」などで見た東シナ海に面した
 兗州から揚州までの絹の産地を
 いったものと考えられる。
 
 しかし、紀元2世紀の前半においては、
 東方の地理について詳しい情報は
 西方へ伝わっておらず、
 その陸地の様子が不明であったことを
 プトレマイオスの世界地図は示している。
 
 この時期紀元1、2世紀には、
 海路を通じて大量の絹製品が
 東方からインドを経由して
 西方ローマへ運搬されていた。
 
 東方での担い手はインドの商人が中心であり、
 漢の商人も一部参加していたことが
 漢書「地理志」に依って窺われる。
 
 そして、
 絹の主な取引地域が
 東シナ海沿岸であったかもしれないが、
 彼等の交易網が韓半島、
 九州にも広がっていたと考えられるのが
 「三国志魏書倭人伝」などの史書で確認される
 絹の産地の広がりである。
 
 そればかりではない。
 
 沖縄などの島々は
 商船の停泊地としての役目を
 果たしていたと見られるのである。
 
 (b)セリカ名の由来と遺称
 
 ラテン語 sērika(ca) は
 絹製品の総称と考えられるが、
 絹をなぜセリカというのだろうか。
 
 その産地であるシナでは
 「絹」は juán 、
 絲綢 si-chóu など
 絹糸を表わす絲は si で
 その語源を漢語に求めても無く、
 最近は中国語は求めることを止め、
 朝鮮語の sir やモンゴル語に求めた
 見解などが出ている。
 
 モンゴル語に求めるのは
 時代の隔たりから無理であり、
 朝鮮語とするのは後述するように移入であり、
 祖語となるものではない。
 
 本当のところ、
 セリカは
 サンスクリット語の 
 śailika の音写である。
 
 その意味は「石」で 
 śaila (石、石よりなる) と同義である。
 
 Śailika は
 繭を「石」と比喩的に形容した名称であり、
 インド商人が通称とし、
 その用語を使い始めたものと考える。
 
 ただし、上質の繭は固く、
 手で潰そうとしてもなかなかへこまない。
 
 石のような感覚がし、しかも重い。
 
 沖縄県浦添市に「勢理客」という地名が
 安謝川の河口一帯にある。
 
 沖縄の呼称ではジッチャクというが、
 本来「セリカ」と考える。
 ここは交易商船の寄港地であったと見られる。
 
 「勢理客」名は国頭郡本部半島今帰仁村の
 勢理客(セリームキャク)、
 伊是名島の同名地区があるほか
 名護市の世良慶、恩那村の瀬良垣とある。
 
 また
 鹿児島県大島郡沖氷良部島の
 瀬利覚も同様である。
 
 さらに
 宮古列島の石垣島も祖語を同じくすると考える。
 
 このように
 西南諸島にセリカの遺称が多く残ることは、
 ここが絹取扱い商船の寄港地として
 重要であったとことを物語っている。
 
 まるで、
 セリカの南にあるという伝説の島、
 グルビ島とアルジレ島のようである。
 
 この勢理客が絹と係わることは
 次のような状況からも判断できる。
 
 浦添市の勢理客と那覇市の境を流れる川を
 安謝川といい、安謝の地名もある。
 
 この地名は
 サンスクリット語の「光、光明」を表わす
 amśu の転訛である。
 
 A(m)śu を語幹とした a(m)śuka は
 「布、衣服」を意味し、
 漢訳では「絹、絹羅」とされている。
 
 これは 
 a(m)śu-paṭṭa が市を表わすことによる。
 
 国頭郡今帰仁村の勢理客の南側には
 天底地区があるが、
 これは a(m)śuka の音写であり、
 北側の越地は繭を表わす kośa を祖語とする。
 
 このように勢理客は絹に係わる地名である。
 
 鹿児島湾の別称は錦江湾である。
 
 「錦」は絹織物の一種、
 布を織る工程で絵柄を織り込んだものをいう。
 
 湾岸に絹の産地があったことになる。
 
 石垣(セリカ)名は揖宿郡頴娃町にある。
 
 まず、注目するのは
 姶良郡加治木町に代表される一帯である。
 
 「カジキ」は
 サンスクリット語の「絹、絹布(帛)」を表わす
 kauśīka の音写である。
 
 町内の反土(たんど)は反物などに係わる
 tantu(糸)、tan(織物を擴(す)く)を祖語とする。
 
 また反土の西側に位置する木田は「キタ」で
 kita(蚕)の音写で、
 地区内にある隅姫神社の「クマ」は
 krmi の転訛で蚕を表わす。
 
 反土には小鳥神社が鎮座し、
 その北方に薬草を意味する
 ośadhi である小山田地区があり、
 インドの医薬・健康に対する
 信仰文化が浸透したことを示している。
 
 この一帯は明治29年までは
 「和名類聚抄」にもある「桑原郡」であった。
 
 つまり養蚕の地であったのである。
 
 (c)セレスと青龍
 
 セリカ sērika(ca) とともに
 ラテン語で ser、seris、
 ギリシャ語で Σηρ、Σηρος 
 と表現される用語について
 触れておかなければならない。
 
 これらは、
 そこから絹を入手したアジアの種族名で、
 シナ人の呼称とされている呼称である。
 
 この用語の語源についての追求もされてきたが、
 確定されるまでに至っていない。
 
 これもセリカ同様、
 漢語の絹商品に係わる用語に
 語源を求めることはすでに止められ、
 朝鮮語やモンゴル語に求める
 見解があることを既述したが、
 モンゴル語に設定するのは理屈が通らない。
 
 朝鮮語の絹は絹を表わす 
 sir は
 斯盧、新盧、新羅と表記された。
 
 サンスクリット語
 sila〔石〕が祖語である。
 
 しかし、
 斯盧が韓半島の南部に表れるのは
 紀元後のことで、
 セレスが史料に表れるのが
 紀元前2世紀であることを考慮すると、
 これに由来するとするのは難しい。
 
 海路を経て西アジアへ伝えられた
 「絹」名はセリカである。
 
 これに対し、
 セレスは内陸、中央アジアを経て
 西アジアへ伝えられた
 絹を生産する人々の名称である。
 
 ジャン・ノエル・ロベールは
 「ローマから中国へ」の中で、
 ローマの地理学者ストラボーンが
 バクトリアの王(メナンドロス)が
 
 「彼の支配をセレス人にまで及ぼした」
 
 と記述し、
 それは
 別の地理学者アポロドロスに
 依ることを述べているので、
 アポロドロスは紀元前1世紀の初めに
 セレス人について言及していたと述べている。
 
 メナンドロスは紀元前180年頃バクトリアに君臨し、
 163年頃には
 パンジャブ地方〔インド西部〕へも勢力を伸長した
 ギリシャ人の王の中で最も強盛な王で
 「ミリンダ王」である。
 
 紀元前1世紀の初めに
 ローマの地理学者
 セレスの存在を知ったことになる。
 
 そこで想起されるのは月氏の西遷である。
 
 彼等は紀元前176年に
 甘粛省の安定から匈奴に追われ西遷を始め、
 紀元前138年には
 バクトリアに到着し定着を始めたとされる。
 
 紀元前2世紀の後半に移動したのである。
 
 第六章 月氏と秦氏でみたように彼等こそ
 絹貿易の仕掛人と考えられるのである。
 
 月氏は安定(地名)辺りで和氏
 〔第1章の(5「和氏」及び「羲氏」)〕と
 接触していたに違いない。
 
 和氏は絹の技術知識を持って
 安定(地名)の地、
 三危山の麓へ移っていたのである。
 
 嫘祖伝承により「和夷」である阿泥族の故郷
 四川省西方の高原が
 「蠶」の発祥地であることはすでに述べた。
 
 川西高原を流れる現在の大渡河は明の時代まで
 峨水あるいは和水と表記された
 和族(氏)の居住地であった。
 
 「禹貢」の「和夷」を
 この和水の流域に住む夷族と解釈するのが
 シナの古典的理解であった。
 
 しかし、
 現代になって少数民族の研究が進み「和夷」を
 阿泥族とするのが一般的理解となっている。
 
 涼山彝族自治省を流れる川に安寧河があるが、
 この河はかって阿泥河であった。
 
 安寧は阿泥の転換であることが解かる。
 
 大渡河の上流大金川沿いに「安寧」の地名がある。
 阿泥(和)族の遺称地である。
 
 山海経「海内経」には次のようにある。
 
  西海の内、流沙の中に国あり、名は壑市(かくし)
  …中略…
  流沙の東、黒水の西に朝雲の国、
  司彘(してい)の国あり、
  黄帝の妻、雷祖は昌意を生む。
 
 雷祖とは嫘祖のことである。
 
 国水はアハチベット族自治省を流れ
 岷江に合流する黒水河のことで、
 その西とは大渡河(和水)の上流大金川流域である。
 
 つまり嫘祖は和族(氏)の出であることを
 ここでも解いているのである。
 
 このような考察及び韓半島、
 日本の倭族の養蚕に対する記録によると、
 安定(地名)へ移された「和氏」は
 十分に絹の知識を持っていたことが解る。
 
 和氏と同居した月氏は、
 和氏から紀元前2世紀のうちにその情報を獲得し、
 牧畜民〔温帯地帯型羊飼い〕から
 絹商人へと転換したのである。
 
 彼等の運んだ絹商品が
 パルチアを経由してローマに到達し、
 ローマの貴重品となったのである。
 
 セレスとは絹を扱う商人達ではあるが、
 その生産地の人々をいうものと
 ラテン語、ギリシャ語では理解されているので、
 四川盆地辺りの人々ということになる。
 
 紀元前2世紀頃の
 蜀の主要民族は「和夷」であった。
 
 そして彼等の「蠶」の神として崇拝されたのは
 「天叢氏」の青衣神、
 西王母の乗物となる「青龍」であった。
 
 特に蜀が「青龍」の地となっていたことは、
 「青龍」の地名龍門山、龍泉山の山名などにより
 理解ができる。
 
 つまり、
 セレス seris は、
 「青龍」sha〔tshie、tsie:緑〕-lu〔龍〕の
 転訛と考えられるのである。
 
 和人〔倭人〕の後裔である日本語訓(よ)みでは、
 これを sei-ryu といい、より seris に近い。
 ストラボンはセレスは紅毛で碧眼であったと
 記述しているところみると、
 絹を商品として取り扱っていたのは、
 単に和族だけでなかったことが窺われる。
 
 月氏は紅毛碧眼の民といえないだろうが、
 流通に他の複数の種族(ソクディア人)が
 係わっていた表われであろう。
 
 紀元前2世紀になっても
 東方の絹の生産地について
 ローマでは詳しいことを解っていなかった。
 
 当時マケドニアの商人
 マエスが陸路「絹の国」へ至ったという。
 
 彼はそこをセリカといったが、 
 そこに15の町があり、
 首都をセラ Sera といったという。
 
 この sera も青龍を原語とするとみられる。
 
 セレスは青龍の転訛と考えられるのである。
 
 そのほとんどは紀元後の史料となるが、
 タクラマカン砂漠の周辺から
 ソグディアナ〔中央アジア〕の一帯で
 養蚕が行われた記録と
 実際の絹製品が遺物として残されている。
 
 その大生産地が
 現在ホータン(和田)という
 タクラマカン砂漠の西南の町である。
 
 そこはクシャン王朝の王家の発祥地でもある。
 
 クシャン(貴霜)名の語幹について
 繭を表わす kosa があることが指摘される。
 
 そのギリシャ語市名 
 Kustana、Kothan などの
 祖語も kosa(繭) にあるといってよいと考えられる。
 
 漢の時代の「蚕種西遷」伝承や
 現在においても絹の生産が盛んであることをみると、
 桑の生育に適した環境といえよう。
 
 中央アジアからトルコにかけて繭、絹は現在でも
 kosa と呼び慣らされている。
 
 西王母の故郷として
 カシミールまで考えられているのは、
 青龍である蚕が西方にも
 広く飼われるようになったことにもよる。
 
 古代ローマでは、
 シナのことを
 「セリカ(絹の国)」とよんだように、
 シナの絹織物は、
 古くから陸路を経て遠く運ばれた。
 
 シリアのパルミラから出土した
 漢代の錦・綾・綺(にしき あや あやぎぬ)など、
 交易路の各地点より出土した
 漢代から唐代にかけての多量の絹織物は、
 それを伝えている。
 
 しかし、
 シナは製品の絹織物を輸出しても、
 蚕種(さんしゅ)(蚕の卵)の
 国外への持ち出しは
 かたく禁じていた。
 
 そのため、こうした地域には、
 蚕種の西方への伝播にまつわる
 いくつかの伝説が残されている。
 
 タリム盆地のホータンにある
 この地に嫁ぐ王女が蚕種を
 帽子の中に隠して伝えたという
 蚕種西遷説話が描かれている。
   M.K記

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第5章 養蚕と絹(4)漢書の海洋交易網 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

  (4)インドの海洋交易商人
 シンハリ族が現在のスリランカに移民し、
 国を開いたのは紀元前4世紀のことという。
 
 彼等はヒマヤラ山脈の麓の民族といわれ、
 アラビア海のカンベイ湾方面から船で航海し
 セイロン島に辿り着いたとみられている。
 
 一族を大量に運ぶ船の能力は
 大きいといわざるをえない。
 
 その当時すでに
 インドの航海術は沿岸航海にしても
 質量ともに高いものがあったに違いない。
 
 インドの西方メソポタミアとの交易が、
 史料で明らかになっているのは
 紀元前二千年紀からである。
 
 その当時の交易の担い手は
 ヤーダヴァ族であったと考えられる。
 
 そして紀元前3世紀頃になると
  アーリア人の海洋交易商人が登場し、
 彼等は同業者組合 shaba を組織し、
 活発に海外貿易に乗り出すようになった。
 
 紀元後には遠洋航海についての記述も
 仏教経典などの史料にみられるようになる。
 
 大海に入って貿易することは最大な利益を生み、
 末代まで楽に生活できる富を得られるとか、
 貧しい人々の生活を改善するためには
 海外貿易を行って得た財力で
 策を講ずるなどの記述がある。
 
 また、遠洋航海のための労働者が育ってきた。
 
 中村元氏の「インド古代史」には
 「増壱阿舎経」に載る
 ベナレスの商人の物語が紹介されているが、
 そこに航海技術者として
 
 「諸々(もろもろ)の船舶を備え、
  また五人を雇いぬ。
  其の五人とは、
  一は船を執り、
  二は棹を指し、
  三は漏るるを杼(く)み、
  四は沈み浮かぶことに善巧にして、
  五は船師なり」
 
 とある。
 
 インドの海洋貿易商人は
 サンスクリット語で vānika と呼ばれたが、
 商人は vanija で売買をして
 生活する者というのが語幹となっている。
 
 この vani- を祖語とした伝説が
 東南アジアにあるワニ伝説である。
 
 海洋貿易商人が航海に使う船舶は
 yana-pātra と特別視されたが、
 船の総称は nauaka, nāvā で
 ギリシャ語でも nau と語源を同じくする。
 
 船乗りたちは nāvāja, navika と呼ばれた。
 
 インドの商人たちが海路
 東アジアに向かって中国へも活動の範囲を
 拡げていたことを明らかにする仏典がある。
 
 それは「ミリンダ王の問い」と訳されている
 Milinda pañha で、
 その第二編第九章に、
 次のような節句がみられる。
 
 東洋文庫の同名書から転載する。
 
  大王よ、たとえば、港において
  <貿易の>利得を得る富裕の船主が、
  大海に乗り出して、
  ヴァンガ(ガンジス河下流)、
  タッコーラ(北アルコット地方)、
  チーナ(支那)、
  ソーヴィーラ、
  スラッタ(カーティヤーワール半島)、
  アラサンダ(アレキサンドリア)、
  コーラ(コロマンデル)港、
  スヴァナブーミ(金地国、ビルマ沿岸地方)、
  へ行き、
  また船の航行するところは
  どこにでも行くごとく、
  大王よ。
 
 
 以下は教義の解釈に関する説明になるので略す。
 
 ここにチーナ(支那)が現れ、
 貿易航海者たちが中国沿岸まで
 達していたことを示唆している。
 
 ミリンダ大王とは、
 アレキサンダー大王に率いられて
 紀元前4世紀に
 中央アジアまで遠征してきた
 ギリシャ人たちが創建した
 バクトリアの紀元前180年頃
 ヘレニズム勢力が最も強盛であったとされる
 メナンドロス王のサンスクリット語名である。
 
 彼の出身であるとみられ、
 バクトリア朝の支配的ギリシャ王
 オーディドーモス家は
 小アジアのスミルナを中心とする
 イオニアの出身であったと伝えられている。
 
 「ミリンダ王の問い」は
 このメナンドロス王と仏教の尊者
 ナーガとの間の対話の形式で、
 ギリシャ的見地からの質問に
 仏教思想を説くことを主旨としている。
 
 メナンドロス王はチーナにも支配を及ぼした
 との記述が別の史料にはあり、
 中央アジア方面のタリム盆地へも
 一時勢力を伸ばしたのではないかと
 考えられている。
 
 上記の記述はしかしながら
 同王の生存中の実話とは
 専門家たちはみていない。
 
 経典の成立を紀元1世紀と推測しており、
 貿易商人が活躍し、その到達した地名も
 その当時の情報に依るものと解釈される。
 
 ➀ヴァンガ:Vanga
 
 史料(叙事詩)に アンガ Anga とは
 一つの郷国を形成していたとの表現があり、
 ガンジス河下流との判断がなされる。
 
 ②タッコーラ:Takkola
 
 東洋文庫は上記のように
 北アルコット地方としているが、
 この比定には疑問が残る。
 
 サンスクリット語の同語は
 「芥子(からし)」で
 カラシナをいい、
 その実を粉末にして唐芥子を作る香料である。
 
 主な産地は東アジアであり、
 南シナ海以北のアジア地域を
 想定することができるのである。
 
 ③チーナ:Cina
 
  明らかに支那で
 南・東シナ海沿岸のうちと解釈できる。
 
 ④ソヴィーラ:Sovira
 
 同名はアヴァンティの王朝に関係して
 
 「カーティヤワール半島の北方、
  ラージプーターナー地方の南方に
  サウヴィーラ(Sovira、Sauvira)国があった」
 
 と仏典が伝えていると
 
 水野弘(仏教研究)
 
 「初期仏教の印度に於ける流通分析に就いて」で
 
 紹介していると「インド古代史」で
 述べられていることから、
 西インドのアラビア海に面した
 地域とすることができる。
 
 次のスラッタと近接する。
 
 ⑤スラッタ:Surrattha
 
 西インドカンベイ湾の入口に現在あるSuratである。
 
 ⑥アラサンダ:Alasanda
 
 アレキサンドリアのことで、
 マケドニアのアレキサンダー大王が
 遠征中に各地に造った都市名で
 エジプトのアレキサンドリアが
 現在最も有名であるが、
 
 「ミリンダ王の問い」に載る所は
 
 彼の軍隊が中央アジアからインダス川を下り、
 その河口付近で一年をかけ
 軍隊を乗せる船を建造した港、
 当時のゲドロシア、
 現在のカラチ辺りとするのが妥当とみられる。
 
 ⑦コーラ:Kolapattana
 
 東洋文庫は
 インド亜大陸の東海岸コロマンデルとしている。
 
 Kolaには猪つまり豚と筏(船筏)との二つがあるが、
 ここでは後者の意味で
 pattana が都市、町の意味であるため、
 同文庫はコーラ港と訳している。
 
 それを考えると、
 コロマンデルとすることには疑問が残る。
 
 ⑧スヴァ―ナブーミ:Suvanna-bhumi
 
 「黄金の土地」の意味で金地国となる。
 
 この比定地も
 ビルマ沿岸地方としているが疑問である。
 
 本書の第4章の(1)で説明した「黄金郷」、
 つまり邪馬台国の地が
 その当該地だったともいえる。
 
 インドの海洋交易商人(vanīka)たちは
 何を求めてチーナまで遠路航海したのだろうか。
 
 その主な商品は絹である。
 漢書地理志の
 漢の商人の航路知識を紹介したなかに
 
 「黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた」
 
 とある。
 
 また、
 紀元前2世紀の記録「史記大宛列伝」の張騫が
 中央アジアの大夏で見出した「蜀の布」は絹であり、
 蜀(四川省)から身毒(インド)へ蜀の商人が運んで、
 中央アジアへもたらされたものであった。
 
 当時よく知られた織布のうちにはシナ製の布
 pattanna eina paṭṭam や
  絹布 koseyyam の名称があった。
 
 これらの名称は、西方のギリシャ商人たちが
 シルク(セリカ・セレス)名を獲得する
 以前の名称であると考える。
 
 大宛伝の伝承は、
 インドでは当初、蜀の地である
 四川盆地から雲南省、 
 ミャンマーの陸路を経て
 絹を入手していたことを物語っているのである。
 
 R・S・シャルマが「古代インドの歴史」で
 インドの東海岸で絹を入手して
 西海岸へ陸路運んだ、
 と述べるのもそのような
 交易網の理由によるものである。
 
 マラッカ海峡を越えたインドの商人たちは、
 そのうちに単に寄港するばかりでなく、
 沿海航路の要地に
 自分たちの植民都市を開くようになる。
 
 それが、現在のカンボジアの扶南や
 ベトナム中部のチャンパ(林邑)で、
 これらは紀元1世紀には
 その始めが置かれたみられ、
 2世紀になると国としての
 構成が整えられていく。
 
 そして絹の生産地に置かれた
 基地が山海経のいう
 朝鮮の隣にある「天毒」である。
 
 そこで問題は、
 インド商人が求めた絹の産地とはどこかである。
 その答えはすでに第1章で明白にした。
  
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(3)漢書の海洋交易網 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

 (3)漢書の海洋交易網
 すでに第2章で述べたとおり、
 山海経は朝鮮の近くに
 インド〔天毒〕のような国
 あるいはインド人の国があるといっている。
 
 とすると、
 インド亜大陸と朝鮮のある東アジアとの行き来が
 紀元前後には実際あったとの推測が出てくる。
 
 まず漢の史料にその海路についての
 当時の情報が記載されているので紹介する。
 
 『漢書地理志』がその史料で
 「粤(おつ)国」に続いて延べられている。
 
 粤は越と同義で
 漢の時代には南シナ海に面する地域で、
 前漢時代の紀元前111年には
 現在のベトナムのホイアンに
 日南郡を置くなど漢は勢力を伸ばした。
 
 『漢書地理志』は
 紀元2世紀の著述とされている。
 
 その海路の解説部分を
 
 東洋文庫の
 
 「漢書食貨・地理・溝洫志」から転載するが、
 合浦及び徐聞は広東省の雪洲半島の境で
 儋耳(たんじ)と珠厓(しゅがい)は
 海南島の港町(郡名)である。
 
 海南島も紀元前111年に漢によって属州とされた。
 
 合浦や徐聞から南に海に出ると大きな州に出会う。
 
 東西南北一辺が千里もあり、
 武帝の元封元年、攻略して儋耳・珠厓両郡とした。
 
 住民は大風呂敷のような一枚の布を身につけ、
 真中に穴をあけてそこから頭を出す。
 
 男子は農耕を行い、禾稲や紵麻を種え、
 女は蚕を飼って機を織る。
 
 (中略)
 
 元帝の時代とうとうここを放棄した。
 
 日南郡の陣塞や徐聞、合浦から
 五ヶ月ばかり行くと都元国がある。
 
 また舟で四ヶ月ほどで
 邑盧没国(ゆうろぼっこく)があり、
 さらに二十日あまりで諶離(しんり)国がある。
 
 そこから陸路十日あまりで夫甘都盧国に達する。
 
 夫甘都盧国から舟で二ヶ月以上行くと黄支国で、
 住民の習俗は珠厓とほぼ似通っている。
 
 その州は広大で人々も多く珍しい物が多い。
 
 武帝時代より、いずれも貢物を携えて来見した。
 
 訳長がいて黄門に属し、
 募集に応じた者とともに船出して
 明琭、辟流璃(へきるり)、宝石や
 珍奇な品物を購わんと、
 黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた。
 
 行く先々の国々では、食事に女性がはべり、
 蛮夷の商船がリレー式に運んでくれる。
 
 だが、
 取引の利益をめぐって、剽掠(かすめ)られたり、
 殺されることもあり、
 風波に悩まされて溺死したりする。
 
 さもなくば数年たって帰国し、
 周囲二寸もある珠玉をもちきたる。
 
 平帝の元始年間、王莾(おうもう)が政権をにぎり、
 その威徳を輝かそうと黄支国に莫大な贈物をもたせ、
 生きた犀を献上するよう使者を遣わした。
 
 黄支から舟で八ヶ月ほどで皮宗に到着し、
 さらに海路二ヶ月で
 日南、象林地方に到着するといわれる。
 
 黄支の南に已程不国があるが、
 漢の訳使はそこで引き返す。
 
 ➀都元国 
  (日南郡、徐聞、合浦から海路五ヶ月ばかり)
   シンハラ国(現スリランカ)の港
   Dehiwala と考えられる。
 
   サンスクリット語で名の Tamaraparna 
   ギリシャ語名で Taprobanes として知られた。
 
 ②邑盧没国:ゆうろぼっこく
  (都元国から船で四ヶ月ほど)
   インド亜大陸西海岸、
   古代名 suroarka (港町)に比定される。
 
   Sur は美称で、パラカに対応するが、
   現在のムンバイ、
   かってボンベイといわれた市近くの港 
   Alibog がその遺称とみられる。
 
 ③諶離国:しんりこく
  (邑盧没国より船で二十日あまり)
   surat のことで、
   紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。
 
   諶離は shila の音写と考える。
 
 ④夫甘都盧国
  (諶離国から陸路十日あまり)
   当時ペルシャを支配していた
   ぺルチア王国の首都 
   Hecatonpylos のことである。
   同市は内陸カスピ海の南東に位置する。
 
   インドの sura-shila から
   陸路で十日では到達できない。
 
   その表記に「十日」あるいは
   「何十日」などの
   誤写か欠字があるとみられる。
 
 ⑤黄支国
  (夫甘都盧国から船で二ヶ月以上)
   船で二ヶ月以上行くとは、
   ヘカトンピロスから
   カスピ海の東岸から船出して西岸にいたる
   旅程を含むものである。
 
   現在の Bandar-shah から 
   Bandare-Pahlavi 方面の水上交通は
   現在においても重要な航路である。
 
   黄支は
   紀元2世紀当時ローマ帝国の支配下にあった
   Antiochiya のことで、
   現在の Antakaya を指すとみられる。
 
   黄支は ochi の音写である。
   漢書大宛て列伝では「条枝」と表記された。
 
   これはアンチオキアに主都を置いていた
   セレウコス Seleuucos 朝名の転訛である。
 
   同市はローマの東方支配の拠点都市であった。
 
   ヘカトンピロスから
   カスピ海の水路と陸路を合わせての
   行程と解釈される。
 
 ⑥已程不国(黄支の南)
   已程不(いてふ)と解釈すれば 
   Egypt の音写と考えられる。
 
   已程不(きていふ)ないし
   巳程不(していふ)と読めば
   Kithem(旧約聖書創世記に出る)
   Sidon に対応し、
   地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。
 
 ⑦皮宗(黄支から船で八か月ほど)
   アンチオキアから陸路で
   紅海あるいはペルシャ湾に出て、
   海路船で東方へ向かう行程と考えられる。
 
   紀元2世紀頃の主要海路は紅海を経て
   ローマとインド西海岸を結ぶものであった。
 
   皮宗は当時のインド亜東岸の港町 
   Pitha-puran である。
 
  紀元2世紀は後漢の時代である。
 
 大秦王安敦
 (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、
  その献貢物品の内容から疑問も出されている)
 の使節がやって来たのは166年のことで、
 東西の海路による交流が盛んになった時代である。
 
 漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて
 航海に出たとの記述は重要である。
 
 この地理志の西方に関する情報は、
 後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が
 かなり入ってきていたことを示すものである。
  
 M.K記

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第5章 養蚕と絹(1)倭人伝が記す倭の養蚕 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第5章 養蚕と絹》
ー紀元前後西方と極東の貿易ー

 (1)倭人伝が記す倭の養蚕
 
   倭人伝は
 「(倭人が)種禾稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」と記し、
 倭においてその当時紀元2、3世紀において
 養蚕が行われていたことを伝えている。
  
 第2章で述べたとおり「蠶」は「蚕」の本当の用字で
 「縑」は「絹の厚織り布」、
 「緜」は「絹布あるいは絹糸」を表す。
 
 また「正始4年(243)」に
 八人の使節を魏へ派遣した際、
 倭より「倭錦絳青縑緜衣帛布」を献上したとある。
 
 「錦」は「絹織物」の呼称で、
 それに「倭」を付して
 「倭錦」としていることからすると、
 「倭錦」とはシナ〔魏〕にはない
 倭の特有な産品(絹織物)とみることができる。
 
 続く「絳青の縑、緜衣、帛布」は
 すべてこれも絹製品を表わす。
 
 このように倭においては
 単に養蚕が行われていたばかりでなく、
 多様な製品を産んでいたのである。
 
 それぞれには異なった加工技法が
 用いられていたわけで
 その程度もかなりの技術だったはずである。
 
 特に「倭錦」には
 当時の日本列島の国際性を
 証す背景があるので後に述べる。
 

 M.K記
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邪馬台国の性格と卑弥呼(10)神武天皇勢力の東征経路3 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》
  (i) 太陽信仰は大倭経て東国へ
 
 『古事記』は
 「神八井耳命」の後裔として
 次のような族類を記載している。
 
 その名称の由来について
 確信のあるものには追記する。
 
  (1) 意富臣ー多氏<大和国十市郡飯富郷>
 
  (2) 小子部連
 
  (3) 坂合部連
 
  (4) 火君ー肥国<熊本県:肥後国>
 
  (5) 大分君ー<大分県>
 
  (6) 阿蘇君ー熊本県阿蘇郡
 
  (7) 筑紫三家連ー三毛郡・
     御木国<福岡県大牟田市>
 
  (8) 雀部臣
 
  (9) 雀部造
 
  (10) 小長谷造ー長野県長野市:長谷神社
 
  (11) 都祁直
 
  (12) 伊予國造ー伊予国<愛媛県>
 
  (13) 科野國造ー長野県
 
  (14) 道奥石城國造ー岩城<福島県>
 
  (15) 常道仲國造ーひたち那珂<茨城県>
 
  (16) 長狭國造ー長狭郡
 
  (17) 伊勢船木直ー三重県
 
  (18) 尾張丹羽臣ー丹羽郡<愛知県>
 
  (19) 島田臣ー海部郡島田<愛知県>
 
 このうち本書の
 「神武東征の経路」で述べた
 西日本域の関係は、
 
 (4) 火君、(5) 大分君、(6) 阿蘇君、
 (7) 筑紫三家連、(12) 伊予國造とある。
 
 しかし、
 その中で多いのは東国地域である。
 
 東山道を通って
 多神社奉祭の勢力はその勢力圏を伸張、
 あるいは移動した様子が
 これによって明白となっている。
 
 古代奈良時代
 8世紀前半まで東海道はなく、
 東国との交通は陸上の東山道が幹線であった。
 
 後裔のうち
 (13) 信野國造及び
 (10) 小長谷造に係わる
 太陽信仰について解いてみる。
 
 東山道が尾張国から神坂峠を越えて
 科野〔信濃〕へ入った所に
 「阿智」との地名がある。
 この「智」は「知恵」で
 サンスクリット語の一つ
 jināna が転訛して「シナノ」となった。
 
 この場合が「信濃」との表記になる。
 
 「信濃」との漢字表記は染色に使う
 「紫草の根子の産地」を示す。
 
 東山道は
 伊那谷から善知峠を越えて筑摩郡へ入った。
 
 その右側に東山と称した筑摩山地があり、
 現在の塩尻市から松本市へと
 街道は伸びていく。
 
 「筑摩」には太陽信仰に係わる
 地称が遺存されている。
 
 峠名
 「善知鳥」は鳥の名称ではあるが、
 その
 「ウトウ」は 
 utu〔太陽〕に依る。
 
 この峠から先
 太陽信仰の地だと知らせているのである。
 
 「筑摩」とは郡名であるが、
 やはり「筑摩山地:東山」がその起こりである。
 
 同名は
 「チクマ」と称するが、
 tigma〔熱ながら太陽〕の音写である。
 
 その取付けの麓は
 「片丘」という。
 
 「丘」は山地ながら
 「カタ:片」は 
 ketu〔光、光明〕で、
 筑摩山地が「光の丘」と示している。
 
 その光は隣の「広丘」名によって解釈される。
 
 「ヒローカ」は 
 viroka〔光輝、夜明けの光〕であり、
 東山に太陽が昇り日光が射し込む様子をいう。
 
 なにしろ
 その西隣り日本アルプスの山麓地域を
 「朝日」というのだから間違いない。
 
 「チクマ:筑摩」とは誠に
 「曙光」を指している。
 
 同語は大牟田市の
 「手鎌」の源語であると
 指摘した用語である。
 
 さらに「塩尻」名だが、
 「本塩尻」との地称が
 筑摩山地の南端諏訪盆地への峠近くにあり、
 本来その山地名に係わるとみられ、
 「シオジリ」は
 「ティティリ」で
 theothir〔女神〕を語義とし、
 太陽女神、
 つまり天照大御神を想定した名称である。
 
 同山地の北部は「美が原」高原だが、
 「美しい女」または
 「ウツシ-がはら」と
 utu-si〔太陽-輝く〕との
 太陽女神の形容によって始まったとみられる。
 
 松本市から東へ峠を越えて行くと
 千曲市(旧更殖市〔更級郡・殖科郡〕)へと至る。
 そこは「小長谷造」の地所で、
 「延喜式」神名帳信濃国更級郡に載る
 「長谷神社〔現長野市塩崎(村)長谷〕」に係わる。
 
 同社は「八聖神」という
 「神八井耳命」を祭神として奉祭している。
 
 その
 「オハセ」は
 obhasa〔光明、光輝〕で
 「ハセ:長谷」は
 bhasaで同義である。
 
 同神名帳更級郡には
 「日置神社」が記載されており、
 鹿児島県の日置郡と理由を同じくし、
 筑後国三毛郡日奉郷の祖地と
 同じくしていると覗われる。
 
 また
 「粟佐神社」ともあり、
 「アワサ」は
 abhasa〔光明、光輝〕の音写である。
 
 M.K記
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邪馬台国の性格と卑弥呼(10)神武天皇勢力の東征経路2 [日本創世紀]

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《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (10)神武天皇勢力の東征経路
  (g) 加太・日前神社・国縣神社〔和歌山県〕
 
 淡路島の南部洲本市の由良からは
 和歌山県へ沖ノ島を過ぎればすぐである。
 
 その至近にある和歌山市の岬に
 「加太」はある。
 
 同地には
 「日野」「阿振」との地称がある。
 
 「アフリ」は 
 ahar〔日〕の音写で、
 「カタ」名も 
 ketu〔光、光明、光輝〕で
 太陽〔日〕神に因んでいる。
 
 和歌山市内の
 古社二社について考えてみる。
 
 「延喜式」神名帳
 紀伊国名草郡に記載されている
 日前神社と国縣神社の二社がそれで、
 前者の訓を付して〔高山寺本〕、
 「ヒノクマ」「ヒクマ」とあり、
 後者は「クニカカス」とある。
 
 両社とも名神大に列する優待社である。
 
 両社とも現在和歌山市秋月町に共に並んで
 鎮座しあっていて、
 合わせて「日前宮」と称している。
 
 ご祭神は
 「日前大神」「国縣大神」と称していて
 その実像がみえない。
 
 しかし、
 ご霊代(ご神体)として
 前者が「日像鏡」、
 後者が「日矛鏡」と
 「鏡」に係わっていることで理解される。
 
 和名類聚抄紀伊国名草郡には
 「国縣」の郷名がある。
 
 そこで両神社名を解釈すると、
 「日前」は「ニッサキ」で
 nih-sucyati〔輝く〕の意義で
 suci・sucyah が同類語である。
 
 「前」は「さき」で、
 大分県の国東半島名の
 
 「国サキ」呼称と同理由である。
 
 また
 「国縣:クニカカリ」の「国:クニ」は
 「国東」の「クニ」と同様「日光(太陽)」で、
 「カカリ」は 
 cakra〔円盤、輪〕の音写で
 「クニカカリ」は「日光(太陽)の円盤」で
 双方とも「鏡」を形像化した形容であり、
 「日輪」との称である。 
 
 『先代旧亊本紀』国造本記に
 「紀伊國造 橿原朝御世、
  神皇産靈命五世孫天道根命定賜國造」
 とある。
 
 「橿原朝御世」とは
 神武天皇の時代の意味で、
 同天皇が天道根命を
 紀伊国の国造に任命したとの説明で、
 天道根命が
 神武天皇勢力に
 親しい者であったことが知られる。
 
 その「道」名は興味深い。
 
 和名類聚抄筑後国三毛郡の郷名
 「十市」を
 サンスクリット語の 
 thi(r)tha〔聖地〕の音写と
 紹介したのと同時に、
 同語には「道、通」の
 語義があると紹介したが、
 この「道」が
 天道根命名となっていると解釈できる。
 
 つまり
 同命は邪馬台国に係わる一族で、
 太陽信仰者の仲間である。
 
 同地の伝承によると、
 鏡の製作に当り
 初めはあまり出来がよくなかったが、
 次に製作は鏡は良い品だったので
 天皇に献上して
 三種の神器の一つとなったという。
 
 その最初の出来のよくなかった鏡を
 保持奉祭しているのがここの神社だという。
 
 太陽信仰者たちは太陽の象徴として
 「円い鏡」〔日輪〕を
 製作しようとしたのであった。
 
 「紀伊国」はかって「木国」であった
 『古事記』孝元天皇記に
 「木国造祖宇豆比古」とある。
 
 天道根命の根幹が
 邪馬台国にあったのに対応する。
 「木国」は「御木国」にして
 jambu樹(木)の国を移転させた呼称である。
 
 「宇豆」はまた 
 ud〔太陽〕の意義で
 「ウズ比古」は「太陽信仰者」である。
 
 この「木氏」は後に「紀氏」となり、
 伏見稲荷大社〔京都市伏見〕の創始者となった。
 
 その稲荷大社の辺りには
 「紀伊郡」「宇治郡」が今に遺存されている。
 
  (h) 十市郡と多神社〔奈良県〕
 
 「延喜式」神名帳河内国高安郡に
 「天照大神高座神社二座、
 並大、元名春日戸神」とある。
 
 同社は
 現在大阪府八尾市枚興寺字弁天山の
 岩戸神社に比定されている。
 
 「高座」を訓んで「タカクラ」としている。
 この高座は、
 現状の神社名「岩戸」、あるいは
 同社の鎮座地が
 「弁天山」という丘陵にあることから、
 「岩倉」のことで、
 大牟田市八本町の岩倉が想定され、
 天照大神がそこに奉祭されていた傍証となる。
 
 付言にある「春日戸」は
 「カスカベ」で
 kasaku-abba〔太陽の光〕で「天照」に対応される。
 
 この「春日」名が奈良県磯城郡田原本町に鎮座する
 「多神社」の由来に重要な意義を持っている。
 
 同地は和名類聚抄大和国十市郡飯富郷の地である。
 
 前にも引用した平安時代末期の史料
 「和州五郡神社神名帳大略註解」によると、
 多神社の所在地は初め「春日県」といわれ、
 同社を「春日宮」といっていたとある。
 
 この春日は
 「カスカ」で明らかに
 kasaku〔太陽〕に依る呼称である。
 
 大略註解の中にある「多神宮註進帳」は
 「珍子聖津日靈神者春日郡
  宇豆御子神社同体異名」と
 その祭神が上記河内国高安郡の
 「天照大神高座神社」および
 「春日戸御子神社」と
 深い関係にあることを指している。
 
 この説明で、
 その祖地に「高座:岩倉」があり、
 太陽神が〔天照大神〕が
 そこに奉祭されていたことが指摘できる。
 
 「宇豆(御)子」「珍子」は
 すでに数回解釈したように
 utu-si・ud-si〔太陽・光る〕に依っている。
 
 邪馬台国(大牟田市八本町岩倉)に奉祭されていた
 「太陽神」が東遷してきて
 この奈良県の十市郡(旧称)に
 祭場を設けられたのである。
 
 八本町に伊勢神宮を遷座したとの解釈ではなく、
 大神宮との神社であって、
 そこから東方へ次第に太陽信仰を波及させて
 渡来したと解釈するのである。
 
 (現)橿原市十市町に
 「十市御県坐神社」がある通り、
 春日郡は後に「十市県」となった。
 
 その大牟田市内から奈良県へ遷されたのである。
 
 橿原市、田原本町などの一帯には
 「春日神社」が多く散在する。
 
 それらの本社は多神社であり、
 同社の威勢が古代において
 大いに盛んであった証しである。
 
 その威勢は『古事記』に
 第一代神武天皇から第八代孝元天皇に
 記述されるほどに及んで、
 その和名に「大倭」との用語が
 付されることになったのである。
 
 「大倭」は「オウワ」にして
 obhasa あるいは 
 ābha〔光、光明〕に依るもので
 「太陽の光」との表現である。
 
 天照大神は、
 天皇の奉祭する主祭神として
 「宮中」でも鎮座していたのである。
 
 しかし、
 第十代崇神天皇の奈良盆地に
 到来した事変により、
 "ガラ"と様相は変わり、
 天照大神は大国魂神ともども
 宮中から放りだされてしまった。
 
 さらに奈良時代になって
 天武天皇の伊勢に鎮座していた神宮への
 強い奉祭意識から
 皇室主導の重層な祭儀が成立され、
 邪馬台国を祖地とした太陽信仰など
 遠くへ追いやられてしまい、
 その来歴は表面舞台から
 摩擦状態となってしまったのである。
 
 ただ、
 天照大神が伊勢〔三重県〕に鎮座地を
 最終的に得られたのは、
 そこに多氏同様古くから
 天照大神の信仰集団のうちの
 族類がいたからである。
 
 その仲間とは
 宇治土公氏で
 「ウジドコー」は
 ud-du-ka〔日が昇る-迎える(呼ぶ)〕と
 「日が昇るのを迎える」の語義を支族とする、
 太陽の御来光〔迎〕を大事にした人々である。
 
 M.K記
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邪馬台国の性格と卑弥呼(10)神武天皇勢力の東征経路1 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (10)神武天皇勢力の東征経路
 
 
 『記・紀』が記す「神武天皇の東征」
 
 岡田宮、多祁宮理宮、高嶋宮と
 瀬戸内海の北岸に行宮を設けながら
 東征する経路は神武天皇勢力の事跡ではない。
 
 その文化遺存などから解釈すると全く
 別の勢力の行程である。
 
 その大要は本書第6章で解説する。
 
 神武天皇の族類の東漸は、
 そう急激な前進を目論んだものではなく、
 紀元1世紀頃から徐々にその仲間、
 つまりインド・アーリア系の人々が
 太陽信仰を主柱にして移って
 行ったのが本当だろう。
 
 そうでなければ
 その経路に色濃く彼等の文化を
 遺存させていくはずがない。
 
 この伝承には「天孫降臨」の関連づけも
 考慮しておかなければならない。
 
 まずその「天」との概念を
 邪馬台国の当該地に確認しておきたい。
 
  (a) 高天原:天界
 
 大牟田市南部に「諏訪」あるいは
 「天領」との地称があり、
 これらは jambu-dvipa のある
 svarna-bhumi に係わる名称と紹介した。
 
 その 
 svar または suvar は「天空」とともに
 「太陽、日光、光輝」を表わす。
 
 つまり「天界」である。
 
 「高天原」はアズミ族の言葉で 
 an-mah〔天-高い〕を漢字表記したもので
 「アマ〔天〕」のことである。
 
 『隋書』倭国伝、『唐書』に
 「倭王姓阿毎」とある「阿毎」で、
 天皇一族の氏姓と表記されている。
 
 その一族は 
 suvar/jamibu-dvipa に縁のある一族である。
 
 
  (b) 日置郡・姶良郡〔鹿児島県〕 
 
 『日本書紀』の神武東征段に
 「日向国の吾田邑の吾平媛を娶る」とある
 「吾田邑」は現在の鹿児島県日置郡金峰町に
 「阿多」とある同地を指す。
 
 郡名「日置」は前に述べた
 三毛郡郷名「日奉」と同義で
 「太陽(日)を立て祭る」との意義である。
 
 「吾田(阿多)」は ed〔日が昇る〕、
 サンスクリット語になった 
 aidha〔光輝、炎〕の音写である。
 
 また「吾平媛」の「アヒラ」 はこれまで
 「大孁女」の祖語として紹介した
 「日、昼」を語義とする ahar である。
 
 日置郡は
 鹿児島県薩摩半島の西側東シナ海沿いに
 かなり広い地域に亘っている。
 
 その日置郡の東側に接して
 鹿児島湾を囲むように姶良郡がある。
 
 「姶良」は「アイラ」あるいは
 「アヒラ」で「吾平」と祖語を同じくする。
 
 また鹿児島名の「カゴシマ」は 
 kug-za-ma〔輝く(照らす)-国土〕の音写で
 「国を照らす」である。
 
 鹿児島市の中央に
 「照国神社」が鎮座していて、
 その名称と意義が同一である。
 
 同社の背後の「城山」の「シロ」もやはり 
 sir〔光〕、
 また少々南方の高麗も 
 gaura〔光〕で同義である。
 
 この高麗との地称があちこちにあるが、
 ほとんどが
 高句麗や高麗という韓半島の国名とは関係ない。
 
 因みに
 「薩摩:サツマ」は 
 sa-dhama の音写で
 「煙に包まれた」との語義で、
 桜島、霧島など活火山の噴煙で覆われる
 環境を言ったものである。
 
 姶良郡の隼人町に
 鹿児島神宮、卑弥呼神社が並んで鎮座する。
 
 大牟田市の邪馬台国の「天界」を出た
 人々の意識に卑弥呼があったことの証明である。
 
 周囲には
 朝日、内、宇都山、日当山といった地称がある。
 
 「ウチ、ウツ」は utu、ud〔太陽〕に依る。
 
 また同地には大孁女神社があり、
 伝承には時代的ずれはあるが、
 「阿比良女」との古い物語に係わっている。
 
  (c) 日向・鵜戸神宮〔宮崎県〕 
 
 『日本書紀』にもあった
 「日向国」名の「ヒウガ」は
 本来 
 pa-ug〔呼ぶ-太陽〕で 
 「日を迎(向)える」の意義で、
 宮崎県の東岸で日の出を迎えるのに
 相応しい太陽信仰の名称である。
 
 pa が「ヒ」となったのは漢字に
 「日〔ひ〕」が採られたからだろう。
 
 その日向灘日南海岸〔宮崎市鵜戸山〕に
 「鵜戸神宮」が鎮座する。
 
 同社は太陽信仰の宮である。
 
 鵜戸の「ウド」は ud〔太陽〕で、
 周囲の山の総号を「吾平山」という。
 
 「吾平」は
 鹿児島県の(b)での同語で明らかである。
 
 さらに
 同宮の本殿などが深い赤色(丹)に塗られており、
 誠に彩りとしても太陽の装いを呈している。
 
  (d) 宇佐・宇佐神宮〔大分県〕
 
 『古事記』の「東征」段には
 「到豊国宇沙」とある。
 
 「豊国」は
 福岡県・大分県の
 瀬戸内海側の一帯の地称である。
 
 「宇沙」は現在「宇佐」と表記されている。
 
 宇沙においては神武天皇は
 「大御饗」を以って歓待される。
 
 その「ウサ」は
 サンスクリット語の 
 ush〔早朝〕にて「暁」を表わす。
 
 同類語 ushas も「朝、暁」ではあるが、
 「曙光の女神」である。
 
 このウシャス神は日の出前に
 二頭立ての馬車に乗ってやってくる。
 
 同地の「宇佐神宮」には
 本来このウシャス女神が
 まず奉祭されたはずである。
 
 なにしろ本殿はじめ社殿は
 朱色〔曙の色〕に塗られている。
 
 鵜戸神宮の習いと同じである。
 
 しかも
 同宮のご祭神は主神の中央を
 「比女大神」となして
 両側に二神が座している。
 
 この配神は明らかに
 中央がウシャス女神、
 両側をアシュビン双神
 〔二頭立ての馬車の馬〕で
 固めた構図である。
 
 「比女」は「姫」にして女神で、
 太陽の昇る前を先導する司である。
 
 同神宮に古い三像一組の木像が
 幾組か作られ遺されてるが、
 必ず女神像含まれ三神が一体である。
 
  宇佐神宮から東へ連なる国東半島の
 「クニサキ」は 
 gh(r)suci〔日光の輝き〕が語源である。
 
 「国東」との表記は
 和名類聚抄には「国前」とある。
 
 「国:クニ」が「日光」であるから
 「クニ東」は
 「太陽を奉祭する神宮の東方」との
 意義が含められている。
 
 また「国前」は「日光の前」で、
 宇佐神宮をの祭神
 「ウシャス神〔曙〕」を
 指すと解釈される。
 
 さて、
 『記・紀』が記す
 神武東征の経路のうち
 これを
 太陽信仰集団と解釈した場合、
 「宇佐」までの行程は
 『記・紀』に間違いがないが、
 その後の経路は
 『記・紀』の記載とは全く違う。
 
 またその移転の様子は、
 集団的威力を一時に集中して
 急激に侵攻して
 行くなどというものではなく、
 徐々にその影響を及ぼし、
 各地で受け入れられて
 信仰圏が定着拡大しつつ
 東漸したとみられる。
 
 その経路には太陽信仰が
 今でも色濃く遺存されている。
 
  (e) 伊予〔愛媛県〕
 
 さて、
 神武天皇勢力の東漸経路は
 『記・紀』の記述行程とは
 ここから違っている。
 
 つまり
 太陽信仰を主体とした勢力は
 豊与海峡を越えて
 四国へ遷っているのである。
 
 そこは伊予国〔愛媛県〕で、
 
 国東半島の東方に位置する。
 「伊予」名は
 佐田岬に「伊方町」とあるように
 本来「伊」だけで、
 その「伊」は「日が昇る」の 
 e の音写である。
 
 宇佐から「日が上がる:i」方向が
 「伊方」なのである。
 
 愛媛県大洲市内には
 宇佐神宮の神社とともに
 「宇都宮神社(大洲市五郎)」とある。
 
 同名は「太陽の宮」であり、
 「五郎」は 
 gaura〔光〕に依る。
 
 「大洲」名の「オウス」も
 「宇佐」と同根の
 ush〔暁〕あるいは 
 obhasa〔光明〕の転訛であろう。
 
 同地は和名類聚抄
 伊予国の喜多郡の地であった。
 
 喜多の「キタ」は 
 ketu〔光、光明〕で
 大洲市内に喜多山とある。
 
 その近くにある
 春日神社の「カスカ」は
 kasaka〔太陽〕の音写で、
 この地方にある同名社は
 ほとんどその理由に依ろう。
 
 喜多山の東隣りの町名になっている
 「内子」は現在「うちこ」だが、
 本来
 「ウツシ」で 
 utu-si〔太陽-光る〕で
 天照大神の項で述べた
 「珍子」と同根である。
 
  (f) 阿波国・吉野・美馬〔徳島県〕
 
 愛媛県から東方へ向かうと
 徳島県の西方の山間部へと至る。
 
 同県内にも太陽信仰の遺存がみられる。
 
 その阿波国名の
 「アワ」は
 abha〔光輝、光、美〕の音写である。
 阿波国を東流する大きな川の名を
 「吉野川」という。
 同表記は佐賀県の吉野ケ里遺跡同様
 「よしの」と称されている。
 
 しかし、
 これは本来「キーノ」で、
 ここでは
 gh(r)na〔日光、熱〕の音写である。  
 
 阿波は国名だけでなく郡名として
 和名類聚抄に載っている。
 
 現在の阿波市の西側に美馬市がある。
 
 「美馬郡」も和名類聚抄に記載されている。
 
 同名は現在「みま」と称されているが、
 始まりは 
 vana〔美しい女〕で「美しい女神」、
 つまり
 太陽神あるいは曙神をいったものだろう。
 
 阿波市内には
 「大俣」との地称もあり、
 大牟田市名として紹介した 
 aum(r)t〔女神〕 の音写で
 「美馬」に係わる。
 
 徳島県の鳴門市からは
 兵庫県の淡路島が極く近い。
 
 同地を和名類聚抄は
 紀伊国淡路郡と載せており、
 平安時代初めには
 紀伊国<和歌山県>に属していたようだ。
 
 その
 「アワジ」は 
 abha の同類語 
 abhasa〔光、光沢〕の音写で
 太陽信仰の進む「路:道」となす。
 
 というのも
 同地の南端から紀淡海峡を隔てて
 和歌山市の加太が目先にあり、
 その経路を指差している。
 
 M.K記
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邪馬台国の性格と卑弥呼 (9)神武天皇勢力の祖像 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (9)神武天皇勢力の祖像
 
  神武天皇出自の族類は多氏である。
 「多」の呼称「オホ」は 
 aha〔サンスクリット語、アズミ族の言葉 au日、昼 〕
 が祖語で太陽信仰の一族である。
 
 その祖地は邪馬台国、
 和名類聚抄の筑後国三毛郡の
 日奉郷・十市郷が祖地である。
 
 大牟田市の八本町〔岩倉〕周辺である。
 
 なにしろ
 「神武」の祖語を 
 jamubu-dvipa〔邪馬台国〕の
 jamubu と考えるので、
 その系譜はインドの「日種」と通称される
 太陽信仰を象徴としている。
 
 卑弥呼の一族の同族類ではあるが、
 しかし同じ頃には仲間が
 「東征」を初めていて
 大和盆地〔奈良県〕に
 到着していた可能性がある。
 
 ともかくその名称が『古事記』で
 神武天皇から始まる天皇の
 和名構成名称に多い「大倭」で、
 これを読むと「オホイ」で「オホワ」とも読め、
 「多:aha」と関連する用語 oubhas あるいは
 abh〔光輝、光、美〕と、太陽の光に係わる。
 
  M.K記
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邪馬台国の性格と卑弥呼:(8)天照大神の故郷 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (8)天照大神の故郷
 
  本書はその天照大神の故郷が
 大牟田市の八本町の岩倉だと説明しているのである。
 
 つまり邪馬台国の卑弥呼が奉祭していたのが、
 この「天照大御神」だったのである。
 
 同神は「御神」と表記される「女神」である。
 
 その背景を説明する。
 
 すでに卑弥呼について説明したのと
 重複する事項もある。
 
 八本町の北方堂面川の右岸、
 古代には有明海に面していただろう
 現「手鎌」あるいはその東隣りの
 「草木」の地域の「テカマ」は
 tigma で本来「熱」ではあるが、
 tigma-kara〔太陽〕となるように
 「日、昼」に係わる。
 
 また「クサキ」は「太陽」の語義の
 kasāku の音写である。
 
 これらの地域は
 「久福木:日奉郷」が東方にあり、
 太陽信仰に係わる。
 
 現在八本町の西側に
 日出町や旭町との地名があり、
 また太陽信仰に係わる地称である。
 
 この地方を太陽神たる
 天照大神の故郷とするのに十分な状況である。
 
 何を置いても太神宮の祭神が同神で、
 巫師卑弥呼が奉祭していた
 十市 thirtha〔聖地〕なのである。
 
 この用語はインド・アーリア系の言葉である。
 
 同語は特に宗教用語として
 重んじられた言葉であった。
 
 そのサンスクリット語には「太陽」に係わる
 aha、ahar、ahan〔日、昼〕との用語がある。
 
 これはアズミ語の言葉で同義の a-u の移入で、
 インドの
 「日種〔漢訳、日神崇拝の属〕」を表わしている。
 
 Ahar は『日本書紀』が天照大神を
 「大孁女:オーヒルメ」とする用語で、
 「日女神:太陽女神」との意義になる。
 
 「孁」字は本来「霊」が本字で
 「かみ:神」が語義である。 
 
  M.K記

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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼 (7)卑弥呼の「鬼道」:日奉郷あるいは天照大御神 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (7)卑弥呼の「鬼道」:
日奉郷あるいは天照大御神
 
  倭人伝は
 卑弥呼が「鬼道」に仕えているといっている。
 
 その語義は「神道」と同じで、
 シナ〔魏〕人には理解できない
 「神信仰」であるとの指摘はすでにした。
 
 それではどんな信仰なのか考察する。
 大牟田市八本町〔岩倉〕には「太神宮」の
 祠があることはすでに説明した。
 
 そこで卑弥呼が巫女であることから
 「太」は「ウズ」でアズミ族の言葉の
 uzu〔占い師〕の音写と指摘したが、
 後世の信仰の一般的呼称からすると、
 「太神宮」は
 伊勢神宮〔三重県〕に係わる呼称である。
 
 実際「大牟田市史」によると、
 祭神は「天照大神」となっていて整合する。
 
 さらにいえば、
 卑弥呼が奉祭していたのも「太陽神」といえる。
 
 和名類聚抄「筑後国三毛郡」の郷名に「日奉」とある。
 
 その語義は
 「日〔太陽〕を奉る〔立てる〕」ということである。
 
 岩倉の周囲に同語の地称はないが、
 実は同義の地名が付近にある。
 
 「久福木」がそれで、
 岩倉の東北堂面川を北に越えた地域である。
 
 その呼称「クブキ」はアズミ族の言葉で
 kub-ug〔立つ(置く)・光・昼〕で、
 
 「日・昼(太陽が上がっている時)を奉(立て祭)る」
 
 となる。
 
 これはまた「日置」との概念となる。
 
 久福木が「日奉郷」の当該地名である。
 
 ところで
 「太神宮」の「太(ウズ)」は
 uzu〔占い師〕と発音が近い
 utu<ud>〔太陽〕が源語でもある。
 
 また「神宮」の「ジン〔神〕」は gin で、
 神宮は「光の宮」で「太神宮」は「太陽光の宮」と、
 この用語も太陽神を奉っている様子を表わしている。
 
 卑弥呼から大分離れるが、
 伊勢神宮の祭神は
 『古事記』に記されて「天照大御神」とある。
 同神が太陽神であることは
 古くから知られるところとなっているが、
 呼称の由来は興味深い。
 
 「天照」は字義の通り「天の照り」
 あるいは「天を照らす」ではあるが、
 実は utu-si〔太陽-光る〕から出た用語である。
 
 後段の si〔光る〕は「照る」で 
 utu〔太陽〕の「ウツ」は「空(うつ)」にして
 「そら」で「天」となっている。
 
 また
 「大御神」名は単なる尊称ではなく、
 「大」は「オウ」で au〔日、昼〕に依るし、
 「御」は「ミ」で mi〔女〕に依っている。
 
 「オウミ神」は「太陽の女神」が語義である。
 
 ここでは述べられないが、
 日本の神義上、太陽神には男神・女神がある。
 
 天照大神を「女神」とするのが
 一般通念となっているのは
 そこに由来があるのである。
 
 伊勢神宮の別称として「神明宮」がある。
 
 一般に「シンメイ」と称されているが、
 本来は「ジンメイ」で 
 gin-me〔輝かす-土地〕で
 「地を照らす」太陽の意義である。
 
 また皇大神宮とも称される。
 
 その字義の由来はさておき、
 「コウタイ」は 
 ge[ku]-u-de〔日をもたらす〕の音写である。
 
 同神宮には
 内宮(伊勢市宇治館町)と
 下宮(伊勢市豊川町)との両宮がある。
 
 内宮は一般に「ナイ宮」というが、
 「内」は「ウチ」にして utu〔太陽〕、
 そして「外宮」 は「ゲ宮」で ug〔日〕に依り
 双方とも太陽に係わる。
 
 外宮の御祭神は「豊受大神」という。
 
 「豊受」はまた「止由気」とも表記されるが、
 「トユケ」は de-ug〔もたらす-昼・光〕と
 太陽神を招来させる役目
 あるいは先導する概念がある。
 
 因みに「トヨウケ」の「トヨ」は
 サンスクリット語で toyo〔天・神〕、
 「ウケ」は「食料」との vukas に依り、
 同語は「天神の食膳」を表し、
 主祭神の天照大神に奉仕する神性を示している。
 
 ところで2013年は第62回遷宮式の年であった。
 
 伊勢神宮においてなぜ遷宮が大掛かりに
 行なわれるようになったのかの理由は
 これまで明確には知られていない。
 
 本書ではその由縁正鵠に説明することができる。
 
 遷宮祭事が始められたのはそう古くなく
 奈良時代からである。
 
 もはや古代の言葉も日本語あるいは
 「ヤマト言葉」に紛れ込まれた時代である。
 「遷」とは「うつし」の語義である。
 
 同表音は上記の
 utu-si〔太陽-光る〕が係わっている。
 天照大神との漢字表記も
 同語に依っていることを前に説明した。
 
 「ウツシ→移し:遷」との解釈である。
 
 この utu-si は
 神武天皇の族類には親しい用語で、
 同族が奉祭する多神社〔奈良県田原本町〕の
 ご祭神を説明した平安時代の史料
 
 「多神社注進状」に「珍子聖津日霊尊」とある
 
 祭神名の「珍子」に転記されている。
 
 同語は「ウズコ」と訓まれるが、
 本来「ウズシ」である。
 
 「日霊」とあるように同名は
 「日(太陽)神」の称である。
 
 「ウズシ」はまた utu-si〔太陽-光る〕で
 utu と ud は同義の「太陽」を表わす。
 
 因みに後者は伊勢市内の地名「宇治」の祖語である。
 ともあれ「ウツシ」との太陽神の称は
 奈良時代においても定着していたと推測され、
 その理由によって人々の注目を集めて、
 祭事を主催し挙行する天皇への畏怖を
 高めるための大行事と成したのである。
 
  M.K記
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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(6)卑弥呼は王ではなかった [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (6)卑弥呼は王ではなかった
  倭人伝は記す
 
 「其國本以男子爲王住國亂相攻伐歴年
  乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」。
 
 この「王」はあくまでシナ的表現で、
 正確にはその史的用語「覇王」の略で、
 武力か智謀によって権力を掌握し
 一定地域の領土獲得をしてそこから
 租税や物品を収徴集する者のことをいう。
 
 それに比して倭においては習慣が異なっている。
 
 「以男子爲王」の「男子王」は
 すでに分析してように斯馬国の
 首領のような者とみるのが妥当であるし、
 卑弥呼にしては「共立一女子爲王」とあるように
 彼女は「共立」されたのであり、
 自からが覇者となろうとした訳ではない。
 
 「共立」とは
 『東南アジア民族史』〔東洋文庫〕が
 解釈するように「相談して」との背景がそこにはある。
 
 「相談」の仕方は、関係者が集まって話し合う、
 いわゆる「集会」に依ったものとみられる。
 
 なぜならば倭人伝に、
 倭では「會同」を行っていると述べているからで、
 この漢語は「集会」を意味する。
 
 関係者と述べたが、卑弥呼を共立した人々で、
 彼等は後に
 「女王」の「属国」〔傍国〕となった
 国々の主領たちで、
 斯馬国主領がその第一であったろう。
 
 よって、
 この卑弥呼の時代、北九州の地域に
 「共和国」を成立させたといえる。
 
 斯馬国を初めとする各国の主領の見識が
 シナ人とは違い、かなり高かったことを示している。
 
 倭人伝は末廬国から始まって
 最後に「女王」の属国と記されている
 「奴国」まで各々に必ず「国」称を伏している。
 
 既述した各国の戸数はそう多くなく、
 後世あるいはシナや西欧に表れた「国」とは
 大意に異なっている。
 
 例の吉野ヶ里遺跡の「弥奴国」もそう広大でなく、
 いわゆる「王宮」のような建物はなかった。
 ただ祭壇と広い建物跡が
 その域内から掘り出されているだけである。
 
 そこで考慮すべきは、各国には「座師」、
 それも多分「女座師」がいたことと、
 主領の意志だけでその国〔村落〕が
 運営されていたのではないことである。
 
 倭人伝の「會同」(集会)についての説明を
 
 「會同坐起父子男女無別」
 
 としていることを考慮すれば、
 集会とは全住民が参加し、
 その座席は「父子」という序列や
 「男女」の差別が無いという極めて
 平等を旨とする習性がそこにみえる。
 
 シナ的にうるさい社会的序列を以って
 統制・施座することもない。
 
 これをまだ社会が未熟で
 原始的状況と判断する向きもあるが、
 それは妥当ではない。
 
 この集会は、その後現在に至るまでの
 「神社」の氏子集会の様子そのままである。
 
 つまり
 「神の前における平等」との概念が
 日本の場合すでに
 紀元前後から定着していたのである。
 
 その集会において課題に係わる採決で
 結論がまとまらなかった場合のみ
 「神」の意向に従おうと「座師」に神意を
 得るべく「占い」をしてもらったのである。
 
 座師がいたからといっても神権政治などとは
 全く隔ったものであっただろう。
 
 因みに現在「氏子」という「ウジ」は
 「一族の」と解釈しているようだが、
 本来アズミ族の言葉での uzu で
 「占い師」で「座師」と同義語が原語である。
 
 「氏子」とは「座師に従う人々」を表わしている。
 
 邪馬台国の時代、座師特に女座は
 重要な社会的要素だったのである。
 
 そこで
 「共和国」を成立させた国々では、
 邪馬台国の女坐であった卑弥呼を
 共和国全体の座師に任命したのである。
 
 倭人伝はいう
 
 「年己長大無夫婿」。
 
 彼女はかなり老齢で、
 しかも夫も婿もない独身であった。
 
 若い時よりずっと座女で神妻となり
 人間とは結婚しなかった豊かな経験があり
 
 信頼が篤かった者だといえる。
 
 彼女は「女王」ではなかったのである。
 
  倭人伝はまた記す「有弟佐治國自爲王」。
 
 卑弥呼には弟があって、
 彼が国を「佐治」:治めているといっている。
 
 この弟は邪馬台国の主領を担っている者に違いない。
 
 卑弥呼は邪馬台国の「王」でさえなかった。
 
 また
 
 「侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處官室」とあり、
 
 一男子がただ独り
 卑弥呼の住居や役務の部屋に出入して
 外界との連絡を一切仕切っていたといっている。
 
 王とは一般の人々〔国民〕の前に出て
 威勢を見せるのが習いである。
 
 屋敷の奥に引き籠もって姿を世間に表さない
 王などありえず、「王」の呼称は相応しくない。
 
 この邪馬台国卑弥呼の時代成立した共和国は
 その後、各集団〔国〕が部族化し、
 「部族共和制」として飛鳥、奈良、平安初期まで
 継続されたし、
 〔国〕観念は江戸幕藩体制においても、
 藩を「国」と称したように統治の基盤となり、
 また人々に自治発想が踏襲され変らなかった。
 
 時として
 シナ的統制全体主義的律令制度が投入されたが、
 日本の風土では、
 まず長期に続けられたとはいえない。
 
 「会同〔集会〕」の文化も平安時代荘園制の
 混乱の中で発生し、戦国時代まで成長し続けた
 荘園・郷村の自治的結合
 「惣」の「寄合〔集会〕」の
 基礎となったと考えられる。
 
 その「惣」の発生の端厳は寺社においてであった。
 
 日本の歴史には世界に誇れる
 古代からの社会習性があるのである。
 
 全体主義を本幹とするシナの政治的思念とは
 全く違っており、
 日本文明はシナ文化の亜流などでは全くない。
 
 日本人は
 その独自の伝統の崇高さを認識すべきである。
   M.K記
 
 

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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(5)岩倉と高御座 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (5)岩倉と高御座
  
  八本町の台地を地区の人々は 
 「岩倉」ということはすでに述べた。
 
 「イワクラ」の語源は
 「ヒラバラ:平原」と同様
 アズミ族の言葉に依っていて
 ia-kur〔岩-山〕である。
 
 岩倉である八本町地区内には小さいながら
 「岩倉岩下稲荷大明神」が置かれている。
 
 そこに「正一位」との表示もあるが、
 同称は京都市伏見区の稲荷大社を勧請あるいは
 その神社名に因むとの配慮であろう。
 
 稲荷大社の創始されたのは
 和銅四年(711年)のことで、
 卑弥呼の時代から大概500年も後のことである。
 
 しかし、同大社の境内奥に
 「お山」あるいは「小塚」と称する神域があり、
 和銅〔奈良時代〕よりかなり古い
 原初的聖地と考えられる。
 
 その元祖的信仰には「岩山」つまり
 スメル:sumeru山の神性がある。
 
 稲荷大社の創始には紀氏が係わっているが、
 この「紀」は「木」が元字で 
 「木氏」の本幹は「御木国」である。
 
 つまり、
 当地八本町の「岩倉」と同概念をなす。
 
 因みに sumeru を分化解釈すると、
 su は「白い、美しい」で、
 meru は maru と係わり「岩・石-山」で
 同語事体「白い美しい岩山」と
 背景に雪を冠いたヒマラヤ山がある。
 
 「ヒミコ」の語源をサンスクリット語の 
  hemeka〔黄金色の雪山〕と紹介したが、
 岩倉名もまたその「ヒミコ」名を傍証している。
 
 ところで上記 kur〔山〕には
 もう一つ「国」との語義がある。
 
 「稲荷大明神」の「稲荷:イナリ」は
 e-nir〔主・神殿〕の概念があり「祭司」に係わる。
 
 稲荷の「稲」は倭人の用語の呼称では
 「シナ〔tshj-nu〕」「稲-泥」〔泥稲〕つまり
 「水稲」を表わす。
 
 シナ大陸揚子江流域を支配した古代の国の名
 「楚」はその〔tshj〕に依り、
 そこが「水稲作」の地であることを示している。
 
 現在それを「イネ」と称しているのは
 アズミ族の用語で
 「穀物」を en というのに従っているからである。
 
 さて、この「岩倉」の意義は単純ではない。
 
 後世日本の社会制の大事な局面で
 天皇が新しく即位される際に上がられる
 「高御座:タカミクラ」と
 概念が重複してくるからである。
 
 「座は「ザ」が本来の呼称で「クラ」とは訓めない。
 
 アズミ族の用語でまた「岩、石」の語義である
 za が加味されているのである。
 
 それを「磐座」と言いうるのである。
 
 「タカミクラ」自体重要な背景がある。
 
 du-ga-mi[maha]-gur
 〔丘(壇)-邸宅-大きい-宗教儀式〕の音写で
 「宗教儀式のための大きな邸のある丘」を表し、
 この八本町の「聖所」である
 「岩倉」での実話が祖形となったとみられる。
 
 卑弥呼は「共立」されて「最高位」あるいは
 「主」の坐師となり、「聖所」に上り居住し、
 その職掌を担うこととなったのであり、
 「最高の祭司」となって
 宗教儀式の場へ上がったのである。
 
 古来天皇は最高の祭司として
 その祭儀を務めてこられている。
 
 現在天皇即位の重要祭事の一つである
 高御座に上がられる儀式に用いられる際の
 「御座」は八角形のお屋代が公座に設営されている。
 
 「台」は台地〔丘陵地〕にまた
 「お屋代」は「聖所:邸宅」に相当する。
 
 その「八角形」は八本町の「八」に通ずる。
 「八本は「ハチモト」と読め、
 pad-me-du〔となえる(呼ぶ)-神託-呪文〕で
 「神託のお告げを呼ぶ」で
 坐師の職掌を表わしている。
 
 そこが卑弥呼の「聖所:祭場」であった補足となる。
 
 余談として説明しておくと、
 「ヤシキ:屋敷」は e-sig 〔家-華麗な〕、また
 「ヤシロ:屋代」は e-sir 〔家-光る〕で
 ほとんど同義である。
 
  因みに、
 八本は現在「ハッポン」と呼称されているが、
 その理由は伊都国の人々の言葉で
 HPN が「インド」との語義で、
 インドのアーリア人系の居留地として
 jambu-dvipa〔邪馬台:インドの通称〕あるいは
 「有明〔アリアケ〕」名となっている
 ARIAKE の語音とも語義の共通する呼称である。
 
高御座
「高御座一般公開」の画像検索結果
 
 
 M.K記

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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(4)卑弥呼の居館 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
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《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》
 (4)卑弥呼の居館
 倭人伝は「奴婢千人」あるいは
 「樓觀城柵巖設有人持兵守衛女王」と
 その住環境の様子については記している。
 
 「婢:使い女」が千人と言っているのは
 大げさとは推測されるが、
 それでもかなり大きな建物を設け、
 卑弥呼を「守衛」し、
 見張りのため大掛かりな
 城柵を備えた作りであったらしい。
 
 卑弥呼の住居はそう広くなくはないにしても
 周囲に多くの人々が居住していたのは確かだろう。
 
 すでに紹介済の地名「稲荷」は
 一般に知られた「いなり」ではなく、
 「トウカ」と呼ぶ。
 
 同表現はサンスクリット語 
 dhaka の音写で、語義は「大建築物」である。
 現在の稲荷町、また稲荷から分かれた
 亀谷町などは
 八本町の南側丘陵地の麓に広がっている。
 
 この辺りが彼等の居館のあった所で、
 その東隣りの「竜湖瀬町」の「タコセ」は
 それら木造の建築物を建て保守する大工
 〔サンスクリット語で takasa 〕たちの
 集落地だったろう。
 
 それでは卑弥呼自身の居館が
 どこにあったかとなるが、
 それは八本町の東隣り、
 丘陵地〔台地〕の付け根に当たる
 「平原町」内である。
 
 そこには屋須田神社もある。
 
 この呼称「ヒラバラ」の原語は
 アズミ族の言葉 hur-bar 〔丘-聖所〕である。
 
 hur は英語の hill 〔丘〕に当り、
 bar は「聖所、祭壇〔檀〕」と共に
 「住宅」の語義もあり、
 
 卑弥呼の職能及び住居を合わせ持った
 「屋形、屋敷」に相応しい呼称である。
 
 ところで、なぜインド・アーリア人系の地に
 アズミ族の言葉が定着したのか?
 
 理由は、
 後の時代に
 そう呼ぶようになったとの推測もできるが、
 すでに卑弥呼の時代に
 その呼称が始まったとすることもできる。
 
 それは倭人伝が記す
 「共立」との用語が考察の材料になってくれる。
 
 「攻伐」し合っていたこの地方の主領たちが
 相談し合い卑弥呼を
 最高位に擁立したとの内容からすれば、
 倭人伝が邪馬台国の傍国のうち
 第一に挙げられて「斯馬国」
 
 〔第2章(9)の(c)で説明〕は
 
 アズミ族の言葉を理解する人々の里で、
 主領はそれを理解できたし、
 その外の国の人たちも同様で、
 彼らが擁立した「司祭:祭祝師」の地を
 その地形を呼称して
 「ヒラバラ」と称したしてもおかしくはない。
 
 斯馬国の主領〔長者〕は「共立」を相談した
 首謀者だったとも考えられる。
 
 和名類聚抄の夜須郡の第一に「中屋郷」が載る。
 
 同名を地元では「ナカツヤ」と呼んでいる。
 
 これは 
 na-gude-e の音写で
 n〔命ずる、指示する〕、
 gude〔神官、神職〕、
 e〔神殿〕で
 「聖所の祭司を指名する」との語義となる。
 
 斯馬国の主領が他の主領と共に相談の上
 卑弥呼を倭全体の祭司に任命したことを
 証明する呼称である。
 
 なお、ここでは詳しく述べないが、
 その相談のため集まって会を催したところが
 夜須町の隣り甘木市の須賀神社である。
 
 安河(川:小石原川)がそこにはある。
 M.K記

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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(3)卑弥呼の祭場 [日本創世紀]

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《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》
 (3)卑弥呼の祭場
 
 次に考えるのは、
 「十市郷」の当該が
 大牟田市内「三毛郡」にあるからである。
 
 残念ながら現在「十市」と表記された地称はない。
 
 しかし、
  tirtha にはその語義として、
 「聖地」の他に「道、通路」とあり、
 同市の中央部にして歴木地区のすぐ西隣りに
 「通町」との地称がある。
 
 同町には大牟田南関線の幹線路が貫いており、
 「通」は「とおり」といわれているが、
 同字はまた「とおし」で「トウチ」に近い。
 
 この周辺が十市郷の当該地に当たると考える。
 
 すると通町の南側に
 「八尻町」との地域が目に付く。
 
 現在そこは「はちじり」と称されるが、
 かつて「ヤジリ」であってもよい。
 
 神八井耳命の
 「ヤジリ」と同じ 
 yajur の音写で「祭祀」を表し、
 「十市〔聖地〕」にからむ。
 
 また「祭場」を明確に証す史料が同地にはある。
 
 八尻町内の「屋須田神社」、
 平原地区内の屋須太神社名の
 「ヤスタ」は
 サンスクリット語の 
 yasta の音写で
 「祭場」「祠」の語義である。
 
 同称の神社はこの周辺八本町にもある。
 
 その鎮座経緯は全く不明とされている。
 
 他にもこれらの用語の
 相関関係を示すよい例がある。
 
 前にあげた投馬国からの九州横断経路の途次、
 高千穂から熊本県に入った
 白水村の全高森町内に
 「野尻」「矢須田」「祭場」
 との地名が連なっている。
 
 三毛郡のインド系文化が
 東暫する道程の一つを示している。
 
 大牟田市の矢須田神社には現在、
 「火結神」という火神が奉祭されている。
 「火」は神八井耳命を祖とする後裔の中に
 「火国造」
 〔現在では肥前肥後と「肥」文字となっている〕
 がある。
 
 この 
 八尻 yajur 〔祭祀〕及び
 屋須田(多) yasuta 〔祭場〕名は卑弥呼に係わる。
 
 この「ヒミコ」名の遺存がそこにあるからである。
 
 通町の南側八尻町の東隣りに「亀甲町」がある。
 
 現在「かめのこう」と称しているが、
 「カメノコウ」とも読め、
 同表現は「ヒミコ」の転訛、
 また八本町内の小字名に「亀光」とあり、
 「かめみつ」と称されているが、
 これも「カメコウ」となる。
 
 さらに八本町を越えた南にも
 「亀ノ甲」「亀光」「亀井川」とあり、
 これらが
 「ヒミコ」名の変化したものと考えられる。
 
 卑弥呼の「祭場」が
 具体的にどこにあったかを考察すると、
 その場所は八本町内である。
 
 同町名は「はっぽん」ではあるが、
 「ヤモト」とも読め
 「ヤマト」とも解釈できる。
 
 同地は小山を成す丘陵地〔台地〕で、
 この地ではそこを「岩倉」と呼んでいる。
 
 古代卑弥呼の時代の地形を想定すると、
 丘陵地の西側はすぐに有明海で
 波を台地の岸壁が防いでいたろうし、
 北側は現堂面川、
 南側は大牟田川の川床が広く、
 ほかの勢力が攻めるのを
 遮るのに好条件だったに違いない。
 
 現在、丘陵の北、西側面は
 石垣や石壁が築かれて
 くずれないように固められている。
 
 また丘陵の周囲は家屋によって占められている。
 
 丘陵上は
 2009年8月、2014年5月の段階では
 空地状態だったが、
 遺跡あるいは古代遺構の礎石といったものが
 埋められているとはみられない。
 
 なぜなら、
 同地は海の風が直接当たる海への突出地、
 つまり岬のような地形で、
 丘陵上の土などの軽いものは
 風に吹き飛ばされてしまい、
 吉野ヶ里のような遺物が地下に
 保留されるなどあり得ないだろう。
 
 よって考古学的調査:証明は
 ほとんど無理といえよう。
 
 現在この丘陵上には「大神宮」と称する
 高さ3㍍にならない石造りの祠が
 鳥居共ども建てられている。
 
 「大牟田市史第一章神社」の説明によると、
 「本社は稲荷字亀光に祭祀ありしを
  昭和14年11月に29日認可を得て此地移転す」
 とのことで、
 「稲荷の亀光」は前出現亀谷町内のことであろう。
 
 また大神宮の元鳥居の銘に
 
 「鳥居は紀元2598年11月、亀光社宅氏子中」と、
 
 その鳥居を建てた年度と
 主催した氏子の所在を示している。
 
 「社宅」とは三井会社の三池炭鉱など
 関係の仕事をしていた人々であろう。
 
 また石祠の基壇には
 「大正8年4月」との刻銘があり、
 その製作年月を示している。
 
 これらのなかで重要なのは、
 そこが「亀光」であったことである。
 
 同語は「ヒミコ」の転訛と考慮すれば、
 20世紀に至るいずれかの時
 神宮は八本町の丘陵から稲荷へ
 遷座していたものと思われる。
 
 ともかく卑弥呼の祭場の残存が
 なんとか遺留されているとみるべきだろう。
 
 「大神宮」はまた「太」と表記された記録もある。
 
 一般に同称は伊勢神宮の名称で
 ご祭神も天照大神となっている。
 
 しかし、
 その由来も真相はそう単純ではなさそうである。
 
 「太」を「フト」とすれば、
 「太占い」というように「占い」に係わり、
 卑弥呼が「女巫師」だったこともまた想起される。
 
 M.K記
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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(2)卑弥呼は「女王」にあらずして「女巫師」 [日本創世紀]

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 (2)卑弥呼は「女王」にあらずして「女巫師」
 
 倭人伝は卑弥呼について次のように記す。
 
  (1)投馬国(より)南至邪馬台国女王所都
 
  (2)(伊都国)世有王皆統属女王国
 
  (3)(傍国)自女王国以北
 
  (4)其國本以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年
 
    乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆
 
    巳長大無夫婿有男子一人給飲食傳辭出入
 
    居処樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛女王
 
 これだけの資料だけでも
 卑弥呼の性格はかなり判明する。
 
 まず考えておかなければならないのは
 卑弥呼は実際「女王」であったかである。
 
 「王」との表現概念は極めてシナ的であり、
 後世の史料でではあるが、
 『古事記』、『日本書紀』においての
 同語の使用はそう多くないし、
 当卑弥呼の登場挿話からしても
 「女王」とは疑わしい。
 
 「王」とは魏國のある黄河流域の人々には、
 武力あるいは智謀という「力」によって
 覇権を確保した主領のことである。
 
 卑弥呼はそうではない。
 
 (4)の冒頭にあるように
 往昔は男子が「王」であって、
 その間七、八十年は
 「相攻伐」を繰返していたので、
 「一女子」を王として決定したとあり、
 その経緯を「共立」といっている。
 
 つまり、
 倭の各国の「長・主領」たちが
 「相談」して決定したのである。
 
 東洋文庫『東アジア民族史』が
 そのように理解している。
 
 この「女子」の表記は
 単なる婦人との意味ではない。
 
 その後段に
 「無夫婿」とあることから明らかである。
 
 彼女について「事鬼道能惑衆」とある。
 
 その内容は
 
 「鬼道に仕え〔事:つとめる〕て、
  能(よ)く人々の心を右往左往させている」
 
 というもので、
 それは誠に「巫師」といったもので、
 女性であるから
 「女巫〔巫女〕」が彼女の役務である。
 
 「有男弟佐治國」とあるように
 彼女と共にいるのが「弟」と述べているのにも
 彼女が処女を保ってきた様子がみえる。
 
 鬼道の「鬼」は本来「神」と同義で、
 卑弥呼が仕えているのは「神道」である。
 
 鬼道とするのは、
 シナ<魏>の人々には知られない
 他国の神に奉仕しているといっているのである。
 
 その神道とはこれまで解釈してきた
 インド・アーリア人たちの神への信仰である。
 
 その状況を基に
 大牟田市内の地称などを考察すると、
 卑弥呼の館の所在地が明らかになってくる。
 
 和名類聚抄筑後国三毛郡内の郷名は
 「米生」「十市」「砥上」「日奉」とある。
 
 そのうちの「十市」は興味深い。
 
 和名類聚抄に同名があるのは数ヵ所だけで、
 もう一ヵ所は大和国(奈良県)十市郡名で、
 この呼称は現在までに続いている。
 
 同郡には「飯富」郷があり現在名「多」に、
 「延喜式」神名帳に登記されている
 「多坐彌志理都比古神社」が鎮座している。
 
 同社の祭神に「神八井耳命」が座す。
 
 同名は『古事記』に登場している
 神武天皇の皇子の称である。
 同命について興味深い記事がある。
 
 日本古典文学大系から転記する。
 
  乃ち當藝志美美を殺さむと爲たまひし時、
  神沼河耳命、其の兄神八井耳命に曰ししく、
  「那泥、汝命、兵を持ちて入りて、
   當藝志美美を殺したまへ」とまをしき、
  故兵を持ちて入りて殺さむとせし時、
  手足和那那岐弖、得殺したまはざりき。
 
  故爾の其の弟神沼河耳命、
  其の兄の持てる兵を乞ひ取りて、
  入りて當藝志美美を殺したまひき。
 
  故亦其の御名を稱えて建沼河耳命と謂ふ。
 
  爾に
  神八井耳命、弟建沼河耳命に譲りて曰けらく、
 
  「吾は仇を殺すこと能はず、
   汝命既に仇を得殺したまひき。
 
   故、吾は兄なれども上と爲るべからず。
 
   是を以ちて汝命上と爲りて、天の下治らしめせ。
 
   僕は汝を扶けて、忌人と爲りて奉らむ」
 
  とまをしき。
 
 記事の終わりにある「忌人(いみびと)」とは
 「祭祀をする人」で、
 當藝志美美命を自からの腕で打殺せなかった兄は
 弟に天下の統治を譲り、
 「祭祀・祭式」に専念することにするといっている。
 
 「八井耳」あるいは「延喜式」神名帳に
 多神社名に付随して記す
 「彌志理都比古」名について考察すると、
 「彌志理」は神名帳に「ミシリ」と訓じているが、
 これはまた「ヤシリ」とも読める。
 
 実は「八井」はその「ヤシリ」あるいは
 「ヤジリ」と読むのがここでは本当である。
 
 『古事記』が神八井耳命の後裔の一つに含めている
 小長谷造の地は長野県長野市塩崎〔旧更級郡〕に
 鎮座する長谷神社を中心とする地域であり、
 同神社も「延喜式」神名帳に登記されているが、
 祭神が「八井耳命」で、
 その別称が「八聖大神」という。
 
 「八聖」は「ヤヒジリ」ではあるが、
 「ヤジリ」で「彌志理」に近似する。
 
 平安時代終末期の史料「多神宮註進状」の
 祭神二座の神名にも「聖津」とあり
 「聖」字が含められている。
 
 「八井」の「井」が「ジリ」「シリ」と訓める
 何らかの由縁があるからであるが、
 極めて明白にある。
 
 サンスクリット語で「井」あるいは「泉」を
 jala というのに従っているのである。
 
 第2章の「(10)邪馬台国への経路」において、
 邪馬台国への経路を記述したが、
 その中で、延岡・高千穂から
 熊本県の白水村へ出て白川沿いを下ると紹介した。
 
 この「白」は誠に jala の音写である。
 
 「白川」の水源はその白水村で
 「白水」は「泉」字を二字に分けたものである。
 
 「井」は「泉」である。
 「八井」は「ヤジリ」「ヤシリ」である。
 
 同音の語源はサンスクリット語の
 yajiur で「祭祀・祭式」をいう。
 
 また
 「八井耳」との結合語は
 yajiur-manman の音写で
 「祭祀に専念(心)する」の語義である。
  
 上記した建沼河命との伝承の実相と合致する。
 
 さらに
 神八井耳命が奉祭されている多神社の地こそが
 「祭祀の場」、つまり「聖地」なのである。
 
 サンスクリット語の同義を表す用語の一つに
 tirtha があり、
 この音写が奈良県の十市郡、
 和名類聚抄筑後国三毛郡の十市郷となっている
 〔サンスクリット語のアルファベットでrと
  ある場合は発音されない〕。
 
 長々と説明したが、
 三毛郡十市郷に
 「聖地=十市」があったとの説明である。
 
 三毛郡は『古事記』が神八井耳命として載せる
 「筑紫三毛国造」の領地であり
 双方に
 共通の用語〔呼称〕が定着していておかしくない。
 
 その「十市」が、
 卑弥呼の「祭祀」を行っていた
 祭場及び居館のあった所である。
 
 M.K記
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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(1)黄金郷[svarna-bhumi]と邪馬台[jambu-dvipa] [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》
 (1)黄金郷[svarna-bhumi]と邪馬台[jambu-dvipa]
 インドの伝承に依ると
 jambu-dvipa は
 sumeru[別称meru]山にあった。
 
 同称は仏教で漢訳されて須弥山という。
 
 その sumeru 山がある広域名が
 svarna-bhumi  
 [スヴァルナ-ブミ]である。
 
 同山には金が豊富にあるとの概念で
  srimat〔金を持つ〕と形容された。
 
 Jambu-dvipa の北方には
 ヒマラヤ山脈が連なっている。 
 
 Hima-laya は
 hima〔雪〕-laya〔雪-山脈〕の合成語で、
 大牟田市歴木の東隣の地称
 「今山」の「イマ」は
 この himaの転訛で
 「イマ山」は「ヒマ山」にして
 「雪山」の語義となる。
 
 その今山地区の北限にあるのが大間山であるが、
 「おおま」は「umā 神に関する」との
 auma の音写である。
 
 Umā 〔ウマー〕は「ヒマラヤの女神」を表し、
 別称サウスヴァディでもある。
 
 この女神の「女人」を表わしているのが
 今山地区を水源に流れ出し、
 歴木から白川を経て有明海へ流入している
 「堂面川」の「ドウモ」名で
 「婦人」を語義とする。
 
 今山地区には白峰神社が鎮座するが、
 「白峰」とは
 雪を冠って白くなっている
 ヒマラヤ山脈をいったもので、
 今山〔雪山〕の由来を意義づける。
 
 雪山は多くの場合
 himacala〔ヒマラヤ山〕と表記されたが、
 近似音の hemecala は
 「黄金の山」との語義で 
 sumeru 山をいう。
 
 現在インドのヒマラヤ山麓に
  himacala pradesh
 〔ヒマカーラ州という行政区域〕がある。
 
 Heme あるいは hemeka は
 「金」ないし「黄金」を表す。
 
 同類語 haima は「雪、氷あるいは霜」
 または「黄金」の語義で、
 漢訳では「雪」「金」となっている。
 
 ヒマラヤの山々は朝から夕方まで太陽に輝き、
 その雪は黄金色に染まっている。
 
 1984年の初冬デリー〔インドの首都〕から
 北方のスリナガル間をインド航空の飛行機で
 往復したことがあるが、
 夕方ともなればそのヒマラヤ山脈の雪に映えた
 黄金色は際立っていた。
 
 「金」を語義とする hemeka そして
 「黄金色の雪山」 himaka 名こそ
 「卑弥呼:ヒミコ」名の語源と考える。
 
 それはアーリア系インド人とって
 尊敬を持って与えられる名称であり、
 jambu-dvipa〔邪馬台〕の中心に
 坐す者に相応しい。
 
 また市名の「オオムタ:大牟田」は
 同地の守護神といえる「女神」を語義とする
  āumrt が語源である
 
 M.K記
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第3章 邪馬台国は「御木国」にあった(3)御木国は邪馬台国の所在地 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第3章 邪馬台国は「御木国」にあった〔その所在地〕》
 
  (3)御木国は邪馬台国の所在地
 
  この二つの伝承に
 片方がもう一方を参考にして修作した感がある。
 
 『日本書紀』の挿話は現在のわれわれにとって
 巨大樹の大きさを理解するのに容易である。
 
 佐賀県杵島郡から阿蘇山の向こうまで
 陽の影が延びるという規模である。
 
 その様子は誠に jambu 樹の喬木振りに合致する。
 
 この巨木伝承のある地が jambu-dvipa と称された
 「邪馬台国」の所在地なのである。
 
 そこが「御木国」にして風土記逸文が
 「筑後國の南部」、あるいは
 和名類聚抄が筑後國「三毛郡」とする地である。
 
 これらの情報から肥後國(熊本県)との
 推測は妥当し得ず除外される。
 
 三毛郡は現在の福岡県大牟田市域に当たる。
 
 また、
 『古事記』が神武天皇のその皇子
 「神八井耳命」の後裔とする
 「筑紫三家國造」の地でもある。
 
 現在、
 この三毛郡に当たる大牟田市内に
 「歴木」の字名がある。
 また、
 景行天皇の行宮「高田宮」は
 同市の北隣り高田町に遺存されている。
 
 また地理的側面を観察すると、
 現在の有明海岸線は埋立てにより
 かなり海に入り込んでいて、
 古代の海岸線は
 もっと内陸にあったはずである。
 
 その海岸を想定して、
 筑紫平野に連なる所で港を造り得た場所が、
 この有明海最奥の用地であり、
 平坦な岸壁が突出していたのではないか。
 
 地名「唐船」の「カラ:唐」は末廬国で
 「唐津」の「カラ」を
 「船溜り」と説明したのと同じで、
 唐船は正にその船溜り名である。
 
 同地は筑紫平野、
 佐賀平野で産出される物産の
 積出の港として、
 その重要さが高かったに違いない。
 
 その物産の中でも特に貴重だったのは
 絹製品であろう。
 
 その事情は後段で詳しく説明する。
 
 大牟田市の南部を諏訪川が流れるが、
 この「スワ」名は
 長野県の諏訪大社のある「諏訪」と
 表記は同じだが全く関係ない。
 
 サンスクリット語の svarna の転用で、
  Svarana-bhumi〔黄金郷〕あるいは
 avar〔天界〕svarga〔光明〕と
 インド系の人々が
 呼んでいたことに因ると推測される。
 
 その理由は後段の説明で明らかになる。
 
 現在同地には「天領」との地称があり、
 江戸時代徳川幕府の直営地(直轄領)を
 称したのとは
 全く関係がないので「天界」の意味で、
 同地の人々が古来伝承してきた概念から
 呼び出したものと考える。
 
 インドを漢語で「天竺」と表記するように
 「天」はインドと近い関係にある。
 
 何はさておき、邪馬台国の所在地は
 「御木国」、「三毛郡」、
 現在の大牟田市域であった。
 M.K記
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第3章 邪馬台国は「御木国」にあった(2)巨木伝承〔風土記逸文など〕 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第3章 邪馬台国は「御木国」にあった〔その所在地〕》
 
 (2)巨木伝承〔風土記逸文など〕
 
 ところで、
 その有明海岸の地域に「巨大樹」伝承がある。
 
 まず筑後国風土記の逸文に
 「三毛郡」と題する資料がある。
 
 日本古典文学大系『風土記』〔岩波書店〕から
 その読み下し文を転載ある。
 
  公望の私記に曰く、
  案ずるに筑後の国の風土記に曰く、
  三毛の郡、昔者、棟木一株、
  郡家の南に生ひたりき。
 
  其の高さは九百七十丈なり。
 
  朝日の影は
  肥前の國藤津の郡の多良の峯を蔽ひ、
  暮日の影は
  肥後の國山鹿の郡の荒木の山を蔽ひき。
 
  云々。
 
  因りて御木の國と曰ひき。
 
  後の人、訛りて三毛と曰ひて、
  今は郡の名と爲す。
 
 これとほとんど同様の記事が
 『日本書紀』「景行天皇」
 十八年秋七月の条に載っている。
 
 同日本古典文学大系
 『日本書紀』から転載する、
 
  筑紫後國の御木に到りて、
  高田宮に居します。
 
  時に僵(たふ)れたる樹有り。
  
  長さ九百七十丈。
 
  百寮、其の樹を蹈(ほ)みて往来ふ。
 
  時人歌して曰く、
 
   朝霜の 御木のさ小橋 
   郡臣い渡らすも 御木のさ小橋 
 
  爰に天皇問ひて曰く
 
   「是何の樹ぞ」とのたまふ。
 
  一の老父有りて曰さく、
 
  「是の樹は、歴木といふ。
   嘗、未だ僵れざる先に、
   朝日の暈に當りて、
   即ち杵嶋山を隠しき。
   夕日の暈に當りては、
   亦阿蘇山を覆しき」とまうす。
 
  天皇の曰はく
 
  「是の樹は、神しき木なり。
   故。この國を御木國と號べ」とのたまふ。
 M.K記
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第3章 邪馬台国は「御木国」にあった(1)「邪馬台」の祖語と語義 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第3章 邪馬台国は「御木国」にあった〔その所在地〕》
 
 (1)「邪馬台」の祖語と語義
 さて、
 その所在地を説明する段階となったが、
 「邪馬臺」は古代の漢語音で
 何と発音されていたかを調べてみる。
 
 「邪」は「シャ、ジャ〔hasieh〕」あるいは
 「ヤ〔yeh〕ヨ〔yū〕」、
 「馬」は「バ、メ〔ma〕」、
 「臺」は「タイ、ダイ〔tai〕」で
 
 これまでの見解を踏まえると
 〔yeh-ma-tai:ヤ-マ-タイ〕で、
 
 またその発音は
 〔hasieh-ma-tai:ジャ-マ-タイ〕でもある。
 
 魏略には「鎮馬台」とあり
 「ジャマタイ」に近い。
 
 そこで考慮すべきは
 「ヤ」と「ジャ」の発音が
 両方可能な用語であるかである。
 
 それをこれまで参考にしてきた
 末廬国や奴国、不弥国名の祖語となった
 サンスクリット語や
 アズミ語の用語あるいは
 倭語にさぐってみると、
 興味ある用語があることが解った。
 
 サンスクリット語の 
 jambu-dvipa がそれで、
 本書はそれを「ヤマタイ」の
 源語と結論づける。
 
 サンスクリット語は
 世界の言語学のうえで
 今では
 インド・ヨーロッパ語圏といわれる
 ギリシャ語、ラテン語、ペルシア語、
 ドイツ語、フランス語、英語などと
 同類の一言語として了解されている。
 
 そのうち日本の呼称 Japan はまた
 同じ仲間の異なった言語においては
 Yapan と表記発声されている。
 
 つまり 
 ja と ya には互換性があるのである。
 よって 
 jambu は「ジャンプ」でもあり、
 「ヤンプ」でもある。
 
 よって
 jambu-dvipa は「ヤマタイ」でおかしくない。
 
 同語は漢訳され
 「閻浮提:ジャンプダイ」と音写され、
 また「贍部洲」とも表記されている。
 
 Dvipa が「提」となっていて
 「台」とほとんど同音である。
 
 また「洲」に込められた概念は興味深い。
 サンスクリット語の同語の語義は
 
 「ジャンプ樹のある
  大きな二つの河に挟まれた土地」で
 
 「インド亜大陸」を表象している。
 
 まず 
 dvi は英語のtwoで
 pa が「河中の砂州」を表わしている。
 
 「二つの大きな河」とは
 インド洋とアラビア海で、
 双方にインドは東西を囲まれている。
 
 次に 
 jambu であるが、
 「ジャンプ樹」と表記される
 仏教で須弥山と漢訳される
 sumeru 山にある巨大樹〔喬木〕の名称で、
 その大樹を中心とする台地〔州〕が
  jambu-dvipa である。
 
 同語の一般的通念は
 「インド亜大陸」ではあるが、
 また「インド」をも指している。
 
 このような背景から
 「ヤマタイ」は
 「インド」のことと理解される。
 
 このインド人、アーリア系の人々である。
 
 前章「(6)奴国」の説明の際」
 
 その中心的人々は
 非アーリア系の人々と説明し、
 
 また「(7)不弥国」の場合
 
 その語源が 
 arya-bhumi〔有弥の里〕の bhumi にあり、
 同地が日本海側の
 アーリア人の居留地とも説明した、
 
 邪馬台国こそ
 アーリア人系貿易商人たちの
 中心的居留地だったと考えられる。
 
 なにしろ有明海の「アリアケ」は
 ARIAKEが源語で
 「インド」ないし「インド人」だからである。
 
 M.K記
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第2章 魏書倭人伝の諸国地理(10)邪馬台国への経路 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
  
 (10)邪馬台国への経路
 邪馬台国の傍国のうち
 弥奴国、斯馬国の所在について考察してみた。
 
 この考察から
 傍国は筑紫平野佐賀平野にあったと知られる。
 
 倭人伝には邪馬台国の統べる規模を
 「七萬餘戸」としており、
 両平野の収容力は
 投馬国〔宮崎平野〕の五万戸、
 奴国の二万戸と比べて十分な広さといえる。
 
 そして傍国の最後の「奴国」を
 「(6)奴国」と同じとすると、
 倭人伝が記す諸国間は位置関係には
 大まかに言って円環の論理が成り立つ。
 
 魏書に「倭人伝」を
 記述した人陳寿に対して
 倭に渡来し帰国後に報告した者は、
 九州(島)を回周する行程を基に
 説明したのである。
 
 倭人伝は邪馬台国の傍国を
 「自女王国以北」という「女王国」とは
 邪馬台国をいう。
 
 「邪馬壹国女王所都」と前段にある。
 
 「以北」の表記から、
 邪馬台国は傍国の南にあることになる。
 
 その範囲は筑紫平野の南部から
 肥後国(火の国)といわれた
 熊本県北部までとなる。
 
 そこで投馬国より
 
 「船で十日行って、
  さらに陸地を行くこと一月」
 
 について考察する。
 
 これまで大方の解釈は、
 「船で十日行って、
  更に陸地を行くこと一月で
  邪馬台国に至る」という
 
 水行陸行加算の、
 しかも直行を基にしている。
 
 そうなれば、
 本書が投馬国を宮崎平野とするとして、
 南方は鹿児島県でさらに南方は島嶼海域で、
 陸を一月も行くなど想定できない。
 
 そこに参照すべきは、
 最後の傍国の奴国考察で
 確認した円環の論理である。
 
 南方への直行ではない
 屈折行程を想定すれば
 極めて現実的で理解しやすい。
 
 しかも実際の所要行程は
 「水行十日陸行一月」ではなく、
 「水行一月陸行十日」であったはずである。
 
 「紹興版本」などの元書には
 一切句読点は使われておらず、
 「水行十日」と「陸行一月」の間にも
 もちろん句読点はない。
 
 よって
 「水行」と「陸行」を全く異なった行程と
 決めてかかっても不自然ではない。
 
 魏書「倭人伝」の記述者あるいは
 倭からの情報を紹介した者か
 誰かは解らないが、
 
 「水行一月陸行十日」を
 
 一般的常識で改変してしまったのである。
 
 つまり
 
 「船で一月(約三十日)もかかるとろを、
  歩いて(陸行)行って十日で
  行き着くはずがない。
  これは逆だ」
 
 と翻案してしまったのである。
 
 その者も直線行程しか
 思っていなかったことになる。
 
 しかし曲線的な湾曲状況であれば、
 船で一月かかる位置まで歩いて
 十日で行き着くことは可能である。
 
 具体的にどうかというと、
 投馬国(宮崎平野)から南行し、
 都井岬から
 鹿児島県の大隅半島薩摩半島を周回して
 串木野市阿久津沖か八代海島原湾を経て
 有明海へ入るというのが航海(水行)である。
 
 荒海の危険を考慮すれば
 天草半島の西天草灘を回るというのは
 あまりないと思われる。
 
 倭人伝が不弥国(福津市)から投馬国まで
 水行(船で)二十日としているのに比較すれば、
 同行程の一月(三十日くらい)とするのは
 妥当な所要日数といえよう。
 
 また「陸行十日」の行程は、
 宮崎平野から延岡市周辺まで
 海岸沿いに北上し、
 そこから五ヶ瀬川に沿って
 遡上して高千穂へ出、
 熊本県の高森町白水村へと
 阿蘇山の南麓を白川に沿って西へ行き、
 長陽村から菊池郡へ入り、
 大津町合志町へ、
 そして玉名市にまで至ると
 そこは有明海に近い。
 
 いうなれば、
 現在の豊後街道と称される道程に当たる。
 この行程は丁度円の直径をなすような状況で、
 古代においてさえ、
 概ね十日前後あれば歩いて行き着けただろう。
 
 そこには船でも行け(水行)、
 もちろん歩いて(陸行)も
 行き着ける所なのである。
 
 海中の離れ島などにあったわけではない。
 
 邪馬台国の所在地は
 傍国の関係で分析したように
 筑紫平野の南部から熊本県北部に想定され、
 有明海沿岸で船が着けられる所である。
 
 M.K記

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第2章 魏書倭人伝の諸国地理(9)邪馬台国への道程 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
  
 (9)邪馬台国への道程
 倭人伝が記す帯方郡から投馬国までの行程は
 その記述を丁寧に読み込めば比較的に容易に
 理解できる。
 
 しかし、
 その投馬国から邪馬台国までは
 記述された行程のままに従うと明らかに
 実際の陸地の配置から逸脱してしまう。
 
 倭人伝は
 「南至山壹國女王之所都水行十日陸行一月」
 とある。
 
 ※図5 
  参考:魏志倭人伝の「水行十日陸行一月」
  出典:〔古代史獺祭〕
 
  魏志倭人伝(『三國志魏書東夷伝』より) 
  西晋 陳寿(233~297)撰。
 
 『三國志』は
 黄初元年(220)~太康元年(280)の
 三国時代の魏・屬・呉の歴史を記した史書。
 
 三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人 
 原文+読み下し
 
 ここでその当該地を比定する前に
 考察しておかなければならない要件がある。
 
 (a) 傍国(属国)の「奴国」
 
 倭人伝では「女王国以北」にある傍国として
 次の諸国を記載する。
 
 斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、
 好古都国、不呼国、妲奴国、對蘇国、蘇奴国、
 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、
 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、
 奴国
 
 そして最後に奴国とある。
 
 考察しなければならないのは、
 その最後の「奴国」である。
 
 この国名は<(6)奴国>で
 その所在地や国柄を
 明らかにした博多湾の奴国と同字である。
 
 この「奴国」を双方同じであるか
 別国とするかを決めなければならない。
 
 本書は結論と同じ国を重複して
 記載したと解釈する。
 
 (b) 彌奴国
 
 上記傍国諸国のすべての所在地を
 比定するのは困難である。
 
 しかし「弥奴国」の所在地は明白である。
 和名類聚抄に
 肥前国三根郡、また
 神埼郡三根郷とある
 「三根」名の地で、
 具体的には吉野ヶ里遺跡周辺と解釈される。
 
 「三根」「弥奴」は双方とも「ミネ」で、
 その語源はサンスクリット語の
 mena〔女子〕あるいは
 menā〔婦人〕を表す。
 
 遺跡の所在地称は現在「田手」で、
 遺跡の南端田手川沿いに
 田手神社も鎮座している。
 
 この二字は現在「タデ」と呼称されるが、
 本来は「デンシュ」あるいは「たんで」で、
 サンスクリット語の 
 tundava の転訛である。
 
 その語は英語の 
 dance と語源を同じくし、
 「踊り」「舞」を表す。
 
 この「舞」は
 「女子の舞子」を理由としている。
 
 その由縁は「巫女舞」で、
 考古学的に吉野ヶ里遺跡に遺る祭壇に
 係わっていると考える。
 
 巫女がいて、その祭壇において神に対し
 「舞」を献げたのであろう。
 
 因みに遺跡名の「吉野」を音読みすれば
 「キーノ」となり、
 サンスクリット語の
 gnā の音写で、
 「女神」ながら「后神」である。
 「巫女」は本来「神の妻」で
 あることが要件で、
 一度でも人間の妻となった者は
 その要員とはなり得ない。
 
 付言しておけば、
 卑弥呼もそのような女性で一生涯
 神に仕える「神妻(神妃)」で
 決して人の相手ではなかった。
 
 吉野ヶ里時代、
 紀元頃から5世紀頃までの
 同地の社会性は「長」なる者はさておき、
 生活の中心には巫女が坐して
 それぞれの社会を司っていたのである。
 
 「ミネ:彌奴」は
 「キーノ:神女」に相通じており、
 この遺跡地が
 弥奴国であったことは確実である。
 
 和名類聚抄の三根郡には郷名として
 「物部」を載せているが、
 当該地は遺跡の東方、現北茂安町物部に
 物部神社が鎮座するので同社周辺といえる。
 
 この「物部」は
 古代の雄族「物部氏」と
 用字が同じであるが全く関係がない。
 
 まず「板部」とされている
 「板:イタ」は
 古代から「占い」を用務としている
 「イタコ:板子」に依っている。
 
 板子は女子のみが務められる。
 
 男子はその用務の任にはない。
 
 その「イタ」はアズミ族の言葉で
 uzu〔占い師〕 が原語である。
 
 その語には
 「神の意向(神託)を人(々)に伝える」のが
 職能としてある。
 
 「物部」は「フッヘ」でおなじく
 pa-tu-ag〔呼ぶ-呪文-(神の)指図〕で、
 「神の命令(神託)を呼ぶ」との語義となる。
 
 同様の用法・背景による「物部」は
 高知県東部、
 徳島県に向かって流れる物部川沿いの
 「物部郷」である。
 
 同郷の伝統は「占い師」の里で知られる。
 
 また
 吉野ヶ里より東方鳥栖市姫方町あるいは
 福岡県小郡市の「姫社」との神社名の漢字
 「姫」は
 すでに詳説したように倭人の伝統に係わる
 「目を上(天)に向けている女人」形で
 「巫女」を表す。
 
 その訓み「ヒメ」はアズミ族の言葉で
 pa-me〔呼ぶ-神託〕の音写、語義で
 「物部」と同義である。
 
 (c) 斯馬国
 
 倭人伝が記す最初の傍国は
 この斯馬国である。
 
 そのことから
 同国の当時における重要さが覗われる。
 
 その比定地は
 現福岡県朝倉郡の夜須町区域である。
 夜須郡名は和名類聚抄
 〔平安時代初期〕に載るが、
 それより早く
 『日本書紀』仲哀天皇9年に
 「取得熊鷲、我心則安、故号其所安也」と
 「安」と表記して
 その地名由来を伝えている。
 
 だが、
 その名称起源は信じられない。
 
 確かにその町内には「安野」との字名はある。
 「安」は奴国の主体氏族
 アズミ族を「安曇」と
 表記するように「アス:es」で、
 語義が「家屋」であったが、
 この「安」「夜須」も同語を語源とする。
 
 夜須町は比較的博多湾に近く
 奴国の南側至近地で、
 同地に奴国の文化的影響があったはずだ。
 
 町内南部に「四三島」との地名がある。
 
 現在「しそしま」と称されているが、
 「ヨソシマ」であったともいえる。
 
 「ヨソ」は「ヤス」にして
 「安・夜須」と同根であろう。
 
 そしてこの「シマ」こそ
 倭人伝の国名「斯馬」の現
 在への遺存なのである。
 
 「ヨソシマ」はアズミ族の用語である
 es-za-mah〔家-人-高い〕の転訛である。
 
 語義は「高位の人の家」となる。
 
 「高位の人」は身体的なことではなく
 身分的に「上位の人」で、
 町内の地名でいう「町内」に相当する。 
 
 長者町内には「八並町内」という富豪が
 かつていたという伝承があり、
 その宅地跡があるという。
 
 「八並:ヤツナミ」はアズミ族の用語で
 es-za-min〔家-人-上位の〕あるいは
 es-min〔家-高い〕で「上位の人の家」で
 es-za-mah〔四三島〕と同義をなす。
 
 さらに長者町の北隣りの地名
 「三並」は
 mez(miz)-min〔主人-上位の〕で
 「長者」に同じである。
 
 また
 「安野:ヤスノ」は
  es-en〔家-主人〕で長者(高位者)の屋敷、
 シナ(中国)流に言えば「王宮」を指す。
 
 「ヤス:安」とはその長者屋敷を表し、
 「シマ:斯馬」は「長者」あるいは
 「主」を表わしている。
 
 倭人伝には「大人」との表記があるのも
 これらのza-mah〔人-大きい〕そのままである。
 
 倭人伝にはまた
 
 「其國本亦以男子爲王住七八十年
  倭國乱相攻伐暦年共立一女子爲王」と記し、
 
 往昔「男王」がいたと述べている。
 
 けだし、
 斯馬国とは
 その男王の居館(屋敷)のあった所である。
 
 因みに倭人の言葉「和(倭)語」においては
 si-maは「主」「首領」を表す用語である。
 
 これらの考察から
 現代の日本語の性格及び
 社会慣習がみえてくる。
 
 他人に対する謙譲語の
 「~さま:様」
 「~さん」はそれぞれ
 za-mah〔人-高位の:上位の人〕、
 za-ni(m)〔人-高いの:上位の人〕である。
 
 また
 「屋敷:ヤシキ」は 
 e-sig〔家-美しい〕で
 「華美な家」、
 「屋代:ヤシロ」は
 e-sir〔家-美しい〕で同義である。
 
 そして何はさておき
 「家」を「イエ」というのは
 e〔イェ〕の音写である。
 
 最後に和名類聚抄にはない
 現在の郡名「朝倉:アサクラ」だが、
 同語もe-zu-gua〔家-人-高い〕で
 「高位の人の家」で「シソシマ」と
 同義となる。
 M.K記
 

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第2章 魏書倭人伝の諸国地理(8)投馬国 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
 
  (8)投馬国
 その
 「南方へ二十日行くと投馬国に着く」
 を考察すると、
 福津市あるいは古賀市辺りから
 真直ぐに南方へは陸地で、
 「水行」は不可能である。
 
 「南方への水行」とは
 同地から西方へ行くか
 東方へ 向かって関門海峡を迂回して
 周防灘〔豊予海峡〕へ
 出るかの二つしかないが、
 西方へ行っても南方へは舵は取れないし、
 倭人伝の記載の様からしてもあり得ない。
 
 やはり周防灘へ出てから
 南へ向かう航海としか
 妥当性はない。
 
 「二十日」についても
 不弥国からの地理をみると
 陸を南下しても「水行」できる様子は
 全くないし、
 その地域には
 すでに多くの人々が居住していて
 倭人伝が称する
 「傍国」の成立できる平地がかなりある。
 
 やはり豊予海峡から
 船で南方へ航行すると解釈すべきである。
 
 不弥国から船で
 二十日程度の距離として考慮すると、
 投馬国の当該地は
 大分県を越えた宮崎県域となる。
 
 その該当地は
 同県の延岡市から宮崎市に至る、
 おおまかにいうと宮崎平野である。
 
 その地方は倭人伝がいう
 「五萬餘戸」を養うのに十分な広さである。
 
 宮崎県の海岸〔日向灘〕、
 平野部域には「トミ」が付く地名は多くある。
 岡富、富美山、東海:とうみ(延岡市)、
 富高、富島(日向市)、
 藤見(トウミ:児湯郡都農町)、
 富田(児湯郡新富町)、
 国富町(東県方郡)、
 富吉(宮崎市)。
 
 そして極めつけは西都市の都萬神社及び
 周辺の「妻」名地称あるいは岡富である。
 
 これらの「トミ」は
 「投馬国」と倭人伝が記す
 「トーマ」と語源を同じくすると考える。
 
 その「トミ」ないし「トーマ」の
 語義あるいは語源は何か。
 
 この地は「(六)奴国」で登場させた
 アズミ族と祖地を同じくする人々の勢力地で、
 彼等の用語で 
 dum あるいは dim がその語源で
  「大工」が語義である。
 
 しかもこの地の「大工」は「船大工」で、
 ここは造船の地である。
 
 その状況を説明いるのが
 都萬神社周辺の地称である。
 
 神社名の「都萬」及び「妻」は
 dum の音写で「大工」であるが、
 「御船」名がある通り「船大工」である。
 
 同社を包囲するようにある地称
 「右松」がそれを説明している。
 
 まず
 「松:マツ」は
 ma-du〔船-造(作)る〕
 また「右:ミギ」は
 ma-gi〔船-木〕で「木船」であることから
 
 「ミギマツ」は「木船作り」となり、
 船大工の仕事を表す。
 
 紀元前後の外洋船は木造船しかない。
 
 次に「宮崎」を考えてみたい。
 
 同名は宮崎市神宮に鎮座する
 「宮崎神宮」に由来する。
 
 同神宮近辺には
 「船塚」「大工」といった地称もあるが、
 何といっても
 「松」が付された地名区域が多い。
 高松、松橋、老松、松山とある
 
 「松:マツ」は
 西都市の都萬神社の場合と同様
 ma-du〔船-作り〕の転訛である。
 
 宮崎神宮のご祭神の第一は神武天皇であり、
 『日本書紀』「神武東征」段にある
 「舟軍」の舟の造営に関係する。
 
 同市の南に位置する南郷町辺りには
 今でも古代に船材として使われた
 木材の原木
 「檍(もち)〔樫類〕」がある。
 
 同字は「檍原〔アワキハラ〕」で、
 現在阿波岐ヶ原の地称となっている。
 
 神宮名の「ミヤサキ:宮崎」は
 アズミ族の 
 ma-e-sag〔船-家-王〕で
 「王の屋船」である。
 
 神武天皇東征伝承及び
 宮崎神宮の神性に合致する呼称である。
  M.K記

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第2章 魏書倭人伝の諸国地理 [日本創世紀]

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《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
 
  (8)投馬国
 その
 「南方へ二十日行くと投馬国に着く」
 を考察すると、
 福津市あるいは古賀市辺りから
 真直ぐに南方へは陸地で、
 「水行」は不可能である。
 
 「南方への水行」とは
 同地から西方へ行くか
 東方へ 向かって関門海峡を迂回して
 周防灘〔豊予海峡〕へ
 出るかの二つしかないが、
 西方へ行っても南方へは舵は取れないし、
 倭人伝の記載の様からしてもあり得ない。
 
 やはり周防灘へ出てから
 南へ向かう航海としか
 妥当性はない。
 
 「二十日」についても
 不弥国からの地理をみると
 陸を南下しても「水行」できる様子は
 全くないし、
 その地域には
 すでに多くの人々が居住していて
 倭人伝が称する
 「傍国」の成立できる平地がかなりある。
 
 やはり豊予海峡から
 船で南方へ航行すると解釈すべきである。
 
 不弥国から船で
 二十日程度の距離として考慮すると、
 投馬国の当該地は
 大分県を越えた宮崎県域となる。
 
 その該当地は
 同県の延岡市から宮崎市に至る、
 おおまかにいうと宮崎平野である。
 
 その地方は倭人伝がいう
 「五萬餘戸」を養うのに十分な広さである。
 
 宮崎県の海岸〔日向灘〕、
 平野部域には「トミ」が付く地名は多くある。
 岡富、富美山、東海:とうみ(延岡市)、
 富高、富島(日向市)、
 藤見(トウミ:児湯郡都農町)、
 富田(児湯郡新富町)、
 国富町(東県方郡)、
 富吉(宮崎市)。
 
 そして極めつけは西都市の都萬神社及び
 周辺の「妻」名地称あるいは岡富である。
 
 これらの「トミ」は
 「投馬国」と倭人伝が記す
 「トーマ」と語源を同じくすると考える。
 
 その「トミ」ないし「トーマ」の
 語義あるいは語源は何か。
 
 この地は「(六)奴国」で登場させた
 アズミ族と祖地を同じくする人々の勢力地で、
 彼等の用語で 
 dum あるいは dim がその語源で
  「大工」が語義である。
 
 しかもこの地の「大工」は「船大工」で、
 ここは造船の地である。
 
 その状況を説明いるのが
 都萬神社周辺の地称である。
 
 神社名の「都萬」及び「妻」は
 dum の音写で「大工」であるが、
 「御船」名がある通り「船大工」である。
 
 同社を包囲するようにある地称
 「右松」がそれを説明している。
 
 まず
 「松:マツ」は
 ma-du〔船-造(作)る〕
 また「右:ミギ」は
 ma-gi〔船-木〕で「木船」であることから
 
 「ミギマツ」は「木船作り」となり、
 船大工の仕事を表す。
 
 紀元前後の外洋船は木造船しかない。
 
 次に「宮崎」を考えてみたい。
 
 同名は宮崎市神宮に鎮座する
 「宮崎神宮」に由来する。
 
 同神宮近辺には
 「船塚」「大工」といった地称もあるが、
 何といっても
 「松」が付された地名区域が多い。
 高松、松橋、老松、松山とある
 
 「松:マツ」は
 西都市の都萬神社の場合と同様
 ma-du〔船-作り〕の転訛である。
 
 宮崎神宮のご祭神の第一は神武天皇であり、
 『日本書紀』「神武東征」段にある
 「舟軍」の舟の造営に関係する。
 
 同市の南に位置する南郷町辺りには
 今でも古代に船材として使われた
 木材の原木
 「檍(もち)〔樫類〕」がある。
 
 同字は「檍原〔アワキハラ〕」で、
 現在阿波岐ヶ原の地称となっている。
 
 神宮名の「ミヤサキ:宮崎」は
 アズミ族の 
 ma-e-sag〔船-家-王〕で
 「王の屋船」である。
 
 神武天皇東征伝承及び
 宮崎神宮の神性に合致する呼称である。
  M.K記

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第2章 魏書倭人伝の諸国地理(7)不弥国 [日本創世紀]

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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
 
 (7)不弥国
 奴国(博多湾)から
 東方へ百里行った処と説明している。
 
 当該地を抽出するのに役立つ要件は
 福津市(旧宗像郡福間町)の
 海岸寄りに小さな区域ではあるが、
 「有弥の里」とあることにある。
 
 同地は古賀市との境界にあり、
 同市内に続く海岸地は「花見」と称される。 
 
 「有弥の里」を奴国の「奴」同様
 サンスクリット語で解釈すると
 ariya-bhumi〔アーリア人の里〕であり、
 「不弥」の「フミ」は bhumi の音写で、
 同地がインドのアーリア人の系の
 居留地だったとの示しである。
 
 末廬国などと比して同地には
 船が着くのに適当な岸壁などはないが、
 広い砂浜があり、
 船はそこに乗り上げるようにして
 正面から突き上げるのである。
 
 紀元頃の古代船は現代のような巨大船で、
 砂浜に突込んでも破損するような
 馬力もなかった。
 
 風力を頼りに航行する
 速力の低い規模の小さいものであった。
 
 「花見」は「カミ」ではあるがまた
 「ホミ」で bhumi〔里〕の転訛である。
 
 同地には、
 古賀市内に
 小鳥神社〔市内久保〕や
 千鳥との地名があるように
 インドのバラモン教系の
 「儺:放生会」信仰がうかがわれる。
 
 古賀市名の「コガ」が
 サンスクリット語の 
 khaga で「鳥」が源義である。
 
 倭人章が「千餘戸」と記す通り
 そう広い領域ではなかった。
 
 ここで注目しておきたのは、
 日本海玄界灘側にも
 インド・アーリア人の貿易商人が
 大規模ではないが
 進出して来ていたことである。
 
 次いで倭人章が記すのは
 「南至投馬國水行二十日」である。
 ※紀元頃の古代船(フェニキア軍艦)
  M.K記

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第2章 魏書倭人伝の諸国地理「山海経」 第十八 海內經 [日本創世紀]

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《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
 「山海経」 第十八 海内經
 東海之内,北海之隅,有國名曰朝鮮;天毒,
 其人水居,偎人愛之。
 西海之内,流沙之中,有國名曰壑市。
 西海之内,流沙之西,有國名曰氾葉。
 流沙之西,有鳥山者,三水出焉。
 爰有黄金、璿瑰、丹貨、銀鐵,皆流于此中。
 又有淮山,好水出焉。
 流沙之東,黑水之西,有朝雲之國、司彘之國。
 黄帝妻雷祖,生昌意。
 昌意降處若水,生韓流。
 韓流擢首、謹耳、人面、豕喙、麟身、渠股、豚止,
 取淖子曰阿女,生帝顓頊。
 流沙之東,黑水之閒,有山名不死之山。
 華山青水之東,有山名曰肇山。
 有人名曰柏子高,柏子高上下於此,至于天。
 西南黑水之閒,有都廣之野,后稷葬焉。
 其城方三百里,蓋天地之中,素女所出也。
 爰有膏菽、膏稻、膏黍、膏稷,百榖自生,冬夏播琴。
 鸞鳥自歌,鳳鳥自儛,靈壽實華,草木所聚。
 爰有百獸,相羣爰處。此草也,冬夏不死。
 南海之内,黑水青水之閒,有水名曰若木,
 若水出焉。
 有禺中之國。有列襄之國。
 有靈山,有赤蛇在木上,名曰蝡蛇,木食。
 有鹽長之國。有人焉鳥首,名曰鳥民。
 有九丘,以水絡之,名曰陶唐之丘、叔得之丘、
 孟盈之丘、昆吾之丘、
 黑白之丘、赤望之丘、參衛之丘、武夫之丘、
 神民之丘。
 有木,青葉紫莖,玄華黄實,名曰建木,百仭無枝,
 上有九矚,下有九枸,其實如麻,其葉如芒。
 大皥爰過,黄帝所為。
 有嬴窳,龍首,是食人。
 有青獸,人面,名曰猩猩。
 西南有巴國。
 大皥生咸鳥,咸鳥生乘釐,乘釐生後照,
 後照是始為巴人。
 有國名曰流黄辛氏,其域中方三百里,其出是塵。
 有巴遂山,澠水出焉。
 又有朱卷之國。
 有黑蛇,青首,食象。
 南方有贛巨人,人面長脣,黑身有毛,反踵,
 見人則笑,唇蔽其目,因可逃也。
 又有黑人,虎首鳥足,兩手持蛇,方啗之。
 有羸民,鳥足,有封豕。
 有人曰苗民。
 有神焉,人首蛇身,長如轅,左右有首,衣紫衣,
 冠旃冠,名曰延維,人主得而饗食之,伯天下。
 有鸞鳥自歌,鳳鳥自儛。
 鳳鳥首文曰德,翼文曰順,
 膺文曰仁,背文曰義,見則天下和。
 又有青獸如莵,名曰囷狗。
 有翠鳥。
 有孔鳥。
 南海之内有衡山,有菌山,有桂山。
 有山名三天子之都。
 南方蒼梧之丘,蒼梧之淵,其中有九嶷山,
 舜之所葬,在長沙零陵界中。
 北海之内,有蛇山者,蛇水出焉,東入于海。
 有五彩之鳥,飛蔽一郷,名曰翳鳥。
 又有不鉅之山,巧偅葬其西。
 北海之内,有反縛盗械,帶戈常倍之佐,
 名曰相顧之尸。
 伯夷父生西岳,西岳生先龍,先龍是始生氐羌,
 氐羌乞姓。
 北海之内,有山,名曰幽都之山,黑水出焉。
 其上有玄鳥、玄蛇、玄豹、玄虎、玄孤蓬尾。
 有大玄之山。
 有玄丘之民。有大幽之國。
 有赤脛之民。
 有釘靈之國,其民從郟已下有毛,馬蹏善走。
 炎帝之孫伯陵,伯陵同呉權之妻阿女緣婦,
 緣婦孕三年,是生鼓、延、殳。
 殳始為侯,鼓、延是始為鍾,為樂風。
 黄帝生駱明,駱明生白馬,白馬是為鯀。
 帝俊生禺號,禺號生淫梁,淫梁生番禺,
 是始為舟。
 番禺生奚仲,奚仲生吉光,吉光是始以木為車。
 少皥生般,般是始為弓矢。
 帝俊賜羿彤弓素矰,以扶下國,
 羿是始去恤下地之百艱。
 帝俊生晏龍,晏龍是為琴瑟。
 帝俊有子八人,是始為歌舞。
 帝俊生三身,三身生義均,義均是始為巧偅,
 是始作下民百巧。
 后稷是播百榖。
 稷之孫曰叔均,始作牛耕。
 大比赤隂,是始為國。
 禹、鯀是始布土,均定九州。
 炎帝之妻,赤水之子聽訞生居,炎居生節竝,
 節竝生戲器,戲器生祝融,祝融降處於江水,
 生共工。
 共工生術器,術器首方顚,是復土穰,以處江水。
 共工生后土,后土生噎鳴,噎鳴生歳十有二。
 洪水滔天。
 鯀竊帝之息壤以堙洪水,不待帝命。
 帝令祝融殺鯀于羽郊。
 鯀復生禹。
 帝乃命禹卒布土以定九州。

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第2章 魏書倭人伝の諸国地理(6)奴国 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
 (6)奴国
 同国名は「漢委奴國王」と刻印された「金印」が
 志賀島の南側から
 江戸時代に見出されていることから、
 当該地が博多湾沿岸であったことが
 明らかである。
 
 「奴」は「ナ」と訓まれるが、
 これはインドの紀元前の用語
  
 サンスクリット語〔梵語〕の「船」を表わす
 nau 音写で、
 同地方に紀元前2、3世紀には
 インドに係わりのあった人々が
 渡来し定着していたことを示す。
 
 川の名称でもある「那珂」も 
 nauka の音写で船類を表わし、
 現在の福岡市の中心地から
 内陸かなりの地域まで、
 倭人伝が「二万戸」あるといっているように、
 この平野広くを
 その領域としていたものである。
 
 金印は紀元57年に
 後漢の光武帝から贈られた。
 
 「後漢書」巻一下、光武帝(建武中元)2年正月
 
  「東夷倭奴國王遣使奉獻。
   倭在帯方東南大海中、依山島爲國」
 
 と記録されているのに当たる。
 
 つまり前述したように
 「倭」が東夷である概念は
 ここにも踏襲されているのである。
 
 ところで、「奴」の祖語が
 サンスクリット語であると述べ、
 それが「梵語」と紹介したが、
 この用語は5、6世紀
 日本へシナ、韓半島を経て
 伝教された仏教の用語であるが、
 それは漢字によったものである。
 
 しかし当書が紹介している
 サンスクリット語は
 それ以前よりずっと古く
 紀元前3世紀頃には
 韓半島及び倭の地へ
 もたらされていたばかりでなく
 インド方面の人々が
 渡来定着していたとするのである。
 
 その証拠が
 シナの紀元前2世紀頃の地理書である
 「山海経」にある。
 
 その第十八「海内経」の冒頭に
 
 「東海之内、北海之隅、
  有國名曰朝鮮、天毒、
   其人水居、偎人愛人。」
 
 とあるのがそれである。
 
 意訳すれば、
 
 「シナ大陸からみて東方の海のうち、
  北方の隅に国がある。
  その国の名は朝鮮、天毒という。
  そこの人は水上を住居として、
  倭人とインド人が住んでいる」となる。
 
 現在においてすぐ理解できる国名は
 「朝鮮」である。
 
 次の「天毒」とは何処かであるが、
 晋時代の研究家郭璞は
 「天毒國即天竺國」としており、
 
 「天竺」、また
 三蔵法師によって後代表記された「身毒」、
 いわゆる「インド」のこととしている。
 
 その当該地はあの南アジアの
 「インド大陸」を指しているのだろうか。
 
 そうではない。
 
 上記に役々原書の通り記した
 句読点の付け方から理解すると
 「朝鮮」に並んで
 「天毒(インド)」があるとの内容になる。
 
 文章の区切りは「,」印で、
 朝鮮と天毒の間に付されている
 「、」印は並列を表わしている。
 
 つまり朝鮮と接するようにして
 「天毒(インド)」があるということになる。
 
 これを考察すれば、紀元前においては
 朝鮮は未だ韓半島の北部であるから、
 韓半島南部辺りに
 「インド人の国」があったとなるし、
 「其人水居」とあることを加味すると、
 海の向うに居たともなる。
 
 本実は「水上で生活をしている」との意義で、
 これは「アズミ[阿曇]族」が相当である。
 
 アズミ族は紀元前のかなり古い時代から
 メソポタミア・インドを祖地として
 木造帆船でアラビア海、インド洋から
 極東の太平洋へ
 その交易網を広げた海洋族である。
 
 インド亜大陸へ牛飼いのアーリア人が、
 北方ヒンズークシ山脈を越えて侵入してきた
 紀元前1500年頃よりも早く
 同大陸の西方に勢力を拡げていた
 文明人である。
 
 アズミ族は遠く海洋を航海するいわゆる、
 海上、
 つまり船上を住み家とする人々であった。
 
 船が家なのである「アズミ」の祖語は 
 es-ma で語義は「屋船」である。
 
 この「船[ma]」が奴国の「奴[nau](船)」と
 合致する。
 
 このことから奴国は那珂ばかりでなく
 博多湾を取り囲む地域に
 広がっていたことが判明してくる。
 
 同湾の西方面は今津湾と称されるが、
 この「今:イマ」も e の音写で、
  e は es と同義の「家」を表わすのでやはり、
 「家(屋)-船」となり
 「アズミ es-ma 」と同義、
 また福岡市西区の湾岸の地域名「姪浜」の
 「メイ」も ma-e で
 「イマ e-ma 」を転倒させただけで
 「船-家」である。
 
 このように奴国の地域は
 博多湾の周囲で阿曇族が
 支配していたのである。
 
 倭人伝には「有二萬餘戸」とあり、
 倭人伝が記す国の中では戸数が多く、
 博多湾岸広くがその領域だったことを
 示している。
 
 倭人伝は続いて
 「東行至不彌國百里~有千餘家」とある。
 
 図4
 
 東海之内,北海之隅,
 有國名曰朝鮮;天毒,其人水居,偎人愛之。
 
 西海之内,流沙之中,有國名曰壑市。
 
 西海之内,流沙之西,有國名曰氾葉。
 
 流沙之西,有鳥山者,三水出焉。
 
 爰有黄金、璿瑰、丹貨、銀鐵,皆流于此中。
 
 又有淮山,好水出焉。
 
 流沙之東,黑水之西,有朝雲之國、司彘之國。
 
 黄帝妻雷祖,生昌意。昌意降處若水,生韓流。
 
 韓流擢首、謹耳、人面、豕喙、麟身、渠股、
 
 豚止,取淖子曰阿女,生帝顓頊。
 
 〔山海経逐次索引による〕
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 


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