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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(6)卑弥呼は王ではなかった [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》

 (6)卑弥呼は王ではなかった
  倭人伝は記す
 
 「其國本以男子爲王住國亂相攻伐歴年
  乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」。
 
 この「王」はあくまでシナ的表現で、
 正確にはその史的用語「覇王」の略で、
 武力か智謀によって権力を掌握し
 一定地域の領土獲得をしてそこから
 租税や物品を収徴集する者のことをいう。
 
 それに比して倭においては習慣が異なっている。
 
 「以男子爲王」の「男子王」は
 すでに分析してように斯馬国の
 首領のような者とみるのが妥当であるし、
 卑弥呼にしては「共立一女子爲王」とあるように
 彼女は「共立」されたのであり、
 自からが覇者となろうとした訳ではない。
 
 「共立」とは
 『東南アジア民族史』〔東洋文庫〕が
 解釈するように「相談して」との背景がそこにはある。
 
 「相談」の仕方は、関係者が集まって話し合う、
 いわゆる「集会」に依ったものとみられる。
 
 なぜならば倭人伝に、
 倭では「會同」を行っていると述べているからで、
 この漢語は「集会」を意味する。
 
 関係者と述べたが、卑弥呼を共立した人々で、
 彼等は後に
 「女王」の「属国」〔傍国〕となった
 国々の主領たちで、
 斯馬国主領がその第一であったろう。
 
 よって、
 この卑弥呼の時代、北九州の地域に
 「共和国」を成立させたといえる。
 
 斯馬国を初めとする各国の主領の見識が
 シナ人とは違い、かなり高かったことを示している。
 
 倭人伝は末廬国から始まって
 最後に「女王」の属国と記されている
 「奴国」まで各々に必ず「国」称を伏している。
 
 既述した各国の戸数はそう多くなく、
 後世あるいはシナや西欧に表れた「国」とは
 大意に異なっている。
 
 例の吉野ヶ里遺跡の「弥奴国」もそう広大でなく、
 いわゆる「王宮」のような建物はなかった。
 ただ祭壇と広い建物跡が
 その域内から掘り出されているだけである。
 
 そこで考慮すべきは、各国には「座師」、
 それも多分「女座師」がいたことと、
 主領の意志だけでその国〔村落〕が
 運営されていたのではないことである。
 
 倭人伝の「會同」(集会)についての説明を
 
 「會同坐起父子男女無別」
 
 としていることを考慮すれば、
 集会とは全住民が参加し、
 その座席は「父子」という序列や
 「男女」の差別が無いという極めて
 平等を旨とする習性がそこにみえる。
 
 シナ的にうるさい社会的序列を以って
 統制・施座することもない。
 
 これをまだ社会が未熟で
 原始的状況と判断する向きもあるが、
 それは妥当ではない。
 
 この集会は、その後現在に至るまでの
 「神社」の氏子集会の様子そのままである。
 
 つまり
 「神の前における平等」との概念が
 日本の場合すでに
 紀元前後から定着していたのである。
 
 その集会において課題に係わる採決で
 結論がまとまらなかった場合のみ
 「神」の意向に従おうと「座師」に神意を
 得るべく「占い」をしてもらったのである。
 
 座師がいたからといっても神権政治などとは
 全く隔ったものであっただろう。
 
 因みに現在「氏子」という「ウジ」は
 「一族の」と解釈しているようだが、
 本来アズミ族の言葉での uzu で
 「占い師」で「座師」と同義語が原語である。
 
 「氏子」とは「座師に従う人々」を表わしている。
 
 邪馬台国の時代、座師特に女座は
 重要な社会的要素だったのである。
 
 そこで
 「共和国」を成立させた国々では、
 邪馬台国の女坐であった卑弥呼を
 共和国全体の座師に任命したのである。
 
 倭人伝はいう
 
 「年己長大無夫婿」。
 
 彼女はかなり老齢で、
 しかも夫も婿もない独身であった。
 
 若い時よりずっと座女で神妻となり
 人間とは結婚しなかった豊かな経験があり
 
 信頼が篤かった者だといえる。
 
 彼女は「女王」ではなかったのである。
 
  倭人伝はまた記す「有弟佐治國自爲王」。
 
 卑弥呼には弟があって、
 彼が国を「佐治」:治めているといっている。
 
 この弟は邪馬台国の主領を担っている者に違いない。
 
 卑弥呼は邪馬台国の「王」でさえなかった。
 
 また
 
 「侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處官室」とあり、
 
 一男子がただ独り
 卑弥呼の住居や役務の部屋に出入して
 外界との連絡を一切仕切っていたといっている。
 
 王とは一般の人々〔国民〕の前に出て
 威勢を見せるのが習いである。
 
 屋敷の奥に引き籠もって姿を世間に表さない
 王などありえず、「王」の呼称は相応しくない。
 
 この邪馬台国卑弥呼の時代成立した共和国は
 その後、各集団〔国〕が部族化し、
 「部族共和制」として飛鳥、奈良、平安初期まで
 継続されたし、
 〔国〕観念は江戸幕藩体制においても、
 藩を「国」と称したように統治の基盤となり、
 また人々に自治発想が踏襲され変らなかった。
 
 時として
 シナ的統制全体主義的律令制度が投入されたが、
 日本の風土では、
 まず長期に続けられたとはいえない。
 
 「会同〔集会〕」の文化も平安時代荘園制の
 混乱の中で発生し、戦国時代まで成長し続けた
 荘園・郷村の自治的結合
 「惣」の「寄合〔集会〕」の
 基礎となったと考えられる。
 
 その「惣」の発生の端厳は寺社においてであった。
 
 日本の歴史には世界に誇れる
 古代からの社会習性があるのである。
 
 全体主義を本幹とするシナの政治的思念とは
 全く違っており、
 日本文明はシナ文化の亜流などでは全くない。
 
 日本人は
 その独自の伝統の崇高さを認識すべきである。
   M.K記
 
 

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