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第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(3)卑弥呼の祭場 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》
 (3)卑弥呼の祭場
 
 次に考えるのは、
 「十市郷」の当該が
 大牟田市内「三毛郡」にあるからである。
 
 残念ながら現在「十市」と表記された地称はない。
 
 しかし、
  tirtha にはその語義として、
 「聖地」の他に「道、通路」とあり、
 同市の中央部にして歴木地区のすぐ西隣りに
 「通町」との地称がある。
 
 同町には大牟田南関線の幹線路が貫いており、
 「通」は「とおり」といわれているが、
 同字はまた「とおし」で「トウチ」に近い。
 
 この周辺が十市郷の当該地に当たると考える。
 
 すると通町の南側に
 「八尻町」との地域が目に付く。
 
 現在そこは「はちじり」と称されるが、
 かつて「ヤジリ」であってもよい。
 
 神八井耳命の
 「ヤジリ」と同じ 
 yajur の音写で「祭祀」を表し、
 「十市〔聖地〕」にからむ。
 
 また「祭場」を明確に証す史料が同地にはある。
 
 八尻町内の「屋須田神社」、
 平原地区内の屋須太神社名の
 「ヤスタ」は
 サンスクリット語の 
 yasta の音写で
 「祭場」「祠」の語義である。
 
 同称の神社はこの周辺八本町にもある。
 
 その鎮座経緯は全く不明とされている。
 
 他にもこれらの用語の
 相関関係を示すよい例がある。
 
 前にあげた投馬国からの九州横断経路の途次、
 高千穂から熊本県に入った
 白水村の全高森町内に
 「野尻」「矢須田」「祭場」
 との地名が連なっている。
 
 三毛郡のインド系文化が
 東暫する道程の一つを示している。
 
 大牟田市の矢須田神社には現在、
 「火結神」という火神が奉祭されている。
 「火」は神八井耳命を祖とする後裔の中に
 「火国造」
 〔現在では肥前肥後と「肥」文字となっている〕
 がある。
 
 この 
 八尻 yajur 〔祭祀〕及び
 屋須田(多) yasuta 〔祭場〕名は卑弥呼に係わる。
 
 この「ヒミコ」名の遺存がそこにあるからである。
 
 通町の南側八尻町の東隣りに「亀甲町」がある。
 
 現在「かめのこう」と称しているが、
 「カメノコウ」とも読め、
 同表現は「ヒミコ」の転訛、
 また八本町内の小字名に「亀光」とあり、
 「かめみつ」と称されているが、
 これも「カメコウ」となる。
 
 さらに八本町を越えた南にも
 「亀ノ甲」「亀光」「亀井川」とあり、
 これらが
 「ヒミコ」名の変化したものと考えられる。
 
 卑弥呼の「祭場」が
 具体的にどこにあったかを考察すると、
 その場所は八本町内である。
 
 同町名は「はっぽん」ではあるが、
 「ヤモト」とも読め
 「ヤマト」とも解釈できる。
 
 同地は小山を成す丘陵地〔台地〕で、
 この地ではそこを「岩倉」と呼んでいる。
 
 古代卑弥呼の時代の地形を想定すると、
 丘陵地の西側はすぐに有明海で
 波を台地の岸壁が防いでいたろうし、
 北側は現堂面川、
 南側は大牟田川の川床が広く、
 ほかの勢力が攻めるのを
 遮るのに好条件だったに違いない。
 
 現在、丘陵の北、西側面は
 石垣や石壁が築かれて
 くずれないように固められている。
 
 また丘陵の周囲は家屋によって占められている。
 
 丘陵上は
 2009年8月、2014年5月の段階では
 空地状態だったが、
 遺跡あるいは古代遺構の礎石といったものが
 埋められているとはみられない。
 
 なぜなら、
 同地は海の風が直接当たる海への突出地、
 つまり岬のような地形で、
 丘陵上の土などの軽いものは
 風に吹き飛ばされてしまい、
 吉野ヶ里のような遺物が地下に
 保留されるなどあり得ないだろう。
 
 よって考古学的調査:証明は
 ほとんど無理といえよう。
 
 現在この丘陵上には「大神宮」と称する
 高さ3㍍にならない石造りの祠が
 鳥居共ども建てられている。
 
 「大牟田市史第一章神社」の説明によると、
 「本社は稲荷字亀光に祭祀ありしを
  昭和14年11月に29日認可を得て此地移転す」
 とのことで、
 「稲荷の亀光」は前出現亀谷町内のことであろう。
 
 また大神宮の元鳥居の銘に
 
 「鳥居は紀元2598年11月、亀光社宅氏子中」と、
 
 その鳥居を建てた年度と
 主催した氏子の所在を示している。
 
 「社宅」とは三井会社の三池炭鉱など
 関係の仕事をしていた人々であろう。
 
 また石祠の基壇には
 「大正8年4月」との刻銘があり、
 その製作年月を示している。
 
 これらのなかで重要なのは、
 そこが「亀光」であったことである。
 
 同語は「ヒミコ」の転訛と考慮すれば、
 20世紀に至るいずれかの時
 神宮は八本町の丘陵から稲荷へ
 遷座していたものと思われる。
 
 ともかく卑弥呼の祭場の残存が
 なんとか遺留されているとみるべきだろう。
 
 「大神宮」はまた「太」と表記された記録もある。
 
 一般に同称は伊勢神宮の名称で
 ご祭神も天照大神となっている。
 
 しかし、
 その由来も真相はそう単純ではなさそうである。
 
 「太」を「フト」とすれば、
 「太占い」というように「占い」に係わり、
 卑弥呼が「女巫師」だったこともまた想起される。
 
 M.K記
 連絡先:090-2485-7908 

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