SSブログ

第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼(4)卑弥呼の居館 [日本創世紀]

『歴史徒然』History Tsuredure https://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara
『歴史創世』Rekishi Sousei https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/
『歴史徒然』Rekishi Tsuredure http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/
『猶本光サポーターズサイト』http://hikaru-naomoto.net/
『浦和レッズレディース』http://www.urawa-reds.co.jp/ladies/
『日本創世紀』の目次へ戻るhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-12-1 


「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

  


(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪
 
 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼》
 (4)卑弥呼の居館
 倭人伝は「奴婢千人」あるいは
 「樓觀城柵巖設有人持兵守衛女王」と
 その住環境の様子については記している。
 
 「婢:使い女」が千人と言っているのは
 大げさとは推測されるが、
 それでもかなり大きな建物を設け、
 卑弥呼を「守衛」し、
 見張りのため大掛かりな
 城柵を備えた作りであったらしい。
 
 卑弥呼の住居はそう広くなくはないにしても
 周囲に多くの人々が居住していたのは確かだろう。
 
 すでに紹介済の地名「稲荷」は
 一般に知られた「いなり」ではなく、
 「トウカ」と呼ぶ。
 
 同表現はサンスクリット語 
 dhaka の音写で、語義は「大建築物」である。
 現在の稲荷町、また稲荷から分かれた
 亀谷町などは
 八本町の南側丘陵地の麓に広がっている。
 
 この辺りが彼等の居館のあった所で、
 その東隣りの「竜湖瀬町」の「タコセ」は
 それら木造の建築物を建て保守する大工
 〔サンスクリット語で takasa 〕たちの
 集落地だったろう。
 
 それでは卑弥呼自身の居館が
 どこにあったかとなるが、
 それは八本町の東隣り、
 丘陵地〔台地〕の付け根に当たる
 「平原町」内である。
 
 そこには屋須田神社もある。
 
 この呼称「ヒラバラ」の原語は
 アズミ族の言葉 hur-bar 〔丘-聖所〕である。
 
 hur は英語の hill 〔丘〕に当り、
 bar は「聖所、祭壇〔檀〕」と共に
 「住宅」の語義もあり、
 
 卑弥呼の職能及び住居を合わせ持った
 「屋形、屋敷」に相応しい呼称である。
 
 ところで、なぜインド・アーリア人系の地に
 アズミ族の言葉が定着したのか?
 
 理由は、
 後の時代に
 そう呼ぶようになったとの推測もできるが、
 すでに卑弥呼の時代に
 その呼称が始まったとすることもできる。
 
 それは倭人伝が記す
 「共立」との用語が考察の材料になってくれる。
 
 「攻伐」し合っていたこの地方の主領たちが
 相談し合い卑弥呼を
 最高位に擁立したとの内容からすれば、
 倭人伝が邪馬台国の傍国のうち
 第一に挙げられて「斯馬国」
 
 〔第2章(9)の(c)で説明〕は
 
 アズミ族の言葉を理解する人々の里で、
 主領はそれを理解できたし、
 その外の国の人たちも同様で、
 彼らが擁立した「司祭:祭祝師」の地を
 その地形を呼称して
 「ヒラバラ」と称したしてもおかしくはない。
 
 斯馬国の主領〔長者〕は「共立」を相談した
 首謀者だったとも考えられる。
 
 和名類聚抄の夜須郡の第一に「中屋郷」が載る。
 
 同名を地元では「ナカツヤ」と呼んでいる。
 
 これは 
 na-gude-e の音写で
 n〔命ずる、指示する〕、
 gude〔神官、神職〕、
 e〔神殿〕で
 「聖所の祭司を指名する」との語義となる。
 
 斯馬国の主領が他の主領と共に相談の上
 卑弥呼を倭全体の祭司に任命したことを
 証明する呼称である。
 
 なお、ここでは詳しく述べないが、
 その相談のため集まって会を催したところが
 夜須町の隣り甘木市の須賀神社である。
 
 安河(川:小石原川)がそこにはある。
 M.K記

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

nice!の受付は締め切りました

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。