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第2章 魏書倭人伝の諸国地理(10)邪馬台国への経路 [日本創世紀]

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(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪

 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
  
 (10)邪馬台国への経路
 邪馬台国の傍国のうち
 弥奴国、斯馬国の所在について考察してみた。
 
 この考察から
 傍国は筑紫平野佐賀平野にあったと知られる。
 
 倭人伝には邪馬台国の統べる規模を
 「七萬餘戸」としており、
 両平野の収容力は
 投馬国〔宮崎平野〕の五万戸、
 奴国の二万戸と比べて十分な広さといえる。
 
 そして傍国の最後の「奴国」を
 「(6)奴国」と同じとすると、
 倭人伝が記す諸国間は位置関係には
 大まかに言って円環の論理が成り立つ。
 
 魏書に「倭人伝」を
 記述した人陳寿に対して
 倭に渡来し帰国後に報告した者は、
 九州(島)を回周する行程を基に
 説明したのである。
 
 倭人伝は邪馬台国の傍国を
 「自女王国以北」という「女王国」とは
 邪馬台国をいう。
 
 「邪馬壹国女王所都」と前段にある。
 
 「以北」の表記から、
 邪馬台国は傍国の南にあることになる。
 
 その範囲は筑紫平野の南部から
 肥後国(火の国)といわれた
 熊本県北部までとなる。
 
 そこで投馬国より
 
 「船で十日行って、
  さらに陸地を行くこと一月」
 
 について考察する。
 
 これまで大方の解釈は、
 「船で十日行って、
  更に陸地を行くこと一月で
  邪馬台国に至る」という
 
 水行陸行加算の、
 しかも直行を基にしている。
 
 そうなれば、
 本書が投馬国を宮崎平野とするとして、
 南方は鹿児島県でさらに南方は島嶼海域で、
 陸を一月も行くなど想定できない。
 
 そこに参照すべきは、
 最後の傍国の奴国考察で
 確認した円環の論理である。
 
 南方への直行ではない
 屈折行程を想定すれば
 極めて現実的で理解しやすい。
 
 しかも実際の所要行程は
 「水行十日陸行一月」ではなく、
 「水行一月陸行十日」であったはずである。
 
 「紹興版本」などの元書には
 一切句読点は使われておらず、
 「水行十日」と「陸行一月」の間にも
 もちろん句読点はない。
 
 よって
 「水行」と「陸行」を全く異なった行程と
 決めてかかっても不自然ではない。
 
 魏書「倭人伝」の記述者あるいは
 倭からの情報を紹介した者か
 誰かは解らないが、
 
 「水行一月陸行十日」を
 
 一般的常識で改変してしまったのである。
 
 つまり
 
 「船で一月(約三十日)もかかるとろを、
  歩いて(陸行)行って十日で
  行き着くはずがない。
  これは逆だ」
 
 と翻案してしまったのである。
 
 その者も直線行程しか
 思っていなかったことになる。
 
 しかし曲線的な湾曲状況であれば、
 船で一月かかる位置まで歩いて
 十日で行き着くことは可能である。
 
 具体的にどうかというと、
 投馬国(宮崎平野)から南行し、
 都井岬から
 鹿児島県の大隅半島薩摩半島を周回して
 串木野市阿久津沖か八代海島原湾を経て
 有明海へ入るというのが航海(水行)である。
 
 荒海の危険を考慮すれば
 天草半島の西天草灘を回るというのは
 あまりないと思われる。
 
 倭人伝が不弥国(福津市)から投馬国まで
 水行(船で)二十日としているのに比較すれば、
 同行程の一月(三十日くらい)とするのは
 妥当な所要日数といえよう。
 
 また「陸行十日」の行程は、
 宮崎平野から延岡市周辺まで
 海岸沿いに北上し、
 そこから五ヶ瀬川に沿って
 遡上して高千穂へ出、
 熊本県の高森町白水村へと
 阿蘇山の南麓を白川に沿って西へ行き、
 長陽村から菊池郡へ入り、
 大津町合志町へ、
 そして玉名市にまで至ると
 そこは有明海に近い。
 
 いうなれば、
 現在の豊後街道と称される道程に当たる。
 この行程は丁度円の直径をなすような状況で、
 古代においてさえ、
 概ね十日前後あれば歩いて行き着けただろう。
 
 そこには船でも行け(水行)、
 もちろん歩いて(陸行)も
 行き着ける所なのである。
 
 海中の離れ島などにあったわけではない。
 
 邪馬台国の所在地は
 傍国の関係で分析したように
 筑紫平野の南部から熊本県北部に想定され、
 有明海沿岸で船が着けられる所である。
 
 M.K記

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