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第2章 魏書倭人伝の諸国地理(1)(2)(3)(4)(5) [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第2章 魏書倭人伝の諸国地理》
ー邪馬台国時代の国際ー
 魏書倭人伝には、
 その当時の韓半島から
 倭への行程や倭の国々の名称が
 記載されている。
 
 最初後漢の属領となった帯方郡から
 旅程が述べられる。
 
 帯方郡は
 現在のソウル市辺を中心とした地域である。
 ※図3 魏書倭人伝による倭国の諸国地理
 
 帯方郡―――――狗邪韓国―――――対馬:千余戸
     (水行七千里)        (渡海千里)
 
 対馬―――――一大(壱岐):一支、三千許家
       (渡海千里)
 
 一大(壱岐)―――――末盧(松浦)
          (渡海千里)
 
 末盧(松浦)――――――――伊都国(糸島):千余戸
          (陸行東南五百里)
 
 伊都国(糸島)―――――奴国:福岡市博多湾、二万余戸
            (東南百里)
 
 奴国―――→不弥(福間:花見)有弥の里:千余戸
     (東百里)
 
 不弥―南水行二十日―陸行十日―各国・邪馬台国(大牟田市)七万余戸
 
  (つまり奴国に至ることを意味する)
 
 不弥―南水行二十日―投馬国―水行一月―各国・邪馬台国
 
  ※投馬国:五万余戸(宮崎平野)南水行十日、陸行一月
 
  (つまり奴国に至ることを意味する)
 
 (1)狗邪韓国
 
 帯方郡より
 「海岸水行歴韓国,乍南乍東、
  到其北岸狗邪韓国七千餘里」
 とある。
 
 この「狗邪[クヤ]」は「伽耶」と同根表記で、
 「三國遺事」がいう五伽耶のうちの
 阿羅伽耶、古寧伽耶の地で両地は
 海岸沿いに位置した。
 
 続いて倭人伝は
 「始度一海千餘里至対馬國」とある。
 
 (2)対馬国
 
 いうまでもなく、長崎県の対馬の地である。
 さらに続いて倭人伝は
  「又南渡一海一千餘里、
   名曰瀚海、至一大国」とある。
 
 (3)一大国
 
 この「一大」は「一支」のことで、
 長崎県の「壱岐」に当たる。
 
 さらに続けて、
 「又渡一海一千餘里、至末廬國、
  有四千餘里」とある。
 
 (4)末廬国
 
 「末廬」は現在名が「松浦」で、
 松浦郡は長崎県・佐賀県に
 またがって広がっている。
 
 倭人伝の時代の船の寄港地は
 佐賀県唐津市の松浦川の河口一帯で、
 この「唐」は KAR の音写で
 「船溜り」あるいは「港」の語義で
 河川の少々奥地に当たる
 「原」もその転訛である。
  
 河口付近の辺りは川幅が広く
 穏やかに水がたゆたい、
 外海の荒波から船を守るには
 適した停泊地である。
 
 また「末廬」の訓音は「マツラ」で
 サンスクリット語〔梵語〕の 
 madhur で「甘い物」の語義である。
 
 さらに倭人伝は続けて
 「東南陸行五百里、
  到伊都國~有千餘里」とある。
 
 (5)伊都国
 
 現在の福岡県糸島市の地が中心で、
 奈良時代の「恰土」と表記された地である。
 
 ここは紀元前2世紀頃から
 「絹」を求めて渡来した
 ヘブライ商人の居留地である。
 
 さらに倭人章は続けて
 「東南至奴國~有二萬餘戸」とある
 
図3 魏書倭人伝の諸国地理
  
倭国.jpg
  M.K記

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第1章 倭人と東夷の原像(10)倭の養蚕の地 [日本創世紀]


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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー
 
 (10)倭の養蚕の地
 
 「三國志魏書」倭人伝に
 「種木稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」とあり、
 東洋文庫の解訳には
 
  「人々は稲や麻を植え、
   桑を栽培し蚕を飼って糸を緝績ぎ、
   細麻や縑や緜を産出する」
 
 とある。
 
 後漢書にもほとんど同じような文面があるが、
 これは「魏書」に倣って作成されたことが
 確実との評価である。
 
 三國志の時代は主に3世紀であるが、
 当時日本列島で養蚕が始まっていたのである。
 
 この養蚕の担い手も「和人」である
 「倭人」であったことが確実である。
 
 そしてその対象の地域は九州方面でしかない。
 
 同地域には哈尼族(あるいは彝族)の
 言葉による地名など
 養蚕に係わる解釈可能な用語が広くある。
 
 因みに、
 近畿方面には養蚕に係わる
 「倭語」はほとんどない。
 
 シナ、韓半島、日本に共通した
 「倭語」の名詞呼称の例は
 前に「黄帝」の別称「軒轅」で
 解説した「星」である。
 
 山海経に「列故射」あるいは「故射國」
 との記述がある。
 
 その「海内北経」に
 
  「朝鮮は列島の東の海、北山の南にあり、
   列陽は燕に属す。
   列故射は海の中にあり、
     故射國は海中にあり。
   列故射に属し、西南には山をめぐらす」
 
 とある。
 
 「列陽」は現在の山東省山東半島の内奥に
 「萊陽」市があり、
 いわゆる「萊夷」の地で北方は燕に接していた。
 
 「列故射」の「列」は倭語の[lug]の漢語音写で
 語義は「山」、「故射」は「コヤ」と訓み
 倭語の「星」、
 訓音「kea,hea」で当該語は「星山」である。
 
 その山及び「故射國[星国]」の所在地は、
 「朝鮮在列陽東」とあるように、
 列陽からみて東方に当たり、黄海の向うで、
 「列故射在海河洲中」との記述に習えば、
 いわゆる韓半島で、
 当時[紀元前5世紀以前]は
 「洲[島]」とみられており、
 
 そこに「星山」及び「星国」があったと解釈される。
 
 その当該地は韓半島南部になるが、
 実際に「星山」「星国」は
 古代から現在に至るまで
 地称と実在している。
 
 現在の慶尚北道の南道との境界にある
 伽耶山が「星山」で「高霊」が「星国」である。
 
 同山の北側に星州の町があるが、
 その辺りはかって星山郡であった。
 
 同地から南方の釜山市へ流れる川を
 「洛東江」と称すが、
 「洛」は「列」と同根の「山」なので、
 同江の語義は
 「伽耶山の東を流れる川[河]」となる。
 
 「三國史記」雑志第三には
 「康州」のうちに「星山郡」名を載せ、
 後〔紀元11世紀〕に加利県としたとある。
 また「高霊郡」を載せ
 
  「もと大伽耶国で、
   始祖の伊珍阿豉王より道設智王に至るまで
    16代520年。
  真興大王が侵略し滅ぼし、
  その地を大伽耶郡とした」
 
 とある。
 
 滅ぼされたのは562年で、
 紀元後すぐに起った国であったことが解かる。
 
 その中心勢力が倭人であったことに間違いない。
 
 「加利県」名は「三國遺事」で
 「伽落」あるいは「駕洛」などと
 
 表記された地称と同じで
 「星山」にして「伽耶山」を指している。
 
 「韓」を日本で「カラ」と呼称してきたのは
 これに由来する。
 
 長崎県対馬にも「星山」はある。
 「上県」に大星山(峰町)と高野山(上県町)が
 町境を挟んで並立したいる。 
 
 「高野(こうや)」も「星」である。
 
 さらに日本列島内をみると、
 和歌山県伊都郡かつらぎ町に、
 伝承によると天から
 隕石が落ちてきたことから
 星山、星川の地称ができたという地区がある。
 
 「星」は「こうや:高野」であり、
 町名として成った。
 
 さらに愛知県の「名古屋」市名及び
 佐賀県呼子町の「名護屋」は
 双方とも語源を同じくし、
 
 「ナ[名]」は倭語の[ni]の音写で
 「霊」ないし「神」の呼称、
 「コヤ[古屋・護屋]」は「高野」と同じであり、
 同語は[神・星]で「星神」を表わす。
 
 これらの地名由来は韓半島及び日本列島へ
 倭人〔和人〕人が渡来し、
 その言葉を定着させた証拠である。
  
 さらに養蚕技法、
 また本書では説明対象としていないものの
 倭人が「水耕稲作」を伝えてきたとの
 証左になっている。
  M.K記

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第1章 倭人と東夷の原像(9)韓半島の養蚕の地 [日本創世紀]


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 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー
   (9)韓半島の養蚕の地
 
 シナ海沿岸地帯まで広まった養蚕は
 大陸内だけに納まっていなかった。
 
 紀元前後になると韓半島や日本列島へと
 普及していった。
 
 韓半島での史料的証拠はまず
 「後漢書」韓伝(東洋文庫による)に
 
 「馬韓人は養蚕の知識があり
  緜布を織ることができる」とある。
 
 「緜布」は「帛〔絹糸、まわた〕」、
 織物を表わす。
 
 馬韓は韓半島西南部で、
 同地には現在も「青洲」の地名があり、
 山東省の青洲の移転で、
 韓半島の蠶が同地方から移入されたもので、
 繭の形が俵型である。
 
 次に「三國史魏書」弁晋伝には
 
 「蚕を飼い桑を植えることを知っていて、
  縑布を作り~」とある。
 
 「縑」は「厚く織った絹の布」である。
 
 また
 紀元4世紀に入った「晋書」辰韓伝には
 
 「その地方は桑を栽培し、
   蚕を飼うのが盛んであり、
  縑布を上手に作る」と、
 
 次第に養蚕が拡充している様子が窺われる。
 
 ただし、
 養蚕の地は韓半島の南部に限られ、
 「三國志魏書」夫餘傳が
 
 「国外に出るときは絹織物、繡、綿織、
  毛織物などを重視する」と
 
 いうように北方にいた人々は
 「絹製品」は外から購うものであった。
 
 韓半島南部へ養蚕を持ち込んだのは
 「倭人」たちであった。
 
 彼等が移住植民してことにより
 「絹」の技術は移転されたのである。
 
 その記録が「三国史記」にある。
 
 同書は
 紀元11世紀に成ったものながら、
 定かではないが、
 参考となった古い史料があったとされている。
 
 そのうちの
 「新羅本紀第一」に
 「瓢公」という者が登場する。
 
 彼の出自について(東洋文庫による)
 
 「瓢公はその出身の氏族名を
  明らかにしていない。
  彼はもともと倭人で、
  むかし瓢(ひさご)腰にさげ
  海を渡って〔新羅〕に来た。
  それで瓢公と称したのである」
 
 といっている。
 
 つまり、
 彼はまさに海の向うから
 韓半島へ渡来した「倭人」なのである。
 
 また、
 第1代「始祖赫居世居西干」について
 「始祖のは朴氏で~」とあり、
 後段に
 
 「辰韓では瓢のことを朴という。
 〔始祖が〕地上に始めて現れた時の大卵が
  瓢のようであったので
 〔始祖の〕姓を朴とした」とある。
 
 「瓢」「瓠」とも「ひょうたん」のことである。
 
 シナの少数民族のうちに
 哈尼族・彝族ばかりでなく広い範囲で
 この「ひょうたん」に係る伝承が、
 各族の始祖伝承として
 「洪水」を絡めて言い伝えられている。
 
 その伝承が纏められているのが
 聞一多の「中国神話」〔東洋文庫〕で、
 45例を収集している。
 
 そのうちの26例が
 葫蘆〔瓠、瓢瓜〕瓜とある。
 
 その伝承の物語の大要は、
 大洪水が起こり、
 兄妹が葫蘆の中に入り水上を漂い、
 洪水が始まった後に
 夫婦となって子孫を増やすというもので、
 
 君島久子著「中国の神話」に
 「生き残った兄妹」の表題で
 
 ミャオ(苗)族の伝承として物語られていて 
 参考になる。
 
 つまるところ
 「瓠」「瓢」は「倭人」の象徴なのである。
 
 そのことから解釈すれば、
 韓半島南部を最初に
 開発し開化させたのは
 「倭人」ということになる。
 
 既に述べた様に、
 紀元3世紀の史料「三國志魏書」韓伝は
 
 「韓は帯方(郡)の南にあって
  東西は海をもって境界とし、
  南は倭と(境界)接している」
 
 といっている。
 
 この「倭」は韓半島の内部の地域を指し、
 「倭人」がそこにいたことを
 明言しているのである。
 
 「倭」日本列島の内とする解釈は妥当ではない。
 
 もしそういう概念であれば、
 その前段であえて
 「東西は海をもって境界とし」ではなく、
 「東西南は海をもって境界とし」
 というはずである。
 
 三国史記で「倭」は80数回の記述がある。
 
 その前半の多くは
 韓半島内の動きとした方がよいとかと考える。
 
 「倭人」は韓半島南部で永い間
 一大勢力であったのである。
 
  M.K記



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第1章 倭人と東夷の原像(8)書経「禹貢」の養蚕の地 [日本創世紀]


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《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー
  
 (8)書経「禹貢」の養蚕の地
 
 「脱文解字」より古い養蚕を行っていたことを示す 
 記録がある。
 
 それが書経「禹貢」で四川省から遠く離れた
 シナ海沿岸に
 紀元前5世紀以前にその技法が
 定着していたとの情報がある。
 
 新釈漢文大系から当該部分を転載する。
 
  第二節 兗(えん)州
 
  ◎清河は惟れ兗州。
  九河は既に道し、
  雷夏は既に澤して濉沮は會同す。
  桑の土は既に蠶し、
  是に丘を降りて土に宅(お)る。
 
  〔通釈〕清水と黄河との間が兗州
   (山東・河北省にまたがる)である。
   (黄河の)九(あまた)の支流がすでに通じ、
   雷夏沢がすでに沢となって、
   雍水と沮水は合して(この沢に)固まった。
   (これによって)桑を植えるに適した
   土地では既に養蚕が始まり、
   (また洪水を避けて丘にいた人々は)
   丘から降って平地に住むようになった。
 
  ◎厥の貢は漆絲なり。厥の篚は織文なり。
 
  〔通釈〕その貢物は漆と生糸とである。
   その篚(おくり)ものは
   織文(あやおり)である。
   第三節 青洲
 
  ◎岱の畎は枲(し)・鈆・松・怪石なり。
  萊夷は作て牧し、厥の篚は檿(えん)絲なり。
 
  〔通釈〕岱山の谷からは、
   生糸・麻・鉛・松・怪石を出す。
   萊夷が始めて牧畜をするようになり、
   その篚は山繭である。
  
   第四節 徐洲
 
  ◎厥の篚は玄繊縞なり。
 
  〔通釈〕(徐洲の)篚は
   黒色の細かい繪(きぬ)である。
 
  〔語釈〕繪とは帛の総名。
 
   第五節 揚洲
 
  ◎島夷は卉服す。厥の篚は織貝なり。
 
  〔通釈〕島夷は卉服(草で織った衣服)を
   献ずる。
   その篚は錦織である。
 
 この記録から兗州、青洲(現在の山東省)から
 徐州(江蘇省)、揚州(浙江省)まで、
 つまり北は山東半島一帯から
 揚子江の シナ海への河口地帯で
 既に桑があって養蚕がかなり広く行われ、
 当該者が「禹貢」であることからすれば、
 夏王朝の時代に帝の膝下へ絹製品が
 貢物として届け出されていたことを示す。
 
 古代の養蚕には「西王母」信仰がある。
 
 「西王母と七夕伝承」〔小南一郎〕に
 その実態は詳しい。
 
  西王母は頭に
  「勝〔本来は「榺」というのが正しい〕」、
  紡織機の滑車付軸の模型を冠のように載いて、
  足下に龍と虎を従えている。
 
  その多くは漢代に製作されたものらしいが、
  鏡の裏面や「磚」と称される
  石板に刻まれた画像が
  たくさん見つかっている。
 
  その多く見つかっている地域が四川盆地と、
  ここに紹介した「禹貢」の絹に係る地域である
  山東省などである。
 
  つまり西王母とは「嫘祖」の
  大衆化した対象とすることができる。
 
  彼女に従っている「龍」は
  蠶(おかいこ)の変化した像形で
  四川盆地の「青衣」あるいは「青龍」で、
  「おかいこ」の桑葉を
  腹に一杯食して大きく生長をした姿がそれで、
  また「黄龍」はその食べた桑葉から
  生糸になる成分だけを保管し、
  残り滓を糞として排出した後の体が
  蜂蜜のような色合いになった状態をいう。
 
  「西」は前に述べた蠶を
  哈尼語で〔tsha〕といったことに始まる
  西陵、成都と由来を同じくしており、
  西王母には嫘祖が色濃く修合している。
 
 西王母信仰の実在が
 シナ海沿岸にみられることは、
 四川盆地の養蚕技法を持った「和人」が同地方に
 広く定着していたとの証左となる。
 
 紀元前後の漢時代になってからはいざ知らず、
 紀元前5世紀前かなり古い時代には、
 やたら部外者に
 その秘法を教えるなどしなかったはずで、
 やはりその技術集団が
 この地方へ移ってきたとするのが
 妥当と考える。
 
 ところで「禹貢」に記述されている養蚕の地
 兗州、青洲、徐州、揚州の地は
 「山海経」がいう「倭人」のいた地域であり、
 「後漢書」東夷伝の
 「九種の夷」のいた地域でもある。
 
 つまるところ「和人」は「倭人」である。
 
 「哈尼族簡史」に哈尼族の呼称の一つとして
 「倭泥」というのがあるように
 「和」「倭」も哈尼語においては同類なのである。
 
 山海経のいう「倭人」は
 書経「禹貢」のいう和夷にして「和人」である。
 
 なお、
 その養蚕の地が山東半島尾一帯という
 黄海の近くまで広がっているのは、
 温暖な黒潮が北流し当該地を広葉樹も
 育つ気候に変えているからと見られる。
  M.K記

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第1章 倭人と東夷の原像(7)黄帝の正妃は「嫘祖」は和夷〔倭人〕の祖 [日本創世紀]

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《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー
 
   (7)黄帝の正妃は「嫘祖」は和夷〔倭人〕の祖
 
 四川盆地は古代「蜀国」であった。
 「蜀」字は甲骨文字
 〔亀甲番号6861~6866、40774〕
 などに「※甲骨文字絵」とあって
 「目」に尾ヒレを付けた形で描かれている。
 
 これは「蠶」〔蚕は代用〕を表わし、
 「おかいこ」を意味する。
 
 「蜀」字は後になってその
 「※蜀から虫を(罒+勹)取り去った字」に
 「虫」字を加えたものである。
 
 つまり四川盆地は「おかいこ」に
 深い係わりがある
 「絹」の生産地だったのである。 
 
 ところで、黄帝の正妃は「嫘祖」という。
 
 前にも引いた「大載禮記・帝繁」は
 
  「黄帝居軒轅之丘、
   娶于西陵異氏之子謂之嫘祖氏」とあり、
 
 史記五帝」本紀もこれを引いて
 
  「黄帝居軒轅之丘、而娶於西陵氏之女、
   是爲嫘祖、嫘祖爲黄帝正妃」とある。
 
  このように「嫘祖」は黄帝の正妃である。
 
  その出自「西陵」は漢書に
 
  「蠶陵縣、郡北二百二十里、本蠶叢邑也、
     漢武元鼎中開爲縣」とある「蠶陵」である。
 
 その地は現在の成都市・広漢市の西北
 珉江の松潘市の南方に当たる。
 
 つまり、三星堆遺跡からはそう遠くない。
 
 この地域は書経「禹貢」のいう
 「和夷」の住む所である。
 
 「西」「蠶」の関係だが、
 哈尼語によると
 「蠶」は〔tsha〕といい、
 
 漢語の「西〔xi:シ〕」と
 ほとんど同じで、音写である。
 
 同音はまた「蜀〔su〕」や、
 また成都市の「成:セイ」ともなっており、
 この地が養蚕の地であることを示している。
 
 さらなる重要点は
 「嫘祖」の「嫘」が
 哈尼語簡志で〔tcha〕とあり、
 
 これも〔tsha〕にほとんど同音で
 「蠶」を指している。
 
 「累」の漢語義は「まとめる、重ねる」で
 「繭」に相当される。
 
 「女」が付されているのは「正妃」だからである。
 
 「嫘祖」とは「繭の祖先」で
 「世本」が「爲黄帝元妃嫘祖、教民養蠶」
 というのを初め
 「嫘祖開蠶」とか「嫘祖始蠶」というように
 「養蚕の祖」と解釈される。
 
 そこで「和夷」の「和」、
 哈尼族の「哈」との関連をみると、
 これらの元語は同じで
 「虫」の語義であるUHがそれである。
 
 「おかいこ:蠶」は虫である。
 
 その傍証、
 現在同族は北方勢力に圧迫され
 四川省南部、雲南省へと移住しているが、
 一部はタイ国内地域まで南下し、
 そこでは「アカ族」と呼ばれており、
 その「アカ」がAHでまた
 「虫」を表わしていることである。
 
 同族を「阿尼族」と「ア」を呼称するのも
 この用語AHに依る。
 
 つまり和人〔和夷〕は
 シナ大陸で最初に養蚕技法〔野蚕〕を
 見出し拡大させた人々だったのであり、
 それは古代の当時では
 衣料や祭祀用の重要な産品を
 もたらした先端技術だったのである。
 
 あの三星堆遺跡では
 燃やされて灰となった絹が
 多量に出土している。
 
 「蠶:おかいこ」の食するのは「桑」であるが、
 
 この漢字の元になった文字も
 甲骨文字〔6959〕にあり、
 商(殷)に対して従ったり
 反叛(反攻)したりしたシナ周辺の
 小国の名称でもある(甲骨文字簡明詞典)。
 
 桑は広葉樹類に属することからすると
 四川省以南、
 揚子江沿いの植物でいわゆる
 温帯亜熱帯のもので、
 この桑の繁殖できる地域のみ養蚕は可能である。
 
 「脱文解字」には「蠶所食葉木」とある。
 
 よって、紀元後1世紀には蠶と桑との関係が
 漢人にも知られるようになっておいたことを
 示している。
 
 M.K記

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第1章 倭人と東夷の原像(6)黄帝の祖族は「彝族」 [日本創世紀]

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 日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 

《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー

 

 (6)黄帝の祖族は「彝族」

 

 史記五帝本紀第一の「黄帝」には

 「名は軒轅と曰ふ」とある。

 

 この「軒轅」を漢字の字義で

 その真義を解釈しようとしてはいけない。

 

 この漢語の発音は〔xuān-yuān〕となるが、

 これは氏族語の

 〔gai,ge〕〔hea,kea〕の漢語への音写で、

 その語義は「星」である。

 

 「大戴禮・帝繋」に「黄帝、軒轅之丘に居る」、

 

 また

 「淮南子・墬形訓」

 

  ※(地形訓とも。「墬」は「地」に同じ、

    「墜」や「堕」とは別字)※

 

 に「軒轅丘西方に在り」とある。

 

 軒轅が「星」であるから

 「軒轅の丘」は「星の丘」の語義で、

 ここが黄帝の宮殿のあるところである。

 

 その宮を「合宮」という。

 

 「合」は〔ge〕の発音で、

 前述の通り「星」で「星の宮」となる。

 

 この「星の丘」を語義とする遺跡が

 四川省にはある。

 

 成都市の北わずかの地広漢市の

 西方約7キロの南

 興鎮真武村にある

 「三星堆」遺跡がそれである。

 

 「堆」は「土でできた台地」の意味で

 「星堆」は「星丘」と同じである。

 

 「三」字が付されているのは、

 遺跡の地域が三つの台地で

 構成されているからにすぎない。

 

 1929年の最初の小規模発掘から

 1986年の調査まで発掘が重ねられ、

 大量の遺物が出土した。

 

 それらのうちに商周時代の青銅器類もあったが、

 大多数は黄河流域(中原という)の文化とは

 全く異なった青銅製の遺物であった。

 

 それら遺物の製作年代は古くは

 今から4千年まで遡り、

 商(殷)時代より古いものとみられる。

 

 しかもその範疇に入る遺物が大多数である。

 

 遺物の内容を

 ここで詳説するのは適しくないが、

 まかでも金箔を顔面に付着させた

 人頭像が数点あるほか

 女人頭像も数点ある。

 

 他に御面の型の人面具を含め人頭像が

 数多く出土している。

 

 これらの諸像は四川盆地に

 独自に成立した政治権勢の象徴といえる。

 

 その諸像の顔の特徴の一つは

 「目」が顔面の半分を占めるほどの大きさである。

 

 また「縦目」といって

 「目玉:瞼(瞳)」が突立っているものもある。

 

 「華陽國志」には周の時代のこととして

 蜀(四川省)の王侯に

 「蠶(蚕)叢」という者があって、

 その目が縦であったといい、

 その王が亡くなった時、

 彼を石棺に納め埋葬したが、

 その塚を「縦目人塚」と称したとあり、

 「目」「縦目」は

 同地方の王族の象徴だったとの

 証拠となっている。

 

 つまり三星堆遺跡は

 「目族:姫氏」の遺跡であり、

 金箔を付着させた人頭像は

 「黄帝」であったといえる。

 

 次の「黄帝の正妃嫘祖」の説明を

 確認してもらえれば

 因みに、

 三星堆遺跡所在の広漢市名の「広」 は

 概述の〔gai,ge〕あるいは

 〔hea,kea〕の漢語の音写で「星」を表わし、

 

 また「漢」は漢語のうちにも

 「天ノ川」の意味とされているように、

 

 その実態は。

 〔hun〕が「雲」で、「星の雲」=「星雲」となり、

 「広漢」はその「星雲」の語義である。

 

 四川省地域は「北の雲」の省で、

 雲南省名に対応する。

 

 また参考資料として引用した

 「華陽國志」の「華陽」もまた

 「星」の語義で「華陽國」は「星国」であり、

 「軒轅」と係わる。

 

 ここは黄帝の国である。

 

 なお同資料は

 漢時代に四川省についての

 地理や産業・鉱物について書かれたもの。


 ※参考 三星堆遺跡


 

 M.K記




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第1章 倭人と東夷の原像(5)「和氏」及び「羲氏」 [日本創世紀]

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 日本創世紀
 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 
《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー
 
 (5)「和氏」及び「羲氏」
 
 ここでは
 前記した「彝族」「哈尼族」の古代を考察する。
 
 ここで確認しておきたい重要な点は
 「彝語」あるいは「哈尼語」の語圏は漢語系とは
 全く異なった発祥と展開を
 経てきたということである。
 
 「哈尼族」は実は書経「禹貢」の「梁州」に
 「和夷底績」と記述される「和夷」の後裔である。
 
 因みに「梁州」とは四川省の四川盆地地方である。
 
 書経は孔子が纏めたいわれるくらいだから
 紀元前5世紀以前のシナにおける書物で、
 
 そのうちの「禹貢」はシナにおける
 「山海経」より古い
 
 最初の地理書で
 揚子江・黄河流域を九つの州に分け、
 
 夏王朝の開祖「禹」が
 その各地を治めたという内容になっている。
 
 新釈漢文大系の「書経」はその通釈で
 「和夷の住む地が遂に治まった」といっており、
 「和夷」とはそういう人々がいたと解釈している。
 
 しかもその住む地が梁州、
 つまり四川盆地だといっている。
 
 「哈尼族簡志」では
 
 「漢文史籍中の歴史名称は
  和夷、和蛮、和泥、禾泥、和泥、俄泥、
  阿泥、哈尼~有り」といっており、
  彼等の祖族が「和夷」であるとしている
   「尼」「泥」は
   哈尼語、彝語で「人」を表わし、
  当該族は「和人」となる。」
 
 この「和人」について
 書経「堯典」に興味ある記述がある。
 
 第二節に
 「堯四岳を任命し暦を作る」に依る
 (新釈漢文大系)
 乃ち羲和に欽んで昊天に若って、
 日月星辰を暦象し、
 敬んで民の時を授へんことを命ず。
 
 分けて羲仲に嵎夷に宅を命じて曰く、
 
 「晹谷に出日を寅賓し、東作を平秩せよ。
  日は中にして星を鳥にて、
  以って仲春を殷せ。
  厥の民は折れ、鳥獣は孳尾せん」と。
 
 申ねて羲叔に南交に宅子を命じて〔曰く〕、
 
 「南訛を平秩せよ。日は永く星は火にて、
  以って仲夏を正せ。
  厥の民は因し、鳥獣は希革せん」と。
 
 分けて和仲に西に宅子を命じて曰く、
 
 「味谷に納日を寅餞し、西成を平釈せよ。
  宵は中にして星は虚にて、
   以って仲秋を殷せ。
  厥の民は夷り、鳥獣は毛せん」と。
 
  申ねて和叔に朔方に宅子を命じて曰く、
 
 「朔易を平在せよ。日は短く星は昴にて、
  以って仲冬を正せ。
  厥の民は隩し、鳥獣は氄毛せん」と。
 
 帝曰く
 
 「咨、汝羲および和、
  朞は三百有六旬有六日にし、
  閏月を以って、四時を定めて、歲を成せ」。
 
 ※出典:『尚書』虞書・堯典 第一
 
 乃命羲和,欽若昊天,歷象日月星辰,敬授人時。
 分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷。
  寅賓出日,平秩東作。
 日中,星鳥,以殷仲春。
 厥民析,鳥獸孳尾。 
 申命羲叔,宅南交。
 平秩南訛,敬致。
 日永,星火,以正仲夏。
 厥民因,鳥獸希革。
 分命和仲,宅西,曰昧谷。
 寅餞納日,平秩西成。
 宵中,星虛,以殷仲秋。
 厥民夷,鳥獸毛毨。
 申命和叔,宅朔方,曰幽都。
 平在朔易。
 日短,星昴,以正仲冬。
 厥民隩,鳥獸氄毛。
 
 帝曰:
 
 「咨!汝羲暨和。
  朞三百有六旬有六日,以閏月定四時,成歲。
  允釐百工,庶績咸熙。」
 
 羲氏と和氏に、暦と季節を調査させた。
 
 羲仲は東で、春の発生を調べた。
 
 羲叔は南で、夏の生長を調べた。
 
 和中は西で、秋の成熟を調べた。
 
 和叔は北で、冬の蓄積を調べた。
 
 それぞれの季節で、すべきことを定めた。
 
 帝堯はいう。
 
 「羲氏と和氏の兄弟たちよ。
  1年を366日として、閏月でズレを補正せよ。
  1年の行事を定めよ」と。
 
 暦と行事が整備された。※
 
 当記述にある羲和とは「羲氏」と「和氏」である。
 
 つまり黄帝から第5代の「帝堯」が
 羲氏と和氏の両族に命じて
  東西南北に彼等を配置し、
 「暦」つまり「歳」ごとの人々の生活様式を
 整えさせたというのである。
 
  ここに登場する「和氏」は
 「和人」にして「哈尼族」の祖先であろう。
 
 まさに「和人」及び「羲人」が
 シナ大陸を最初に開化させてとの趣旨である。
  
 「和」字の語義をみると同字の「咊」で
  「こゑを合わせる」が由来であり、
 歌をコーラスで奏する際の声が合う、
 調えられている様子をいう。
 
 さて、「羲氏」であるが、
  これは「彝族」の別称である。
 
 同族の呼称を「彝語簡志」は〔no-su〕という。
 
 この表音はすでに述べた通り
  「石・目」の合成で「瞳」を表わす。
 
  つまり彝族は「目族」なのである。
 
  「彝羲」と合成すると、
  これまた IGI で「目」の意義である。
 
  シナの古来からの姓名を
  一字で表わす慣習から
 「イ」「キ」と分けられたと考えられる。
 
 「目族」はまた前述のように「姫氏」でもある。
 
 M.K記

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第1章 倭人と東夷の原像(4)姒氏〔姫氏〕 [日本創世紀]


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《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー
 
 (4)姒氏〔姫氏〕
 
 これに対し「姒氏」についてはどうか。
 
 その発音は[ssu]は
 「姫氏」の「姫:シ」に由来するとみられる。
 
 「姫」字も甲骨文字
 (亀甲文字20815)にある。
 
 同字の「臣」は「亀甲文字:目」が元で
 これは「亀甲文字:目」を
 タテにしたものである。
 
 現在「臣下」のように使われているが、
 本来「目を上に向ける」語柄で、
 
 「臣下」は
 「王ないし皇帝を見上げ崇める」の
 語義となる。
 
 殷(商)時代に多くみられる
 「臣」字の意義はそれである。
 
 しかし、
 その背後には「目を上げて天に向く」、
 つまり
 「神」に対する崇拝の態度を
 表現する語柄がある。
 
 この語性は「夷」字に係わる用語として
 白川静が「字通」で指摘した
 「尸」字の語義「祭司」に相当し、
 男性の「巫」を表わす。
 
 そこに「女」が付され「姫」となれば
 
 「神を崇拝する(神を司る)女」で
 「巫女」を表わすこととなる。
 
 日本語ではこれを「ヒメ」と訓むのは
 PA・ME〔呼ぶ‐神託〕で
 「神に呼び掛ける役目の女」に依っている。
 
 よって「姫氏」とは
 「天神を崇拝する人々」となる。
 
 「見」は「見上げる人:目+人」の語義で、
 「視」を「シ」と表現するように
 「臣」は「シン」というより
 本来「シ」で「姒〔ssu〕」に近い。
 
 「目」を「シ」と表現することを
 ここで確定している理由は、
 シナの西南部四川省あるいは雲南省にいる
 少数民族「彝族」「哈尼族」あるいは
 「納西族」の言葉によっているからである。
 
 1985年の「彝語簡志」は
 「眼清:瞳」を〔no-dzi〕〔na-du〕、
 
 また同じ頃の
 「哈尼語簡志」は「眼清」を
 〔nia,matsi,natsj〕とし、
 
 明治期に日本の民俗学者
 鳥井龍蔵が収集した「目」に当たる用語は
 「中国の少数民族地帯をゆく」によると
 〔nitt,nisu,nes,ness〕などとある。
 
 このうち〔n-〕語は本来「石」、
 〔dzj,du,ja,tsi,ts〕〔-tt,-s,-su〕が
 「目」の語義を表わしている。
 
 「眼清」あるいは〔n-dzi〕は
 つまり「目の石」で「瞳」をいう。
 
 〔ma-,m-〕は日
 本語で当該部分を「メ」というのに同じで、
 鳥井龍蔵の収集語のうちに
 〔med〕とあり同語が混在している。
 
 それは「マツ」で
 日本語の「目の毛」である
 「マツ毛」に相当する。
 
 いずれにしても
 同族類では「目」を「シ」あるいは
 「ツィ」と表現している。
 
 これらの用語収集は19世紀のことである。
 
 彝族の用語に「夷」を
 〔zi〕といっているのも参考になる。
 
 本書が検討しているのは
 現在あるいは鳥井龍蔵の時より
 2千年以上3千年も前の古い時代である。
 
 その間の転訛などの変化を
 考慮しなければならないし、
 地域差も加味しなければならない。
 
 しかし、
 「姫」は「シ」にして
 「姫氏」は「シ氏」にして
 「眼族」と解釈される。
 
 つまり、
 黄帝から夏王朝の始祖禹までは
 姒族にして「姫氏」で、
 姬族とは全く別系の人々であることが
 判明してくる。
 
 その夏王朝の「夏」は
 哈尼語にze,je,ja,
 彝語でsiと
 
 現在でも表音されるように
 正に「シ:眼」と同意にして
 姫氏の出であることを示している。
 
 史記の五帝本紀には
 司馬遷かあるいはその一族の意図か、
 
 双方をあえて同族とみなそうとする企図がある。
 
 ※図1 帝から始まる「帝」の系譜[史記]
 
 ※図2 古代資料にみる「姫」「姬」
 
イメージ 1
 
 M.K記

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第1章 倭人と東夷の原像(3)商と周「姬氏」 [日本創世紀]

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《第1章 倭人と東夷の原像》
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  (3)商と周〔姬氏〕
 
 この五帝本紀を新釈漢文大系の作図に従い、
 シナの祖とする「黄帝」からの系譜を考察する。
 
 引用文の初めにある
 「黄帝より舜・禹に至るまで同姓なり」とある
 「同姓」とは
 「姒氏」にして「シ氏」族であるのに対して、
 商(殷)族は子氏、周族は姬氏とあり、
 黄帝から禹までの族類とは
 別系の人々であることを明白にしている。
 
 つまり、シナのほとんどの史書が「黄帝」を
 商周の人々の元祖としているが、
 それは誤りとなる。
 
 ちなみに「姬」字と「姫」字は別字である。
 
 現在の状況ではあるが北京語においては
 「姬」字しかない。
 
 これに対し
 日本では「姫」字のみが使われている。
 
 紀元前1世紀の辞典『脱文解字』に早くも
 「黄帝居姬水以爲姓」とあり、
 6世紀前半の「玉篇」もそれを引いて
 「黄帝居姬水以爲姓」と同文を記す。
 
 この「姬」字は図2の通り、
 殷(商)時代亀甲に刻まれた
 甲骨文字や青銅器に刻印された
 金文のうちにかなり多くみられる。
 
 また「姬水」は現在「(氵+圣)河」と
 称される陝西省の内蒙古に
 近い西北端の「姫(土+原)」を
 最北の水源とする水系で
 甘粛省の東端慶陽あるいは
 平源周辺の水を集めて南方へ流れ、
 長武で陝西省に入り、
 徐々に南東へ下って西安の北側で
 渭河に合流する。
 
 「(氵+圣)」は「姬」の代用字である。
 「字通」がいう「姬-女」は「乳房」で金文にある
 甲骨文字「※」によって納得できる。
 
 それに「女」字が付されており、
 正確には「女性(雌)」を表わし、
 「胸乳」を表象したものである。
 
 これを「キ」とするのはこの文字に依る。
 
 また「姬氏」を「姫水」で解釈できる歴史的事実は、
 周の族類が内蒙古・甘粛省から
 北流する黄河の向う
 〔オルドス〕方面から入来してきた
 人々であるとすることによる。
 
 さらにその北方アルタイ山脈の東山麓が
 故郷とみられる。
 
 なぜならば、
 その蒙古地域に広がる砂漠を「ゴビ」というが、
 この祖語は GAB で「胸」を表わすからである。
 
 『史記』「周本紀」にいう
 周の元妃「姜原」の「姜」は
  「雌(女)の羊」の語義で、
 彼等が本来「羊飼い」〔寒冷地帯型〕で
 あったことを示す。
 
 「周」字の甲骨文字は
 「甲骨文字」でこれは「胸当て」と解釈されている。
 
 また周の表音は[zhou]で
 オルドスに散在する地名用語
 「朔[shou]」「(月+生)[she]」と同様 
 SHAU で「雌羊を飼う」が語源と考えられる。
 
 周の族類の本拠が(氵+圣)(姬)河辺より
 北方にあったことは明らかである。
 
 また「商」の本拠も渭河(水)の南側
 湖北省との境界一帯の
 陝西省商県市を中心とする
 商洛郡が故郷であったとされる。
 
 「商国」が興ったのは
 ずっと東方の河南省の東端「商丘」であるが、
 同表現は「商洛」の語義によっている。
 
 「洛:ラク」は
 夏王朝に係わる人々の用語で
 「丘・山」であるし、
 同地は高原地帯である。
 
 『史記』「殷本紀」の
 始母「簡狄」の「狄」は「北狄」というように
 北方から入来した族類で、
 商周とも北方から渭河流域に
 渡来定住した人々であった。
 
 ※図1 帝から始まる「帝」の系譜[史記]
 
 ※図2 古代資料にみる「姫」「姬」
 
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図1 黄帝から始まる「帝」の系譜[史記]  [日本創世紀]

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《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー
 
    図1 黄帝から始まる「帝」の系譜[史記] 
 
           ┌─玄囂─「蟜極」─
 ①黄帝       │
  │        │
  ├─(姫姓)───┤
  │          │
  嫘祖         │
  (黄帝正妃)   │   
              └─昌意─②帝顓頊─
 
 
      陳鋒氏の女[一妃]
          │
          ├─放助(⑤帝堯):弟
          │
 「蟜極」─③帝嚳(高辛)
          │
          ├─弃(姬氏)
          │
   (周本紀)   │
      姜原(有台氏)[元妃]
 
 
    娵訾氏の女[二妃]
        │
        ├──執手(④帝摯)
        │
 ③帝嚳(高辛)
        │
        ├──契
 (殷本紀)   │
    簡狄[次妃]
 
 
      ┌─窮蝉─敬康─句望─橋午─瞽叟─⑥舜
      │
②帝顓頊┤
    │
    └─鯀─⑦禹
 
黄帝の系譜.jpg
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第1章 倭人と東夷の原像(2)夷 [日本創世紀]

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ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー


 (2)夷

 三国志の「東夷」また「准夷」の「夷」は

 歴史上極めて特徴ある用語である。

 

 一般にその語義は「東方の人」あるいは

 「人々」と解釈される。

 

 三国志魏書より古い

 「後漢書」にも「東夷伝」があり、

 「東方白夷」とあり、 

 シナの東方を「夷という」とある。

 

 そして

 そこに住む人々として「夷有九種」といい、

 

 「畎夷 

    于夷

  方夷

  黄夷

  白夷

  赤夷

  玄夷

  風夷

  陽夷」

 

 を上げる。

 

 さらにこれは紀元前前漢時代に記された

 「竹書紀年」の后祖

 2年の「黄夷」、

 7年「于夷」、

 小康即位年の「方夷」に

 従ったものである。

 

 これらの記述にみられる「東夷」の地は

 山海経「海内北経」のいう

 「倭」地域と同じとみることができる。

 

 「東夷」には同時代の歴史を記した

 「春秋左氏伝」に極めて興味ある記事がある。

 

 「杞国」に係わるものである。

 

 「杞国」は「史記」夏本紀の終末で殷(商)の

 「湯王夏の後を封ず」とあって、

 夏王朝の王族に殷成立後

 王侯としいて土地を与えたといっている。

 

 それに続く夏王朝を建てた

 「禹」の後裔の姓のうちに

 杞氏を記している。

 

 杞は江南省の杞県に当たり、

 丁度黄河が

 西方から流れてきて

 北東へ曲折する地点の南方にある。

 

 まず「杞氏」が

 夏王朝族の後裔であることに注意すべきで

 重要な点である。

 

 次に

 「春秋左氏伝」のうちから

 「杞」「夷」とある記述をひろってみる。

 

 僖公(紀元前659-627) 

 廿有3年11月杞の成公卒す。

 

 書して子(し)と言曰ふは杞、夷なればなり。

 

 〇杞は伯爵であるのに

 子(子爵)と書いてあるのは、

 杞伯がえびすの礼を行なっているからである。

 

 廿有7年春杞の桓公来朝す。

 夷の礼を用ふ。

 故に子と曰ふ。

 杞を卑しむ。

 杞不恭なればなり。

 

 〇杞の桓公が魯に来朝したが、

 えびすの礼儀作法を用いたので、

 その爵位を貶して「子」といったのである。

 

 魯の僖公が杞をいやしんだのは、

 杞がえびすの礼をもちいて

 つつしみがなかったからである。

 

 襄公(紀元前572-543) 

 廿有9年杞は夏の餘なり。

 東夷の即く。

 

 〇杞は夏の後裔であり東夷について

 (東夷の作法に従って)夷礼を行っている。

 

 これらの記述から

 夏王朝が「夷」族の人々が成した王朝であり、

 殷(商)や周の人々とは

 全くの異族であったことを証明している。

 

 つまり今日の表現でいえば、

 「夷族」は全く漢族ではなかった。

 

 史記の第6「陳・杞世家」においては

 以下のようになる。

 

 杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。

 殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。

 

 周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、

 東僂公を得、之を杞に封じ、

 以て夏后氏の祀を奉ぜしむ

 〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。

 

 さて「夷」字は

 古代のシナではどう発音されたのだろうか。

 

 白川静の「字通」に従えば[jiei]で、

 これは「夷」の初文(字)である

  「尸」[sjiei]の頭音[s]の

 脱落したものだという。

 

 「尸」の語義は「つかさどる」で

 「祭祀を司ことを尸という」とある。

 

 [sjiei]は興味深い。

 

 「史記」五帝本紀が

 

 「帝禹を夏后と爲す。

  而して氏を別って姓を姒氏」

 

 とある「姒」とはほとんど同音である。

 

 その語義は「あね」で「姉」と同義である。

 

 「娰」の発音は[ssu]である。

 

 新釈漢文大系より

 五帝本紀の当該部分を転記する。

 

  黄帝より舜・禹に至るまで皆同姓なり。

  而して其國號を異にして、

  以て明徳を章かにす。

  故に黄帝を有熊と爲し、

  帝顓頊を高陽と爲し、

  帝嚳を高辛と爲し、

  帝堯を陶唐と爲し、

  帝舜を有虞と爲し、

  帝禹を夏后と爲す。

  而して氏を別かって、姓は姒氏。

  契を商と爲す。姓は子氏。

  弃を周と爲す。姓は姫氏。


 M.K記
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第1章 倭人と東夷の原像(1)倭人 [日本創世紀]

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日本創世紀

 ―倭人の来歴と邪馬台国の時代―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦



《第1章 倭人と東夷の原像》
ー和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させたー

 

 (1)倭人

 

 「倭人」という呼称は日本人には

 『三国志魏志倭人伝』との

 通称によってよく知られている。

 

 この三国志とはシナの史書の一つで、

 紀元後2-3世紀に

 後漢の終末からの覇権争いで

 登場してきた勢力で、

 3世紀中シナ大陸を3分割して国をなした

 

  魏(220-265)、

  呉(222-280)、

  蜀(221-263)の

 

 三国の歴史にからむ記録を集めた史書で、

 「三国」とは魏呉蜀国をいう。

 

 実際はそれぞれ

 魏書・呉書・蜀書と

 別々の記述となっている。

 

 「倭人伝」はそのうちの

 魏書第三十にあるもので

 「東夷伝」の一節である。

 

 東夷伝のうちには

 「韓伝」、

 「弁辰伝」、

 「粛慎伝」などあり、

 

 「倭人在帯方東南大海中」との

 書き出しで始められている。

 

 「倭」に関する記述で、

 当該部分を

 「倭人」といいならわしているのである。

 

 そこには現在の日本列島の一地方である

 「南方」についての情報と

 魏国との交通が記述されている。

 

 この「倭人」という記述は

 中国の史料のうちでは初めてではない。

 

 同東夷伝で引用書としている

 「魏略」に「倭人」との表記があり、

 三国志記述より

 古い時期とすることができる。

 

 さらに

 「漢書」地理志「燕地」のうちに

 「楽浪海中有倭人」との記述がある。

 

 この漢書地理志は紀元1世紀の成立で、

 三国志より古い時代で、

 日本の古代の呼称を「倭」、

 そこの人々を「倭人」と呼んだ

 最も古いものとされている。

 

 「倭」の呼称も魏書「韓伝」に

 「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」

 とある。

 

 また大分時代は下がるが、

 唐(紀元618-907)の歴史書である

 「唐書」には「日本古倭奴也」とあり、

 

 「倭」とは「日本」を指すことが

 通念であったことを示している。

 

 つまり、

 「倭人」とは「日本の人」の語義となる。

 

 ところでこの「倭」の表記は

 「日本」列島対象だけの呼称ではない。

 

 紀元前2世紀より古くからの

 シナの地理書「山海経」に

 その用語が表れており、

 その対象地域が大陸内を指している。

 

 その第十三巻「海内北経」に

 

 「蓋国は巨大なる燕の南、

  倭の北にあり、倭は燕に属す」とある。

 

 紀元前の7世紀後半から

 「燕」は

 現在の北京市辺りから

 河北省天津市辺りまでを

 占めた勢力であった。

 

 「倭」はその南にして、

 さらに蓋国の南にあったということになる。

 

 「蓋国」の比定は現在不確かとなっているが、

 「倭」は山東半島から

 揚子江の河口付近江蘇省の黄海岸に

 あったと考えられる。

 

 特に准河河岸地帯に後に取上げる

 「准夷」がおり、

 「倭[wo]」と「准[huai]」は同音に近く

 そこも当該地に含めることができる。

 

 因みに「倭」はまた[ヰ]とも発音され、

 次に解説する「夷」とも同音である。


 M.K記
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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代:目次 [日本創世紀]


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 「目次」


 はじめに



 第1章 倭人と東夷の原像

 ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―


 (1) 「倭人」



 (2) 「夷」



 (3) 商と周「姬氏

  (4) 姒氏「姫氏」

  (5) 「和氏」及び「羲氏」

  (6) 黄帝の祖族は「彝族」



 (7) 黄帝の正妃「嫘祖」は和夷[倭人]の祖



 (8) 書経「禹貢」の養蚕の地



 (9) 韓半島の養蚕の地



 (10) 倭の養蚕の地



 第2章 魏書倭人伝の諸国地理

     ―邪馬台国時代の国際性―

 (1) 狗邪韓国

 (2) 対馬国

 (3) 一大国

 (4) 末廬国

 (5) 伊都国



 (6) 奴国



   「山海経」 第十八 海内經



   (7) 不弥国



  (8) 投馬国



  (9) 邪馬台国への道程

  (a) 傍国(属国)の「奴国」

  (b) 彌奴国 

  (c) 斯馬国



  (10) 邪馬台国への経路



 第3章 邪馬台国は「御木国」にあった


 (1) 「邪馬台」の祖語と語義



 (2) 日本伝承〔風土記逸文など〕



 (3) 御木国は邪馬台国の所在地


 

 第4章 邪馬台国の性格と卑弥呼

 (1) 黄金郷[svarna-bhumi]と邪馬台[jambu-dvipa]



 (2) 卑弥呼は「女王」にあらずして「女巫師」



 (3) 卑弥呼の祭場



 (4) 卑弥呼の居館



 (5) 岩倉と高御座



 (6) 卑弥呼は「王」ではなかった



 (7) 卑弥呼の「鬼道」:

    日奉郷あるいは天照大御神



 (8) 天照大神の故郷



 (9) 神武天皇勢力の祖像



 (10) 神武天皇勢力の東征経路:1・2・3

  (a) 高天原

  (b) 日置郡・姶良郡 

  (c) 日向・鵜戸神宮

  (d) 宇佐・宇佐神宮

  (e) 伊与

  (f) 阿波国・吉野・美馬 

  (g) 加太・日前神社・国縣神社

  (h) 十市郡と多神社

  (i) 太陽信仰は大倭経て東国へ






  第5章 養蚕と絹

     ―紀元前後の西方と極東の交易―


 (1) 倭人伝が記す倭の養蚕



 (2) 唐時代の「彌羅国の金蠶」



 (3) 漢書の海洋交易網



 (4) インドの海洋交易商人



 (5) ギリシャ語資料にみる東方の絹の産地

  (a) 絹の産地セリカ

  (b) セリカ名の由来と遺称 

  (c) セレスと青龍 



 (6)旧約聖書「イザヤ書」の「地の果ての島々」



 (7) 伊都国の背景〔「イト」の語義と由来〕


 

 第6章 軍船で侵攻して来た西方軍事力

     ―崇神天皇と「イリ:人」―


 (1) 「神武東征」は「崇神東征」


 (2) 岡田宮・多祁理宮・高嶋宮

  (a) 岡田宮

  (b) 多祁理宮 

  (c) 高嶋宮







 (3) 天鳥船・天鳥楠船



 (4) 崇神天皇と「大和」



 (5) 崇神・垂仁・景行天皇の和名

  (a) 崇神天皇

  (b) 垂仁天皇

  (c) 景行天皇



 (6) 琉球あるいは沖縄


 (7) 息長<気長>氏の背景



 第7章 卑弥呼の「倭錦」

 (1) 倭人伝が記す倭国の「絹」


 (2) 弥生時代の「絹」


 (3) 倭錦の真相

  (a) 吉野ヶ里遺跡の染色絹

  (b) 貝染の倭への伝来 

  (c) 貝染技術と紫色

  (d) 巻貝と有明海


 (4) 「倭錦」は貝染の織物


 (5) 筑紫〔ツクシ〕の背景


 

 終章 

 (1) 白木神社:繭は「石」と呼ばれた



 (2) ギリシャ案内記

    〔パウサニアス〕の「セリアの島」



 (3) 邪馬臺と邪馬壹



 (4) ヤマト:

    大倭、倭国、大和、倭姫命、日本



 (5) 砥上郷〔三毛郡〕と田隈〔大牟田市〕



 (6)ミキ〔御木〕ミケ〔三家・三毛〕米生郷



 (7) アズミ族の正体

  (a) 諏訪

  (b) 伊勢

  (c) 出雲



 (8) 倭人伝が記す

    「会同〔集会〕と天安河の「神集い」➀


     倭人伝が記す

    「会同〔集会〕と天安河の「神集い」②


 あとがき




  岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈①」


  岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈②」

  岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「注釈③」

  岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆①」

  岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆②」

  岡田宮・多祁理宮・高嶋宮「補筆③」


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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代 [日本創世紀]


「神聖の系譜」出版協賛のお願いhttps://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代
 著 者:小嶋 秋彦
 発行者:原嶋 正司
発行所:績文堂出版株式会社
〒101-00051 東京都千代田区神田神保町1-160
EL03-3518-9940 FAX03-3293-1123
E-mail:info@sekibundo.net
装 丁:小林 史
印 刷:信毎書籍印刷株式会社
発行日:2014年12月25日
[コピーライト] KOJIMA Akihiko,2014 Printed in Japan
ISBN978-4-88116-020-6 C3021
定価(本体2,300円+税)
※購入希望の方は下記にご連絡下さい。
小嶋 秋彦 電話090-1261-7366
 
 ≪表紙帯≫
 
 「邪馬台国」と「卑弥呼」を深く理解する
 ・和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた
 ・和人と東夷の原像―和人は養蚕の開発者
 ・魏書倭人伝の諸国地理―邪馬台国への経路
 ・邪馬台国は御木国にあった―吉野ヶ里は弥奴国
 ・卑弥呼は女王にあらずして女巫師
 ・紀元前後の西方と極東の交易―絹が
   ローマへ運ばれた
 ・卑弥呼の倭錦―貝紫の染色技術
 ・繭は石とよばれた―セリカとセリア
 ・倭人伝が記す会同〔集会〕と天安河の神集い
 小嶋 秋彦(こじま あきひこ)
  1946年   長野県生まれ
  早稲田大学文学部卒業
  東邦生命保険相互会社 
  財団法人海外技術者研修協会勤務
    1988年より歴史研究に専念
  1999年から2年「創世紀」執筆
  2002年8月 歴史学講座「創世」開講〔草加市(古代史)〕
  2006年8月 「再成塾」開講〔草加市(近世史・近代史)〕
  2006年10月 歴史学講座「創世」うらわ塾〔現さいたま塾〕開講
  2009年2月 歴史学講座「創世」葛飾塾開講〔松戸市〕
  2012年2月 「さいたま再成塾」開講〔さいたま市〕
  ※各講座は毎月1回開催お問合わせ 090-1261-7366)
 
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代
  著者:小嶋 秋彦
  出典:『日本創世紀』著者「小嶋秋彦」:3~5頁
 
 はじめに
 「日本の古代史には謎が多く秘められています。
 特に5世紀以前の歴史にはそれが顕著です。
 当講座はそのような不明のままになっている謎を
 『古事記』・『日本書紀』など
 日本の古代史料は元より、
 中国、インド、メソポタミア、ギリシアなどの
 古代史料をも参照しつつ解明すべく挑戦しております。
  よって当講座は
 古代の秘密のヴェールを切り裂く
 独特の研究成果となっております。」
 
古代日本へ渡来した人々の系譜.jpg
 これは平成14年に
 歴史学講座「創世」を開始して以来、
 月々の案内書に記述している慣用句です。
 本書の記述方針も全くこれに同じです。
 
 ドイツの17世紀の哲学者ヘーゲルは
 『歴史哲学(講義)』なる著述の中で
 「歴史には三つがある」
 (『ヘーゲル全集第10巻』、岩波書店)
 と述べています。
 それによると、
 
 第一に「根本的歴史」、
 第二に「資料的歴史」、
 第三に「反省的歴史」と説いています。
 
 第一の「根本的」の意義は実際あった事々で
 古い時代には「今の人」はその事件などの目前に
 立会っていませんでしたので
 基本的に「知り得ないもの」と解釈されます。

 第二の歴史は
 ヘロトドスの『歴史』や司馬遷の『史記』、
 日本でいえば『古事記』や『日本書紀』などに
 記述されている事々ということになります。
 ここに留意すべきは、
 書かれた事々の内には事実を
 伝えている記述もありますが、
 虚構もそこには含まれていることを
 知っておくべきです。
 
 例えば、『史記』は紀元前に司馬遷が
 その父の伝承してきた
 諸々を基に纏めたものではあるが、
 第一の「紀」である
 「三皇本紀」は唐の時代[紀元8世紀]に
 その子孫の一人司馬賢が
 追加したものとよく知られています。
 
 第三の「反省的歴史」は
 何れもの時代でも歴史を考える個人が
 「感受想する歴史」です。
 
 19世紀まで、また20世紀の前半
 [第二次世界大戦に至るまで]
 全世界で記述された「歴史」を資料として
 入手するのは不可能化困難でありました。
 従って間違った解釈が
 歴史学者や愛好家によって流布され、
 「嘘」の積上げ厚く重ねられてきています。
 
 また研究の仕方が科学的分析法に即していて
 評価が認められるも
 内容解釈で誤り、他者に誤解を与え、
 それが増幅して
 あたかも真実と喧伝された例が
 かなりみられます。
 
 その一例として
 江戸時代の国学者伴信友の「神名帳考証」で
 「経津主」と「布都主」とを呼称が同じだからと
 同一神にしているのを指摘しておきます。
 実際は全く異なった来歴を持つ神格です。
 
 背景を考察せず発音が似ているからといって
 「同じ」にするのは極めて危険です。
 
 本書の一課題でもある
 「邪馬台」と「大和」を同根語とするのは
 誤った解釈で、
 混乱を来たし多大な浪費をもたらしています。
 
 21世紀に入った今日、
 「記録された歴史」資料ばかりでなく、
 多くの諸歴史現場から発掘された考古学的資料も
 われわれに提供されています。
 
 歴史研究家はヘーゲルが「根本的歴史」といった
 その真実の「歴史」を知り確認するための
 手段を見出すべきです。
 
 「こう思う」とか「こう考える」などといった
 「第三の歴史」的推測は除け、
 「記録された歴史」や
 その地方地方の先人たちが継承してきた
 彼等自身の来歴を尊重して考察し
 真相に至るべきでしよう。
 
 後世に遺守するために工夫した
 神名や神社の由緒、神話、
 また
   古くからの資料的に載っていないものを含めた
 地称に依拠するのも大切です。
 
 「邪馬台国」の由来とか「大和」の由来とか
 それぞれの言葉の真相を知るには
 その背景にある
 系譜を明瞭に説明できなければなりません。
 本書はその系譜を開示する意図です。
 
 この本を完読されるには
 かなりの忍耐と冷静さが要ります。
 予めそのご努力をお願い申しあげておきます。
 
 そうしていただければびっくりするような、
 これまで疑いもしなかった事々の驚くべき
 真実を知ることになるでしよう。
 
 魏書倭人伝の記述する時代は紀元2、3世紀で、
 誠に紀元5世紀以前です。
 
 本書は紀元前数千年から紀元5世紀に至る時代、
 日本については
 5、6世紀頃までの様相を説明しています。
 
 諸般の方々にご熟読いただき、
 その時代の社会情勢を
 より具体的に確認下さるよう期待します。
 
 また、諸地方の考古学的発掘に係わり
 遺留品を保護されている方々には
 遺品の再調査・考察をして下されば
 幸いと考えています。
  M.K記
 連絡先:090-2485-7908

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